2010年11月
2010年11月20日
先週&今週の授業(11月第2週&11月第3週)
今日から三田祭ということで、大学はとても楽しい雰囲気に包まれています。それでも変わらず大学院棟にこもる生活を続け…と思っているのですが、ついつい昼間から酒でも飲んでゆるりという誘惑に駆られてしまいます。悪友や卒業したゼミの後輩が三田に来たらいいような悪いような、そんな気分、と考えている時点でキャンパス内の浮かれ気分が伝染っているのでしょう。
そんな感じで、あまり目の前の課題に集中出来ていないので、ブログを更新することにしました。
まずは先週(11月第2週)について。
<月曜日>
3限:地域研究・比較政治論特殊演習
「冷戦史」の授業のはずが、「冷戦」に絡まない修士論文構想報告が3週目に入りました(笑)
報告は、戦間期のイギリス外交のお話で、いつものことながら勉強させて貰いました。自分の専門(戦後日本外交史)から離れて水準の高い議論を日々聞くことが出来るのは、いまの我が大学のとても恵まれているところです。
それはそれで悪くないものの、これだけ続くと、せっかく「冷戦史」と銘打った授業を履修するのだから、自分の目の前の課題から少しでも離れて、「冷戦」と いう重要な問題に自分ならばどう取り組むのかという問題意識を持ってもいいのではないかなという気持ちが段々と強くなってきました。
と思いながらも、自分の報告予定の話は少なくとも正面から「冷戦」を取り上げるわけではないので、あまり大きなことは言えないですね。多少なりとも授業の趣旨を踏まえて、議論を膨らませていきたいと思います。
<水曜日>
2限:国際政治論特殊演習(院ゼミ)
院生の研究報告予定が無いということで、一ヶ月ぶりにスキデルスキー『ケインズ』を読みました。
前回は、ケインズの生涯と哲学的背景がテーマの章を読みましたが、今回の範囲は「第3章 貨幣改革論者」&「第4章 『一般理論』」ということで、議論の中身はものすごく経済学的な話でした。
『貨幣改革論』(1923年)から『チャーチル氏の経済的帰結』(1925年)、『貨幣論』(1930年)を経て、『雇用、利子および貨幣の一般理論』(1936年)に至る経済学的な思索が、時代背景や議論の展開と共に跡付けられているので、この二つの章はとても勉強になります。ただ、論旨もすっきりしているので話の中身そのものを理解することはそれほど大変では無いと思うものの、これはどのように政治学の観点から議論出来るかというイメージが湧かず、発表者は大変だろうなと思いながら授業に臨みました。
議論好きかつ分からない箇所は分からないと言う面々が集まっているので、授業はとても盛り上がりましたが、やはりこの辺りの話は政治学的な議論にはならないのだなと再確認しました。今回取り上げた章で描かれる経済学的な知見を基にして、ケインズがいかに政策提言を行っていくのか、交渉に臨んだのかといったことが次の機会に取り上げるであろう章のテーマなので、今回はそれに向けた基礎知識の確認といった位置付けでいいのかもしれません。
<木曜日>
5限:プロジェクト科目(政治思想研究)
今回は、M2の修士論文中間報告×2でした。何か今期は「中間報告」ばかり聞いている気がします。
自分がM2だった頃を振り返ると、そんなに偉そうなことは言えないわけですが、やはり論文として仕上げるために必要な「作法」を踏まえているかどうかは、報告を聞くとすぐに伝わってきてしまいます。それを意識して研究を進めてきたかどうかが、修論の中間報告がうまくいくかどうかの分かれ目なのかもしれません。
この授業も、ひとまずこの回でM2の報告は終わりになるようです。
続いて今週(11月第3週)の授業について。今週は、院ゼミが先生の出張の為に休講になり、さらに木曜日から三田祭に向けて大学全体が休みになってしまったので、月曜しか授業がありませんでした。ちなみに、院ゼミは先生の出張が重なり、次回は12月8日です。
<月曜日>
3限:地域研究・比較政治論特殊演習
5回目にしてようやく本来のテーマ(冷戦の検討―今何が、問題になりうるのか)にふさわしい授業でした。
報告は「ソ連の冷戦敗北は必然だったのか:ソ連による改革の試みの評価」と題したもので、いわゆる「新しい冷戦史(New Cold War history)」の研究成果を咀嚼した学術的なエッセイといった趣きで、とても面白かったです。報告者は、戦間期初期のイギリス外交が専門なのですが、幅の広さと練られた問題意識にとても刺激を受けました。
