本の話

2010年04月17日

積読増加中

博士課程に進学した辺りから段々と更新が面倒になり、はじめは備忘録代わりに毎日書いていたはずのブログの性格が変わって来てしまいました。気が付けば並ぶエントリーは大学院の授業の話ばかりということで、これではあとで自分で振り返ってもあまり使えないし、せめて読んで印象に残った論文や買った本、読んだ本を出来る限りここで紹介していった方がいいだろうなとふと思ったのが昨晩のことです。そんなわけで、月7日間(8時半~17時15分)行っていたアルバイト先をこの3月で辞めた結果、ある程度時間も出来たのでもう少し更新数を増やしていこうと思います。



手始めは今日買った本について。なぜか戦前と経済関係の本が多いです。

※今回から版元情報がある場合は画像にリンクを貼っておきます。

Pierson

まずは今日生協に行った目的の本。社会科学において定性的アプローチを採ろうとするならば必読であろう一冊、ポール・ピアソン『ポリティクス・イン・タイム――歴史・制度・社会分析』(勁草書房)です。訳者は大学院の先輩(面識はありませんが)、監訳者のお手伝いをゼミの後輩がしている関係もあって刊行されるということは聞いており、早く手に入れたい一冊でした。

怠惰な性格なので、本書第一章の基になった論文("Path Dependence, Increasing Returns, and Political Science," American Political Science Review, Vol. 94, No. 2, June 2000)をパラパラと読んで「これはピアソンをちゃんと勉強しないと」と思ったまま放置していたので、邦訳が出たのを機に勉強したいと思います。

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ピアソンの本を手にとっている時に目に入ってきたのが↑左の筒井清忠・編『解明・昭和史――東京裁判までの道』(朝日新聞出版)です。たまたま、先日大学のある先生と昼食をご一緒した時に、「朝日新聞から一般向けに出す本の一章を書いた」というお話しを伺ったのですが、どうやらこの本のことだったようです。

執筆陣の多くは第一線で活躍する年齢的には中堅クラスの歴史家であり、幅広く読まれるべき本なのだと思います。編者が言うように、「現在、研究の第一線と一般書の間にはすさまじいまでの懸隔ができてしまい、この溝は埋められないままに放置されたような状態となっている」(4頁)のは間違いないです。そうした中で「この溝を完全に埋めようというのが、本書の基本的趣旨」ということで、「完全に埋め」るのは無理だとしても、一般書として第一線の研究成果が社会に発信されることに意味があるのでしょう。

それにしても、この体裁や題名・帯はどうにかならないかなと思ってしまいます。が、こうした体裁の本を読むような人たちに向けて売りたいのであれば仕方が無いのかもしれません。

↑右の伊藤之雄『日本の歴史22 政党政治と天皇』(講談社学術文庫)は、単行本も持っているにも関わらず、ついつい購入してしまいました。最近刊行されている著者の本はとにかく分厚いことに定評がありますが、この本は厚いことは厚いですがあくまでも通史の一冊であり、より読みやすい仕上がりになっていると思います。学術文庫版あとがき(371-376頁)を読んで楽しめるようになってしまったのは、趣味の読書としての戦前日本政治史研究をこの数年間読み続けてきたからかもしれませんが、ともあれこれは読み返したい一冊です。

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戦前の本を書いたついでに三谷太一郎『ウォール・ストリートと極東――政治における国際金融資本』(東京大学出版会)について。この本については刊行直後にもこのブログで取り上げましたが、結局いまのいままで購入していませんでした。最初は生協に並んでいなかったからという理由だったのですが、注文をすればいいだけなので単に自分が怠惰だったからです。

この本の基になった論文のいくつかはもちろんこれまでも読んでいます。しかし、論文集の体裁を取っていたとしても一冊の本としてまとめられた時にどういった研究になるのかにとても強く関心があります。

また、ここで扱われているのが国際金融というのも重要です。国際金融については経済学ではもちろん膨大な数の研究がありますし、経済史の分野でもそれなりの研究が存在します。しかし、政治学の分野でこの問題を扱った研究の多くは、アメリカ流の国際関係論に基づいたものであり、分析の鮮やかさやアプローチの面白さはあっても、正直なところ歴史研究を読むような深さや洞察に欠けるような印象を持つものが少なくありませんでした(もちろん例外はありますが)。この本については、読み終えてからもう少しちゃんとした形で紹介することにします。

fujiwara

ここまでの流れとは全く関係なく、藤原帰一『新編 平和のリアリズム』(岩波現代文庫)が新刊として並んでいたのでついつい購入。旧版は持っていないのでちょうどいいなと思って購入したのですが、「あとがき」によれば、旧版は「良い本を書いた手応えがなかった」ので、「この新版は、岩波現代文庫に再録するのを機会に、古い原稿を削り、学術論文も含む新稿をを加えたもの」(449頁)だそうです。旧版刊行後に論壇誌に載せた論考も含まれていてお得感があります。

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最後は経済シリーズの三冊。左から、根井雅弘『入門経済学の歴史』(ちくま新書)、根井雅弘『経済学の歴史』(講談社学術文庫)、ニーアル・ファーガソン『マネーの進化史』(早川書房)です。

今年に入ってから経済思想史や経済学史に触れる機会が多く(木曜日のプロジェクト科目もその一つです)、もう少し関心を広げてみようと思い、定評ある著者の本を読んでみようと左の2冊は購入しました。『マネーの進化史』は原著が家で積読になったままになっているので迷ったのですが、効率を考えて邦訳を購入してしまいました。



こう並べてみると本を買い過ぎなような気もしますが、研究の息抜きに読み進めていくことにしたいと思います。

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2010年03月21日

『講和の代償――米国の冷戦戦略と吉田茂の選択』??

色々と日々の雑事に忙殺され、ブログを書く習慣が無くなりかけている今日この頃です。

例の「密約」問題について何か書いておこうと思ったのですが、金曜日に衆議院外務委員会で参考人招致があるなど現在進行形で話が進んでいるので、もう少し経ってから書くことにしようと思います。



と書いたものの、以下の話も「密約」の話と関係するかもしれません。先ほど届いたばかりの『国際安全保障』をパラパラと読んでいて思いついたことを、パッと書いたものなので、論旨がまとまっていないと思いますが悪しからず。

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『国際安全保障』(第37巻第4号、2010年3月)に、楠綾子先生の『吉田茂と安全保障政策の形成――日米の構想とその相互作用 1943~1952年』(ミネルヴァ書房、2009年)の書評が掲載されていました(107-111頁)。評者は、『再軍備と55年体制』(木鐸社、1995年)の著者であり、戦後日本の安全保障政策史、日米安全保障関係史研究を切り開いた植村秀樹先生です。

エントリーの表題に掲げた『講和の代償――米国の冷戦戦略と吉田茂の選択』は、この書評の末尾で「評者の問題意識に即して本書に表題を与えるならば」として挙げられているものです。さて、なぜこの表題が与えられることになるのでしょうか。

本書の内容については、既に『外交フォーラム』2009年12月号や東京財団のHPなどに書評も掲載されていますし(リンク)、植村先生の書評でも概要が紹介されているので、詳しくここで書く必要は無いと思います。というわけで、早速本題に入っていくことにします(以下、括弧内は『吉田茂と安全保障政策の形成』の頁数です)。

本書が、直接的な分析対象とする政策領域は、①(旧)日米安保条約、②日本の再軍備、③米国による琉球諸島の戦略的支配、の三つであり、それぞれについて日米両政府の政策構想からその実現に至る過程での交渉を1943年~1952年を対象に、日米両政府の一次資料を中心に丹念に追いかけています。既に多くの書評でも書かれているように、この時期の個々の政策については、様々な形で多くの研究が蓄積されているわけです。しかしながら、楠先生自身も書かれているように、これまでの研究はあくまでもそれぞれの政策領域を個別に論じてきたわけであり、少なくともこの三つの領域の相互連関を踏まえて包括的に捉えてきたわけではありません。

そうした研究状況の中で、本書は上記三つの政策領域に関する日米両国の構想、交渉を実に丁寧に検討しています。本文だけで286頁(2段組!)という分量に圧倒されてしまいがちですが、文章も読みやすく構成も分かりやすいので、本書を通読すれば講和に至る大きな流れと細かなポイントを的確に理解することが出来ると思います。その意味で、これもまたどの書評でも指摘されているように、本書はこの分野における最も信頼のおける研究書として今後長く読み継がれていくことになるのだと思います。

この部分までは、おそらく本書を手にした誰もが感じることなのだと思います。問題は、と植村先生がまず指摘していることは、本書における「吉田ドクトリン」論の位置付けです。広く知られているように占領期における吉田外交については、大きく二つの立場があります。簡単に言えば一方は吉田外交を評価する立場、他方は批判的に見る立場です。その意味で言えば本書は、吉田外交を高く評価する立場であり、植村先生の言葉を借りれば「一言でいえば本書は「吉田ドクトリン」論に立つ外交史研究の集大成の感がある」と言えるでしょう。

植村先生が問題にするのは、「吉田ドクトリン論」については様々な形で論争が展開されているにもかかわらず、著者がその論争に答えを与えられていないのではないかということです。以下は書評からの引用ですが、「著者は吉田の選択の必然性を協調し、その後「ドクトリン」化されたと述べ」、「本書を「『吉田ドクトリン』の起源を探る試み」(7頁)とし、吉田の選択が「合意」の中で成立した」としています。

詳しくは『国際安全保障』誌の書評を見て頂ければいいと思いますが、この後、植村先生は最近巷を騒がせている「密約」問題へと話を進めて、その起源の一つがこの吉田時代にあったことを示唆しています。この部分の議論には必ずしも同意しかねますが、全体を通して植村先生のような読み方が可能となるような詰めの甘さがあるのではないか、ということは私自身が本書を読んだ時に感じたことでもあります。

