アウトプット(?)

2007年08月01日

参院選に関する若干の考察。

専門は外交史なので、国内の選挙について研究をしているわけではないけど、一政治ウォッチャーとして、今回の参院選についてのコメントをまとめてみました。あくまで余技です。



1.はじめに

 7月29日に投開票が行われた参議院議員選挙は、民主党の圧勝、そして自民党の惨敗に終わった。今回の選挙結果を受けて安倍政権は退陣するのか否か、といったところにマスコミの関心は集まっているようである。確かに選挙で示された民意は、明確に安倍政権にノーを突きつけたものといえるだろう。各紙の世論調査の数字にはばらつきがあるものの、国民の大多数が安倍政権不支持であるという事実ははっきりしている。しかし、今回の選挙の持つより重大な意味は、自民党の惨敗というところよりも大きいところにあるのではないだろうか。

2.参議院と議院内閣制

 はじめに確認しておく必要があることは、参議院の国制上の位置づけだ。教科書的にいえば、日本は大統領制ではなく議員内閣制を取っている。一般にどこまで理解されているかは分からないが、議院内閣制下の内閣は国民に対してその責任を負っているわけではない。内閣総理大臣は国民による選挙によって選ばれた議員の投票によって選ばれ、そして内閣を組織するのである。あくまで民意は間接的なものであるのだ。国民の内閣不支持率がどれだけ高かろうが、制度的には総理大臣は内閣総辞職をする必要はない。内閣総辞職をしなければならないのは、衆議院で内閣不信任案が可決された時である。しかし総理大臣には内閣総辞職を行わないという選択肢もある。不信任案を可決した衆議院を解散し総選挙を行い国民の信を問うことができるのだ。そして選挙の結果、与党が多数を確保し衆議院で再び指名を受ければ内閣は続くことになる。

 ここで注意しなければいけないのは、以上の説明が基本的には衆議院の説明しかしていないということだ。確かに参議院においても、首班指名選挙は行われる。しかし参議院が衆議院と異なる人物を指名しても、衆議院の指名が優先されるのである。衆議院が持つ内閣不信任案の決議提出権についても、それを参議院は持たない。逆に総理大臣も参議院に対して解散権は持たないのである。さらに、参議院は任期が6年ある。一回の選挙結果は、基本的に6年間持続する。つまり、参議院は基本的に議院内閣制の外にある機関なのである。

3.今回の選挙の持つ意味

 以上で簡単に触れた参議院の制度上の特徴は、現行憲法が施行された時点から存在していた。それでは、なぜそういった特徴がこれまで顕在化しんかったのか。それは、基本的に自民党が参議院の多数を確保し続けてきた、つまり3年に一度の参議院選挙で一定の議席を確保しつ続けたからであった。1955年の結党直後の1956年の選挙以来、自民党は単独で30年間以上参議院の過半数の(もしくは過半数にかなり近い)議席を制していた。

 それが変わることになったのが、1989年の参議院選挙である。消費税導入、リクルート・スキャンダル、首相の女性問題といった様々な要素が重なった結果、自民党は36議席しか確保出来ず、非改選議席と併せても過半数に大きく達しないという事態に追い込まれた。この選挙結果はどのような事態を政治にもたらしたのであろうか。それは、自民党の公明党と民社党への接近であった。当然、自民党は様々な重要法案で両党への譲歩を迫られることになった。その典型例はPKO協力法である。こうした伏線があって、93年政変が起こったといっても言い過ぎではないだろう。ちなみにこの選挙以降、自民党は単独過半数を確保したことはない。

 そして今回の選挙はどうであったか。それは民主党が60議席、自民党が37議席という大差での民主党勝利であった。ここにその他の野党および野党系無所属議員、連立与党の公明党の獲得議席を加えると、野党73議席、与党47議席となる(なお、与野党の立場を明らかにしていない議員についてはこの数字には含まれていない)。野党の大勝利といっていいだろう。そして非改選議席を含めるとどうなるか。野党が134議席、与党が105議席となる。これだけ与野党で差がついたことの意味は非常に大きい。1989年の選挙時には、自民党との協力に比較的前向きだった民社党と公明党が野党として存在していた。しかし今の野党に、自公連立政権との協力に前向きな政党は存在しない。つまり自民党は公明党と参議院における少数政権を継続していかなければならないのである。

 与野党逆転は1989年選挙でも起こった。今回の選挙で変わったことは、自民党がついに参議院第一党の座からも転落したということだ。これは今後ボディーブローのように効いてくるだろう。またもう一つの特徴として、二大政党制の進展が挙げられる。90年代に行われた選挙制度改革で参議院が大きく手をつけられることはなかった。にもかかわらず、国民の多数にとって自民党のオルタナティブは民主党という一つの政党になっているのである。この点はなかなか興味深い点であろう。

4.なぜ政権が続くのか

 ここで、これだけの大敗をしたのにもかかわらず、なぜ安部政権は退陣しないのか、ということについて考えたい。やや回りくどい言い方をすれば、それは参議院が政権選択に関係するような制度設計を日本国憲法はしていないからである。前述のように首班指名は衆議院の氏名が優先される。このような制度である限り、首相が自ら辞めると言わない限り参議院を野党が多数を確保したからといってもすぐに政権交代に繋がることにはならない。

 それではなぜ安部首相は自ら辞めると言わないのか。これは首相本人に聞かなければ分からないことである。しかし、同じ参院選の大敗でも1989年、そして1998年のそれとは大きく異なることがある。自民党内の声である。確かにその後のマスコミ報道を受けて、首相の責任を問う声は高まってきている。しかし、その声よりもまず選挙後に聞こえてきたのは「挙党体制」の確立という声であり、首相交代という声でなかった。なぜだろうか。

 ここに今回の選挙結果と制度の関係の面白さがある。重要なことは、衆議院を解散しない限り、今回の選挙結果は最低でも3年は変わらないということである。それでは解散すればいいのか。しかし、今解散総選挙を行えば自民党が大敗するだろう。そうであれば、2005年の「郵政解散」の結果得た衆議院の圧倒的多数を利用した方が自公連立政権に取っては得策である。このような状況の中で、新しく首相になっても「茨の道」が待っているだけであるし、これといった新政策を打ち出すことは難しい。野党の大反対を受けるような「改革」は参議院で止められてしまう。仮に国民の強い支持を新政権が受けたとしても、参議院で多数を確保するためには3年後の選挙で今回の野党以上に大勝する必要があるのだ。このような状況下で倒閣に自民党議員が動くことは考えにくい。

 安倍首相が辞めないのではない。辞めさせられないのであるし、辞めても何も変わらないのである。

5.おわりに

 今回の参議院選挙によって、日本政治はいまだ体験したことのない状況に陥ることになった。もしかすると、今回の選挙によって参議院問題は憲法論議の焦点の一つに押し上げられることになるかもしれない。

 まだ今後の政治がどのように動いていくのかは未知数である。野党にとっては、早期解散へ追い込むことが目標となるだろう。しかし、あまりに対決政策を取りすぎることによって逆に国民の支持を失えば、総選挙で再び負けを喫し、政権獲得の機会を逃すことになってしまう。今回の選挙で民主党の政策への支持が示されたわけではなく、反安倍政権票が民主党を勝たせたことはよく理解されているのだろう。野党もいたずらに対決政策を取ることは躊躇しているのではないだろうか。

 政治の空白を作らないという意味では、早期に解散総選挙が行われ、民主党が大勝して政権交代することが一番いいシナリオなのかもしれない。しかし実際にそのようにいく可能性は必ずしも高くはないだろう。今回の選挙で、日本型コアビタシオンというべき状況が成立した。今後、政治がどのように動いていくのか非常に興味深いところである。

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2007年05月24日

久しぶりにレジュメ公開。

今日は授業で発表(といっても課題文献のディスカッサント)が一つあった。久しぶりに文章形式で作ったので、授業での討論を踏まえて少し修正したものを載せておきます。こんなマニアックな話は、大方の人には何のこっちゃという感じだと思いますが…。

