2010年07月

2010年07月28日

課題が一つ終了!/日本外交史研究者向け情報(1)

前々回のエントリーで、この夏は大きな課題が6個あると書きましたが、ようやく一つ(課題その2)終わりました。順調に行けば、夏の間に報告書形式でオーラル・ヒストリー刊行まで行くのではないでしょうか。

もう一つ、この夏最初の課題である2本目の論文を投稿(課題その1)が、今日のやるべきことです。先輩にコメントを頂く関係で作業をストップしていたとはいえ、予定よりも少し時間がかかってしまいました。



そんな慌ただしい夏なのに(いや慌ただしいからこそか)、時流に乗ってtwitterを始めてしまいました。



従来、戦後日本外交史を研究しようすると必ず言われたことは、「資料が無い、資料が少ない」ということです。しかし、この後の数年でこの言い訳は出来なくなるのではないでしょうか。

この数年の間に日本の外交文書を巡る状況は大きく変わりました。民主党の政権交代によるいわゆる「密約」関連の調査や関連文書の公開ばかりが注目されがちですが、福田康夫政権下における公文書管理規則の検討も見逃すことが出来ません。

もちろん、2001年の情報公開法施行が大きな転機になったことは間違いありませんが、実際研究を見る限りでは、この法律をうまく使いこなせている研究は決して多くは無いというのが率直な感想です。うまく使っている研究は、従来と同じようにまずは外交史料館で「戦後外交記録公開」で開示された資料をチェックし、さらに諸外国資料を使っています。こうした資料群をしっかり使った上で、補足的に情報公開法を使えば、実はかなりの数の眠っている資料を引き出すことが出来ます。ポイントは、情報公開法を利用した研究の多くは、あくまで情報公開法で引き出した資料はメインではなく、追加的に用いていたということです。

なぜなら、戦後外交記録公開の原則はあくまで「非公開」で、例外として一部の資料が「公開」されていたからで、まだまだ外務省に眠っている資料があったからです。つまり、資料の大枠を「戦後外交記録公開」で出された文書で掴み、さらに諸外国資料を通して文脈を補強した上で、眠っている資料を引き出しているのが、これまでの「いい研究」の多くです。

これに対して、資料公開の実態をおさえずにただ情報公開法で引き出した資料で書いた研究は、断片的に資料を見ているに過ぎず、歴史研究としてはあまりに少ない資料しか見られていないわけです。もちろん、資料など無くても良質的な研究をすることは可能ですが、それならば「歴史研究」は必ずしも適した方法論ではなく、別のやり方があるというものです。

といったところが、2008年くらいまでの状況ですが、これがこの数年で大きく変わりつつあります。おそらく重要な転機となったのは、福田政権下で進んだ、公文書管理規則の検討だと思います。この検討後に、日本の外交史料はものすごい勢いで開示が進んでいる。

それまでの公開方法との大きな違いは、「原則非公開、例外公開」から「原則公開、例外非公開」へと変わったことです。ファイルごとの公開という限界はありますが、原則が変わったことの意義はとても大きい。なぜなら、それによって研究者が資料の全体を把握出来るようになるからです。ただし、資料の全体像を把握するには多少の経験とこつが必要です。この「こつ」を説明する前に現在の戦後外交記録の公開方法の全体像を概観しておく必要があると思います。

と、ここまで書いたところで疲れてしまったので、戦後外交に関する文書公開の全体像の概観は次回更新の課題にします。

※ちなみに、以上と矛盾するようですが、私の研究で使っているメインの資料は情報公開法で取得したものです。この点では上記の「いい研究」の条件を満たしていないわけですが、言い訳をすれば、第一に、「戦後外交記録公開」で公開される時代よりも後の時代を取り扱っていること、第二に、徹底して情報公開請求をかけており、資料の全貌は ほぼ掴んでいること、第三に、論文には使っていないものの諸外国資料もそれなりに読み込んでいる、ということは強調しておきたいところです。この辺りは、 情報公開請求のこつにも関わってくるところなので、これもまた次回の更新時に書きます。

black_ships at 13:46|PermalinkComments(0)日々の戯れ言 | アウトプット(?)