その「詰めの甘さ」のようなものがどこから来ているのか、それは本書が中身に即した問題設定の仕方が出来ておらず、それゆえ明確な結論を導き得ず、安易に「吉田ドクトリン」論に与したことによる、というのが私の率直な感想です。

再び植村先生の言葉を借りましょう。先ほど書いたように本書は「吉田ドクトリン」論に立つ外交史研究の集大成と言えるものですが、「それにはいくつかの「仕掛け」が」あります。それは「1943年から筆を起こし、52年で筆を置いている」ことです。「日米「合意」に至る過程を明らかにすることを本書の課題としているためにこのようになっているのであるが、この区切り方は、日米の周到なる研究・検討の末の「合意」との結論を印象づけるのに役立っているものの、その後の展開を知っているわれわれにとって、あまりにも予定調和的な大団円を演出しているようにも映る」。

たしかに、吉田外交に懐疑的な視座に立っている読者には、本書はこのような印象を持たせるかもしれません。しかし、私は大筋で本論中で展開されている議論は妥当だと思いますし、必ずしも本書が「予定調和的な大団円を演出している」とも思いません。にもかかわらず、植村先生の議論が私にとってそれなりに説得力を持ち、さらに『講和の代償――米国の冷戦戦略と吉田茂の選択』という評者なりの表題にも納得できます(話が前後して分かりにくくなってしまいましたが、『講和の代償――米国の冷戦戦略と吉田茂の選択』という表題は、「密約」問題の起源をこの吉田外交に見出すという議論がこの後で出てくるからです)。

「代償」でなくとも「帰結」でもいいかもしれませんが、私がここで納得がいった理由は「講和」という言葉が挙げられているからです。

本書の中身は、吉田外交論や「吉田ドクトリン」論として読めば、なぜ1954年までを取り上げていないのか、なぜ戦中から検討が始められているのかといった疑問を持たせるものです。また著者が扱うとして挙げている三つの政策領域の内、日本の再軍備についてはやはり自衛隊の発足までを取り上げる必要があるでしょう。

しかし、そこまで分析対象を拡散させなくとも本書は意義付けが可能なのではないでしょうか。それが「講和」です。講和の安全保障的側面を包括的に取り上げ、それに至る日米の双方の構想と交渉を丹念に描いた外交史研究として本書は超一流であることは間違いありません。それゆえ、序章と終章で、本論の内容とはずれかねない「吉田ドクトリン」論が取り上げられていることが浮いてしまっているのだと思います。

もし、本論の内容に即した序章と終章、そしてタイトルであれば、植村先生の提示した疑問の多くは解消されたのではないでしょうか。本書はある意味で不毛な吉田ドクトリン論争に終止符を打ちうる可能性があったにもかかわらず、その貴重な機会を逃してしまったという側面があると感じたのは私だけではないと思います。もし、私の問題意識と読み方に沿って、本書に表題を与えるとすれば……というような出過ぎた真似はしませんが、「講和」はもっと強く打ち出してしかるべきだった、ということが言えるでしょう。

植村先生の書評に触発されて、色々と無駄なことも書いてしまいましたが、いずれにしても本書の中身は素晴らしい研究です。専門外の読者であれば、これまで蓄積された様々な研究を参照せずとも、これ一冊を読めば全体像のみならず細かな論点に至るまで、よく理解出来るはずです。


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2010年03月03日

エドウィン・O・ライシャワー、若泉敬、トニー・ブレア

いま、大学院棟の私のキャレルには以下の三冊の評伝(伝記)が並んでいます。

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左から、ジョージ・R・パッカード『ライシャワーの昭和史』(講談社)、細谷雄一『倫理的な戦争――トニー・ブレアの栄光と挫折』(慶應義塾大学出版会)、後藤乾一『「沖縄核密約」を背負って――若泉敬の生涯』(岩波書店)です。

このブログで紹介するまでもなく、新聞書評等で紹介された本です。『ライシャワーの昭和史』については、各紙に書評が掲載されましたが、先週末に毎日新聞に出た書評はとても読み応えがありました(リンク)。『倫理的な戦争』もいくつか書評が出ましたが、細谷先生自身がブログで紹介されていますので、そちらをご参照ください(リンク)。『「沖縄核密約」を背負って』は、東京新聞に先週末出ていましたが、これは全く書評・紹介の体を成していないですので参考にもならないかもしれません(リンク)。『エコノミスト』誌に五十嵐武士先生が書評を書かれているので、関心のある方はそちらをご覧ください。

書名・副題にあるとおり、『ライシャワーの昭和史』は、ハーバード大学教授としてアメリカの日本研究(ならびに東アジア研究)を開拓すると共に1961年から66年まで駐日大使を務めたライシャワーを、『「沖縄核密約」を背負って』は、少壮の国際政治学者として佐藤栄作の密使を務め、沖縄返還に際しての「核密約」作成に携わった若泉敬を、そして『倫理的な戦争』は、44歳の若さで英首相に就任し、「倫理的な戦争」の帰結であるイラク戦争の失敗によってその座を追われたトニー・ブレアを、それぞれ取り上げた重厚な評伝(伝記)です。

さて、この三冊を前にしてどうしたものかなと考えている内に更新が遅れに遅れてしまいました。

一冊一冊をそれぞれ書評形式で取り上げるのも何となく面白くない、かといって三冊を組み合わせて論じるのも難しい。そこで、例のごとく思いついたことを徒然なるままに書いてお茶を濁すことにしました(この文章をほぼ書ききったところで、ライシャワーと若泉敬の二冊に比較して戦後日米関係を論じることは出来るなと思ったのですが、文章を書き直すのが面 倒なのでやめました……それでいいのか)。

以前のエントリー(リンク)でも書いたように評伝好きの自分は、研究を除いた時に第一の優先順位を置いて読むのが評伝です。巷には、「評伝」や「決定版伝記」などと銘打ちながら、読み物としても面白くなく、学術的に読み得る水準を満たしていないものが数多くありますが、この三冊は、読み物としての面白さと学術的な水準の高さにおいて、なかなか手にすることのない高さにあると思います。

この三冊に共通するのは対象とする人物への著者の「思い入れ」ではないでしょうか。

ジョージ・R・パッカード氏は、かつては教え子として、そして1963年から65年にかけては駐日大使特別補佐官としてライシャワーの下で働き、その後は志を同じくする「知日派」としてライシャワーと共に「昭和」を歩んできました。また後藤乾一先生は、初めは国際政治学を志す一学生として若泉敬に接し、そして後には若泉の遺著『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』の執筆協力者として濃密な関係を築いています。

このように個人的な交友を通じてライシャワー、若泉をそれぞれ深く知り、その苦悩を共有してきた著者の「思い入れ」は読み手を圧倒するもので、『ライシャワーの昭和史』の「序文」、『「沖縄核密約」を背負って』の「跋」からは、著者の本にかけた思いが強く伝わってきます。二冊ともに、図らずも密約問題が世間を騒がせる時期に刊行される形になりましたが、時流に乗った便乗本とは全く異なり、長期間に渡って準備され、練りに練られた評伝に仕上がっています

※「便乗本」には違いありませんが、柏書房から刊行予定の石井修『ゼロからわかる核密約』だけは、個人的にとても楽しみにしています(リンク)。

人物に対する「思い入れ」が、評伝を書く際には必ずしも良い方向に作用するとは限りません。しかし、その人物の本当の良さを知っていればこそ示すことが出来る厳しさもあるのだということをこの二冊は教えてくれます。『ライシャワーの昭和史』では駐日大使としてベトナム戦争期に政権の政策を擁護し続けたライシャワーを、そして『「沖縄核密約」を背負って』は最晩年の若泉を、著者は厳しくかつ正確に描き出しています。陰影があればこそ光が輝いて見える、ということでしょうか。

戦後の日本政治外交史を研究している者にとっては、(とりわけ『ライシャワーの昭和史』について)資料面でもう少し詰められる部分があることを指摘することはそれほど難しくはありません。しかし、内外の様々な関連文書や著作を渉猟し、関係する様々な人物へ聴き取り調査を行い、プライベートな部分まで掘り下げて書かれたこの二冊の評伝(伝記)としての完成度はこれ以上はないレベルの高さにあるのだと思います。ライシャワーが自伝を刊行するに際して削ったことからも明らかなように、プライベートな部分は学術的な研究では軽視されがちですが、私人として苦悩を描かずして公人としての一人の生涯を描き切ることは出来ないのだと、この二冊の評伝(伝記)は証明しています。

とはいえ、ライシャワーと若泉が、生涯を通じて強い「思い入れ」をもって臨んだのは何と言っても日米関係です。二人の生涯を通して、読者は戦後の日米関係とは何だったのだろうかと考えさせられるのではないでしょうか。

続いて『倫理的な戦争』について。

細谷先生はブレアと個人的な交友関係を持っているわけではないと思いますし、ブレアはまだ政治家として「現役」であり、さらに「倫理的な戦争」としてのアフガン戦争・イラク戦争は形を変えながらも現在に至るまで続いています。そういった点で、一つの完成形を示している『ライシャワーの昭和史』『「沖縄核密約」を背負って』の二冊と『倫理的な戦争』を並べるのは適切ではないのかもしれません。

