本の話

2010年11月08日

この数日に読んだ本/先週&先々週の授業(10月第5週&11月第1週)

先週来引いている風邪がまだ完全に治りきっていません。最初は喉が痛いなと思っていたのですが、どうやら細菌だかウイルスがさらに奥に入ってしまったようで、軽い気管支炎のような症状です。だるいわけでも熱があるわけでもないので気にしなければいいのかもしれませんが、何となく集中が途切れがちでよくありません。

◇◇◇

やらなければいけないことは山積しているのですが、体調を直すのが先だろうということで早く布団に入る=読書時間が増えるということで、この数日の間に以下の三冊を読みました。どれも面白く本格的な書評が出来るだけの本ですが、ひとまず簡単な紹介だけしておきます。

※例のごとく、版元情報は画像にリンクしてあります。

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最初は国際政治学会の書籍販売コーナーで入手した一冊、君塚直隆『近代ヨーロッパ国際政治史』(有斐閣)です。風邪でウンウン言っている間もじっくり読み続けていました。

著者である君塚先生の狭い意味でのご専門は19世紀のイギリス外交&イギリス政治だと思うのですが、個人的にはこの本の読みどころは、むしろその前の時代である19世紀に至る部分なのではないかと思います。19世紀以降については、同じく君塚先生の手による章が含まれている細谷雄一・編『イギリスとヨーロッパ――孤立と統合の二百年』(勁草書房、2009年)、佐々木雄太、木畑洋一・編『イギリス外交史』(有斐閣、2005年)などもありますが、それ以前の時代がこれだけコンパクトかつ読みやすい形でまとめられたことは無いのではないでしょうか。

とりわけ面白く勉強になったことは、「ウェストファリア神話の解体」です。このように銘打たれているわけではありませんが、神聖ローマ帝国崩壊以前のヨーロッパ国際関係史を丁寧に描き出すことによって、ウェストファリア条約締結以降のヨーロッパ国際政治がどれだけ多層的かつ複雑なものだったかイキイキとした形で読者に伝わってきます。

君塚先生自身が翻訳されたベンノ・テシィケ『近代国家体系の形成――ウェストファリアの神話』(桜井書店)や、明石欽司『ウェストファリア条約――その実像と神話』(慶應義塾大学出版会)など、最新の研究成果を踏まえつつ、通史の中で「ウェストファリア神話の解体」を行ったことはとても重要なことだと思います(ちなみ『ウェストファリア条約』について君塚先生の書評が東京財団HPに載っています[リンク])。

私自身まだうまく消化出来ていませんが、『近代ヨーロッパ国際政治史』を読むと、「1648年のウェストファリア条約締結以降~」というお決まりのフレーズを使うのを誰もが躊躇うのではないでしょうか。

その神話性は、上記二冊の本だけでなく、90年代前半にクラズナーも指摘していたことではありますが、ウェストファリア条約締結以降の国際政治の実態が非常に読みやすい通史の形で読めるようになったことはとても重要なことだと思います。

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続いて読んだのは、伊藤之雄『京都の近代と天皇――御所をめぐる伝統と革新の都市空間1868~1952』(千倉書房、2010年)です。実は10月に読みかけたものの、目の前の研究で一杯一杯になって一旦ストップしていた一冊です。

都市史や建築史は一つのジャンルとして確立しており多数の研究があるものの、それをうまく政治史と繋ぎ合わせることはそう簡単なことではありません。私自身に都市史や建築史の知識がほとんど無いので、専門的な立場から論評を加えることは出来ませんが、この本は、政治と都市、政治と建築といったことに関心のある読者にとっては実に面白い一冊に仕上がっていると思います(ただし、読みやすさや入り込みやすさ、テーマの広がりという点では、同じ時期に刊行された御厨貴『権力の館を歩く』(毎日新聞社)の方がいいかもしれません)。

我々のイメージする古都・京都というイメージや、御所を中心に広がる京都の空間がいかにして作られていったのか、その政治利用がどのような形で行われてきたのかを丁寧に跡付けており、早くまた京都の街を歩いてみたいと思わされます。

中身には全然関係ありませんが、こういうある意味での「ご当地モノ」はやっぱりその地域で売れるものなのかが少し気になります。

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最後は、福本邦雄『表舞台 裏舞台――福本邦雄回顧録』(講談社、2007年)。この名前を見てピンと来る方は相当の日本政治好きだと思います。先日、死去の報が流れましたが、「フジ・インターナショナル・アート会長」や「旧KBS京都社長」の肩書きでは、何をやった人なのかよく分かりません。

父は福本イズムで有名な福本和夫、産経新聞記者を経て椎名悦三郎の秘書として政治に本格的に関与するようになり、その後は画商・コンサルタント業を務める傍らで財界と政界のパイプ役のような立場に収まり…といったことが語られる際に引かれる人です。この本は、伊藤隆・御厨貴両先生をインタビューにしたオーラル・ヒストリーを基にした一冊です。

刊行時にざっと読んでいましたが、改めて読み直してみると色々な発見があり面白かったです。ただし、若干玄人向けの本かもしれません。この本だけ読んでも本当の面白さはおそらく半分くらいしか分からないのではないでしょうか。安保改定、ポスト佐藤、40日抗争、創政会旗揚げ等々、様々なテーマが取り上げられていますが、その背景や一般的なイメージを知った上で読むと、この本の面白さは倍加します。

この辺りはさすが御厨先生(本書の基になったオーラル・ヒストリーのインタビュアーの一人)で、『アステイオン』で連載されていた「近代思想の対比列伝――オーラル・ヒストリーから見る」では、他のオーラル(例えば、竹下登や宮澤喜一など)を引く際の「補助線」として『表舞台 裏舞台』をうまく使っています。

ともかく、日本政治に関心がある方ならば一度は手に取って欲しい本です。

◇◇◇

ほとんど自分の備忘録と化している授業内容の記録も一応書いておきます。まずは先々週の授業(10月最終週)について。この週は修士論文の構想&中間発表ばかり聞いていた気がします。

<月曜日>

3限:地域研究・比較政治論特殊演習

前回に引き続き、M2の院生による修士論文中間報告。テーマ的に、自分の研究に重なる部分も多くとても勉強になりました。「中間報告」なので、内容紹介は割愛します。

力の入った修士論文の中間報告は聴いていても面白く勉強にもなるのですが、シラバスに書かれている授業テーマ「冷戦の検討――今何が、問題になりうるのか」を楽しみにしていただけに、「冷戦」に関係する報告がいまのところ一つも無いというのはやや残念なところです。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊演習(院ゼミ)

戦間期のイギリス外交を専攻するM1の後輩による修士論文構想報告でした。

狭い意味での研究テーマに留まらず、夏休みの勉強の成果であろうより大きな「国際秩序」を中心に据えた報告で議論もとても盛り上がりました。M1の段階でこれだけ先行研究を消化し、大きな問題意識を持っているとは驚異です。

これまで未発表の研究なので詳細は書きませんが、抽象的に言えば、大→中→小という形で問題が整理されていることで、実際に修士論文で取り扱う「小」の課題の意義が逆に見えにくくなってしまっているのではないかと感じました。

ある先生に言われたことの受け売りですが、修士論文は調査にも執筆にもかけられる時間は限られているので、どれだけ背後に広がりのある「小さな」テーマを見つけられるかがポイントだと思います。それが正しければ、「大→中→小」ではなく、「中→小→大」といった構成の方が、研究の意図や問題意識はより伝わるのではないでしょうか。

…ここまで抽象的に書くと何のことだかさっぱり分かりませんね(笑)

いずれにしても、面白い研究をしてくれそうなので、話の面白さが分かる程度には自分も戦間期研究を追いかけてみたいと思います。

<木曜日>

5限:プロジェクト科目(政治思想研究)

16世紀イギリス政治思想(ロバート・フィルマー)を研究しているM2による修士論文中間報告でした。論文提出約3ヶ月前の「中間報告」とは思えないほどに議論の完成度も高く素直に感心しました。

色々と書いておきたいこともあるのですが、「中間報告」ということで内容は割愛します。今週はこればっか(笑)

<金曜日~日曜日>

前回の記事に書いた通り、国際政治学会の2010年度研究大会@札幌に参加してきました。

自分の出番は初日最初の部会だったので、残りの時間は比較的余裕を持って他の部会&分科会に参加できました。体調が途中から優れず、頭の回転がいま一つだったという問題はありましたが、昨年・一昨年と同じように、刺激を受ける報告が多かったです。

これまた昨年・一昨年と同じなのですが、今年もまたヨーロッパ外交史を取り扱った分科会が面白かったです。資料の公開状況もあり、ヨーロッパ外交史でも日本外交史と同じく1960年代後半から70年代半ばにかけての研究が充実してきており、先行研究も踏まえた上で一次資料を渉猟した研究は安定感と面白さがありました。