時間の関係で、同時期を扱った重要な研究書(A Constructed Peace とか)に目を通すことが出来なかったのは残念だが、何となく流れのようなものを確認できたのは良かったのではないだろうか。発表原稿を作っている内にこの時代・このテーマの面白さが何となく見えてきたので、時間を見つけて先行研究にももっと目を通していきたい。

ちなみに四限と五限は、政治思想の授業が連続してあった。両方ともなかなか面白かったのだが、まとめ直す気力が湧かないので今日は省略。


No.136-146
Foreign Relations of the United States 1958-1960 : Volume ?, Part 1 : Western European Integration and Security; Canada

1、はじめに

 本年度の授業で読解する外交文書は、Foreign Relations of the United States 1958-1960 : Volume ?, Part 1 : Western European Integration and Security; Canada である。取り上げるのは、ヨーロッパ統合ではなくNATOに関する章であり、に軍事的な専門用語等も多く、一度読んだだけでは文字通りの意味以上のことを読み取ることはなかなか難しい。
 そこで本発表では、まず先行研究や通史を参考にやや時代をさかのぼりつつ1958年の意味を考え、さらに先週と今週の範囲(No.131-146 : 1958年4月~5月)がどのような時期であったのかを明らかにする。その上で、資料から読み取れる興味深い部分をいくつか抜き出して、議論の手がかりとしたい。

2、冷戦の「五五年体制」とその後

 1958年の意味を考える前に、その前史として「冷戦の「五五年体制」」について触れておきたい。この概念は、外交史家の石井修によって唱えられたものである。簡単にまとめれば、ヨーロッパで1947年~48年頃に姿を現し始めた冷戦が、ジュネーブ首脳会談を経た1955年の時点で「膠着状態」に入り、「制度化」「安定化」へ向かう兆しを見せ始めるまでになった、ということである。石井は冷戦の「五五年体制」の特徴として?「分断による平和」、?「冷戦の戦われ方」が双方に認識されたこと、の二つを挙げ、さらにこれは、?東西ヨーロッパの「安全保障圏」の確定、?熱核兵器の出現、?「外交」の復活、?冷戦の拡散、の四つの現象と関連しあっていると主張している。ここに挙げた四つの現象は、今回の範囲の文書からも読み取ることが可能である。
 その「五五年体制」の下で、1958年に至るまでに様々な事が起こっている。1956年2月には、フルシチョフによるスターリン批判演説が行われ、さらに同年10月にはハンガリー動乱とスエズ危機が相次いで発生している。スターリン批判はソ連の穏健化を示すものであり、後の二つの危機は冷戦体制下の各陣営内に発生した危機であった。逆説的ながらこの二つの危機の解決方法は、まさに冷戦体制が常態化したことを示すものであった。
 1957年には二つの大きな出来事がある。一つは3月の仏・西独・伊・ベネルクスの6ヶ国による欧州経済共同体(EEC)/欧州原子力共同体(EURATOM)条約の調印が行われたことである(1958年1月に発足)。もう一つは、ソ連による人工衛星(スプートニク)打ち上げ成功である。この出来事は、アメリカ国内でセンセーショナルに取り上げられ、世界が大陸間弾道弾(ICBM)によるミサイル戦争の時代へと突入したことを示すものであった。またNATOに関連するものとしては、このような情勢を受けて作成されたMC70の決定も重要であるだろう。以上のような流れの延長上に、1958年は位置づけることが出来るだろう。

3、1958年の意味

 1958年と聞いて思い浮かぶことは人によって様々だろうが、?フランスの政変(アルジェリア問題深刻化に伴うドゴールの政権復帰と第五共和制の成立)と?第二次ベルリン危機の発生、の二つがヨーロッパにおける大きな出来事であったといっていいだろう。フランスの政変は4月頃から本格化し6月にはドゴールが政権に復帰し、10月に新憲法が公布され第五共和制が成立する。一方の第二次ベルリン危機は、11月にフルシチョフが西ベルリンに対する要求を米英仏の三国に突きつけたことによって始まる(この第二次ベルリン危機が最終的に解決するのは、アメリカの政権交代後である1961年の「ベルリンの壁」構築による)。
 またフランスの政変と関係する話ではあるが、本授業で取り上げるNATOに関係するものとして重要なのが、ドゴールが9月に発した「1958年覚書」である。この覚書はNATOにおいて英米仏三国が同盟の核戦略を策定する「三頭制」を目指したものであった(ドゴールのNATOへの働きかけは、実は政権復帰当初の6月から始まっている)。
 このように見ていくと、1月のEEC/EURATOM発足も含めて、1958年がヨーロッパにとって重要な年であったことが分かる。しかしここで注意しておきたいことは、先週と今週の範囲は同年4月あら5月であり、これらの出来事のちょうど間の時期だということである。ヨーロッパ統合に関してもEEC/EURATOMの発足でひと段落つき、一方NATO政策に関してもドゴール復帰直前ということまた第二次ベルリン危機勃発前という、端境期のような時期であった。
 それでは、先行研究においてこの1958年4月から5月という時期をどのように取り扱われているのだろうか。結論的に言えば、それはほぼ「無視」されているといってよい状況にある。それは下記参考文献に挙げたものについてだけでなく、その他の研究(例えばこの数年内に発表されたヨーロッパ統合に関する国内外の論文集など)においても同様であった。とはいえ、先行研究において1958年が「無視」されているわけではない。むしろ1958年という年は、一つの転換点として位置づけられ重要視されているといってよい。ただし、4月から5月という時期はその転換の直前であるために、ほとんど「無視」されているのである。

4、資料から何を読み取るか?

 それでは、以上のような位置づけにある1958年4月~5月の資料から何を読み取ることが出来るだろうか。改めて言うまでもないことだが、どのような視角からこの資料を読むかによって、読み取れるものは大きく異なる。また、本授業で読む資料は1958年から1960年にかけての米外交政策を取り扱った公刊資料集の「ごく一部の一部」であることも忘れてはならないだろう。以下では、いくつかの視角からこの資料を読むと読み取ることが出来ることを抜き出して取り上げてみたい(以下、順不同)。
 もっとも可能性がある重要な視角は、軍備管理の視点であろう。同時期の様々な政策が軍備管理との関連から捉えられていたことは様々な先行研究が指摘している点である。この点からは、それまでのスタッセン大統領補佐官に代わり、ダレス国務長官が同時期の政策遂行の中心に立っていた点は重要だろう。スタッセンの政策をダレスが変更していく過程として同時期を捉えることは可能である。しかしながら、その政策はドゴールの登場や第二次ベルリン危機によって、さらなる変更を迫られるのであり、評価を下すことは本資料からだけでは難しい。とはいえ、その後の軍備管理の問題として出てくる一般兵器と核兵器の問題や、NATO内の核兵器管理の問題といった様々な論点は、この1958年4月~5月の討議でほぼ出ているといっても過言ではない。後述のように、確かにドゴールのインパクトは大きかったわけだが、そのインパクトの裏にあるこの時期の交渉から議論を抽出していくことは重要な作業だといえよう。
 二つ目は、フランスを軸に据える視角である。前述のように、フランス政治・外交の文脈でこの時期は極めて重要な時期である。アルジェリアの問題によって国内政治は大きく紛糾していた。この点を考えると、ダレスがアイゼンハワーにアルジェリア問題を米ソ会談と共に重要な問題として挙げていることは興味深いことである(No.135)。また、フランスがドゴールの政権復帰以前に既に核実験を行う方針を固めていたことはよく知られていることであるが、1958年の4月がその時期である。この文脈からは、フランスが核戦争の危険と核実験の危険を峻別していることの意味も深長である(No.140)。ただし、ピヌーが核実験を既定方針にしたことを知っていたのかによって、この発言の意味は変わってくるかもしれない。
 三つ目は、NATOを軸に据える視角である。前述のように、6月にドゴールが政権に復帰したことによってフランスの対NATO政策は変質していく。この点は逆説的に次のようにいうことも出来る。ドゴールの対NATO政策が新しいものであり、NATO全体に影響を与えたとすれば、それはドゴール以前の政策との比較によって明らかにされる必要がある。このように考えれば、4月~5月の議論はドゴールが政権に復帰するまさに直前であり、後との比較材料という意味では重要といえるのかもしれない。
 まとめとして雑駁な印象を述べれば、1958年4月~5月を扱った本資料は、「冷戦の「五五年体制」」という歴史認識を補強するものとして読むことが可能である。

