2010年06月
2010年06月17日
先週&先々週の授業(6月第1週&第2週)
前回のエントリーから大分時間が空いてしまいました。
この間、首相の交代からW杯の開幕まで色々な出来事がありました。また色々と面白い研究を読んだり、新たに本を買ったり、久しぶりにある研究会で発表させて頂いたりと、ここに書いておきたいことも溜まっているのですが、まずは授業の話を処理しておくことにします(こんな個人的な授業記録でもそれなりに読む人がいるのだから不思議なものです)。
◇
既に今週の授業も終わっていますが、ひとまず先々週と先週の授業についてまとめておきます。まずは先々週の授業から。
<水曜日>
2限:国際政治論特殊研究
今回は、David A. Welch, Justice and the Genesis of War, (Cambridge: Cambridge University Press, 1993)の第4章(World War I)がテキストでした。
第一次大戦開戦にjustice motiveはどのように効いたのか。著者の評価は、紛争の条件付け(=中間要因)としてはvery Strong(7段階評価で上から2番目)、各国の参戦要因(=直接要因)としてはオーストリア=ハンガリー、セルビア、フランスはvery weak(下から2番目)、ロシアとドイツはmoderate(上から4番目[下からも4番目])、そしてイギリスはvery strongというものです。
比較的丁寧にテキストを検討したので、どちらかというと個々の細かな部分に議論が集中しました。また先生が戦争の背景を比較的詳しく解説したこともあって、疑問を持った点が全て議論になったわけではありませんが、本全体の理解に繋がるコメントがいくつか出てきた点が印象に残りました。
重要なのは紛争の条件付け(=中間要因)をめぐる評価で、ここにアルザス=ロレーヌ問題を持ってくるのが果たして適切なのかという点が議論になりました。紛争の種になり得るものは様々あるわけで、その中でどれに着目して議論を展開するのかが恣意的ではないかというのが、ここでのポイントだったのと思いますが、何分2週間前のことでメモを残していなかったので詳細を失念してしまいました。
あとはこの時期に関する最新の研究を追いかけている後輩の露仏関係に関する問題提起が興味深かったです。
<木曜日>
2限:政治思想論特殊研究
テキストは、Andrew Heywood, Political Theory: An Introduction, 3rd Edition, (Palgrave Macmillan, 2004), Chapter 3: Politics, Government and the Stateの「the State」の部分でした。
読み進めていくうちにテキストとしての欠陥が段々と明らかになってきたな、というのがこの数週間の参加者間での合意です。もっとも先生の意図は、それなりに定評ある教科書を検討しつつ、自分ならばどのように記述するか(≒教えるか)を検討することにあるようなので、それはそれでいいのかもしれません。
例のごとくこの節も三つの部分に分けられており、今回の部分は①政府と国家、②国家の諸理論、③国家の役割の三つです。これまでの章以上に、なぜこの部分でこの話が出てくるのか分からないと困惑させられたというのが率直な印象で、特に②の部分で、多元主義理論が「国家」の諸理論の一つとして紹介されたのには困惑してしまいました。
授業中の議論で興味深かったのは、ウェーバーの国家論の話です。どういった文脈で出てきたのかを正確に覚えていませんが、ポイントはウェーバーが「役割」から国家を論じているのではないということです。周知の通りウェーバーの国家の定義は「ある一定の領域内部で、正当な物理的暴力行使の独占を要求する共同体」というものです。こういった学部1年生で習う話はテキストとしては覚えているものの、そのコンテクストを忘れがちなので、これを改めて確認したのは良かったです(こんなレベルの話をしていてはまずいですね)。
正直、今回の部分はこれまで読んだ中でも一番出来が悪かったのではないかと思います。ひとまず今回はここまで。
<金曜日>
5限:リサーチ・セミナー
