アウトプット(?)

2012年07月16日

近況(共著を2冊刊行しました)

前回の更新から3ヵ月以上開きましたが、このブログも細々と続けていくつもりです。



さて、この間の個人的に大きな出来事は以下の2冊の共著が刊行されたことです(版元情報は画像にリンクを付けておきました)。どちらも日米関係絡みのプロジェクトで、当初は昨年度中に出版される予定だったのが、諸々の事情から今年度にずれこんでしまいました。



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1冊目は4月末に刊行された日米協会・編(五百旗頭真、久保文明、佐々木卓也、簑原俊洋・監修)『もう一つの日米交流史――日米協会資料で読む20世紀』(中央公論新社)です。

日米協会(リンク)は日米間の交流や相互理解の促進などを目的として1917年に設立された民間の団体です。初代会長が金子堅太郎、戦後は吉田茂、岸信介、福田赳夫といった首相経験者が会長を務めたことからも分かるように、民間にありながら政府とも関係が深く、日米双方の様々な関係者が演説/講演を行っています。例えば駐米大使と駐日大使は着任前と帰任時に日米協会で講演をするのが慣わしとなってきましたし、日米双方多数の要人が日米協会で講演をしています。

これらの貴重な演説/講演が英文のBulletinなどの形で残されており、資料集などの形で出版することは出来ないか、というのがこのプロジェクトの始まりだったようです。私が加えて頂いたのは途中からなので詳しいことは分かりませんが、最終的には「資料集+演説の解説」という形ではなく政治外交史の観点で全体の流れを押さえつつ、経済や文化交流にも目を配った形で通史的叙述の中に演説を埋め込んでいくというユニークな本になりました。

なぜか80年代前半は専門外の私が書かせて頂くことになったわけですが、他の部分は納得の人選です。戦前は監修者でもある簑原先生とかねてから日米協会の所蔵資料を使って研究を進められていた飯森明子先生、戦後の活動再開から60年安保までは楠綾子先生、60年代は昇亜美子先生とアメリカの対日政策を研究している玉置敦彦君が共同執筆、70年代頭は井上正也先生、半ばから後半は佐藤晋先生、80年代後半は千々和泰明先生という若手中心ながら豪華執筆陣です。なお80年代も文化交流の部分など「共同執筆」扱いになっている箇所もありますが、基本的には全て時代で区切り、あとは文言等や体裁の統一をした程度で実質的には分担執筆という形を取りました。

各章共に、最新の研究成果を織り込んだ政治外交史をふまえて全体の流れを整えつつ、日米協会で行われた演説/講演を紹介していく形になっています。80年代前半は、まだまだ利用できる一次資料が限られていることもあり、史料面でも新しさがある他の章とは異なり、全体のバランスを意識して80年代という時代の性格を捉えることを重視して執筆しました。安保面での日米摩擦が徐々に解消していく一方で経済面の対立が激しくなり、日米関係を限られた知米派・知日派だけで処理することができなくなっていくという時代の感覚や雰囲気を、日米協会における講演を織り込むによって出せたのではないかと思います。自画自賛になってしまいますが、分担執筆ながら千々和さんが担当された80年代後半ともうまく繋がったのではないかと考えています。

残念ながら私が担当した時代は、50年代のダレスやニクソン、60年代の吉田茂の講演のように歴史的にも貴重な講演があったわけではありません。それでも東郷文彦や大河原良雄(現・日米協会会長)といった新旧の駐米大使、福田赳夫元首相や大来佐武郎前外相などの日本側講演、モンデール前副大統領(講演後には民主党大統領候補)、アラバマ州知事のジョージ・ウォーレス、フルブライト元上院議員、海兵隊出身のローレンス・スノーデン在日米国商工会議所会頭といった米国側講演からは、外交文書や新聞報道を見るだけではなかなか分からない苦悩する知米派・知日派の姿が浮かび上がってきたように思います。

先月末に国際文化会館で特別出版記念フォーラムが行われ、僕も執筆者の1人として5分という短い時間ではありますが担当した時代について話してきました。このフォーラムの様子と本について産経新聞の千野境子さんが「土曜日に書く」というコーナーに「歴史刻んだ民間の日米交流、摺鉢山に日米勇士の碑」と題した7月15日掲載のコラムで紹介してくれました(リンク)。悪事でなく新聞に自分の名前が載る日が来るとは(笑)

今でこそ日本国際交流基金や日本国際交流センター(JCIE)など日米のみならず広く国際交流を手掛ける機関がありますが、日米協会が交流事業を一手に引き受けた時代がありました。日米協会の歴史、日米協会での演説/講演、日米関係史を通史的に書いた本書から浮かびあがる世界に関心がある方は決して少なくないのではないでしょうか。抜粋ではありますが巻末に演説の原文を収録するなど資料的価値もありますし、60年代のように最新の研究成果を惜しみなく盛り込んでいる章もあるので、研究としても読める少し変わった通史にもなっています。全体を通じて読み物としてもそれなりに面白いものになったのではないかと思います。ただ…600頁とはいえ定価が12600円(本体12000円)という普通は手が出ない設定になっているので、関心がある方は是非図書館等でご覧頂ければ幸いです。ちなみになぜか版元HPには四六判と出ていますが、A4判です。

日米関係にも80年代前半という時代にも関心は持ってはいたものの、博士論文で取り組んでいる研究課題からは少しはずれるので、不安が無かったわけではないのですが、こうやって本として刊行されると嬉しいものです。自分が研究しているテーマや時代をもう少し後の時代から眺めると何が見えてくるのかといったことや、政治や安全保障、経済、文化をバランス良く捉えようと努力する作業がこの段階で出来たことはとても良かったと思っています。改めて声をかけて頂いた諸先生方や事務局の方々に感謝です。



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もう1冊は6月頭に刊行された簑原俊洋・編『「戦争」で読む日米関係100年――日露戦争から対テロ戦争まで』(朝日選書)です。

2年ほど前に同じく朝日選書から出た筒井清忠・編『解明 昭和史――東京裁判までの道』のように、最新の研究成果を踏まえた一般書として企画されたもので、編者の簑原先生、冷戦期を取りまとめられた楠先生に声をかけて頂きました。ありがたいことに、この本では自分の専門の話を書くことができました(「第9章 第四次中東戦争――石油をめぐる日米の対立と協調」)。

取り上げられている「戦争」は、日米が直接対峙した第二次世界大戦を除いたもので、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争、朝鮮戦争、中ソ対立、ベトナム戦争、第四次中東戦争、湾岸戦争、対テロ戦争、それから「核なき世界」や「新しい戦争」と「人間の安全保障」といったテーマに及ぶ、こちらもなかなか類書が無いユニークな本になっています。戦前、冷戦期、冷戦後の3部構成、全14章です。

私の担当部分の大枠は「第一次石油危機における日本外交再考――消費国間協調参画と中東政策「明確化」」『法学政治学論究』第89号、2011年6月(リンク)などこれまでに発表した論文を改稿した形になっていますが、日本外交ではなく日米関係を分析対象としたこと、そして日米関係をただ日米関係として捉えるのではなく、出来る限り広い国際的な文脈の中に置いて考えたことに新味があります。一般向けの短い論考ではありますが、従来の第一次石油危機や第四次中東戦争時の日米関係/日本外交とはかなり異なるイメージを打ち出せたのではないかと思っています。一般向けの選書という性格もあって一次資料に関して詳細な注は付けることが出来ませんでしたし、実際には文書を使っていても地の文に埋め込んだ部分が多いのですが、米国立公文書館での資料収集の成果を多少入れることが出来たこともこれまでに発表した研究と比べた新しい点です。

博論で取り組んでいる「日本外交」ではなく「日米関係」としての意義付けを意識してこの問題を考えるとても良い機会になりました。もちろん国際的な文脈を押さえることは「日本外交」を研究する際にも重要ですが、やはり「日本外交」として捉える場合は国内や官庁の内部の文脈がより重要になります。「閉じた」歴史にしないためには国際的な文脈を押さえる必要があることは言うまでもないことです。ただ、「国際政治史」ではなく、あえて「一国外交史」を書くことにもそれなりに意味があることだと今は考えています。この辺りのバランスをどう工夫していくかは博士論文をまとめていく上でも大きな課題になりそうです。

『もう一つの日米交流史』とは違い、こちらは一般読者を想定した選書であり、約300頁、税込1680円という良心的な価格設定になっています。私の担当章はともかくとして、どの章も最新の研究成果を踏まえて一般向けに約1万字で書かれているので自信を持っておススメできる1冊です。関心のある方は是非ご一読を!