内容面でも、ライシャワーと若泉の生涯を辿る上記二冊と比べると、『倫理的な戦争』は、基本的に叙述がブレアの首相在任間に限定され安全保障の専門用語がやや多く、かつ細かな政策過程が描かれているため、一般書として読むには少し難しいかもしれません。また、目的として掲げられるのは「冷戦後の世界において倫理的な動機から、あるいは倫理的な目的を掲げて軍事力行使の必要性を説くことの意味を、国際政治学的な視座から同時代史的に検証すること」(i頁)であり、評伝というよりはトニー・ブレアという一人の政治指導者を中心に据えた評伝的研究といった方がいいのでしょう。政治指導者を中心に据えながら、より広範な国際政治を論じるという手法は、対象とする時代の違いから資料的な深さが異なるとはいえ、『外交による平和―― アンソニー・イーデンと20世紀の国際政治』(有斐閣、2005年)から引き継がれているものです。とはいえ、『倫理的な戦争』を通読すれば、コソボ戦争、アフガン戦争、イラク戦争を通して苦悩するブレア英首相の姿が見事に浮かび上がってくるわけです。

それでもやはり、『倫理的な戦争』を読んだ時に感じたことは、上記の二冊とは異なるもので、より国際政治学的な関心だったように思います。『倫理的な戦争』は、単にブレア政権期のイギリスが介入していった戦争を描く前段階として、ブレア政権初期に策定された外交戦略や安全保障戦略も検討しています。ブレア政権の外交・安全保障戦略は、軍事力の裏付けを持った外交戦略、言いかえれば軍事力と外交の組み合わせを重視するというものです。

しかし、政権前半の「成功」に対して、アフガン戦争辺りからブレア外交は暗転していきます。その過程は本書に詳しいので書きませんが、概して強力な軍事力を持つアメリカに対して、イギリスが限定的な影響しか与えることが出来ないというように私には読めました。ブレアの挫折は、アメリカが聞く耳を持たなかったからなのか(=イギリスにそれだけの力が無かったのか)、それともそもそもの目標が間違っていたのか、こうした点は読者に開かれた形で書かれており、細谷先生自身の結論は曖昧なままにされています。

ここで想起されるのは、益田実先生が『戦後イギリス外交と対ヨーロッパ政策―― 「世界大国」の将来と地域統合の進展、1945~1957年』(ミネルヴァ書房、2008年)の最後に書かれた次の一節です。

三つの軸があるがゆえに世界大国なのではなく、世界大国であろうとするがゆえに 三つの軸が必要とされたのであり、イギリスはその上で危うい均衡を保つ努力を強いられていた。しかし、政策決定者たちはあくまでも、イギリス自身が事態をコントロールする立場にあるとの自己認識から逃れることはできなかった。50年代後半までのイギリスの対ヨーロッパ政策の変遷課程は、この転倒した認識の下で政策決定者達が陥った自己欺瞞を示すものだったのである。(219頁)

この辺りをどう考えるかによって、戦後イギリス外交全体に対する評価が変わってくるのだろうな、と思うのですが、それは余談です。

ちなみに、「終章」で触れられるブレアの辞任表明演説の原文を当たってみたのですが、一読してすぐに思い浮かんだのは、マックス・ヴェーバー『職業としての政治』にある「責任倫理なき心情倫理」でした。この点を、ヴェーバーをよくご存じのはずの細谷先生が触れていないのは、やはりブレアに肩入れしたいという思いがあるからなのかと邪推していたところ、『外交フォーラム』2010年1月号に掲載されたエッセイ「オバマの戦争、ブレアの戦争――「正しい戦争」という苦悩」の中でしっかり触れられていました。国際関係の「倫理化」が一定以上に達してしまったこの21世紀において、倫理と政治がどう対峙すべきかという問題は普遍的に重要な問題なのだと、この論考を読んで思いを新たにしました。

以上、とりとめもなく思いついたことをダラダラと書き連ねてきましたが、この三冊の評伝はどれも素晴らしい、ということが言いたかったことです。『倫理的な戦争』は資料開示が進めば改訂される可能性もありますが、『ライシャワーの昭和史』と『「沖縄核密約」を背負って』は、今後これ以上の評伝が出ることはないだろうと確信する出色の出来であり、関心のある方だけではなく多くの方に読んで貰いたい本です。



がらっと話題が変わりますが、↓のMADは素晴らしい出来ですね。「閃光少女」と「時をかける少女」の世界観が見事にマッチしているので一見の価値ありです。




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2010年02月15日

佐藤卓己『ヒューマニティーズ 歴史学』

いまいち文章がうまくまとまらなかったのでボツにしようと思ったのですが、まあ何も書かないよりはいいだろうと思い直して、掲載。



岩波書店の企画「ヒューマニティーズ」(リンク)の第一弾として昨年5月に刊行された一冊。「学問の断片化、細分化、実用主義へのシフトなど、人文学をとりまく危機的状況のなかで、新たなグランド・セオリーをどのように立ち上げるのか」という企画趣旨に沿った読み方ではないような気がしますが、外交史という政治学なのか歴史学なのか立ち位置が難しい学問を研究している大学院生にとってもなかなか考えさせられる内容が詰まったいい本でした。

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佐藤卓己『ヒューマニティーズ 歴史学』(岩波書店)

読み手を誤解させない明快な主張と高い実証性が求められる学術論文とは異なり、良い本とはむしろ様々な読み方が開かれているものなのかもしれない。本書は実に様々な読み方が可能である。

歴史学にいかに取り組んでいくのか。この根源的な問題を、大衆宣伝、雑誌メディア、言論統制、終戦記念日、輿論(公論)と世論といった自らの「学問遍歴」と重ね合わせながら縦横に論じた本書は、著者にとっての「メディア史家」宣言であるという(137頁)。こうした本書は、「歴史学入門」としてはもちろん、メディア史というアプローチを取ることによって、様々な新しい視点を提示してきた著者の知的な「私の履歴書」とも読めるし、その議論のエッセンスを凝縮した「佐藤メディア史」の手引きとしても読める。

しかし、それにとどまらず、同時により広い学問そのものの意義やアプローチに繋がる議論をしている点が本書のさらなる魅力である。本書から印象深い一文を引いて紹介に替えよう。

歴史学とは対話の素材を用意し、対話を実践する学問なのである。特に、時間ばかりか空間を超えた外国史を学ぶことは、一国内では普遍的と思いこまれているものが、あるいは逆に独特な国民性と信じ込まれているものが、実は普遍とはいえず、あるいは特殊ではないという事実を明らかにする。それは、他者の立場で自己を客観的に見つめるための手助けとなる。
だが、このように歴史を学ぶ意味への問いを切実に感じるのは、歴史学科に所属する教員より、私のように社会学科や教育学部で歴史学を教えている教員だろう。歴史が好きで、それを学ぼうと志した学生が「何のためのアプローチか」と問うことは少ないからである。(30-31頁)

このように、定義される歴史学の意義そのものは決して奇をてらったものではなく、あえて言えば学問全般に当てはまるごく「常識的」なものであるが、それだけではなく、学問の意義に自覚的である点、そしてそれがアプローチの議論と繋がっている点が面白い。ある研究対象にいかにアプローチするか。アプローチを替えることを、著者は「接眼レンズを替えて見る」と表現する。「接眼レンズを替えて見る」と、ある物事が全く違った様相を見せる。自らの初期の研究を題材に論じるこの一節を読んで、思わず膝を付いた。

以上はほんの一例であるが、本書で提示される様々な議論の多くは、決して目新しいものではなくむしろ常識的なものである。しかし、その常識を積み重ねていった時に新たな歴史像が見えてくる。その一つが、佐藤卓己の「メディア史」なのだろう。「読み手」として、そして「書き手」として、歴史学を楽しむために、是非手にとって欲しい一冊である。


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2010年02月11日

久しぶりに更新

長期休暇に入り、研究の「稼ぎ時」ということもあってか、すっかりブログの更新が滞ってしまいました。

書くと宣言しておきながらすっかり放置してしまっている洋書の書評などなど、書いておきたいこともたくさんあるのですが、ひとまず「政治学徒のための邦語文献紹介サイト」としての使命を果たしたいと思います(そんな使命があるのかよく分かりませんが)。



どんなにやることがあろうとも、別枠の時間を確保して一日一本論文を読もうという日課の結果、積読になっていた論文&共著書を大分捌くことが出来ました。

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菅英輝・編著『冷戦史の再検討――変容する秩序と冷戦の終焉』(法政大学出版局、2010年)は、その一冊です。最新の研究動向を押さえた上で書かれた編者による序章が、冷戦と冷戦史研究の展開をうまくまとめ、かつその中に各章の内容も織り込むという「力作」で、この序章だけでも読んでみる価値があるかもしれません(気合いを入れて特集を組んだ時の『国際政治』の序章のような感じでしょうか)。

各章の執筆者も、海外からの寄稿者三名(Robert J. McMhon; Qian Zhai; Ilya V. Gaiduk)を含む老・壮・青のバランスが取れた豪華メンバーで、編著書には珍しくほとんどの章が熟読の価値ありです。第3章・第4章・第7章の三つは、博士論文やそれを基にした本の、エッセンスとなる部分をまとめたものとしても読むことが出来ると思います。

「日課」とは別に読んだ本としては以下の二冊が出色でした。

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後藤乾一先生の『「沖縄核密約」を背負って――若泉敬の生涯』(岩波書店、2010年)は、うまく著者名と書名が頭の中で繋がらない人が多いかもしれませんが、これほどまでに読んでいてぐいぐい引き込まれる本は久しぶりで、先入観を持たずに読むことをお薦めしたい本です。何よりも読み物として面白いです。

佐藤卓己『ヒューマニティーズ 歴史学』(岩波書店、2009年)は色々なところに書評も出たので遅きに失した感もありますが、どちらも近い内に改めて紹介することにします。