2010年07月18日

♪キラキラ!が聴きたい気分/本の話

昨日のエントリーで書いたように、この夏は課題に追われています。そんな現実から逃避したくなりつつも、それが出来ない時にはやはり好きな音楽を聴いて面白い本を読むに限ります。

何となく(…というか理由はよく分かっているのですが)、この数日は↓をはじめとした曽我部恵一をとても聴きたい気分です。



30代後半でこんな歌を書けるおっさんになりたいもんです。




さて、日曜日に大学院棟にこもって粛々と課題をこなしているわけですが、どうも手許にある本が気になって集中が続きません。そんなわけで、課題7割・息抜き3割という緩い感じで今日は作業をしています。

その息抜きが↓

scalapino

アメリカにおけるアジア研究の碩学の一人であるロバート・A・スカラピーノの自伝『アジアの激動を見つめて』(岩波書店、2010年)です。自伝・回顧録好きの自分としては外せない一冊であり、生協に並んでいるのを見て即購入しました。

若いころを除けば、通常の回想録のような編年体ではなく、バークレーに着任して以降はテーマごとの章立てになっていることが特徴で、著者が関わった各地域に関する自伝的回顧を踏まえたエッセイといった趣があります。

各章の題名にある国・地域は、ベトナム、日本、中国、朝鮮半島、北東アジアの周辺諸国、インドシナ三国、東南アジア、南アジアです。ここに著者の包括的な「アジア」への関心が現れています。どの章も読みごたえ十分ですが、今まで読んだ中ではやはりベトナム戦争に関する章が面白いです。

我々が後知恵でベトナムを論じるのとは異なり、アメリカを代表するアジア専門家としてベトナム戦争にいかなる態度を取るかはとても難しいことだったと思います。その中で著者が取った立場は、明確なベトナム戦争支持でした。それは、著者が南ベトナムを訪れた際の経験に基づくものです。ベトナムの多様性を指摘した上で著者は次のように書いています。

このような国で、開かれた政治体制のもとで政治的安定をはかることは、非常に難しいように思われた。しかし、ベトナムの人々と一週間ほど話をしてみて、私は違いこそあれ、南ベトナム人の大多数は共産主義政権を望んでいないのだ、という確信をもつにいたった。彼らの中には、すでに共産主義の弾圧ぶりを体験している者もいたのである。このように、私のベトナムに関する基本的な考え方は、さまざまな人々、主に一般民衆との交流によって形成されていったのだった。(71-72頁)

ジョージ・R・パッカード『ライシャワーの昭和史』(講談社、2009年)を読んだ時も同じような感想を持ったのですが、やはり歴史に取り組む以上は、後世の視点からだけでなく、当時の視点を踏まえることを忘れてはいけないのだと思います。もちろん、どちらかだけではいけないわけで、「過去」を無理に正当化する必要は無いわけですが、当時、どのような選択肢や考えの幅があって、その中でどういった判断が行われたのかを、歴史家は慎重に検討していく必要があります。

そんなことを考えつつ、続きを読むことにします。



昨日のエントリーに書き忘れましたが、竹森俊平『中央銀行は闘う――資本主義を救えるか』(日本経済新聞出版社、2010年)も面白かったです。

takemori4

前著『資本主義は嫌いですか――それでもマネーは世界を動かす』(日本経済新聞出版社、2008年)よりも、より議論全体が洗練された印象で、なかでもこの経済危機後の注目すべき変化として中央銀行の役割の変化を述べている点と、ハロルド・ジェームズを引きつつ大恐慌との比較を試みている点をとても興味深く読みました。

この本を読んで、現・日銀総裁の白川方明氏が日銀総裁に就任するとは夢にも思わっていないであろう時に書いた『現代の金融政策――理論と実際』(日本経済新聞出版社、2008年)を読み返したくなりました。ざっと目次を見返してみても、『中央銀行は闘う』でキー・コンセプトとして挙げらているイールド・カーブの話などが丁寧に論じられている節があるなど、議論を逐一対照しながら読むと面白いかもしれません。