この他、共著書の翻訳出版や、ある元外交官の方のインタビュー記録の出版など、楽しみな企画が後ろに控えています。順調に進めば、どちらも今年度後半に刊行ということになりそうです。

と、本好きの自分にとっては嬉しい出来事が続いたわけですが、肝心の博士論文はなかなかうまく進まない時期が続きました。ただようやく骨格が固まったかなという感じになってきたので、今週師匠に相談をしてOKが出たらペースを一気に上げて書いてしまいたいと思っています。9月に約3週間ほどロンドンに資料収集に行く予定なので、それまでに終わらせることが絶対目標です。


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2011年08月17日

オーラル・ヒストリー

3ヶ月ぶりのブログ更新です。

詳しい近況はまたその内に書くことにして(と言いいながら書かないのがいつものパターンになっていますが…)、今日はツイッターでつぶやいたところ反響が大きかった研究関係の話を書いておこうと思います。



政策研究大学院大学(GRIPS)の「C.O.E.オーラル・政策研究プロジェクト」(リンク)でかつて実施されたオーラル・ヒストリーの一部がオンライン上で閲覧出来るようになりました(リンク)。



私が大学に入学した10年前までは、まだそれほど知られていなかったオーラル・ヒストリーですが、この10年の間に状況は大きく変わったと思います。政治関係のみならず様々な分野でオーラル・ヒストリーが試みられるようになり、商業出版される成果も増えてきました。もちろん「オーラル・ヒストリー」という言葉が紹介される前から日本には「聞き書き」の伝統がありましたし、様々な形で先人に対する聞き取りは行われてきました。聞き取り対象による違いは大きいと思いますが、10年前はまだ政治家や元官僚が自分達の経験を公にすることを前提に語ることはそれほど多くはありませんでした。こういった状況はこの10年で一変しました。依然として「大事なことは墓場まで持って行く」という文化が残っていないわけではありませんが、それでも多くの政治家や元官僚が口を開くようになっています。

こうした変化の牽引車となったのが、GRIPSの「C.O.E.オーラル・政策研究プロジェクト」です。

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『聞き書 宮澤喜一回顧録』(岩波書店、2005年)、大河原良雄『オーラル・ヒストリー 日米関係』(ジャパン・タイムズ社、2005年)、宮崎勇『証言 戦後日本経済――政策形成の現場から』(岩波書店、2005年)など、既にこのプロジェクトの成果を基に商業出版された本もありましたし、基本的にプロジェクトの成果物はGRIPSの図書館で閲覧することが出来ました。また、全てではありませんが、東大や慶應などの大学にはかなりの数の成果物が所蔵されていました。

このように、これまでもプロジェクトの成果は研究者に利用されてきましたが、今回、一部の成果のWeb公開が行われたことによって、これまで以上に利用が進むことが期待されます。Web公開されているデータはPDFであり、OCR処理されているので文字検索をかけることも可能なので、関連するオーラルには既に目を通しているという研究者にとっても大きな意味があるのではないでしょうか。

オンライン上での閲覧は、上記リンク先の検索ページから行うことが出来ます。全てをチェックした訳では無いですが、ざっと見たところ外交・安全保障関係では以下の人達のオーラル・ヒストリーがWeb上で閲覧可能です(50音順:括弧内はかつての役職)。

※名前をクリックするとPDFが開く一つ前のページに飛びます。

伊藤圭一(内閣国防会事務局長)
上原信夫(沖縄民主同盟青年部長)
扇一登(海軍大佐)
小田村四郎(行政管理事務次官、拓殖大学総長)
海原治(内閣国防会議事務局長)
海部俊樹(内閣総理大臣)
栗山尚一(駐米大使:①転換期の日米関係)
栗山尚一(駐米大使:②湾岸戦争と日本外交)
斎藤彰(アメリカ総局長)
夏目晴雄(防衛事務次官)
宝珠山昇(防衛施設庁長官)
松野頼三(自民党衆議院議員)
宮崎弘道(外務審議官、駐西ドイツ大使)
吉野文六(外務審議官、駐西ドイツ大使)
吉元政矩(沖縄県副知事)

この他にも政界、官界に広げればもっとWeb閲覧可能なオーラルがあると思います。

Web公開の可否は、おそらくインタビュイー次第なのでしょう。今後すぐに公開数が増えるということは無いと思いますが、聞き取り終了後10年といった区切りで増えることを期待したいところです。



以上のようにWeb上で多数のオーラル・ヒストリーを閲覧出来るようになったことは喜ばしいことですが、他方でこれまで以上に安易なオーラル・ヒストリーの利用が増えるのでは無いかという危惧が無いわけではありません。これは、オーラル・ヒストリーを研究にどのように活かしていくかということに直結する問題でもあります。

さて、ここからオーラル・ヒストリーを研究に活かしていく上での課題と、「C.O.E.オーラル・政策研究プロジェクト」以外のオーラル・ヒストリー・プロジェクトについても紹介しようかなと思っていたのですが、ここまで書いて疲れてしまったので、ひとまずこんなところで。


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2010年11月04日

国際政治学会で報告をしてきました

先週末、札幌で行われた国際政治学会で「第一次石油危機における日本外交・再考」と題した報告をしてきました。

報告させて頂いたのは「『経済大国化』と日本外交の新局面」と題した部会で、1970年前後の日本外交を「経済大国化」という共通の視角から切り取り、「政治(=アジア外交)」「経済(=第一次石油危機)」「安全保障(=沖縄返還)」の各側面から検討してみようという企画趣旨です。

学会初日(金曜日)の一番最初という時間ながら、会場に入りきらないほどの人が来て下さり、報告者三人で相談し「強気に100部刷ろう」と決めて持って行ったレジュメが「売り切れ」になったのは嬉しい誤算です。ここに書いてもあまり意味は無いかもしれませんが、司会・討論を務めて頂いた三人の先生方、会場に来て頂いた皆様に御礼申し上げます。

一緒に報告をさせて頂いたお二人に「部会をやりませんか」とお声をおかけしたのが、昨年の学会なので、それから丸一年経ってしまったということです。他のプロジェクトで顔を合わせる機会もあり、また別途機会を設けて何度か企画をすり合わせたので、部会全体としてもそれなりのまとまりが出せたのではないかと思います。

時間に限りもあり、討論者の先生やフロアとのやり取りはやや消化不良に終わってしまった面もありますが、1960年代後半から70年代前半の日本外交を考える手がかりのようなものは見出せたのではないかというのが、報告したメンバーの一致した意見です。

…と、ここまでは当初の予定がうまく行き過ぎるほどうまく行ったということなのですが、実際に報告をさせて頂いて感じたのは、他の二人の完成度の高く充実した報告と比べた時の自分の力不足です。研究のインパクトや質、分析の視角と枠組み、25分という限られた時間でのプレゼンテーション、質疑応答、その全てにおいてまだまだ修行が足りないことを実感しました。

そんなわけで、報告が終わった後は結構凹んでいたのですが、よくよく考えてみれば、博士号を取得され単著の出版間近という先輩研究者に比べて博士課程二年の自分に力が足りないというのはごくごく当たり前の事実だということに気が付きました(どれだけ普段は傲慢なんだという話です)。

博士論文を基にさらに練り上げた報告と、修士論文に毛が生えた報告を比べること自体が間違っているというものです。もちろん、報告をする以上、言い訳をせずに常に最善を尽くして真摯に取り組むしかないわけで、研究者としてのキャリアは関係ありませんが、まずは「何でこんな変な報告が混ざっているんだ」と思われなかったことだけでも及第点と受け取るべきなのだろうと思います。

今回の経験を糧にして、次の機会によりよい報告が出来ればいいのだろうと今は考えています。

◇◇◇

気が付けば2010年も残すところあと2ヶ月となりました。

自分で立てた2010年の目標は「研究成果の発信」ということです。修士論文の一部を基にした論文を『国際政治』に掲載して頂いたのは、その一つの成果であり、今回、ここにもう一つ学会報告という成果を加えることが出来ました。

体調管理に気を付けて(実は学会報告直後から体調を崩してしまい一昨日まで寝込んでいました)、残りの2ヶ月もしっかりと研究に取り組んでいきたいと思います。

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2010年08月17日

日本外交史研究者向け情報(3)

この数日、とにかく暑いです。冬には4度まで下がる自分の部屋の昨晩の気温は31度でした。死にそうです。

これまでブログに書いてきた新刊チェック等々は、twitterの方に書いています。パパパッと気になる本を挙げておくと、それに知り合いが反応して関連する文献を挙げてくれるたりと、これはなかなか便利です。twilogを利用すれば、自分の書いた内容も保存できますし、こんな便利なツールを使わない手はありません。外交史研究者はまだまだ利用者が少ないので、もう少し増えてくれるといいのですが。

ブログとtwitterの情報の流れやスピードの違いを実感しつつ、うまく使い分けていこうと思います。



さて、久しぶりに戦後日本外交史の資料について更新しておきます。今回は情報公開法施行による変化について簡単にまとめたいと思います。思いつくままに書いており、校正・校閲は一切していない悪文ですが、悪しからず。

