ゼミ&大学院授業

2011年04月22日

今学期の授業

気が付けば、博士課程も3年目に入ってしまいました。運良く、今年度と来年度は金銭的な面をあまり気にせずに研究に集中出来る環境が整ったので、一日一日を大切に地道に研究を進めて行こうと思います。

気軽につぶやけるツイッターが便利でついついそちらを使ってしまうので、このブログをどう活用していこうか迷っていますが、ひとまず授業関係の備忘録代わりに今年度も授業の話はここに書くことにします。



東日本大震災の影響で授業開始が1週間強遅れたので、昨日ようやく全授業のガイダンスが終わりました。徐々に博士論文執筆に向けた作業も始めなければいけない時期ではありますが、色々と考えた結果、今期は以下の4つの授業を受講する予定です。

<火曜日>

2限:戦後日本政治史Ⅰ(学部)

休憩がてら学部のシラバスを眺めていたところ、オォっと思う講師の先生だったので初回の授業に行ってきました。

授業自体はオーソドックスなもので、レジュメが配布され、大体それに沿って淡々と講義が進むという感じですが、「内政と外交の連関」を重視し「日本の政治を取り巻く国際社会を意識して授業を進める」という辺りが、講師の先生らしく、なかなか楽しみです。

研究が進んでくると視野が狭くなりがちで、自分の研究を相対化する機会はなかなかありません。そこで、標準的な通史に改めて目を通したり、色々とやってみるのですが、やはり一番いいのは授業に出ることだと実感しました。学部生の時は当たり前のようにやっていたことですが、1時間半教室に座り自分の手でノートを取ると、頭の中がよく整理されます。初回は、「敗戦と統治機構の再編成」についての途中まで進みました。

研究が切羽詰まってきたら出られなくなると思いますが、この授業は、特に予習や準備が必要なわけでもないので、可能な限り聴講したいと思います。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊研究

ravenhill

師匠の授業。昨年のこの授業は、David A. Welch, Justice and the Genesis of War, (Cambridge: Cambridge University Press, 1993) =博論ベースの研究書輪読でしたが、今年は、John Ravenhill, Global Political Economy, 3rd edition, (Oxford University Press, 2011) というIPEの教科書の輪読です。

「修士向けの授業だから取らなくてもいい」というようなことを言われましたが、師匠から国際政治経済学を大学院で学んだことは無かったので、いい機会だと思い、受講することにしました。パラパラと眺めた感じでは、学部の専門課程向けのオーソドックスな教科書です。特徴があるとすれば、理論よりも事象に重点を置いているところでしょうか。

<木曜日>

5限:プロジェクト科目Ⅰ(政治思想研究)

専門外にも関わらず、学部3年時に聴講し、修士課程入学以降はずっと受講し続けているプロジェクト科目(政治思想研究)は今学期も受講します。専門外の下っ端ということで、言いたい放題やってきたはずが、教室を見回すと同期が一人いるだけで、あとは全員後輩になっていました。う~む、参ったなという感じです。

予算が厳しくなっているらしく、今年度は学内の先生がゲストの中心になりそうだというのは、やや残念ではありますが、名前が挙がった方々がなかなか豪華メンバーだったので、今学期はこれまで同様に楽しめそうです。

<金曜日>

3限:アカデミック・ライティング(中上級)

今年度から講師の先生が変わったアカデミック・ライティング(中上級)を受講することにしました。4限に開講されているアカデミック・プレゼンテーションも出来れば取るようにと師匠からは言われていましたが、授業負担と博論執筆計画を考えて、ライティングのみにしました。来年度はプレゼンテーションも取ろうと思います。

まだ2回授業をやっただけなので、まだよく分かりませんが、課題が膨大というわけではなく、少ない課題に集中して取り組む形式の授業なのかなという気がします。英語の発信力は課題なので、1年間で少しでもレベル・アップすることを目指して頑張ろうと思います。


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2011年01月27日

年末年始の授業(12月第3週~1月第3週)

忙しさを言い訳に、ブログを一ヶ月半も放置してしまいました。

開設当初は毎日更新、修士課程の途中からは数日ごとの更新、博士課程に入った頃から週一回の更新になり、段々とペースが落ちています。月一回の更新ではあまり意味がないので、もう少しペースを上げて週一回は新しい記事をアップしたいと思います。

ツイッターを始める前は、ブログとツイッターは質が違うメディアだから、ブログの使い方は変わらないだろうと思っていたのですが、いざ始めてみると細々とした情報は見つけた時につぶやいてしまい、それで満足してしまうということが分かりました。まぁ、あまりコミュニケーション・ツールとしてツイッターを使っていないからかもしれませんが。

また、twilog(リンク)のように過去のツイートをブログのようにまとめてくれる補完サービスも充実しているので、ただタイムラインに自分のつぶやきを垂れ流すだけでなく、ちょっとしたメモ代わりにも使えることが分かってきました。いささか問題があるような気もしますが、自分のtwilogで過去のつぶやきを眺めてみると、記憶の彼方にあったような情報を見つけることも多く、それまでのブログの使い方を代替する意味もあるのかもしれません。

そんなわけで新刊情報などにご関心のある方は、ブログではなくツイッターをご覧ください。

◇◇◇

ブログ放置のもう一つの言い訳は、とにかくやらなければいけないことが多かったということです。

比較的時間がかかったのは、①某共著の原稿、②某座談会の翻訳(下訳)の二つですが、この他にもお手伝いしている政策提言プロジェクト関係や、いくつかの報告書や手続き書類の作成、自分の研究や共著関係の研究会での報告×3などなど、色々とやることがありました。結局年末年始の休日は0日というメリハリの無い1ヶ月半を過ごしてしまいました。

どの仕事も、もっと効率良く出来るはずですし、ちゃんと休む時は休んで仕事に取り組むということが出来ないとまずいと再確認しました。

そんなわけで、積み残していた諸々の作業があらかた片付いた今週火曜日は、久しぶりに大学に来ないで(行かないでと書かない点がまずいですね)、映画を観て、カフェで小説を読んで、散歩してとゆとりある時間を過ごしてみました。

2011年は、効率良く仕事を片付けていく、という当たり前の目標を掲げたいと思います。

◇◇◇

さて、放置していたブログを更新することも、新しい研究に取り組むためには必要だろうということで…なのかは分かりませんがとりあずこの間の授業記録を簡単に。

面白かったシンポジウムの話を書き出すと止まらなくなりそうなので割愛します。

この1ヶ月半は授業数が少なかったので、週単位ではなく授業ごとにまとめておきます。

<月曜日>

3限:地域研究・比較政治論特殊演習

暦通り進んだこの授業は3回ありました。

luthi

12月第3週は、Lorenz Lüthi, The Sino-Soviet Split, 1956-1966: The Cold War in the Communist World (Princeton: Princeton University Press, 2008) の書評でした。

中国政治を専門にされている先輩が発表されたのですが、とても勉強になりました。中国や東欧のアーカイブ事情紹介、イデオロギー重視の近年の研究状況や、本書の立場を説明しつつ、その陥穽を指摘する報告はさすがです。

内容を幅広く紹介する報告だったので、本文を読まずに読んだ気になってしまいましたが、この本は冷戦史に関心があるのであれば、目を通しておくべき一冊だと感じました。ウェスタッドのGlobal Cold War は昨年邦訳(『グローバル冷戦史』名古屋大学出版会)が出ましたが、共産圏については朝鮮戦争関係を除いて近年の研究成果はあまり紹介されていない印象があります。この本の他にも、Chen Jian, Mao's China and the Cold War (Chapel Hill: University of North Carolina Press, 2001) のように海外では必読文献に挙げられるものも邦訳は出ていません(Chen Jianの本はこのブログで紹介したことがあります→リンク)。邦語では、菅英輝先生が編集された『冷戦史の再検討――変容する秩序と冷戦の終焉』(法政大学出版局、2010年)でChen Jian(陳兼)の論文を読むことが出来ますが、やはり研究書として邦訳されるべき一冊だと思います。

12月第4週は、米欧関係を専門にするゼミの後輩による報告で、テーマは「『冷戦終焉』再考」、各国の資料開示状況や米欧の最新の研究を踏まえた研究動向報告で、これまたとても勉強になりました。

Cold War History の最新号(Volume 10, Issue 4)が冷戦終結に関する書評特集を組んでいるくらいに、各国で研究が進んでいます。一次資料を用いた冷戦終結研究という点では、日本は完全に周回遅れだということを改めて気が付かされます。こういった研究動向を押さえた上で、いかに自分の研究の意義を打ち出していくべきかを考えるいい機会になりました。

議論は色々出ましたが、書き出すと長くなるのでこれも割愛します。

1月第3週は、最終回の授業ということで、報告者が二人、時間も1時間近く延長になりました。報告テーマの一つは、「冷戦史研究におけるアプローチの多様化とその課題」という大きな話でした。一つの本やテーマを詳しくというわけではなく、概説的な話だったので、初回か最後の授業にやるべきテーマとしては良かったのでしょう。

個人的に興味深かったのは、先生が「歴史は現在(いま)の視点から見ないと面白くない」と繰り返し言っていたことです。歴史をなぜ学ぶのか、ということは昔から繰り返されている問題ですが、先生の答えは「現在(いま)を理解するために歴史を学ぶ」ということなのだと思います。それは、歴史の教訓を引き出すといった類の話では全く無く、現在に繋がる歴史や現在の国際情勢を理解するために歴史を学ぶ必要があるということです。うまい言葉や表現が見つからないのですが、徹底して実用的に歴史を考えている点が印象的でした。

こう長々と書いたのは、それが冷戦史研究のあり方や個々の議論に対する先生のスタンスに繋がっているからです。「空中戦」や「細かな定義」の話を回避しようとするのはなぜかという答えはこれです。例えば、年末の授業で取り上げた「冷戦の終結」は、突き詰めていくと冷戦をいかに定義するか、すなわち何が終わったのかを定義するところに行きつきます。しかし、その定義をすることによってどれだけ「現在(いま)」の理解が変わるのか。このような視点は、何となくボンヤリとは自分でも考えていたような気がするのですが、先生の言葉によってはっきりと理解することが出来ました。