が、残念ながら時間が取れずそこは断念。金融は自分の研究にも関係してくるとはいえ、現代の話は複雑過ぎて追いきれません。



この他に、最近出たor出る本で気になるのは↓

westad2mabuchi

この2冊は、刊行次第手に入れて読みたいと思います。

と、日本語の本ばかりチェックしているのですが、論文を書くためにももう少し洋書や英語の論文をしっかりとリストアップしていく必要がありそうです。

ここまで書いていて、現実逃避をしている場合ではないと気が付きました(汗)。もうしばらく日曜の大学で頑張ります。

black_ships at 17:37|PermalinkComments(0)本の話 | 日々の戯れ言

2010年07月17日

この夏休みの課題

自分にプレッシャーをかけるために、この夏休みの予定を列挙しておきます。事情により「某」がやたらと多いです。色々と声をかけて頂けるのは、本当にありがたい限りですが、それにしてもやることが多すぎる気がします。

順番は、〆切順。



課題その1: 2本目の論文を投稿

この夏最初の課題は、『国際政治』に出した論文の前史となる論文の投稿です。1年前の今頃から取り組み始めたので、少し時間がかかり過ぎている気がしますが、対象期間が7年間と長く、関連資料がこの1年間で大分開示されたので、仕方が無い(ということにしたい)。半年前に某研究会、先月、某研究会(半年前とは別)&リサーチ・セミナーで発表し、その後さらに師匠にも指導して貰い、いまは意義付けの部分で最後の詰めをしているところです。これは1週間以内に目途を立てて投稿しておきたいと思います。

課題その2: 某元大使のオーラル・ヒストリー編集作業

昨年もアルバイトでお手伝いさせて頂いた某元大使のオーラル・ヒストリーの編集作業の続きです。今回は、一気に報告書形式での印刷、某出版社からの刊行という流れで進むようで、最終確認作業をするからということで声をかけて頂きました。外交官としては変わった経歴の方なので、読み物としても面白くなるのではないかと思いますし、かなり詳細に加筆をされているので、刊行されれば研究者へのインパクトはかなりある気がします。これは、刊行されたら改めてここで紹介します。これは7月下旬の課題。

課題その3: 某共著企画(その1)のドラフト執筆

これは師匠にも相談した上で、この春から加わった企画です。広い意味での専門である戦後日本外交には含まれますが、いまの研究テーマとは少し外れるので、調べることが色々ありそうです。担当部分に関する報告は5月に済ませたとはいえ、その後、一気にスケジュールが固まり、その結果、思った以上に早い段階でドラフトを出さなければいけなくなってしまったので焦っています。視野を広げるいい機会ではあるものの、一番下っ端なので、頑張らなければいけません。これが8月上旬~中旬の課題。

課題その4: 某元大使の回想録のお手伝い

課題その2とは別の某元大使の回想録のお手伝いも夏休みの課題になりそうです。昨年実施したインタビューを基に回想録を出版するという企画で、事実関係の確認作業や要加筆部分に関する追加インタビュー等々がお手伝いの中身です。私の他に4人の先生方が監修メンバーにいますし、担当部分は自分の専門に近いので、それほど大変ではないと思うものの、スケジュールが読めないので、他の課題とぶつかるとなかなか厳しいことになる気がします。個人的には、8月下旬から9月中旬くらいの課題という位置付けです。

課題その5: 某共著企画(その2)のレジュメ作成

課題その3とは別の共著企画です。これももちろん師匠に相談した上で参加させて頂くことにしました。こちらは、自分の専門とほぼ重なる話で、それを少し違った視角から検討することになりそうです。実はレジュメ自体はもう作ったのですが、やや不安な部分があるので、〆切直前まで寝かせて、最後にもう少し詰めの作業をしようと考えています。この話は、後期の横手先生の授業で発表させて頂こうかなと思っています(授業でボロボロにされたらピンチ)。〆切は9月末日。