参考文献                         
石井修「冷戦の「五五年体制」」『国際政治』(第100号、1992年8月)
石井修『国際政治史としての二〇世紀』(有信堂高文社、2000年)
川嶋周一『独仏関係と戦後ヨーロッパ国際秩序』(創文社、2007年)
ジョン・ルイス・ギャディス(赤木完爾・他訳)『歴史としての冷戦』(慶應義塾大学出版会、2004年)
倉科一希「一九五〇年代後半の米国軍縮・軍備管理政策と同盟関係」『国際政治』(第134号、2003年11月)
細谷雄一『外交による平和』(有斐閣、2005年)
ゲア・ルンデスタッド(河田潤一・訳)『ヨーロッパ統合とアメリカの戦略』(NTT出版、2005年)
渡邊啓貴『フランス現代史』(中公新書、1998年)
渡邊啓貴・編『ヨーロッパ国際関係史』(有斐閣、2002年)
John W. Young, John Kent, International Relations since 1945 ( Oxford : Oxford University Press , 2004 )

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2006年10月11日

歴史は外交政策の決定にどのような影響を及ぼすのか??

授業のために作成した小レポートを掲載。「歴史は外交政策の決定にどのような影響を及ぼすのか?」について、「1930年代と今日との間に歴史的なアナロジーは成立するのか」という観点から書きなさい、というレポートなのだが、指定文献から事実上は東アジアにおける地域主義に絞って書かざるを得ない。

もともと、ある時代とある時代で相違点が無ければそれは「同じ」ということになる。同じでないから「アナロジー」になるのだから、違う点を指摘して「アナロジー」は成立しないというのはあまり有意義な議論ではないだろう。というわけで、何についてアナロジーから見えてくるものがあるのか、ということを留意しながら論じてみた。

が、この作業はなかなか困難。そもそも「アナロジー」とは何か、といったことから定義して論じなければ有意義な議論は難しいのだろう、というのが授業での議論を終えての感想。

さて、来週からは二回にわたって「歴史観と政策」がテーマ。とうとう、「あの本」をしっかりと読まなければならない…。


1930年代と今日との間に歴史的なアナロジーは成立するのか

 1930年代と今日との共通点としてしばしば指摘されるものが、アジア地域主義の高まりである。1930年代のアジア地域主義(東亜共同体論)は、「あの戦争」によって不幸な終わりを迎えたわけであるが、その結果として戦後の日本では、政策論として大東亜共栄圏を類推させるようなアジア地域主義が論じられることは長らくタブー視されてきたように思う。しかし1970年代後半から本格的に始まるアジア地域の経済発展や、それに水を差す形になった1997年のアジア通貨危機などを経て、現在では東アジア共同体について活発な議論が各国で行われるようになっている。
 本稿は、以上のような展開を見せているアジア地域主義を取り上げつつ、1930年代と今日との間に歴史的なアナロジーは成立するのか、という問いを検討するものである。結論的に言えば、1930年代と今日との間に歴史的なアナロジーは成立するだろうが、そこからは見えてくることよりも見えなくなることの方が大きいのではないか、というのが私の問に対する回答である。
 以上のような回答を提示したものの、私は1930年代研究に意味が無いと主張したいわけではない。後述のように、1930年代の日本外交がなぜ失敗に終わったのかという研究は十分に今日的な意義を持つものであり、多いに参照されるべきものである。しかし、いかに表面的な修辞で「アジアとの対等」を謳ったとしても、1930年代のそれはあくまで垂直的な国際秩序観に基づいたものであった。また、よく知られているように1930年代の東亜共同体論は西洋との対立を自明のものとして掲げていた。前者の議論はアジアの側から受け入れられるものではないし、後者の議論は欧米の側から受け入れられるものではない。また、第二次大戦後の日本のアジア外交を考える上で、前史である1930年代は極めて重要な時代である。1930年代のアジア地域主義が、「あの戦争」によって不幸な形に終わったと記憶されたことにより、戦後の日本ではアジア地域主義を口にすることは長らくタブー視されてきたとも言える。このような形で、戦後の日本は強く歴史の影響を受けてきたのである。

 とはいえ、やはりアジア全体の問題である東アジア地域主義の問題を1930年代との類推から語ることは不適切であると考える。1930年代と今日の共通点は確かにいくつも存在するが、そこを強調することは戦後60年の歴史を軽視することに繋がりがちであるからだ。
 1930年代と今日の共通点として、アジア地域主義の高まりがしばしば指摘されると本稿冒頭で述べたが、ここには一つの接頭辞を付ける必要があるだろう。それは「日本において」ということである。言うまでもなく戦前の東アジア地域には今日のような国家体系は存在していなかった。日本は「大日本帝国」として朝鮮・台湾を植民地化していたし、中国も対日抗戦と国共内戦という大きな問題を抱えていた。さらに東南アジア諸国の大半は欧米の植民地であった。このような戦前の国際政治の構図が、戦後は大きく変わったのである。このような構図の変化を考えれば、日本外交の議論としてならば可能かも知れないが、東アジア全体の問題として1930年と今日を比較して論じることにどれだけ意味があるのかは疑問符を付けざるを得ない。
 また、前述のように戦後日本においてアジア地域主義はある種タブー視されてきた。しかし、この議論を政府レベルの政策を考察する際にそのまま利用出来るかはいささか疑問である。戦前の歴史があるからアジア主義はタブーであるという議論を政府レベルに当てはめると、戦後日本は戦前のアジア地域主義の失敗によって戦後はアジアではなくアメリカを基軸として外交を展開した、といった結論が導き出されてしまう。このような側面はもちろん一部に存在するものであるが、より重要だったのは日本占領期から始まった冷戦によって、アメリカが日本との同盟関係を維持することを余儀なくされたということであろう。米中両国が激しく対立する冷戦状況の中で、アジア地域主義を論じることは果たして説得力のある政策だったのだろうか。

 以上いくつかの角度から、1930年代と今日との間に歴史的なアナロジーは成立するのか、という問題を検討してきた。結論は既に述べたとおりであるが、最後に一言だけ付け加えておきたい。本稿では1930年代と今日を繋げて考える議論のマイナス点を強調したが、日本外交の失敗事例としての1930年代論は今日のみならず普遍的な意味を持つということである。あれだけの失敗に終わった1930年代の日本外交を検討することは、2000年代だけではなく、90年代や80年代、70年代の日本外交を考える際にも大きな意味を持っていると言えるだろう。

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2006年10月09日

北朝鮮核実験に思うこと。

天気のいい3連休を過ごし、あぁ行楽日和だ、などと感じていたところ、最後にどかんと核実験。というわけで、金曜からの行楽生活の記事は棚上げ。日本政治外交史が専門であって、東アジア国際政治は専門ではない院生の書くことにどれだけ意味があるかは分からないが、この日この時の記憶を残しておく意味で核実験について思うところを書いておくことにしたい。


 まず、今回の核実験の意味について。実験以前からすでに北朝鮮は核兵器を保有していると非公式な形では表明していたわけだが、それが今回の核実験で明示的になった。今回の核実験は94年の核危機以上に意味があるものであり、地域の国際政治にとって数十年に一度の大きな出来事であると言えるだろう。また北朝鮮の核保有は、インドとパキスタンのようにその影響が二国間関係に限定されうるものではなく、大国がひしめく東アジア国際政治に大きな影響を与えるものであるし、核拡散問題の観点からも極めて重要な意味を持っている。

 東アジア各国を見てみると、それぞれこの一ヶ月で政治的な動きがあったことが分かる。まず日本では、小泉政権以上に対北朝鮮強硬派と見られる安倍晋三政権が発足した。また中国では、上海市長の更迭に関連して江沢民派の退潮が指摘されている。この権力変動が対日政策の転換に繋がっているという説もある。さらに、韓国が日本の安倍新政権に接近していること、潘基文外交通商相が国連事務総長になることが確実な情勢になったということも地域情勢に微妙な影響を与えただろう。