前回書くのを忘れましたが、4月から師匠主催のリサーチ・セミナーが始まりました。院ゼミが前期は開講されないので、それを補う意味もあって始まったものなのですが、参加者は院ゼミのメンバーだけではなく学部ゼミ出身で他大学の大学院に行かれた方や、昨年大学院に研究生としていらしていた社会人の方も参加する開かれた形で運営しています。参加者に求められるのは「知的貢献」のみ、適度な人数(10人前後)で自由闊達な議論が行われる心地いいセミナーです。
第1回は大西洋関係を研究する院ゼミの後輩の発表で、第2回の今回は他ゼミ所属の後輩が修士論文&博士課程での研究計画報告をしました。研究の詳細を書くのは控えますが、日本での研究が停滞しがちな1920年代のヨーロッパ国際政治史に関するもので、非常に知的刺激を受けました。
なぜか――本当になぜかという感じですが――今年新たに院ゼミに入ってきた二人の後輩の専門も戦間期ヨーロッパということもあって、議論のレベルがとても高かったのが印象的です。専門外ゆえに、先行研究動向はほとんど知りませんが、ザラ・スタイナーやサリー・マークス、エリック・ゴールドシュタインらの最新の研究を踏まえて展開される時代区分を巡る議論や問題意識の設定は非常に面白かったです。
どの時代を研究するにしても、どのような時代区分を取るかが実はとても大事な問題です。私のように歴史研究としてはかなり新しい時代を扱っている場合とは違い、戦間期ヨーロッパを考える場合は、既に主要な論点はある程度出尽くしているわけで、そうした研究を踏まえていかにオリジナリティのある視点を提示するかで勝負する後輩達の存在はとても刺激になります。
次回のリサーチ・セミナーでは私が発表させていただく予定です。
<土曜日>
5限:プロジェクト科目I(政治思想研究)
今回はゲストの先生の都合で土曜日に授業がありました。前回のゲストがあまりにひどかった反動というわけではなく、純粋にとても知的に刺激される面白い授業でした。
テーマは、「政治過程における情念の作用について」、課題文献に指定されていた①齋藤純一「感情と規範的期待――もう一つの公私区分の脱構築」井上達夫編『岩波講座哲学10 社会/公共性の哲学』(岩波書店、2009年)と②齋藤純一「政治的空間における理由と情念」『思想』(第1033号、2010年5月)の二つ、それから近々出版予定という③齋藤純一「公共的空間における政治的意思形成――代表とレトリック」齋藤純一編『公共性の政治理論』(ナカニシヤ出版、近刊)の内容をまとめたものということでした。
細かな議論は上記の参考文献の通りだと思うので割愛します。討議[熟議]民主主義にはあまり親近感が湧かない自分にとっても面白かったので、討議民主主義に関心がある人であれば必読なのではないでしょうか。
個人的に興味深かったのは、齋藤先生の提示する情念の捉え方です。それは「情念を、理性との関係において、非理性的なものとしてとらえるのではなく、規範との関係において、損なわれた/充たされざる規範的期待を明示的/暗黙裡に表すものとしてとらえ返す」というものです。
これを読んですぐに思い浮かんだのが、師匠の授業で読んでいるDavid A. Welch, Justice and the Genesis of War, (Cambridge: Cambridge University Press, 1993)におけるJusticeの定義です。ウェルチのJusticeの定義は以下の通りです。
justice motive = the drive to correct a perceived discrepancy between entitlement and benefit (p.19)
「本来与えられている権利と利益の認識された齟齬を是正しようとする衝動」といった訳になるのでしょうか。ポイントはperceivedとentitlementの二つの語があることです。もちろん「利益(benefit)」をどうするかといった細かな点で違いはありますが、捉え方はかなり近いもので、実際に先生に授業後確認してみたところ、この発表の議論は正義論として展開することも可能だというお答えでした。
じゃあ正義論として展開すればいいのではないかと思うのですが、それでは理性と表裏一体を成す情念を捉えることが出来ないというのが先生の答えなのだと思います。ここに、情念論を巡る問題が潜んでいるのではないかということが翌週の討論では話題になりましたが、それは先週の授業のところで簡単に書くことにします。
◇
続いて先週の授業について。といっても水曜日の国際政治論特殊研究が休講だったので、木曜日の政治思想関係だけです。