とにかく毎回、発見が多い授業です。

zhao

もう一つの報告は1980年代後半の中国共産党指導部内部における政治体制に関する検討でした。ソ連と異なる道を歩み、現在に至るまで政権を握り続けている中国共産党をいかに考えるかは、改めて言うまでも無く極めて重要な課題です。この点は先生が授業で繰り返し話していたことですが、最後の授業にしてようやくこのテーマが議論になりました。

おそらく報告者の修士論文の一部になるものだと思うので報告の中身は書きませんが、中身と共にこのテーマを研究しようとする時にどういった文献を引いているのかが興味深かったです。「この文献は引いてもいいんだ」という感覚や利用可能な資料などは、少しでも国や時代が違うと分からないものなので、率直勉強させて貰いました。

報告で引用していた文献の中で手軽に読めるものだと、『趙紫陽――極秘回想録天安門事件「大弾圧」の舞台裏!』(光文社、2010年)があり、衝動買いをしてしまいました。が、いまだ積読です。

概要しか書きませんでしたが、最初はM2の院生の修論中間報告ばかりだったこの授業も、後半は「冷戦の検討――今何が、問題になりうるのか」というテーマを正面から取り上げた回が続いたので良かったです。テーマ次第では、来年も先生の授業を履修しようと思います。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊演習(院ゼミ)

先生の出張などもあり、院ゼミは2回でした。

12月第3週は、M1の後輩による修論構想発表でした。どういった研究テーマを選んでくるのだろうかと思っていたところ、今回は帝国史と絡めたテーマでの報告でした。もう少し、先行研究を幅広く見つつ、選んだケースの周辺事情を洗い出す必要がありそうだなという印象でしたが、帝国史というアプローチを組み入れること自体はとても面白いと思うので、頑張って欲しいところです。

院ゼミ参加者に3人も戦間期のイギリス外交を専門にしている院生がいるので、どうも耳学問ばかりが進んでしまうのが問題です。もともとイギリス外交は「趣味」なので、戦間期についても自分で重要な研究を読み進めていきたいところです。

skidelsky

1月第2週は、スキデルスキー『ケインズ』の第5章「経済政策勧告者としての資質」と第6章「ケインズの遺産」を読みました。

これまでの章が難しかったのに対して、今回の二つの章は何と言うか非常に分かりやすく、あっさり読み終えてしまったという感覚です。

第5章では、第1次大戦時と比較しつつ第2次大戦時のケインズの政策提言を取り上げ、さらに戦後に連なるブレトン・ウッズ協定交渉、戦後の英米借款協定の話が取り上げられています。この辺りは、基本的に師匠の『「アメリカ」を超えたドル』や、リチャード・ガードナーのSterling-Dollar Diplomacy などで詳細に書かれていることなので、特に目新しい話はありませんでした。

第6章は、経済学説史的な話で、現実の経済情勢と共にケインズ評価が様々に変わるがケインズ自身の経済学も大恐慌という時代背景の下で構築されたものであることを忘れてはならない、といった話でした。

あっさり読み終えてしまったと書いたものの、よくよく考えてみれば、これだけコンパクトに上記二つのテーマをまとめるというのはすごい話です。邦訳が昨年出た『なにがケインズを復活させたのか?――ポスト市場原理主義の経済学』(日本経済新聞出版社)も時間を見つけて熟読したいと思います。

研究報告あり、輪読ありの贅沢な院ゼミでしたが、来年からは少し院生が増えそうなので、もしかすると輪読は無くなるかもしれません。それはそれで、ちょっと残念。

<木曜日>

5限:プロジェクト科目(政治思想研究)

1月の授業が直前に取りやめになった関係で、12月第3週の授業が最後になってしまいました。

ゲストは中山俊宏先生、演題は「アメリカにおける宗教的保守勢力の思想と行動」でした。参考文献として挙げられたのは↓の四つ。

・「米中間選挙とティーパーティ運動」東京財団HP(2010年10月30日)
・「オバマ政権を拘束する政治的亀裂」『外交』第2号(2010年)
・「変貌を遂げる福音派―政治と信仰の新たな関係」森孝一・村田晃嗣編『アメリカのグローバル戦略とイスラーム世界』(明石書店、2009年)
・「政治を保守化させたテレビ宣教師―ジェリー・ファルウェルとモラル・マジョリティ」亀井俊介・鈴木健次監修、古矢旬編『史料で読む アメリカ文化史 第5巻 アメリカ的価値観の変容 1960年代―20世紀末』(東京大学出版会、2006年)

関心があるテーマだったので、中山先生のHPを覗いて他に関連しそうな文献が無いか探したところ山のように見つかり、すごい仕事量だなと改めて感じた次第です。

政治思想の授業というよりは、「政治勢力としての宗教保守」という視角からアメリカ論といった趣でしたが、色々と考えさせられるところの多いテーマで面白かったです。やはり「政治的なるもの」ならぬ「アメリカ的なるもの」があるのだなと思いました。

懇親会での「生意気」に度が過ぎたことを1ヶ月経っても反省しています。


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2010年12月10日

ここ3週間の授業(11月第4週~12月第2週)

11月下旬からいくつか〆切があったり奨学金の面接があったりと色々バタバタしており、とうとう3週間分まとめて授業記録を書くという小学生が書く夏休みの日記状態になってしまいました。あまり時間も無いので、簡単に記録だけ付けておくことにします。

◇◇◇

まずは先々週(11月第4週)の授業について。この週は三田祭の関係で水曜日まで授業が無かったので、木曜日しか授業がありませんでした。

<木曜日>

5限:プロジェクト科目(政治思想研究)

今回はGCOEのシンポジウムで来日されていたお二人の先生によるゲスト講義。

お一人はカナダからいらしたMargaret Moore先生で、「領域(territory)」について、もう一人はスウェーデンからいらしたLudvig Beckman先生で、"Is Residence Special? Democracy in the Age of Migration and Human Mobility"と題したグローバル化時代における民主主義のあり方について、それぞれ30分程度の講演でした。

日本にいながらこうやって海外からいらした先生の話を聞くことが出来るのは貴重な機会だとは思うのですが……国際政治を研究している自分にとって、グローバル正義論やグローバル・デモクラシー論のような政治理論家の議論は、率直に言って政治理論家のための政治理論にしか聞こえてきません。

確かにEUはその在り方をどのように考えるべきか難しい点もありますが、なぜ国際社会が依然として主権国家を中心に形成されているのかといった、国際政治学が前提とするような「そもそも」の話がすっぽり抜け落ちているからです。

あるべき姿を探る意味での政治理論に徹するのであればいいのですが、安易にグローバル化といった「変化」が現実に起こっていると過度に強調するので、余計に自分に合わないのかもしれません。

◇◇◇

続いて先週(11月第5週/12月第1週)の授業について。水曜日の院ゼミは師匠が出張のため休講、プロジェクト科目はゲストの先生の都合で土曜日にありました。

<月曜日>

3限:地域研究・比較政治論特殊演習

この回は私が報告担当でした。

日米関係をテーマにしたある本の一章としてまとめることを念頭に、国際政治学会で報告したペーパーをベースに「中東紛争と石油をめぐる日米関係――第一次石油危機の再検討」と題して報告をしました。

これまで「日本外交」の視点から研究を進めてきましたが、今回は共著企画に合わせて、9月の資料収集で見た米国の資料を使いつつ「日米関係」から報告を作った点が自分としては新しい点です。ポイントは、先行研究批判の観点から議論を作るのではなく、第一次石油危機と第四次中東戦争が日米両国に突き付けた課題を素直に検討してみようということで、政治・経済・安全保障の各面をバランス良く取り上げることを心がけました。また、日本と同じように石油危機に苦しんだEC諸国の対応や、石油危機の冷戦史における意味にも触れることによって、「中東紛争と石油危機をめぐる日米関係」を多少なりともグローバルな文脈に置いて考えることも意識した点です。

先行研究のイメージとはかなり異なる日米関係像を描いたのですが、この点についてはほとんど批判も無かったので、大体の流れはこれでいけるんじゃないかという手応えです。

先生や受講者からのコメントでは、日米関係や石油&中東紛争と最初にテーマを設定することによって見えなくなってしまうことがあるのではないか、ということが特に印象に残りました。もちろん、研究の焦点は定めなければいけないわけですが、なぜこのテーマを取り上げる意味があるのか、このテーマを研究することで何が見えるのか、ということはもう少し意識的に書いていく必要があるのかもしれません。

<土曜日>

5限:プロジェクト科目(政治思想研究)

この3月まで慶應にいらして4月に就職されたばかりの先輩がゲスト講師でした。テーマは、「対テロ戦争と正戦論――自衛概念の再検討を中心に」です。詳しくは、今週の授業の記録で書きます。

◇◇◇

そしてようやく、今週(12月第2週)の授業です。

<月曜日>

3限:地域研究・比較政治論特殊演習

さて、再び(というか4度目の)修士課程の学生による修士論文の中間報告でした。

サミット開始前後の米欧関係の話で、自分の研究にも関係するので、色々と勉強になりました。研究途中の話なので、ここにはテーマだけということで。

授業でも議論になったことを一般化して言うと、研究テーマをどのような文脈に位置付けるのかを意識するか、ということでしょうか。実は、私が修士論文を書く時にはこれをものすごく意識したのですが、どうもこの問題意識はあまり多くの院生には共有されていないのかもしれません。

一次資料を使う歴史研究の場合、修士論文で扱える時期やテーマはかなり狭くなってしまいます。だからこそ、自分の研究がどのような文脈に位置付けられるかを明確に意識して、書いていく必要があると思いますし、少なくとも論文にまとめる段階では、この点を押さえる必要があるのだと思います。

しかし、70年代の国際政治史を研究する院生が多いこと多いこと……。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊演習(院ゼミ)

3週間ぶりの院ゼミ。

修士2年の後輩による修士論文中間報告でした。これまた修論の話なので、詳細は省略。

キーワードを挙げれば「世界遺産」です。専修コースで入っている後輩ですが、テーマとしても報告としても実に面白かったです。まだまだ詰めないといけない点や、意義付けについて課題はあったと思いますが、とても面白かったので、こういう話もいずれ調べてみたいなと思いました。