 このような動きに重なる形で、安倍首相の中韓歴訪が行われたわけだ。安倍首相の中韓歴訪について、日中韓それぞれがどのような思惑を持っていたのかは必ずしも明らかではないが、各国が小泉政権との間で冷え込んだ日中・日韓関係を改善したいという思惑があったことは間違いないところだろう。日中・日韓関係が改善するということは、日本にとって好ましい状況である。逆に北朝鮮から見た場合、対北朝鮮強硬派である日本が中韓両国と関係改善することは決して好ましい状況ではない。

 今回の核実験は、以上のように東アジアの国際政治が動き始めたところで行われたわけだ。問題は、なぜ北朝鮮がこのタイミングで核実験を行ったのかということである。もとより、この問題に関して確たる情報があるわけではなく推測するよりほかない。安倍首相が中韓歴訪中であるこの時期は、北朝鮮にとってあまり有利な時期ではないように思える。日中首脳会談でも「北朝鮮による核実験は受け入れられないことで一致」したとされており、その直後に核実験を行うことは日中両国を強く刺激する。また他国と比べて北朝鮮に宥和的な政策を採っていた韓国も、このタイミングで実験が行われ、直後に日韓首脳会談が行われれば強硬派の安倍首相に賛同せざるを得ない状況になる。

 しかし視点を広げて見てみると、北朝鮮の思惑が見えてくるように思う。それはアメリカである。北朝鮮が六者協議ではなく、アメリカとの直接対話を求めていたことは常々指摘されてきたことである。今回のタイミングも、北朝鮮がアメリカしか相手にしていない、というメッセージがあるのではないか、と考えてみると納得がいく部分もある。まず日韓に関しては事実上無視したと見ることができる。盧武鉉大統領自身が認めているように、これで韓国の包容政策は大きな見直しを迫られることになった。そして中国に関しては、その北朝鮮に対する影響力が限定的であることが今回の核実験で明らかになった。

 これまでアメリカは北朝鮮問題について、一貫して六者協議の場での解決を求めてきたし、直接交渉に乗り出すのではなく中国に役割を果たすことを求めてきた。このようなアプローチでは問題は解決しませんよ、というメッセージが北朝鮮からアメリカに送られたと見ることも出来るだろう。以上のように考えると、今後アメリカがどのようにこの問題に対処するのかということが焦点になると言えるだろう。

 このような状況下で日本はどのような政策を行うのであろうか。恐らく自らが理事国を務めている国連安保理の場での対応を求めると共に、米中韓など関係国との連携に努めていくのだろう。より具体的には意見が比較的近いアメリカと連携しつつ、国連憲章第7条に触れる形での決議採択を目指すことと思われる。新聞報道などによれば、現時点でアメリカはこの問題を国連安保理の場で議論をするようである。これは基本的に日本と同様の立場である。

 一挙に軍事的な介入などにエスカレートしていかないのであればという条件が付ける必要があるが、日本にとって戦略的に採りうる幅が今回は意外と広がっているのかもしれない。まず、これまで冷え込んでいた日中・日韓関係が改善の兆しを見せていることが大きい。さらに、具体的な制裁案では相違があるのだが、中国および韓国も今回の核実験には極めて強く非難しており、朝鮮半島の非核化という目標に関しては一致している。朝鮮半島に関する利害が、大枠であれ日中間で一致しているということの意味は大きく、より広い文脈で日中関係を再構築するチャンスでもあるだろう。

 具体的な対応は、今晩にでも話し合われるであろう国連安保理での協議の帰趨によるのだろう。イラクを抱えているアメリカが即座に武力行使へ行くことは考えづらいが、何らかの形で強制力を持った制裁決議を出し、全体としてアメリカが北朝鮮に対して圧力を強めるのはほぼ間違いないだろう。また国連安保理として、先のミサイル問題に対して国連憲章第7条一歩手前という決議を採択していることから、今回の事態に中ロが強く反対することは難しいのではないだろうか。


現実の動きについて思うことは以上書いたとおりである。今回の核実験を含めたこの一ヶ月間の東アジア国際政治の動きは、今後幾度と無く振り返って多くの研究者によって取り上げられるのだろう。将来このテーマを研究するかは分からないが、今後とも注目していきたい。というのは研究者の卵の卵としてのコメント。

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2006年10月03日

歴史は外交政策の決定にどのような影響を及ぼすのか??

授業のために小レポートを書いてみたので掲載。


歴史は外交政策の決定にどのような影響を及ぼすのか?

 歴史は外交政策の決定にどのような影響を及ぼすのだろうか。そもそも「現在」が「過去」の積み重ねによって成り立っている以上、現実の政策決定は常に「過去」という「歴史」の影響を受けているともいえる。しかし、「過去」と「歴史」は全く同じものではない。ひとまずここでは、「ある過去の出来事を、後の時代の人間が資料等を基に再構成したもの」を歴史である、と簡単に定義して上記の問題について考えることにする。

 歴史家のアーネスト・メイが1973年に著した『歴史の教訓』は、この問題に関する古典的な研究である。『歴史の教訓』でメイは、?外交政策決定者は歴史が教えたり予告していると自らが信じているものの影響をよく受ける、?政策決定者は通常歴史を誤用する、?政策決定者はそのつもりになれば歴史をもっと選択して用いることが出来る、という三つの命題を提示してアメリカ外交を分析している。
 メイの提示した三つの命題はアメリカ外交のみならず広く外交政策一般について示唆に富む非常に重要なものであるが、現代では歴史が外交政策の決定に与える影響はさらに違う形を取ることも多い。一つは、歴史そのものが問題になる場合である。分かりやすい例は、現在も日本と東アジア諸国の懸案事項となっている、いわゆる「歴史問題」だろう。また、歴史が国民の外交政策に対する態度を規定することによって政策決定者の選択の幅を狭めることもあるだろう。これは、戦争体験に根ざした戦後日本における一般的な反軍事感情とその政策決定への影響などを例に挙げることが出来る。さらに考えられるものとしては、歴史家の影響である。歴史家が自らの歴史研究から得た知見を元に様々な議論を展開し、それが政策決定者に影響を与えることもあるだろう。また歴史家が政策決定者のブレーンとして直接影響を与えることも考えられる。

 このように様々な形で外交政策の決定に与えられる歴史の影響がある以上、歴史と政策決定の関係は歴史研究の観点からも非常に重要である。難しいのはここまで簡単に検討した、歴史の外交政策の決定への影響が各時代、各国家によってそれぞれ異なることである。もっとも、様々な形を取るとはいっても、それをある程度一般化して考えることは可能であろう。外交政策に限らず広く政策決定について考えると、ある政策決定が行われる際には、決定に関与するアクター、決定の対象となる事象、そして決定の行われる環境が存在している。政策決定のどのレベルに、どのような形で、どの程度まで歴史が影響を与えたのかをまず整理してみることが、歴史と外交政策決定の関係について検証する第一歩となる。このような一般化した枠組みを基に、自らの研究対象へ接近することは歴史研究にとって一つの有効な手段であろう。
 私の研究テーマである1970年代における日本の政治と外交を考える際にも、この歴史と外交政策決定ということは重要な問題である。現在、日中および日韓の間で問題になっている歴史問題はなぜ70年代には現在ほど大きな問題とならなかったのだろうか。また経済大国化した日本がキッシンジャーや周恩来が確実視したように政治大国への道を歩まなかったのは、戦前の歴史が影響しているのだろうか。さらに、二度の石油危機に見舞われるなど危機の時代となり、1930年代との類似性が指摘されている70年代を日本が比較的うまく乗り切ることが出来たことにも戦前の歴史は何らかの影響を与えているのだろうか。これらは、それが事実かどうかは別としても、研究を進める上で重要な問いであるだろう。
 このような歴史と外交政策決定の検証を行う際に困難なことは、通常利用される文書資料からは政策形成のプロセスにおける歴史の影響はなかなか読み取りにくいということである。この点の検証にはオーラル・ヒストリーが大きな役割を果たすのではないだろうか。

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2006年05月23日

一仕事終了。

相変わらず疲れがたまる火曜日。授業が続くとしんどい。

2限、地域研究論特殊研究?