自分の研究も、狭い意味で同じ領域を研究している専門家だけでなく、もう少し広い隣接分野の読み手を意識して書かなければいけないなと思った次第です。

◇◇◇

続いて先週の授業(11月第1週)。もっとも、今週は早慶戦で月曜が休講になり、水曜日が祝日(文化の日)のため木曜日だけです。

<木曜日>

5限:プロジェクト科目(政治思想研究)

前回の報告を受けての院生討論でしたが、「前回」とは先々週の木曜日のことではなく、先々週の土曜日のことです。講師に来る先生の都合次第で、この授業は土曜日に開催されることがあるのです。この日は札幌にいたため残念ながら出席出来ず、討論の回のみの参加になってしまいました。

課題文献(井上彰「平等の価値」『思想』2010年10月号)は読んでいき、それなりに話したい事や考えた事もあったのですが、どうも報告を聞いていないと乗り切れず、消化不良のまま終わってしまいました。英米系の正義論の先端を行く先生の回だっただけに、ちゃんと参加できなかったことが悔やまれます。

ちなみに討論で話題になったことは、方法論的個人主義の持つ問題、正義論を議論する際の前提、「平等」という価値の位相などで、これはこれで非常に勉強になりました。

前期はやたらと政治思想(or政治理論)づいていたのですが、どうも後期はあまり思想関係の頭を使えていないような気がします。


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2010年10月25日

黒木亮『エネルギー』/先週&先々週の授業(10月第3週&第4週)

これ以上ブログの更新が滞りがちな言い訳をしたり、「書く書く詐欺」ばかりを繰り返しても仕方が無いとあきらめモードの中、2週間ぶりに更新することにしました。

この間も、いくつか課題がありましたが、やはり一番大きいものは学会報告ペーパーの執筆です。全く新しい時代&テーマに取り組んだわけでは無く、これまでの研究をベースにしたものとは言え、まだ論文を1本公刊、1本投稿しただけの自分にとっては、大変な作業でした。

実質的な執筆期間は約1週間強(それもほぼ一日中を費やしました)であり、これまでの2本と比べるとかなり早く書けたとは思いますが、研究者として独り立ちするためには、これでも時間がかかり過ぎているのかもしれません。論文の冒頭には、忸怩たる思いで「未定稿につき無断での引用はご遠慮下さい」という一文を掲げましたが、論文として投稿するためには、資料と議論のいずれにおいても学会報告を踏まえてもう少し深めていく必要がありそうです。

当たり前のことですが、歴史研究は執筆時間以上に資料収集や読み込みに時間がかかります。倦まず弛まず続けていくしかないことは分かっているので、今後もこつこつ頑張って行こうと思います。

◇◇◇

ワーカホリック体質らしく、気分転換のはずの夜の読書も研究に引きづられがちな今日この頃。小説も自分の研究に関係するようなものをついつい手に取ってしまいがちです。でも、そんな状況で読んだ本が面白いと得をした気分になります。

最近読んだ中でのおススメが↓、黒木亮『エネルギー(上・中・下)』(講談社文庫)です。

※版元情報は画像にリンクしてあります。

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父の本棚にあった城山三郎を手に取って以来、経済小説の類は結構好きだったので、黒木亮の小説もいくつか読んでいましたが、国際金融の話は遠い世界で、勉強半分で読んでいるような感じでした。

その黒木亮が『エネルギー』という小説をWeb連載しているというのを知ったのが、ちょうど自分がエネルギー問題について関心が湧いてきた時期でした。結局、連載で読むのがあまり好きではないため、連載中はせっかく連載サイトの会員だったにも関わらずほとんど読まず、単行本が出た後も本棚のスペースがなあ、と思い読んでいませんでした。この度めでたく文庫化ということで一気に読みました。

舞台となるのは、90年代後半から2007年頃。サハリンの巨大ガス田開発プロジェクトをストーリーの軸に、イラン石油権益、石油関係のデリバティブ取引にのめり込んでいく中国企業の話が主要な物語として描かれています。

現実に起こった出来事をベースに展開される三つのストーリーはそれぞれに展開していくため、一つの大団円に繋がるわけではありません。しかし、読み進めていく内に「エネルギー」を軸に、いかに様々な利害が交錯し繋がっているのかが浮かび上がってくるのはとても見事です。

主要な登場人物は、サハリン・プロジェクトに携わる商社マン、イランでの石油開発にかける商社マン、エネ庁石油・天然ガス課長、環境NGOのスタッフ、エネルギー関係の金融取引を手掛けるトレーダー、そしてデリバティブ取引にのめり込んでいく中国企業の社長の6名です。それぞれを丁寧に描きながら、「エネルギー」を巡る現代の物語は展開していきます。

読んでいて思い出したのは、ダニエル・ヤーギン『石油の世紀(上・下)』(日本放送出版協会、1991年)[原題:The Prize: The Epic Quest for Oil, Money, and Power]です。『石油の世紀』は、19世紀半ばの「発見」から約150年に渡って石油資本、産油国、消費国、国際機関等々で繰り広げられる様々な出来事を描く一大叙事詩です。「石油」こそが主人公として展開される物語は学術書としてだけではなく、読み物としてもとても面白いです。

この『エネルギー』は、『石油の世紀』では描かれることのない、現代の「エネルギー」を巡るドラマです。話の軸となるエネルギーは石油・天然ガスですが、原発が稼働停止になることによって天然ガス需要が急増するといった形での影響や、アメリカのITバブル崩壊に伴い年金基金のマネーが商品市場にも流入するといった、エネルギー市場の有機的な繋がりがとてもよく描かれています。また、環境NGOの動きと融資の関係、広い国際情勢とビジネスの関係なども印象的です。

小説ではありますが、石油や天然ガス、原子力といった「エネルギー」について考える際に是非手に取って欲しい一冊です。もちろん、小説としても面白いことは言うまでもありません。

ちなみに、現実に即した概説書としては↓、松井賢一『エネルギー問題!』(NTT出版、2010年)がおススメです。

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◇◇◇

まずは先々週(10月第3週)の授業について。木曜日の授業前に急遽やらければいけない課題が出来てしまい欠席したので、『クローチェ』について考える貴重な機会を逸してしまったのが残念なところです。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊演習(院ゼミ)

発表担当ということで、月末の学会報告へ向けた予行演習…のはずだったのですが、ペーパーを執筆途中ということで、中間報告的な発表になってしまいました。時間配分や強調すべき点など、色々な点でまだまだ練り直さなければいけないことがよく分かったのはとても大きな収穫でした。

この発表から約1週間後にペーパーは完成、いまは報告に向けて原稿を作り直しているところです。

◇◇◇

続いて先週(10月第4週)の授業について。と言っても、木曜日のプロジェクト科目が休講だったので、大学での授業そのものは月曜日だけでした。

<月曜日>

3限:地域研究・比較政治論特殊演習

M2の修士論文中間報告。未発表の研究なので詳細は書けませんが、1970年代後半から80年代前半を対象に、丹念に一次資料を読み込んだ研究で、今後の期待大です。自分が研究を始めた頃は、70年代前半から半ばがもう歴史研究の対象なのだと驚かれましたが、歴史研究の最前線はもっと先に行っているのだなと実感しました。

興味深かったのは、先生のコメントです。少し前の話なのでしっかりと記憶していないのですが、丹念に資料を読み込む歴史研究をわざわざやるのだから、あらかじめ議論を設定し過ぎてしまうと、様々な可能性が消えてしまう、というのが大体の要旨だと思います(実際はもう少し含蓄のある言い方だったと思います)。このように書くと当たり前ではないかと思われるかもしれませんが、重要だと思う要因を過度に「はじめに」などで強調してしまうことはありがちなことです。

もう一つは、分析対象そのものに着目するだけではなく、その対象が置かれた文脈をもう少し考える必要があるということです。これもごくごく当たり前のことではありますが、資料を読み込み、研究に集中すればするほど、話が細かくなり、なぜ自分がこのテーマに注目したのかといったことをついつい忘れてしまいがちになります。

自分を戒める意味でもとても勉強になりました。

<水曜日>

ジョセフ・ナイ尽くしの一日。大学が、ハーバード大学ケネディ・スクール特別功労教授であり米政府要職を歴任したジョセフ・ナイに名誉博士号を授与したからです。

師匠がアテンド役の一人だったこともあり、役得で演説館での名誉博士号授与式に参列し、その後は北館ホールでの記念講演に出席しました。講演内容の簡単なまとめは、翌日の日経朝刊に出ていましたので関心がある方はそちらをチェックして下さい。

これだけでは終わらず、その後は某雑誌に掲載予定の座談会収録を聴講させて頂きました。師匠に感謝。おそらく半年くらい後には公刊されることになると思いますので、内容はそれまでお楽しみということで。

結構、印象深い一日だったので、中身をあまりここに書けないのが残念です。

<金曜日>

5限(16時~18時):国際関係論コロキアム@東大駒場キャンパス

ナイ名誉博士号授与式の関係で休講になった院ゼミの代わりに、東大(駒場)で国際関係論コロキアムがありました。ゲストは、お馴染みのDavid A. Welchウォータールー大学教授です。