前回は「戦後外交記録公開」について簡単にまとめました。そのポイントは、「原則非公開、例外公開」であり、外務省が選択的に公開文書を決定してきたということです。

繰り返しになりますが、だからと言って日本の文書が直ちに「使えない」ということではありません。「日本の文書はロジばかりで」と言う研究者もいますが、そういった方は、よく言えば、そういった文書しか公開されていなかった日米安保関係のような分野を先行しているか、イギリスやアメリカといった比較的系統的に文書が残っている国の文書を読んでいる人であり、悪く言えば日本の文書をしっかりとは読み込めていない(もしくは日本の政策決定過程を理解していない)と言えると思います。

とはいえ、「原則非公開、例外公開」という状況では、どうしても研究者は「まだ隠し持っているのではないか」と考えてしまいます。実際、この半年で様々な文書が公開されたように、政府はまだ文書を保存していたわけです。

その意味で政権交代や福田政権期の公文書管理規則制定は重要ですが、その前に情報公開法施行の意味について検討しておく必要があるでしょう。前置きが長くなりましたが、以下本題に入ります。

周知のように情報公開法は1999年5月に公布、2001年4月に施行されたものです。正式名称は「行政機関の保有する情報の公開法に関する法律」で、基本的に行政機関の保有する全ての情報が公開請求の対象になります。これは現在保有している文書全てというこであり、場合によっては直近の問題でも文書が開示されることがあります。

情報公開法施行によって行政側に過重な事務負担を生んだという問題はあり、その運用上の問題は様々な形で指摘することは可能ですし、昨今話題になっているように現有文書が大量に放棄されたのではないかという疑惑もありますが、この出来事が戦後日本外交史研究にとって画期的な意味を持ったことは間違いありません。

それは、何よりもこれまで全体像が掴めなかった外務省文書の全体像がおぼろげながらも研究者に理解可能になると共に、実際に開示請求に基づいて各種の重要な文書が開示されたからです。もちろん、外交に関係するのは外務省ばかりではなく、関連する財務省・経産省・防衛省といった文書公開は十分ではないわけですが(そもそも情報公開の運用方法も異なるように思います)、それでも外務省文書が一定数開示されたことの意義は大きいです。

説明が必要なのは「外務省文書の全体像」です。それをどのように把握すればいいのでしょうか。ここで登場するのが「行政文書ファイル管理簿」です。これはgoogle等で検索すればすぐに見つかると思いますが、「e-GOV(電子政府の総合窓口)」の一つで、各省庁の現有文書ファイルを検索出来るものです。

詳細検索であれば、文書ファイル名、大分類、中分類、小分類、作成者、作成(取得)時期、保存期間満了時期、管理担当課・係から検索可能で、これを使いこなせば、ある政策課題について、現在保有されている文書ファイルが基本的に全て見つけることが出来ます。

情報開示請求を行うのに、必ずしも「行政文書ファイル管理簿」を調べる必要があるわけではありません。例えば「〇〇年〇〇月、〇〇と〇〇の会談に関連する文書」といった形で請求をすることも可能です。なぜ「行政文書ファイル管理簿」の説明をしているかと言えば、それは請求の受け手である省庁側もこの「行政文書ファイル管理簿」を利用しているからです。

情報公開請求でよく耳にするケースは「不開示(不存在)」という回答です。そんなわけは無いだろうという文書でもこうした回答を貰うことはあります。自分の場合は、「1974年2月に開催されたワシントン・エネルギー会議に関する資料」とかなり大まかな設定をして開示請求をしたら、「不開示(不存在)」と回答を貰ったことがあります。確かに「行政ファイル管理簿」で「ワシントン・エネルギー会議」と検索すると、ファイルは一つも見つかりません。しかし、「エネルギー・ワシントン会議」で検索すれば5件のファイルが見つかります。この場合は、すぐに情報公開室(現在は外交記録・情報公開室)の担当者に電話をして、「エネルギー・ワシントン会議」で再度検索して貰うようにお願いをしました。

これは、かなりひどいケースですが、重要なのは請求を受けた側も情報があまり無いということと、仕事量が増えるだけの情報公開については、ついつい「不開示(不存在)」にしたいという誘因が働くということです。大切なことは、こうした事態を踏まえて、出来る限り請求側から情報を提供して担当者が該当文書を見つけやすくすることです。これによって、請求者は「不開示(不存在)」とされるリスクが無くなり、また請求の受け手の事務作業も減ることになります。

閑話休題。ついつい、「外務省文書の全体像」の話をするはずが、話題が拡散してしまいました。

「行政文書ファイル管理簿」で丹念にファイルを検索していけば、ファイル単位ではありますが、自分が欲しい文書の全てを把握することが出来るのです。私の場合は、現在の研究対象が60年代後半から70年代半ばであり、前の時代については違うのかもしれませんが、基本的には以前の記事で説明した「外交記録公開」の文書をまずチェックし、その上で「行政ファイル管理簿」を調べれば、自分が見なければいけない資料を押さえることで、自分が見なければいけない資料は基本的に全て分かりました。

これは、占領期から60年代半ばを研究している人にも基本的に当てはまる話です。つまり、「外交記録公開」の文書をまずチェックして、それから「行政文書ファイル管理簿」を丹念に検索すれば、いま開示されていないファイルが何なのかが分かるということです。

ひとまず今回はここまで。次回は、情報開示請求の使い方を簡単にまとめようと思います。

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2010年08月05日

課題がもう一つ終了!/日本外交史研究者向け情報(2)

バタバタとした毎日を送っている内に、前回の更新からまた一週間以上空いてしまいました。

積み上がった課題もこの一週間でそれなりに減ってきました。もう一週間経ってしまいましたが、最後の詰めに苦労した2本目の論文を某学会誌に投稿(パチパチ)。無事、受領通知も来たので、あとは天命を待つばかりです。

その他は、研究費関連の処理やら、某プロジェクトの研究補佐の仕事やら、行政学のお勉強やら、インタビューのテープ起こしやら、細々とした課題がそれぞれひと区切り付きました。といっても、まだ終わっていないテープ起こしが二つあるので、これを何とか来週頭に終わらせて、大きな課題に取りかかる態勢を整えたいものです。

と、思いつつも、明日からのROCK IN JAPAN FES 2010に向けて気持ちが盛り上がってきてしまったので、今日の勉強&研究はここまでにして筑波の通人宅へ向かうことにします。



twitterを始めて2週間経って、何となく使い方が分かってきました。同時に感じたのは、大したことでは無くてもツイートしていると、アウトプットへの欲求が満たされてしまうということで、これはこれで危険だなと思います。



本の話で色々書きたいことがあると宣言しつつも、なかなか筆が進まないので、まずは前回の記事で少し書いた「日本外交史研究者向け情報(=日本の外交文書公開の実態)」を書き進めることにします。

前回は、「戦後外交記録公開の全体像を把握せよ」というところで終わったので、今回はその全体像について紹介をしておきます。

「全体像」を把握するためにはどうすればいいのか。いま一番簡単な方法は、外交史料館のHPにアクセスすることです。そこから、まず「所蔵史料」をクリック、続いて戦後期のところにある「外交記録公開」に進むとお目当てのページが見つかります(リンク)。

ごちゃごちゃした説明を省いてまとめてしまえば、いま戦後外交記録は、大きく分けて3つの方法(①外交記録公開、②情報開示請求に基づく公開、③外交史料館への移管ファイル)で公開されています。

第一は「外交記録公開」。これは1976年から始まったもので、第1回から第21回まであります。2001年までは、戦後日本外交に関する日本の一次資料は、基本的にこの「外交記録公開」のみでした。「青ファイル」云々という外務省の文書管理に関する専門的な話は置いておくとして、ざっくり言えば、これは「作成から30年以上経過した外務省文書の一部を公開した」ものです。

トータルの資料数はかなりありますし、実際に重要な資料が数多く含まれています。ただし、基本はマイクロ・フィルムかCD-R(第18回公開以降)での公開で、閲覧者が資料の全体像を把握出来ないという難点があり、「まだ隠し持っているのではないか」という、ある種の不信感に繋がった点は否めません。ちなみに第1回~第5回、第7回、第8回はインターネット上でも閲覧出来ます。

「外交記録公開」に含まれる文書は占領期から70年代中盤までですが、実質的にはほぼ60年代半ばまでというのが研究者の共通理解と言っていいのだと思います(なぜこの年代なのかということの背景には、60年代中盤の外務省内の文書管理規則の変化があるようです)。とはいえ、今の段階でも(ある時期までの)戦後日本外交史を研究する際に、まずチェックしなければいけないのは、この「外交記録公開」の文書です。