<木曜日>
2限:政治思想論特殊研究
テキストは、Andrew Heywood, Political Theory: An Introduction, 3rd Edition, (Palgrave Macmillan, 2004)。今回から新しい章に入り、Chapter 4: Sovereignty, the Nation and SupranationalismのSovereignty (pp.89-97)を読みました。
前回の部分と比べればこの主権を取り扱った部分はまだ納得がいきました。この節のポイントは、①主権を法的主権と政治的主権に分けて考えること、②主権を対内主権と対外主権に分けて考えること、の二点です。
授業で問題になったのは、①の話です。著者によれば、法的主権とは「究極かつ最終の権威には国家の法に存する」という考えに基づくもので、それに対して政治的主権は法的主権に実効力を与えるものです。これは発表者の受け売りですが、やはり「主権」とはホッブズが言うように物理的には万人が平等であるにもかかわらず法的に至高の権力を作り出すというフィクションであって、この点こそが重要なのだと思います。
このフィクション性、そしてフィクションであり、それを誰もが認識しているにもかかわらず依然として重要な意味を持ち続けていることを押さえておくことが必要なのでしょう。
5限:プロジェクト科目I(政治思想研究)
先週の授業(「政治過程における情念の作用について」)を受けての討論でした。
討論を担当した後輩の議論になるほどと思い、そこに乗っかる形で少し話し過ぎてしまいました。さてその議論は、齋藤先生の議論には2つの異なる問題関心が混然一体となっているのではないかというものです。
1つは、現実の状況として「公共的領域においては感情の動員が常態として行われる」がゆえに、単に非合理的なものとして政治から感情・情念を排除するのではなくその作用を検討し、位置付けを明確にする必要があるということで、おそらくこの部分については授業参加者も納得していたと思います。
問題はもう1つの方で、それは、感情・情念を「理性との関係において、非理性的なものとしてとらえるのではなく、規範との関係において、損なわれた/充たされざる規範的期待を明示的/暗黙裡に表すもの としてとらえ返す」ことによって、政治過程において情念に積極的な役割を担わせるべきだという規範的主張です。この議論に対する反駁は様々な方向からありましたが、おそらく根本的なのは、上記の情念の定義は結局「理性」的なものに過ぎないのではないかということです。
つまり上記2つの問題関心が混ざってしまっているために、事実として重要かつこれまで注目されてこなかった前者と、正義論としてこれまでも展開されてきた後者の関係が分かりにくくなってしまっていることが問題なのではないかということです。
個人的には「情念」にこだわらずに、従来の正義論の枠内で議論を展開し、それを補強する際に「理性/情念」関係を引く程度でいいのではないかと思うのですが……。
いずれにしても、前回・今回の授業はとても面白かったです。
この間、首相の交代からW杯の開幕まで色々な出来事がありました。また色々と面白い研究を読んだり、新たに本を買ったり、久しぶりにある研究会で発表させて頂いたりと、ここに書いておきたいことも溜まっているのですが、まずは授業の話を処理しておくことにします(こんな個人的な授業記録でもそれなりに読む人がいるのだから不思議なものです)。
◇
既に今週の授業も終わっていますが、ひとまず先々週と先週の授業についてまとめておきます。まずは先々週の授業から。
<水曜日>
2限:国際政治論特殊研究
今回は、David A. Welch, Justice and the Genesis of War, (Cambridge: Cambridge University Press, 1993)の第4章(World War I)がテキストでした。
第一次大戦開戦にjustice motiveはどのように効いたのか。著者の評価は、紛争の条件付け(=中間要因)としてはvery Strong(7段階評価で上から2番目)、各国の参戦要因(=直接要因)としてはオーストリア=ハンガリー、セルビア、フランスはvery weak(下から2番目)、ロシアとドイツはmoderate(上から4番目[下からも4番目])、そしてイギリスはvery strongというものです。
