ゼミ&大学院授業

2010年05月31日

先週の授業(5月第4週)

久しぶりに優勝がかかった早慶戦、サッカー日本代表などなど、昨日はスポーツが色々ありましたが、個人的にはやはり日本ダービーが一番の注目でした。結果は、ご存知の通り伏兵エイシンフラッシュが、低評価の3歳王者ローズキングダムとの叩き合いを制して勝利。

日本ダービーが終わると、よしこれでまた新しい一年が始まるな、という気分になります。毎年のことではありますが、誕生日の直前にダービーがあるため、誕生日を迎えてもあまり新しい一年が始まる気がしません。

さて、そんなダービーは、超スローペースで流れたために、絵に描いたような「よーいドン」の競馬になってしまいました。こうなれば、距離に不安があっても切れ味がある馬が勝つというものです。ダノンシャンティの出走取り消しもあり、どの馬が本当に強いのかはよく分からないまま終わってしまったのはやや残念です。



前回のエントリーで備忘録代わりに書いた本の話に、大事な本を書き忘れていました。

fujiwara

藤原帰一先生の『新編 平和のリアリズム』(岩波現代文庫、2010年)です。新書を読み漁る前に読み終えていました。数頁の短いものも含めて、毎日一つずつ論文・論評を読み進めていたので、読み終えるまでは思いのほか日数がかかってしまいました。

新版の売りは何と言っても、「軍と警察」「帝国は国境を超える」「忘れられた人々」といった学術論文が収録されたことでしょう。

残念ながら東大社研のプロジェクト(『現代日本社会』『20世紀システム』)関連の論文は収録されていませんが、これらはどちらかと言えば歴史的視座に立って冷戦期の国際政治を検討しているものが多く、そのエッセンスは本書に収録された論考に含まれているとも言えます。

いずれにしても、この20年近くの間に著者が書いてきた国際政治論を大掴みに一冊で読めるというとてもお得な本になっています。

フィリピンという冷戦の「中心」ではなく、その影響を強く受ける「周縁」地域の研究からスタートした著者ならではの視点は、ウェスタッドがThe Global Cold War: Third World Intervention and the Making of Our Times, (Cambridge; New York: Cambridge University Press, 2005)で主張し、話題になった見方を先取りしており、日本の国際政治史家は、ウェスタッドを引く前に藤原先生の見方をもう少し検討した方がいいのではないでしょうか。

とはいえ、冷戦の影響がグローバルにあったということ、そして第三世界の出来事が米ソ対立にも影響したということはあるとしても、それが「冷戦史」なのか冷戦も重要な構成要素である「国際関係史」なのかはより慎重に考えられるべきなのだと思います。

閑話休題。そんなわけで、なかなかお得な一冊に仕上がっている『新編 平和のリアリズム』ですが、あくまで論文集は論文集なので、出来ればこの本で展開した議論を一冊の研究書としてまとめて欲しいものだなと思ってしまいます。



以上、前回の補遺を書きましたが、既に竹中治堅『参議院とは何か』、篠原初枝『国際連盟』は読み終えました。これらの本の話はまたそのうちに。



忘れない内に先週の授業について。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊研究

Welch2

今回は、↑の著者であるDavid A. Welch先生がゲスト・スピーカーでした。先生自身の学部時代からの関心、本の成り立ち、キーになる議論とコンセプトの紹介、プロスペクト理論などを採り入れた自身のその後の研究との差異などを概観といったのが大きな流れで、あとの1時間ほどはフリー・ディスカッションでした。

質問が途切れることがなく続いたため、議論になった点は多岐にわたりましたが、印象に残った点を一つだけ。それは、「自分の研究には従属変数はない」と言いきっていたことです。これには強いこだわりがあるようで、授業中に何度も繰り返していました。「自分がやっていることは過程追跡と事例研究」であり、この本でやっているのもそうだと言うのです。北米流の国際関係論と言うと、独立変数と従属変数、場合によっては媒介変数を設定し、仮説を立てて、それを論証していくのが普通だと考えてしまいますが、確かに本の中でも「変数」という言葉は出てこなかった気がします。この辺りのこだわりが、主流の理論ではなく政治心理学のアプローチを採ることにも繋がっているのかもしれません。

<木曜日>

2限:政治思想論特殊研究

Heywood

テキストは、Andrew Heywood, Political Theory: An Introduction, 3rd Edition, (Palgrave Macmillan, 2004), Chapter 3: Politics, Government and the Stateの「Government」の部分でした。

履修申告もしていない他分野の授業なのですが、なぜか発表担当になってしまい、冷や冷やしながらの発表となってしまいました。問題は専門外ということではなく、テキストをざっと読みながらレジュメを作ってしまったので、一度しかテキストを読んでいなかったということです。大筋で間違っていたところは無いと思いますが、「medieval」を「mediterranian」と読み間違えたり、「Tolstoy」を「Trotsky」と読み間違えたり(自分でも変だなと思ったのですが)、そんな細かなミスが残ってしまったのはよく無かったなと反省しています。

さて肝心のテキストの内容ですが、これがかなり不満が残るものでした。

一般に現代政治理論では「政府」や「統治」という視点は軽視されがちです。それは、「20世紀の政治学は、政治を国家との関係から切り離して、広く社会全般に存在しているとする政治観を発展させてきた」からだと説明されます(川崎修、杉田敦編『現代政治理論』有斐閣アルマ、2006年、4頁)。それは確かに理解できなくもないですが、ここで言う「政治学」とはあくまで政治理論であって、政府の役割を前提とする経験科学的な政治学(行政学、政治過程論、国際政治学など)も存在するわけで、これらの領域と現代政治理論に埋めがたい差が生まれているのは否定できないと思います。これはもちろん政治理論の側だけに問題があるわけではありませんが、一方で政治理論のある種の「弱さ」にも繋がっているのではないでしょうか。こうした中で、本書が政治理論の教科書としてGovernment(政府、統治、政治体制)をわざわざ取り上げているのはとても意義があることです。

しかし、問題はその取り上げ方です。この節で取り上げられるのは、①なぜGovernmentが必要か、②Governmentはどのように分類できるか、③Governmentと社会の関係ですが、このように書けば連関しているかに見られる各節が全く連関していないのです。また、政治体制の分類をする部分で、日本が市民的自由よりも成長を重視する開発独裁国家の典型のように書かれていたり、びっくりするような記述も散見されます。また、国家の福祉国家化や、国家の正統性といった重要な部分もここでは取り上げられません。

日本の書き方の問題はともかくとして、他の二つの問題は本書全体に共通する問題に繋がるものです。それは、本書が教科書という体裁を取りながら、実態は「政治理論事典」に近いというものです。それを無理やり、一冊の教科書のようにまとめているがゆえに、重要な情報が色々な部分に拡散し、さらに節ごとの繋がりがないという問題を引き起こしているのだと思います。

そんな不満を感じさせるテキストではありますが、勉強にはなるので、引き続き読み進めていくことにします。

5限:プロジェクト科目I(政治思想研究)

先週の授業を受けての討論でした。院生の発表は、先週の報告ではなく、課題文献に焦点が当てられていましたが、それはやはり先週の報告にまとまりが欠けていたからなのでしょうか。

もっとも討論が進むに連れて議論の焦点は先週の報告に移って行きました。個人的な収穫は議論をしている中で、課題文献で提示される考え方から導かれる「保守性」(これは別に悪い意味ではありません)が析出されてきたことです。

先週の報告には大きな不満があったために、前々回のエントリーでは触れませんでしたが、課題文献はそれなりに面白く読んでいました。社会・国家・市場の関係を考察した課題文献は、これらがそれぞれ独立して存在しているわけではなく、相互に影響し、どれだけが悪いと糾弾出来るようなものではないという点を丁寧に明らかにしているものです。このような議論は正しいと思いますが、しかし同時に、何が悪いと理論的に指摘できないが故に、現状の「打破」よりも不十分でも「秩序」を肯定する方向に議論が繋がりうるものです。もちろん、著者の先生は、そうではないと否定すると思いますが、それでも議論に潜む方向性が「革命的」でないことは間違いないと思います。

そんな収穫はあったものの……と色々書きたいことがあるのですが、これ以上書くとイライラしそうなので、ひとまず止めておきます。ただ一つ重要だと思うのは、「左」だろうと「右」だろうとそんなことはどうでもよくて、現実の政治を議論するのであれば、ちゃんと事実と背景を押さえて議論をするのが、少なくとも「政治学者」の務めだろうということです。


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2010年05月22日

今週の授業(5月第3週)

先週の土曜日は戦後日本外交史の研究会に参加、月曜日はあるプロジェクトの研究会で報告、木曜日は日米関係に関するプロジェクトの研究会に参加と、授業や自分の研究以外に時間を割かれ、気が付けば、もう一週間経ってしまいました。



疲労が溜まっているのか、うまく文章がまとまりませんが、とりあえず授業記録を更新しておきます。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊研究

Welch2

今回は、David A. Welch, Justice and the Genesis of War, (Cambridge: Cambridge University Press, 1993)の第3章(The Franco-Prussian War)がテキストでした。

