エッセイ風

2008年09月02日

福田首相辞任表明について。

修業中の政治学徒であるがゆえ、時事的な問題については出来る限りこのブログでは触れたくない、と常々書いているわけですが、こういった大きなニュースが飛び込んでくるとついついコメントしたくなってしまいます。

浮世離れした話ですが、政治学ではエージェント=ストラクチャー問題という有名な問題があります。今回や前回の首相の辞任などはどのように考えることが出来るのかは興味深いところです。

一言で言えば、安倍首相の辞任表明と今回のケースは似ているようで大きく違うということが、以下で言いたいことの趣旨です。

※参考:一年前の安倍首相辞任表明について(リンク



 昨日夜の記者会見で福田康夫首相が辞任表明をしたことは、既にテレビや新聞等で報道されているとおりである。多くの報道は、昨年の安倍首相辞任表明と重ね合わせて「無責任」「政権放り出し」といった論調であり、同情論や冷静に今後の政局を考えた報道は極めて限られている。

 記者会見で首相自身も認めているとおり、一ヶ月前に自らの手で内閣改造と党役員人事一新を断行したにも関わらず、こうした形で辞任表明をしたことは問題である。しかしながら、出来る限り「政治の空白」を作らずに福田首相が退陣を表明するとすればこの数日間しかなかった、ということもまた事実だろう。

 もちろん党内や公明党からの退陣圧力はあったのだろうが、同時に福田首相にとって懸案だったことはやはり臨時国会をこのままで乗り切ることは出来ないのではないか、ということだと考えられる。もし事前に与党が考えていたような臨時国会の早期召集が可能であれば、それなりに実績を上げることが可能だったのかもしれないが、党首選を盾に野党側は早期召集に応じない状況であり、さらに前回の国会対応と同様に審議引き延ばしや審議拒否が続いた場合、臨時国会中に政権が追い込まれた可能性は高い。来年度予算案の審議や、次期衆院選が遅くとも来年九月に行われるという政治日程を考えた場合、この時期を選んでの退陣表明はギリギリの選択だったと言えるのではないだろうか。

 確かに印象として「投げだした」ようにも見えるし、首相自身の政権への執着が弱かったことも辞任表明には大きく作用しているだろう。とはいえ、自民党として今後政権を維持していくことを考えた場合、現在の布陣のまま臨時国会で成果を上げることが出来ないままに、次期総選挙を迎えることが得策ではないことは確かである。国会を中心に政治日程を考えれば、総選挙は年末年始や夏前に行われることが望ましく、事実、戦後の総選挙の大半はこの時期に行われている(正確には、11月~1月、6月~7月に集中している)。

 現在の政治制度を前提とすれば、こうした政治日程を考慮して政権政党が動くことは当然である。現在の体制のまま臨時国会を召集し、野党側の「無責任」な対応(審議拒否や審議引き延ばし)を国民に印象付けることも、福田首相の取り得た一つの戦術であるが、すでに通常国会で野党側は「無責任」な対応を取っているにも関わらず、その点が国民の政権支持へ繋がることはなかった。また、これは福田首相にかなり好意的に忖度した場合の考えかも知れないが、「成果」が大して上がらないことを前提として国会運営に当たることは、国民にとっても望ましくないと首相は考慮したのではないだろうか。

 ここで強調したいことは、福田首相の辞任表明は安倍首相の辞任表明とは大きく異なるということである。安倍首相はそのタイミングがあまりに悪かった。自ら政権を率いている参院選で敗退したにもかかわらず、内閣改造を断行、さらに臨時国会を召集し、所信表明演説まで行ってからの辞任表明は、予算成立直前に政権を投げ出した細川首相以上に最悪のタイミングである。健康問題があったと安倍氏に近い人物は総じて言うが、一国の宰相は健康管理も含めて国民に対して責任を持たなければならない。

 それに対して今回の辞任表明は、国会会期中ではないし、政策に一定の方向性を与え、臨時国会召集までわずかとはいえ時間を残している。臨時国会召集は12日の方向で固まりつつあったが、民主党の代表選や首相の国連総会出席があるため、所信表明演説は今月末の29日と伝えられていた。そうであれば、このタイミングは実質的にそれほど「政治の空白」を作るものではない。