それでは、どのようにチェックするのか。ここで役立つのが、「戦後期外務省記録(青ファイル)分類表」です(※これはgoogleなどで検索すればすぐに見つかります)。この分類表を見て、自分の関係する資料がどこにあるのかをある程度の当たりを付け、その上でそれぞれのファイルをチェックしていくことが、基本的な手順になります。

どういったファイルがあるのかを確認するためには、おそらくこれまでは外交史料館に置いてある目録を確認しなければいけなかったのだと思いますが、一ヶ月くらい前から、外交史料館のHPで目録を閲覧出来るようになりました。やや残念なのは、この目録では含まれる文書の作成年月日までは確認出来ないことですが、それでも、大体の当たりを付けられる点は重要です。

と、ここまで書いたところで、時間が無くなってしまったので、情報公開法施行による変化については、また次の機会に書くことにします。乞うご期待。

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2010年07月28日

課題が一つ終了!/日本外交史研究者向け情報(1)

前々回のエントリーで、この夏は大きな課題が6個あると書きましたが、ようやく一つ(課題その2)終わりました。順調に行けば、夏の間に報告書形式でオーラル・ヒストリー刊行まで行くのではないでしょうか。

もう一つ、この夏最初の課題である2本目の論文を投稿(課題その1)が、今日のやるべきことです。先輩にコメントを頂く関係で作業をストップしていたとはいえ、予定よりも少し時間がかかってしまいました。



そんな慌ただしい夏なのに(いや慌ただしいからこそか)、時流に乗ってtwitterを始めてしまいました。



従来、戦後日本外交史を研究しようすると必ず言われたことは、「資料が無い、資料が少ない」ということです。しかし、この後の数年でこの言い訳は出来なくなるのではないでしょうか。

この数年の間に日本の外交文書を巡る状況は大きく変わりました。民主党の政権交代によるいわゆる「密約」関連の調査や関連文書の公開ばかりが注目されがちですが、福田康夫政権下における公文書管理規則の検討も見逃すことが出来ません。

もちろん、2001年の情報公開法施行が大きな転機になったことは間違いありませんが、実際研究を見る限りでは、この法律をうまく使いこなせている研究は決して多くは無いというのが率直な感想です。うまく使っている研究は、従来と同じようにまずは外交史料館で「戦後外交記録公開」で開示された資料をチェックし、さらに諸外国資料を使っています。こうした資料群をしっかり使った上で、補足的に情報公開法を使えば、実はかなりの数の眠っている資料を引き出すことが出来ます。ポイントは、情報公開法を利用した研究の多くは、あくまで情報公開法で引き出した資料はメインではなく、追加的に用いていたということです。

なぜなら、戦後外交記録公開の原則はあくまで「非公開」で、例外として一部の資料が「公開」されていたからで、まだまだ外務省に眠っている資料があったからです。つまり、資料の大枠を「戦後外交記録公開」で出された文書で掴み、さらに諸外国資料を通して文脈を補強した上で、眠っている資料を引き出しているのが、これまでの「いい研究」の多くです。

これに対して、資料公開の実態をおさえずにただ情報公開法で引き出した資料で書いた研究は、断片的に資料を見ているに過ぎず、歴史研究としてはあまりに少ない資料しか見られていないわけです。もちろん、資料など無くても良質的な研究をすることは可能ですが、それならば「歴史研究」は必ずしも適した方法論ではなく、別のやり方があるというものです。

といったところが、2008年くらいまでの状況ですが、これがこの数年で大きく変わりつつあります。おそらく重要な転機となったのは、福田政権下で進んだ、公文書管理規則の検討だと思います。この検討後に、日本の外交史料はものすごい勢いで開示が進んでいる。

それまでの公開方法との大きな違いは、「原則非公開、例外公開」から「原則公開、例外非公開」へと変わったことです。ファイルごとの公開という限界はありますが、原則が変わったことの意義はとても大きい。なぜなら、それによって研究者が資料の全体を把握出来るようになるからです。ただし、資料の全体像を把握するには多少の経験とこつが必要です。この「こつ」を説明する前に現在の戦後外交記録の公開方法の全体像を概観しておく必要があると思います。

と、ここまで書いたところで疲れてしまったので、戦後外交に関する文書公開の全体像の概観は次回更新の課題にします。

※ちなみに、以上と矛盾するようですが、私の研究で使っているメインの資料は情報公開法で取得したものです。この点では上記の「いい研究」の条件を満たしていないわけですが、言い訳をすれば、第一に、「戦後外交記録公開」で公開される時代よりも後の時代を取り扱っていること、第二に、徹底して情報公開請求をかけており、資料の全貌は ほぼ掴んでいること、第三に、論文には使っていないものの諸外国資料もそれなりに読み込んでいる、ということは強調しておきたいところです。この辺りは、 情報公開請求のこつにも関わってくるところなので、これもまた次回の更新時に書きます。

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2010年04月23日

堂目卓生「経済学の基礎としての人間研究」

テープ起こしに疲れたので、気分転換を兼ねて昨日の残りを更新しておきます。



5限:プロジェクト科目I(政治思想研究)

前週の報告(「経済学の基礎としての人間研究:学史的考察」)を受けての討論を担当しました。発表者がいない授業での討論(≒欠席裁判)ということで、やや論争的に討論原稿を作成してみました。原稿は↓に載せておきます。

堂目先生の報告内容のエッセンスは、「人間学としての経済学」という形で『Foresight』誌2009年8月号~2010年4月号までに連載されているので、ご関心がある方はそちらを見て頂ければと思います(ライオネル・ロビンズの部分は掲載されませんでしたが……ここにも休刊の余波が)。

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さて、授業で話題になったのは、下記の討論内容そのものというよりも、堂目先生の前著『アダム・スミス――『道徳感情論』と『国富論』の世界』(中公新書、2008年)との関連でした。もちろん、『アダム・スミス』を読んでいたからこそ堂目先生をリクエストしたくらいで、それなりにしっかりと読み込んでいたはずだったのですが、討論は前週の報告に対応する形で行ったために、やや議論が浅くなってしまったかなと反省しています。

授業で先生方が議論をしているのを聞きながら、『アダム・スミス』の付箋を付けていた部分を見返してみると、明らかに前週の報告とは異なるスミスの人間像を堂目先生が描き出しているので、そのギャップに少し驚いてしまいました。

詳しくは下記原稿を見て頂きたいのですが、前週の報告は、「個人の規範原理→立法者の規範原理」という枠組みを前提として、主流派経済学の発展に寄与した7人のイギリスの経済学者の人間観と経済学としての主張を検討したものでした。つまり、ここでのスミスは経済学の祖としての位置付けを与えられているわけです。この扱いは『アダム・スミス』とは若干異なるものです。『アダム・スミス』では、経済学者としてよりも道徳哲学者としてのスミスを重視しています。それゆえ、そこで描き出されるスミスの人間観として常に強調されるのは、「社会的存在としての人間」ということです。ここからは「個人の規範原理→立法者の規範原理」という単純な図式は導き出されません。

結局、授業での議論の多くが『アダム・スミス』における議論と前週の報告の齟齬を確認するような形になってしまったのは、討論に『アダム・スミス』での議論を入れなかったためだと思うので、この点が失敗と言えば失敗でしょうか。

とはいえ、『アダム・スミス』における堂目先生の議論を重視して、「人間学としての経済学」の発展可能性を考えても、やはりそこには多大な困難が伴うのだと思います。この辺りは報告原稿をご覧ください。

なお、授業での議論では、政策科学に対する不信感のようなものが様々な形で表明されましたが、(言い方は悪いですが)それは政治学者にありがちな「不感症」というものです。政治の議論無しに経済政策を論じることが出来ないのと同じように、現代社会では経済の議論を無視して政治を論じることは出来ません。

いずれにしても、専門分化が進んだこの21世紀における学問の難しさのようなものについて考えさせられる時間でした。



堂目卓生「経済学の基礎としての人間研究:学史的考察」を受けて

1 はじめに

先週の堂目先生の報告では、イギリスの経済学者7人(ヒューム、スミス、ベンサム、ジョン・ステュアート・ミル、マーシャル、ケインズ、ロビンズ)を例にとって「人間研究にもとづいた経済学」の構想が、どのように取り組まれてきたかが考察された。その結論は、「経済学者がどのような人間観や社会観をもつかということが経済学の発展の方向を決定する上で重要だということである」。

ここで、まず確認しておかなければならないことは、報告の基となった原稿は2009年度日本経済学会秋季大会のための報告ペーパーであり経済学者に向けられたものだということである。当然のことながら、政治学者に向けられたものではない。つまり、報告の問題関心は、「自己利益の最大化に向けて利己的・合理的に行動する経済人(homo-economics)」を前提とする主流派の経済学(とりわけ理論経済学)のあり方に対する危機感である。