前回のクリミア戦争は、justice motiveが「効いた」という事例でしたが、今回の普仏戦争は逆に「効いていない」という事例でした。著者の評価では、justice motiveはフランスにとってはWeak(下から三番目:他の要因の方が重要だが、ある程度は「効いた」)で、プロシアにとってはImperceptible(一番下:まったく効いていない)ということなので、本全体にとっては、分析概念としてのjustice motiveの限界がどこにあるのかを示す意味では重要なのですが、この章だけを取り上げて読むのはやや難しいかなという印象でした。

それゆえ、授業での議論は、普仏戦争そのものというよりは、本全体の射程やjustice motiveの定義の確認といった部分になってしまいました。

次回は著者のWelch先生がゲストにいらっしゃるということで、どんな議論になるのかが今から楽しみです。

<木曜日>

2限:政治思想論特殊研究

Heywood

テキストは、Andrew Heywood, Political Theory: An Introduction, 3rd Edition, (Palgrave Macmillan, 2004), Chapter 3: Politics, Government and the Stateということで、ようやく新しい章に入りましたが、今回の範囲はPolitics(pp.52-64)まで。

この節は、①統治の技法、②公共に関する事柄、③権力と資源、という三つに分けられています。この直訳した三つの見出しを挙げただけでは、何が問題になっているのか全く分からないと思いますが、要は「政治」の範囲の話です。最も狭いのが「統治」としてのみ政治を考える場合(=①)、もう少し広く捉えればプライベートと区別される公共空間の問題として政治を考える場合(=②)、そして一番広い場合はプライベートな部分までも政治の問題として考えられる(=③)、ということです。

議論で話題になったのは、アリストテレス、アレント、シュミットといった個々の思想家の取り上げ方ですが、個人的には日本の一般的な政治理論の教科書とは異なり「統治」の話が含まれている点が興味深かったです。この点については、次回がGovernmentの節なので、その時に書くことにします。

5限:プロジェクト科目I(政治思想研究)

久しぶりに恐ろしくフラストレーションが溜まる授業でした。

課題文献は、①杉田敦「社会は存在するか」『岩波講座 哲学 10社会/公共性の哲学』(岩波書店、2009年)、②杉田敦「社会統合の境界線」齋藤純一・編『自由への問い1 社会統合――自由の相互承認に向けて』(岩波書店、2009年)、③杉田敦「解説――丸山眞男という多面体」丸山眞男(杉田敦・編)『丸山眞男セレクション』(平凡社ライブラリー、2010年)、の三つ。演題は、「政治主義の陥穽」でした。

演題からも想像出来るように、丸山眞男の「「現実」主義の陥穽」を意識しつつ、政権交代後の政治情勢を引きながら「政治主導」「現実主義」「「現実」を狭める要因」「政治の限界」をそれぞれ論じていく形で講義が行われました。

フラストレーションが溜まったのは、普天間基地移設問題が、極めて不正確なイメージ(「認識」ともいえないレベル)で、しばしば引かれ、質疑応答でも話題に上っていたからです。なぜ普天間なのか、なぜそれがいま問題になっているのか、そもそもなぜ基地が沖縄に置かれているのか、そしてそれにはどのような意義と問題があるのか。こうした重要な問題を具体的に一切話さずに、本土の沖縄に対する「差別」意識として論じているのには唖然としてしまいました。それだけならまだしも「普天間は海兵隊の訓練基地だから、それを動かすくらい出来るはず」というどこで仕入れたのかよく分からない怪しい話をしてみたり、とにかく何も問題が分かっていないということだけが分かる、という講義でした。

にもかかわらず、上から目線で「鳩山さんが、国民の間でこの問題が議論される素地を作った点は評価されるべきだ」と言われたのには絶句しました。

かつては日米安保条約と自衛隊にただ反対を唱えていれば良かった、それがいまは日米安保条約と自衛隊はいいがその在り方を問題にする、というのが「リベラル派」が多い思想業界でもマジョリティになりつつあるように思います。この辺りは時代の潮流であるとともに、藤原帰一先生の論考などの影響力があるのでしょうか。

問題は、かつての日米同盟&自衛隊反対論は、その先に「中立日本」という「あるべき姿」があり、それが坂本義和先生の議論などによってそれなりに裏付けられていたのに対し、いまのリベラルはきちんとした議論による裏付けなしに日米同盟と自衛隊の存在をなし崩しに「肯定(否定しないといった方が正確かもしれません)」し、その在り方を床屋政談レベルの知識で論じていることです。

現実政治への批判的な視座を持ち、そこからこぼれ落ちがちな「境界線」の問題を指摘することは重要だと思いますし共感しますが、いざ具体的な問題を論じる際に、基本的な事実関係や専門家の存在を無視した印象論で「政策」を安易に論じてしまうことには、驚きを禁じえませんでした。

ここまでは、普天間移設問題しか取り上げませんでしたが、他にもイギリスの自民党(Lib Dems)について話した際にも「向こうの新聞を読むと」と訳知り顔で話していた内容があまりにも表面的で驚いてしまいました。自民党の得票率が伸びていること自体は今回の選挙に始まったことではありませんし、合流前の自由党と社会民主党の選挙連合の得票率が80年代における得票率がかなり高かったことなどは少し調べればすぐに分かる話です。

政治思想を政治思想として論じるならともかく、現実政治について発言するのであれば、印象論ではなくもっと知的に真摯にデータや政策決定過程のあり方を調べた上で話して欲しいものです。

議論の質、知的な真摯さ、スピーカーとしてのスタンスの全てにおいてこれだけ苛立ちを覚えたのは久しぶりのことです。専門領域における業績が評価されている人で、授業にも期待していただけにとても残念でなりません。

とまあ、こんな感じでかなりストレスフルな時間だったので、来週の授業(院生による討論を受けての議論)の際にこの気持ちが悪い方向に作用しないように気を付けたいと思います。


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2010年05月19日

先々週&先週の授業(5月第1週&5月第2週)

色々とやることに追われ、といういつもの言い訳だけではなく、ゴールデン・ウィーク中にイタリア映画祭に何回か行ってみたり、友人達と河口湖に行ってみたりと休んでいるうちに更新が滞ってしましました。

既に今週の授業が今日あったのですが、まずは滞っていた分を更新しておくことにします。



今回はやや変則的に、先々週と先週の授業をまとめて記録しておきます。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊研究

Welch2

先々週は「昭和の日」で授業は無し、先週は、David A. Welch, Justice and the Genesis of War, (Cambridge: Cambridge University Press, 1993)の第2章(The Crimean War)がテキストでした。

クリミア戦争の分析に際して取り上げられるのは、ロシア、トルコ、イギリス、フランスの四ヶ国で、焦点になるのはロシアです。この四ヶ国がクリミア戦争に参戦した要因を説明するのに、どれだけjustice motiveが効いたのか。ロシアはConclusive、トルコはWeak、イギリスはModerate、フランスはVery weakというのが著者の評価です。

この評価基準に関する説明を以前のエントリーでは省略してしまったので、ざっと並べておくと、Conclusive、Very storong、Strong、Moderate、Weak、Very weak、Imperceptibleという順番です(詳しくは本書の40頁参照)。

この章のポイントとなるのは、ロシアの動機としてjustice motiveがConclusiveだったと評価している点です。Conclusiveという評価は、「他の要因は見当たらず、justice motiveは圧倒的に戦争の原因に影響を与えた」という極めて強いものです。

本当にそこまで言えるのかというのが授業での議論の中心で、討論者はあえてリアリスト的な観点からロシアの行動を説明するという形で議論をしていました。

落ち着いた筆致が印象的だったPainful Choices と比べると若干筆が滑っているなというのが率直な感想で、この部分もConclusiveではなくVery Strongくらいにしておけば、あまり反論も無かったような気がします。

中身の具体的な説明をしようと思うと、背景説明をする必要が出てきて面倒なので、ひとまずここまで。

<木曜日>

2限:政治思想論特殊研究

Heywood

テキストは、Andrew Heywood, Political Theory: An Introduction, 3rd Edition, (Palgrave Macmillan, 2004), Chapter 2: Human Nature, the Individual, and Societyで、先々週はthe Individual(pp.26-40)、先週はSociety(pp.40-49)でした。

この本は実にシンプルな構成で、各章の表題には必ず三つの概念――第2章はHuman Natureとthe IndividualとSociety――が挙げられており、それがそのまま各節となります。そしてその概念について、さらにいくつかに分けて、関連する論者を挙げながら概説していくというスタイルが貫かれています。

the Individualの節では、①個人主義、②個人とコミュニティ、③政治における個人が、Societyの節では、①コレクティヴィズム、②社会の理論、③社会的亀裂とアイデンティティをそれぞれ検討しています。

(蛇足ですが、どうもcollectivismを集産主義と訳すと変なニュアンスがある気がして仕方がありません。)