テキスト:ジェームズ・リリー『チャイナハンズ』(草思社)

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一昨日の書評でも取り上げたが、とにかくエピソードに溢れ面白い読み物。授業では、1980年代の中台軍事バランス、天安門事件などの議論に。

3限、国際政治論特殊研究

テキスト:John W. Kent・John Young, International Relations Since 1945 : A Global History
Chapter2 : Two World East and West, 1945-1948

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発表(討論者)担当。一応3つの議論を用意したのだが、ここでは重点を置いた1つを紹介。

個別研究と通史

 国際関係史や外交史の個別研究に対して「これが足りない、こういう要素もある」と批判することは有益なのだろうか。基本的に、個別研究はある一定のテーマに対して一定の分析視角から分析することにその目的がある。つまり包括的にある事柄を理解するというよりは、ある事柄の一部分に関し、またはある視角から分析することこそ個別研究の目指しているものである。このような個別研究に対する有意義な批判とは「これが足りない、こういう要素もある」ではなく、分析視角に内在する問題を指摘することであり、その実証の達成度に向けられるべきではないだろうか。
 一方、本書のように国際関係史の世界でも数多くの通史や通史的研究が存在している。個別研究が個別部分での実証性や分析視角が問われることに対して、通史では全体としてのバランスや位置づけこそが問題となる。もちろん通史においても個別部分の正確さが問われることを否定しているわけではない。ここで強調したいことは、通史の目的がどこにあるかということである。ここには様々な考え方が存在するだろう。例えば、初学者向けに最低限の知識を与えることが通史の役割であるということも出来るだろう。しかしここではより研究的な意味に注目したい。通史は様々な領域を対象とした個別研究のマッピングを行い、基本的には時系列に沿った上でマッピングを行うことにその意味があるのではないだろうか。同時に個別研究から提示された視角を整理しその評価を行うことも目的といえる。例えば冷戦研究の観点から本書を読むとこういった通史の役割が明らかになるだろう。また通史は、個別研究が見落としがちな横の連関の重要性を強く意識していることも重要である。

あとの2つは、本章及び前章で示された各国の政策姿勢(?)についてと、日本がこの時期には本書で描かれるよりも重要であったのではないかということ。前者はともかく後者に関しては舌足らずであった。先生の言葉を借りると、日本というよりも太平洋の国際関係の重要性、といった方がよかったのかもしれない。自分の言いたいことを効果的に伝えるためにはどういった言葉を使えばよいのか、ということを実感させられた。

個別研究と通史、ということについてはこの本を読み始めてから漠然と考えていた。この点を明確にしないと議論がしづらいし、何より論点がぶれやすいのではないかと思ったので討論者として挙げてみた。上の文章に自分の伝えたいことは大体書いたんだけど、やっぱり舌足らずというか表現がよくなかった。例えば一番初めの通史に対する批判について。「これが足りない、こういう要素もある」というのはあまり効果的な批判ではないと書いたんだけど、もしそれが筆者の問題意識に内在する問題だとしたらそれを指摘することは非常に重要である。この点も先生に指摘されてしまった。まだまだ修行が足りません。

この問題は個人的にはとても重要なので期末レポートでもう少し詳しくまとめてみることにしようと思う。

5限、国際政治論特殊研究

テーマ:アメリカからみた東アジア共同体

質問はするものの基本的なスタンスが聞き手になってしまうこの授業。今日もまあそんな感じ。第二次大戦直後、冷戦後、9.11後までカバーといった感じで3人の発表がうまく時代順になっていたので分かりやすかった。最後の発表は院ゼミの先輩なのだったのだが、やはりアメリカの対アジア観は対中国観の従属変数なのだろうか。ふーむ。

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2006年05月18日

貢物、ありがとう。

チャンピオンズリーグの決勝は前々から楽しみにしていたのだが…あんな始まりになるとは想像もしていなかったし非常に残念。それにしても、老体に夜更かしは響きます。

今日は、プロジェクト科目(政治思想研究)の発表担当だった。とりあえずレジュメを転載しときます。情報量の少ないレジュメだし、その手の人でないと意味がないと思うのでまあいいっしょ。

このブログのアクセスをちょいと解析してみると…自分の頭を使わずにコピペで発表やレポートを書こうとしているとしか考えられない輩のアクセスが多数ある。とにかく「○○ 書評」とか「○○ 要約」という検索で来る人が学期末は急増する。せっかく大学で勉強するんだから自分の頭を使って欲しい。


政治思想史の方法論と歴史家の禁欲


1、方法論

・政治思想史の2つの方法論
①テクスト主義(レオ・シュトラウスに代表される)
②コンテクスト主義(ケンブリッジ・パラダイム)

→ケンブリッジ・パラダイムに基づいた共和主義理解は「富と徳」という図式に基づいてしまっており、正しいヒューム理解(またハリントン理解)の妨げとなっている。

・犬塚先生の方法論:検討対象とする政治学者(思想家)自身の理解した政治学史(思想史)像に着目する。(犬塚[2004]、7頁)

しかしこれは広義のケンブリッジ・パラダイムに分類されるのではないだろうか。「富と徳」ではなく、「政治機構と徳」に変わったということではないのか。政治思想(もしくは政治理論)が政治学史と乖離していくヒューム以後の時代をどのように分析できるか?(例えば、その時代の思想家たちの間で主流の議論についてその思想家が何を考えていたのか、ということで代替すればよいのだろうか)

2、歴史家の禁欲?

・従来の共和主義理解………’the language of rights’と’the language of virtue’で思想史を解釈し、前者を共和主義と理解

・犬塚先生の共和主義理解…従来の「富と徳」ではなく「政治機構と徳」の枠組で思想史を解釈し、前者を共和主義と理解
※政治機構論としての共和主義はヒュームがハリントンから受け継いだ共和主義としてのみ定義

犬塚先生はこのように従来の共和主義を大きく書き換える、つまり現代の共和主義論争にも大きな影響を与えうる議論を展開しているのだが、その点に関連した質問に関しては積極的な回答は得られなかった。回答は「個々の思想家についての個別研究を積み重ねることしかない」といったことに終始していたように思う。これが歴史家の禁欲ということなのだろうか。このような先生の研究態度に知的な真摯さを感じる一方で、やはり問題も存在するのではないかという考えも浮かぶ。

個人的な野心?
禁欲することは知的な議論を妨げる?

<主要参照文献>                          

犬塚元『デイヴィッド・ヒュームの政治学』(東京大学出版会、2004年)
リチャード・J・エヴァンズ(今関恒夫、林以知郎・監訳)『歴史学の擁護 ポストモダニズムとの対話』(晃洋書房、1999年)
小笠原弘親、飯島昇蔵・編『政治思想史の方法』(早稲田大学出版部、1990年)
小野紀明『政治理論の現在 思想史と理論の間』(世界思想社、2005年)
デイヴィッド・キャナダイン・編(平田雅博・他訳)『いま歴史とは何か』(ミネルヴァ書房、2005年)
クェンティン・スキナー(半澤孝麿、加藤節・編訳)『思想史とはなにか』(岩波モダンクラシックス、1999年)


A4で1枚にまとめるためにちょっとレジュメが粗くなったような気がする。でもメッセージや問題意識はシンプルなものなのでちょうどいいのではないだろうか。

要は「歴史を研究する意味は何か」ということに尽きる。思想史の世界のテクスト主義やコンテクスト主義の論争に限らず、もっと広い歴史が理論の側から、とりわけポストモダン的な理論から批判された20世紀後半を経た我々は歴史をどのような態度で学べばいいのか、ということ。

今日の議論でそれなりに暫定的な自分の答えは見えたような気がする。自分の専門とは少し違う分野の方法論の議論は、今まで自分の中で当たり前だったことを問い直していたりするのでとても面白いものだ。