比較的丁寧にテキストを検討したので、どちらかというと個々の細かな部分に議論が集中しました。また先生が戦争の背景を比較的詳しく解説したこともあって、疑問を持った点が全て議論になったわけではありませんが、本全体の理解に繋がるコメントがいくつか出てきた点が印象に残りました。
重要なのは紛争の条件付け(=中間要因)をめぐる評価で、ここにアルザス=ロレーヌ問題を持ってくるのが果たして適切なのかという点が議論になりました。紛争の種になり得るものは様々あるわけで、その中でどれに着目して議論を展開するのかが恣意的ではないかというのが、ここでのポイントだったのと思いますが、何分2週間前のことでメモを残していなかったので詳細を失念してしまいました。
あとはこの時期に関する最新の研究を追いかけている後輩の露仏関係に関する問題提起が興味深かったです。
<木曜日>
2限:政治思想論特殊研究
テキストは、Andrew Heywood, Political Theory: An Introduction, 3rd Edition, (Palgrave Macmillan, 2004), Chapter 3: Politics, Government and the Stateの「the State」の部分でした。
読み進めていくうちにテキストとしての欠陥が段々と明らかになってきたな、というのがこの数週間の参加者間での合意です。もっとも先生の意図は、それなりに定評ある教科書を検討しつつ、自分ならばどのように記述するか(≒教えるか)を検討することにあるようなので、それはそれでいいのかもしれません。
例のごとくこの節も三つの部分に分けられており、今回の部分は①政府と国家、②国家の諸理論、③国家の役割の三つです。これまでの章以上に、なぜこの部分でこの話が出てくるのか分からないと困惑させられたというのが率直な印象で、特に②の部分で、多元主義理論が「国家」の諸理論の一つとして紹介されたのには困惑してしまいました。
授業中の議論で興味深かったのは、ウェーバーの国家論の話です。どういった文脈で出てきたのかを正確に覚えていませんが、ポイントはウェーバーが「役割」から国家を論じているのではないということです。周知の通りウェーバーの国家の定義は「ある一定の領域内部で、正当な物理的暴力行使の独占を要求する共同体」というものです。こういった学部1年生で習う話はテキストとしては覚えているものの、そのコンテクストを忘れがちなので、これを改めて確認したのは良かったです(こんなレベルの話をしていてはまずいですね)。
正直、今回の部分はこれまで読んだ中でも一番出来が悪かったのではないかと思います。ひとまず今回はここまで。
<金曜日>
5限:リサーチ・セミナー
前回書くのを忘れましたが、4月から師匠主催のリサーチ・セミナーが始まりました。院ゼミが前期は開講されないので、それを補う意味もあって始まったものなのですが、参加者は院ゼミのメンバーだけではなく学部ゼミ出身で他大学の大学院に行かれた方や、昨年大学院に研究生としていらしていた社会人の方も参加する開かれた形で運営しています。参加者に求められるのは「知的貢献」のみ、適度な人数(10人前後)で自由闊達な議論が行われる心地いいセミナーです。
第1回は大西洋関係を研究する院ゼミの後輩の発表で、第2回の今回は他ゼミ所属の後輩が修士論文&博士課程での研究計画報告をしました。研究の詳細を書くのは控えますが、日本での研究が停滞しがちな1920年代のヨーロッパ国際政治史に関するもので、非常に知的刺激を受けました。
なぜか――本当になぜかという感じですが――今年新たに院ゼミに入ってきた二人の後輩の専門も戦間期ヨーロッパということもあって、議論のレベルがとても高かったのが印象的です。専門外ゆえに、先行研究動向はほとんど知りませんが、ザラ・スタイナーやサリー・マークス、エリック・ゴールドシュタインらの最新の研究を踏まえて展開される時代区分を巡る議論や問題意識の設定は非常に面白かったです。
どの時代を研究するにしても、どのような時代区分を取るかが実はとても大事な問題です。私のように歴史研究としてはかなり新しい時代を扱っている場合とは違い、戦間期ヨーロッパを考える場合は、既に主要な論点はある程度出尽くしているわけで、そうした研究を踏まえていかにオリジナリティのある視点を提示するかで勝負する後輩達の存在はとても刺激になります。
次回のリサーチ・セミナーでは私が発表させていただく予定です。