取り上げられた主な本は、Archie Brown, The Rise and Fall of Communism, (London: Bodley Head, 2009); Melvyn P. Leffler, For the Soul of Mankind: The United States, the Soviet Union, and the Cold War, (New York: Hill and Wang, 2007); William Taubman, Khrushchev: The Man and His Era, (New York: W. W. Norton, 2003); Odd Arne Westad, The Global Cold War: Third World Interventions and the Making of Our Times, (Cambridge: Cambridge University Press, 2005); Vladislav M. Zubok, A Failed Empire: The Soviet Union in the Cold War from Stalin to Gorvachev, (Chapel Hill: University of North Carolina Press, 2007); 塩川伸明『冷戦終結20年――何が、どのようにして終わったのか』(勁草書房、2010年)で、自分も半分くらいは読んでいるものの、まだまだ「新しい冷戦史」を読み足りないと再確認しました。
これらの文献をうまく噛み砕いて紹介している日本語文献は無いので、もう少し幅を広げて書評論文を投稿してみたらいいのになあ…とこれは無責任なつぶやきです。
授業は議論もとても盛り上がりました。特に印象的だった点は、上記の文献を使ったことのある種の必然として浮かび上がる欧米中心的な見方に関する議論と、ゴルバチョフをどのように考えるかという議論です。「アーチー・ブラウンは世界最大のゴルバチョフ主義者」だとしても、それを超えて何を導くのかは実に難しい問題で、この問題に改革開放後の中国評価や、レーニンとスターリンの違いなどの議論が結びつくのだから面白くないわけがありません。
自分の研究に引き付けて、「戦後日本」という要因をどのように冷戦史の中に組み込めるかなあ、などと考えながら授業を終えましたが、各々がそれぞれの専門をある程度でも超えて試論的でも良いので「冷戦史」について考えられる時間が続くことを切に望みます。
…と書いたものの、次回の報告担当の自分がそれをでどこまで出来るかははなはだ心許ないです。
そんな感じで、あまり目の前の課題に集中出来ていないので、ブログを更新することにしました。
◇◇◇
まずは先週(11月第2週)について。
<月曜日>
3限:地域研究・比較政治論特殊演習
「冷戦史」の授業のはずが、「冷戦」に絡まない修士論文構想報告が3週目に入りました(笑)
報告は、戦間期のイギリス外交のお話で、いつものことながら勉強させて貰いました。自分の専門(戦後日本外交史)から離れて水準の高い議論を日々聞くことが出来るのは、いまの我が大学のとても恵まれているところです。
それはそれで悪くないものの、これだけ続くと、せっかく「冷戦史」と銘打った授業を履修するのだから、自分の目の前の課題から少しでも離れて、「冷戦」と いう重要な問題に自分ならばどう取り組むのかという問題意識を持ってもいいのではないかなという気持ちが段々と強くなってきました。
と思いながらも、自分の報告予定の話は少なくとも正面から「冷戦」を取り上げるわけではないので、あまり大きなことは言えないですね。多少なりとも授業の趣旨を踏まえて、議論を膨らませていきたいと思います。
<水曜日>
2限:国際政治論特殊演習(院ゼミ)
院生の研究報告予定が無いということで、一ヶ月ぶりにスキデルスキー『ケインズ』を読みました。
前回は、ケインズの生涯と哲学的背景がテーマの章を読みましたが、今回の範囲は「第3章 貨幣改革論者」&「第4章 『一般理論』」ということで、議論の中身はものすごく経済学的な話でした。
『貨幣改革論』(1923年)から『チャーチル氏の経済的帰結』(1925年)、『貨幣論』(1930年)を経て、『雇用、利子および貨幣の一般理論』(1936年)に至る経済学的な思索が、時代背景や議論の展開と共に跡付けられているので、この二つの章はとても勉強になります。ただ、論旨もすっきりしているので話の中身そのものを理解することはそれほど大変では無いと思うものの、これはどのように政治学の観点から議論出来るかというイメージが湧かず、発表者は大変だろうなと思いながら授業に臨みました。
議論好きかつ分からない箇所は分からないと言う面々が集まっているので、授業はとても盛り上がりましたが、やはりこの辺りの話は政治学的な議論にはならないのだなと再確認しました。今回取り上げた章で描かれる経済学的な知見を基にして、ケインズがいかに政策提言を行っていくのか、交渉に臨んだのかといったことが次の機会に取り上げるであろう章のテーマなので、今回はそれに向けた基礎知識の確認といった位置付けでいいのかもしれません。
<木曜日>
5限:プロジェクト科目(政治思想研究)
今回は、M2の修士論文中間報告×2でした。何か今期は「中間報告」ばかり聞いている気がします。
自分がM2だった頃を振り返ると、そんなに偉そうなことは言えないわけですが、やはり論文として仕上げるために必要な「作法」を踏まえているかどうかは、報告を聞くとすぐに伝わってきてしまいます。それを意識して研究を進めてきたかどうかが、修論の中間報告がうまくいくかどうかの分かれ目なのかもしれません。