 確かに、一ヶ月前に内閣改造を行ったにも関わらず、このような形で辞任表明をしたことは首相の認識が甘かったと言える。とはいえ、安易に安倍首相の辞任表明と重ね合わせた論評を、国民が思うのならばともかくとして、多くの政治記者達や「識者」とされるコメンテーターからによって行われていることは残念でならない。政治家同様に、マスコミもまた「民度」のバロメーターなので仕方がないのだろうが…。

 いずれにしても、自ら選挙を戦って勝利していない政権があまりに脆いということが、小泉政権後の二年間で明らかになったことは間違いないだろう。自ら選挙に勝利して得た議席を持たない場合、政権はその正統性を移ろいやすく実態のない「支持率」に求めざるを得ないのが、残念ながら今の日本政治の現状なのである。

 次期総選挙では、前回のような圧倒的な差でいずれかの党が勝利することはないだろうと言われている。そうであれば、自民党政権が続くにせよ、民主党政権が誕生するにせよ、政権運営は容易ではない。目先の支持率を追い求めるようなパフォーマンスではなく、じっくり腰を据えて中長期的な政策に取り組む姿勢を各政党には期待したい。

 福田政権は地味ながら、中長期的に重要で、これまでの政権がなかなか手を付けることが出来なかったいくつかの問題に手を付けていた。しかしながら、そうした政策をうまくアピールすることが出来なかったし、またさらに政策を進めるだけの強い政権基盤を持たなかった。「平時」の首相が「乱世」で登板せざるを得なかったことは、歴史の皮肉なのか、それとも必然なのだろうか。

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2007年09月13日

安倍辞任表明について。

昨日の午後、相変わらず図書館でパソコンと顔を突き合わせながら研究に励、30年ほど前の政治や外交に思いを馳せていたところ、後輩からのメールで「安倍辞任へ」の情報を知る。インターネットをチェックし、2時から記者会見という情報を得て、テレビのある場所へ走った。20分ほど見て、こりゃもうだめだ、と思い研究に復帰した。

歴史を研究し過去の資料を色々と読んでいると、自分がいかに情報を持っていないかということが嫌というほどよく分かる。国民の多くは、マスコミから流される情報を中心にしてしか今の政治や外交を理解できない。インターネットのおかげで、首相官邸や各省庁が発信する情報を直接見ることが出来るようになったのはいいことだが、政治や外交に関する国民の議論がこれを踏まえているとはとても思えない。結局、マスコミによって流されるイメージでしか政治を議論出来ない人が多い(政治学科の学生にしても多くがそう、というのが悲しいとこ)。

「政治とカネ」の問題にしても、「年金」にしても、「失言」にしても、そんなイメージに乗って議論しても何も始まらない。前の二つは制度の問題が大きいのだからそれを議論するべきだろう。基本的には安定した秩序が構築されている国内政治において、まず論じられるべきは制度だと思う。制度を論じなければ、結局政治のイメージを論じることにしかならない。それも重要かもしれないが、それはあくまで制度があった上での問題だ。「失言」はあまりに文脈を無視して勝手に憤りを感じている場合が多すぎる。というか、政治家は聖人君主のような人間でなければならない、という前提がおかしい。人間は色々な偏見や、世代的な価値観の差なんかを抱えながら生きているわけで、その多少の違いや時代錯誤な発言を誰かがしたことがそんなに根本的な問題だとは思えない。むしろ「触らぬ神に祟りなし」的に、思っていることが表に出てこないで笑っている人間の方が個人的には嫌だ。「失言」は叩かれて批判されたら反省すればいいだけで、簡単に役職を辞めるような問題ではない。

閑話休題。そんなこと(=自分たちの情報不足)を普段から感じているので、現在進行中の政治についてのコメントは、選挙でも無い限りあまり発言しないようにしている。もしするとしても制度的な問題を中心にしている。が、今回はちょっと別だ。何と言うか、制度以前の問題だ。確かにこの辞任の背景には、以前の記事(リンク)でも書いたような、現行の制度が持つ参議院問題(参議院は議院内閣制の外にあるという問題)が大きく影響している。