と思って、行政ファイル管理簿で外務省の文書について検索をかけてみると、ばっちり関係しそうなファイルがありました。研究どうこうではなく関心があるので、余裕が出来たら開示請求をかけてみようかと思います。

<木曜日>

5限:プロジェクト科目(政治思想研究)

前回の報告(「対テロ戦争と正戦論――自衛概念の再検討を中心に」)を受けての討論を担当しました。

「自衛」が一つのキーワードとして出ていたということ、さらにもう一人の討論者が政治理論の専門ということで、今回は国際法について色々と復習&勉強しつつ討論をまとめてみました。

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もっとも、これは半分くらいは後付けで、実際には山本草二『国際法(新版)』(有斐閣、1996年)と、森肇志『自衛権の基層――国連憲章に至る歴史的展 開』(東京大学出版会、2009年)の二冊がとても刺激的で面白かったから、ちょっと国際法について自分なりに考えてみようと思ったからという事情もあり ます。

討論では、国際法の意義や自衛権の類型について色々と書いたのですが、正戦論との関係で自分が主張したかったことは、「自衛権など国際法の領域で深く議論されていることを入れてしまうと、正戦論が本来持つ規範理論としての力を失ってしまうのではないか」ということです。

国際法については、ずっと少しずつ勉強をしているのですが、もう少し本格的に勉強してみたいと思いました。


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2010年11月20日

先週&今週の授業(11月第2週&11月第3週)

今日から三田祭ということで、大学はとても楽しい雰囲気に包まれています。それでも変わらず大学院棟にこもる生活を続け…と思っているのですが、ついつい昼間から酒でも飲んでゆるりという誘惑に駆られてしまいます。悪友や卒業したゼミの後輩が三田に来たらいいような悪いような、そんな気分、と考えている時点でキャンパス内の浮かれ気分が伝染っているのでしょう。

そんな感じで、あまり目の前の課題に集中出来ていないので、ブログを更新することにしました。

◇◇◇

まずは先週(11月第2週)について。

<月曜日>

3限:地域研究・比較政治論特殊演習

「冷戦史」の授業のはずが、「冷戦」に絡まない修士論文構想報告が3週目に入りました(笑)

報告は、戦間期のイギリス外交のお話で、いつものことながら勉強させて貰いました。自分の専門(戦後日本外交史)から離れて水準の高い議論を日々聞くことが出来るのは、いまの我が大学のとても恵まれているところです。

それはそれで悪くないものの、これだけ続くと、せっかく「冷戦史」と銘打った授業を履修するのだから、自分の目の前の課題から少しでも離れて、「冷戦」と いう重要な問題に自分ならばどう取り組むのかという問題意識を持ってもいいのではないかなという気持ちが段々と強くなってきました。

と思いながらも、自分の報告予定の話は少なくとも正面から「冷戦」を取り上げるわけではないので、あまり大きなことは言えないですね。多少なりとも授業の趣旨を踏まえて、議論を膨らませていきたいと思います。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊演習(院ゼミ)

院生の研究報告予定が無いということで、一ヶ月ぶりにスキデルスキー『ケインズ』を読みました。

skidelsky

前回は、ケインズの生涯と哲学的背景がテーマの章を読みましたが、今回の範囲は「第3章 貨幣改革論者」&「第4章 『一般理論』」ということで、議論の中身はものすごく経済学的な話でした。

『貨幣改革論』(1923年)から『チャーチル氏の経済的帰結』(1925年)、『貨幣論』(1930年)を経て、『雇用、利子および貨幣の一般理論』(1936年)に至る経済学的な思索が、時代背景や議論の展開と共に跡付けられているので、この二つの章はとても勉強になります。ただ、論旨もすっきりしているので話の中身そのものを理解することはそれほど大変では無いと思うものの、これはどのように政治学の観点から議論出来るかというイメージが湧かず、発表者は大変だろうなと思いながら授業に臨みました。

議論好きかつ分からない箇所は分からないと言う面々が集まっているので、授業はとても盛り上がりましたが、やはりこの辺りの話は政治学的な議論にはならないのだなと再確認しました。今回取り上げた章で描かれる経済学的な知見を基にして、ケインズがいかに政策提言を行っていくのか、交渉に臨んだのかといったことが次の機会に取り上げるであろう章のテーマなので、今回はそれに向けた基礎知識の確認といった位置付けでいいのかもしれません。

<木曜日>

5限:プロジェクト科目(政治思想研究)

今回は、M2の修士論文中間報告×2でした。何か今期は「中間報告」ばかり聞いている気がします。

自分がM2だった頃を振り返ると、そんなに偉そうなことは言えないわけですが、やはり論文として仕上げるために必要な「作法」を踏まえているかどうかは、報告を聞くとすぐに伝わってきてしまいます。それを意識して研究を進めてきたかどうかが、修論の中間報告がうまくいくかどうかの分かれ目なのかもしれません。

この授業も、ひとまずこの回でM2の報告は終わりになるようです。

◇◇◇

続いて今週(11月第3週)の授業について。今週は、院ゼミが先生の出張の為に休講になり、さらに木曜日から三田祭に向けて大学全体が休みになってしまったので、月曜しか授業がありませんでした。ちなみに、院ゼミは先生の出張が重なり、次回は12月8日です。

<月曜日>

3限:地域研究・比較政治論特殊演習

5回目にしてようやく本来のテーマ(冷戦の検討―今何が、問題になりうるのか)にふさわしい授業でした。

報告は「ソ連の冷戦敗北は必然だったのか:ソ連による改革の試みの評価」と題したもので、いわゆる「新しい冷戦史(New Cold War history)」の研究成果を咀嚼した学術的なエッセイといった趣きで、とても面白かったです。報告者は、戦間期初期のイギリス外交が専門なのですが、幅の広さと練られた問題意識にとても刺激を受けました。

取り上げられた主な本は、Archie Brown, The Rise and Fall of Communism, (London: Bodley Head, 2009); Melvyn P. Leffler, For the Soul of Mankind: The United States, the Soviet Union, and the Cold War, (New York: Hill and Wang, 2007); William Taubman, Khrushchev: The Man and His Era, (New York: W. W. Norton, 2003); Odd Arne Westad, The Global Cold War: Third World Interventions and the Making of Our Times, (Cambridge: Cambridge University Press, 2005); Vladislav M. Zubok, A Failed Empire: The Soviet Union in the Cold War from Stalin to Gorvachev, (Chapel Hill: University of North Carolina Press, 2007); 塩川伸明『冷戦終結20年――何が、どのようにして終わったのか』(勁草書房、2010年)で、自分も半分くらいは読んでいるものの、まだまだ「新しい冷戦史」を読み足りないと再確認しました。

これらの文献をうまく噛み砕いて紹介している日本語文献は無いので、もう少し幅を広げて書評論文を投稿してみたらいいのになあ…とこれは無責任なつぶやきです。

授業は議論もとても盛り上がりました。特に印象的だった点は、上記の文献を使ったことのある種の必然として浮かび上がる欧米中心的な見方に関する議論と、ゴルバチョフをどのように考えるかという議論です。「アーチー・ブラウンは世界最大のゴルバチョフ主義者」だとしても、それを超えて何を導くのかは実に難しい問題で、この問題に改革開放後の中国評価や、レーニンとスターリンの違いなどの議論が結びつくのだから面白くないわけがありません。

自分の研究に引き付けて、「戦後日本」という要因をどのように冷戦史の中に組み込めるかなあ、などと考えながら授業を終えましたが、各々がそれぞれの専門をある程度でも超えて試論的でも良いので「冷戦史」について考えられる時間が続くことを切に望みます。

…と書いたものの、次回の報告担当の自分がそれをでどこまで出来るかははなはだ心許ないです。


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2010年11月08日

この数日に読んだ本/先週&先々週の授業(10月第5週&11月第1週)

先週来引いている風邪がまだ完全に治りきっていません。最初は喉が痛いなと思っていたのですが、どうやら細菌だかウイルスがさらに奥に入ってしまったようで、軽い気管支炎のような症状です。だるいわけでも熱があるわけでもないので気にしなければいいのかもしれませんが、何となく集中が途切れがちでよくありません。

◇◇◇

やらなければいけないことは山積しているのですが、体調を直すのが先だろうということで早く布団に入る=読書時間が増えるということで、この数日の間に以下の三冊を読みました。どれも面白く本格的な書評が出来るだけの本ですが、ひとまず簡単な紹介だけしておきます。

※例のごとく、版元情報は画像にリンクしてあります。

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最初は国際政治学会の書籍販売コーナーで入手した一冊、君塚直隆『近代ヨーロッパ国際政治史』(有斐閣)です。風邪でウンウン言っている間もじっくり読み続けていました。

著者である君塚先生の狭い意味でのご専門は19世紀のイギリス外交&イギリス政治だと思うのですが、個人的にはこの本の読みどころは、むしろその前の時代である19世紀に至る部分なのではないかと思います。19世紀以降については、同じく君塚先生の手による章が含まれている細谷雄一・編『イギリスとヨーロッパ――孤立と統合の二百年』(勁草書房、2009年)、佐々木雄太、木畑洋一・編『イギリス外交史』(有斐閣、2005年)などもありますが、それ以前の時代がこれだけコンパクトかつ読みやすい形でまとめられたことは無いのではないでしょうか。

とりわけ面白く勉強になったことは、「ウェストファリア神話の解体」です。このように銘打たれているわけではありませんが、神聖ローマ帝国崩壊以前のヨーロッパ国際関係史を丁寧に描き出すことによって、ウェストファリア条約締結以降のヨーロッパ国際政治がどれだけ多層的かつ複雑なものだったかイキイキとした形で読者に伝わってきます。

君塚先生自身が翻訳されたベンノ・テシィケ『近代国家体系の形成――ウェストファリアの神話』(桜井書店)や、明石欽司『ウェストファリア条約――その実像と神話』(慶應義塾大学出版会)など、最新の研究成果を踏まえつつ、通史の中で「ウェストファリア神話の解体」を行ったことはとても重要なことだと思います(ちなみ『ウェストファリア条約』について君塚先生の書評が東京財団HPに載っています[リンク])。