二回の授業を通じて議論になったのが、著者の個人主義(individualism)の捉え方で、それが(規範としての)政治的個人主義と方法論的個人主義を混同しているのではないかということです。これは確かにと思う部分がいくつかあり、著者の議論を素直に読んでいると、方法論的個人主義を取れば必ず政治的個人主義になるかのように、またその逆に方法論的にコレクティヴィズムを取れば政治的にもコレクティヴィズムになるかのように読める箇所がいくつかありました。

この批判はとりわけ先生が強く言っていて、なるほどと思う一方で、外交史や国際政治学を研究をしている立場からは若干の留保を付けたくなるもので、いくつか発言をしました。

というのも、国際政治を検討する際に中心となるアクターは「国家」だからです。もちろんアクターが多元化しているといったことは指摘されるにせよ、中心的かつ圧倒的に影響力が大きなアクターは「国家」です。では、その「国家」の行動を説明対象とする場合は、方法論的に個人主義なのかそれともコレクティヴィズムなのかというのは大きな問題です。国際政治学(というよりも国際関係論)では、国際システムか国家かという形で定式化される問題ですが、「国家」というまとまりを一つのアクターとして仮定している時点で方法論的に厳密な個人主義にはなり得ないわけです。

こんなことを頭の中で考えていてもあまり意味はないかもしれませんが、具体的に外交交渉や国際政治の問題が国内社会に影響を与える場合などを考える時には、この問題は詰めておく必要があるのかもしれません。

5限:プロジェクト科目I(政治思想研究)

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先々週の授業は、『ホッブズ 人為と自然――自由意思論争から政治思想へ』(創文社、2010年)を刊行されたばかりの川添美央子先生がゲストでした。そして、先週は報告を受けての院生の討論……のはずが、討論の週も先生ご登場、さらに報告者の一人が授業中に倒れるというかなり波乱含みの授業となりました。

川添先生の報告は、参加者が課題書を読んでいるという前提で「『ホッブズ 人為と自然』 その背景――スアレス、デカルト、ホッブズ――」と題して行われました。本ではそれほど詳しく書かなかったホッブズの思想史位置をスアレスとデカルトを取り上げることをとして明らかにするというもので、この本の思想史的意義が実はいまいち分からなかった私にとってはとても興味深い報告でした。

授業の際の質疑応答で話題になったことは、本の中心的なテーゼであるホッブズの中で「契約」よりも「制作」が重要な契機であるという主張や、「第三者的理性」の意義、ホッブズを「近代への過渡期の思想家」として意義づけている点などでした。

授業での報告で、スアレスというホッブズ以前の思想家、そしてデカルトという同時代の思想家との関係が詳しく紹介されたことで、ホッブズの思想がどのような文脈の中で形成されたのかということはそれなりに分かりましたが、やはり疑問に残ったのは、それではそのホッブズの思想(哲学)史的な新しさは、その後の時代の流れの中ではどのように意義づけることが出来るのかということです。

この点と、『創文』2010年4月号の論考(「『リヴァイアサン』の光と闇――『ホッブズ 人為と自然』によせて――」)でホッブズ思想の光として強調されている「第三者的理性」の話を、より詳しく先週の授業で聞こうと思ったのですが、報告者の院生が倒れるというアクシデントにより聞くチャンスを逃してしまいました。

『ホッブズ 人為と自然』については、その内に『創文』で特集が組まれるのを期待しつつ、自分の感想は温めておくことにします。


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2010年04月28日

今週の授業(4月第5週)

忘れない内に今週の授業について更新、といっても明日が祝日なので今週は今日あった1コマだけです。



<水曜日>

2 限:国際政治論特殊研究

Welch2

今週は、David A. Welch, Justice and the Genesis of War, (Cambridge: Cambridge University Press, 1993) の第1章(The Justice Motive and War)の残っている部分(pp.22-47)をやりました。

先週も書いたとおり、第1章では①問題意識の説明、②仮説の提示、③論証方法、④予想される反論への回答、がそれぞれ書かれています。今週は②③④が範囲です。正確に言えば、②の前に、なぜjustice motive をキー・コンセプトとして論じることに意味があるのかが書かれていますが、ここは問題意識の部分とかなり重なるので割愛します。

さて本書の仮説は何かということですが、これは重要なので紹介しておく必要があるでしょう(訳は後輩のレジュメが簡潔にまとまっていたので、それを参考にしつつ、日本語になりにくい冠詞は一部省いています)。31頁に挙げられている仮説は以下の6つです。

評価(Valuation)については、

仮説1:アクターが、ある価値を本来与えられている権利(entitlement)と考えているのであれば、戦略的・経済的利益以上にそれを高く評価する。

過程(Process)については、

仮説2:もしアクターが、justice を動機とするならば、本来与えられている権利(enetitlements)と実際に得ている利益(assets)との間の均衡を取るために、賭けに出る。
仮説3:もしアクターが、injustice な状態に置かれていると認識するならば、新たな情報や価値の妥協には関心を示さず、アメとムチを用いた交渉・説得にも応じなくなる。
仮説4:justice motive がアクターの解釈・認識に影響を及ぼすことによって、判断の誤りが増える。

行動(Behavior)については、

仮説5:アクターがjustice を求めて行動すると、その要求が絶対的であるために、妥協的な紛争解決の手段を進んで見出そうとしなくなる。
仮説6:アクターがjustice を求めて行動すると、他の国家が同じ利益を得る場合でも、それが本来与えられている権利(enetitlement)の回復を求めている時にはより寛容的に、それが自国の本来与えられている権利(enetitlement)を侵そうとする時にはより非寛容的になる。

ということが、それぞれ仮説として提示されています。

この本のポイントは、事例研究をパッと読めば分かるように、これは文字通り「仮説」であって、この仮説に当てはまらない事例も数多く取り上げられているということです。本論での分析が見事な仮説の検証作業になっているのは、昨年院ゼミで読んだPainful Choices と同様であり、これがWelch の研究の真摯な点かつ読んでいて面白い点です。

以上の仮説を提示した上で、ではどのケースを選択するのかということが説明されています(pp.32-37)。個人的にはこの部分がなかなか面白かったです。まず、本書が検討する「戦争」は大国(Great Power)が関与した戦争であることが説明され、その上で①資料がそれなりにあること、②いままでその原因がリアリズムから説明されてきたこと、の2つを判断基準として掲げられます。その結果として取り上げられるのは、クリミア戦争(1853-56年)、普仏戦争(1870-71年)、第一次世界大戦(1914-1918)、第二次世界大戦(1939-45)、フォークランド/マルヴィナス戦争(1982)です。

本当にこの事例選択が正しいかどうかは別として、説明の仕方がうまいなと感心させられます。特に、justice motive ということ絶対視しないことによって、逆にこれまでリアリズム的に説明されてきた戦争を検討する場、この議論の意義が伝わるだろうという辺りは、なるほどと思います。

事例選択に続いて実証方法や依拠する資料について説明がされますが(pp.37-40)、この部分は歴史を専門にしているとやや違和感があるかもしれません。が、説明が面倒なのでここは割愛します。

最後が、予想される反論にあらかじめ答えておくというもので(pp.40-47)、これもPainful Choices と同じです。ここでは7つの「反論」が挙げられていますが、この「反論」答え方も実にうまいです。7つと言っても大きく2つに分けられるというのが発表した後輩の説明で、私も基本的にそう読みました。

1つは、ざっくりまとめれば「justice motive と他の要因とを区別出来るのか」ということで、これに対する答えも同じくざっくりまとめれば「具体的にケース・スタディをやってみなければその反論が正しいかどうかも分からない」ということです。

もう1つは、「justice motive が他の要因と比べて重要だとなぜ言えるのか」ということで、これは定性的研究に対するお決まりの批判の1つだと思います。この「反論」に対する答えは、「相関関係≠因果関係」ということです。一般論に対して一般論で答えているのでややずるいような気もしますが、この見方は基本的に正しいのだと思います。

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この部分に関する発表者と先生の間の議論を聞いていて、思い出したのが先月読んでいた多湖淳先生の『武力行使の政治学――単独と多角をめぐる国際政治とアメリカ国内政治』(千倉書房、2010年)です。この本は、定量的分析と定性的分析を組み合わせて、第二次大戦後のアメリカの武力行使についてその要因分析をした研究書でとても読み応えがあるのですが、その定量と定性の組み合わせ方が「相関関係≠因果関係」ということを強く意識したもので、それをふと思い出しました。

いま手許に本が無いのでうろ覚えなのですが、基本的には、定性的分析によって導き出せる相関関係はある仮説が正しくないということは言えるが、その仮説や仮説間の因果関係を明らかにするためには過程追跡(process-tracing)が必要であり、そのために事例分析が必要だ、ということだったと思います。実際にこの本では、アメリカの武力行使の要因として10個の仮説を提示し、さらに4つの武力行使について詳細な事例分析を行っています。

Justice and the Genesis of War では定量的な分析は行われていないものの、その意識や方法論の部分では通じるものがあるのかもしれません。というよりも良質な国際関係論の研究であれば、当然の前提なのでしょうか。