しかし、この辞任表明は制度の問題を論じるまでもない。つまるところ政治家としての資質の問題だ。

過去にも投げ出した形での辞任の例はある。例えば鈴木善幸。党内の支持もあっただけに、退任表明は「??」というところもあった。多分、真の理由は「疲れたから」。だが、一応自民党の総裁任期切れという名分が立った。その次は、細川護熙。「殿様で、根性がない(大意)」といった事が、当時の官房副長官の回想からも伺われるが、これは本当にひどい辞め方だった。周囲との相談がしっかりと行われなかったこともあり、社会党は政権から離脱と非自民連立政権の崩壊を招いたのは、しばしば小沢一郎だと言われるが、何よりも大きいのは細川の突然の辞任表明である。また予算が成立していないのに辞めた、という無責任さは特筆すべきだ。そして、村山富市。ただ村山の場合は、もっと早く辞めたかったところを、様々な事件に一定の目途が付いたのを見計らったこと、また後継首班等についてもしっかりと根回しを行っていたという点で、それほど無責任だとは言えない。

そんな過去の投げ出し型以上に無責任なのが今回の辞任表明だ。予算成立前に投げ出した細川も確かに相当ひどいが、内閣改造から約二週間(田中角栄もやめる直前に無駄な内閣改造をしているが…)、所信表明演説から二日で辞任表明するというのは前代未聞だ。そもそも今辞めるなら、参議院が終わった直後に辞めればいい。内閣改造をする前に辞めればいい。せめて所信表明演説をする前に辞めればいい。各省のすり合わせを行った作文である、所信表明演説の意味は大きいだけに、それをないがしろにするような行動は問題だ。

この辞任表明によって、大きな政治的空白がかなりの期間に渡って発生する。一番短い場合は、新しい自民党総裁が決定するとともに衆議院を解散し総選挙(そしておそらく政権交代)というシナリオだが、この場合でも一ヶ月以上は時間がかかる。現実的でベターなシナリオは、与野党合意の上で選挙管理内閣ということだろうか(過去には第一次鳩山内閣の例がある)。

どちらにしても、次期自民党総裁は相当につらい立場に置かれる。また内閣改造を行うのか、それとも暫定的な選挙管理内閣とするのか、その選択がまず大きな意味を持つ。内閣改造を行うにしても、その持ち駒は限られるし、参議院での少数という事態は変わらない。そして、それ以上に国民の目が安倍辞任でさらに厳しくなったことも政権には重荷だ。次期自民党総裁は「火中の栗を拾う」ことによって、自民党内での求心力を高める、ことが出来ればいいのかもしれないが、一年生議員がわーわー騒いでいる現状ではなかなか困難である。

政治家としてどう評価するかは別にしても、竹下元首相はリクルート事件と消費税導入等で支持率が一桁まで下がりながらも、政治日程に一区切りを付けるまで政権を投げ出すことはしなかった。後継総裁の女性スキャンダルもあり、その後の参院選挙で自民党は大敗を喫したわけだが、それでも筋は通した。

「職を賭す」というならば、それぐらいの覚悟を見せて与野党対決をやり、強行採決をしてでも、テロ特措法を通した上で辞任表明すべきではなかっただろうか。政治生命を無くすならば、せめて後世に評価される形を取るべきだったし、その方が国民のためでもある。

衆議院の議席も小泉政権下で得たものであり、安倍政権はもともと正統性に疑問がある政権だった。成果の上がらなかった「官邸主導」、参議院選挙での大敗、そして今回の無責任な辞任表明、少しは成果があったかに見える外交もたかだか一年では評価のしようがない。このままだと、戦後最低の政権としての烙印が押されるのも時間の問題だろう。

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2007年09月03日

研究とは地図を作るようなもの。

調べれば調べるほど、分からないことが増える、分からないことが想像以上にあったことが分かる。

先行研究がたくさんあるところは、イメージとしてはたくさんの地図がある土地だ。資料に分け入れば途端に分かりにくくなるが、それでも地図が頼りになる。でも地図が正確だとは限らない。縮尺が正しくても、等高線が反映されていないかもしれないし、建物の様子までは分からないかもしれない。実際にその土地に行ってみなければ分からないことがたくさんある。

先行研究がほとんどないところは、地図がほとんどない土地だ。そんな分野を研究するのはワクワクするが大変である。自分の研究がどれほど妥当しているのか、客観的にはなかなかよく分からないし、実際に調べてみないとそれが面白いのかどうかも分からない。