これまでウェルチ先生が来日した時は、完成した本が課題文献に指定されてきましたが、今回は未定稿が課題文献でした。というわけで内容を書くのは適切では無いと思うのですが、コロキアムの案内に題目が出ていたのでそれを転載しておきます↓

“Securitization, or Threat Perception? :Competing Visions of Security and Security Threats”

題名から分かるように、ペーパーの一つのポイントはSecuritization(「証券化」じゃない方です)について。それほど多くの文献を読んだわけではありませんが、これまで読んだどの文献よりもSecuritizationの利点と欠点をとてもうまく指摘いると思いました。

ただし議論の中心になったのはその部分では無く、ペーパーの後半で書かれていたSecurityの定義を巡る問題です。この辺りは、研究のアイディアに関係してきてしまいそうなので割愛しようと思いますが、環境安全保障はどうやら先生にとっては重要なテーマだということで、ここが自分はうまく消化出来ませんでした。

自分の研究にも実は関係していると理解しつつも、「環境」は避けがちなテーマだっただけに、これをきっかけに少し真面目に調べてみようと思いました。


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2010年10月11日

後期の授業が始まりました

ブログの題名の通り、豪快な大外一気(競馬)が好きなので、今シーズン終盤からのライオンズの体たらくに意気消沈しています。シーズンもまさかの大逆転劇に遇い、CSでは二戦続けて9回に追いつかれて延長負けをするとは…来シーズンこそは頑張って欲しい!

◇◇◇

最近、気になる本の紹介などもっぱらツイッターでやっていますが、ブログに書いた話と関連する本が出たので、こちらでも一冊だけ紹介しておきます。

※版元情報は画像のリンク先にあります

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学部生時代から何かとお世話になっている君塚先生の新著『肖像画で読み解く イギリス王室の物語』(光文社新書)が発売されました。刊行前から情報は知っていたのですが、発売日が史料調査でアメリカに行っている間であり、かつ大学生協に行っても光文社新書のコーナーをチェックしていなかったので、手に入れるのが遅くなってしまいました。

史料調査の間は何冊か小説を読めましたが、夏の途中から課題に追われて、就寝前の読書まで研究に関係するものになっていたところだったので、この本が出たのは本当に嬉しい限りです。たくさんの肖像画がカラーで載っていて、紙質も良いので、じっくり読むだけでなく、パラパラと眺めているだけでも楽しめると思いますが、やはりこの本は文章をじっくり読み、英国史(と英王室)に思いを馳せながら読むのがおススメです。

昨晩読み始めたので、まだ途中までしか読んでいない上、内容を論評するような知識が無いので説得力に欠けるかもしれませんが、絵画が好きな人や、イギリスが好きな人だけでなく、政治・外交に関心がある人にとっても面白い一冊になっていると思います。

ブログで書いたことに関係する話というのは、「肖像画」ということです。この本で取り上げられている肖像画はイギリスの国立肖像画美術館に所蔵されているものです。「国立肖像画美術館」があるのは、イギリスだけではありません。アメリカにも「国立肖像画美術館」があるのです。スミソニアン博物館の一つで、歴代大統領をはじめとして様々な肖像画が所蔵されています。「アメリカの肖像画美術館なんて…」とイギリス好きの方は言われるのかもしれませんが、ワシントンDCに2週間いながら行かなかったのは、やはり残念だったなと後悔しているところです。

ちなみに日本については、肖像「画」ではないですが、国会図書館の電子展示「近代日本人の肖像」(リンク)を眺めてみると面白いのでおススメです。

◇◇◇

近況を簡単に。前回の記事に「10月もまた忙しい毎日が続くことになりそうです」と書きましたが、本当に毎日やることに追われています。

結果として、いくつか溜まったまま処理出来ていない仕事が…ブログを更新している暇があるならやれ! と言われてしまいそうなので、メリハリを付けて迷惑をかけないように進めます。

この夏最後の課題として以前に挙げた「某学会での発表のための報告ペーパー執筆」です。外交史研究で最も時間がかかる資料を読み込む作業そのものは終わっ ており、いま取り組んでいるのは文章を書く作業なのですが、これまでに色々な形で発表してきたものをまとめたような報告なので、むしろ内容を詰め込み過ぎ ないようにしつつもいかに充実した形でまとめるかがいまの課題で、これがなかなか大変です。同じく大学院棟で研究をしている先輩や仲間にまとめ方のアイ ディアを聞いて貰いながら、何となく形にはなりかけたかな、といったのが現状でしょうか。水曜日の院ゼミで報告するので、そこでの反応次第で、あと一週間 ほど頑張ろうと思います。

それでは、他の課題は終わったかというと、色々な経緯もあり残ってしまったものが一つあり、それをこなすのが報告ペーパーを書きあげた後の課題です。この 自転車操業状態が年末まで続くことになりそうで、やや気が滅入りそうですが、うまく気分転換をしつつ取り組まないといけないですね。

◇◇◇

ここまで書いて、ようやくエントリーの題名である大学院の授業開始に辿りつきました。先週から大学院の授業が始まりました。授業自体は、先々週から始まっていたのですが、第一週はほぼガイダンスということで史料調査を優先することにしたので、自分は先週からの参加です。

今期出席する授業は以下の三つですが、輪読モノは無く、報告が主体なので、前期のような形で授業記録はつけないかもしれません。課題が少ない分だけ前期よりも時間が確保出来るので、研究成果の発信という年初に立てた課題に着実に取り組みたいと考えています。

<月曜日>

3限:地域研究・比較政治論特殊演習

授業名は「地域研究・比較政治論」ですが、実際には国際政治系の授業で、シラバスに載っているテーマは「冷戦の検討―今何が、問題になりうるのか」です。学部4年生の時にこの先生の授業を履修してとても楽しかったので(テーマは冷戦では無く戦前の東アジア国際政治史でしたが)、大学院の授業ではどんな感じになるのか、前期から楽しみにしていました。

ただ実際には、先週の授業の雰囲気や履修者から聞いたガイダンスの感じでは、それほどテーマを限定しない院生の研究報告、かつ修士の学生が多いようなので、報告者次第で授業の面白さが左右されることになりそうです。

第一回の研究報告である先週は、国際政治理論の研究動向紹介だったので、正直「あれっ?」という感じは否めませんでした。今週は祝日で授業が無いので次回は来週ですが、次回は本格的に資料を読みこんで研究をしている後輩の研究報告なので楽しみです。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊演習(院ゼミ)

前期のこの時間は師匠の特殊研究でしたが、今期はいわゆる「院ゼミ」です。「院ゼミ」ということでメインは院生の研究報告です。

所属している大学院生が博士課程2名、修士課程3名、オブザーバーの他ゼミ所属の博士課程2名と、それほど出席者が多くはないので、報告が無い日はケインズ及びケインズ関係の本を読むことになりました。

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今回の授業では昨年岩波クラシックスから再刊されたスキデルスキーの『ケインズ』序章(「その人間像・経済学者像」)、第1章(「その生涯」)、第2章(「ケインズの行為の哲学」)が課題文献でした。周知のようにスキデルスキーは浩瀚なケインズ伝の著者であり、そちらを読んでもよかったのかもしれませんが、ケインズそのものを読んで行きたいというのが先生の意図のようです。

授業で議論の中心になったのは、やはり第2章で、特にケインズにおける「不確実性」の話が盛り上がりました。この辺りは、竹森先生が一連の著作で書かれていますし、ちょうど先日読んでいたニーアル・ファーガソン『マネーの進化史』(早川書房、2009年)の末尾でもフランク・ナイトの紹介と共に出てきた話なので、ホットな話なのかもしれません。

疑問や分からなかった部分をまとめると長くなりそうなので、その辺りは割愛。次回の授業は私が報告予定です。

<木曜日>

木曜2限には、前期にもぐらせて頂いた政治思想論特殊研究があるのですが、今期は月曜日に授業が一つ増え、さらに学会報告や提出しなければいけない原稿がいくつかあることから、出席は取りやめることにしました。毎週、現代政治理論について考える貴重な機会だったのでどうしようか迷ったのですが、やはり今は博士論文に向けて傾注すべき時期だと考えてやめました。先生がどのような形で来期の授業を考えているのかは分かりませんが、もし余裕があれば来期また出席したいと思います。

5限:プロジェクト科目II(政治思想研究)

専門外にも関わらずずっと出席し続けている授業です。今期もいつもと同じく、学外からのゲスト・スピーカーの講演&質疑応答、翌週に院生の討論を基に議論(欠席裁判)というのが授業の基本的な流れで、あとは空いた日に修士論文の中間報告がいくつか入ることになるようです。

先週のガイダンスに行っておらず、10月に討論担当があったら厳しいなと思っていたところ、後輩が機転をきかして12月にしてくれていたので、ひと安心しました。

先週は早速ゲスト・スピーカーの先生がいらっしゃいました。課題文献は↓『クローチェ 1866-1952――全体を視る知とファシズム批判』(藤原書店、2010年)、ゲストは著者の先生です。

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報告は、基礎的なイタリア史の説明を踏まえつつ、本の内容をかいつまんで説明したといった感じでしょうか。内容については、質疑応答の時間がいつもと比べて短かったこともありやや消化不良気味の上、他の課題に追われて本を熟読出来ていないので、今週の討論を踏まえて書くことにします。

◇◇◇

原稿執筆で文章を削るストレスが溜まっているからか、ついつい書き始めると止まらなくなります。まずは目の前の課題を着実にこなしていかなければ!