とはいえ、報告でも指摘されていたように、行動経済学や実験経済学など「経済人」を前提としない経済学も近年徐々に広がりつつあるし(1)、ゲーム理論に基づいた比較制度分析のように単一の市場ではなく「多元的経済の普遍的分析」を目指す(2)学派も登場している。また、ミクロ経済学や厚生経済学の観点から貧困のメカニズムを明らかにしたアマルティア・センの研究など、社会的公正と分配の問題に取り組む経済学者は現在も存在する(3)。しかしながら、現在の主流があくまで「経済人」を前提とした研究であることは間違いない。そうした研究の多くが、市場のメカニズムの解明には力を発揮しても、現実の経済問題に対して有効な処方箋を提供できていないという批判は、サブプライム・ローン問題を発端とする数年来の世界不況によって再び強くなっている。

こうした経済学の状況――そして経済学の置かれた状況――を踏まえて、経済学の発展に寄与した多くの経済学者が、実は「人間とは何か、人間は何を求める存在なのかをよく考えた上で経済のありかたを論じようとしてきた」(4)ことを明らかにし、経済学にとっての人間研究の重要性を指摘する堂目先生の意図には共感するものである。しかしながら、報告を受けての印象は、むしろ、取り上げられた経済学者達――そして堂目先生の報告――が前提としている「人間観」ないしはその枠組みこそが、経済学を経済学たらしめているものであり、「人間学としての経済学」を成立させることを難しくしているのではないだろうか、というものであった。

以下では、簡単に報告の枠組みをまとめた上で、そこに潜む経済学的思考の(政治学の視角から見た)問題を析出することを目指して、議論を進めていく。

(1) 行動経済学の多様な研究動向を押さえた入門書としては、差し当たり、友野典男『行動経済学――経済は「感情」で動いている』(光文社新書、2006年)。
(2) 青木昌彦『比較制度分析序説』(講談社学術文庫、2008年)、8頁。
(3) 経済学の草創期から現代までの経済学史を簡潔にまとめたものとして、根井雅弘『入門 経済学の歴史』(ちくま新書、2010年)。
(4) 堂目卓生「人間学としての経済学 連載第1回 経済学は「人間の心」をどう扱ってきたか」『フォーサイト』2009年8月号、35頁。同連載は、先週の報告ペーパーを土台に一般向けに書かれたものである。


2 堂目先生の議論の枠組み(=「人間学としての経済学」)

はじめに先週の報告の議論の枠組みを簡単に確認しておきたい。先に述べたように、報告で取り上げられたのはイギリスの7人の経済学者(ヒューム、スミス、ベンサム、ジョン・ステュアート・ミル、マーシャル、ケインズ、ロビンズ)である。この7人は「経済学の創成と発展に貢献した人びと」であり、彼らの 「人間研究と経済学の関連」、あるいは彼らが「規範・理論・政策の関連をどのように意識し、その問題と格闘したかを鳥瞰した」のが先週の報告である。その際に前提となるのが、経済学の基礎には「人間研究」があるということである。

報告ペーパーによれば、まず「経済学は、<理論>の領域と<政策>の領域に分けられ」る。そして「理論の領域においては、「諸事実」にもとづいて「諸理論」が形成される。一方、政策の領域においては、諸事実と諸理論にもとづいて、何らかの「目標」が設定される。そして、設定された目標を最もよく達成する 「手段」が選択され、具体的な「ルール」や「制度」が構築される」。ここで重要になるのが、「人間研究」である。なぜなら、「諸事実や諸理論は、「である」で終わる命題の集まりにすぎないのに対し、目標は「べき」で終わる命題からなるからである」。それゆえ、政策当局には採用する善悪の判断基準(=「立法者の規範原理」)が求められ、そしてそれは政治的リベラリズムが成立しているならば、個人が自分や他人の行動と性格の善悪を判断する基準(=「個人の規範原理」)に大きく影響を受けると仮定されている。「人間研究」とは、「他人の行為や自分の心の観察を通じて、<規範>の領域、すなわち個人の規範原理お よび立法者の規範原理を解明すること」であり、経済学が「政策の領域をカバーしようとするかぎり、人間学的考察から独立であることはでき」ず、さらに「個人の規範原理がいかなるものであるかを考えるということは、人間とはどのようなものか、どのような原理にしたがって行動するのかということを考えることであり、その考察の結果は、諸理論にも影響する」という。

以上が、報告の前提となる枠組みであるが、ここで報告内容について一つ指摘をしておきたい。それは、この枠組みが果たして報告を通して貫かれているのかということである。この点が最も顕著に表れているのは、ロビンズを検討した箇所である。報告では、ロビンズが「経済学を人間研究から分離することを提唱」 し、経済学を「純粋経済学」化した側面が強調されている。同時にロビンズの純粋経済学の定義は、「決して価値中立的なのではなく、「自分の意思で自由に、そして合理的に選択すべき」という個人の規範原理の想定の上に成り立つものであったと見ることができる」という指摘がなされている(5)が、結論としてはあくまでロビンズの「経済学を社会的風潮や人間に関する他の学問分野の動向から隔離しようとした」ことが述べられている。しかしながら、 ロビンズの試みは堂目先生も指摘しているように、あくまで「経済学」の範囲を限定しただけであり、政策論の必要性を否定したわけではない。ロビンズの回想によれば、彼が意図したのは「経済システムが働くか、あるいは働き〈うる〉かに関する主張は、それ自身では、それが働く〈べき〉だといういかなる前提もな いことを、明らかにすること」(6)だったのである。それゆえロビンズは、この試みが「経済学者が倫理学と政策に関する自分自身の考えを持つべきではないという意味ではな」く、比喩を用いれ ば「逆に、機械がどのように動くのか、あるいは動きうるのかを知っている場合にのみ、人は機械がどのように動かなければならないのかを言う資格があると私(ロビンズ――引用者)は明確に述べた」のである(7)

もしロビンズの「経済学」の定義に従うのであれば、報告の枠組みにおける政策の部分は「経済学」にとって不要となるであろうし、その定義を受け入れないのであればロビンズの行った「経済学と政策論の峻別」ではなく、ロビンズの政策論における「人間観」を検討する必要があったのではないだろうか。確かに経済学史上の影響という点を考えればロビンズの「功績」の大きな部分は、経済学を「純粋経済学」化したことにより理論的精密性を飛躍的に高める方向へと導いたことにあるのだろう。しかし、これはあくまで経済学史上の位置付けであり、報告の枠組みとは関係が薄いのではないだろうか。

(5) 同様の指摘をするものとして、例えば、木村雄一『LSE物語――現代イギリス経済学者たちの熱き戦い』(NTT出版、2009年)、99-101頁。
(6) ライオネル・ロビンズ(田中秀夫・監訳)『一経済学者の自伝』(ミネルヴァ書房、2009年)、161頁。
(7) 同上。


3 自明視される「経済学的」思考枠組み

堂目先生の議論の枠組みに潜む「経済学的」思考枠組みの問題に話を進めていきたい。第一の問題は、「個人の規範原理→立法者の規範原理」という関係、端的に言えば「個人→社会」という関係が自明のものとして想定されていることである。

政治学においても、いかなる人間像を想定するかは重要な問題であった。古くは社会契約論を巡るホッブズやルソーの議論、最近ではリベラル=コミュニタリアン論争などを考えればいいだろう。一般に指摘されるように、確かにホッブズは、「個人」の合理的選択に基づいて政治的秩序(constitution)を創設することを企てたと評価することが出来るだろう。しかし、同時に「ホッブズに認められる合理的選択理論は、徹底的なエゴイスト(ホモ・エコノミクス)が専ら物質的な財や便益の交換を図るために行う相互作用を説明する理論装置であり、その意味では他者との信頼関係や他者に対する威信を創出するために行われる贈与等の社会的交換とは区別されるべき経済的交換の次元に限定されている」のである。こうしたホッブズの議論のアポリアは、「文化人類学や経済人類学が明らかにしているように、経済的交換が可能になるためには、その前提として社会的交換によって一定程度の信頼が確保されている必要がある点に関わっている」ことである(8)

このようなホッブズの評価に端的に表れているように、原子論的な個人を想定することは政治学では自明ではなく、むしろ様々な形で問題視されてきたことである(9)。この点は、リベラル=コミュニタリアン論争のみならず、現代におけるリベラルのアポリアとしてしばしば指摘されることでもあり、言わばこの問題は政治思想における主要な論点の一つである。むしろ、原子論的な個人を現実に想定することが難しいからこそ、人々の相互作用からなる政治的空間(ないしは公共空間)の民主性を担保することがいかに可能か議論となっているのである。堂目先生の提示する枠組みを政治学の文脈に置いてみると、その原子論的な人間観が自明視されていることが明らかであろう。