人の営みは無限に近いもので、その全てを見ることなど出来ないし、ある資料で書くしかないわけだ。どこかで折り合いを付ける必要もあるし、語学力の問題で見れない資料もあるわけだ。そろそろ資料の読み込みには一段落付けて、文章化をしていかなければならない時期に差し掛かってきた。断片的な文章はかなりたまったので、それを切り貼りしつつ、論文としての問いや結論を再考する日々が始まる。

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2007年05月16日

文書資料と口述資料。

外交史の人にしても政治史の人にしても、やはり一番重視するのは文書資料だろう。文書資料といっても種類は色々あるが、外交史の場合は外交文書、政治史の場合は日記などの私文書ということになるだろうか。

とはいえ、文書資料が少ない場合も研究をしていくと多々あることである。最近読んだある本の「あとがき」には、著者がある海外の研究者と話したときに「資料がなくて」といったところ「そういうことを言うのは研究者の怠慢だ」と言われたと書いてあった(大意)。研究をすることの意味は、資料の有無からのみ出てくるものではない以上、資料が無い場合にどうするかということは非常に重要な問題である。

そんな問題意識もあって、オーラル・ヒストリーを読んだり、自分自身もインタビューを試みたりしてきたわけだ。同世代の中では、読んだオーラルの数はかなり多い方だと思うし、インタビュアー経験のある人の話も色々と聞いてきた方だと思う。その代わりに文書資料がおろそかになってはいけないので、眼精疲労と闘いながらマイクロやパソコンで文書資料も読んでいるわけだ。

一般にはオーラル・ヒストリーをやっている人でも、自分が研究をするとなるとオーラルはあくまで補助資料であって「オーラル<文書資料」というのが普通だろう。この理由はいくつかあるが、?オーラル・ヒストリーなどの口述資料には記憶違いなどもあり信用度が低い、?口述資料だけで研究を進めてもインタビュー経験が豊富でフットワークが軽いジャーナリストにも勝てない、といったところが主な理由だろう。

自分自身もそのように考えているので、あくまでオーラル・ヒストリーは補助資料と位置づけてきたのだが、最近あるオーラル・ヒストリーをやっている人と話していて面白い話を聞いた。

それは「オーラル>文書資料」ということだ。なぜそう考えるかといえば、その人が戦史を研究しているからであるという。戦場の実態が報告として上がってくるのは、基本的に報告書という形である。テクノロジーが発展した今もそうなのかは分からないが、少なくとも第二次大戦時はそうである。ここでは二つの問題が存在する。一つは記録者が全てを把握するのは容易ではないということ、もう一つは都合の悪い戦闘の実態を上には報告しない、ということである。これは下から上への報告である。

上から下の場合でも問題はいくつかある。その最も大きなものは、上で決めた方針が下では必ずしも実行されないことが多々あるというのだ。どこかの国の「上に政策あれば、下に対策あり」という言葉を思い出してしまう。これに加えて、日本の戦史を研究する場合、資料の不在と散逸という問題が存在する。

こういった問題があるがゆえ、戦史研究者の中には文書資料に懐疑的な人がいるということらしい。主な理由は資料がないということだと思うが、『戦史叢書』も膨大な数の関係者の口述記録を基にして書かれた部分が多い。

この話は、なるほどなー、と考えさせられる。自分の研究に直接関係するわけではないが、ある研究をしている人には信頼度が高い資料も、他の研究をしている人にとっては信頼が出来ないということは、恥ずかしながら盲点であった。資料の公開状況や質に大きな違いがあると、同じ外交史でも扱う資料は大きく変わってくる。日本外交、中国外交、アメリカ外交、イギリス外交、フランス外交を、仮に語学的な問題が無いとして全く同じ意識で資料を読んだら出来上がるものに大きな差が出てくるだろう。

じゃあ、自分の専門である日本外交史はどうか。まず、資料の公開度が低いことは大きな問題である。また公開されていたとしても、文書の作り方のせいか政策決定過程が非常にみえにくいという大きな問題がある。というわけで、日本外交研究者は、多くの場合諸外国の資料を当たるわけだ。これにオーラル・ヒストリーを加えることは可能だろう。