私自身まだうまく消化出来ていませんが、『近代ヨーロッパ国際政治史』を読むと、「1648年のウェストファリア条約締結以降~」というお決まりのフレーズを使うのを誰もが躊躇うのではないでしょうか。

その神話性は、上記二冊の本だけでなく、90年代前半にクラズナーも指摘していたことではありますが、ウェストファリア条約締結以降の国際政治の実態が非常に読みやすい通史の形で読めるようになったことはとても重要なことだと思います。

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続いて読んだのは、伊藤之雄『京都の近代と天皇――御所をめぐる伝統と革新の都市空間1868~1952』(千倉書房、2010年)です。実は10月に読みかけたものの、目の前の研究で一杯一杯になって一旦ストップしていた一冊です。

都市史や建築史は一つのジャンルとして確立しており多数の研究があるものの、それをうまく政治史と繋ぎ合わせることはそう簡単なことではありません。私自身に都市史や建築史の知識がほとんど無いので、専門的な立場から論評を加えることは出来ませんが、この本は、政治と都市、政治と建築といったことに関心のある読者にとっては実に面白い一冊に仕上がっていると思います(ただし、読みやすさや入り込みやすさ、テーマの広がりという点では、同じ時期に刊行された御厨貴『権力の館を歩く』(毎日新聞社)の方がいいかもしれません)。

我々のイメージする古都・京都というイメージや、御所を中心に広がる京都の空間がいかにして作られていったのか、その政治利用がどのような形で行われてきたのかを丁寧に跡付けており、早くまた京都の街を歩いてみたいと思わされます。

中身には全然関係ありませんが、こういうある意味での「ご当地モノ」はやっぱりその地域で売れるものなのかが少し気になります。

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最後は、福本邦雄『表舞台 裏舞台――福本邦雄回顧録』(講談社、2007年)。この名前を見てピンと来る方は相当の日本政治好きだと思います。先日、死去の報が流れましたが、「フジ・インターナショナル・アート会長」や「旧KBS京都社長」の肩書きでは、何をやった人なのかよく分かりません。

父は福本イズムで有名な福本和夫、産経新聞記者を経て椎名悦三郎の秘書として政治に本格的に関与するようになり、その後は画商・コンサルタント業を務める傍らで財界と政界のパイプ役のような立場に収まり…といったことが語られる際に引かれる人です。この本は、伊藤隆・御厨貴両先生をインタビューにしたオーラル・ヒストリーを基にした一冊です。

刊行時にざっと読んでいましたが、改めて読み直してみると色々な発見があり面白かったです。ただし、若干玄人向けの本かもしれません。この本だけ読んでも本当の面白さはおそらく半分くらいしか分からないのではないでしょうか。安保改定、ポスト佐藤、40日抗争、創政会旗揚げ等々、様々なテーマが取り上げられていますが、その背景や一般的なイメージを知った上で読むと、この本の面白さは倍加します。

この辺りはさすが御厨先生(本書の基になったオーラル・ヒストリーのインタビュアーの一人)で、『アステイオン』で連載されていた「近代思想の対比列伝――オーラル・ヒストリーから見る」では、他のオーラル(例えば、竹下登や宮澤喜一など)を引く際の「補助線」として『表舞台 裏舞台』をうまく使っています。

ともかく、日本政治に関心がある方ならば一度は手に取って欲しい本です。

◇◇◇

ほとんど自分の備忘録と化している授業内容の記録も一応書いておきます。まずは先々週の授業(10月最終週)について。この週は修士論文の構想&中間発表ばかり聞いていた気がします。

<月曜日>

3限:地域研究・比較政治論特殊演習

前回に引き続き、M2の院生による修士論文中間報告。テーマ的に、自分の研究に重なる部分も多くとても勉強になりました。「中間報告」なので、内容紹介は割愛します。

力の入った修士論文の中間報告は聴いていても面白く勉強にもなるのですが、シラバスに書かれている授業テーマ「冷戦の検討――今何が、問題になりうるのか」を楽しみにしていただけに、「冷戦」に関係する報告がいまのところ一つも無いというのはやや残念なところです。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊演習(院ゼミ)

戦間期のイギリス外交を専攻するM1の後輩による修士論文構想報告でした。

狭い意味での研究テーマに留まらず、夏休みの勉強の成果であろうより大きな「国際秩序」を中心に据えた報告で議論もとても盛り上がりました。M1の段階でこれだけ先行研究を消化し、大きな問題意識を持っているとは驚異です。

これまで未発表の研究なので詳細は書きませんが、抽象的に言えば、大→中→小という形で問題が整理されていることで、実際に修士論文で取り扱う「小」の課題の意義が逆に見えにくくなってしまっているのではないかと感じました。

ある先生に言われたことの受け売りですが、修士論文は調査にも執筆にもかけられる時間は限られているので、どれだけ背後に広がりのある「小さな」テーマを見つけられるかがポイントだと思います。それが正しければ、「大→中→小」ではなく、「中→小→大」といった構成の方が、研究の意図や問題意識はより伝わるのではないでしょうか。

…ここまで抽象的に書くと何のことだかさっぱり分かりませんね(笑)

いずれにしても、面白い研究をしてくれそうなので、話の面白さが分かる程度には自分も戦間期研究を追いかけてみたいと思います。

<木曜日>

5限:プロジェクト科目(政治思想研究)

16世紀イギリス政治思想(ロバート・フィルマー)を研究しているM2による修士論文中間報告でした。論文提出約3ヶ月前の「中間報告」とは思えないほどに議論の完成度も高く素直に感心しました。

色々と書いておきたいこともあるのですが、「中間報告」ということで内容は割愛します。今週はこればっか(笑)

<金曜日~日曜日>

前回の記事に書いた通り、国際政治学会の2010年度研究大会@札幌に参加してきました。

自分の出番は初日最初の部会だったので、残りの時間は比較的余裕を持って他の部会&分科会に参加できました。体調が途中から優れず、頭の回転がいま一つだったという問題はありましたが、昨年・一昨年と同じように、刺激を受ける報告が多かったです。

これまた昨年・一昨年と同じなのですが、今年もまたヨーロッパ外交史を取り扱った分科会が面白かったです。資料の公開状況もあり、ヨーロッパ外交史でも日本外交史と同じく1960年代後半から70年代半ばにかけての研究が充実してきており、先行研究も踏まえた上で一次資料を渉猟した研究は安定感と面白さがありました。

自分の研究も、狭い意味で同じ領域を研究している専門家だけでなく、もう少し広い隣接分野の読み手を意識して書かなければいけないなと思った次第です。

◇◇◇

続いて先週の授業(11月第1週)。もっとも、今週は早慶戦で月曜が休講になり、水曜日が祝日(文化の日)のため木曜日だけです。

<木曜日>

5限:プロジェクト科目(政治思想研究)

前回の報告を受けての院生討論でしたが、「前回」とは先々週の木曜日のことではなく、先々週の土曜日のことです。講師に来る先生の都合次第で、この授業は土曜日に開催されることがあるのです。この日は札幌にいたため残念ながら出席出来ず、討論の回のみの参加になってしまいました。

課題文献(井上彰「平等の価値」『思想』2010年10月号)は読んでいき、それなりに話したい事や考えた事もあったのですが、どうも報告を聞いていないと乗り切れず、消化不良のまま終わってしまいました。英米系の正義論の先端を行く先生の回だっただけに、ちゃんと参加できなかったことが悔やまれます。

ちなみに討論で話題になったことは、方法論的個人主義の持つ問題、正義論を議論する際の前提、「平等」という価値の位相などで、これはこれで非常に勉強になりました。

前期はやたらと政治思想(or政治理論)づいていたのですが、どうも後期はあまり思想関係の頭を使えていないような気がします。


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2010年10月25日

黒木亮『エネルギー』/先週&先々週の授業(10月第3週&第4週)

これ以上ブログの更新が滞りがちな言い訳をしたり、「書く書く詐欺」ばかりを繰り返しても仕方が無いとあきらめモードの中、2週間ぶりに更新することにしました。

この間も、いくつか課題がありましたが、やはり一番大きいものは学会報告ペーパーの執筆です。全く新しい時代&テーマに取り組んだわけでは無く、これまでの研究をベースにしたものとは言え、まだ論文を1本公刊、1本投稿しただけの自分にとっては、大変な作業でした。

実質的な執筆期間は約1週間強(それもほぼ一日中を費やしました)であり、これまでの2本と比べるとかなり早く書けたとは思いますが、研究者として独り立ちするためには、これでも時間がかかり過ぎているのかもしれません。論文の冒頭には、忸怩たる思いで「未定稿につき無断での引用はご遠慮下さい」という一文を掲げましたが、論文として投稿するためには、資料と議論のいずれにおいても学会報告を踏まえてもう少し深めていく必要がありそうです。

当たり前のことですが、歴史研究は執筆時間以上に資料収集や読み込みに時間がかかります。倦まず弛まず続けていくしかないことは分かっているので、今後もこつこつ頑張って行こうと思います。

◇◇◇

ワーカホリック体質らしく、気分転換のはずの夜の読書も研究に引きづられがちな今日この頃。小説も自分の研究に関係するようなものをついつい手に取ってしまいがちです。でも、そんな状況で読んだ本が面白いと得をした気分になります。

最近読んだ中でのおススメが↓、黒木亮『エネルギー(上・中・下)』(講談社文庫)です。

※版元情報は画像にリンクしてあります。

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父の本棚にあった城山三郎を手に取って以来、経済小説の類は結構好きだったので、黒木亮の小説もいくつか読んでいましたが、国際金融の話は遠い世界で、勉強半分で読んでいるような感じでした。

その黒木亮が『エネルギー』という小説をWeb連載しているというのを知ったのが、ちょうど自分がエネルギー問題について関心が湧いてきた時期でした。結局、連載で読むのがあまり好きではないため、連載中はせっかく連載サイトの会員だったにも関わらずほとんど読まず、単行本が出た後も本棚のスペースがなあ、と思い読んでいませんでした。この度めでたく文庫化ということで一気に読みました。