この授業も、ひとまずこの回でM2の報告は終わりになるようです。
◇◇◇
続いて今週(11月第3週)の授業について。今週は、院ゼミが先生の出張の為に休講になり、さらに木曜日から三田祭に向けて大学全体が休みになってしまったので、月曜しか授業がありませんでした。ちなみに、院ゼミは先生の出張が重なり、次回は12月8日です。
<月曜日>
3限:地域研究・比較政治論特殊演習
5回目にしてようやく本来のテーマ(冷戦の検討―今何が、問題になりうるのか)にふさわしい授業でした。
報告は「ソ連の冷戦敗北は必然だったのか:ソ連による改革の試みの評価」と題したもので、いわゆる「新しい冷戦史(New Cold War history)」の研究成果を咀嚼した学術的なエッセイといった趣きで、とても面白かったです。報告者は、戦間期初期のイギリス外交が専門なのですが、幅の広さと練られた問題意識にとても刺激を受けました。
取り上げられた主な本は、Archie Brown, The Rise and Fall of Communism, (London: Bodley Head, 2009); Melvyn P. Leffler, For the Soul of Mankind: The United States, the Soviet Union, and the Cold War, (New York: Hill and Wang, 2007); William Taubman, Khrushchev: The Man and His Era, (New York: W. W. Norton, 2003); Odd Arne Westad, The Global Cold War: Third World Interventions and the Making of Our Times, (Cambridge: Cambridge University Press, 2005); Vladislav M. Zubok, A Failed Empire: The Soviet Union in the Cold War from Stalin to Gorvachev, (Chapel Hill: University of North Carolina Press, 2007); 塩川伸明『冷戦終結20年――何が、どのようにして終わったのか』(勁草書房、2010年)で、自分も半分くらいは読んでいるものの、まだまだ「新しい冷戦史」を読み足りないと再確認しました。
これらの文献をうまく噛み砕いて紹介している日本語文献は無いので、もう少し幅を広げて書評論文を投稿してみたらいいのになあ…とこれは無責任なつぶやきです。
授業は議論もとても盛り上がりました。特に印象的だった点は、上記の文献を使ったことのある種の必然として浮かび上がる欧米中心的な見方に関する議論と、ゴルバチョフをどのように考えるかという議論です。「アーチー・ブラウンは世界最大のゴルバチョフ主義者」だとしても、それを超えて何を導くのかは実に難しい問題で、この問題に改革開放後の中国評価や、レーニンとスターリンの違いなどの議論が結びつくのだから面白くないわけがありません。
自分の研究に引き付けて、「戦後日本」という要因をどのように冷戦史の中に組み込めるかなあ、などと考えながら授業を終えましたが、各々がそれぞれの専門をある程度でも超えて試論的でも良いので「冷戦史」について考えられる時間が続くことを切に望みます。
…と書いたものの、次回の報告担当の自分がそれをでどこまで出来るかははなはだ心許ないです。
2010年11月08日
この数日に読んだ本/先週&先々週の授業(10月第5週&11月第1週)
先週来引いている風邪がまだ完全に治りきっていません。最初は喉が痛いなと思っていたのですが、どうやら細菌だかウイルスがさらに奥に入ってしまったようで、軽い気管支炎のような症状です。だるいわけでも熱があるわけでもないので気にしなければいいのかもしれませんが、何となく集中が途切れがちでよくありません。
やらなければいけないことは山積しているのですが、体調を直すのが先だろうということで早く布団に入る=読書時間が増えるということで、この数日の間に以下の三冊を読みました。どれも面白く本格的な書評が出来るだけの本ですが、ひとまず簡単な紹介だけしておきます。
※例のごとく、版元情報は画像にリンクしてあります。
最初は国際政治学会の書籍販売コーナーで入手した一冊、君塚直隆『近代ヨーロッパ国際政治史』(有斐閣)です。風邪でウンウン言っている間もじっくり読み続けていました。