最後は話が若干ずれてしまいましたが、今週の授業で取り上げたのは大体こんなところです。授業ではこの他に、時代によって異なる指導者の認識を一貫した枠組みで捉えることが出来るのか、挙げられている事例以外に仮説を検討するのにふさわしい事例があるのか、キー・コンセプトである「Justice」をどう翻訳するか、といったことも議論になりました。

次回はゴールデン・ウィーク明けで、クリミア戦争の章を読む予定です。

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2010年04月23日

堂目卓生「経済学の基礎としての人間研究」

テープ起こしに疲れたので、気分転換を兼ねて昨日の残りを更新しておきます。



5限:プロジェクト科目I(政治思想研究)

前週の報告(「経済学の基礎としての人間研究:学史的考察」)を受けての討論を担当しました。発表者がいない授業での討論(≒欠席裁判)ということで、やや論争的に討論原稿を作成してみました。原稿は↓に載せておきます。

堂目先生の報告内容のエッセンスは、「人間学としての経済学」という形で『Foresight』誌2009年8月号~2010年4月号までに連載されているので、ご関心がある方はそちらを見て頂ければと思います(ライオネル・ロビンズの部分は掲載されませんでしたが……ここにも休刊の余波が)。

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さて、授業で話題になったのは、下記の討論内容そのものというよりも、堂目先生の前著『アダム・スミス――『道徳感情論』と『国富論』の世界』(中公新書、2008年)との関連でした。もちろん、『アダム・スミス』を読んでいたからこそ堂目先生をリクエストしたくらいで、それなりにしっかりと読み込んでいたはずだったのですが、討論は前週の報告に対応する形で行ったために、やや議論が浅くなってしまったかなと反省しています。

授業で先生方が議論をしているのを聞きながら、『アダム・スミス』の付箋を付けていた部分を見返してみると、明らかに前週の報告とは異なるスミスの人間像を堂目先生が描き出しているので、そのギャップに少し驚いてしまいました。

詳しくは下記原稿を見て頂きたいのですが、前週の報告は、「個人の規範原理→立法者の規範原理」という枠組みを前提として、主流派経済学の発展に寄与した7人のイギリスの経済学者の人間観と経済学としての主張を検討したものでした。つまり、ここでのスミスは経済学の祖としての位置付けを与えられているわけです。この扱いは『アダム・スミス』とは若干異なるものです。『アダム・スミス』では、経済学者としてよりも道徳哲学者としてのスミスを重視しています。それゆえ、そこで描き出されるスミスの人間観として常に強調されるのは、「社会的存在としての人間」ということです。ここからは「個人の規範原理→立法者の規範原理」という単純な図式は導き出されません。

結局、授業での議論の多くが『アダム・スミス』における議論と前週の報告の齟齬を確認するような形になってしまったのは、討論に『アダム・スミス』での議論を入れなかったためだと思うので、この点が失敗と言えば失敗でしょうか。

とはいえ、『アダム・スミス』における堂目先生の議論を重視して、「人間学としての経済学」の発展可能性を考えても、やはりそこには多大な困難が伴うのだと思います。この辺りは報告原稿をご覧ください。

なお、授業での議論では、政策科学に対する不信感のようなものが様々な形で表明されましたが、(言い方は悪いですが)それは政治学者にありがちな「不感症」というものです。政治の議論無しに経済政策を論じることが出来ないのと同じように、現代社会では経済の議論を無視して政治を論じることは出来ません。

いずれにしても、専門分化が進んだこの21世紀における学問の難しさのようなものについて考えさせられる時間でした。



堂目卓生「経済学の基礎としての人間研究:学史的考察」を受けて

1 はじめに

先週の堂目先生の報告では、イギリスの経済学者7人(ヒューム、スミス、ベンサム、ジョン・ステュアート・ミル、マーシャル、ケインズ、ロビンズ)を例にとって「人間研究にもとづいた経済学」の構想が、どのように取り組まれてきたかが考察された。その結論は、「経済学者がどのような人間観や社会観をもつかということが経済学の発展の方向を決定する上で重要だということである」。

ここで、まず確認しておかなければならないことは、報告の基となった原稿は2009年度日本経済学会秋季大会のための報告ペーパーであり経済学者に向けられたものだということである。当然のことながら、政治学者に向けられたものではない。つまり、報告の問題関心は、「自己利益の最大化に向けて利己的・合理的に行動する経済人(homo-economics)」を前提とする主流派の経済学(とりわけ理論経済学)のあり方に対する危機感である。

とはいえ、報告でも指摘されていたように、行動経済学や実験経済学など「経済人」を前提としない経済学も近年徐々に広がりつつあるし(1)、ゲーム理論に基づいた比較制度分析のように単一の市場ではなく「多元的経済の普遍的分析」を目指す(2)学派も登場している。また、ミクロ経済学や厚生経済学の観点から貧困のメカニズムを明らかにしたアマルティア・センの研究など、社会的公正と分配の問題に取り組む経済学者は現在も存在する(3)。しかしながら、現在の主流があくまで「経済人」を前提とした研究であることは間違いない。そうした研究の多くが、市場のメカニズムの解明には力を発揮しても、現実の経済問題に対して有効な処方箋を提供できていないという批判は、サブプライム・ローン問題を発端とする数年来の世界不況によって再び強くなっている。

こうした経済学の状況――そして経済学の置かれた状況――を踏まえて、経済学の発展に寄与した多くの経済学者が、実は「人間とは何か、人間は何を求める存在なのかをよく考えた上で経済のありかたを論じようとしてきた」(4)ことを明らかにし、経済学にとっての人間研究の重要性を指摘する堂目先生の意図には共感するものである。しかしながら、報告を受けての印象は、むしろ、取り上げられた経済学者達――そして堂目先生の報告――が前提としている「人間観」ないしはその枠組みこそが、経済学を経済学たらしめているものであり、「人間学としての経済学」を成立させることを難しくしているのではないだろうか、というものであった。

以下では、簡単に報告の枠組みをまとめた上で、そこに潜む経済学的思考の(政治学の視角から見た)問題を析出することを目指して、議論を進めていく。

(1) 行動経済学の多様な研究動向を押さえた入門書としては、差し当たり、友野典男『行動経済学――経済は「感情」で動いている』(光文社新書、2006年)。
(2) 青木昌彦『比較制度分析序説』(講談社学術文庫、2008年)、8頁。
(3) 経済学の草創期から現代までの経済学史を簡潔にまとめたものとして、根井雅弘『入門 経済学の歴史』(ちくま新書、2010年)。
(4) 堂目卓生「人間学としての経済学 連載第1回 経済学は「人間の心」をどう扱ってきたか」『フォーサイト』2009年8月号、35頁。同連載は、先週の報告ペーパーを土台に一般向けに書かれたものである。


2 堂目先生の議論の枠組み(=「人間学としての経済学」)

はじめに先週の報告の議論の枠組みを簡単に確認しておきたい。先に述べたように、報告で取り上げられたのはイギリスの7人の経済学者(ヒューム、スミス、ベンサム、ジョン・ステュアート・ミル、マーシャル、ケインズ、ロビンズ)である。この7人は「経済学の創成と発展に貢献した人びと」であり、彼らの 「人間研究と経済学の関連」、あるいは彼らが「規範・理論・政策の関連をどのように意識し、その問題と格闘したかを鳥瞰した」のが先週の報告である。その際に前提となるのが、経済学の基礎には「人間研究」があるということである。

報告ペーパーによれば、まず「経済学は、<理論>の領域と<政策>の領域に分けられ」る。そして「理論の領域においては、「諸事実」にもとづいて「諸理論」が形成される。一方、政策の領域においては、諸事実と諸理論にもとづいて、何らかの「目標」が設定される。そして、設定された目標を最もよく達成する 「手段」が選択され、具体的な「ルール」や「制度」が構築される」。ここで重要になるのが、「人間研究」である。なぜなら、「諸事実や諸理論は、「である」で終わる命題の集まりにすぎないのに対し、目標は「べき」で終わる命題からなるからである」。それゆえ、政策当局には採用する善悪の判断基準(=「立法者の規範原理」)が求められ、そしてそれは政治的リベラリズムが成立しているならば、個人が自分や他人の行動と性格の善悪を判断する基準(=「個人の規範原理」)に大きく影響を受けると仮定されている。「人間研究」とは、「他人の行為や自分の心の観察を通じて、<規範>の領域、すなわち個人の規範原理お よび立法者の規範原理を解明すること」であり、経済学が「政策の領域をカバーしようとするかぎり、人間学的考察から独立であることはでき」ず、さらに「個人の規範原理がいかなるものであるかを考えるということは、人間とはどのようなものか、どのような原理にしたがって行動するのかということを考えることであり、その考察の結果は、諸理論にも影響する」という。