色々と考えても結局結論は変わらないというのはやや虚しいところだ。

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2007年05月07日

論文のタイトル。

GW前から具体的に考え出しGW中も考え続けたのだが結局結論が出なかったのが、修士論文のタイトルだ。副題、各章それぞれで書くこともほぼ決まっているのだが、肝心のタイトルがなかなか決まらない。

オーソドックスに、取り上げる事象とアクターをそのまま題名にするという手もあるのだが、それも何か味気ない。ある先生に言われたことだが、個人刊行物の修士論文とはいえ、やはり読んで貰える、手に取って貰えるようなタイトルを付けるべきだろう。

そんなわけで、そもそも論文のタイトルとは何か、といったことを考えてみた。今のところの暫定的な結論は、その論文で言いたいことを短くして短くしてまとめたものがタイトル、というもの。これはある意味での理想なんだと思う。とはいえ「文明の衝突」のように、本文読まなくても内容がほぼ分かるのもどうかと思う(これは某先生が良く言っている話だが)。

論文に限らず学術書も題名は非常に重要なんだと思う。比較的シンプルな題名が付いている本でも、著者に聞いてみると、実はもっと長い仮題だったのだが他の先生や編集者のアドバイスで変えた、という話が結構ある。

ある程度、時代に拘束されないタイトルに、本論の具体的な内容を副題に、といったところを考えているのだが、それがなかなかうまくいかない。今はこれ以上考えても結論が出ないと思うので、当分はタイトルの件は棚上げして本論に傾注しようと思う。

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2007年01月28日

書評について。

授業等でお世話になっている先生のHPを見たところ、掲示板に「書評」について以下のようなコメントが載っていた。一部転載。

書評とは、単なる本の紹介でも、評価でもありません。
文芸評論というジャンルがあるように、書物を貴重な題材に、筆を走らせ溢れる発想から論議に花を咲かせる作業です。これほど、書き手の能力がさらけ出されることはありません。
知識人の真価が問われます。
読書感想文とは異なり、あくまでも、評者が著者と同等以上の知的レベルがないと、その巨大な全体像を把握し、描き出し、その意味と意義を捉えることはできません。


これは、今年の毎日書評賞の受賞式に出席したことを受けての先生のコメントだ。ちなみに、今年の毎日書評賞は池内恵『書物の運命』が受賞している(リンク)。受賞した『書物の運命』も非常に刺激的かつ深い洞察に基づいた名著だが、それについての山崎正和の選評がまた素晴らしいので、ぜひ一読をおすすめしたい。

このブログでも、一応「書評」と称して色々な本を紹介してきた。ブログを開設してから二年弱で128回、数冊の本をまとめて紹介していることもあるので150冊近くの本を紹介したことになる。しかし、このブログでの「書評」はまだまだ、先のコメントにあるような「書評」にはなっていない。

「書評」とは、いい意味で「上から目線」でなければならない。しかし自分が書いてきたものを読むと、それがまだ「書評」とはいえないことが分かる。それは、そうしようと思って出来ることではなく、評者(=自分)の能力がそのまま文章にあらわれているのだろう。

未熟な自分が不十分な「書評」であっても積み重ねる意味は何なのだろうか、と考えてしまった。

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2006年09月12日

9.11から5年と1日。

今日は9月12日、つまり昨日で9.11テロから5年ということだ。

去年の7月にロンドンのテロが起こった日に次のように書いていた。

9.11が起こった時、俺は高校3年生。夜、ニュースを見ていた、そして「あの映像」を生で見た。翌日、高校にはある種独特の雰囲気があった。どの授業でもテロの話に。生まれてこの方平和そのものだった俺達が「戦争」を初めて身近に感じた、といったところだろうか。後知恵ではなく9.11の前と後で違う空気。何と言っても、俺の担任(60年安保世代・左翼・平和主義者)は事件後間もなく、ショックで10日程高校を休んだ。でも9.11は俺にとってリアルではなかった。3000人が死んでも、日本人が26人死んでも、馴染みのないニューヨークという場所。生まれてから一歩も海外へ出たことのない人間の限界? じゃあ東京でテロが起こればそれで何かが変わるのだろうか。