著者である君塚先生の狭い意味でのご専門は19世紀のイギリス外交&イギリス政治だと思うのですが、個人的にはこの本の読みどころは、むしろその前の時代である19世紀に至る部分なのではないかと思います。19世紀以降については、同じく君塚先生の手による章が含まれている細谷雄一・編『イギリスとヨーロッパ――孤立と統合の二百年』(勁草書房、2009年)、佐々木雄太、木畑洋一・編『イギリス外交史』(有斐閣、2005年)などもありますが、それ以前の時代がこれだけコンパクトかつ読みやすい形でまとめられたことは無いのではないでしょうか。
とりわけ面白く勉強になったことは、「ウェストファリア神話の解体」です。このように銘打たれているわけではありませんが、神聖ローマ帝国崩壊以前のヨーロッパ国際関係史を丁寧に描き出すことによって、ウェストファリア条約締結以降のヨーロッパ国際政治がどれだけ多層的かつ複雑なものだったかイキイキとした形で読者に伝わってきます。
君塚先生自身が翻訳されたベンノ・テシィケ『近代国家体系の形成――ウェストファリアの神話』(桜井書店)や、明石欽司『ウェストファリア条約――その実像と神話』(慶應義塾大学出版会)など、最新の研究成果を踏まえつつ、通史の中で「ウェストファリア神話の解体」を行ったことはとても重要なことだと思います(ちなみ『ウェストファリア条約』について君塚先生の書評が東京財団HPに載っています[リンク])。
私自身まだうまく消化出来ていませんが、『近代ヨーロッパ国際政治史』を読むと、「1648年のウェストファリア条約締結以降~」というお決まりのフレーズを使うのを誰もが躊躇うのではないでしょうか。
その神話性は、上記二冊の本だけでなく、90年代前半にクラズナーも指摘していたことではありますが、ウェストファリア条約締結以降の国際政治の実態が非常に読みやすい通史の形で読めるようになったことはとても重要なことだと思います。
続いて読んだのは、伊藤之雄『京都の近代と天皇――御所をめぐる伝統と革新の都市空間1868~1952』(千倉書房、2010年)です。実は10月に読みかけたものの、目の前の研究で一杯一杯になって一旦ストップしていた一冊です。
都市史や建築史は一つのジャンルとして確立しており多数の研究があるものの、それをうまく政治史と繋ぎ合わせることはそう簡単なことではありません。私自身に都市史や建築史の知識がほとんど無いので、専門的な立場から論評を加えることは出来ませんが、この本は、政治と都市、政治と建築といったことに関心のある読者にとっては実に面白い一冊に仕上がっていると思います(ただし、読みやすさや入り込みやすさ、テーマの広がりという点では、同じ時期に刊行された御厨貴『権力の館を歩く』(毎日新聞社)の方がいいかもしれません)。
我々のイメージする古都・京都というイメージや、御所を中心に広がる京都の空間がいかにして作られていったのか、その政治利用がどのような形で行われてきたのかを丁寧に跡付けており、早くまた京都の街を歩いてみたいと思わされます。
中身には全然関係ありませんが、こういうある意味での「ご当地モノ」はやっぱりその地域で売れるものなのかが少し気になります。
最後は、福本邦雄『表舞台 裏舞台――福本邦雄回顧録』(講談社、2007年)。この名前を見てピンと来る方は相当の日本政治好きだと思います。先日、死去の報が流れましたが、「フジ・インターナショナル・アート会長」や「旧KBS京都社長」の肩書きでは、何をやった人なのかよく分かりません。
父は福本イズムで有名な福本和夫、産経新聞記者を経て椎名悦三郎の秘書として政治に本格的に関与するようになり、その後は画商・コンサルタント業を務める傍らで財界と政界のパイプ役のような立場に収まり…といったことが語られる際に引かれる人です。この本は、伊藤隆・御厨貴両先生をインタビューにしたオーラル・ヒストリーを基にした一冊です。
刊行時にざっと読んでいましたが、改めて読み直してみると色々な発見があり面白かったです。ただし、若干玄人向けの本かもしれません。この本だけ読んでも本当の面白さはおそらく半分くらいしか分からないのではないでしょうか。安保改定、ポスト佐藤、40日抗争、創政会旗揚げ等々、様々なテーマが取り上げられていますが、その背景や一般的なイメージを知った上で読むと、この本の面白さは倍加します。
この辺りはさすが御厨先生(本書の基になったオーラル・ヒストリーのインタビュアーの一人)で、『アステイオン』で連載されていた「近代思想の対比列伝――オーラル・ヒストリーから見る」では、他のオーラル(例えば、竹下登や宮澤喜一など)を引く際の「補助線」として『表舞台 裏舞台』をうまく使っています。
ともかく、日本政治に関心がある方ならば一度は手に取って欲しい本です。
ほとんど自分の備忘録と化している授業内容の記録も一応書いておきます。まずは先々週の授業(10月最終週)について。この週は修士論文の構想&中間発表ばかり聞いていた気がします。
<月曜日>
3限:地域研究・比較政治論特殊演習
前回に引き続き、M2の院生による修士論文中間報告。テーマ的に、自分の研究に重なる部分も多くとても勉強になりました。「中間報告」なので、内容紹介は割愛します。