狭義の専門からは離れますが、落ち着いた時間を確保して、じっくり読みたいのが刊行されたばかりの以下の2冊です。

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『武力行使の政治学――単独と多角をめぐる国際政治とアメリカ国内政治』(千倉書房)は、多湖淳先生の博士論文を基にされた著書です(リンク)。よくよく考えると、日本語で日本の読者に向けて書かれた本格的かつ最先端の国際関係論(Internationa Relations: IR)の研究書が出版されるのは、ほとんど初めてのことかもしれません。

良くも悪くも歴史的分析が重要な一部門を形成している日本の国際政治学界では、理論的な「研究」の多くが、北米を中心とした諸外国の学説紹介であることは 否めません。また、単行本として出版されているものも教科書か論文集が多いのが実態です。もちろん、これまでに出版された研究にも、古城佳子先生の『経済的相互依存と国家――国際収支不均衡是正の政治経済学』(木鐸社、1996年)をはじめとして、重要な研究はたくさんありますが、その新しさが分析対象が日本であるという「比較優位」にあるという側面がありますし、アプローチとしては定性的な方向にやや偏っていたようにも思います。

それに対して本書は、仮説の提示に一章を割き、定量的分析と定性的分析を共に行い、多角的に仮説の検証を行うなど、北米では主流となりつつある研究手法を貫いています。加えて議論の一部を海外の査読誌で発表していることも重要でしょう。また、テーマも日本や東アジアではなく、「アメリカの武力行使」という全世界的に見て誰もが重要だと考えるものです。もちろん、日本語で日本人に向けて書くということで、書き方や議論の力点の置き方は修正されているとは思いますが、いずれにせよじっくりと考えながら読みたい本です。

(IRと言えば、勁草書房からウォルツのThe Theory of International Politicsの翻訳が出るとアナウンスがありましたが、今回もまた延期というオチにならないことを祈ります。ウォルツは今更感もありますが。)

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『国際関係史――16世紀から1945年まで』(東京大学出版会)は、アメリカ外交史の碩学・有賀貞先生による本格的な通史です。個人的に通史を読むのは結構好きなので、昨年文庫化された岡義武『国際政治史』(岩波現代文庫)と読み比べつつ楽しみたいと思います。

国際関係の通史は、英語であればかなりの数がありますが、長いものが多い。また、グローバルな視点で書かれた通史は、分担執筆になっていて各章や各地域の有機的な繋がりを読み取りにくいという難点があります。それだけに、一人の著者が最新の研究も踏まえてコンパクトにまとめた本書には期待大です。



以下は、これから刊行される気になる本。

『国際関係史』と同じく注目すべき通史として、渡辺浩『日本政治思想史 十七~十九世紀』も、同じ東京大学出版会から近く刊行予定とのことです(リンク)。明治以前の日本政治思想史は、丸山眞男の研究を読みかけて挫折したままなので、この通史をきっかけに苦手意識を克服したいです。

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まだ入手していないのですが、刊行されたばかりの、遠藤乾・編『グローバル・ガバナンスの歴史と思想』(有斐閣)もとても楽しみです(リンク)。各章の題名と執筆者を見て、これだけ読みたくなる編著書は久しぶりです。

自分の専門である日本の政治外交史関係では、これまた東京大学出版会の服部龍二先生の新著『日中歴史認識――「田中上奏文」をめぐる相剋  1917-2010』が近々出版されるようです(リンク)。これまで も紀要等には戦後のことを書かれている服部先生ですが、大学の図書館に入っていないので未読であり、戦後部分をどのようにまとめているのかが、個人的 には関心があるところです。

また、人を殺せる厚さの超本格的研究書として、松浦正孝先生の新著『「大東亜戦争」はなぜ起きたのか――汎アジア主義の政治経済史』(名古屋大学出版会)のアナウンスが出ています(リンク)。個別の論文はいくつか読んでいるので、一冊にまとめた時にどんな研究になるのか楽しみではありますが、厚さに圧倒されて読み切れるか非常に不安です。

この他にも戦前では気になる研究がいくつか出ていますが、ここに挙げたところでとても読む時間が無さそうなのでひとまずはこんなところで。

戦後では、今月下旬刊行予定となっている小宮京『自由民主党の誕生――総裁公選と政党組織論』(木鐸社)が注目でしょうか(リンク)。



さて、本業の研究はと言うと、私にとっては初めての公刊となる論文のゲラが届いたりと、遅々とした歩みではありますが、それなりには進んでいます。いま書いている論文については、草稿は出来上がったのですが、テーマ的には、修士論文以来ずっと取り組んでいるものの延長ではあるものの、これまで扱ってきた時代の少し前を取り上げているため、「土地勘」のようなものがうまく掴めず、漠然とした不安があり、いま「寝かせて」います。

同時代の新聞・雑誌をざーっと眺め、取り上げている時代が重ねる研究をテーマには関係なくともひたすら読み、何となくのイメージは湧いてきたような気はするのですが、自分の論文の位置付けのようなものを思案する日々がいましばらく続くことになりそうです。

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2010年01月18日

先々週の授業(1月第2週)/先週の授業(1月第3週)

大晦日に更新をしてから二週間強、最早松の内も終わってしまい遅過ぎるのですが、本年もよろしくお願い申し上げます。

終わってしまったついでではありませんが、先週の授業をもって今年度の授業が終わりました。少し感慨深いのは、師匠の帰国と同時に入ってきてゼミの後輩たちの授業も先週が最終回だったということです。入る前から長くなるということは分かっていたものの、自分が変わらず大学院生であるにも関わらず、新たなゼミ生が入ってきて、そして自分よりも早く出ていくというのは何とも妙な気持ちになります。



四月までの長い春休みをどれだけ有効に使えるかはとても大事な問題であり、色々と考えているものの、どう考えても論文の投稿と資料の読み込みで終わってしまいそうです。

そんな研究一色の生活の中で効率良く視野を広げるためには、やはり色々な研究を読んでいくのが一番だろうと思い、初心に帰って学部生以来の勉強法を新年に入ってから再開しました。それはごくごく単純で、どれだけ忙しくてやることがある時でも論文一本(ないしは共著書の一章)を必ず読むというものです。

これはお世話になっている某先生の院生時代の勉強法=毎日最低でも英語を20頁は読む、というものを真似たもので、当時は自分の英語力が足りずそれが全く実践不可能だったため、せめて日本語でやってみようとしたものです。これがうまくはまり、読まなければいけない研究書だけでなく幅広く色々な論文を読む日課になりました。

この二年ほどはやっていなかったのですが、気が付いてみると、積読になっているものの多くが送られてくる学会誌や、これは読まないとと思って購入した共著書ばかりだったので、この日課を再開することで解消していこうと思い立ちました。18日経過した時点で、18本の論文を読めたわけで、これはなかなかいい積読解消方法です。もちろん別途読まなければいけないものは読んでいくわけですが、毎日コツコツというのがいいリズムになり、今のところはうまく続いています。

さて、色々と印象深いものがあった中で、今日は一つだけ論文を紹介しておきます。それは、石井修先生の「ニクソンの「チャイナ・イニシアティブ」」『一橋法学』(第8巻第3号、2009年11月)です。

おそらく、『一橋法学』の一つ前の号に掲載された「第2次日米繊維紛争(1969年-1971年) : 迷走の1000日」と同じように、柏書房から出ている『対日政策文書集成』シリーズの監修作業から派生した研究だと思いますが、色々な意味で大御所の先生にならないと書けない論文で、これはかなり面白いです。

使っている資料がニクソン大統領文書(Nixon Presidential Materials)のみであることなど、同時期を扱っている若手の研究者であれば、注文を付けたいとことは多々あるのかもしれません。とはいえ、全体のバランスや何よりも豊富なエピソードの数々は著者ならではのものですし、日本で広く受け入れられてきた従来のニクソン=キッシンジャー外交イメージを、より実態に近い(諸外国における研究ではスタンダードになっている)イメージへと転換している点は重要だと思います。すなわち、ニクソンとキッシンジャーに就任当初から一貫した外交戦略があったわけではないこと、ニクソンとキッシンジャーの関係や役割分担といったことは、この論文を通じて大枠が理解出来るのではないでしょうか。

それにしても古希を超えてなお、一次資料に分け入る研究をされる知的体力は凄まじいですね。ちなみに『一橋法学』は、一橋大学の機関リポジトリ(HERMES-IR)に収録されているのでオンラインでも読むことが出来ます。



研究発表が続いたのでどれも簡単にしか書けませんが、授業についてまとめておきます。

まずは先々週の授業(1月第2週)から。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊演習(院ゼミ)

昨年から研究生として授業に参加されている方の研究発表でした。

といっても、我々のような細かな事例研究ではなく、過去150年ほどの国際社会と日本の歩みを検討した上で今後を見通すというかなり野心的な「研究」で、師匠の用語法を借りれば「学問的な正確さ(elegancy)ではなく、様々な問題を考える上での面白さ・妥当性(relevancy)を持った研究」で、大学院生が真似をすると大変なことになるけれども、知的には喚起されるものがたくさんあるというものでした。

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研究発表を聞いていて思い出したのが、白石隆『海の帝国――アジアをどう考えるか』(中公新書、2000年)です。

この本は、「政治学者が50年、(スケールの大きい)歴史家が500年の時間の幅でものを考えるときに、あえて東アジアの「近代」をひとつのまとまった時間の単位と捉え、150-200年の時間の幅で東アジアの地域秩序を(一連の)構想と形成という観点から考察しよう」(iii-iv頁)というもので、タイムスパンや問題意識は似ているなと感じました。実証を重視する短いタイムスパンでも、長期的なサイクルを重視する超長期のタイムスパンでもなく、ほどほどの長さだからこそ導き出せるものがあるのでしょう。

<木曜日>

5限:プロジェクト科目(政治思想研究)

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↑の著者の先生がゲスト・スピーカーでした。論題は、「国境を超えないデモクラシー」。