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2006年01月26日

日本外交史特殊研究?レポート

書評論文ではなく、ほとんど文献紹介…

日本外交史特殊研究?レポート

<書評論文>
戦後日本のアジア外交
~近年の研究を中心に~


 戦後日本外交は、一貫して日米関係を外交の基軸に据えてきた。小泉政権が成立して以降も、日米関係は良好に推移しているといえよう。現在、米軍のトランスフォーメーションの一環として在日米軍再編の作業が行われており、この作業に目処がついた段階で「何らかの政治的宣言」が出されるという。これは1996年4月に発表された「日米安全保障共同宣言」以来のことである。
 このように政策レベルで日米間の協調関係が強化される一方で、現在国民の関心が高まっているのはアジア外交である。これは、直接的には小泉首相の靖国神社参拝問題をめぐって中国および韓国との関係が悪化したことに起因するものである。しかし、アジア外交の問題は靖国問題にとどまるものではない。例えば昨年(2005年)12月にマレーシアで開催された、東アジアサミットで示されたように東アジア地域における地域統合も政治日程に乗りつつある。1990年代前半にEAEG構想が提起された際には、アメリカの強い反対もあって実現しなかった試みである「東アジア共同体」が一定の現実味を帯びてきたことを意味する。また、より長期的な課題として政治大国・経済大国として台頭しつつあり、今後も成長が見込まれる中国にどのように対処していくか、という問題もある。
 こうした現実の政策関心と関係があるのだろうか。近年、研究者の間でも日本のアジア外交に対する関心が強まっている。本稿では、限られた範囲であるが近年のアジア外交研究を中心に紹介していく。


 日本のアジアへの興味は戦前にさかのぼることが出来るが、戦後日本外交は戦前のそれとは異なるメカニズムで動いている。それは、主として二つの理由によるものである。一つは、日本が「あの戦争」(佐藤誠三郎)で大東亜共栄圏を掲げアジアを侵略し敗北したこと。もう一つは、日本の占領が事実上アメリカ一国によって行われ、さらに主権回復が冷戦開始後に行われたことによって戦後日本外交がアメリカの冷戦戦略の中に位置づけられたものとしてスタートしたこと、である。つまり、日本が再び軍事大国となることは周辺国との緊張を招くことが必至であり、さらにアメリカの冷戦戦略に反する選択肢を採ることは日本には不可能だった、のである。しかし日本は地理的にはアジアに位置する国である。この結果、日本外交のアイデンティティーはアメリカとアジアの間を揺れ動くことになるのである。
 このような日本のアジアとアメリカの間に揺れるアイデンティティーの形成過程に鋭く迫っているのが、波多野澄雄「戦後アジア外交の理念形成」(『国際問題』2005年9月号)である。この論文で波多野は、戦前のアジア外交は主として朝鮮・満洲・中国が対象であったのに対し、戦後は東南アジアがその主たる対象となったことを指摘したうえで、敗戦直後の日本で現在の「開かれた地域主義」へと繋がる「多角的地域主義」が提唱されたことに注目する。そしてその後の日本が、冷戦やナショナリズムに対処する過程で「アジアの一員」と「東西の架け橋」という二つの立場を模索していく過程を分析している。
 『年報政治学1998 日本におけるアジア主義』(岩波書店)に収録されている、井上寿一「戦後日本のアジア外交の形成」は、敗戦直後に外務省を中心に経済的地域主義に関する構想が存在したことを明らかにするとともに、その(短期的な)挫折の過程を描いている。井上は、この論考を発展させる形で「戦後経済外交の軌跡」(『外交フォーラム』2004年11月号~2005年5月号)を発表している。「戦後経済外交の軌跡」は題名のとおり経済外交が主題であるが、その経済的地域主義の「場」としてアジアが描かれている。短期的な挫折が長期的な成功に繋がる過程が描かれ、様々なエピソードも紹介されている興味深い論考である。


 『年報政治学1997 危機の日本外交 ―70年代』(岩波書店)は1970年代の日本外交特集であるが、アジア外交に関するいくつかの論考が収められている。添谷芳秀「一九七〇年代の米中関係と日本外交」は、国際構造上の「大国」として認識される日本と伝統的大国路線を拒絶した日本という「二重アイデンティティー」を中心的な分析視角として、米中接近とその日本外交への影響を分析している。『年報政治学1997』には、田所昌幸「ドル体制の再編成と日本」、村田晃嗣「防衛政策の展開」、中西寛「総合安全保障の文脈」など70年代の日本外交に関する先駆的研究が多数収められている。またこの他にも、須藤季夫「変動期の日本外交と東南アジア」なども収められている。河野康子「日本外交と地域主義」については後述する。


 日本外交の基軸はあくまで日米関係であったことにより、アジア外交研究も必然的に日米関係への洞察を含むものとなる。これは、外交文書の公開が進んだことによって大きく進んだ近年の研究でも同様である。例えば、宮城大蔵『バンドン会議と日本のアジア復帰』(草思社)は、1955年に開催されたバンドン会議の国際関係史であるが、ここではバンドン会議における日本がアメリカとアジアの間で揺れる姿を描き出されている。また 昇亜美子『ベトナム戦争をめぐる日米関係と日本外交』(博士学位論文、慶應義塾大学)は、1965年から1973年までの日本の対北ベトナム外交の分析であるが、ここでも独自のアジア外交を模索しつつもアメリカとの関係に苦慮する日本の姿が描き出されている。
 宮城大蔵『戦後アジア秩序の模索と日本』(創文社)は、1957年から1966年のインドネシアをめぐる国際関係史を日本・アメリカ・中国・イギリスそれぞれの視点から描き出した国際関係史である。この四者はそれぞれ、開発・冷戦・革命・脱植民地化の論理でインドネシアへ関与した。この四つの視点を提示したことによって、本書はアジアとアメリカを対置する傾向のあった従来の研究の分析視角を乗り越えることに成功している。この視点は、従来にない斬新なものであるといえよう。


 こうして、アメリカかアジアか、という矛盾を抱えてきた日本外交にとって転機となったのが大平政権であった。大平政権では外交安保政策として「総合安全保障」と共に「環太平洋構想」が提唱された。環太平洋構想は、日本外交にとって日米関係が死活的に重要である点を踏まえ、その上で地域政策を検討し「アメリカもアジアも」という日本の政策を示したものである。この構想はその後、アジア太平洋経済協力会議(APEC)創設へ繋がっていくものである。
 先に取り上げた『年報政治学1997』に収められている、河野康子「日本外交と地域主義」は、時代を1960年代前半までさかのぼりながらアジア太平洋地域概念の形成過程を分析しており、環太平洋構想の前史を考えるうえで有益である。渡辺昭夫『アジア太平洋の国際関係と日本』(東京大学出版会)は、環太平洋構想にも関わった著者による先駆的な研究である。雑誌等に発表した論文を一冊にまとめたものなのだが、どの論考もアジア太平洋という視点から日本に対する考察を行っており、冷戦終結前後の日本の選択の幅を考えるうえでも有益である。また、渡邉昭夫・編著『アジア太平洋連帯構想』(NTT出版)は、「環太平洋構想」の作成に関わった当事者を中心とした論文集である。一貫した問題意識に基づいた論文が収録されているわけではないが、当事者の回顧から現在の東アジア共同体をめぐる議論まで幅広いテーマについての論考が収録されており、資料的な意味もある論文集である。