力の入った修士論文の中間報告は聴いていても面白く勉強にもなるのですが、シラバスに書かれている授業テーマ「冷戦の検討――今何が、問題になりうるのか」を楽しみにしていただけに、「冷戦」に関係する報告がいまのところ一つも無いというのはやや残念なところです。
<水曜日>
2限:国際政治論特殊演習(院ゼミ)
戦間期のイギリス外交を専攻するM1の後輩による修士論文構想報告でした。
狭い意味での研究テーマに留まらず、夏休みの勉強の成果であろうより大きな「国際秩序」を中心に据えた報告で議論もとても盛り上がりました。M1の段階でこれだけ先行研究を消化し、大きな問題意識を持っているとは驚異です。
これまで未発表の研究なので詳細は書きませんが、抽象的に言えば、大→中→小という形で問題が整理されていることで、実際に修士論文で取り扱う「小」の課題の意義が逆に見えにくくなってしまっているのではないかと感じました。
ある先生に言われたことの受け売りですが、修士論文は調査にも執筆にもかけられる時間は限られているので、どれだけ背後に広がりのある「小さな」テーマを見つけられるかがポイントだと思います。それが正しければ、「大→中→小」ではなく、「中→小→大」といった構成の方が、研究の意図や問題意識はより伝わるのではないでしょうか。
…ここまで抽象的に書くと何のことだかさっぱり分かりませんね(笑)
いずれにしても、面白い研究をしてくれそうなので、話の面白さが分かる程度には自分も戦間期研究を追いかけてみたいと思います。
<木曜日>
5限:プロジェクト科目(政治思想研究)
16世紀イギリス政治思想(ロバート・フィルマー)を研究しているM2による修士論文中間報告でした。論文提出約3ヶ月前の「中間報告」とは思えないほどに議論の完成度も高く素直に感心しました。
色々と書いておきたいこともあるのですが、「中間報告」ということで内容は割愛します。今週はこればっか(笑)
<金曜日~日曜日>
前回の記事に書いた通り、国際政治学会の2010年度研究大会@札幌に参加してきました。
自分の出番は初日最初の部会だったので、残りの時間は比較的余裕を持って他の部会&分科会に参加できました。体調が途中から優れず、頭の回転がいま一つだったという問題はありましたが、昨年・一昨年と同じように、刺激を受ける報告が多かったです。
これまた昨年・一昨年と同じなのですが、今年もまたヨーロッパ外交史を取り扱った分科会が面白かったです。資料の公開状況もあり、ヨーロッパ外交史でも日本外交史と同じく1960年代後半から70年代半ばにかけての研究が充実してきており、先行研究も踏まえた上で一次資料を渉猟した研究は安定感と面白さがありました。
自分の研究も、狭い意味で同じ領域を研究している専門家だけでなく、もう少し広い隣接分野の読み手を意識して書かなければいけないなと思った次第です。
続いて先週の授業(11月第1週)。もっとも、今週は早慶戦で月曜が休講になり、水曜日が祝日(文化の日)のため木曜日だけです。
<木曜日>
5限:プロジェクト科目(政治思想研究)
前回の報告を受けての院生討論でしたが、「前回」とは先々週の木曜日のことではなく、先々週の土曜日のことです。講師に来る先生の都合次第で、この授業は土曜日に開催されることがあるのです。この日は札幌にいたため残念ながら出席出来ず、討論の回のみの参加になってしまいました。
課題文献(井上彰「平等の価値」『思想』2010年10月号)は読んでいき、それなりに話したい事や考えた事もあったのですが、どうも報告を聞いていないと乗り切れず、消化不良のまま終わってしまいました。英米系の正義論の先端を行く先生の回だっただけに、ちゃんと参加できなかったことが悔やまれます。
ちなみに討論で話題になったことは、方法論的個人主義の持つ問題、正義論を議論する際の前提、「平等」という価値の位相などで、これはこれで非常に勉強になりました。
前期はやたらと政治思想(or政治理論)づいていたのですが、どうも後期はあまり思想関係の頭を使えていないような気がします。
◇◇◇
やらなければいけないことは山積しているのですが、体調を直すのが先だろうということで早く布団に入る=読書時間が増えるということで、この数日の間に以下の三冊を読みました。どれも面白く本格的な書評が出来るだけの本ですが、ひとまず簡単な紹介だけしておきます。
※例のごとく、版元情報は画像にリンクしてあります。
最初は国際政治学会の書籍販売コーナーで入手した一冊、君塚直隆『近代ヨーロッパ国際政治史』(有斐閣)です。風邪でウンウン言っている間もじっくり読み続けていました。
著者である君塚先生の狭い意味でのご専門は19世紀のイギリス外交&イギリス政治だと思うのですが、個人的にはこの本の読みどころは、むしろその前の時代である19世紀に至る部分なのではないかと思います。19世紀以降については、同じく君塚先生の手による章が含まれている細谷雄一・編『イギリスとヨーロッパ――孤立と統合の二百年』(勁草書房、2009年)、佐々木雄太、木畑洋一・編『イギリス外交史』(有斐閣、2005年)などもありますが、それ以前の時代がこれだけコンパクトかつ読みやすい形でまとめられたことは無いのではないでしょうか。