課題その6: 某学会での発表のための報告ペーパー執筆

課題その1と共に、博士論文へ向けた重要なステップです。一応企画は通り、承諾書も送付、スケジュールも決まったので、あとはいい発表になるように研究に取り組むだけです。報告内容自体の基本的な調査はもう終わっていると言えば終わっているものの、もう少し詰めたい部分が残っているので、この夏は報告に関係する部分でインタビューを何回かやる必要がありそうです。日本側だけでなく、アメリカやイギリスの資料をどう使うかも迷っているところです。大まかな報告内容草案を8月下旬に完成させ、9月上旬に他の報告者2名と最終調整、9月中旬に報告概要を送付、10月中旬に報告ペーパーをアップという流れです。



以上が多少なりとも研究に関係しそうな部分ですが、この他にも研究費の処理やら、忙しさにかまけて忘れていた確定申告(還付申告)、インタビューのテープ起こし、お手伝いしている某プロジェクトの補佐などなど、尋常ではない忙しさに追われることになりそうです。

課題その3を除けば、博士論文に繋がるもなので、いいプレッシャーにして真剣に取り組んでいこうと思います。コンスタントに毎日少しずつ作業を進めて、多少なりとも余裕を持てるようにしたいものです。

友人たちと8月の最初にROCK IN JAPAN FESTIVAL 2010(リンク)に行くことが唯一の遊び企画。今年もいいメンバーが揃っているので、とても楽しみです。悩みどころは、ユニコーンとサンボマスター、奥田民生とスネオヘアーが重なっていることで、これはどうしたものかなと。うーむ。

black_ships at 12:03|PermalinkComments(0)日々の戯れ言 

2010年07月16日

前期終了

一昨日で、前期の授業が全て終わりました。

博士課程も二年目に入ると、生活に占める授業の比重はかなり下がり、それ以外の仕事のようなものに割く時間がかなり増えてきました。とはいえ、授業から吸収出来ることはとても多いので、後期も前期同様に授業の時間を大事にしていこうと思います。

夏季休暇中にやらなければいけないことが今年は尋常では無いくらいたくさんあるので、毎日を大切に過ごしていく必要がありそうです。



授業の話ばかり書いていても面白くないので、そろそろ最近読んだ面白い本の話を書きたくなってきました。といっても、今日やらなければならないことが溜まっているので、予告として、取り上げておきたい本を挙げておきます↓(順不同:例によって画像に版元HPをリンクしてあります)。

tyamamotooshimura2shiokawa2taniguchikounotobemoriyatakenaka



3週間分も授業が溜まってしまったので、授業ごとに簡単にまとめておきます。

<水曜日>


2限:国際政治論特殊研究

Welch2

テキストは、David A. Welch, Justice and the Genesis of War, (Cambridge: Cambridge University Press, 1993)のChapter 7: Justice and Injustice in a Global ContextとConclusionを、6月第5週(=7月第1週)と7月第3週の二回に分けてやりました。

二回かけてじっくり議論したので、かなり本に対する理解が深まりました。大まかに言えば、まずケース・スタディのまとめがなされ、その上で英国学派の「国際社会」理解を下敷きにして、そこでjusticeはどのように働くのかが論じられ、その上で、ロールズ、ベイツ、ウォルツァーの議論の検討、というのがテキストの流れです。

著者の議論は例のごとく非常に穏健な線でまとめられているものの、本書の中身の部分の議論が「戦争の原因におけるjustice motiveの役割」を論じているのに対して、最終章でいきなり「国際秩序の形成・維持における正義の役割」を議論するのには、やや飛躍がある印象を持ちました。

授業では色々な議論が出ましたが、著者の「適切なレジームの発展を通じて、国際正義の概念のパッチワークを構築し、それを拡大・修正・維持することが重要である」という主張に関する議論が面白かったです。そもそも、最終章で突然レジーム概念が出てくることへの違和感、合意されればそれは正統なのかという根源的な疑問、レジーム形成における大国・小国関係、強制と合意に線引きは可能なのかという疑問、などが主な議論で、これらはいずれも国際政治学における重要な課題です。