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2010年07月18日

♪キラキラ!が聴きたい気分/本の話

昨日のエントリーで書いたように、この夏は課題に追われています。そんな現実から逃避したくなりつつも、それが出来ない時にはやはり好きな音楽を聴いて面白い本を読むに限ります。

何となく(…というか理由はよく分かっているのですが)、この数日は↓をはじめとした曽我部恵一をとても聴きたい気分です。



30代後半でこんな歌を書けるおっさんになりたいもんです。




さて、日曜日に大学院棟にこもって粛々と課題をこなしているわけですが、どうも手許にある本が気になって集中が続きません。そんなわけで、課題7割・息抜き3割という緩い感じで今日は作業をしています。

その息抜きが↓

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アメリカにおけるアジア研究の碩学の一人であるロバート・A・スカラピーノの自伝『アジアの激動を見つめて』(岩波書店、2010年)です。自伝・回顧録好きの自分としては外せない一冊であり、生協に並んでいるのを見て即購入しました。

若いころを除けば、通常の回想録のような編年体ではなく、バークレーに着任して以降はテーマごとの章立てになっていることが特徴で、著者が関わった各地域に関する自伝的回顧を踏まえたエッセイといった趣があります。

各章の題名にある国・地域は、ベトナム、日本、中国、朝鮮半島、北東アジアの周辺諸国、インドシナ三国、東南アジア、南アジアです。ここに著者の包括的な「アジア」への関心が現れています。どの章も読みごたえ十分ですが、今まで読んだ中ではやはりベトナム戦争に関する章が面白いです。

我々が後知恵でベトナムを論じるのとは異なり、アメリカを代表するアジア専門家としてベトナム戦争にいかなる態度を取るかはとても難しいことだったと思います。その中で著者が取った立場は、明確なベトナム戦争支持でした。それは、著者が南ベトナムを訪れた際の経験に基づくものです。ベトナムの多様性を指摘した上で著者は次のように書いています。

このような国で、開かれた政治体制のもとで政治的安定をはかることは、非常に難しいように思われた。しかし、ベトナムの人々と一週間ほど話をしてみて、私は違いこそあれ、南ベトナム人の大多数は共産主義政権を望んでいないのだ、という確信をもつにいたった。彼らの中には、すでに共産主義の弾圧ぶりを体験している者もいたのである。このように、私のベトナムに関する基本的な考え方は、さまざまな人々、主に一般民衆との交流によって形成されていったのだった。(71-72頁)

ジョージ・R・パッカード『ライシャワーの昭和史』(講談社、2009年)を読んだ時も同じような感想を持ったのですが、やはり歴史に取り組む以上は、後世の視点からだけでなく、当時の視点を踏まえることを忘れてはいけないのだと思います。もちろん、どちらかだけではいけないわけで、「過去」を無理に正当化する必要は無いわけですが、当時、どのような選択肢や考えの幅があって、その中でどういった判断が行われたのかを、歴史家は慎重に検討していく必要があります。

そんなことを考えつつ、続きを読むことにします。



昨日のエントリーに書き忘れましたが、竹森俊平『中央銀行は闘う――資本主義を救えるか』(日本経済新聞出版社、2010年)も面白かったです。

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前著『資本主義は嫌いですか――それでもマネーは世界を動かす』(日本経済新聞出版社、2008年)よりも、より議論全体が洗練された印象で、なかでもこの経済危機後の注目すべき変化として中央銀行の役割の変化を述べている点と、ハロルド・ジェームズを引きつつ大恐慌との比較を試みている点をとても興味深く読みました。

この本を読んで、現・日銀総裁の白川方明氏が日銀総裁に就任するとは夢にも思わっていないであろう時に書いた『現代の金融政策――理論と実際』(日本経済新聞出版社、2008年)を読み返したくなりました。ざっと目次を見返してみても、『中央銀行は闘う』でキー・コンセプトとして挙げらているイールド・カーブの話などが丁寧に論じられている節があるなど、議論を逐一対照しながら読むと面白いかもしれません。

が、残念ながら時間が取れずそこは断念。金融は自分の研究にも関係してくるとはいえ、現代の話は複雑過ぎて追いきれません。



この他に、最近出たor出る本で気になるのは↓

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この2冊は、刊行次第手に入れて読みたいと思います。

と、日本語の本ばかりチェックしているのですが、論文を書くためにももう少し洋書や英語の論文をしっかりとリストアップしていく必要がありそうです。

ここまで書いていて、現実逃避をしている場合ではないと気が付きました(汗)。もうしばらく日曜の大学で頑張ります。

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2010年07月16日

前期終了

一昨日で、前期の授業が全て終わりました。

博士課程も二年目に入ると、生活に占める授業の比重はかなり下がり、それ以外の仕事のようなものに割く時間がかなり増えてきました。とはいえ、授業から吸収出来ることはとても多いので、後期も前期同様に授業の時間を大事にしていこうと思います。

夏季休暇中にやらなければいけないことが今年は尋常では無いくらいたくさんあるので、毎日を大切に過ごしていく必要がありそうです。



授業の話ばかり書いていても面白くないので、そろそろ最近読んだ面白い本の話を書きたくなってきました。といっても、今日やらなければならないことが溜まっているので、予告として、取り上げておきたい本を挙げておきます↓(順不同:例によって画像に版元HPをリンクしてあります)。

tyamamotooshimura2shiokawa2taniguchikounotobemoriyatakenaka



3週間分も授業が溜まってしまったので、授業ごとに簡単にまとめておきます。

<水曜日>


2限:国際政治論特殊研究

Welch2

テキストは、David A. Welch, Justice and the Genesis of War, (Cambridge: Cambridge University Press, 1993)のChapter 7: Justice and Injustice in a Global ContextとConclusionを、6月第5週(=7月第1週)と7月第3週の二回に分けてやりました。

二回かけてじっくり議論したので、かなり本に対する理解が深まりました。大まかに言えば、まずケース・スタディのまとめがなされ、その上で英国学派の「国際社会」理解を下敷きにして、そこでjusticeはどのように働くのかが論じられ、その上で、ロールズ、ベイツ、ウォルツァーの議論の検討、というのがテキストの流れです。

著者の議論は例のごとく非常に穏健な線でまとめられているものの、本書の中身の部分の議論が「戦争の原因におけるjustice motiveの役割」を論じているのに対して、最終章でいきなり「国際秩序の形成・維持における正義の役割」を議論するのには、やや飛躍がある印象を持ちました。

授業では色々な議論が出ましたが、著者の「適切なレジームの発展を通じて、国際正義の概念のパッチワークを構築し、それを拡大・修正・維持することが重要である」という主張に関する議論が面白かったです。そもそも、最終章で突然レジーム概念が出てくることへの違和感、合意されればそれは正統なのかという根源的な疑問、レジーム形成における大国・小国関係、強制と合意に線引きは可能なのかという疑問、などが主な議論で、これらはいずれも国際政治学における重要な課題です。

議論も弾み、知的にも色々な刺激を受けた面白い授業でした。

本書全体に関する書評は余裕があれば書くことにします。

ちなみに、間に挟まれた7月第2週は、NATO事務局長補(政務・安全保障政策担当)であるDirk Brengelmann大使の講演会への出席が授業になりました。演題は”NATO: An Alliance for the 21st Century”ということで、それなりに興味深いものでしたが、冷戦期のNATOや現在の東アジアの国際情勢に関心があるものとして、本当にいまNATOが必要なのか疑問を覚えてしまいました。平和維持・平和構築活動や、サイバー・セキュリティ、エネルギー安全保障といった課題がいまNATOにはあると言われても、どうもピンと来ない気がします。この辺りの話も、30年くらい経てば自分の関心に入ってくるのでしょうか。質疑応答が1時間近くあり、NATOの存在意義やフランスが軍事機構に復帰したことの意味(やりにくいのではという意地悪な質問)等々、面白い質問が相次いだので、このやり取りはとても有意義でした。

<木曜日>

2限:政治思想論特殊研究

Heywood

テキストは、Andrew Heywood, Political Theory: An Introduction, 3rd Edition, (Palgrave Macmillan, 2004), Chapter 5: Power, Authority and LegitimacyのPower(pp.122-129)。実は先週、Authorityの部分が範囲だったのですが、所用があり出席出来ませんでした。