第二の問題は、分析対象としての「市場」(ないしは市場経済)が自明視されている点である。第一の問題と接続すれば、いかに各経済学者の人間観が検討されようとも、それは「経済的活動を行う個人からなる市場経済」を分析する前提として検討されているに過ぎないということである。政治学の分析対象が、(学問としての定義の曖昧さゆえに)多岐に渡ることと比較すれば、いかに経済学の分析対象が絞られているかは明らかであろう。確かに、この第二の問題は、経済学が人間の社会的活動の中でも「市場を通じて行われる経済活動」を分析対象としている以上は避けがたい問題であるし、必ずしもそれ自身に問題があるわけで はない。また、この点を問いだせば経済学が経済学でなくなる性質がある。しかし、「人間学としての経済学」を考える上では、いかに市場が形成されるのかという(政治学というよりは)社会学的な課題を自明視していることに議論の余地があることを押さえておく必要があるだろう(10)

(8) 小野紀明『政治理論の現在――思想史と理論のあいだ』(世界思想社、2005年)、11頁。
(9) 「複数性(plurality)」がハンナ・アーレントの思想のキー・コンセプトであることは多くの論者によって強調されるところである。例えば、齋藤純一『政治と複数性――民主的な公共性に向けて』(岩波書店、2008年)、を参照。
(10) ここで挙げた二つの点については、ミルトン・フリードマンと山崎正和のCorrespondence, No. 5, Winter 1999での「市場」の役割を巡る誌上論争も参考になる。この論争は山崎が「市場は(福祉政策による)同時代的な再配分もできないし、(資源の節約や環境保護を通じて)未来の世代との再配分も実現できない。また市場は、犯罪を防ぐ力もなければ、市場にとって安定し安全な環境を維持することもしない」と述べたのに対し、フリードマンが山崎の市場の定義を「厳格過ぎる」とし、山崎が市場で実現不可能として挙げた多くのことは「自由な民間市場」ならば実現可能だと批判したことによるものである。山崎は、批判に対する応答の最後に、「あなた(フリードマン――引用者)の立場は自発的に行動する個人が最初に存在して、彼らが協力して文明が成立するものです。しかしながら私の立場は、文明あるいは人間が自由な存在として自己を発展させる人と人との関係が専攻して存在するというものです。市場や国家、その他の制度はすべて文明の長い歴史の産物であり、同時にそれ自身が文明の構成要素として同等の重要性を持つものです」と述べる。二人の市場観、人間観の違いは、経済学的思考と社会学的思考の違いを端的に表していると言えるだろう。いかに経済学者の前提が他の社会科学と違うかということはここにも明らかである。


4 「人間学としての経済学」は可能か

以上に概観したような「経済学的思考」枠組みの強さを踏まえると、「人間学としての経済学」の困難さが浮き彫りとなるだろう。すなわち、報告で取り上げたいずれの経済学者も、政治学における多様な人間観の中に置いてみれば、価値中立的なわけでも、また多様なわけでもないのである。つまり、報告が前提とする枠組みそのものが極めて「経済学的」であり、むしろ、このような枠組みで捉えられる人間観を多くの経済学者が共有していたからこそ、かつての政治経済学は「経済人」を基礎とする現在の経済学に発展したと説明した方がより実態を適切に説明出来るのではないだろうか。

もちろん、ここでこのような経済学のあり方や成り立ちを批判しているわけではない。むしろ、経済学的な人間観や限定された分析対象を揺るがせることは、経済学を経済学たらしめているものを失わせる危険を持つとも言える。事実、「経済人」の前提を受け入れない行動経済学は、「新しい対象や領域を開拓するのではなく、経済に対する新しい視点からの研究、つまり新たな研究プログラム」であり、「この意味で行動経済学は、既存の経済学と同じ研究領域を扱う、いわば「古い酒を新しい革袋に入れる」という性格を持っている」と説明される(11)。このように考えれば行動経済学は、経済学の下位分野に属するというよりは、心理学(実験心理学)の下位分野に属する学問と言えるのかもしれない。

(11) 友野『行動経済学』、23-24頁。


5 おわりに

ここまで展開してきた議論を唯名論的――つまるところ経済学をどのように定義するのかということに尽きる――と批判することは可能だろうが、ここではいわゆる「経済学」に標準的な思考を、堂目先生の議論は強く持っているということを改めて指摘したい。確かに「政策論」を語る経済学者に人間学や規範理論の素養 が欠けているものが少なくないことは間違いないだろう。また、「政治」を単なる経済活動の障碍としか考えない経済学者も少なくない。

こうした状況の中で、経済学の前提として人間学を考えるべきだという堂目先生の問題意識は重要である。しかしながら、報告で明らかにされた各経済学者の人間学は、むしろ極めて「経済学的」であることはより認識されなければならないだろう。このように考えてくると、堂目先生の批判するロビンズの議論が実は正鵠を射ているのかもしれない。すなわち、経済学は理論経済学(純粋経済学)として精緻化し、その上で政策論を立てる際には倫理学をはじめとする規範的な 議論を考えればいいのである。もちろん、現実には経済学を理論と政策論にきれいに分けることは出来ず、教育プログラムとしては相互の連関を考慮する必要はあるのだろう。しかし、そこで問題とされるべきは、理論と政策論の分離ということではなく、むしろ「個人の規範原理」が「立法者の規範原理」に繋がるという経済学者一般に共通し、堂目先生も前提としている単純な理解を問い直すことにあるのではないだろうか。

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2010年04月20日

気候から見た国際政治

この1、2週間で、国際政治に影響を与える思いもよらない出来事が相次いでいます、何と言っても一番の衝撃はポーランド政府専用機の事故ですが(サッカー好きなら「ミュンヘンの悲劇」を想起するところです)、個人的に色々と考えさせられたのはアイスランドの火山噴火です。この21世紀になっても、いかに「気候」が人類に大きな影響を与えるのかを実感した人も多いのではないでしょうか。

加えて、これは国際政治というよりは国内の生活への影響が大きいことですが、3月から4月にかけての季節外れの冷え込みも興味を惹かれる対象です。この冷え込みの原因は「北極振動」と言われるものらしく、解説記事がいくつかの新聞に出ていました(リンク)。

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なぜ「気候」のニュースに反応しているかと言えば、先月たまたま田家康『気候文明史――世界を変えた8万年の攻防』(日本経済新聞出版社)という本を読んでいたからです(※版元情報は画像にリンクを貼ってあります)。

Amazon等で検索をかけてみれば分かるように、気候変動と人類の歴史を取り上げた文献自体は決して珍しいものではありません。日本にも定評ある研究者が何人もいますし、直接文明との関わりは論じていなくとも、阪口豊『尾瀬ヶ原の自然史――景観の秘密をさぐる』(中公新書)のような緻密な実証研究ながら、それを通して人類の歴史が見えてくるような優れた読み物もたくさんあります。

その中でこの本が面白いのは、著者が学者ではないこともあり、縦横無尽に内外の優れた研究を渉猟し、それをうまくまとめる作業に徹しているからです。諸外国における研究の多くは、気候と人類の関係を論じていてもそれは欧米に偏りがちです。また日本国内の研究者の場合は、どうしても自分の研究に引き付けた話を展開しがちです。そうした中で、この本はバランス良く内外の研究を使い分けながら、旧石器時代から現代の地球温暖化問題までの気候と人類の歴史をまとめており、とても読みやすい良書となっています(ちなみに、『気候文明史』については、インターネットでは読むことが出来ませんが、3月28日の日経読書欄に紹介が出ていました)。

実は「気候」に反応してしまうのは、『気候文明史』に触発されて、他大学の某ゼミの卒業論文集に「気候から見た国際政治」というコラムを書いたからです。実証などしなくともいいので好きに面白いものを書けという指令に従って思いつくままに書いたものですが、書いてすぐにアイスランドの噴火のニュースに接したため、せっかくなのでここに載せておこうと思い立ちました。というわけで、以下に駄文を転載しておきます。



気候から見た国際政治

卒業論文の中間報告会と発表会に出席させて頂きました、○○○○です。現在は、第一次石油危機の前後を中心に国際資源市場の構造変動と日本外交について調べています。

いまから40年近く前の議論を見ていると、議論の対象となる問題の多くが、現在と実によく似ていることに驚かされることがあります。資源をめぐる国際政治の中で当時キーワードになっていたのは、「南北問題」と「環境問題」であり、これは形を微妙に変えながらも現在も続いている問題です。この二つの問題は、多様な要素を含むものであり、それゆえ国際政治上も大きな問題となっているわけですが、実はどちらの問題も「気候」と密接に関係しています。