国際政治を研究していると、デモクラティック・ピース論のような議論はあるものの、そもそも国際社会のあり方としてはグローバル・デモクラシー論の方が「異端」であって、デモクラシーが国境を超えないのは当たり前だろうと思ってしまうのですが、どうやらグローバル・デモクラシー論は近年政治思想業界で流行っているようで、それに対するある種の反論を試みた発表でした。

と言っても、議論をパッと聞いた時の印象とは違い、質疑応答を聞いている限りではグローバル・デモクラシー論を否定したいわけではなく、グローバル・デモクラシー論で論じられている内容を捉えるのに「デモクラシー」という用語を使うのは適切ではない、という点に先生の論点はあったようです。

この辺りが混乱していたために、聞いている私の頭の中も大混乱という状態のまま授業が終わりかけたのですが、ジェームズ・メイヨール『世界政治』の枠組みに引き付けた形で、最後に質問してみたところ、先生の立場はプルラリズム(多元主義)というよりはソリダリズム(連帯主義)に近いもののようでした。

何となくの印象は先に挙げた新書の読後感と同様で、様々な論点を提示しているものの、最後の最後まで突き詰めた考察はしていないな、というものです(やや厳しすぎる見方かもしれませんが)。



続いて先週の授業(1月第3週)。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊演習(院ゼミ)

来年から院ゼミに入ってくる後輩の卒論発表。

あまり具体的に書くことは出来ませんが、メディア・コミュニケーション研究所へ提出する論文ということもあって、論文で行われているのは国際関係に関連するテーマについての「社説分析」でした。

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そんな後輩の研究発表を聞いている中で頭に浮かんだのが、若宮啓文氏の論説委員長としての記録『闘う社説――朝日新聞論説委員室の2000日』(講談社、2008年)と、片山慶隆さんが昨年出された『日露戦争と新聞――「世界の中の日本」をどう論じたか』(講談社選書メチエ、2009年)です。

『闘う社説』は、なかなかうかがい知ることの出来ない、社説を中核とした社論形成の内幕を明らかにしているという点で非常に興味深い本である一方で、そこで変わっていく社論そのものについては、(少なくとも実際に政治の現場で動いている外交を研究している私にとっては)何でそんな小さなことにこだわっているのか、コップの中の嵐ではないのか、といった印象を持たざるを得ないものでした。後輩の研究を読み、授業での発表を聞いていると、自分がよく知らない国のよく知らない時代のことを論じているという点では面白いものの、『闘う社説』の読後感と同じような感想を感じる部分がありました。

それではなぜ『日露戦争と新聞』が思い浮かんだかと言えば、それはこの本が日露戦争期の社説や社論を題材にしたものであるにも関わらず、とても面白かったからです。それは、おそらく著者が、同時代の政治外交史や思想史についても同時に研究を進めており、そうした背景知識に裏付けられた時代認識を持つとともに、東京という限定は付けながらも当時の有力紙を全て検討対象としているからだと思います。これによって、単なるテキストとして社説が取り上げられるだけでなく、当時の時代状況や新聞各紙のコンテキストが同時に明らかにされるわけです。もっとも、この本でも、新聞紙上で展開された様々な議論が実際の政策にどういった影響を与えたのかといった点が論じられているわけではありません。社説分析というメディア史の領域と、政治外交史をどう繋げていくのかというのは、歴史学として考えても難しい問題なのかもしれません。

結局授業の記録ではなく文献紹介になってしまいました。ちなみに『日露戦争と新聞』については、昨日の朝日新聞に書評が出ていました(リンク)。

<木曜日>

5限:プロジェクト科目(政治思想研究)

前週を受けての討論だったのですが、予想通りの難しさでした。というのは、やはり前週の発表の完成度の問題に尽きるのかもしれません。あまりうまくまとめられないというか、授業での議論にあまりまとまりがなかったので、これ以上は割愛。

この授業も、メンバーが入れ替わり後輩が増えてきた中で、どういったことを発言すれば有意義な議論が出来るのか若干悩ましさが出てきました。


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2009年12月24日

ブログ引っ越し完了/先週の授業(12月第3週)

新ブログに移行してから初めての記事です。もっと面倒なのかと思いましたが、ブログ移行は思った以上にスムーズに済みました。パッと見た限りでは、全ての記事がちゃんと残っているようです。

ちなみに旧ブログのアドレスは↓です。リンクの関係もあるので、方針を転換して当分は旧ブログもそのまま残しておくことにします。

http://blackships.blog.drecom.jp/

それほど使い勝手が悪そうでもないので、差し当たりはこのブログを使い続けることにしようと思います。また、ドリコムは全角5000字が最大の字数だったのに対してライブドアは16000字まで書けるというのは嬉しいことです(といって、別にそんなに長々と書くことがあることの方が少ないわけですが)。加えて、カテゴリ指定が複数出来るというのも、ドリコムでは出来なかったことなので使っていこうと思います。



クリスマスイブを大学で迎えるのも、これで6年連続です(苦笑)。周りの友人、先輩、後輩が、社会に出たり留学に行ったりと、新たな環境を積極的に取り入れながら成長していく中で、自分は同じところで同じことに取り組む生活が続いていることに問題を感じないわけではありません。とはいえ、継続は力なり、という言葉もあるように、自分が決めたことを着実に真摯に取り組んでいくことも一つの成長法なのだと思いますし、いずれ自分も新たな環境へ踏み出していくことになるのだと思います。

さて、そんな変わらぬ日常の中でも刺激を与えてくれる気になる本をいくつか備忘録代わりに紹介しておきます。最近あまり新刊書の紹介をしていませんでしたが、年末は出版ラッシュの時期でもあるようで、気になる本がいくつか出版されています。

今日買ったばかりでまだ読んでいないものの、読むのが楽しみなのが↓の二冊です。

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グライフの『比較歴史制度分析』(NTT出版)は、制度論を少し勉強すると必ず出てくる重要な研究です。制度論と経済史を架橋するような研究で、どちらも素人の私にとっては少しハードルが高いのですが、日々歴史と理論の問題に頭を悩ませている自分にとっては、この本を日本語で読めるのはとても助かります。

村田晃嗣・君塚直隆・石川卓・栗栖薫子・秋山信将『国際政治学をつかむ』(有斐閣)は、刊行当初から巷で(といってもごくごく狭い大学院の中で)話題になっていたもので、学部生向けの教科書としては異例なほど評判がよく気になっていました。研究者の卵である大学院生の中には、「教科書は~」と言って読まない人も多いのですが、私にとって、幅広い分野をバランス良く取り上げている教科書の中に置いてみた時に自分の研究がどういった位置に入り得るのかを考えることは、とてもいい知的な訓練になります。また、何よりも忘却の彼方へ行ってしまいがちな基礎知識を確認するためにも、多分他の人以上によく色々な分野のものを読んでいます。一つ一つの章がコンパクトなので、少しずつ読み進めていきたいと思います。

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また先月購入したものの積読になっている新書が数冊たまっています。こう並べてみると中公新書が先月は当たり月だったように思うものの、読書記録をひも解いてみると、今年読んだ新書はほとんどが中公新書でした。これは、いわゆる昔ながらの新書をコンスタントに出し続けているのが中公新書だということのあらわれなのだと思います。

大田英明『IMF(国際通貨基金)――使命と誤算』は、中公新書の得意の国際機関シリーズで、ちょうど国際通貨の勉強を始めなければいけないと思っていたのでいいタイミングでの出版でした。国際機関について調べようと思うと実はあまりいいテキストがないというのが悩ましいところで、結局各国際機関が出している『~年史』の類や、日本であれば担当当局が広報として出している冊子が参考になることが多いのが現状です。もっとも、インターネット時代になってからは各省庁ともそういった冊子にあまり力を入れなくなってしまったので、最近の動向を体系的に理解しようと思うと、初学者にはあまりいいテキストがなく、こうした新書は大歓迎です。

菊池嘉晃『北朝鮮帰国事業――「壮大な拉致」か「追放」か』は、新聞記者による著作ですが、パラパラと見てみる限りでは、各国の一次資料も渉猟した上で書かれた本格的な研究になっているようです。一昨年にテッサ・モーリス・スズキの『北朝鮮へのエクソダス――「帰国事業」の影をたどる』(朝日新聞社)が出版されて一部で話題になりましたが、この問題は戦後日本を考える上でとても大切な問題の一つであり、これからも様々な形で研究が進められていくのだと思います。

最近勉強をしている金融モノということで、もう一冊紹介したいのが服部正也『ルワンダ中央銀行総裁日記 増補版』です。これは知る人ぞ知る的な名著で旧版を高校の時に読んだかすかな記憶があります。これは出版社HPに出ている紹介(リンク)を読むだけでも面白さが伝わるのではないでしょうか。

さて、最後は宮本太郎『生活保障 排除しない社会へ』(岩波新書)です。宮本先生の前著『福祉政治――日本の生活保障とデモクラシー』(有斐閣、 2008年)が非常に勉強になったので購入してみました。ベーシック・インカム論も含め、最近現実政治の動きとも連動しながら社会保障を論じた研究や議論が盛んですが、多くの論者が自説を繰り広げているものの、あまり有機的な論争になっていないという印象があり、興味はありつつも時間を割いて読むのは避けてきました。パラパラと見ると『生活保障』は、幅広い議論の中に近年の議論を位置付けており、とてもバランスがよさそうなので購入してみました。

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新書と言えば↑を先日休憩がてら読んでいたのですが、この本からもジャーナリスト・佐野眞一の執念の一端が垣間見えるように思います。「私は彼の政策にはほとんど興味がない」と言いきる彼の鳩山「研究」はまだまだこれからのような気もしますので、今後どういった展開を見せるのか気になるところです。読み物としてもとても面白いので是非一読を(ただし品のいい本ではないです)。