舞台となるのは、90年代後半から2007年頃。サハリンの巨大ガス田開発プロジェクトをストーリーの軸に、イラン石油権益、石油関係のデリバティブ取引にのめり込んでいく中国企業の話が主要な物語として描かれています。

現実に起こった出来事をベースに展開される三つのストーリーはそれぞれに展開していくため、一つの大団円に繋がるわけではありません。しかし、読み進めていく内に「エネルギー」を軸に、いかに様々な利害が交錯し繋がっているのかが浮かび上がってくるのはとても見事です。

主要な登場人物は、サハリン・プロジェクトに携わる商社マン、イランでの石油開発にかける商社マン、エネ庁石油・天然ガス課長、環境NGOのスタッフ、エネルギー関係の金融取引を手掛けるトレーダー、そしてデリバティブ取引にのめり込んでいく中国企業の社長の6名です。それぞれを丁寧に描きながら、「エネルギー」を巡る現代の物語は展開していきます。

読んでいて思い出したのは、ダニエル・ヤーギン『石油の世紀(上・下)』(日本放送出版協会、1991年)[原題:The Prize: The Epic Quest for Oil, Money, and Power]です。『石油の世紀』は、19世紀半ばの「発見」から約150年に渡って石油資本、産油国、消費国、国際機関等々で繰り広げられる様々な出来事を描く一大叙事詩です。「石油」こそが主人公として展開される物語は学術書としてだけではなく、読み物としてもとても面白いです。

この『エネルギー』は、『石油の世紀』では描かれることのない、現代の「エネルギー」を巡るドラマです。話の軸となるエネルギーは石油・天然ガスですが、原発が稼働停止になることによって天然ガス需要が急増するといった形での影響や、アメリカのITバブル崩壊に伴い年金基金のマネーが商品市場にも流入するといった、エネルギー市場の有機的な繋がりがとてもよく描かれています。また、環境NGOの動きと融資の関係、広い国際情勢とビジネスの関係なども印象的です。

小説ではありますが、石油や天然ガス、原子力といった「エネルギー」について考える際に是非手に取って欲しい一冊です。もちろん、小説としても面白いことは言うまでもありません。

ちなみに、現実に即した概説書としては↓、松井賢一『エネルギー問題!』(NTT出版、2010年)がおススメです。

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◇◇◇

まずは先々週(10月第3週)の授業について。木曜日の授業前に急遽やらければいけない課題が出来てしまい欠席したので、『クローチェ』について考える貴重な機会を逸してしまったのが残念なところです。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊演習(院ゼミ)

発表担当ということで、月末の学会報告へ向けた予行演習…のはずだったのですが、ペーパーを執筆途中ということで、中間報告的な発表になってしまいました。時間配分や強調すべき点など、色々な点でまだまだ練り直さなければいけないことがよく分かったのはとても大きな収穫でした。

この発表から約1週間後にペーパーは完成、いまは報告に向けて原稿を作り直しているところです。

◇◇◇

続いて先週(10月第4週)の授業について。と言っても、木曜日のプロジェクト科目が休講だったので、大学での授業そのものは月曜日だけでした。

<月曜日>

3限:地域研究・比較政治論特殊演習

M2の修士論文中間報告。未発表の研究なので詳細は書けませんが、1970年代後半から80年代前半を対象に、丹念に一次資料を読み込んだ研究で、今後の期待大です。自分が研究を始めた頃は、70年代前半から半ばがもう歴史研究の対象なのだと驚かれましたが、歴史研究の最前線はもっと先に行っているのだなと実感しました。

興味深かったのは、先生のコメントです。少し前の話なのでしっかりと記憶していないのですが、丹念に資料を読み込む歴史研究をわざわざやるのだから、あらかじめ議論を設定し過ぎてしまうと、様々な可能性が消えてしまう、というのが大体の要旨だと思います(実際はもう少し含蓄のある言い方だったと思います)。このように書くと当たり前ではないかと思われるかもしれませんが、重要だと思う要因を過度に「はじめに」などで強調してしまうことはありがちなことです。

もう一つは、分析対象そのものに着目するだけではなく、その対象が置かれた文脈をもう少し考える必要があるということです。これもごくごく当たり前のことではありますが、資料を読み込み、研究に集中すればするほど、話が細かくなり、なぜ自分がこのテーマに注目したのかといったことをついつい忘れてしまいがちになります。

自分を戒める意味でもとても勉強になりました。

<水曜日>

ジョセフ・ナイ尽くしの一日。大学が、ハーバード大学ケネディ・スクール特別功労教授であり米政府要職を歴任したジョセフ・ナイに名誉博士号を授与したからです。

師匠がアテンド役の一人だったこともあり、役得で演説館での名誉博士号授与式に参列し、その後は北館ホールでの記念講演に出席しました。講演内容の簡単なまとめは、翌日の日経朝刊に出ていましたので関心がある方はそちらをチェックして下さい。

これだけでは終わらず、その後は某雑誌に掲載予定の座談会収録を聴講させて頂きました。師匠に感謝。おそらく半年くらい後には公刊されることになると思いますので、内容はそれまでお楽しみということで。

結構、印象深い一日だったので、中身をあまりここに書けないのが残念です。

<金曜日>

5限(16時~18時):国際関係論コロキアム@東大駒場キャンパス

ナイ名誉博士号授与式の関係で休講になった院ゼミの代わりに、東大(駒場)で国際関係論コロキアムがありました。ゲストは、お馴染みのDavid A. Welchウォータールー大学教授です。

これまでウェルチ先生が来日した時は、完成した本が課題文献に指定されてきましたが、今回は未定稿が課題文献でした。というわけで内容を書くのは適切では無いと思うのですが、コロキアムの案内に題目が出ていたのでそれを転載しておきます↓

“Securitization, or Threat Perception? :Competing Visions of Security and Security Threats”

題名から分かるように、ペーパーの一つのポイントはSecuritization(「証券化」じゃない方です)について。それほど多くの文献を読んだわけではありませんが、これまで読んだどの文献よりもSecuritizationの利点と欠点をとてもうまく指摘いると思いました。

ただし議論の中心になったのはその部分では無く、ペーパーの後半で書かれていたSecurityの定義を巡る問題です。この辺りは、研究のアイディアに関係してきてしまいそうなので割愛しようと思いますが、環境安全保障はどうやら先生にとっては重要なテーマだということで、ここが自分はうまく消化出来ませんでした。

自分の研究にも実は関係していると理解しつつも、「環境」は避けがちなテーマだっただけに、これをきっかけに少し真面目に調べてみようと思いました。


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2010年10月11日

後期の授業が始まりました

ブログの題名の通り、豪快な大外一気(競馬)が好きなので、今シーズン終盤からのライオンズの体たらくに意気消沈しています。シーズンもまさかの大逆転劇に遇い、CSでは二戦続けて9回に追いつかれて延長負けをするとは…来シーズンこそは頑張って欲しい!

◇◇◇

最近、気になる本の紹介などもっぱらツイッターでやっていますが、ブログに書いた話と関連する本が出たので、こちらでも一冊だけ紹介しておきます。

※版元情報は画像のリンク先にあります

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学部生時代から何かとお世話になっている君塚先生の新著『肖像画で読み解く イギリス王室の物語』(光文社新書)が発売されました。刊行前から情報は知っていたのですが、発売日が史料調査でアメリカに行っている間であり、かつ大学生協に行っても光文社新書のコーナーをチェックしていなかったので、手に入れるのが遅くなってしまいました。

史料調査の間は何冊か小説を読めましたが、夏の途中から課題に追われて、就寝前の読書まで研究に関係するものになっていたところだったので、この本が出たのは本当に嬉しい限りです。たくさんの肖像画がカラーで載っていて、紙質も良いので、じっくり読むだけでなく、パラパラと眺めているだけでも楽しめると思いますが、やはりこの本は文章をじっくり読み、英国史(と英王室)に思いを馳せながら読むのがおススメです。

昨晩読み始めたので、まだ途中までしか読んでいない上、内容を論評するような知識が無いので説得力に欠けるかもしれませんが、絵画が好きな人や、イギリスが好きな人だけでなく、政治・外交に関心がある人にとっても面白い一冊になっていると思います。

ブログで書いたことに関係する話というのは、「肖像画」ということです。この本で取り上げられている肖像画はイギリスの国立肖像画美術館に所蔵されているものです。「国立肖像画美術館」があるのは、イギリスだけではありません。アメリカにも「国立肖像画美術館」があるのです。スミソニアン博物館の一つで、歴代大統領をはじめとして様々な肖像画が所蔵されています。「アメリカの肖像画美術館なんて…」とイギリス好きの方は言われるのかもしれませんが、ワシントンDCに2週間いながら行かなかったのは、やはり残念だったなと後悔しているところです。

ちなみに日本については、肖像「画」ではないですが、国会図書館の電子展示「近代日本人の肖像」(リンク)を眺めてみると面白いのでおススメです。

◇◇◇

近況を簡単に。前回の記事に「10月もまた忙しい毎日が続くことになりそうです」と書きましたが、本当に毎日やることに追われています。

結果として、いくつか溜まったまま処理出来ていない仕事が…ブログを更新している暇があるならやれ! と言われてしまいそうなので、メリハリを付けて迷惑をかけないように進めます。

この夏最後の課題として以前に挙げた「某学会での発表のための報告ペーパー執筆」です。外交史研究で最も時間がかかる資料を読み込む作業そのものは終わっ ており、いま取り組んでいるのは文章を書く作業なのですが、これまでに色々な形で発表してきたものをまとめたような報告なので、むしろ内容を詰め込み過ぎ ないようにしつつもいかに充実した形でまとめるかがいまの課題で、これがなかなか大変です。同じく大学院棟で研究をしている先輩や仲間にまとめ方のアイ ディアを聞いて貰いながら、何となく形にはなりかけたかな、といったのが現状でしょうか。水曜日の院ゼミで報告するので、そこでの反応次第で、あと一週間 ほど頑張ろうと思います。