以上が、報告の前提となる枠組みであるが、ここで報告内容について一つ指摘をしておきたい。それは、この枠組みが果たして報告を通して貫かれているのかということである。この点が最も顕著に表れているのは、ロビンズを検討した箇所である。報告では、ロビンズが「経済学を人間研究から分離することを提唱」 し、経済学を「純粋経済学」化した側面が強調されている。同時にロビンズの純粋経済学の定義は、「決して価値中立的なのではなく、「自分の意思で自由に、そして合理的に選択すべき」という個人の規範原理の想定の上に成り立つものであったと見ることができる」という指摘がなされている(5)が、結論としてはあくまでロビンズの「経済学を社会的風潮や人間に関する他の学問分野の動向から隔離しようとした」ことが述べられている。しかしながら、 ロビンズの試みは堂目先生も指摘しているように、あくまで「経済学」の範囲を限定しただけであり、政策論の必要性を否定したわけではない。ロビンズの回想によれば、彼が意図したのは「経済システムが働くか、あるいは働き〈うる〉かに関する主張は、それ自身では、それが働く〈べき〉だといういかなる前提もな いことを、明らかにすること」(6)だったのである。それゆえロビンズは、この試みが「経済学者が倫理学と政策に関する自分自身の考えを持つべきではないという意味ではな」く、比喩を用いれ ば「逆に、機械がどのように動くのか、あるいは動きうるのかを知っている場合にのみ、人は機械がどのように動かなければならないのかを言う資格があると私(ロビンズ――引用者)は明確に述べた」のである(7)

もしロビンズの「経済学」の定義に従うのであれば、報告の枠組みにおける政策の部分は「経済学」にとって不要となるであろうし、その定義を受け入れないのであればロビンズの行った「経済学と政策論の峻別」ではなく、ロビンズの政策論における「人間観」を検討する必要があったのではないだろうか。確かに経済学史上の影響という点を考えればロビンズの「功績」の大きな部分は、経済学を「純粋経済学」化したことにより理論的精密性を飛躍的に高める方向へと導いたことにあるのだろう。しかし、これはあくまで経済学史上の位置付けであり、報告の枠組みとは関係が薄いのではないだろうか。

(5) 同様の指摘をするものとして、例えば、木村雄一『LSE物語――現代イギリス経済学者たちの熱き戦い』(NTT出版、2009年)、99-101頁。
(6) ライオネル・ロビンズ(田中秀夫・監訳)『一経済学者の自伝』(ミネルヴァ書房、2009年)、161頁。
(7) 同上。


3 自明視される「経済学的」思考枠組み

堂目先生の議論の枠組みに潜む「経済学的」思考枠組みの問題に話を進めていきたい。第一の問題は、「個人の規範原理→立法者の規範原理」という関係、端的に言えば「個人→社会」という関係が自明のものとして想定されていることである。

政治学においても、いかなる人間像を想定するかは重要な問題であった。古くは社会契約論を巡るホッブズやルソーの議論、最近ではリベラル=コミュニタリアン論争などを考えればいいだろう。一般に指摘されるように、確かにホッブズは、「個人」の合理的選択に基づいて政治的秩序(constitution)を創設することを企てたと評価することが出来るだろう。しかし、同時に「ホッブズに認められる合理的選択理論は、徹底的なエゴイスト(ホモ・エコノミクス)が専ら物質的な財や便益の交換を図るために行う相互作用を説明する理論装置であり、その意味では他者との信頼関係や他者に対する威信を創出するために行われる贈与等の社会的交換とは区別されるべき経済的交換の次元に限定されている」のである。こうしたホッブズの議論のアポリアは、「文化人類学や経済人類学が明らかにしているように、経済的交換が可能になるためには、その前提として社会的交換によって一定程度の信頼が確保されている必要がある点に関わっている」ことである(8)

このようなホッブズの評価に端的に表れているように、原子論的な個人を想定することは政治学では自明ではなく、むしろ様々な形で問題視されてきたことである(9)。この点は、リベラル=コミュニタリアン論争のみならず、現代におけるリベラルのアポリアとしてしばしば指摘されることでもあり、言わばこの問題は政治思想における主要な論点の一つである。むしろ、原子論的な個人を現実に想定することが難しいからこそ、人々の相互作用からなる政治的空間(ないしは公共空間)の民主性を担保することがいかに可能か議論となっているのである。堂目先生の提示する枠組みを政治学の文脈に置いてみると、その原子論的な人間観が自明視されていることが明らかであろう。

第二の問題は、分析対象としての「市場」(ないしは市場経済)が自明視されている点である。第一の問題と接続すれば、いかに各経済学者の人間観が検討されようとも、それは「経済的活動を行う個人からなる市場経済」を分析する前提として検討されているに過ぎないということである。政治学の分析対象が、(学問としての定義の曖昧さゆえに)多岐に渡ることと比較すれば、いかに経済学の分析対象が絞られているかは明らかであろう。確かに、この第二の問題は、経済学が人間の社会的活動の中でも「市場を通じて行われる経済活動」を分析対象としている以上は避けがたい問題であるし、必ずしもそれ自身に問題があるわけで はない。また、この点を問いだせば経済学が経済学でなくなる性質がある。しかし、「人間学としての経済学」を考える上では、いかに市場が形成されるのかという(政治学というよりは)社会学的な課題を自明視していることに議論の余地があることを押さえておく必要があるだろう(10)

(8) 小野紀明『政治理論の現在――思想史と理論のあいだ』(世界思想社、2005年)、11頁。
(9) 「複数性(plurality)」がハンナ・アーレントの思想のキー・コンセプトであることは多くの論者によって強調されるところである。例えば、齋藤純一『政治と複数性――民主的な公共性に向けて』(岩波書店、2008年)、を参照。
(10) ここで挙げた二つの点については、ミルトン・フリードマンと山崎正和のCorrespondence, No. 5, Winter 1999での「市場」の役割を巡る誌上論争も参考になる。この論争は山崎が「市場は(福祉政策による)同時代的な再配分もできないし、(資源の節約や環境保護を通じて)未来の世代との再配分も実現できない。また市場は、犯罪を防ぐ力もなければ、市場にとって安定し安全な環境を維持することもしない」と述べたのに対し、フリードマンが山崎の市場の定義を「厳格過ぎる」とし、山崎が市場で実現不可能として挙げた多くのことは「自由な民間市場」ならば実現可能だと批判したことによるものである。山崎は、批判に対する応答の最後に、「あなた(フリードマン――引用者)の立場は自発的に行動する個人が最初に存在して、彼らが協力して文明が成立するものです。しかしながら私の立場は、文明あるいは人間が自由な存在として自己を発展させる人と人との関係が専攻して存在するというものです。市場や国家、その他の制度はすべて文明の長い歴史の産物であり、同時にそれ自身が文明の構成要素として同等の重要性を持つものです」と述べる。二人の市場観、人間観の違いは、経済学的思考と社会学的思考の違いを端的に表していると言えるだろう。いかに経済学者の前提が他の社会科学と違うかということはここにも明らかである。


4 「人間学としての経済学」は可能か

以上に概観したような「経済学的思考」枠組みの強さを踏まえると、「人間学としての経済学」の困難さが浮き彫りとなるだろう。すなわち、報告で取り上げたいずれの経済学者も、政治学における多様な人間観の中に置いてみれば、価値中立的なわけでも、また多様なわけでもないのである。つまり、報告が前提とする枠組みそのものが極めて「経済学的」であり、むしろ、このような枠組みで捉えられる人間観を多くの経済学者が共有していたからこそ、かつての政治経済学は「経済人」を基礎とする現在の経済学に発展したと説明した方がより実態を適切に説明出来るのではないだろうか。

もちろん、ここでこのような経済学のあり方や成り立ちを批判しているわけではない。むしろ、経済学的な人間観や限定された分析対象を揺るがせることは、経済学を経済学たらしめているものを失わせる危険を持つとも言える。事実、「経済人」の前提を受け入れない行動経済学は、「新しい対象や領域を開拓するのではなく、経済に対する新しい視点からの研究、つまり新たな研究プログラム」であり、「この意味で行動経済学は、既存の経済学と同じ研究領域を扱う、いわば「古い酒を新しい革袋に入れる」という性格を持っている」と説明される(11)。このように考えれば行動経済学は、経済学の下位分野に属するというよりは、心理学(実験心理学)の下位分野に属する学問と言えるのかもしれない。

(11) 友野『行動経済学』、23-24頁。


5 おわりに

ここまで展開してきた議論を唯名論的――つまるところ経済学をどのように定義するのかということに尽きる――と批判することは可能だろうが、ここではいわゆる「経済学」に標準的な思考を、堂目先生の議論は強く持っているということを改めて指摘したい。確かに「政策論」を語る経済学者に人間学や規範理論の素養 が欠けているものが少なくないことは間違いないだろう。また、「政治」を単なる経済活動の障碍としか考えない経済学者も少なくない。