とりわけ面白く勉強になったことは、「ウェストファリア神話の解体」です。このように銘打たれているわけではありませんが、神聖ローマ帝国崩壊以前のヨーロッパ国際関係史を丁寧に描き出すことによって、ウェストファリア条約締結以降のヨーロッパ国際政治がどれだけ多層的かつ複雑なものだったかイキイキとした形で読者に伝わってきます。
君塚先生自身が翻訳されたベンノ・テシィケ『近代国家体系の形成――ウェストファリアの神話』(桜井書店)や、明石欽司『ウェストファリア条約――その実像と神話』(慶應義塾大学出版会)など、最新の研究成果を踏まえつつ、通史の中で「ウェストファリア神話の解体」を行ったことはとても重要なことだと思います(ちなみ『ウェストファリア条約』について君塚先生の書評が東京財団HPに載っています[リンク])。
私自身まだうまく消化出来ていませんが、『近代ヨーロッパ国際政治史』を読むと、「1648年のウェストファリア条約締結以降~」というお決まりのフレーズを使うのを誰もが躊躇うのではないでしょうか。
その神話性は、上記二冊の本だけでなく、90年代前半にクラズナーも指摘していたことではありますが、ウェストファリア条約締結以降の国際政治の実態が非常に読みやすい通史の形で読めるようになったことはとても重要なことだと思います。
続いて読んだのは、伊藤之雄『京都の近代と天皇――御所をめぐる伝統と革新の都市空間1868~1952』(千倉書房、2010年)です。実は10月に読みかけたものの、目の前の研究で一杯一杯になって一旦ストップしていた一冊です。
都市史や建築史は一つのジャンルとして確立しており多数の研究があるものの、それをうまく政治史と繋ぎ合わせることはそう簡単なことではありません。私自身に都市史や建築史の知識がほとんど無いので、専門的な立場から論評を加えることは出来ませんが、この本は、政治と都市、政治と建築といったことに関心のある読者にとっては実に面白い一冊に仕上がっていると思います(ただし、読みやすさや入り込みやすさ、テーマの広がりという点では、同じ時期に刊行された御厨貴『権力の館を歩く』(毎日新聞社)の方がいいかもしれません)。
我々のイメージする古都・京都というイメージや、御所を中心に広がる京都の空間がいかにして作られていったのか、その政治利用がどのような形で行われてきたのかを丁寧に跡付けており、早くまた京都の街を歩いてみたいと思わされます。
中身には全然関係ありませんが、こういうある意味での「ご当地モノ」はやっぱりその地域で売れるものなのかが少し気になります。
最後は、福本邦雄『表舞台 裏舞台――福本邦雄回顧録』(講談社、2007年)。この名前を見てピンと来る方は相当の日本政治好きだと思います。先日、死去の報が流れましたが、「フジ・インターナショナル・アート会長」や「旧KBS京都社長」の肩書きでは、何をやった人なのかよく分かりません。
父は福本イズムで有名な福本和夫、産経新聞記者を経て椎名悦三郎の秘書として政治に本格的に関与するようになり、その後は画商・コンサルタント業を務める傍らで財界と政界のパイプ役のような立場に収まり…といったことが語られる際に引かれる人です。この本は、伊藤隆・御厨貴両先生をインタビューにしたオーラル・ヒストリーを基にした一冊です。
刊行時にざっと読んでいましたが、改めて読み直してみると色々な発見があり面白かったです。ただし、若干玄人向けの本かもしれません。この本だけ読んでも本当の面白さはおそらく半分くらいしか分からないのではないでしょうか。安保改定、ポスト佐藤、40日抗争、創政会旗揚げ等々、様々なテーマが取り上げられていますが、その背景や一般的なイメージを知った上で読むと、この本の面白さは倍加します。
この辺りはさすが御厨先生(本書の基になったオーラル・ヒストリーのインタビュアーの一人)で、『アステイオン』で連載されていた「近代思想の対比列伝――オーラル・ヒストリーから見る」では、他のオーラル(例えば、竹下登や宮澤喜一など)を引く際の「補助線」として『表舞台 裏舞台』をうまく使っています。
ともかく、日本政治に関心がある方ならば一度は手に取って欲しい本です。
◇◇◇
ほとんど自分の備忘録と化している授業内容の記録も一応書いておきます。まずは先々週の授業(10月最終週)について。この週は修士論文の構想&中間発表ばかり聞いていた気がします。
<月曜日>
3限:地域研究・比較政治論特殊演習
前回に引き続き、M2の院生による修士論文中間報告。テーマ的に、自分の研究に重なる部分も多くとても勉強になりました。「中間報告」なので、内容紹介は割愛します。
力の入った修士論文の中間報告は聴いていても面白く勉強にもなるのですが、シラバスに書かれている授業テーマ「冷戦の検討――今何が、問題になりうるのか」を楽しみにしていただけに、「冷戦」に関係する報告がいまのところ一つも無いというのはやや残念なところです。
<水曜日>
2限:国際政治論特殊演習(院ゼミ)
戦間期のイギリス外交を専攻するM1の後輩による修士論文構想報告でした。