それでは、他の課題は終わったかというと、色々な経緯もあり残ってしまったものが一つあり、それをこなすのが報告ペーパーを書きあげた後の課題です。この 自転車操業状態が年末まで続くことになりそうで、やや気が滅入りそうですが、うまく気分転換をしつつ取り組まないといけないですね。

◇◇◇

ここまで書いて、ようやくエントリーの題名である大学院の授業開始に辿りつきました。先週から大学院の授業が始まりました。授業自体は、先々週から始まっていたのですが、第一週はほぼガイダンスということで史料調査を優先することにしたので、自分は先週からの参加です。

今期出席する授業は以下の三つですが、輪読モノは無く、報告が主体なので、前期のような形で授業記録はつけないかもしれません。課題が少ない分だけ前期よりも時間が確保出来るので、研究成果の発信という年初に立てた課題に着実に取り組みたいと考えています。

<月曜日>

3限:地域研究・比較政治論特殊演習

授業名は「地域研究・比較政治論」ですが、実際には国際政治系の授業で、シラバスに載っているテーマは「冷戦の検討―今何が、問題になりうるのか」です。学部4年生の時にこの先生の授業を履修してとても楽しかったので(テーマは冷戦では無く戦前の東アジア国際政治史でしたが)、大学院の授業ではどんな感じになるのか、前期から楽しみにしていました。

ただ実際には、先週の授業の雰囲気や履修者から聞いたガイダンスの感じでは、それほどテーマを限定しない院生の研究報告、かつ修士の学生が多いようなので、報告者次第で授業の面白さが左右されることになりそうです。

第一回の研究報告である先週は、国際政治理論の研究動向紹介だったので、正直「あれっ?」という感じは否めませんでした。今週は祝日で授業が無いので次回は来週ですが、次回は本格的に資料を読みこんで研究をしている後輩の研究報告なので楽しみです。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊演習(院ゼミ)

前期のこの時間は師匠の特殊研究でしたが、今期はいわゆる「院ゼミ」です。「院ゼミ」ということでメインは院生の研究報告です。

所属している大学院生が博士課程2名、修士課程3名、オブザーバーの他ゼミ所属の博士課程2名と、それほど出席者が多くはないので、報告が無い日はケインズ及びケインズ関係の本を読むことになりました。

skidelsky

今回の授業では昨年岩波クラシックスから再刊されたスキデルスキーの『ケインズ』序章(「その人間像・経済学者像」)、第1章(「その生涯」)、第2章(「ケインズの行為の哲学」)が課題文献でした。周知のようにスキデルスキーは浩瀚なケインズ伝の著者であり、そちらを読んでもよかったのかもしれませんが、ケインズそのものを読んで行きたいというのが先生の意図のようです。

授業で議論の中心になったのは、やはり第2章で、特にケインズにおける「不確実性」の話が盛り上がりました。この辺りは、竹森先生が一連の著作で書かれていますし、ちょうど先日読んでいたニーアル・ファーガソン『マネーの進化史』(早川書房、2009年)の末尾でもフランク・ナイトの紹介と共に出てきた話なので、ホットな話なのかもしれません。

疑問や分からなかった部分をまとめると長くなりそうなので、その辺りは割愛。次回の授業は私が報告予定です。

<木曜日>

木曜2限には、前期にもぐらせて頂いた政治思想論特殊研究があるのですが、今期は月曜日に授業が一つ増え、さらに学会報告や提出しなければいけない原稿がいくつかあることから、出席は取りやめることにしました。毎週、現代政治理論について考える貴重な機会だったのでどうしようか迷ったのですが、やはり今は博士論文に向けて傾注すべき時期だと考えてやめました。先生がどのような形で来期の授業を考えているのかは分かりませんが、もし余裕があれば来期また出席したいと思います。

5限:プロジェクト科目II(政治思想研究)

専門外にも関わらずずっと出席し続けている授業です。今期もいつもと同じく、学外からのゲスト・スピーカーの講演&質疑応答、翌週に院生の討論を基に議論(欠席裁判)というのが授業の基本的な流れで、あとは空いた日に修士論文の中間報告がいくつか入ることになるようです。

先週のガイダンスに行っておらず、10月に討論担当があったら厳しいなと思っていたところ、後輩が機転をきかして12月にしてくれていたので、ひと安心しました。

先週は早速ゲスト・スピーカーの先生がいらっしゃいました。課題文献は↓『クローチェ 1866-1952――全体を視る知とファシズム批判』(藤原書店、2010年)、ゲストは著者の先生です。

kurashina

報告は、基礎的なイタリア史の説明を踏まえつつ、本の内容をかいつまんで説明したといった感じでしょうか。内容については、質疑応答の時間がいつもと比べて短かったこともありやや消化不良気味の上、他の課題に追われて本を熟読出来ていないので、今週の討論を踏まえて書くことにします。

◇◇◇

原稿執筆で文章を削るストレスが溜まっているからか、ついつい書き始めると止まらなくなります。まずは目の前の課題を着実にこなしていかなければ!

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2010年07月16日

前期終了

一昨日で、前期の授業が全て終わりました。

博士課程も二年目に入ると、生活に占める授業の比重はかなり下がり、それ以外の仕事のようなものに割く時間がかなり増えてきました。とはいえ、授業から吸収出来ることはとても多いので、後期も前期同様に授業の時間を大事にしていこうと思います。

夏季休暇中にやらなければいけないことが今年は尋常では無いくらいたくさんあるので、毎日を大切に過ごしていく必要がありそうです。



授業の話ばかり書いていても面白くないので、そろそろ最近読んだ面白い本の話を書きたくなってきました。といっても、今日やらなければならないことが溜まっているので、予告として、取り上げておきたい本を挙げておきます↓(順不同:例によって画像に版元HPをリンクしてあります)。

tyamamotooshimura2shiokawa2taniguchikounotobemoriyatakenaka



3週間分も授業が溜まってしまったので、授業ごとに簡単にまとめておきます。

<水曜日>


2限:国際政治論特殊研究

Welch2

テキストは、David A. Welch, Justice and the Genesis of War, (Cambridge: Cambridge University Press, 1993)のChapter 7: Justice and Injustice in a Global ContextとConclusionを、6月第5週(=7月第1週)と7月第3週の二回に分けてやりました。

二回かけてじっくり議論したので、かなり本に対する理解が深まりました。大まかに言えば、まずケース・スタディのまとめがなされ、その上で英国学派の「国際社会」理解を下敷きにして、そこでjusticeはどのように働くのかが論じられ、その上で、ロールズ、ベイツ、ウォルツァーの議論の検討、というのがテキストの流れです。

著者の議論は例のごとく非常に穏健な線でまとめられているものの、本書の中身の部分の議論が「戦争の原因におけるjustice motiveの役割」を論じているのに対して、最終章でいきなり「国際秩序の形成・維持における正義の役割」を議論するのには、やや飛躍がある印象を持ちました。

授業では色々な議論が出ましたが、著者の「適切なレジームの発展を通じて、国際正義の概念のパッチワークを構築し、それを拡大・修正・維持することが重要である」という主張に関する議論が面白かったです。そもそも、最終章で突然レジーム概念が出てくることへの違和感、合意されればそれは正統なのかという根源的な疑問、レジーム形成における大国・小国関係、強制と合意に線引きは可能なのかという疑問、などが主な議論で、これらはいずれも国際政治学における重要な課題です。

議論も弾み、知的にも色々な刺激を受けた面白い授業でした。

本書全体に関する書評は余裕があれば書くことにします。

ちなみに、間に挟まれた7月第2週は、NATO事務局長補(政務・安全保障政策担当)であるDirk Brengelmann大使の講演会への出席が授業になりました。演題は”NATO: An Alliance for the 21st Century”ということで、それなりに興味深いものでしたが、冷戦期のNATOや現在の東アジアの国際情勢に関心があるものとして、本当にいまNATOが必要なのか疑問を覚えてしまいました。平和維持・平和構築活動や、サイバー・セキュリティ、エネルギー安全保障といった課題がいまNATOにはあると言われても、どうもピンと来ない気がします。この辺りの話も、30年くらい経てば自分の関心に入ってくるのでしょうか。質疑応答が1時間近くあり、NATOの存在意義やフランスが軍事機構に復帰したことの意味(やりにくいのではという意地悪な質問)等々、面白い質問が相次いだので、このやり取りはとても有意義でした。

<木曜日>

2限:政治思想論特殊研究

Heywood

テキストは、Andrew Heywood, Political Theory: An Introduction, 3rd Edition, (Palgrave Macmillan, 2004), Chapter 5: Power, Authority and LegitimacyのPower(pp.122-129)。実は先週、Authorityの部分が範囲だったのですが、所用があり出席出来ませんでした。

テキストは、基本的にルークスの権力論を土台にしたもので、これといって特徴的な部分はありませんでした。議論で面白かったのは、日本語の権力と英語のpowerの違い、ダールやガルトゥングの権力(暴力)論、あとは権力の行使を判断する主体の問題です。

これは授業でも提起したことなのですが、教科書的には政治学はpowerを取り扱う学問だと説明されるものの、ある時期以降の権力論の展開を考えると、それは政治学ではなく社会学の課題になっているのではないでしょうか。この辺りをどう考えるかは多分とても重要な問題なのですが、なかなかそこまで手が回りません。

この授業は、復習になる部分も多いですし、自分に欠けている政治理論や思想の素養を深めるためにはとてもいいのですが、後期は出るかどうかを迷っています。というのも、後期はやらなければいけないことが前期以上に多い上に、履修している授業が1つか2つ増えるので、時間的にかなり厳しいからです。いまのところは、履修していないし出るのはやめてしまおうかなと考えています。

5限:プロジェクト科目I(政治思想研究)

プロジェクト科目は先々週に1回あって、これが最終回でした。

内容は前週の講義(「ポストリベラル/ナショナルな政治共同体の模索―D・ミラー、J・ハーバーマス、A・ネグリの議論から―」)を受けての討論です。

授業で中心的に議論されたのは、何が「ポスト」なのかという前週の講義の基本的な前提と、「福祉」や「政治共同体」を取り上げることの難しさです。後者について言い換えると、思想が論じ得る「領分」のようなものが問題になったと言えるかもしれません。