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紹介が最後になってしまいましたが、年末に読むのを楽しみにしているのが池袋公爵こと君塚先生の新著『ジョージ四世の夢のあと――ヴィクトリア朝を準備した「芸術の庇護者」』(中央公論新社)です。今月上旬に刊行されたことは知っており、一般書店に平積みになっているのも見かけたのですが、なぜか大学生協には入っていなかったので購入が遅れてしまいました。「女王陛下三部作」に続く「国王陛下三部作」の第一作ということになるのでしょうか。国王といってもエドワード七世ではないのでやや問題があるかもしれませんが、気分を盛り上げるためにエルガーをBGMに流しつつ、ウイスキーを片手に楽しむ夜の読書にこの本はとっておくことにします。

この他にも自分の専門分野(日本政治外交史ということになるのでしょうか)でも、三谷太一郎『ウォール・ストリートと極東――政治における国際金融資本』(東京大学出版会)、芝崎厚士『近代日本の国際関係認識――朝永三十郎と『カントの平和論』』(創文社)など、注目すべき本がいくつか出ているのですが、これらは読んでから何かを書くことにします。



と、ほぼ手許にある本を並べただけでこれほどまで色々と出てくるという状況は嬉しい半面、自分の時間をどのように使っていくか悩ましくもあります。

研究をすればするほど興味関心は広がり、そうなれば読みたい本や研究も増えてくる。一方で、自分の本分である研究も進めていかなければならない。だからと言って、研究以外にも楽しいことがたくさんある。そう考え出すと、全く人生というのは短すぎるもので、どこかで「選択と集中」の決断をしないといけないのかもしれません。

出版不況と言われながら、このようにたくさんの本が出ているわけですが、日本経済新聞が報じるところによれば、とても残念なことに『外交フォーラム』は休刊がほぼ確実になってしまったようです(リンク)。私が見た限りでは、日経本紙の報道もネット版と変わらないベタ記事でした。事業仕分けの意義を認めないわけではないものの、こうした地味ながらも必要なメディアがスケープゴートにされてしまうことに、政治の力と怖さを感じてしまいます。この話はまた改めて書きたいと思います。



調子に乗って色々と書いているうちに本題に入るのが遅くなりました。忘れない内に先週の授業(+研究会)について簡単に書いておきます。気が付けば、先週で今年の授業は終わりでした。この数年はいつものような気もしますが、結局論文を抱えているとあまり年末気分になりません。

<月曜日>

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↑の著者であるジェームズ・メイヨール先生をゲストに"World Politics and Rise of Asia"と題したセミナーがありました。論題を見れば、↑の本の内容を東アジアの興隆と関連付けながら論じたようにも思えますが、必ずしもそういった内容ではなく、グローバリゼーションが国際政治を与える影響を精査した上で、21世紀の国際政治の大きな問題である中国・インドの台頭をどのように考えるかというものでした。

全体としてとても関心を引かれるものでしたが、個人的に興味深かったのは、日本がアジア(中国・インド)・アメリカと関連付けられるのではなく、イギリスやフランスといった西欧諸国の中に入れられていたということです。植民地統治の経験と、戦後史の中での役割を踏まえてのことですが、日本国内の議論とはやや異なるこの見方には色々と考えさせられました。

<火曜日>

「普通の国論再考――冷戦後の日本と東アジアを振り返る」と題して、トロント大学出版会から刊行予定のある本の執筆陣を中心とした豪華メンバーによるシンポジウムに出席しました。

印象的だったのは、冒頭で編者の一人の先生が言われていたことですが「普通の国」の定義の困難さです。しかし問題はこの「普通の国」論が、海外の日本研究では一般的に用いられ、しかもその解釈がかなり曲解されているということです。こうした状況は日本で日本語しか読んでいないとなかなか理解が難しいですが、例えば今年翻訳が出たリチャード・S・サミュエルズ『日本防衛の大戦略――富国強兵からゴルディロックス・コンセンサスまで』(日本経済新聞社)などからもうかがえると思います。このシンポジウムそのものというよりもこのプロジェクトが重要な点は、こうした海外における論調と、「普通の国」論の定義の難しさを踏まえた上で、この問題に取り組んでいるということで、議論の細かな展開も含めて出版されるのが今から楽しみです。

それにしても、前日のセミナーに続いて裏方として手伝っていたため、実際には何をしたわけでもないのですが、とにかく疲れました。

<水曜日>

5限:大学院&学部合同ゼミ

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今季の院ゼミで読んできたPainful Choices の著者David A. Welch先生をゲスト・スピーカーに招いて、院ゼミと学部ゼミの合同セミナーでした。

院ゼミのメンバーは本の大半を、また学部ゼミのサブゼミでも本の一部を読んでいたので、それを前提としウェルチ先生の話を聞き、その上で質疑応答という流れでしたが、全体としてとても興味深い議論が展開されたと思います。

クローズなセミナーの話をどこまでブログに書いていいのかは分かりませんが、このブログでも何度か紹介した国家の外交政策変化に関する三つの仮説の内、第一仮説(外交政策の変化は権威主義で非官僚制の国家の方が民主主義で官僚制が発達した国家で起こりやすい)は、今の自分なら修正するという話など、踏み込んだ話を聞けたのはとても貴重な経験でした。

※木曜日のプロジェクト科目(政治思想研究)では、先輩の研究発表がありましたが、未発表論文の発表だったので割愛します。


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2009年11月22日

評伝ブーム/先々週の授業(11月第2週)

院棟に置きっ放しの資料に目を通す必要があり、三田祭の喧噪の中、今日はずっと大学院棟にこもっています。学部の時は一年から四年まで楽しんだ三田祭ですが、大学院も四年目となるとなかなかそうも行きません。休憩がてら、忘れないうちに授業の話を書いておこうと思い、久しぶりに更新。忙しさに紛れているうちに授業の話がとうとう「先々週」になってしまいました。ちなみに先週は三田祭準備の関係で授業がありませんでした。

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この間も、刊行前から楽しみにしていた細谷先生の『倫理的な戦争――トニー・ブレアの栄光と挫折』(慶應義塾大学出版会)をはじめとして色々と読んだものがあるのですが、紹介はまた今度改めてすることにしたいと思います。

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『倫理的な戦争』が刊行される少し前には、伊藤之雄先生の満を持しての評伝『伊藤博文――近代日本を創った男』(講談社)が刊行されました。こちらは未読ですが、伊藤先生の長年の研究の集大成的な評伝だろう本だけに時間を見つけて読むのが今から楽しみです。

それにしても、と思うのはこの数年のちょっとした評伝ブームに関することです。私が大学に入った頃と比べると、この数年は立て続けに本格的な評伝ないしは評伝的な研究が刊行されるようになった印象があります。思いつくままに挙げてみれば、『昭和天皇と立憲君主制の崩壊――睦仁・嘉仁から裕仁へ』(名古屋大学出版会、2005年)、『外交による平和――アンソニー・イーデンと二十世紀の国際政治』(有斐閣、2005年)、『加藤高明と政党政治――二大政党制への道』(山川出版社、2006年)、『幣原喜重郎と20世紀の日本――外交と民主主義』(有斐閣、2006年)、『元老西園寺公望――古希からの挑戦』(文春新書、2007年)、『リデルハートとリベラルな戦争観』(中央公論新社、2008年)、『広田弘毅――「悲劇の宰相」の実像』(中公新書、2008年)、『大平正芳――「戦後保守」とは何か』(中公新書、2008年)、『マッカーサー――フィリピン統治から日本占領へ』(中公新書、2009年)、『吉田茂と昭和史』(講談社現代新書、2009年)、『山縣有朋――愚直な権力者の生涯』(文春新書、2009年)といったところでしょうか。

この他にも、ミネルヴァ書房の「ミネルヴァ日本評伝選」からも政治外交史関係で重要な著作がいくつも刊行されています。また、『人物で読む近代日本外交史――大久保利通から広田弘毅まで』(吉川弘文館、2008年)&『人物で読む現代日本外交史――近衛文麿から小泉純一郎まで』(同)のように、個人としての首相に焦点を当てた概説書もありますし、『大英帝国の外交官』(筑摩書房、2005年)のような複数の人物を取り上げたミニ評伝も刊行されています。

既に気が付いた方もいるかと思いますが、ここまで書名を挙げてみて気が付くのは、伊藤先生、細谷先生、そして服部龍二先生の活躍ぶりです。自分の部屋の本棚を思い浮かべながらつらつらと書いたので、その点で偏っているのは明らかですが、それでも三先生の評伝的研究の質・量は圧倒的です。

学部時代にある授業で、「日本の研究者は個人を軽視している」と言われて以来、そうなのかと素直に思っていたのですが、ふと気が付いてみればむしろ評伝や評伝的研究はいま流行っている分野の一つになっているような気がするのは気のせいではないと思います。昔から評伝・伝記・回顧録などが好きで、個人の視点から歴史を眺めるのが好きな私にとっては歓迎すべき状況ですが、自分が研究の世界に片足を踏み入れつつあることを考えれば、いまの段階ではむしろこうした状況を踏まえて意図的に自分の研究から個人研究的な要素を削ぎ落としてみた方がいいのかもしれません。

というのはアマノジャクに過ぎるかもしれませんが、これだけ色々な方が個人の視点から歴史を描いているのであれば、むしろより大きな枠組みから広く歴史を捉えることが改めて必要なのだと思います。もっとも、細谷先生などは評伝的な研究を刊行される一方で、『イギリスとヨーロッパ――孤立と統合の二百年』(勁草書房、2009年)などの大局的な視点に立った編著書を出されているので、どちらにすべきということではないのかもしれませんが……。