テキストは、基本的にルークスの権力論を土台にしたもので、これといって特徴的な部分はありませんでした。議論で面白かったのは、日本語の権力と英語のpowerの違い、ダールやガルトゥングの権力(暴力)論、あとは権力の行使を判断する主体の問題です。

これは授業でも提起したことなのですが、教科書的には政治学はpowerを取り扱う学問だと説明されるものの、ある時期以降の権力論の展開を考えると、それは政治学ではなく社会学の課題になっているのではないでしょうか。この辺りをどう考えるかは多分とても重要な問題なのですが、なかなかそこまで手が回りません。

この授業は、復習になる部分も多いですし、自分に欠けている政治理論や思想の素養を深めるためにはとてもいいのですが、後期は出るかどうかを迷っています。というのも、後期はやらなければいけないことが前期以上に多い上に、履修している授業が1つか2つ増えるので、時間的にかなり厳しいからです。いまのところは、履修していないし出るのはやめてしまおうかなと考えています。

5限:プロジェクト科目I(政治思想研究)

プロジェクト科目は先々週に1回あって、これが最終回でした。

内容は前週の講義(「ポストリベラル/ナショナルな政治共同体の模索―D・ミラー、J・ハーバーマス、A・ネグリの議論から―」)を受けての討論です。

授業で中心的に議論されたのは、何が「ポスト」なのかという前週の講義の基本的な前提と、「福祉」や「政治共同体」を取り上げることの難しさです。後者について言い換えると、思想が論じ得る「領分」のようなものが問題になったと言えるかもしれません。

熟議民主主義論と他の何か(ベーシック・インカムや福祉)を結び付ける議論には無理があるのではないかという漠然とした違和感を皆が持っている気がしました。

「思想の領分」の話については、上でも挙げた押村高先生の新著『国際政治思想』(勁草書房)を読んで考えたこともあるので、これはまた機会があれば書きたいと思います。



他にも、大学院の先輩&後輩と、Melvyn P. Leffler and Odd Arne Westad (eds.), The Cambridge History of the Cold War, Volume I: Origins, (Cambridge: Cambridge University Press, 2010) の読書会をやるなど、書いておくことが色々とあるのですが、ひとまずはここまで。

参議院選挙の話は、竹中先生の『参議院とは何か』(中公叢書)を紹介する時に合わせて書くことにします。


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2010年05月31日

先週の授業(5月第4週)

久しぶりに優勝がかかった早慶戦、サッカー日本代表などなど、昨日はスポーツが色々ありましたが、個人的にはやはり日本ダービーが一番の注目でした。結果は、ご存知の通り伏兵エイシンフラッシュが、低評価の3歳王者ローズキングダムとの叩き合いを制して勝利。

日本ダービーが終わると、よしこれでまた新しい一年が始まるな、という気分になります。毎年のことではありますが、誕生日の直前にダービーがあるため、誕生日を迎えてもあまり新しい一年が始まる気がしません。

さて、そんなダービーは、超スローペースで流れたために、絵に描いたような「よーいドン」の競馬になってしまいました。こうなれば、距離に不安があっても切れ味がある馬が勝つというものです。ダノンシャンティの出走取り消しもあり、どの馬が本当に強いのかはよく分からないまま終わってしまったのはやや残念です。



前回のエントリーで備忘録代わりに書いた本の話に、大事な本を書き忘れていました。

fujiwara

藤原帰一先生の『新編 平和のリアリズム』(岩波現代文庫、2010年)です。新書を読み漁る前に読み終えていました。数頁の短いものも含めて、毎日一つずつ論文・論評を読み進めていたので、読み終えるまでは思いのほか日数がかかってしまいました。

新版の売りは何と言っても、「軍と警察」「帝国は国境を超える」「忘れられた人々」といった学術論文が収録されたことでしょう。

残念ながら東大社研のプロジェクト(『現代日本社会』『20世紀システム』)関連の論文は収録されていませんが、これらはどちらかと言えば歴史的視座に立って冷戦期の国際政治を検討しているものが多く、そのエッセンスは本書に収録された論考に含まれているとも言えます。

いずれにしても、この20年近くの間に著者が書いてきた国際政治論を大掴みに一冊で読めるというとてもお得な本になっています。

フィリピンという冷戦の「中心」ではなく、その影響を強く受ける「周縁」地域の研究からスタートした著者ならではの視点は、ウェスタッドがThe Global Cold War: Third World Intervention and the Making of Our Times, (Cambridge; New York: Cambridge University Press, 2005)で主張し、話題になった見方を先取りしており、日本の国際政治史家は、ウェスタッドを引く前に藤原先生の見方をもう少し検討した方がいいのではないでしょうか。

とはいえ、冷戦の影響がグローバルにあったということ、そして第三世界の出来事が米ソ対立にも影響したということはあるとしても、それが「冷戦史」なのか冷戦も重要な構成要素である「国際関係史」なのかはより慎重に考えられるべきなのだと思います。

閑話休題。そんなわけで、なかなかお得な一冊に仕上がっている『新編 平和のリアリズム』ですが、あくまで論文集は論文集なので、出来ればこの本で展開した議論を一冊の研究書としてまとめて欲しいものだなと思ってしまいます。



以上、前回の補遺を書きましたが、既に竹中治堅『参議院とは何か』、篠原初枝『国際連盟』は読み終えました。これらの本の話はまたそのうちに。



忘れない内に先週の授業について。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊研究

Welch2

今回は、↑の著者であるDavid A. Welch先生がゲスト・スピーカーでした。先生自身の学部時代からの関心、本の成り立ち、キーになる議論とコンセプトの紹介、プロスペクト理論などを採り入れた自身のその後の研究との差異などを概観といったのが大きな流れで、あとの1時間ほどはフリー・ディスカッションでした。

質問が途切れることがなく続いたため、議論になった点は多岐にわたりましたが、印象に残った点を一つだけ。それは、「自分の研究には従属変数はない」と言いきっていたことです。これには強いこだわりがあるようで、授業中に何度も繰り返していました。「自分がやっていることは過程追跡と事例研究」であり、この本でやっているのもそうだと言うのです。北米流の国際関係論と言うと、独立変数と従属変数、場合によっては媒介変数を設定し、仮説を立てて、それを論証していくのが普通だと考えてしまいますが、確かに本の中でも「変数」という言葉は出てこなかった気がします。この辺りのこだわりが、主流の理論ではなく政治心理学のアプローチを採ることにも繋がっているのかもしれません。

<木曜日>

2限:政治思想論特殊研究

Heywood

テキストは、Andrew Heywood, Political Theory: An Introduction, 3rd Edition, (Palgrave Macmillan, 2004), Chapter 3: Politics, Government and the Stateの「Government」の部分でした。

履修申告もしていない他分野の授業なのですが、なぜか発表担当になってしまい、冷や冷やしながらの発表となってしまいました。問題は専門外ということではなく、テキストをざっと読みながらレジュメを作ってしまったので、一度しかテキストを読んでいなかったということです。大筋で間違っていたところは無いと思いますが、「medieval」を「mediterranian」と読み間違えたり、「Tolstoy」を「Trotsky」と読み間違えたり(自分でも変だなと思ったのですが)、そんな細かなミスが残ってしまったのはよく無かったなと反省しています。

さて肝心のテキストの内容ですが、これがかなり不満が残るものでした。

一般に現代政治理論では「政府」や「統治」という視点は軽視されがちです。それは、「20世紀の政治学は、政治を国家との関係から切り離して、広く社会全般に存在しているとする政治観を発展させてきた」からだと説明されます(川崎修、杉田敦編『現代政治理論』有斐閣アルマ、2006年、4頁)。それは確かに理解できなくもないですが、ここで言う「政治学」とはあくまで政治理論であって、政府の役割を前提とする経験科学的な政治学(行政学、政治過程論、国際政治学など)も存在するわけで、これらの領域と現代政治理論に埋めがたい差が生まれているのは否定できないと思います。これはもちろん政治理論の側だけに問題があるわけではありませんが、一方で政治理論のある種の「弱さ」にも繋がっているのではないでしょうか。こうした中で、本書が政治理論の教科書としてGovernment(政府、統治、政治体制)をわざわざ取り上げているのはとても意義があることです。

しかし、問題はその取り上げ方です。この節で取り上げられるのは、①なぜGovernmentが必要か、②Governmentはどのように分類できるか、③Governmentと社会の関係ですが、このように書けば連関しているかに見られる各節が全く連関していないのです。また、政治体制の分類をする部分で、日本が市民的自由よりも成長を重視する開発独裁国家の典型のように書かれていたり、びっくりするような記述も散見されます。また、国家の福祉国家化や、国家の正統性といった重要な部分もここでは取り上げられません。