議論も弾み、知的にも色々な刺激を受けた面白い授業でした。

本書全体に関する書評は余裕があれば書くことにします。

ちなみに、間に挟まれた7月第2週は、NATO事務局長補(政務・安全保障政策担当)であるDirk Brengelmann大使の講演会への出席が授業になりました。演題は”NATO: An Alliance for the 21st Century”ということで、それなりに興味深いものでしたが、冷戦期のNATOや現在の東アジアの国際情勢に関心があるものとして、本当にいまNATOが必要なのか疑問を覚えてしまいました。平和維持・平和構築活動や、サイバー・セキュリティ、エネルギー安全保障といった課題がいまNATOにはあると言われても、どうもピンと来ない気がします。この辺りの話も、30年くらい経てば自分の関心に入ってくるのでしょうか。質疑応答が1時間近くあり、NATOの存在意義やフランスが軍事機構に復帰したことの意味(やりにくいのではという意地悪な質問)等々、面白い質問が相次いだので、このやり取りはとても有意義でした。

<木曜日>

2限:政治思想論特殊研究

Heywood

テキストは、Andrew Heywood, Political Theory: An Introduction, 3rd Edition, (Palgrave Macmillan, 2004), Chapter 5: Power, Authority and LegitimacyのPower(pp.122-129)。実は先週、Authorityの部分が範囲だったのですが、所用があり出席出来ませんでした。

テキストは、基本的にルークスの権力論を土台にしたもので、これといって特徴的な部分はありませんでした。議論で面白かったのは、日本語の権力と英語のpowerの違い、ダールやガルトゥングの権力(暴力)論、あとは権力の行使を判断する主体の問題です。

これは授業でも提起したことなのですが、教科書的には政治学はpowerを取り扱う学問だと説明されるものの、ある時期以降の権力論の展開を考えると、それは政治学ではなく社会学の課題になっているのではないでしょうか。この辺りをどう考えるかは多分とても重要な問題なのですが、なかなかそこまで手が回りません。

この授業は、復習になる部分も多いですし、自分に欠けている政治理論や思想の素養を深めるためにはとてもいいのですが、後期は出るかどうかを迷っています。というのも、後期はやらなければいけないことが前期以上に多い上に、履修している授業が1つか2つ増えるので、時間的にかなり厳しいからです。いまのところは、履修していないし出るのはやめてしまおうかなと考えています。

5限:プロジェクト科目I(政治思想研究)

プロジェクト科目は先々週に1回あって、これが最終回でした。

内容は前週の講義(「ポストリベラル/ナショナルな政治共同体の模索―D・ミラー、J・ハーバーマス、A・ネグリの議論から―」)を受けての討論です。

授業で中心的に議論されたのは、何が「ポスト」なのかという前週の講義の基本的な前提と、「福祉」や「政治共同体」を取り上げることの難しさです。後者について言い換えると、思想が論じ得る「領分」のようなものが問題になったと言えるかもしれません。

熟議民主主義論と他の何か(ベーシック・インカムや福祉)を結び付ける議論には無理があるのではないかという漠然とした違和感を皆が持っている気がしました。

「思想の領分」の話については、上でも挙げた押村高先生の新著『国際政治思想』(勁草書房)を読んで考えたこともあるので、これはまた機会があれば書きたいと思います。



他にも、大学院の先輩&後輩と、Melvyn P. Leffler and Odd Arne Westad (eds.), The Cambridge History of the Cold War, Volume I: Origins, (Cambridge: Cambridge University Press, 2010) の読書会をやるなど、書いておくことが色々とあるのですが、ひとまずはここまで。

参議院選挙の話は、竹中先生の『参議院とは何か』(中公叢書)を紹介する時に合わせて書くことにします。


black_ships at 13:46|PermalinkComments(0)ゼミ&大学院授業 | 本の話

2010年07月01日

先週&先々週の授業(6月第3週&第4週)

色々とやるべきことが多く、W杯もあり、またまた久しぶりの更新になってしまいました。やらなければならないことは目白押しなのですが、中途半端に時間が空いたので、ひとまず授業についてまとめておきます。



まずは先々週の授業から。プロジェクト科目は休講でした。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊研究

Welch2

テキストは、David A. Welch, Justice and the Genesis of War, (Cambridge: Cambridge University Press, 1993)の第5章(World War II)。