熟議民主主義論と他の何か(ベーシック・インカムや福祉)を結び付ける議論には無理があるのではないかという漠然とした違和感を皆が持っている気がしました。

「思想の領分」の話については、上でも挙げた押村高先生の新著『国際政治思想』(勁草書房)を読んで考えたこともあるので、これはまた機会があれば書きたいと思います。



他にも、大学院の先輩&後輩と、Melvyn P. Leffler and Odd Arne Westad (eds.), The Cambridge History of the Cold War, Volume I: Origins, (Cambridge: Cambridge University Press, 2010) の読書会をやるなど、書いておくことが色々とあるのですが、ひとまずはここまで。

参議院選挙の話は、竹中先生の『参議院とは何か』(中公叢書)を紹介する時に合わせて書くことにします。


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2010年07月01日

先週&先々週の授業(6月第3週&第4週)

色々とやるべきことが多く、W杯もあり、またまた久しぶりの更新になってしまいました。やらなければならないことは目白押しなのですが、中途半端に時間が空いたので、ひとまず授業についてまとめておきます。



まずは先々週の授業から。プロジェクト科目は休講でした。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊研究

Welch2

テキストは、David A. Welch, Justice and the Genesis of War, (Cambridge: Cambridge University Press, 1993)の第5章(World War II)。

学部レベルの教科書(例えばナイの『国際紛争』など)では、第一次大戦と第二次大戦はしばしば異なる性格の戦争として論じられます。それは簡単に言ってしまえば、第一次大戦がシステム要因から説明され得るのに対して、第二次大戦は「悪役」として枢軸国の存在、つまり国家要因から説明されます。もちろんこうした見解は、多くの研究によって否定されており、それほど単純なものではありません。しかし、この二つの戦争がよく対比されてきたことは事実です。

それでは第二次大戦の開戦にjustice motiveはどのように効いたのでしょうか。著者の評価は、紛争の条件付け(=中間要因)としてはmoderate(7段階評価で上から4番目[下からも4番目])、各国の参戦要因(=直接要因)としては、ドイツ・ポーランドはimperceptible(1番下[全く効いていない])、フランスはvery weak(下から2番目)、イギリスはstrong(上から3番目)というもので、クリミア戦争を除くこれまでの章と比べると、あまりjustice motiveが効いていないという結論です。

とはいえ、ドイツにおけるヒトラー台頭の背景にあるドイツ国内の認識にjustice motiveは効いていたし、イギリスの参戦にはそれなりの役割を果たしたという点は、面白い点です。

授業では、中間要因や個々の国の評価についてそれぞれ議論がありましたが、個人的に興味深かったのはヒトラーの評価に関する部分です。著者は、「ヒトラー要因」を検討する際に、ヒトラー個人の思想、ヒトラー台頭の要因を分けて論じています。そして、個人の思想の部分でも、一見するとヒトラーがヴェルサイユ講和の「不正義」を問題にしているような箇所が、実際にはそれは政権獲得のための手段に過ぎなかったということを鋭く指摘しています。この辺りはかなり慎重に記述されており、いかに著者がjustice motiveを限定的な意味で捉えようとしているかが伝わって来ます。

やや記憶が薄れているので、この授業についてはここまで。

<木曜日>

2限:政治思想論特殊研究

Heywood

テキストは、Andrew Heywood, Political Theory: An Introduction, 3rd Edition, (Palgrave Macmillan, 2004), Chapter 4: Sovereignty, the Nation and Supranationalismのthe Nation(pp.97-109)。今回は発表担当でした。

基本的にはナショナリズムの話で、①文化的/政治的ネイション、②ナショナリズムと世界市民主義、③国民国家とグローバル化、が各節のテーマです。このテーマを一瞥して分かるように、明らかに第三節だけ浮いています。なぜ「国家」の変容をわざわざネイションを取り上げた部分でする必要があるのか、むしろステイトを取り上げた際に一緒に扱うべきではなかったのでしょうか。

この辺りと、ナショナリズム論の説明方法が授業では議論になりました。この回はあまり盛り上がらなかったので、ここまで。



続いて先週の授業です。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊研究

Welch2

テキストは、David A. Welch, Justice and the Genesis of War, (Cambridge: Cambridge University Press, 1993)の第6章(The Falklands/Malvinas War)。ケース・スタディは今回が最後になります。

フォークランド戦争については、昨年授業で読んだPainful Choicesでも取り上げられていたり、また公刊戦史の著者であるローレンス・フリードマンの講演を某研究会で聞く機会があったりと、勉強する機会がこの1年で何回かありました。

この戦争でjustice motiveがどれだけ効いたのか。著者の評価は、紛争の条件付け(=中間要因)としてはconclusive(7段階評価で1番上)、各国の参戦要因(=直接要因)としては、アルゼンチン、イギリス共にvery strong(上から2番目)というもので、こでまでのどのケースよりもjustice motiveが効いているというのが結論です。

授業は、議論というよりはフォークランド戦争そのものに関する解説的な話が中心でした。

6限:リサーチ・セミナー

第3回目となる今回は、私が発表でした。先日、某研究会で発表させて頂いたのですが、そこでの批判を踏まえて若干修正したものを報告しました。

取り上げたテーマは、この3月に刊行された1本目の論文(「国際エネルギー機関の設立と日本外交」)とと同じような話ですが、未投稿の論文なので詳細はここには書きません。

投稿論文の字数制限(2万字)と取り上げる時期の長さ(約7年)の二つをどのようにバランスさせるかを苦労し、色々と概念整理を試み続けているのですが、セミナーでも概念整理をした部分について議論が集中しました。付け焼刃的に理論を持ってきたりすると痛い目に会うなということを、リサーチ・セミナーと研究会報告で痛感しました。ただ、逆に全体の4分の3ほどを占めている、内容部分にはあまり注文が付かなかったので、苦労してまとめた甲斐はあったかなと思います。

ちなみに現在は、リサーチ・セミナーの議論を踏まえて、より「中身」の説明を中心とした形で、「はじめに」と概念整理をした部分を改稿する作業を進めています。

<木曜日>

2限:政治思想論特殊研究

Heywood

Andrew Heywood, Political Theory: An Introduction, 3rd Edition, (Palgrave Macmillan, 2004), Chapter 4: Sovereignty, the Nation and SupranationalismのSupranationalism(pp.109-119)がテキストでした。

テキストをチェックする前に分担を決めてしまったので後の祭りではありますが、どうやらこの章が自分の専門に一番近かったようです。

「超国家主義」では、どうも丸山眞男の論文が頭に浮かんでしまうので、スプラナショナリズムと書きますが、この概念は基本的に主権を国家より上位にある主体に委譲する考え方として理解していいのでしょう。

今回は、①政府間主義、②連邦主義と連邦、③世界政府の可能性、という三つの節に分かれています。国際関係論などに親しみがある人は政府間主義をスプラナショナリズムの一形態として議論していることに違和感を覚えると思いますが、著者はスプラナショナリズムの最も弱い形式として政府間主義を位置付け、ここで同盟や国際機関について説明します。残りは何があるのかというと、連邦化しつつあるものとしてEUが取り上げられ、最後の世界政府の話は一種の理想論として説明されています。

イギリス人としては珍しくEUについて熱心に説明しているのが印象的でした。

この授業は、訳語や概念の説明の仕方についてまず議論し、その後で派生的に中身を議論するという形式で進められており、前半が自分にとってのメインなのですが、今回は後半部分で出たハーバーマスのカント理解に関する議論が勉強になりました。

<土曜日>

5限:プロジェクト科目I(政治思想研究)

ゲストは山崎望先生、テーマは「ポストリベラル/ナショナルな政治共同体の模索―D・ミラー、J・ハーバーマス、A・ネグリの議論から―」でした。

5月にあった政治思想学会での報告(「ポストリベラル/ナショナルな福祉とシティズンシップの模索―D・ミラー、J・ハーバーマス、A・ネグリの議論から―」)をベースにした発表ということですが、実質的には、最近山崎先生が紀要に連載されている「世界秩序の構造変動と来るべき民主主義」の中身を展開したものといったところでしょうか。というわけで、詳しい中身は紀要の論文を見て頂ければ分かると思います。

質疑応答で議論の中心となったのは、なぜミラー、ハーバーマス、ネグリの3人なのかということと、いかなる意味において「ポスト」なのかという二つの点でしたが、印象に残ったのは、ある先生がおっしゃった「議論の中心はデモクラシー論として理解できる気がするが…」というコメントです。上記の論文にしても「来る民主主義」という言葉があるように、ご関心はデモクラシー論であるわけで、それを「福祉」や「政治共同体」に繋げる必要は無いのではないかと、このコメントを聞いて感じました。

この話にこだわるのは、「思想」の話を様々な分野に拡張する議論に違和感を持っているからです。もし「福祉」のような具体的な政策領域を論じるのであれば、数量的なデータや、現実の政治動向を押さえておく必要があるわけです。具体的な政策に近い話を論じる場合には、何がどのように「変化」したのかを明らかにしなければ、話自体が浮いてしまいます。もちろんデモクラシー論も現実的でなければいけないとは思うものの、それは思想的ないしは観念的に考察し得る規範理論の領域に属するものであり、そこでは思想的な認識を戦わせればそれなりに議論は成立する点で、「福祉」などの現実的な政策領域とは異なるのだと思います。

そんなことを考えている内に、最近流行っている「国際政治思想」的なものに自分が持つ違和感の正体が分かってきたのですが、この話はまた改めて書くことにします。


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2010年06月17日

先週&先々週の授業(6月第1週&第2週)

前回のエントリーから大分時間が空いてしまいました。

この間、首相の交代からW杯の開幕まで色々な出来事がありました。また色々と面白い研究を読んだり、新たに本を買ったり、久しぶりにある研究会で発表させて頂いたりと、ここに書いておきたいことも溜まっているのですが、まずは授業の話を処理しておくことにします(こんな個人的な授業記録でもそれなりに読む人がいるのだから不思議なものです)。