日本の書き方の問題はともかくとして、他の二つの問題は本書全体に共通する問題に繋がるものです。それは、本書が教科書という体裁を取りながら、実態は「政治理論事典」に近いというものです。それを無理やり、一冊の教科書のようにまとめているがゆえに、重要な情報が色々な部分に拡散し、さらに節ごとの繋がりがないという問題を引き起こしているのだと思います。

そんな不満を感じさせるテキストではありますが、勉強にはなるので、引き続き読み進めていくことにします。

5限:プロジェクト科目I(政治思想研究)

先週の授業を受けての討論でした。院生の発表は、先週の報告ではなく、課題文献に焦点が当てられていましたが、それはやはり先週の報告にまとまりが欠けていたからなのでしょうか。

もっとも討論が進むに連れて議論の焦点は先週の報告に移って行きました。個人的な収穫は議論をしている中で、課題文献で提示される考え方から導かれる「保守性」(これは別に悪い意味ではありません)が析出されてきたことです。

先週の報告には大きな不満があったために、前々回のエントリーでは触れませんでしたが、課題文献はそれなりに面白く読んでいました。社会・国家・市場の関係を考察した課題文献は、これらがそれぞれ独立して存在しているわけではなく、相互に影響し、どれだけが悪いと糾弾出来るようなものではないという点を丁寧に明らかにしているものです。このような議論は正しいと思いますが、しかし同時に、何が悪いと理論的に指摘できないが故に、現状の「打破」よりも不十分でも「秩序」を肯定する方向に議論が繋がりうるものです。もちろん、著者の先生は、そうではないと否定すると思いますが、それでも議論に潜む方向性が「革命的」でないことは間違いないと思います。

そんな収穫はあったものの……と色々書きたいことがあるのですが、これ以上書くとイライラしそうなので、ひとまず止めておきます。ただ一つ重要だと思うのは、「左」だろうと「右」だろうとそんなことはどうでもよくて、現実の政治を議論するのであれば、ちゃんと事実と背景を押さえて議論をするのが、少なくとも「政治学者」の務めだろうということです。


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2010年05月25日

見事な大外一気(NHKマイルカップ)/本の話(備忘録)

いよいよ今週末にダービーということで、春のGIシーズンもいよいよ盛り上がって来ました。

さて、遅ればせながらという感じは否めませんが、見事な大外一気(※読み方は「オオソトイッキ」)が決まったNHKマイルカップの動画をアップしておきます。4コーナー(1分5秒辺り)ではほぼしんがりにいるダノンシャンティ(13番)の追い込みは素晴らしいです。



まだまだ二コーナー辺りをうろうろしている大学院生活でも大外一気を決めたいものです。



先週から寝かせていた論文執筆を再開し、手許にある資料や外交史料館での資料調査を進める日々を送っています。自分の研究に取り掛かると時間が無くなるはずが、なぜだか読書量も増えていくというのが不思議です。

備忘録代わりに以下、この1週間で読んだ本と購入した本を挙げておきます(版元情報があるものは画像にリンクを貼ってあります)。

最近は新書がなかなか豊作です。

uno

画像がややぼやけていますが、帯の「希望」売りがヒントになるかもしれません。宇野重規先生の新著『〈私〉時代のデモクラシー』(岩波新書、2010年)です。昨晩読み始めて今朝読了。

サリンジャーがあれだけ昔から読まれているのだから、〈私〉の時代が最近始まったわけではないだろうと、斜に構えて読み始めたのですが、論旨明快、(昔から存在していたかもしれないけれども)「いま」の時代に顕在化したと言われる悩みをクリアに解きほぐしている好著だと思います。この本に「答え」を求めると、何だ最後は精神論か、と落胆してしまうかもしれませんが、それでいいんだろうなというのが個人的な感想です。

考え方や生き方が古臭く、「再帰的近代化」とか「ポストモダン」とかが体質的に合わない私自身は全く抱えていない問題の数々をいかに現代の社会思想・政治思想が考えてきたのかが整理されているので勉強になりました。読んで良かったとは思うものの、依然として斜に構えたままです(笑)。

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研究の合間に先週後半読んでいたのが瀧井一博『伊藤博文――知の政治家』(中公新書、2010年)です。伊藤之雄先生を中心に進められていた伊藤博文リビジョニズムの最後を飾る一冊という位置付けになるのでしょうか。

これ一冊で伊藤の生涯が見えるわけでも、伊藤を通して明治の政治史が分かるわけではないという点では、やや玄人向けの本で新書という媒体が合っていたのかは分かりませんし、この時代を専門に研究されている方がどのように評価されるのかは分かりませんが、伊藤の「政治思想」を抽出という本の目的は見事に成功しているように思います。

本書を通して強調されるのは、伊藤の「漸進主義」と、科学的思考の強さです。それゆえ、国内でも朝鮮半島でも伊藤はナショナリズムに苦労させられることになるわけで、この辺りが読んでいて面白かったです。本書が描き出す、上滑りの「理想主義」でも現状追認の「現実主義」でもない伊藤の姿は確かに「知の政治家」なのでしょう。

国内政治の議論をしている部分で強調される「漸進主義」はよく理解出来ましたが、国内政治の議論の延長として「外交」を論じているのは若干気になりました。当時の「外交」はむしろ他の列強に向けて行われたもので、本書が取り上げている中国や朝鮮半島との関係は果たして「外交」だったのでしょうか。

戦前の日本政治史はほぼ趣味で読んでいるだけなので、この本に専門家がどういった反応を示すのか興味があります。

新書が飽和状態になり、やや軽めの本が増えつつある中で、読み応えがあるものを出し続けている中公新書の存在は大きいと再確認しました。

shinoharatakenaka

そんな中公新書の今月の新刊を早速購入しました。篠原初枝『国際連盟――世界平和の夢と挫折』(中公新書、2010年)です。合わせて同じ出版社の竹中治堅『参議院とは何か――1947~2010』(中公叢書、2010年)も購入。

『国際連盟』は、大学院の後輩に戦間期のヨーロッパ外交を研究している後輩が何人もいるので、彼らの感想も聞いてみたいところではありますが、その前に自分で読まなければと思う一冊です。この数年の出版事情で言うと岩波書店から『国際連合』が出ていますが、その中で中公からは『国際連盟』が出るというのが渋いですね。

後輩がよく言っているのが、戦間期という時代の面白さです。戦争が終わり、そして戦争が始まる、同盟関係も固定的ではないという戦間期は確かに面白いと思いますが、そうした不安定な時代ゆえに、なかなか見通しが掴めない気もします。国際連盟の夢と挫折が戦間期という時代の中でどれだけの意味を持っていたのか、そんなことを考えながら読み進めたいと思います。

竹中治堅先生の『参議院とは何か』は、満を持しての刊行ということになるのでしょうか。本を手に取り、学部時代に慶應に授業に来ていた際も参議院の役割についてしばしば強調されていたことを思い出しました。政治学者が一人で書く通史的研究は、非常に重要だと思うのですが、日本ではなかなか目にすることがありません。『年報政治学二〇〇四』に掲載された論文以来、ずっと竹中先生の参議院研究を追いかけてきただけに、これは読むのが非常に楽しみです。

lake

と、こんな感じで研究に関係ないものばかり読んでいるのもまずいので、毎日少しずつ国際関係論の勉強を進めています。色々と基礎的な知識を勉強した思い出があるInternational Political Economy: Perspectives on Global Power and Wealth, 4th Edition, (London: Routledge, 2000)の編著者であるJeffry A. FriedenとDavid A. Lakeに、Kenneth A. Schultzを加えて書かれた教科書World Politics: Interests, Interactions, Institutions, (New York: W.W.Norton, 2010)、これが素晴らしい出来です。

以前にブログで紹介したJoseph S Nye, jr, and David A. Welch, Understanding Global Conflict and Cooperation, 8th Edition, (New York: Pearson Longman, 2010)[『国際紛争』第8版]も素晴らしい出来の教科書ですが、最新の研究動向や理論を押さえているという点ではWorld Politics の方が格段に優れているような気がします。といってもまだChapter3までしか読んでいませんので、確定的なことは言えませんが。

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国際関係の勉強では、先週某所で話を聞く機会があった小川和久氏の新著『この一冊ですべてわかる 普天間問題』(ビジネス社)を土曜日に一気に読みました。約1時間で普天間問題の背景が理解出来る、というのがこの本の売りだと思いますが、その役割は十分に果たしてくれる本だと思います。普天間問題そのものだけでなく、その背景にある在日米軍基地全体の問題、日米同盟、日本の安全保障政策について、語り下ろし形式で書かれており、少しでもこの問題に関心があるのであれば読んで損は無いです。(というか、偉そうに上から「鳩山さんが、国民の間でこの問題が議論される素地を作った点は評価されるべきだ」とか言う人にまず読んでほしい)