こうした状況の中で、経済学の前提として人間学を考えるべきだという堂目先生の問題意識は重要である。しかしながら、報告で明らかにされた各経済学者の人間学は、むしろ極めて「経済学的」であることはより認識されなければならないだろう。このように考えてくると、堂目先生の批判するロビンズの議論が実は正鵠を射ているのかもしれない。すなわち、経済学は理論経済学(純粋経済学)として精緻化し、その上で政策論を立てる際には倫理学をはじめとする規範的な 議論を考えればいいのである。もちろん、現実には経済学を理論と政策論にきれいに分けることは出来ず、教育プログラムとしては相互の連関を考慮する必要はあるのだろう。しかし、そこで問題とされるべきは、理論と政策論の分離ということではなく、むしろ「個人の規範原理」が「立法者の規範原理」に繋がるという経済学者一般に共通し、堂目先生も前提としている単純な理解を問い直すことにあるのではないだろうか。

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2010年04月22日

今週の授業(4月第4週)

今週は――と木曜日の時点で振り返るのも変な気もしますが――、実り豊かな一週間でした。

自分にとって一番大きかったのは、月曜日に研究関係のインタビューに行ってきたことです。これまでもアルバイトでオーラル・ヒストリーのお手伝いをしたり、外交官へのインタビュー・プロジェクトにも参加しているので、それなりの数のオーラル・ヒストリーの聴き取りやインタビューはしてきましたが、今回のインタビューは、自分の研究にとってはこれまでで一番得るものが大きかったです。

その多くの部分はもちろんインタビュイーの方に負っているわけで、運が良かったということに尽きます。とはいえ、聞きに行ったタイミングが自分にとってはとても良かったなと思います。何も知らないままにインタビューをすれば、インタビュイーの考えや見方に引きずられてしまう。もう少し進んで、それなりに調べて自分の仮説を立てた段階であれば、どうしても自分の仮説に都合の良い証言を引き出そうという誘惑にかられてしまう。今回はひとまず論文を出した段階だったので、それなりに知識もありこの二つのマイナスは回避することが出来ました。加えて、この先に博士論文という大きな目標があるためにまだ柔軟に研究を修正する余地がある段階なので、「自分の見方と大きく違う証言を恐れる」ということもないというタイミングだったのも良かったです。

内容面では、史資料を読んでいては分からない人間関係や組織の雰囲気が聞けたことが大きな収穫でしょうか。次なるインタビューの対象が見つかったことも嬉しいことです。この辺りは、インタビュイーが文書管理の悪さに定評がある某省OBだっただけに、実にありがたいことです。

もちろん、口述内容は文書資料による裏付けが必要な部分もあるので、このインタビューに乗っかって全てを書けるわけではありません。ただし、今回の場合はどちらかと言うと逆で、自分が文書を読んでいて若干解釈に迷いながら論文に書いたことの裏が取れたという側面が強かったように思うので、いいタイミングで励ましの言葉を頂いたような気分です。

と、ここまでは良いことばかりですが、テープ起こしや次なるインタビュー、という作業が待っているのが悩ましいところです。今週はもう一つお手伝いしている研究プロジェクトのテープ起こし&議事録作りもあるので、明日はテープ起こしをしている内に一日が終わってしまいそうです。



課題は先送りにせずにこなしていこう、ということで授業内容をまとめておきます。今週は発表があったので、若干長めです。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊研究

Welch2

前回はガイダンスだったので、今回から本格的に授業がスタートしました。テキストは、David A. Welch, Justice and the Genesis of War, (Cambridge: Cambridge University Press, 1993) の序章と第1章(The Justice Motive and War)でした。

第1章は本全体の枠組みを提示している箇所なのでじっくりやりたいということだったので、今回は第1章の途中で時間切れになりました。授業の最後に後輩が言っていた図式に従えば、第1章で著者は4つのことを説明しています。すなわち、①問題意識、②仮説の提示、③論証方法、④予想される反論への回答、です。今回は①問題意識まで進みました。

この本の問題意識を一言にまとめれば、リアリズムに対するオルタナティブの提示ということに尽きるのだと思います。具体的には、戦争の起源(or発生:genesis)においてJustice Motiveが重要な役割を果たしていることを実証するということです。(Introductionでは、「戦争の起源」ではなく「国際政治における国家の行動」と広く定義されていますが)。

ここでJusticeをどう訳すかがなかなか難しい問題で、日本語の語感からだと「正義」よりは「正当性」の方が近いとは思いますが、これは来週の授業でも取り上げられるようなので、ひとまず置いておきます。

Justice Motiveの定義は本書の核となることなので紹介しておく必要があるでしょう。該当部分を抜き出すと「the drive to correct an perceived discrepancy between entitlements and benefits」ということで、授業中に先生が言っていた訳を踏まえて自分なりに訳せば「本来与えられている権利と利益の認識された齟齬を是正しようとする衝動」といったところでしょうか。どうにも日本語としては不自然ですね。ともあれ、このJustice Motiveをキー・コンセプトに本書は展開されます。

今回取り上げたところまでは、基本的にリアリズム(クラシカル・リアリズムとネオ・リアリズムの双方を含む)に対する批判的検討が行われており、その批判の最も根本的なものはリアリストの多くが、国家行動の「動機」を不変とみなしていることにあります。これも説明し出せばかなり長くなることなので、来週余裕があればここに書くことにします。

<木曜日>

2限:政治思想論特殊研究

Heywood

テキストは、Andrew Heywood, Political Theory: An Introduction, 3rd Edition, (Palgrave Macmillan, 2004), Chapter 2: Human Nature, the Individual, and Society のHuman Nature(人間性)の部分(pp.16-26)でした。

政治理論の教科書で、独立した節として「人間性」を取り上げるのは英米では普通のことなのでしょうか。あまりにその辺りの知識が無いのでよく分かりませんが、「人間性」を単独で取り上げるとどういった議論になるのかが分かり、今週も勉強になりました。

この節は「人間性」理解を巡って3つの対立軸があることをそれぞれ紹介しています。これは、その対立軸を並べるだけで、大体の議論が分かると思います。第1の対立は「自然か教育か(Nature versus Nurture)」、第2の対立は「知的か本能的か(Intellect versus Instinct)」、第3の対立は「競争か協調か(Competition versus Cooperation)」です。

常識的に考えればこれらの対立はどちらが正しいというわけではなく、いずれも人間性の1つの側面を表しているものです。これは授業中に先生が言っていたことですが、人間性を無視して政治を論じればそれは制度論になってしまいます。それゆえ、人間性をどのように考えるかは政治理論にとっても重要な問題なのですが、それを単独で抜き出してしまっているので、具体的にどういう局面でどの部分の人間性が表れるといった議論にはならっていません。その結果、テキストの書き方はかなり自然科学的な人間性に偏ってしまっており、この辺りをどう考えるかということが授業では議論になりました。ざっくりとまとめてしまえば、なぜ人間性を問題にするのか、またはなってきたのかについてのコンテクスト無しに人間性を論じることに政治理論としてどれだけ意味があるのだろうか、ということです。

もっとも、この章では続いて「個人(the individual)」と「社会(society)」が取り上げられているので、章全体として読めば、今日の議論に対する答えは見つかるのかもしれません。

5限:プロジェクト科目I(政治思想研究)

前週の報告(「経済学の基礎としての人間研究:学史的考察」)を受けての討論をしました。討論担当ということで、ここにも議論をまとめて……と思ったのですが、長々と記事を書いて疲れてしまったので、これはまた日を改めて書くことにします。


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2010年04月16日

今週の授業(4月第3週)

前回は図書館のサービスが良くなった!と書きましたが、今年度は学期中も日曜閉館だったということを忘れていました。大学院棟は空いており、ある程度のことはWeb上でも出来るとはいえ、日曜日に図書館が空いていないのは非常に不便です。確かに、日曜日に図書館で勉強している学生の数を見ればいたしかたない面もあるのかもしれません。よく利用する東大駒場図書館と比べても日曜日に来ている学生の数は大分違うように思います。とはいえ……と思うのは大学院生だけなのでしょうか。



<水曜日>

2限:国際政治論特殊研究

Welch2

前回のエントリーにも書いたように、この授業はDavid A. Welch, Justice and the Genesis of War, (Cambridge: Cambridge University Press, 1993) の輪読をします。今回はガイダンスということで、次回から内容に入ります。去年と比べると受講者数がやや少なく、規模としてはちょうどいい大きさになったように思います。

<木曜日>

2限:政治思想論特殊研究

Heywood

専門外ということで出るかどうかかなり迷ったのですが、テキストの内容や課題の量(1回に10~20頁程度)を考えた結果、出ることにしました(といっても履修申告はしていないのですが)。テキストは前回のエントリーにも書いたとおり、Andrew Heywood, Political Theory: An Introduction, 3rd Edition, (Palgrave Macmillan, 2004) で、一回の授業で一節ずつ進んで行くというイメージです。日本で言えば学部の専門過程向けのテキストといったところでしょうか。政治的な概念の分析並びに明晰化を目指すというのがこの本の目的で、専門外の自分にとっては、視野を改めて広げるいい機会になりそうです。

「テキストの理解もさることながら、政治学という学問の全体に目を配り、大学学部レベルにおける政治学の導入講義がいかにあるべきかを一緒に考えていきたい」という履修者へのコメントがシラバスに書かれていましたが、テキストの内容そのものだけではなく、導入講義のあり方を考えるというのはなかなか面白い試みだと思います。