とはいえ、俺達の世代にとって9.11の衝撃は何にも代え難い。友人や後輩の中には、9.11をきっかけに政治を学ぶことになったという声が少なくない。大学1年の時、サークルの論文集の統一テーマが「テロと国際政治」となったことも至極当然のことだったのかもしれない。ちなみに俺は9.11テロ後のブッシュ政権の対外政策をABM条約の脱退との関係から分析した。そんな俺達にとって「テロ」とは他の言葉とは違う響きがある。


この感覚は何にも変え難い、と思っていた。

でも、時間はその感覚を容易に変えるものらしい。自分自身の感覚もそうだし、社会の感覚もそうだ。あの戦争から61年が過ぎた今、あの戦争に対する感覚も大きく変わっているように。

去年の9月11日に総選挙があり、自民党は圧勝した。去年はこのニュースが氾濫し、9.11を振り返るという空気は日本にはあまり無かったように思う。

9.11の後には、アフガン戦争があり、イラク戦争があり、9.11の評価も大きく変わっていった。

来年の今日はどう思うのだろうか。

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2006年07月06日

知的な真摯さ(?)。

7月に入り、そろそろ春学期の授業も終わりが近づいてきた。

専門外ながら興味がある分野なので毎週楽しみにしていたプロジェクト科目(政治思想研究)も今日で終了。ゲストの先生が計6人、というのは学生にとってとても贅沢な授業だ。

とはいえ、ゲストの先生次第で授業の満足度も大きく変わってくる。

例えば、博士論文の研究を基にした話をする先生もいる。必ずしも博論が学者にとっての到達点とは限らないが、大多数の学者にとっては博論が一番時間と情熱をかけた研究であることが多い。そんな研究を1、2時間で話してもらいその真髄を理解することは出来ないかもしれないが、本人からエッセンスを聞くことが出来るというだけで学生にとっては貴重な経験である。

例えば、博士論文の次に始めた現在進行中の研究について話をする先生もいる。博論で行われていた議論を比べて荒削りな面があるのは当然であるが、しかし新たな研究に対する情熱といったものが見えれば、それは博論の話をした時と同様に面白いものになる。場合によっては、ある意味で完成をした博論よりもこれから完成を目指す研究にこそ学生にはヒントがあるのかもしれない。

例えば、広範な知識を持ち学会に留まらず論壇等でも活躍する先生もいる。そんな先生がある特定の分野について話をする。多分、先生にとっては自分の持ち駒のごくごく一部を切り取って話をしているだけなのだろう。それが見えた瞬間に話は急速に面白くなくなる。そもそも研究とは突き詰めて考えなければ分からない、徹底的に調べてみなければ分からないことに必死に取り組むことに意味があるのである。片手間に行うことは可能だが、それはどこかで手を抜かないと無理である。それを認める真摯さが無ければ、どんな質問も自分の類型に当てはめて答えるといったことにしかならない。

例えば、自分が生涯をかけて取り組んでいる課題について話をする先生もいる。それは、何か特定の思想家に関する研究かもしれないし、社会的な運動と結びつくようなものかもしれない。そんな人の本は読んでいて迫力があるものである。しかし、それだけでは面白くない。そこに知的な真摯が加わって初めて面白くなる。例えば、隣接分野について語る時に慎重に留保を付けることをしたり、対話する姿勢があればそれは非常に興味深いものになる。しかし、隣接分野をも断定的に論じ、対話する姿勢がなければそれはただの独善になってしまい、学生にとっては苦痛でしかない。

この授業は2年前にも聴講したのだが…結局、内容以上にその先生の知的な真摯さこそが自分にとっては重要な意味を持った。知的に真摯でない人の話を聞いていても、苛立つだけだし対話の可能性を感じない。もちろんどんな話もちゃんと聞く姿勢は忘れてはいけないものだけれども、とはいえ、ということである。

本人がゲストとして来たかどうかは別として、金曜日の授業も同様である。日本外交に関する博論ベースの本を毎週読んでいくと、同じ博論でも知的な真摯さには大きな差があることが分かる。