狭い意味での研究テーマに留まらず、夏休みの勉強の成果であろうより大きな「国際秩序」を中心に据えた報告で議論もとても盛り上がりました。M1の段階でこれだけ先行研究を消化し、大きな問題意識を持っているとは驚異です。
これまで未発表の研究なので詳細は書きませんが、抽象的に言えば、大→中→小という形で問題が整理されていることで、実際に修士論文で取り扱う「小」の課題の意義が逆に見えにくくなってしまっているのではないかと感じました。
ある先生に言われたことの受け売りですが、修士論文は調査にも執筆にもかけられる時間は限られているので、どれだけ背後に広がりのある「小さな」テーマを見つけられるかがポイントだと思います。それが正しければ、「大→中→小」ではなく、「中→小→大」といった構成の方が、研究の意図や問題意識はより伝わるのではないでしょうか。
…ここまで抽象的に書くと何のことだかさっぱり分かりませんね(笑)
いずれにしても、面白い研究をしてくれそうなので、話の面白さが分かる程度には自分も戦間期研究を追いかけてみたいと思います。
<木曜日>
5限:プロジェクト科目(政治思想研究)
16世紀イギリス政治思想(ロバート・フィルマー)を研究しているM2による修士論文中間報告でした。論文提出約3ヶ月前の「中間報告」とは思えないほどに議論の完成度も高く素直に感心しました。
色々と書いておきたいこともあるのですが、「中間報告」ということで内容は割愛します。今週はこればっか(笑)
<金曜日~日曜日>
前回の記事に書いた通り、国際政治学会の2010年度研究大会@札幌に参加してきました。
自分の出番は初日最初の部会だったので、残りの時間は比較的余裕を持って他の部会&分科会に参加できました。体調が途中から優れず、頭の回転がいま一つだったという問題はありましたが、昨年・一昨年と同じように、刺激を受ける報告が多かったです。
これまた昨年・一昨年と同じなのですが、今年もまたヨーロッパ外交史を取り扱った分科会が面白かったです。資料の公開状況もあり、ヨーロッパ外交史でも日本外交史と同じく1960年代後半から70年代半ばにかけての研究が充実してきており、先行研究も踏まえた上で一次資料を渉猟した研究は安定感と面白さがありました。
自分の研究も、狭い意味で同じ領域を研究している専門家だけでなく、もう少し広い隣接分野の読み手を意識して書かなければいけないなと思った次第です。
◇◇◇
続いて先週の授業(11月第1週)。もっとも、今週は早慶戦で月曜が休講になり、水曜日が祝日(文化の日)のため木曜日だけです。
<木曜日>
5限:プロジェクト科目(政治思想研究)
前回の報告を受けての院生討論でしたが、「前回」とは先々週の木曜日のことではなく、先々週の土曜日のことです。講師に来る先生の都合次第で、この授業は土曜日に開催されることがあるのです。この日は札幌にいたため残念ながら出席出来ず、討論の回のみの参加になってしまいました。
課題文献(井上彰「平等の価値」『思想』2010年10月号)は読んでいき、それなりに話したい事や考えた事もあったのですが、どうも報告を聞いていないと乗り切れず、消化不良のまま終わってしまいました。英米系の正義論の先端を行く先生の回だっただけに、ちゃんと参加できなかったことが悔やまれます。
ちなみに討論で話題になったことは、方法論的個人主義の持つ問題、正義論を議論する際の前提、「平等」という価値の位相などで、これはこれで非常に勉強になりました。
前期はやたらと政治思想(or政治理論)づいていたのですが、どうも後期はあまり思想関係の頭を使えていないような気がします。
2010年11月04日
国際政治学会で報告をしてきました
先週末、札幌で行われた国際政治学会で「第一次石油危機における日本外交・再考」と題した報告をしてきました。
報告させて頂いたのは「『経済大国化』と日本外交の新局面」と題した部会で、1970年前後の日本外交を「経済大国化」という共通の視角から切り取り、「政治(=アジア外交)」「経済(=第一次石油危機)」「安全保障(=沖縄返還)」の各側面から検討してみようという企画趣旨です。
学会初日(金曜日)の一番最初という時間ながら、会場に入りきらないほどの人が来て下さり、報告者三人で相談し「強気に100部刷ろう」と決めて持って行ったレジュメが「売り切れ」になったのは嬉しい誤算です。ここに書いてもあまり意味は無いかもしれませんが、司会・討論を務めて頂いた三人の先生方、会場に来て頂いた皆様に御礼申し上げます。
一緒に報告をさせて頂いたお二人に「部会をやりませんか」とお声をおかけしたのが、昨年の学会なので、それから丸一年経ってしまったということです。他のプロジェクトで顔を合わせる機会もあり、また別途機会を設けて何度か企画をすり合わせたので、部会全体としてもそれなりのまとまりが出せたのではないかと思います。
時間に限りもあり、討論者の先生やフロアとのやり取りはやや消化不良に終わってしまった面もありますが、1960年代後半から70年代前半の日本外交を考える手がかりのようなものは見出せたのではないかというのが、報告したメンバーの一致した意見です。