今回は、Introduction: Concepts and Theories in Politics (pp.1-14) が範囲でした。序章ということで、政治的な概念を取り扱うことの意味や難しさがまず検討され、その上で政治理論のごく簡単な学説史的な整理が行われています。受講者や先生の専門の関係もあり、英米系の理論と大陸系の理論の違いに各回とも議論が集中しそうだなというのが初回の印象です。内容についてしっかり書くのは面倒なので、ひとまずはこんなところで。

5限:プロジェクト科目I(政治思想研究)

是非とリクエストをしていた堂目卓生先生が今回のゲストでした。発表テーマは「経済学の基礎としての人間研究:学史的考察」です(昨年度の日本経済学会秋季大会での報告したものと同内容とのことです)。

7人のイギリスの経済学者(ヒューム、スミス、ベンサム、ジョン・スチュアート・ミル、マーシャル、ケインズ、ライオネル・ロビンズ)を例にとって、「人間研究にもとづいた経済学」の構想がどのように取り組まれてきたかを明らかにするというかなり野心的なもので、政治思想を専門にされている方がどう感じたのかは分かりませんが、私にとってはとても面白かったです。もっとも、エッセンスは『フォーサイト』の連載「人間学としての経済学」とほぼ同じといっていいのかもしれません。

と、ここまではいいのですが、問題は報告を受けての討論を来週やらなければいけないということです。さて、どうしたものか。

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2010年04月10日

新年度の授業

今週から新年度の授業(ガイダンス)が始まりました。

大学院生とはいえ、いまだに学生生活を続けているからか、新しい学期の始まりは何とも言えないワクワク感があるものです。といっても、授業がメインの修士課程とは違い、博士課程は自分の研究があくまで中心であり、それほど授業を取る余裕もありません。とりわけ、今年度は諸事情により書かなければいけない論文が3本あるので、なかなか時間的には厳しいです。

そんなわけで春学期に履修する授業は、師匠の特殊研究と、毎年出ているプロジェクト科目(政治思想)の2つだけになる予定です。

後輩某(と担当する先生ということになるのでしょうか)から、Andrew Heywood, Political Theory: An Introduction, 3rd Edition, (Palgrave Macmillan, 2004) を輪読する政治思想の授業を受けないかというお誘いを受けたのですが、これをどうするかをかなり迷っています。各回で読むページ数もそれほど多くなく、失いかけている「国際」が付かない政治学の素養を取り戻すいい機会にもなると思うのですが、この授業を取ってしまうと後期の授業が4コマと、1コマは院ゼミとはいえ、博士課程の院生としてはやや授業を取り過ぎているような気もします。

課題量が多い授業があるわけでもないので、大した負担ではないような気もするのですが、今年度は海外資料調査に最低でも1回、場合によっては2回行くことになりそうなので、そういったこととの兼ね合いも考えなければならず、なかなか悩ましいものです。

Welch2

師匠の特殊研究は、David A. Welch, Justice and the Genesis of War, (Cambridge: Cambridge University Press, 1993) の輪読です。ウェルチ先生の博士論文を基にした研究書で、ラショナリズム全盛で徐々にコンストラクティヴィズムが出始めた時期に、主流のラショナリズムに真っ向から立ち向かいつつも、コンストラクティヴィズムとは異なるアプローチを採っている辺りがこの本のポイントになるのでしょうか。まだパラパラと最初の辺りを眺めてみた程度なのですが、例のごとく論旨明確かつ平易な英語で非常に分析的なことが書かれているので、とても勉強になりそうです。

Nye and Welch

ウェルチ先生と言えば、↑も触れておかなければならないと思います。ジョセフ・ナイの名教科書であるUnderstanding International Conflict: An Introduction to Theory and Histry (邦訳『国際紛争』)の第8版です。第8版に当たって、題名がUnderstanding Global Conflict and Cooperation に変更され、共著者としてウェルチ先生が加わりました。

共著者に加わるという話は以前から聞いていたので、刊行を心待ちにしていました。3月末に入手してから、息抜きがてら少しずつ読み進めているのですが、これは素晴らしい出来です。学部生向けの教科書とはいえ、抜群のバランス感覚に加えて、ウェルチ先生が加わったことによって、より最新の理論動向も踏まえた加筆や、ややミスリードではないかと私が感じていた部分を含めて様々な修正が細部に渡って行われており、これまでの版以上に高い評価を受けるのではないでしょうか。

これまでに読んだ部分では、ペロポネソス戦争の部分の記述に色々な留保が付けられている点が印象的でした。ウェルチ先生には、“Why International Relations Theorists Should Stop Reading Thucydides,” Review of International Studies 29:3 (July 2003) という論文があるので、この辺りは明らかにウェルチ先生がかなり修正しているな、と思わせるところです。

プロジェクト科目は、正式には「プロジェクト科目I・政治思想研究」という授業名で「政治思想研究の新しいアプローチ」という題目(?)が付けられています。初回のゲストの先生は、私が昨年からリクエストしていた先生なので非常に楽しみです。もっとも、楽しみなだけでなく、それなりの討論を用意しなければならないので、そこが若干不安でもあります。一昨日のガイダンスで挙がっていたゲスト候補がとても豪華メンバーだったので、今期はなかなか期待出来そうです。

ちなみに後期の授業は、上記2つの授業に加えて、ロシア政治外交史が専門の横手先生が開講される特殊研究「冷戦史」を取る予定です。この授業はゼミの後輩と共に、以前から先生に強くお願いして実現した授業だけに、いまからとても楽しみです。



新学期と言えば、大学の図書館システムが全面リニューアルになりました。他大学と比較すれば、慶應の図書館は蔵書やデータベースはかなり充実していると思うのですが、私が大学院進学以降は、それまで買っていた外交文書集やマイクロの資料集が入らなくなったり、データベースが打ち切りになったりとあまりいいニュースがありませんでした。

そんな中で、今回のリニューアルは利用者にとってかなり恩恵が大きいです。貸出冊数が増え(院生の場合は1図書館15冊→20冊)、これまではわざわざカウンターに行かなければいけなかった延長がオンライン上で出来るようになり、さらに延長回数が1回から2回に増加、等々。他にも、ほとんどのサービスがワン・クリックで出来るようになり、気になる文献をリンクしておく機能が付いたり、全体として利便性が大幅に向上しました。

新学期と言えばもう1つは、キャレルの移動です。昨年度は日当たりの良い南側の窓際という素晴らしい場所だったのですが、「諸々」の事情が重なりあまり研究環境が良いとはいえない席でした。今年は、北側ということで日当たりは全く良くないのですが、7階の席が取れたので、人が6階ほど多くなく、今日などほぼ貸し切り状態で素晴らしいです。若干ではありますが、机も少し大きいような気がします。

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2010年03月22日

卒業論文発表会

昨日はゼミの卒業論文発表会&OB会がありました。

発表するゼミ生は5期生ということで、ゼミの期としては2つ下ですが、先生が途中2年間サバティカルでいなかったので、学年としては4つ下になります。4学年も下の学生が卒業し社会人になる、という単純な事実に若干複雑な気持ちになります。

卒業論文発表会は、2期生の卒業時から行われているもので、今回は我々が卒業した時以来の開催です。

ゼミの運営は千差万別で、ゼミによっては、大学院生が本ゼミやサブゼミに出席することや、三田祭論文の指導をするところもあるようですが、基本的に田所ゼミはそのようなことはありません。年に数回、ゲスト・スピーカーが来る回に出席することはあるものの、学部ゼミとの接点は合宿と飲み会と飲み会と飲み会と……というくらいで、偉そうに先輩面をする機会はほとんどありません。

また、三田祭や卒業論文のテーマをどうするかということも基本的にゼミによって大きく違います。田所ゼミの場合は、三田祭については論文を書くか書かないかも含めて完全にゼミ生次第、卒業論文については先生と相談して共通テーマを設定する年もあれば、1期生のようにシュミレーションに取り組むこともあったり、各学年によって様々です。我々の時は「冷戦終結」が共通テーマでした。

今年のテーマは、自分の専門にも関係する「エネルギー」ということで、各発表をとても興味深く聞きました。留学のために卒業を伸ばしたゼミ生や論文を完成させられなかったゼミ生が数名いたことから、最終的に昨日論文を発表したゼミ生は8名と、例年よりもやや少なめだったのは残念ではありますが、最後まで頑張り抜いた8本の論文の水準は例年になく高かったように思います。学部生の卒業論文ながら、ただの1本の論文も「お茶を濁す」ようなものが無かったというのは素晴らしいことです。

学部生の関心の幅広さや、思考の柔軟さを目の当たりにすると、専門を追求するための研究が大学院でのやるべきこととはいえ、自分の思考がついつい固定化されがちだなということを思い知らされます。

実際には自らの研究テーマを追究しつつも、問題意識や関心は幅広く、そして着実に研究成果を上げていくこと。これを言うのは簡単ですが、実行していくのはなかなか難しいものです。年初に掲げた目標の通り、まず今年は研究成果を上げることに努力を傾注しなければ、という思いを新たにした一日でした。