これが面白かったので、ついでに『日本の戦争力』(新潮文庫、2009年)、『在日米軍――軍事占領40年目の戦慄』(講談社文庫、1987年[絶版])も購入してしまいました。小川氏の議論には批判があることも承知していますが、最低限押さえておくべき事実と数字を踏まえた立論はとても勉強になるので、空いた時間に読み進めていくことにします。



と、こんなことを書いている内に昼休みが終了してしまいました。


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2010年05月19日

先々週&先週の授業(5月第1週&5月第2週)

色々とやることに追われ、といういつもの言い訳だけではなく、ゴールデン・ウィーク中にイタリア映画祭に何回か行ってみたり、友人達と河口湖に行ってみたりと休んでいるうちに更新が滞ってしましました。

既に今週の授業が今日あったのですが、まずは滞っていた分を更新しておくことにします。



今回はやや変則的に、先々週と先週の授業をまとめて記録しておきます。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊研究

Welch2

先々週は「昭和の日」で授業は無し、先週は、David A. Welch, Justice and the Genesis of War, (Cambridge: Cambridge University Press, 1993)の第2章(The Crimean War)がテキストでした。

クリミア戦争の分析に際して取り上げられるのは、ロシア、トルコ、イギリス、フランスの四ヶ国で、焦点になるのはロシアです。この四ヶ国がクリミア戦争に参戦した要因を説明するのに、どれだけjustice motiveが効いたのか。ロシアはConclusive、トルコはWeak、イギリスはModerate、フランスはVery weakというのが著者の評価です。

この評価基準に関する説明を以前のエントリーでは省略してしまったので、ざっと並べておくと、Conclusive、Very storong、Strong、Moderate、Weak、Very weak、Imperceptibleという順番です(詳しくは本書の40頁参照)。

この章のポイントとなるのは、ロシアの動機としてjustice motiveがConclusiveだったと評価している点です。Conclusiveという評価は、「他の要因は見当たらず、justice motiveは圧倒的に戦争の原因に影響を与えた」という極めて強いものです。

本当にそこまで言えるのかというのが授業での議論の中心で、討論者はあえてリアリスト的な観点からロシアの行動を説明するという形で議論をしていました。

落ち着いた筆致が印象的だったPainful Choices と比べると若干筆が滑っているなというのが率直な感想で、この部分もConclusiveではなくVery Strongくらいにしておけば、あまり反論も無かったような気がします。

中身の具体的な説明をしようと思うと、背景説明をする必要が出てきて面倒なので、ひとまずここまで。

<木曜日>

2限:政治思想論特殊研究

Heywood

テキストは、Andrew Heywood, Political Theory: An Introduction, 3rd Edition, (Palgrave Macmillan, 2004), Chapter 2: Human Nature, the Individual, and Societyで、先々週はthe Individual(pp.26-40)、先週はSociety(pp.40-49)でした。

この本は実にシンプルな構成で、各章の表題には必ず三つの概念――第2章はHuman Natureとthe IndividualとSociety――が挙げられており、それがそのまま各節となります。そしてその概念について、さらにいくつかに分けて、関連する論者を挙げながら概説していくというスタイルが貫かれています。

the Individualの節では、①個人主義、②個人とコミュニティ、③政治における個人が、Societyの節では、①コレクティヴィズム、②社会の理論、③社会的亀裂とアイデンティティをそれぞれ検討しています。

(蛇足ですが、どうもcollectivismを集産主義と訳すと変なニュアンスがある気がして仕方がありません。)

二回の授業を通じて議論になったのが、著者の個人主義(individualism)の捉え方で、それが(規範としての)政治的個人主義と方法論的個人主義を混同しているのではないかということです。これは確かにと思う部分がいくつかあり、著者の議論を素直に読んでいると、方法論的個人主義を取れば必ず政治的個人主義になるかのように、またその逆に方法論的にコレクティヴィズムを取れば政治的にもコレクティヴィズムになるかのように読める箇所がいくつかありました。

この批判はとりわけ先生が強く言っていて、なるほどと思う一方で、外交史や国際政治学を研究をしている立場からは若干の留保を付けたくなるもので、いくつか発言をしました。

というのも、国際政治を検討する際に中心となるアクターは「国家」だからです。もちろんアクターが多元化しているといったことは指摘されるにせよ、中心的かつ圧倒的に影響力が大きなアクターは「国家」です。では、その「国家」の行動を説明対象とする場合は、方法論的に個人主義なのかそれともコレクティヴィズムなのかというのは大きな問題です。国際政治学(というよりも国際関係論)では、国際システムか国家かという形で定式化される問題ですが、「国家」というまとまりを一つのアクターとして仮定している時点で方法論的に厳密な個人主義にはなり得ないわけです。

こんなことを頭の中で考えていてもあまり意味はないかもしれませんが、具体的に外交交渉や国際政治の問題が国内社会に影響を与える場合などを考える時には、この問題は詰めておく必要があるのかもしれません。

5限:プロジェクト科目I(政治思想研究)

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先々週の授業は、『ホッブズ 人為と自然――自由意思論争から政治思想へ』(創文社、2010年)を刊行されたばかりの川添美央子先生がゲストでした。そして、先週は報告を受けての院生の討論……のはずが、討論の週も先生ご登場、さらに報告者の一人が授業中に倒れるというかなり波乱含みの授業となりました。

川添先生の報告は、参加者が課題書を読んでいるという前提で「『ホッブズ 人為と自然』 その背景――スアレス、デカルト、ホッブズ――」と題して行われました。本ではそれほど詳しく書かなかったホッブズの思想史位置をスアレスとデカルトを取り上げることをとして明らかにするというもので、この本の思想史的意義が実はいまいち分からなかった私にとってはとても興味深い報告でした。

授業の際の質疑応答で話題になったことは、本の中心的なテーゼであるホッブズの中で「契約」よりも「制作」が重要な契機であるという主張や、「第三者的理性」の意義、ホッブズを「近代への過渡期の思想家」として意義づけている点などでした。

授業での報告で、スアレスというホッブズ以前の思想家、そしてデカルトという同時代の思想家との関係が詳しく紹介されたことで、ホッブズの思想がどのような文脈の中で形成されたのかということはそれなりに分かりましたが、やはり疑問に残ったのは、それではそのホッブズの思想(哲学)史的な新しさは、その後の時代の流れの中ではどのように意義づけることが出来るのかということです。

この点と、『創文』2010年4月号の論考(「『リヴァイアサン』の光と闇――『ホッブズ 人為と自然』によせて――」)でホッブズ思想の光として強調されている「第三者的理性」の話を、より詳しく先週の授業で聞こうと思ったのですが、報告者の院生が倒れるというアクシデントにより聞くチャンスを逃してしまいました。

『ホッブズ 人為と自然』については、その内に『創文』で特集が組まれるのを期待しつつ、自分の感想は温めておくことにします。


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2010年04月28日

今週の授業(4月第5週)

忘れない内に今週の授業について更新、といっても明日が祝日なので今週は今日あった1コマだけです。



<水曜日>

2 限:国際政治論特殊研究

Welch2

今週は、David A. Welch, Justice and the Genesis of War, (Cambridge: Cambridge University Press, 1993) の第1章(The Justice Motive and War)の残っている部分(pp.22-47)をやりました。

先週も書いたとおり、第1章では①問題意識の説明、②仮説の提示、③論証方法、④予想される反論への回答、がそれぞれ書かれています。今週は②③④が範囲です。正確に言えば、②の前に、なぜjustice motive をキー・コンセプトとして論じることに意味があるのかが書かれていますが、ここは問題意識の部分とかなり重なるので割愛します。

さて本書の仮説は何かということですが、これは重要なので紹介しておく必要があるでしょう(訳は後輩のレジュメが簡潔にまとまっていたので、それを参考にしつつ、日本語になりにくい冠詞は一部省いています)。31頁に挙げられている仮説は以下の6つです。

評価(Valuation)については、

仮説1:アクターが、ある価値を本来与えられている権利(entitlement)と考えているのであれば、戦略的・経済的利益以上にそれを高く評価する。

過程(Process)については、

仮説2:もしアクターが、justice を動機とするならば、本来与えられている権利(enetitlements)と実際に得ている利益(assets)との間の均衡を取るために、賭けに出る。
仮説3:もしアクターが、injustice な状態に置かれていると認識するならば、新たな情報や価値の妥協には関心を示さず、アメとムチを用いた交渉・説得にも応じなくなる。
仮説4:justice motive がアクターの解釈・認識に影響を及ぼすことによって、判断の誤りが増える。

行動(Behavior)については、

仮説5:アクターがjustice を求めて行動すると、その要求が絶対的であるために、妥協的な紛争解決の手段を進んで見出そうとしなくなる。
仮説6:アクターがjustice を求めて行動すると、他の国家が同じ利益を得る場合でも、それが本来与えられている権利(enetitlement)の回復を求めている時にはより寛容的に、それが自国の本来与えられている権利(enetitlement)を侵そうとする時にはより非寛容的になる。