枕のつもりで書いていた話がダラダラと長くなり過ぎました。

水曜日

2限:国際政治論特殊演習(院ゼミ)

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前回に引き続き、David A. Welch, Painful Choices: A Theory of Foreign Policy Change の輪読。今回は、Chapter 4 American Boys in an Asian War が範囲でした。

前回のエントリーでは、単に「test drive」と書きましたが、これが「検証(test)」ではなく「試行(test drive)」だということはこの本を考える上で重要なポイントのひとつです。「検証」であれば、結局のところ提示された理論が正しいという結論が導かれることが容易に想像できますが、本書の場合はあくまで「試行」であり、理論がどういったケースであれば有効なのか、その逆はどうなのかといったことそのものが重要になってきます。本章で取り上げられるケースはアメリカのベトナム介入で、章の冒頭で掲げられるこのケースの持つ意味は、「複数回の政策変化を伴う安全保障領域の単一事例」ということです。

今回は発表担当だったので、詳細に説明することも出来ますが、ここでは章全体の特徴と議論になった部分を取り上げるだけにしておきます。まず第三章とは異なり、本章はケースの説明→各仮説の検証といったスタイルは取っておらず、理論分析が埋め込まれた形の叙述スタイルを取っていることが指摘出来ます。

また、理論にとって都合のいい部分を切り取ってつなぎ合わせたわけではなく、インタビューや公刊資料をふんだんに利用するとともに、各政策担当者(ジョンソン大統領、マクナマラ国防長官、ラスク国務長官、マクジョージ・バンディ大統領補佐官、ボール国務次官、ウィリアム・バンディ国務次官補)の認識に焦点を当てた分析をかなり踏み込んで行っていることも指摘しておくべきでしょう。一方、ニクソン政権についてはかなりざっくりとした叙述なので、章の後半はややがっくり来てしまう部分がないわけではありません。

ここまでスタイルに関する説明ばかりをして、この章のテーマについて説明していないことに気が付きました。この章のポイントとなる政策変化は、「アメリカのベトナム撤退」です。つまり、ジョンソン政権による北爆開始によるベトナム戦争の「アメリカ化」と、ニクソン政権におけるパリ協定締結によるベトナムからの撤退決定が説明される政策として提示されています。

実は本章についてもっとも議論が集中したのは、この二つを政策変化とするのが適当かといった点でした。著者は、北爆開始は従来の政策をエスカレートさせただけで、アメリカによる南ベトナム支援という点では政策は「変化」していないことと、アメリカのベトナム政策には最後まで惰性(inertia)が見られたことを重ねて指摘しています。しかし、北爆開始決定は本当に「変化」ではないのでしょうか。また、パリ協定締結までアメリカの政策は本当に「変化」していなかったのでしょうか。

こうした点は「変化」をどのように定義するかにかかっているわけですが、一つの可能性としては、それまでの政策とベクトルが正反対になったことを「変化」とすることが考えられます。このように考えれば、確かに北爆開始は「変化」ではないと言えるかもしれませんが、パリ協定締結よりはむしろ米中接近の方が大きな「変化」として説明することが可能です。

この辺りまで話が発展してきた段階で、本章の議論とはかなりずれてきてしまったのですが、「変化」をいかに定義するかというポイントは、この本全体を考える上でも重要な問題であるのではないかというのが先生のコメントでした。著者自身は、わざわざ「Turning Points」という説を設けて、このケースにおけるポイントがどこにあるかを説明しているのですが、やはりここの議論は苦しいのではないのかというのが、参加者の一致した意見でした。

色々と興味深いポイントが溜まってきたので、12月にWelch先生がいらした時に色々と質問することにしたいと思います。



木曜日にはプロジェクト科目(政治思想研究)がありましたが、こちらは修士二年生の修士論文の中間発表だったのでここに書くには適さないと思うので、今回はひとまずこんなところで。

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2009年11月10日

国際政治学会/先週の授業(11月第1週)

国際政治学会@神戸に行ってきました。

今年は金曜日&土曜日の参加でしたが、自分の専門に近い研究発表が多かったこともあり、どのセッションもとても興味深かったです。ただ、昨年はそれなりに幅広い分野のセッションに参加したのに対して、今年は参加したセッションの全てが歴史系だったので、自分の研究に引き付けた時に得られたものが多かった半面、興味関心を広げる、新たな議論を吸収するといった点では少し失敗したような気もしています。

事前に一番楽しみにしていたセッションは、大学院の先輩二人が報告した「パックス・アメリカーナと戦後日本の自主外交」だったのですが、これは期待通りとても勉強になるセッションでした。部会報告ということで事前に提出されていた論文はどれも力の入ったもので、各報告も中身がギュッと詰まったものでした。もっとも、「パックス・アメリカーナ」や「自主外交」という論争的なキーワードが部会名に並んでいたことから事前に予想されたように、各報告そのものというよりも、「自主」や「協調」の定義をめぐって言わば「空中戦」が繰り広げられたのは、それはそれで面白いものの、中身に関心がある者としては残念なところです。とりわけ、各報告が保城広至「「対米協調」/「対米自主」外交論再考」『レヴァイアサン』(2007年春)を念頭に置いて、各自の定義にひと工夫を加えていただけに、もう少し各自の報告に即した議論が行われていればよかったような気もしますが、討論の時間が限られ、聴衆の専門分野が様々な部会という場では難しい注文なのかもしれません。いずれにしても、日本外交史という分野についてあれだけ注目が集まるということは、これから学会報告をしたいと考えている駆け出しの院生にとっては心強いものです。

その他、初日に行われた部会「国際政治史の新潮流」では、日本外交を考える上で手掛かりを与えてくれる三つの報告だったので、これもとても勉強になりました。とりわけ自分の研究との関係では、潘亮先生の1960年代後半から70年代半ばにかけてのオーストラリアの対日政策に関する研究はとても勉強になりました。潘先生は、ニクソン政権初期の対日安保政策に関してDiplomatic History 誌に論文を出されており、各国の対日政策を並べてみた時に見えてくる日本像は、日本外交を研究している自分にとっては非常に興味をそそられる部分が多かったです。他の二つの報告もとても勉強になりましたが、三つの報告が必ずしも統一的な問題意識を持ってなされたわけではないこともあり、部会としての印象というよりは各報告に対する印象が残ったように思います。

この点で、東アジア国際政治史の分科会「「台湾問題」をめぐる国際政治史」は、テーマと取り上げている時代が重なっていることもあり、二つの報告を比較した時に見えてくるものがとても興味深かったです。それは具体的な議論そのものということもあるのですが、それだけではなく分析の射程やその視角といった点で、説明対象をどのように置くかが研究にとっていかに大切かという点を考えさせられました。また、この分科会では司会者の先生がおっしゃっていたように、従来、東アジアの国際政治史は、欧米諸国の資料を中心に書かれていたが、今回の二つの報告は東アジア諸国(日本を含む)の資料を中心にして欧米諸国の資料は補完的に用いられている点も印象的でした。

以上が日本外交関連のセッションですが、この他に今回は欧州国際政治史・欧州研究の分科会「冷戦期外交の再検討」、アメリカ政治外交の分科会「Odd Arne Westad, The Global Cold War の書評会」に出てみました。The Global Cold War は院生仲間でやっている読書会で取り上げましたし(リンク)、先々週末には同じ読書会で70年代初頭のヨーロッパ政治協力(EPC)を取り上げた、Daniel Möckli, European Foreign Policy during the Cold War: Heath, Brandt, Pompidou and the Dream of Political Unity, (London: I.B. Tauris, 2009) を読んでいたので、どちらのセッションもとても興味深いものがありました。後者の本については、近いうちにここで書評をしておきたいと思います。

「冷戦期外交の再検討」は、どの報告も論文が事前にアップされており、事前に読んでいたので、門外漢ながら何とか議論についていくことが出来ました。特にこれまで日本での研究が少なかった60年代から70年代にかけてのドイツ外交について本格的な研究報告を聞くことが出来た点は収穫でした。また、「Odd Arne Westad, The Global Cold War の書評会」では、終了後に討論者の先生から自分の常々感じていた疑問についてWestadが書いている論文があることを教えて頂いたりと、こちらも収穫が色々とありました。

以上は参加したセッションですが、それ以外にも研究分野が近い先生とお話しすることが出来たり、やはり遠かろうと学会には参加しておくべきものだなと感じました。また、昨年同様に名刺代わりになる論文がない自分にとっては、改めて「研究者の最底辺」にいることを再確認しました。出来れば来年は何らかの形で報告をしたいものです。



忘れない内に先週の授業について簡単に。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊演習(院ゼミ)

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David A. Welch, Painful Choices: A Theory of Foreign Policy Change の輪読。今回からケーススタディの章に入り、Chapter 3 Useless Islands Disputesを読みました。

皮肉の効いた章の題名からどんなケースが取り上げられているかを想像出来るかもしれませんが……そうです、我が日本の北方領土政策が取り上げられています。ちなみに、もう一つのケースはアルゼンチンのフォークランド(マルヴィナス)紛争です。

この章では、フォークランド紛争に関しては、それまでの外交による解決模索という政策が武力行使による占領へと外交政策が変化したこと、北方領土問題についてはソ連解体という好機の到来にも関わらず日本の政策が基本的に変化しなかったことが、それぞれ前章までに提示した理論のtest driveとして検証されています。

どちらのケースも、それぞれ歴史的な前提を含めて丁寧に事例が取り上げられておりよく説明されているのですが、全体としてはこの二つのケースを並べて論じるのは難しいのではないかという印象を持ちました。