最近、田家康『気候文明史』(日本経済新聞出版社、2010年)という本を読んだのですが、それによれば、人類の歴史は「気候」の変化と密接に関係してきたようです。古代エジプトにおける王朝の衰退、中国における春秋戦国時代の到来、ローマ帝国の衰亡などは、どれも中長期的な気候変動を背景に持つ、数年間にわたる天候不順に時の政治体制が効果的な対応を取れなかったことによって引き起こされた側面を持っているということは、意外と知られていないことです。日本でも、応仁の乱に先立って寒冷化に伴う不作が続き、それによって室町幕府の弱体化が進んだことが指摘されています。

テクノロジーの進展によって、農業から工業、そしてサービス産業を中心とする経済に移行しつつあるこの21世紀においても、「気候」をめぐる問題は国際政治上、重要な位置を占めています。かつてのように、気候変動による不作によって先進国の政治体制が揺らぐことはないのかもしれません。それでも、1970年代初頭の不作がソ連に打撃を与え、アメリカへの食糧依存を引き起こしたように、我々人類は自然のくびきから逃れることが出来ない側面を依然として抱えているのでしょう。

人類の歩みが示唆しているのは、温暖化よりも寒冷化が混乱を生じさせ、引いては文明の衰退を招くということです。大規模な火山の噴火、グリーンランドや南極の氷が溶け出すことによる海流の変化は、温暖化という流れを一時的にせよ寒冷化に向かわせる可能性を持つものであり、そうした事態が今後起こらないとは限りません。CO²削減を巡る国際政治とはまた異なる形で、21世紀の国際政治に「気候」が何らかの影響を与えることがあるのかもしれません。

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2010年04月09日

論文公刊

気が付けば2010年度も1週間以上が経過してしまいました。本年度もよろしくお願いいたします。



ようやく一本目の論文(「国際エネルギー機関の設立と日本外交――第一次石油危機における先進国間協調の模索――」『国際政治』第160号、2010年3月)を公刊することが出来ました。3月中に公刊予定であり、奥付は3月25日となっていますが、手許に届いたのは昨日のことです。

この論文は、修士論文の後半部分を切り出して、新規公開資料を加えた上で、大幅に圧縮したものです。字数の上限が2万字というのは、外交史研究にとっては思いのほか厳しいものでした。せめてあと5千字加筆出来ればと今でも思いますが、それは博士論文執筆時に行うことにしたいと思います。また、1箇所だけ痛恨の誤字が残ってしまいました(「世界第二の消費国」とするところを「世界第二の輸入国」としてしまいましたが、「輸入国」として日本は当時世界第一位です)。

ともあれ、ようやく自分の中での2009年度が終了といった気分です。心機一転、次なる課題に向けて邁進していく所存です。



今後も続けていく研究の一部なのであまり種明かしは出来ないのですが、参考までに和文の要旨を載せておきます。

国際エネルギー機関の設立と日本外交
――第一次石油危機における先進国間協調の模索――


<要旨>

本稿の目的は、1974年10月の国際エネルギー機関(IEA)設立に至る、第一次石油危機後の消費国間協調に参画する日本外交を、国際経済秩序変動期における先進国間協調の一環と捉えて検討することである。

従来、第一次石油危機における日本外交として主に注目されてきたのは、対中東外交の側面だった。「アブラ乞い外交」と評されることもあるように、そこで強調されるのは、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)の「石油戦略」によって「石油が入ってこなくなるかもしれない」とパニックに陥り、石油を求めて中東政策をアラブ寄りに転換する日本外交の姿である。しかしながら、こうしたイメージは日本外交の一側面に過ぎない。そもそも石油危機は、「石油戦略」のみによってもたらされたわけではなく、消費国と産油国の力関係の変化という中長期的な石油市場の構造変動を背景としている。それゆえ、OPEC(石油輸出国機構)としてまとまる産油国陣営に対して消費国陣営がどのように対応するかは、第一次石油危機に対処するにあたって極めて重要な課題であった。

石油危機発生以前から、消費国間協調を試みる動きはEC(ヨーロッパ共同体)やOECD(経済協力開発機構)を中心に存在した。しかし、危機発生当初、各国は自国の石油確保を優先する姿勢を示したため、消費国間協調はうまく機能しなかった。石油危機後の消費国間協調推進の動きは、危機発生から二ヶ月後の1973年12月のアメリカの呼びかけによって始まった。この提案が呼び水となり、翌74年2月に、先進石油消費国の閣僚級を集めたエネルギー・ワシントン会議が開催され、日本は会議参加をいち早く表明した。消費国間協調の具体的内容を詰めていく作業は、各国次官級を代表とするエネルギー調整グループ(ECG)に引き継がれ、九回の代表会合と各作業グループでの討議を経て、74年11月にOECD傘下にIEAを設立することが決定された。この過程で日本は、産油国との対決姿勢が色濃いアメリカ主導の消費国間協調を、より穏やかなものにすることをイギリスや西ドイツなど他の消費国とともに追求した。とりわけ、IEAをOECDという既存の国際機関の傘下に設置することによって、消費国間協調の枠組から外れていたフランスやアラブ諸国にも受け入れやすくするとともに、新たな条約批准を避けて国内政局を回避したことは、日本外交の大きな成果であった。

石油危機発生当初は、中東外交の転換を迫られるなど苦しい対応に迫られた日本であるが、以上の消費国間協調の動きには一貫して主要国として参加した。IEAは、先進石油消費国間における長期的な政策協調枠組を提供するとともに、加盟国に一定量の石油備蓄を義務付け、さらに加盟国間の緊急時石油融通を協定に明記した点で画期的な意義を持つものだった。第一次石油危機における日本外交は、これまで重視されてきた対中東外交や対米外交、さらには「資源外交」だけではなく、積極的に消費国間協調にも参画する多面的なものだったのである。

日本が消費国間協調に積極的だった理由は、石油問題の解決には消費国がまとまって脆弱性を低下させる必要があるという認識と、自由主義的な国際経済秩序を維持することが日本にとって重要であるという認識を、政府内の国際資源問題担当者が共通して持っていたからであった。

また、日本が石油危機後の先進消費国間協調に積極的に参画しIEA設立に携わったことは、既存の国際機関加盟を目指したそれまでの外交の枠を超えるものであった。日本の先進国間協調への参画としてしばしば強調されるのはサミットへの参加だが、石油危機への対処を通じて日本は先進国間協調の重要な一翼を担っていた。このように考えれば、第一次石油危機は、日本が先進国間協調に参画する重要な転機になったと言えよう。

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2008年07月04日

MBFRの論じ方(試論)。

じわりじわりと暑くなってきた。早くも夏バテモードになっているのはさすがに早すぎるだろうか。



水曜日に、師匠が中心となって企画したG8に関するシンポジウムが一日あったた(よって今週の授業はなし)。一日中英語を聞き続けてとにかく疲れたが、こういう機会があると、英語を「勉強しなければ」という気持ちが、徐々に英語を「勉強したい」というように変わってくる。いくつか面白い話もあったが、全般的には現状分析に近い話/政策志向が強い話には今のところあまり自分の知的関心は向いていないようだ。

レセプションで後期にサバティカルで日本に来る先生に聞いたところ、日本の安全保障/外交政策についての授業(英語)が開講するようだ。日本専門家ではない安全保障専門家による授業なので非常に楽しみだ。そんなわけで、夏の課題として試験勉強に加えて「英会話」が急浮上。



木曜2限の国際政治論特殊研究は今回が最終回だった。

授業のコンセプトは「外交文書を使えるようにするための教習所」というものなので、外交史を専門にする大学院三年目の院生を対象としたものではないのだが、得られたものはとても大きかった。

一年目はDBPO(イギリスの対中政策[1945-1950])、二年目はFRUS(アメリカの対NATO政策[1958-1960])を取り上げてきた。今年は再びDBPOを取り上げたのだが、今回は1970年代のヨーロッパ・デタントというまだ研究がそれほど進んでいない時期の文書を読んだ。それもMBFR(Mutural Balanced Force Reduction:中欧相互兵力削減交渉)という一般的にそれほど知られていないテーマを取り上げたので、これまでの年以上にに議論が難しかったように思う。

また、文書がかなり「厳選」されているのも今回取り上げたDBPOの特徴だろう。一つ一つの文書が長く、1972年~1976年の5年間が範囲なのだが、計36個の文書しか収録されていない。全般的には、会議の報告や高レベルの会談録が多く、細かい交渉の機微などは読み取るのが難しい。これは、昨年取り上げたFRUSが、2年分だったにも関わらず100以上の文書を収録していたことと比べるとその差がよく分かる。

受講者のコメントの一つに「論文のように結論が無い文書を読むのは大変だった」というものがあったが、研究のために普段読んでいる外交文書は今回のDBPOとは比べられないくらいまとまっていない。そう考えると、これくらいまとまっている方が「教習所」のコンセプトには合うのかもしれない。

そんな授業のコンセプトとは別に、MBFRを扱ったことは自分にとって非常にありがたかった。授業でも無ければMBFRのように一般に「失敗」に終わったと言われる軍縮交渉に関する文書を読むことも無かっただろう。このDBPOを読んだことで、デタント期と言われる時代を考える色々な視点を得られたことも大きい。自分が研究している「1970年代」という時代はなかなか評価が難しい時代らしい。



以下は授業のために用意した討論のレジュメを若干の加筆修正したものだ。あまり出来は良くないし、まとまった議論でもなく、アイデアのみで書いたものだがとりあえず載せておくことにしたい。

やや論旨が曖昧だったため、あまり自分の言いたかったことが伝わらなかったような気もするが、要はイギリスを中心にMBFRを論じるのは難しいのではないか、ということだ。

MBFRを考えるならば、DBPOよりもFRUSを読んだ方が良かったのかも知れない。しかし、そういったことを文書を読んでいく過程でそれぞれが気が付き、FRUSを読んでみようと思う、ということに考えが及んでいくということが外交史を研究する者にとっては重要なのだろう。



テキスト:Documents on British Policy Overseas, Series?, Vol.? Detente in Europe, 1972-76
MBFR: The Vienna Negotiations, No.33-36.