…と、ここまでは当初の予定がうまく行き過ぎるほどうまく行ったということなのですが、実際に報告をさせて頂いて感じたのは、他の二人の完成度の高く充実した報告と比べた時の自分の力不足です。研究のインパクトや質、分析の視角と枠組み、25分という限られた時間でのプレゼンテーション、質疑応答、その全てにおいてまだまだ修行が足りないことを実感しました。
そんなわけで、報告が終わった後は結構凹んでいたのですが、よくよく考えてみれば、博士号を取得され単著の出版間近という先輩研究者に比べて博士課程二年の自分に力が足りないというのはごくごく当たり前の事実だということに気が付きました(どれだけ普段は傲慢なんだという話です)。
博士論文を基にさらに練り上げた報告と、修士論文に毛が生えた報告を比べること自体が間違っているというものです。もちろん、報告をする以上、言い訳をせずに常に最善を尽くして真摯に取り組むしかないわけで、研究者としてのキャリアは関係ありませんが、まずは「何でこんな変な報告が混ざっているんだ」と思われなかったことだけでも及第点と受け取るべきなのだろうと思います。
今回の経験を糧にして、次の機会によりよい報告が出来ればいいのだろうと今は考えています。
気が付けば2010年も残すところあと2ヶ月となりました。
自分で立てた2010年の目標は「研究成果の発信」ということです。修士論文の一部を基にした論文を『国際政治』に掲載して頂いたのは、その一つの成果であり、今回、ここにもう一つ学会報告という成果を加えることが出来ました。
体調管理に気を付けて(実は学会報告直後から体調を崩してしまい一昨日まで寝込んでいました)、残りの2ヶ月もしっかりと研究に取り組んでいきたいと思います。
報告させて頂いたのは「『経済大国化』と日本外交の新局面」と題した部会で、1970年前後の日本外交を「経済大国化」という共通の視角から切り取り、「政治(=アジア外交)」「経済(=第一次石油危機)」「安全保障(=沖縄返還)」の各側面から検討してみようという企画趣旨です。
学会初日(金曜日)の一番最初という時間ながら、会場に入りきらないほどの人が来て下さり、報告者三人で相談し「強気に100部刷ろう」と決めて持って行ったレジュメが「売り切れ」になったのは嬉しい誤算です。ここに書いてもあまり意味は無いかもしれませんが、司会・討論を務めて頂いた三人の先生方、会場に来て頂いた皆様に御礼申し上げます。
一緒に報告をさせて頂いたお二人に「部会をやりませんか」とお声をおかけしたのが、昨年の学会なので、それから丸一年経ってしまったということです。他のプロジェクトで顔を合わせる機会もあり、また別途機会を設けて何度か企画をすり合わせたので、部会全体としてもそれなりのまとまりが出せたのではないかと思います。
時間に限りもあり、討論者の先生やフロアとのやり取りはやや消化不良に終わってしまった面もありますが、1960年代後半から70年代前半の日本外交を考える手がかりのようなものは見出せたのではないかというのが、報告したメンバーの一致した意見です。
…と、ここまでは当初の予定がうまく行き過ぎるほどうまく行ったということなのですが、実際に報告をさせて頂いて感じたのは、他の二人の完成度の高く充実した報告と比べた時の自分の力不足です。研究のインパクトや質、分析の視角と枠組み、25分という限られた時間でのプレゼンテーション、質疑応答、その全てにおいてまだまだ修行が足りないことを実感しました。
そんなわけで、報告が終わった後は結構凹んでいたのですが、よくよく考えてみれば、博士号を取得され単著の出版間近という先輩研究者に比べて博士課程二年の自分に力が足りないというのはごくごく当たり前の事実だということに気が付きました(どれだけ普段は傲慢なんだという話です)。
博士論文を基にさらに練り上げた報告と、修士論文に毛が生えた報告を比べること自体が間違っているというものです。もちろん、報告をする以上、言い訳をせずに常に最善を尽くして真摯に取り組むしかないわけで、研究者としてのキャリアは関係ありませんが、まずは「何でこんな変な報告が混ざっているんだ」と思われなかったことだけでも及第点と受け取るべきなのだろうと思います。
今回の経験を糧にして、次の機会によりよい報告が出来ればいいのだろうと今は考えています。
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気が付けば2010年も残すところあと2ヶ月となりました。
自分で立てた2010年の目標は「研究成果の発信」ということです。修士論文の一部を基にした論文を『国際政治』に掲載して頂いたのは、その一つの成果であり、今回、ここにもう一つ学会報告という成果を加えることが出来ました。
体調管理に気を付けて(実は学会報告直後から体調を崩してしまい一昨日まで寝込んでいました)、残りの2ヶ月もしっかりと研究に取り組んでいきたいと思います。