学部レベルの教科書(例えばナイの『国際紛争』など)では、第一次大戦と第二次大戦はしばしば異なる性格の戦争として論じられます。それは簡単に言ってしまえば、第一次大戦がシステム要因から説明され得るのに対して、第二次大戦は「悪役」として枢軸国の存在、つまり国家要因から説明されます。もちろんこうした見解は、多くの研究によって否定されており、それほど単純なものではありません。しかし、この二つの戦争がよく対比されてきたことは事実です。

それでは第二次大戦の開戦にjustice motiveはどのように効いたのでしょうか。著者の評価は、紛争の条件付け(=中間要因)としてはmoderate(7段階評価で上から4番目[下からも4番目])、各国の参戦要因(=直接要因)としては、ドイツ・ポーランドはimperceptible(1番下[全く効いていない])、フランスはvery weak(下から2番目)、イギリスはstrong(上から3番目)というもので、クリミア戦争を除くこれまでの章と比べると、あまりjustice motiveが効いていないという結論です。

とはいえ、ドイツにおけるヒトラー台頭の背景にあるドイツ国内の認識にjustice motiveは効いていたし、イギリスの参戦にはそれなりの役割を果たしたという点は、面白い点です。

授業では、中間要因や個々の国の評価についてそれぞれ議論がありましたが、個人的に興味深かったのはヒトラーの評価に関する部分です。著者は、「ヒトラー要因」を検討する際に、ヒトラー個人の思想、ヒトラー台頭の要因を分けて論じています。そして、個人の思想の部分でも、一見するとヒトラーがヴェルサイユ講和の「不正義」を問題にしているような箇所が、実際にはそれは政権獲得のための手段に過ぎなかったということを鋭く指摘しています。この辺りはかなり慎重に記述されており、いかに著者がjustice motiveを限定的な意味で捉えようとしているかが伝わって来ます。

やや記憶が薄れているので、この授業についてはここまで。

<木曜日>

2限:政治思想論特殊研究

Heywood

テキストは、Andrew Heywood, Political Theory: An Introduction, 3rd Edition, (Palgrave Macmillan, 2004), Chapter 4: Sovereignty, the Nation and Supranationalismのthe Nation(pp.97-109)。今回は発表担当でした。

基本的にはナショナリズムの話で、①文化的/政治的ネイション、②ナショナリズムと世界市民主義、③国民国家とグローバル化、が各節のテーマです。このテーマを一瞥して分かるように、明らかに第三節だけ浮いています。なぜ「国家」の変容をわざわざネイションを取り上げた部分でする必要があるのか、むしろステイトを取り上げた際に一緒に扱うべきではなかったのでしょうか。

この辺りと、ナショナリズム論の説明方法が授業では議論になりました。この回はあまり盛り上がらなかったので、ここまで。



続いて先週の授業です。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊研究

Welch2

テキストは、David A. Welch, Justice and the Genesis of War, (Cambridge: Cambridge University Press, 1993)の第6章(The Falklands/Malvinas War)。ケース・スタディは今回が最後になります。

フォークランド戦争については、昨年授業で読んだPainful Choicesでも取り上げられていたり、また公刊戦史の著者であるローレンス・フリードマンの講演を某研究会で聞く機会があったりと、勉強する機会がこの1年で何回かありました。

この戦争でjustice motiveがどれだけ効いたのか。著者の評価は、紛争の条件付け(=中間要因)としてはconclusive(7段階評価で1番上)、各国の参戦要因(=直接要因)としては、アルゼンチン、イギリス共にvery strong(上から2番目)というもので、こでまでのどのケースよりもjustice motiveが効いているというのが結論です。

授業は、議論というよりはフォークランド戦争そのものに関する解説的な話が中心でした。

6限:リサーチ・セミナー

第3回目となる今回は、私が発表でした。先日、某研究会で発表させて頂いたのですが、そこでの批判を踏まえて若干修正したものを報告しました。

取り上げたテーマは、この3月に刊行された1本目の論文(「国際エネルギー機関の設立と日本外交」)とと同じような話ですが、未投稿の論文なので詳細はここには書きません。