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2010年01月18日

先々週の授業(1月第2週)/先週の授業(1月第3週)

大晦日に更新をしてから二週間強、最早松の内も終わってしまい遅過ぎるのですが、本年もよろしくお願い申し上げます。

終わってしまったついでではありませんが、先週の授業をもって今年度の授業が終わりました。少し感慨深いのは、師匠の帰国と同時に入ってきてゼミの後輩たちの授業も先週が最終回だったということです。入る前から長くなるということは分かっていたものの、自分が変わらず大学院生であるにも関わらず、新たなゼミ生が入ってきて、そして自分よりも早く出ていくというのは何とも妙な気持ちになります。



四月までの長い春休みをどれだけ有効に使えるかはとても大事な問題であり、色々と考えているものの、どう考えても論文の投稿と資料の読み込みで終わってしまいそうです。

そんな研究一色の生活の中で効率良く視野を広げるためには、やはり色々な研究を読んでいくのが一番だろうと思い、初心に帰って学部生以来の勉強法を新年に入ってから再開しました。それはごくごく単純で、どれだけ忙しくてやることがある時でも論文一本(ないしは共著書の一章)を必ず読むというものです。

これはお世話になっている某先生の院生時代の勉強法=毎日最低でも英語を20頁は読む、というものを真似たもので、当時は自分の英語力が足りずそれが全く実践不可能だったため、せめて日本語でやってみようとしたものです。これがうまくはまり、読まなければいけない研究書だけでなく幅広く色々な論文を読む日課になりました。

この二年ほどはやっていなかったのですが、気が付いてみると、積読になっているものの多くが送られてくる学会誌や、これは読まないとと思って購入した共著書ばかりだったので、この日課を再開することで解消していこうと思い立ちました。18日経過した時点で、18本の論文を読めたわけで、これはなかなかいい積読解消方法です。もちろん別途読まなければいけないものは読んでいくわけですが、毎日コツコツというのがいいリズムになり、今のところはうまく続いています。

さて、色々と印象深いものがあった中で、今日は一つだけ論文を紹介しておきます。それは、石井修先生の「ニクソンの「チャイナ・イニシアティブ」」『一橋法学』(第8巻第3号、2009年11月)です。

おそらく、『一橋法学』の一つ前の号に掲載された「第2次日米繊維紛争(1969年-1971年) : 迷走の1000日」と同じように、柏書房から出ている『対日政策文書集成』シリーズの監修作業から派生した研究だと思いますが、色々な意味で大御所の先生にならないと書けない論文で、これはかなり面白いです。

使っている資料がニクソン大統領文書(Nixon Presidential Materials)のみであることなど、同時期を扱っている若手の研究者であれば、注文を付けたいとことは多々あるのかもしれません。とはいえ、全体のバランスや何よりも豊富なエピソードの数々は著者ならではのものですし、日本で広く受け入れられてきた従来のニクソン=キッシンジャー外交イメージを、より実態に近い(諸外国における研究ではスタンダードになっている)イメージへと転換している点は重要だと思います。すなわち、ニクソンとキッシンジャーに就任当初から一貫した外交戦略があったわけではないこと、ニクソンとキッシンジャーの関係や役割分担といったことは、この論文を通じて大枠が理解出来るのではないでしょうか。

それにしても古希を超えてなお、一次資料に分け入る研究をされる知的体力は凄まじいですね。ちなみに『一橋法学』は、一橋大学の機関リポジトリ(HERMES-IR)に収録されているのでオンラインでも読むことが出来ます。



研究発表が続いたのでどれも簡単にしか書けませんが、授業についてまとめておきます。

まずは先々週の授業(1月第2週)から。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊演習(院ゼミ)

昨年から研究生として授業に参加されている方の研究発表でした。

といっても、我々のような細かな事例研究ではなく、過去150年ほどの国際社会と日本の歩みを検討した上で今後を見通すというかなり野心的な「研究」で、師匠の用語法を借りれば「学問的な正確さ(elegancy)ではなく、様々な問題を考える上での面白さ・妥当性(relevancy)を持った研究」で、大学院生が真似をすると大変なことになるけれども、知的には喚起されるものがたくさんあるというものでした。

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研究発表を聞いていて思い出したのが、白石隆『海の帝国――アジアをどう考えるか』(中公新書、2000年)です。

この本は、「政治学者が50年、(スケールの大きい)歴史家が500年の時間の幅でものを考えるときに、あえて東アジアの「近代」をひとつのまとまった時間の単位と捉え、150-200年の時間の幅で東アジアの地域秩序を(一連の)構想と形成という観点から考察しよう」(iii-iv頁)というもので、タイムスパンや問題意識は似ているなと感じました。実証を重視する短いタイムスパンでも、長期的なサイクルを重視する超長期のタイムスパンでもなく、ほどほどの長さだからこそ導き出せるものがあるのでしょう。

<木曜日>

5限:プロジェクト科目(政治思想研究)

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↑の著者の先生がゲスト・スピーカーでした。論題は、「国境を超えないデモクラシー」。

国際政治を研究していると、デモクラティック・ピース論のような議論はあるものの、そもそも国際社会のあり方としてはグローバル・デモクラシー論の方が「異端」であって、デモクラシーが国境を超えないのは当たり前だろうと思ってしまうのですが、どうやらグローバル・デモクラシー論は近年政治思想業界で流行っているようで、それに対するある種の反論を試みた発表でした。

と言っても、議論をパッと聞いた時の印象とは違い、質疑応答を聞いている限りではグローバル・デモクラシー論を否定したいわけではなく、グローバル・デモクラシー論で論じられている内容を捉えるのに「デモクラシー」という用語を使うのは適切ではない、という点に先生の論点はあったようです。

この辺りが混乱していたために、聞いている私の頭の中も大混乱という状態のまま授業が終わりかけたのですが、ジェームズ・メイヨール『世界政治』の枠組みに引き付けた形で、最後に質問してみたところ、先生の立場はプルラリズム(多元主義)というよりはソリダリズム(連帯主義)に近いもののようでした。

何となくの印象は先に挙げた新書の読後感と同様で、様々な論点を提示しているものの、最後の最後まで突き詰めた考察はしていないな、というものです(やや厳しすぎる見方かもしれませんが)。



続いて先週の授業(1月第3週)。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊演習(院ゼミ)

来年から院ゼミに入ってくる後輩の卒論発表。

あまり具体的に書くことは出来ませんが、メディア・コミュニケーション研究所へ提出する論文ということもあって、論文で行われているのは国際関係に関連するテーマについての「社説分析」でした。

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そんな後輩の研究発表を聞いている中で頭に浮かんだのが、若宮啓文氏の論説委員長としての記録『闘う社説――朝日新聞論説委員室の2000日』(講談社、2008年)と、片山慶隆さんが昨年出された『日露戦争と新聞――「世界の中の日本」をどう論じたか』(講談社選書メチエ、2009年)です。

『闘う社説』は、なかなかうかがい知ることの出来ない、社説を中核とした社論形成の内幕を明らかにしているという点で非常に興味深い本である一方で、そこで変わっていく社論そのものについては、(少なくとも実際に政治の現場で動いている外交を研究している私にとっては)何でそんな小さなことにこだわっているのか、コップの中の嵐ではないのか、といった印象を持たざるを得ないものでした。後輩の研究を読み、授業での発表を聞いていると、自分がよく知らない国のよく知らない時代のことを論じているという点では面白いものの、『闘う社説』の読後感と同じような感想を感じる部分がありました。

それではなぜ『日露戦争と新聞』が思い浮かんだかと言えば、それはこの本が日露戦争期の社説や社論を題材にしたものであるにも関わらず、とても面白かったからです。それは、おそらく著者が、同時代の政治外交史や思想史についても同時に研究を進めており、そうした背景知識に裏付けられた時代認識を持つとともに、東京という限定は付けながらも当時の有力紙を全て検討対象としているからだと思います。これによって、単なるテキストとして社説が取り上げられるだけでなく、当時の時代状況や新聞各紙のコンテキストが同時に明らかにされるわけです。もっとも、この本でも、新聞紙上で展開された様々な議論が実際の政策にどういった影響を与えたのかといった点が論じられているわけではありません。社説分析というメディア史の領域と、政治外交史をどう繋げていくのかというのは、歴史学として考えても難しい問題なのかもしれません。

結局授業の記録ではなく文献紹介になってしまいました。ちなみに『日露戦争と新聞』については、昨日の朝日新聞に書評が出ていました(リンク)。

<木曜日>

5限:プロジェクト科目(政治思想研究)

前週を受けての討論だったのですが、予想通りの難しさでした。というのは、やはり前週の発表の完成度の問題に尽きるのかもしれません。あまりうまくまとめられないというか、授業での議論にあまりまとまりがなかったので、これ以上は割愛。

この授業も、メンバーが入れ替わり後輩が増えてきた中で、どういったことを発言すれば有意義な議論が出来るのか若干悩ましさが出てきました。


black_ships at 23:10|PermalinkComments(0)