こんなことを修士論文も書いていない自分に言う資格があるかは分からないが、先人たちを見てそこから教訓を引き出すことは無意味なことではないだろう。

知的に真摯であり続けたいと強く思う。

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2006年07月03日

去り行くものたち。

ここ数日、色々な人がこの世を去り、そしてピッチを去った。

橋本龍太郎。1996年に総理大臣となった彼について多くの説明は必要ないだろう。政治史的に橋本の首相就任は大きな意味を持つものであった。初登院の際に継母に付き添われ、政策の細かいところに官僚のように口を出す、また派閥の中でも一匹狼と言われた。明らかに五十五年体制の首相になるような政治家ではない。そんな橋本が首相になったことに90年代半ばの日本政治の特徴が表れている。自分の専門である外交史の文脈でも、橋本は意味を持つ政治家の一人である。90年代の日米貿易摩擦や沖縄問題を語る際にこの橋本を無視することは出来ない。橋本はインタビューの際に「私の発言が事実か確かめたければ、○○省の○○や○○に聞いてくれればいい」といったことをよく口にしたという。こんなとこにも細かい性格の一端が表れている。そんな橋本が首相となりどんな指示を出していたのか、将来検証する作業は非常に楽しみである。ぜひ回顧録を書いてほしかったが、小泉政権になっていじめ抜かれた彼にそんな気力は残っていなかったのだろうか。自らが率先して取り組んだ行政改革の果実を手にした小泉に、その果実を利用して報復される、政治の世界は皮肉なものである。

原田昇左右。これも自民党の政治家。なぜ取り上げるかといえば、それは地元選出の国会議員だったから。正確には親の実家がある選挙区の前議員である。地方政治家だった祖父と関係があった原田の死というものも自分にとっては大きな意味がある。祖父と同い年だった原田は、祖父が無くなった時にも全身からエネルギーが満ち溢れていた。田中角栄が日本列島改造論をぶち上げた時には運輸省の一員として一定の役割を果たしたという。かつては「隠れ田中派」とも言われたが「加藤の乱」では最後まで加藤に付いたことと、選挙区に道路を引っ張ってきたことくらいしか政治家としての印象は無いのだが、それでも何かを考えてしまう。政治家を生で見たときに感じるそのエネルギーは他の職業に就くものにはないものがある、ということを自分が初めて実感したのが、まだ幼いときにこの原田に会った時のことだ。

お世話になった親戚も一人、週末に逝った。まだ23歳の自分だが、何か時の流れを実感するとき。「時は流れるのか」といった哲学的なことを考えることがあろうとも、人の死は確実に人間にその流れを感じさせる。

そして、中田英寿の引退。彼の代表デビュー戦を俺は競技場で見ている。一番本気でサッカーを見ていたあの時期に中田が代表デビューしたということは自分のサッカー観に大きな影響を与えている。色々と批判されようとも、そして時にはそのパフォーマンスが悪かろうとも、中田のプレーは大好きだった。個人的にはカズのようにいつまでもプレーを続ける選手が好きだし、中田にもそうやって頑張ってほしかった。「サッカーは生活の糧」と対談などで平然と語る中田であるが、その言葉の裏には常にサッカーに対するアツい思いがあるように感じられた。世間で中田の引退が論じられようとも、一番それについて考えたのは本人だろう。第二の人生でもきっと成功するだろうが、それでも再びピッチの上を走る中田の姿を見たい。

去り行くものが、あれば必ずやってくるものがいる。きっと、すぐにそう感じてしまうのだろう。でも、その去り行くものに対して何かを感じ、そしてその思いは今の自分に大きく作用し、自分を成長させてくれる。人生を振り返った時に、そんな去っていったものたちに「ありがとう」と思うのだろう。

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2006年06月28日

時給2000円アップ。

家庭教師の時給が知らず知らずのうちにアップしていたらしい。金持ちパワー恐るべし。やっぱり、家庭教師をやるなら幼稚舎出身者が最高だ。もちろんその分苦労も多いし、学校に行って先生と話したりとやる事も増えるわけだが…。

いや、やっぱり世の中お金ですよ

そんなわけで家庭教師もちょっと大変、課題文献が結構きつい、発表が重なった、などなどの理由で最近忙しい。息抜きにW杯があるのだが、これはこれで時間を取るので他の趣味は休業中。で、忙しくなると現実逃避気味に先のことを考えたりするのだが、先週末あたりからはまた色々と考えている。