投稿論文の字数制限(2万字)と取り上げる時期の長さ(約7年)の二つをどのようにバランスさせるかを苦労し、色々と概念整理を試み続けているのですが、セミナーでも概念整理をした部分について議論が集中しました。付け焼刃的に理論を持ってきたりすると痛い目に会うなということを、リサーチ・セミナーと研究会報告で痛感しました。ただ、逆に全体の4分の3ほどを占めている、内容部分にはあまり注文が付かなかったので、苦労してまとめた甲斐はあったかなと思います。

ちなみに現在は、リサーチ・セミナーの議論を踏まえて、より「中身」の説明を中心とした形で、「はじめに」と概念整理をした部分を改稿する作業を進めています。

<木曜日>

2限:政治思想論特殊研究

Heywood

Andrew Heywood, Political Theory: An Introduction, 3rd Edition, (Palgrave Macmillan, 2004), Chapter 4: Sovereignty, the Nation and SupranationalismのSupranationalism(pp.109-119)がテキストでした。

テキストをチェックする前に分担を決めてしまったので後の祭りではありますが、どうやらこの章が自分の専門に一番近かったようです。

「超国家主義」では、どうも丸山眞男の論文が頭に浮かんでしまうので、スプラナショナリズムと書きますが、この概念は基本的に主権を国家より上位にある主体に委譲する考え方として理解していいのでしょう。

今回は、①政府間主義、②連邦主義と連邦、③世界政府の可能性、という三つの節に分かれています。国際関係論などに親しみがある人は政府間主義をスプラナショナリズムの一形態として議論していることに違和感を覚えると思いますが、著者はスプラナショナリズムの最も弱い形式として政府間主義を位置付け、ここで同盟や国際機関について説明します。残りは何があるのかというと、連邦化しつつあるものとしてEUが取り上げられ、最後の世界政府の話は一種の理想論として説明されています。

イギリス人としては珍しくEUについて熱心に説明しているのが印象的でした。

この授業は、訳語や概念の説明の仕方についてまず議論し、その後で派生的に中身を議論するという形式で進められており、前半が自分にとってのメインなのですが、今回は後半部分で出たハーバーマスのカント理解に関する議論が勉強になりました。

<土曜日>

5限:プロジェクト科目I(政治思想研究)

ゲストは山崎望先生、テーマは「ポストリベラル/ナショナルな政治共同体の模索―D・ミラー、J・ハーバーマス、A・ネグリの議論から―」でした。

5月にあった政治思想学会での報告(「ポストリベラル/ナショナルな福祉とシティズンシップの模索―D・ミラー、J・ハーバーマス、A・ネグリの議論から―」)をベースにした発表ということですが、実質的には、最近山崎先生が紀要に連載されている「世界秩序の構造変動と来るべき民主主義」の中身を展開したものといったところでしょうか。というわけで、詳しい中身は紀要の論文を見て頂ければ分かると思います。

質疑応答で議論の中心となったのは、なぜミラー、ハーバーマス、ネグリの3人なのかということと、いかなる意味において「ポスト」なのかという二つの点でしたが、印象に残ったのは、ある先生がおっしゃった「議論の中心はデモクラシー論として理解できる気がするが…」というコメントです。上記の論文にしても「来る民主主義」という言葉があるように、ご関心はデモクラシー論であるわけで、それを「福祉」や「政治共同体」に繋げる必要は無いのではないかと、このコメントを聞いて感じました。

この話にこだわるのは、「思想」の話を様々な分野に拡張する議論に違和感を持っているからです。もし「福祉」のような具体的な政策領域を論じるのであれば、数量的なデータや、現実の政治動向を押さえておく必要があるわけです。具体的な政策に近い話を論じる場合には、何がどのように「変化」したのかを明らかにしなければ、話自体が浮いてしまいます。もちろんデモクラシー論も現実的でなければいけないとは思うものの、それは思想的ないしは観念的に考察し得る規範理論の領域に属するものであり、そこでは思想的な認識を戦わせればそれなりに議論は成立する点で、「福祉」などの現実的な政策領域とは異なるのだと思います。

そんなことを考えている内に、最近流行っている「国際政治思想」的なものに自分が持つ違和感の正体が分かってきたのですが、この話はまた改めて書くことにします。


black_ships at 16:12|PermalinkComments(0)ゼミ&大学院授業