既に今週の授業も終わっていますが、ひとまず先々週と先週の授業についてまとめておきます。まずは先々週の授業から。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊研究

Welch2

今回は、David A. Welch, Justice and the Genesis of War, (Cambridge: Cambridge University Press, 1993)の第4章(World War I)がテキストでした。

第一次大戦開戦にjustice motiveはどのように効いたのか。著者の評価は、紛争の条件付け(=中間要因)としてはvery Strong(7段階評価で上から2番目)、各国の参戦要因(=直接要因)としてはオーストリア=ハンガリー、セルビア、フランスはvery weak(下から2番目)、ロシアとドイツはmoderate(上から4番目[下からも4番目])、そしてイギリスはvery strongというものです。

比較的丁寧にテキストを検討したので、どちらかというと個々の細かな部分に議論が集中しました。また先生が戦争の背景を比較的詳しく解説したこともあって、疑問を持った点が全て議論になったわけではありませんが、本全体の理解に繋がるコメントがいくつか出てきた点が印象に残りました。

重要なのは紛争の条件付け(=中間要因)をめぐる評価で、ここにアルザス=ロレーヌ問題を持ってくるのが果たして適切なのかという点が議論になりました。紛争の種になり得るものは様々あるわけで、その中でどれに着目して議論を展開するのかが恣意的ではないかというのが、ここでのポイントだったのと思いますが、何分2週間前のことでメモを残していなかったので詳細を失念してしまいました。

あとはこの時期に関する最新の研究を追いかけている後輩の露仏関係に関する問題提起が興味深かったです。

<木曜日>

2限:政治思想論特殊研究

Heywood

テキストは、Andrew Heywood, Political Theory: An Introduction, 3rd Edition, (Palgrave Macmillan, 2004), Chapter 3: Politics, Government and the Stateの「the State」の部分でした。

読み進めていくうちにテキストとしての欠陥が段々と明らかになってきたな、というのがこの数週間の参加者間での合意です。もっとも先生の意図は、それなりに定評ある教科書を検討しつつ、自分ならばどのように記述するか(≒教えるか)を検討することにあるようなので、それはそれでいいのかもしれません。

例のごとくこの節も三つの部分に分けられており、今回の部分は①政府と国家、②国家の諸理論、③国家の役割の三つです。これまでの章以上に、なぜこの部分でこの話が出てくるのか分からないと困惑させられたというのが率直な印象で、特に②の部分で、多元主義理論が「国家」の諸理論の一つとして紹介されたのには困惑してしまいました。

授業中の議論で興味深かったのは、ウェーバーの国家論の話です。どういった文脈で出てきたのかを正確に覚えていませんが、ポイントはウェーバーが「役割」から国家を論じているのではないということです。周知の通りウェーバーの国家の定義は「ある一定の領域内部で、正当な物理的暴力行使の独占を要求する共同体」というものです。こういった学部1年生で習う話はテキストとしては覚えているものの、そのコンテクストを忘れがちなので、これを改めて確認したのは良かったです(こんなレベルの話をしていてはまずいですね)。

正直、今回の部分はこれまで読んだ中でも一番出来が悪かったのではないかと思います。ひとまず今回はここまで。

<金曜日>

5限:リサーチ・セミナー

前回書くのを忘れましたが、4月から師匠主催のリサーチ・セミナーが始まりました。院ゼミが前期は開講されないので、それを補う意味もあって始まったものなのですが、参加者は院ゼミのメンバーだけではなく学部ゼミ出身で他大学の大学院に行かれた方や、昨年大学院に研究生としていらしていた社会人の方も参加する開かれた形で運営しています。参加者に求められるのは「知的貢献」のみ、適度な人数(10人前後)で自由闊達な議論が行われる心地いいセミナーです。

第1回は大西洋関係を研究する院ゼミの後輩の発表で、第2回の今回は他ゼミ所属の後輩が修士論文&博士課程での研究計画報告をしました。研究の詳細を書くのは控えますが、日本での研究が停滞しがちな1920年代のヨーロッパ国際政治史に関するもので、非常に知的刺激を受けました。

なぜか――本当になぜかという感じですが――今年新たに院ゼミに入ってきた二人の後輩の専門も戦間期ヨーロッパということもあって、議論のレベルがとても高かったのが印象的です。専門外ゆえに、先行研究動向はほとんど知りませんが、ザラ・スタイナーやサリー・マークス、エリック・ゴールドシュタインらの最新の研究を踏まえて展開される時代区分を巡る議論や問題意識の設定は非常に面白かったです。

どの時代を研究するにしても、どのような時代区分を取るかが実はとても大事な問題です。私のように歴史研究としてはかなり新しい時代を扱っている場合とは違い、戦間期ヨーロッパを考える場合は、既に主要な論点はある程度出尽くしているわけで、そうした研究を踏まえていかにオリジナリティのある視点を提示するかで勝負する後輩達の存在はとても刺激になります。

次回のリサーチ・セミナーでは私が発表させていただく予定です。

<土曜日>

5限:プロジェクト科目I(政治思想研究)

今回はゲストの先生の都合で土曜日に授業がありました。前回のゲストがあまりにひどかった反動というわけではなく、純粋にとても知的に刺激される面白い授業でした。

テーマは、「政治過程における情念の作用について」、課題文献に指定されていた①齋藤純一「感情と規範的期待――もう一つの公私区分の脱構築」井上達夫編『岩波講座哲学10 社会/公共性の哲学』(岩波書店、2009年)と②齋藤純一「政治的空間における理由と情念」『思想』(第1033号、2010年5月)の二つ、それから近々出版予定という③齋藤純一「公共的空間における政治的意思形成――代表とレトリック」齋藤純一編『公共性の政治理論』(ナカニシヤ出版、近刊)の内容をまとめたものということでした。

細かな議論は上記の参考文献の通りだと思うので割愛します。討議[熟議]民主主義にはあまり親近感が湧かない自分にとっても面白かったので、討議民主主義に関心がある人であれば必読なのではないでしょうか。

個人的に興味深かったのは、齋藤先生の提示する情念の捉え方です。それは「情念を、理性との関係において、非理性的なものとしてとらえるのではなく、規範との関係において、損なわれた/充たされざる規範的期待を明示的/暗黙裡に表すものとしてとらえ返す」というものです。

Welch2

これを読んですぐに思い浮かんだのが、師匠の授業で読んでいるDavid A. Welch, Justice and the Genesis of War, (Cambridge: Cambridge University Press, 1993)におけるJusticeの定義です。ウェルチのJusticeの定義は以下の通りです。

justice motive = the drive to correct a perceived discrepancy between entitlement and benefit (p.19)

「本来与えられている権利と利益の認識された齟齬を是正しようとする衝動」といった訳になるのでしょうか。ポイントはperceivedとentitlementの二つの語があることです。もちろん「利益(benefit)」をどうするかといった細かな点で違いはありますが、捉え方はかなり近いもので、実際に先生に授業後確認してみたところ、この発表の議論は正義論として展開することも可能だというお答えでした。

じゃあ正義論として展開すればいいのではないかと思うのですが、それでは理性と表裏一体を成す情念を捉えることが出来ないというのが先生の答えなのだと思います。ここに、情念論を巡る問題が潜んでいるのではないかということが翌週の討論では話題になりましたが、それは先週の授業のところで簡単に書くことにします。



続いて先週の授業について。といっても水曜日の国際政治論特殊研究が休講だったので、木曜日の政治思想関係だけです。

<木曜日>

2限:政治思想論特殊研究

Heywood

テキストは、Andrew Heywood, Political Theory: An Introduction, 3rd Edition, (Palgrave Macmillan, 2004)。今回から新しい章に入り、Chapter 4: Sovereignty, the Nation and SupranationalismのSovereignty (pp.89-97)を読みました。

前回の部分と比べればこの主権を取り扱った部分はまだ納得がいきました。この節のポイントは、①主権を法的主権と政治的主権に分けて考えること、②主権を対内主権と対外主権に分けて考えること、の二点です。

授業で問題になったのは、①の話です。著者によれば、法的主権とは「究極かつ最終の権威には国家の法に存する」という考えに基づくもので、それに対して政治的主権は法的主権に実効力を与えるものです。これは発表者の受け売りですが、やはり「主権」とはホッブズが言うように物理的には万人が平等であるにもかかわらず法的に至高の権力を作り出すというフィクションであって、この点こそが重要なのだと思います。

このフィクション性、そしてフィクションであり、それを誰もが認識しているにもかかわらず依然として重要な意味を持ち続けていることを押さえておくことが必要なのでしょう。

5限:プロジェクト科目I(政治思想研究)

先週の授業(「政治過程における情念の作用について」)を受けての討論でした。

討論を担当した後輩の議論になるほどと思い、そこに乗っかる形で少し話し過ぎてしまいました。さてその議論は、齋藤先生の議論には2つの異なる問題関心が混然一体となっているのではないかというものです。

1つは、現実の状況として「公共的領域においては感情の動員が常態として行われる」がゆえに、単に非合理的なものとして政治から感情・情念を排除するのではなくその作用を検討し、位置付けを明確にする必要があるということで、おそらくこの部分については授業参加者も納得していたと思います。

問題はもう1つの方で、それは、感情・情念を「理性との関係において、非理性的なものとしてとらえるのではなく、規範との関係において、損なわれた/充たされざる規範的期待を明示的/暗黙裡に表すもの としてとらえ返す」ことによって、政治過程において情念に積極的な役割を担わせるべきだという規範的主張です。この議論に対する反駁は様々な方向からありましたが、おそらく根本的なのは、上記の情念の定義は結局「理性」的なものに過ぎないのではないかということです。

つまり上記2つの問題関心が混ざってしまっているために、事実として重要かつこれまで注目されてこなかった前者と、正義論としてこれまでも展開されてきた後者の関係が分かりにくくなってしまっていることが問題なのではないかということです。

個人的には「情念」にこだわらずに、従来の正義論の枠内で議論を展開し、それを補強する際に「理性/情念」関係を引く程度でいいのではないかと思うのですが……。

いずれにしても、前回・今回の授業はとても面白かったです。


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