 以上、近年盛り上がりを見せている日本のアジア外交研究を紹介してきた。しかし日本のアジア外交研究には特有の問題が付きまとう。それは、対米外交との関係である。宮城大蔵の表現を借りれば、日本は「開発」、アメリカは「冷戦」の論理でアジアへ対処してきた。いかに、日本のアジア外交の様々な側面を指摘したとしても、日本の外交の根本が対米関係にある以上、対米関係次第、もしくはアメリカの思惑にアジア外交は強く影響されるのである。
 この点を、どのように捉えるかが研究の分岐点になるのではないだろうか。日米関係を中心に行われた戦後日本外交研究を「立体的に分析する」(井上寿一)ためには、アジア外交や経済外交の分析は不可欠である。分岐点は、これらの研究に日米関係をどのように反映させるか、ということである。
 最後にこの点に関連する疑問に触れておく。1970年代後半から80年代前半の日本外交について、従来の研究では福田政権は「全方位外交」であったが、大平政権は新冷戦の高まりと共に「西側の一員」を強調したという見方が主流であった。アジア外交を論じる文脈ではないが、大嶽秀夫『日本の防衛と国内政治』(三一書房)、などはその代表例である。このような見方に立つと、福田ドクトリンと環太平洋連帯構想は区別して論じられる。確かに、防衛政策を55年体制下の日本政治に基づいて分析すればこのような見方も妥当かもしれない。しかし、福田ドクトリンと環太平洋構想は共にアジアを対象とした地域政策であったことに注目したい。日本のアジア外交が、対米関係の拘束を受けている以上、この両政権を異なる路線として論じることは適切とはいえないのではないだろうか。むしろ、福田ドクトリンが新冷戦の終結と共に「復活」し、環太平洋連帯構想の延長上に位置付けることも可能なAPECと共に日本の地域政策として推進されたことを重視するべきではないだろうか。福田ドクトリンと環太平洋連帯構想の二つには冷戦後に繋がる、日本の対アジア政策が存在していた。この両者を統一的に考察することは出来ないのであろうか。この点は、筆者の検討課題である。

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2006年01月21日

卒論要旨。

冷戦終結と日本外交の「二つの選択」
~「野党」の変化に注目して~

<論文要旨>

 冷戦後の日本は二つの大きな選択をしている。一つは国際安全保障への参画という形で自衛隊を海外に派遣したことである。もう一つは、1996年の『日米安全保障共同宣言』(日米安保再定義)によって日米同盟を外交の基軸とすることを再び選択したことである。とはいえ、日本にとってこの二つの選択は容易ではなかった。「冷戦の勝者」とまでいわれた日本は、湾岸戦争で「敗北」した。また日米両国は80年代半ばから徐々に深刻な経済摩擦状態に陥っていた。さらに、冷戦終結期の日米関係修復の試みはことごとく失敗に終わったのである。

 従来の研究は、冷戦終結による国際環境の変化と北朝鮮の核開発問題などから「二つの選択」を説明することが多い。しかし、これらの研究では「二つの選択」を別個に分析されており、統一的に分析されているわけではない。このような研究に対し本稿では、「二つの選択」を統一的に理解することを目指し、選択の過程で「野党」の果たした役割に注目する。

  「野党」の変化の原点は1970年代にあった。ヨーロッパとは異なり東アジアの冷戦は多極間ゲームとして展開された。その多極間ゲームの転機となったのは1970年代であった。日本は、この過程で対米基軸と共に大国間の戦略ゲームには関与しないという冷戦後に繋がる外交路線の選択をしている。「野党」にとって大きかったのは米中接近の過程で中国が日米安保条約を積極的に肯定したことである。これは「野党」の対米観に根本的な修正を迫るものであった。この後、「野党」は徐々にその外交構想を修正していく。

 その後、新冷戦を経て冷戦終結となる。世界に冷戦終結を印象付けたのは湾岸戦争であった。湾岸戦争は日本にとっても転機となった。湾岸戦争は、日本の政府与党・「野党」・世論にそれぞれにとって「敗北」であった。この結果もたらされた変化は、まずPKOへの参加に代表される国際安全保障への参画をもたらした。この過程では公明党の変化が重要であった。

 同時期の日本は、経済摩擦の影響もあり日米関係の「漂流」という危機にあった。外務省が主導した日米関係修復の試みはなかなか実を結ばなかった。しかし、その一方で「野党」に大きな変化が起こりつつあった。そして、この変化は社会党の「政策大転換」に結実する。実は社会党の「大転換」の少し前から、実務レベルで冷戦後の安全保障のあり方を模索する動きが始まっていた。この試みの中から、日米安保再定義へつながる動きは生まれたのである。日米安保再定義は、日米同盟の役割を大きく拡大するものであり、従来であれば大きな抵抗が予想されるものであった。しかし、「野党」の70年代からの変化はこの時期には決定的なものになっており、日米安保再定義は大きな抵抗もなく達成されたのである。

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2005年12月19日

現代ロシア論特殊研究?発表。

3限、現代ロシア論特殊研究?。今日は、ここ2週間ほどの懸案だった発表。第二次世界大戦前夜である1939年の国際関係について、ヨーロッパと東アジアの連関に注目しつつ整理することが目的。かなり込み入った話なので、興味のある人がいたら直接聞いてください(あんまりいないだろうけど)。

内容を要約するのも面倒なので下にレジュメをコピペしときます。

※発表では細かい話を色々したけどレジュメには反映されてません。

今回はかなり色々な文献を読み込んだけど…ひと言で表すなら「玉石混交」。重要な文献は、D・C・ワット、アントニー・ベスト、アルヴィン・クックス、三谷太一郎、佐々木雄太、三宅正樹あたりだろうか。一部はレジュメの参考文献のところに挙げてあるので興味があればどーぞ。

今回の発表の大きな「穴」になっているのは中国。これは中途半端にしか調べることが出来なかったということもあるが、今回はヨーロッパ要因を使って東アジアの現象を説明することが目的だったという意味もある。その目的はある程度達成できたと思うが、先生のコメント「ヨーロッパの研究を参照することによって、何が言えて、何が言えないかを見極めなければいけない」ということの意味が、両肩にのしかかってくる。まぁ、具体的な研究を進める入り口に立って地図は手に入れた、というのが今日の発表の意味になるのかな。

問題は、卒論で冷戦終結期を扱うから当分戦前の研究をやる暇が無いということ。←大問題



第二次世界大戦前夜の国際関係
~極東とヨーロッパの連関に注目して~

【問題意識】

 第二次世界大戦前夜は、ヨーロッパ情勢と極東情勢が密接に結びついた時代であった。本報告では、密接に結びついた1939年を中心にヨーロッパ情勢と極東情勢を整理することによって、1941年12月の日米戦に帰結する東アジアの国際関係を理解する一助とすることを目的とする。具体的には、日本の日中戦争収拾方針の変遷を軸に、その変遷とヨーロッパ情勢の連関を中心に検討を行う。

※紙幅、発表時間の都合もありヨーロッパ情勢にはあまり詳しく触れることが出来ない。この点については質疑応答で対応したい。

【資料】

□年表
1937年 7月     盧溝橋事件(日中戦争勃発)
       8月     中ソ不可侵条約締結
1938年 9月     ミュンヘン会談
1939年 3月     ドイツ、ボヘミア・モラヴィアを併合
       5月     ノモンハン事件(8月まで徐々に戦闘の規模拡大)
              独伊、「鋼鉄同盟」締結
       6月     日英、天津危機(4月の事件をきっかけに日本軍が天津租界封鎖を計画)
       7月     アメリカ、日米通商航海条約破棄を通告
       8月     独ソ不可侵条約締結
       9月     ドイツ、ポーランドを攻撃
              英仏、ドイツに宣戦布告(第二次世界大戦勃発)
              ソ連、ポーランドを攻撃
      11月     ソ連、フィンランドを攻撃
1940年 5月     ドイツ、フランスを占領(ダンケルクの撤退)
       9月     日独伊三国同盟締結
      11月     日華基本条約締結
1941年 4月     日ソ中立条約締結
       6月     バルバロッサ作戦(独ソ戦勃発)
       7月     日本、南部仏印進駐
       8月     米英、大西洋憲章発表
      11月     アメリカ、ハルノートを提示
      12月     日本、真珠湾攻撃(日米戦争勃発、アメリカ参戦)

□各国の目標
・日本(現状打破勢力):満洲国を含む中国東北部の権益の確保→支那事変の収拾
・ソ連(現状打破勢力?):二正面作戦の回避→極東の軍事力強化&西側での提携相手(英仏or独)の模索
・ドイツ(現状打破勢力):勢力圏の拡大→提携相手(日英ソ伊など)を模索
・イギリス(現状維持勢力):帝国防衛→宥和&抑止政策の組み合わせ
・アメリカ(現状維持勢力):日独の権益拡大阻止→国民世論の「教育」