二つのケースの共通点として挙げられるのは、①実質的な価値がない島嶼であること、②武力による領土割譲の結果として相手国に支配されていること、③相手国が核保有国でありこれまで外交交渉が続けられてきたこと、の三点です。しかし、フォークランドではアルゼンチンは武力行使に踏み切り、北方領土では日本はこれまで同様の外交交渉を継続したというように、一方のケースでは政策が「変化」し、もう一方では政策が「継続」したわけです。それはなぜか、ということが検討され、それぞれ著者の提示した理論がよく当てはまるというのが本章の暫定的な結論となっています。

本書で提示されている理論は、①外交政策の変化は権威主義で非官僚制の国家の方が民主主義で官僚制が発達した国家で起こりやすい、②外交政策の変化は、それまで採られていた政策が繰り返し失敗した場合や致命的に失敗した場合、あるいは指導者がこのまま続ければそうなると判断した時に起こりやすい、③指導者は利益を得るためよりも、同じだけの損失を避けるために政策変化を行う傾向がある、という三点です。

そして、こうした理論を導き出すために用意される分析のための6つの前提条件は、①指導者のレファレンス・ポイント(政策決定の基準)、②指導者の現状認識、③採りうる代替案、④指導者の代替案に対するリスク評価、⑤実際に行われた政策、⑥国家の政体、で、本章ではこれらが各ケース共に丁寧に検討されています。

それでは日本とアルゼンチンは何が違ったのかということですが、それは、①政策を変化させる期限の有無、②代替案の可能性に対する認識、③国際社会の規範的制約への認識、がそれぞれ違ったというのが著者の議論です。確かにそうだろうな、と思いつつも、そもそも日本に外交交渉の継続以外の代替案が無かったのであれば、結局日本の政策が変わらないのは当たり前じゃないか、というのが授業での議論を読んでいて感じたことです。

もっとも、各事例の分析は鮮やかで面白いものだったので、今週以降さらに事例研究を読み進めていった上で、もう一度この章の意味についても考えることにしたいと思います。ちなみに今週のテーマは、アメリカのベトナム介入です。

<木曜日>

5限:プロジェクト科目(政治思想研究)

前週の報告(「ポスト・デモクラシーの政治空間:危機の時代における芸術=政治をめぐって」)を受けてのディスカッション。といっても、前週欠席してしまったので特に出る幕なし。毎学期感じることですが、政治思想史を専攻する某先輩の報告はシャープでハッとさせられます。

「フラッシュ・モブ」や「アート・アクティヴィズム」を積極的に評価しようという報告趣旨が妥当かという点は置いておくとしても、それを説明する際の枠組み(=公共空間の閉塞状況をシャンタル・ムフの議論とその陥穽たる現実の政治状況から説明すること)が必ずしもうまく論旨にはまっていないのではないかというのが自分の感想なのですが……。この点も、実際の報告を聞いていないので何とも言えないところです。

at 13:40|Permalink

2009年10月10日

気になる本(研究書)の話

秋の夜長に読みたい、気になる本(研究書)についてダラダラと。本当にダラダラなので悪しからず。



ただ目の前にある本を読んでいた高校から学部一、二年、長く読み継がれている古典的な本を貪るように読んだ学部三、四年を経て、大学院に入った頃からは自分の専門分野の研究をしっかりと頭に入れておかなければならないと思い、網羅的に先行研究を読むことを心がけていました。

先行研究の読み込みが大体終わり、そして並行して進めていた修士論文を何とか書き上げた頃から、少しずつ本の読み方が変わってきたように思います。苦労しながらも何とか英語が読めるようになってきたので、読む対象が大きく広がったことも大きいのかもしれませんが、より重要なのは学問の世界に半歩ほどではあっても足を踏み入れたからだと思います。

もちろん過信はあるのだと思いますが、自分の専門分野や隣接分野の研究であれば、その研究がどれだけ「時間」をかけたものかはパッと見れば分かるようになります。また注にどれだけ様々な文献が並べられていても、それが本文に活きているかはすぐに分かるように思います。逆に文献をあまり挙げていないような研究であっても、それがどれだけ「真剣」に思考を重ねたものなのかということはよく分かります。それだけに、「時間」や「真剣さ」が伝わってこないものへの落胆は激しく、著者が真摯に取り組んだものを読んだ時の喜びは格別のものがあるようになってきたように思います。

こうしたことは、ひとつひとつの論文や本に当てはまる話だけでなく、共著書・編著書に顕著に当てはまるような気がします。「お付き合い」で書いた論文だらけの編著書は巷に溢れているわけですが、その一般的な裏事情のようなものが分かってくると、さすがに自分の専門に近いからと安易に買うのは躊躇うようになります。最後に買ったその類の本は戦後日本の平和……、とこの話は止めておきましょう。

論文を書いていると(といってもまだ二本目の仕上げ中ですが)、こうしたことが何となく身体で分かってくるような気がしてきます。気を付けなければならないのは、無駄な力が入って余計なことを書き過ぎてしまうことです。出来る限り贅肉は落として、シンプルで骨太な議論を作るのが字数の限られた論文でやることなのでしょう。と、気が付けばすぐに自分に引き付けて考えてしまうのは悪い癖ですが、これは死んでも治らない(笑)



閑話休題。気になる研究書の話でした。

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戦前や戦後の日本政治・外交に関して様々な研究を読み、そして色々と考えている中で浮かび上がってきた問題意識のひとつに「政と官」の関係があります。気が付けば無意識のうちに周りにいる先生・先輩の問題意識に惹き付けられてしまうという癖が自分にはあるようで、それがいいことなのか悪いことなのかはよく分かりませんが、ともあれ「政と官」の関係が気になるわけです。

そんな中で政治外交史という枠組みが、戦後においてどれだけ有効なのかという問題は自分の中でうまく処理しきれていない部分なのですが、暫定的に言えることは、少なくとも「政治」を独立変数的に考えて、その部分の展開を分析して「外交」を説明するというアプローチの有効性が、戦後のある時期以降に関する限りは低下してきているということです。もちろん、日中関係などは「政治」の要素が依然として高い領域だとは思いますが、それでも「行政」の部分の専門性が高まったことや、政官関係の構造的な変化の影響は日中関係にも及んでいると思います。

こういったことを自分の専門分野の中だけで考えているとブレイクスルーはうまれてこないわけで、最近は行政学の研究をいくつか読んでいます。そこで最も気になる文献が牧原出先生の『行政改革と調整のシステム』(東京大学出版会)です。

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今日の行政学のあり方そのものに問題意識を持ち、イギリス行政学における「ドクトリン」概念を手掛かりに、「行政改革」と「調整」について各国の比較、戦前及び戦後における展開と変容を包括的に検討したこの本はとても気になります。この本は読み始めたばかりなので、その感想と詳しい紹介はまたそのうちに(といって書いていない本だらけですが)。



さて、ここから強引に他の気になる研究書の話に繋げていきたいと思います。この本は西尾勝先生が編者を務める『行政学叢書』の一冊として公刊されたものです。こうした魅力的な叢書がたくさんあることが行政学研究の発展に繋がっていると思いますが、国際政治・外交となるとこうした媒体が限られているのが現状です。

日本国際政治学会・編『日本の国際政治学』のような論文集がないことはないのですが、あれだけの数の著者を抱えているとどうしても各論文のレベルにばらつきがありますし、一章辺りの字数が短すぎるためにどうしても概説的なレベルを超えることが難しくなっています。

最近の注目すべきシリーズとしては、ミネルヴァ書房の「国際政治・日本外交叢書」があります。若手から中堅研究者の博士論文を中心として益田実『戦後イギリス外交と対ヨーロッパ政策』(このブログでの紹介→リンク)をはじめとして、重要な研究がいくつも発表されています。漏れ聞くところによると、叢書の続刊としていくつか重要な博士論文が控えているようです。

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ここにもうひとつ注目すべき叢書が加わることになりました。千倉書房の「21世紀の国際環境と日本」です。題名からすると、現代の国際政治や日本に関する叢書なのかと早とちりしてしまいそうですが、創刊一冊目となるのは水本義彦先生の『同盟の相剋――戦後インドシナ紛争をめぐる英米関係』(出版社HP)です。先ほど大学生協に行ったところ、新刊コーナーに並んでいたので早速購入しました。

この春に千倉書房から復刊された佐藤誠三郎『「死の跳躍」を超えて』や矢野暢『「南進」の系譜』同様に、凝っていながら読みやすい装丁に編集者のこだわりを感じるとともに、「本」というメディアを愛する一人としてにやりとしてしまいます。

『同盟の相剋』については在外研究中の細谷先生もブログで紹介されていましたが(リンク)、この本は水本先生の研究書第一作です。これまでに刊行されてきたいくつかの論文は読んでいましたが、一冊の研究書としてまとまった時にどのようなものになっているのか、とても楽しみです。

それにしても戦後イギリス外交史研究の充実ぶりは本当に驚くべきものです。これまではどちらかと言うと、対ヨーロッパ外交に関係する研究が多かった気がしますが(そのエッセンスは、細谷雄一・編『イギリスとヨーロッパ』勁草書房、2009年の各章で読むことが出来ます)、ここに本格的な英米関係史研究が加わることになりました。

実は、本書が対象とするインドシナ紛争をめぐる英米関係は、戦後日本外交史研究の観点からも興味深い対象です。というのも、この10年ほどの間に行われた若手の日本外交史研究は、宮城大蔵先生の一連の研究をはじめとして、その多くが何らかの形でインドシナ紛争に関係しているからです。

この夏に出たばかりの森聡先生の著作『ヴェトナム戦争と同盟外交――英仏の外交とアメリカの選択 1964―1968年』(東京大学出版会)と読み比べつつ、秋の夜長を楽しみたいと思います。

at 15:00|PermalinkComments(0)