ということが、それぞれ仮説として提示されています。

この本のポイントは、事例研究をパッと読めば分かるように、これは文字通り「仮説」であって、この仮説に当てはまらない事例も数多く取り上げられているということです。本論での分析が見事な仮説の検証作業になっているのは、昨年院ゼミで読んだPainful Choices と同様であり、これがWelch の研究の真摯な点かつ読んでいて面白い点です。

以上の仮説を提示した上で、ではどのケースを選択するのかということが説明されています(pp.32-37)。個人的にはこの部分がなかなか面白かったです。まず、本書が検討する「戦争」は大国(Great Power)が関与した戦争であることが説明され、その上で①資料がそれなりにあること、②いままでその原因がリアリズムから説明されてきたこと、の2つを判断基準として掲げられます。その結果として取り上げられるのは、クリミア戦争(1853-56年)、普仏戦争(1870-71年)、第一次世界大戦(1914-1918)、第二次世界大戦(1939-45)、フォークランド/マルヴィナス戦争(1982)です。

本当にこの事例選択が正しいかどうかは別として、説明の仕方がうまいなと感心させられます。特に、justice motive ということ絶対視しないことによって、逆にこれまでリアリズム的に説明されてきた戦争を検討する場、この議論の意義が伝わるだろうという辺りは、なるほどと思います。

事例選択に続いて実証方法や依拠する資料について説明がされますが(pp.37-40)、この部分は歴史を専門にしているとやや違和感があるかもしれません。が、説明が面倒なのでここは割愛します。

最後が、予想される反論にあらかじめ答えておくというもので(pp.40-47)、これもPainful Choices と同じです。ここでは7つの「反論」が挙げられていますが、この「反論」答え方も実にうまいです。7つと言っても大きく2つに分けられるというのが発表した後輩の説明で、私も基本的にそう読みました。

1つは、ざっくりまとめれば「justice motive と他の要因とを区別出来るのか」ということで、これに対する答えも同じくざっくりまとめれば「具体的にケース・スタディをやってみなければその反論が正しいかどうかも分からない」ということです。

もう1つは、「justice motive が他の要因と比べて重要だとなぜ言えるのか」ということで、これは定性的研究に対するお決まりの批判の1つだと思います。この「反論」に対する答えは、「相関関係≠因果関係」ということです。一般論に対して一般論で答えているのでややずるいような気もしますが、この見方は基本的に正しいのだと思います。

tago

この部分に関する発表者と先生の間の議論を聞いていて、思い出したのが先月読んでいた多湖淳先生の『武力行使の政治学――単独と多角をめぐる国際政治とアメリカ国内政治』(千倉書房、2010年)です。この本は、定量的分析と定性的分析を組み合わせて、第二次大戦後のアメリカの武力行使についてその要因分析をした研究書でとても読み応えがあるのですが、その定量と定性の組み合わせ方が「相関関係≠因果関係」ということを強く意識したもので、それをふと思い出しました。

いま手許に本が無いのでうろ覚えなのですが、基本的には、定性的分析によって導き出せる相関関係はある仮説が正しくないということは言えるが、その仮説や仮説間の因果関係を明らかにするためには過程追跡(process-tracing)が必要であり、そのために事例分析が必要だ、ということだったと思います。実際にこの本では、アメリカの武力行使の要因として10個の仮説を提示し、さらに4つの武力行使について詳細な事例分析を行っています。

Justice and the Genesis of War では定量的な分析は行われていないものの、その意識や方法論の部分では通じるものがあるのかもしれません。というよりも良質な国際関係論の研究であれば、当然の前提なのでしょうか。

最後は話が若干ずれてしまいましたが、今週の授業で取り上げたのは大体こんなところです。授業ではこの他に、時代によって異なる指導者の認識を一貫した枠組みで捉えることが出来るのか、挙げられている事例以外に仮説を検討するのにふさわしい事例があるのか、キー・コンセプトである「Justice」をどう翻訳するか、といったことも議論になりました。

次回はゴールデン・ウィーク明けで、クリミア戦争の章を読む予定です。

black_ships at 17:49|PermalinkComments(0)

2010年04月20日

気候から見た国際政治

この1、2週間で、国際政治に影響を与える思いもよらない出来事が相次いでいます、何と言っても一番の衝撃はポーランド政府専用機の事故ですが(サッカー好きなら「ミュンヘンの悲劇」を想起するところです)、個人的に色々と考えさせられたのはアイスランドの火山噴火です。この21世紀になっても、いかに「気候」が人類に大きな影響を与えるのかを実感した人も多いのではないでしょうか。

加えて、これは国際政治というよりは国内の生活への影響が大きいことですが、3月から4月にかけての季節外れの冷え込みも興味を惹かれる対象です。この冷え込みの原因は「北極振動」と言われるものらしく、解説記事がいくつかの新聞に出ていました(リンク)。

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なぜ「気候」のニュースに反応しているかと言えば、先月たまたま田家康『気候文明史――世界を変えた8万年の攻防』(日本経済新聞出版社)という本を読んでいたからです(※版元情報は画像にリンクを貼ってあります)。

Amazon等で検索をかけてみれば分かるように、気候変動と人類の歴史を取り上げた文献自体は決して珍しいものではありません。日本にも定評ある研究者が何人もいますし、直接文明との関わりは論じていなくとも、阪口豊『尾瀬ヶ原の自然史――景観の秘密をさぐる』(中公新書)のような緻密な実証研究ながら、それを通して人類の歴史が見えてくるような優れた読み物もたくさんあります。

その中でこの本が面白いのは、著者が学者ではないこともあり、縦横無尽に内外の優れた研究を渉猟し、それをうまくまとめる作業に徹しているからです。諸外国における研究の多くは、気候と人類の関係を論じていてもそれは欧米に偏りがちです。また日本国内の研究者の場合は、どうしても自分の研究に引き付けた話を展開しがちです。そうした中で、この本はバランス良く内外の研究を使い分けながら、旧石器時代から現代の地球温暖化問題までの気候と人類の歴史をまとめており、とても読みやすい良書となっています(ちなみに、『気候文明史』については、インターネットでは読むことが出来ませんが、3月28日の日経読書欄に紹介が出ていました)。

実は「気候」に反応してしまうのは、『気候文明史』に触発されて、他大学の某ゼミの卒業論文集に「気候から見た国際政治」というコラムを書いたからです。実証などしなくともいいので好きに面白いものを書けという指令に従って思いつくままに書いたものですが、書いてすぐにアイスランドの噴火のニュースに接したため、せっかくなのでここに載せておこうと思い立ちました。というわけで、以下に駄文を転載しておきます。



気候から見た国際政治

卒業論文の中間報告会と発表会に出席させて頂きました、○○○○です。現在は、第一次石油危機の前後を中心に国際資源市場の構造変動と日本外交について調べています。

いまから40年近く前の議論を見ていると、議論の対象となる問題の多くが、現在と実によく似ていることに驚かされることがあります。資源をめぐる国際政治の中で当時キーワードになっていたのは、「南北問題」と「環境問題」であり、これは形を微妙に変えながらも現在も続いている問題です。この二つの問題は、多様な要素を含むものであり、それゆえ国際政治上も大きな問題となっているわけですが、実はどちらの問題も「気候」と密接に関係しています。

最近、田家康『気候文明史』(日本経済新聞出版社、2010年)という本を読んだのですが、それによれば、人類の歴史は「気候」の変化と密接に関係してきたようです。古代エジプトにおける王朝の衰退、中国における春秋戦国時代の到来、ローマ帝国の衰亡などは、どれも中長期的な気候変動を背景に持つ、数年間にわたる天候不順に時の政治体制が効果的な対応を取れなかったことによって引き起こされた側面を持っているということは、意外と知られていないことです。日本でも、応仁の乱に先立って寒冷化に伴う不作が続き、それによって室町幕府の弱体化が進んだことが指摘されています。

テクノロジーの進展によって、農業から工業、そしてサービス産業を中心とする経済に移行しつつあるこの21世紀においても、「気候」をめぐる問題は国際政治上、重要な位置を占めています。かつてのように、気候変動による不作によって先進国の政治体制が揺らぐことはないのかもしれません。それでも、1970年代初頭の不作がソ連に打撃を与え、アメリカへの食糧依存を引き起こしたように、我々人類は自然のくびきから逃れることが出来ない側面を依然として抱えているのでしょう。

人類の歩みが示唆しているのは、温暖化よりも寒冷化が混乱を生じさせ、引いては文明の衰退を招くということです。大規模な火山の噴火、グリーンランドや南極の氷が溶け出すことによる海流の変化は、温暖化という流れを一時的にせよ寒冷化に向かわせる可能性を持つものであり、そうした事態が今後起こらないとは限りません。CO²削減を巡る国際政治とはまた異なる形で、21世紀の国際政治に「気候」が何らかの影響を与えることがあるのかもしれません。

black_ships at 11:16|PermalinkComments(0)