【本論】

■日中戦争(支那事変)への対応

 日本側(とくに軍部)における、日中戦争の根本原因は国民政府の背後にあると想定されたコミンテルンとソ連の極東における「赤化政策」に求められる。ここからも分かるように、当初、日中戦争の先にあるものは日英米戦争ではなく、日ソ戦争だと考えられていた。(三谷[1984])

 ・日本の収拾策(三谷[1984])
?日独伊枢軸強化により、その後にくる対ソ戦に対処するだけでなく、日中戦争の早期終結にとって不可欠なイギリスの妥協を引き出す。
?枢軸強化と並行して、(英米可分説に立って)対米工作を進める。

 ・ソ連の対応
→日中間の提携を避けるために中国を支援する(1937年8月には中ソ不可侵条約締結)と同時に、極東の軍事力強化に努める。対中援助は1938年4月~7月までがピークであり、これは日本の陸軍が枢軸強化の動きが1938年7月から活性化したこととも符合する。(三宅[1982])

 ・イギリスの対応(ベスト[1997])
→当初は英米協力を模索するがアメリカ側の積極的な対応は得られず。さらに対応策をめぐり、強攻策を主張する外務省と宥和を支持する首相が対立する。最終的に具体的な中国援助が決定されたのは1939年2月のことであるが、翌月には日本軍がスプラトリー諸島に進軍するなど、結局対日抑止政策は失敗。

・アメリカの対応(細谷[1998])
→「パネー号」事件などもあり、在華権益が侵害される事件が頻発したことによりアメリカの対日態度は次第に硬化する。繰り返し抗議の意思表示を行うが、日本の軍事行動面ではほとんど抑制効果を上げず。結局、日米通商航海条約や1936年中立法の建前もあり、有効な対処は出来ず。

 以上の対応は、天津危機や独ソ不可侵条約の締結と第二次世界大戦の勃発により大幅な修正が迫られることになる(後述)。

■ミュンヘン会談とその後(同盟再編成の模索)

 1938年には5月と9月の2度のチェコ危機を経て、英独仏伊の4カ国がミュンヘンで会談。結果、ドイツはチェコのズテーテンラントを得る。
 
 ◇各国の対応(ワット[1995]、斎藤[1995]、ベスト[1997])
・イギリス:ミュンヘンでの宥和の裏で再軍備に努める。
・ドイツ:ミュンヘン後も勢力圏の拡大を目指す。
・ソ連:ミュンヘンに呼ばれなかったことに衝撃を受け、従来の集団安全保障戦略を転換。翌年4月にはリトヴィノフからモロトフへ外相が交代
・日本:ミュンヘンでの英仏の宥和に勇気付けられ翌10月に広東占領作戦を実施、さらに11月には近衛首相が「東亜新秩序」声明を出した。

■ノモンハン事件(日ソ対立)

 1938年の張鼓峰事件に続き、1939年5月には満蒙国境のノモンハンで武力衝突が勃発する。徐々に戦火は拡大していく。ソ連は事態を重く見て、6月にジューコフを現場に送る。ゾルゲから日独交渉の経緯の報告を受けていたソ連は、ノモンハン事件を局地戦に終わらせる決意であったのだろう。8月20日には大規模な戦闘になり、日本軍は敗北(※純粋な兵力的被害という点ではソ連側も甚大であったという説もあるが、その後の対応などを検討すれば、軍事戦略的にはこの事件が日本軍の敗北であることは明らかであろう)。
 第二次大戦勃発後の9月15日、ノモンハン事件についての停戦協定が日ソ間で成立する。

■天津危機(日英米対立)

 1939年4月に中国海関の親日派の官吏が中国人ゲリラに殺害された。この事件の処理をめぐって日英は対立。6月半ばに日本軍が天津租界封鎖計画を発表したことにより、日英間で交渉による解決が目指されることになった。しかし、ヨーロッパの状況は、極東における危機の拡大ではなく緊張緩和を求めていた。結果、天津危機の処理過程でイギリスは日本に対して譲歩を重ねた。7月22日に結ばれた有田=クレーギー協定は、日本の現状を追認したもの、と各国に受け取られた。(佐々木[1987])

 イギリスの一方的な対日譲歩に危機感を抱いたアメリカは、7月26日に日米通商航海条約の破棄を通告。これにより、日本は日中戦争をめぐる従来の対米政策の根本的な修正を迫られることになった(=日本の日中戦争収拾方針?の破綻)。以後、日本の対米外交の目標は無条約状態の回避におかれることになる。(細谷[1988])
 
■独ソ不可侵条約(同盟再編成の帰結)

 1939年4月から、ソ連は提携を求める英仏との会談が始まった。一方、その裏でソ連はドイツとも交渉を行う。約3ヶ月の交渉の結果、結局ソ連はドイツとの提携を選択(8月半ばに決断?)。8月23日、独ソ不可侵条約が締結される。

※この交渉過程にノモンハン事件は影響を与えていたか?
→長期的な意味ではイエスだが、短期的にはノーではないか。

 独ソ不可侵条約締結によって、日本では平沼騏一郎内閣が総辞職。同時に、枢軸強化という日本の従来の政策も修正を迫られることになった=日本の日中戦争収拾方針?の破綻

■第二次世界大戦勃発

 独ソ不可侵条約によって、ソ連と結んだドイツは9月1日にポーランドを攻撃。9月3日、英仏はドイツへ宣戦布告(※ドイツから宣戦布告をしたわけではないということは興味深い)。もっともその後半年にわたって西ヨーロッパで実際の戦闘は起こらず。

 ヨーロッパで大戦勃発によって、イギリスは対独勝利が第一義的な目的となった。翌年6月までの「奇妙な戦争(Phoney War)」の間は、日本に対して「限定的宥和政策(a policy of limited appeasement)」を採り、それ以降日独伊三国同盟の締結までは、徹底した対日宥和を行った。一方の日本も、独ソ不可侵条約締結や日米通商航海条約の破棄通告によって戦略の見直しを迫られており、危機状態の緩和に関心を持っていたため、第二次大戦勃発後、日本の真珠湾攻撃までは日英対立は抑制された。(Best[1995])

■まとめ

・イデオロギーが一時的に消えた時代
・現状維持勢力VS.現状打破勢力に収斂
・選択肢の幅を検討する必要

【主要参考文献】

□書籍
佐々木雄太『三〇年代イギリス外交戦略』(名古屋大学出版会、1987年)
細谷千博『両大戦間の日本外交』(岩波書店、1988年)
ドナルド・キャメロン・ワット『第二次世界大戦はこうして始まった』(上下巻、河出書房新社、1995年)
斎藤治子『独ソ不可侵条約』(新樹社、1995年)
Antony Best, Britain, Japan and Pearl Harbor: Avoiding War in East Asia, 1936-1941(London: Routledge, 1995)

□論文
中西治「一九三八-一九三九年のソ連外交」『国際政治』(第72号、1982年)
三宅正樹「ヨーロッパ諸列強の動向と日本」『国際政治』(第72号、1982年)
ピーター・ロウ「イギリスとアジアにおける戦争の開幕」細谷千博・編『日英関係史 一九一七~一九四九』(東京大学出版会、1982年)
三谷太一郎「独ソ不可侵条約下の日中戦争外交」入江昭、有賀貞・編『戦間期の日本外交』(東京大学出版会、1984年)
波多野澄雄「独ソ不可侵条約と日本・ドイツ」『軍事史学』(第25巻、第3・4号、1990年)
アルヴィン・D・クックス「戦われざる日ソ戦」『軍事史学』(第25巻、第3・4号、1990年)
ゲルハルト・クレープス「ドイツ・ポーランド危機(一九三八~一九三九年)に対する日本の調停」『軍事史学』(第25巻、第3・4号、1990年)
駒村哲「ノモンハン事件と独ソ不可侵条約締結」『ロシア史研究』(第53号、1995年)
アントニー・ベスト「日中戦争と日英関係」『軍事史学』(第33巻2・3号、1997年)

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