MBFRの論じ方(試論)

1、はじめに

 ヘルシンキ宣言(1975年8月)という成果を生んだCSCEとは対照的に、1973年10月に本交渉が始まったMBFRは、大きな進展を見せることなく今回の範囲である1976年末を迎えた。本資料集の範囲外であるが、1979年にMBFR交渉は一旦ストップし、1986年に再開されるも成果を生むことなく、1989年に次なる軍縮交渉であるCFE交渉へと移行することとなった。
 このような後のMBFR交渉の経緯(+今回が最後の授業ということ)に鑑みて、ここでは、1976年9月~12月におけるイギリスのMBFR政策を取り出して論じるのではなく、より大きな文脈の中にイギリスのMBFR政策を位置付けて若干の考察を試みることにしたい。分析の視角を変えることによって、イギリスのMBFR政策をどのように国際政治史として考えることが出来るかを考えることがここでの課題である。

2、イギリスのMBFR政策を論じることの「困難」

 まず指摘しておきたいことは、イギリスのMBFR政策のみを取り出して論じることの「困難」である。この「困難」は、?MBFR交渉が最終的に妥結しなかったこと、?イギリスがMBFR交渉でそれほど役割を果たしていないと考えられること、の二点によるものである。妥結しない交渉において役割を果たさなかった国に焦点を当てることに、積極的な意義を見出すことは難しい。ちなみに、?はイギリスの問題であってMBFRの問題ではないが、?はMBFR交渉を論じる際に必ず付きまとう問題であり、これがイギリスのMBFR政策のみならずMBFRそのものが研究でほとんど注目されない大きな理由だろう。
 それでは、どのような視角を設定すればMBFR交渉(+イギリスのMBFR政策)を意義あるものとして論じることができるのであろうか。

3、MBFRの論じ方?軍備管理交渉史の中に位置付ける(タテに伸ばして考える)

 一番オーソドックスな方法は、時間軸をタテに伸ばして考えること―軍備管理交渉の歴史の中にMBFR交渉を置くこと―である。西側は戦後直後から、慢性的な通常兵力不足に悩まされていた。この通常兵力の不足を核戦力の優位によって西側は補っていたのである。東側にとっては、通常兵力削減は自陣営の優位を切り崩すものであったことから、東側は核軍縮を主張し通常兵力を対象とした軍縮には応じてこなかった。ソ連が交渉に応じることによって、こうした状況を変えたのがMBFRであった。このような歴史的な文脈を踏まえてMBFRを論じることによって、その意義と限界がどこにあったのかが明確になるだろう。
 単純に考えても、前後の時代と比較することによって、なぜイギリスがMBFR交渉でそれほど大きな役割を果たすことが出来なかったかが明らかになるだろう。1970年代と比較すれば戦後初期の方がイギリスの国際的な影響力が大きかったことは間違いない。そうであれば、アイゼンハワー政権期を中心に繰り広げられた軍備管理交渉と、MBFR交渉におけるイギリスの役割を比較することが出来れば、それなりにイギリスの役割の違いが明らかになるだろう。
 さらに、Appendix?でも論じられているように、MBFRを冷戦終結前後の軍縮交渉のための重要な「学習過程」と考えることも可能である。このように考えれば、イギリスがMBFRの失敗から何を学んだのかを考えることには一定の意味があるのかもしれない(ただし、これが意味あるものになるためには冷戦終結前後の軍縮交渉においてイギリスが何らかの役割を果たしている必要がある)。

4、MBFRの論じ方?CSCE-MBFR-SALT(ヨコに拡げて考える?)

 次に考えられるのが、ヨコに伸ばして考えること―CSCE、MBFR、SALT(?&?)をセットでその相互連関を考えること―である。比較的順調に進んだSALT?(1969年~1972年)、紆余曲折を経て成果を生んだCSCE、妥結に時間がかかったSALT?(1972年~1979年:妥結後ソ連のアフガン侵攻によって米議会批准拒否)、これにMBFRを並べた時に、何が成功し何が失敗に終わったのかが明らかになるだろう。CSCEが成果を生んだ理由が「デタントの雰囲気」からでは説明が出来ないことが、MBFRと比較するとよく分かるということについては先週議論があったとおりである(もっとも、CSCEとSALTに関してそれぞれ研究がかなり進められている現状を考えれば、これらをまとめて論じることは実際にはなかなか難しいのかもしれない)。
 これらの交渉をただ並列するだけでなく、その相互連関を考察することも重要である。CSCE、MBFR、SALTという三つの交渉が相互に連関していたことは、本資料集からも確認できる。MBFR交渉で核兵器削減を含むオプション?をヘルシンキ宣言後に提案したことはこの連関の一つの表れである。これらの交渉で、何が連関し何が連関していなかったのかといったことを考察することは、「デタント」の実相を明らかにする重要な手がかりとなるだろう。

5、MBFRの論じ方?西西関係(ヨコに拡げて考える?)

 MBFR交渉においてイギリスが一貫して重視していたのは、NATO諸国の一体性の維持である。この点を重視した時に浮かび上がってくるのが「西西関係」である。
 そもそもMBFR交渉がNATOによって提起される背景にあったのは、アメリカのヨーロッパからの撤退基調である。ヨーロッパ諸国にとっては東側諸国の兵力削減とともに、アメリカをいかにヨーロッパに繋ぎ止めるかが重要な課題であった。こうした背景を踏まえれば、イギリスがMBFR交渉において対ソ関係よりもむしろ対米関係を重視していたことの意味が明確になる。そうであれば、MBFR交渉は東西関係の問題ではなく「西西関係」の問題として論じることの意義が明らかになるだろう。1973年4月にキッシンジャーによって提起された「ヨーロッパの年」などとMBFR交渉を重ね合わせることによって、「西西関係」の文脈を掘り下げることが出来るだろう。
 以上のようなヨーロッパ側からの視点だけではなく、アメリカ側にとっての「西西関係」も重要な検討課題として考えられる。1950年代の軍備管理交渉は、アメリカにとって対西ドイツ政策(西ドイツ封じ込め)という意味も存在した。本資料集から観察する限りでは、MBFRがイギリスにとって西ドイツ政策であった点は観察出来ないが、アメリカにとっての「同盟政策としての軍備管理交渉」という視点は1950年代と1970年代を比較検討する一つの手がかりとなるだろう。

6、おわりに

 以上、イギリスのMBFR政策を論じる際のいくつかの可能性について検討してきた。工夫の仕方次第では、イギリスのMBFR政策を論じることにも一定の意味を見出すことは可能だろう。しかし結論的には、やはりイギリスのMBFR政策を論じるには大きな「困難」がある。それは、アメリカやソ連がMBFR交渉で果たした役割と比べてイギリスが果たした役割があまりに小さいことによるのだろう。MBFR交渉に関する限り、イギリスを主役にするよりは他国を中心に論じ、イギリスはあくまで脇役とした方がより有意義なのではないだろうか。

※こうした結論に達した時に考えざるを得ないことは、戦後の日本外交をどのように考えるべきか、ということである。MBFR交渉におけるイギリスの影響力と比しても、一般的に考えれば戦後日本の国際政治的な影響力は極めて小さい。ナショナル・ヒストリーとしての日本外交史ではなく、より広い国際関係史の中で戦後日本を考えた時にどのような姿を描くことが出来るのだろうか(例外的に、国際関係史の中で日本を描いた研究として、宮城大蔵氏の一連の研究がある)。これは戦後日本外交を研究する者にとって重い問いかけである。

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