昨日、偶然にも(いや、先生は生徒のことよく見てくれているから必然なのかもしれない)お世話になっている先生にも指摘されたことなのだが、考えている話のひとつについて徒然なるままに書いてみる。



大学院に入ってから3ヶ月目が終わろうとしている。そんなわけで、学部生と院生の違いであるとか、今後の研究についてだとかについても考えるわけだ。

「修士課程は学生の上ではなく、研究者の最底辺」

これはお世話になっている先生から常々指摘されてきたことだ。でも、これはやっぱり頭で分かることではなく実感しなければならないことなんだと思う。普通に修士課程1年で授業に追われているとこれを実感する機会がそれほどない。

修士1年目はカリキュラム上、それなりの授業を取らなければならないのだが、去年特殊研究を大量に取りゼミやサークルなどもあったこともあって、実は今年よりも去年の方が授業のコマ数は多い。先週のように英語文献を一気に読まないといけない時もあるし、ある程度コンスタントに外国語文献や専門書を読んだりすることは確かに学部時代とは変わったことだ。

とはいえ、そこからどう研究につながるかといえばそれは難しい。

自分なりに何とかつなげようという試みの一つは、先行研究を自分の問題意識に沿って読み込んである程度体系的に理解しようとする、ということだ。これはGRIPSでの授業やそれに関連して読んだ文献によって何となくではあるが少しだけ道筋が見えてきたように思う。

しかし、これだけではダメだ、というのが最近の実感。

やはり歴史研究を志す以上は一次資料(外交文書)と向き合うという作業が不可欠だからだ。日本外交史という分野を本格的に学び始めたのは大学院進学をしっかりと決めた学部3年の冬くらいからだが、それなりに先行研究は読んだ。が、これは結局他人が資料を解釈して作り上げた歴史を読んでいることでしかない。やはり、自分も資料を読んだ上で議論しなければ基本的に対等な立場からは話せない。ちょうど今読んでいる本の資料の読み方にかなりの疑問を感じているのだが、その批判にどれだけ説得力があるのか…と考えてしまう。政治思想に置き換えれば、原典を読んでいないのに他人の研究を批判しても説得力に限界があるということだ。テキストの解釈は当然読み手によって違うわけだが、まずテキストを読まないことには始まらない。とりわけ研究とはそういうものだ。

「得意なところをより伸ばして、不得意なところが伸びていない」

という先生の指摘はまさにそのとおりである。これまで漠然と考えていたことをズバっと(笑)指摘された、ということ。ただ、と言い訳をしておくと、これは大体自分が通る典型的な道筋だということ。

学部に入ったときから政治学には興味があったので色々な文献は読んできたのだけど、英語の勉強は全くしなかった。なぜかと言えば、それは日本語の本を読んでいて十分楽しかったし、そこから先に広がる世界が見えなかったから。それが変わったのは学部2年の時にサークルの論文を書いてから。読んだ本の注がとにかく外国語だらけで、本に対して感じた疑問を確かめるためには英語を読まなければならなかったこと、そして読みたい本の翻訳が全然出ていなかったからだ。

というわけで遅ればせながら学部3年の時から徐々に英語の勉強を始めた。中学からエスカレーターに乗ってしまったので、英語の勉強をまともにしたのは初めてだった。

これと今回も大体同じところだろう。先行研究を読んでいくうちに、資料という壁にぶち当たったということだ。もちろん、英語の例ほど気が付くのは遅かったわけではないのだが、卒論の共通テーマが「冷戦終結」だったので一次資料が開いていなかったこともあって手を付けるのが遅くなってしまった。

というわけでどうしよう、というのが考えどころなのだが、とりあえず今年の夏は資料と格闘しようと思います。野党研究に決着を付けたいという気持ちもあるが、この場合だと回顧録やインタビュー、新聞記事、党の決定といった公開資料しかあたることが出来ない。これでは基本的には資料的に卒論から進歩があるわけではない。資料の問題は最終的には二義的なものになるのだと俺は思うが、そういったことも全て含めて自分が資料をしっかり読むようになってはじめて言えるというもの。

う~ん、難しい問題。というか歴史研究者以外にはどうでもいいであろう問題。

この問題はもう少し整理してちゃんと書くことしよう。

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