<土曜日>
5限:プロジェクト科目I(政治思想研究)
今回はゲストの先生の都合で土曜日に授業がありました。前回のゲストがあまりにひどかった反動というわけではなく、純粋にとても知的に刺激される面白い授業でした。
テーマは、「政治過程における情念の作用について」、課題文献に指定されていた①齋藤純一「感情と規範的期待――もう一つの公私区分の脱構築」井上達夫編『岩波講座哲学10 社会/公共性の哲学』(岩波書店、2009年)と②齋藤純一「政治的空間における理由と情念」『思想』(第1033号、2010年5月)の二つ、それから近々出版予定という③齋藤純一「公共的空間における政治的意思形成――代表とレトリック」齋藤純一編『公共性の政治理論』(ナカニシヤ出版、近刊)の内容をまとめたものということでした。
細かな議論は上記の参考文献の通りだと思うので割愛します。討議[熟議]民主主義にはあまり親近感が湧かない自分にとっても面白かったので、討議民主主義に関心がある人であれば必読なのではないでしょうか。
個人的に興味深かったのは、齋藤先生の提示する情念の捉え方です。それは「情念を、理性との関係において、非理性的なものとしてとらえるのではなく、規範との関係において、損なわれた/充たされざる規範的期待を明示的/暗黙裡に表すものとしてとらえ返す」というものです。
これを読んですぐに思い浮かんだのが、師匠の授業で読んでいるDavid A. Welch, Justice and the Genesis of War, (Cambridge: Cambridge University Press, 1993)におけるJusticeの定義です。ウェルチのJusticeの定義は以下の通りです。
justice motive = the drive to correct a perceived discrepancy between entitlement and benefit (p.19)
「本来与えられている権利と利益の認識された齟齬を是正しようとする衝動」といった訳になるのでしょうか。ポイントはperceivedとentitlementの二つの語があることです。もちろん「利益(benefit)」をどうするかといった細かな点で違いはありますが、捉え方はかなり近いもので、実際に先生に授業後確認してみたところ、この発表の議論は正義論として展開することも可能だというお答えでした。
じゃあ正義論として展開すればいいのではないかと思うのですが、それでは理性と表裏一体を成す情念を捉えることが出来ないというのが先生の答えなのだと思います。ここに、情念論を巡る問題が潜んでいるのではないかということが翌週の討論では話題になりましたが、それは先週の授業のところで簡単に書くことにします。
◇
続いて先週の授業について。といっても水曜日の国際政治論特殊研究が休講だったので、木曜日の政治思想関係だけです。
<木曜日>
2限:政治思想論特殊研究
テキストは、Andrew Heywood, Political Theory: An Introduction, 3rd Edition, (Palgrave Macmillan, 2004)。今回から新しい章に入り、Chapter 4: Sovereignty, the Nation and SupranationalismのSovereignty (pp.89-97)を読みました。
前回の部分と比べればこの主権を取り扱った部分はまだ納得がいきました。この節のポイントは、①主権を法的主権と政治的主権に分けて考えること、②主権を対内主権と対外主権に分けて考えること、の二点です。
授業で問題になったのは、①の話です。著者によれば、法的主権とは「究極かつ最終の権威には国家の法に存する」という考えに基づくもので、それに対して政治的主権は法的主権に実効力を与えるものです。これは発表者の受け売りですが、やはり「主権」とはホッブズが言うように物理的には万人が平等であるにもかかわらず法的に至高の権力を作り出すというフィクションであって、この点こそが重要なのだと思います。
このフィクション性、そしてフィクションであり、それを誰もが認識しているにもかかわらず依然として重要な意味を持ち続けていることを押さえておくことが必要なのでしょう。
5限:プロジェクト科目I(政治思想研究)
先週の授業(「政治過程における情念の作用について」)を受けての討論でした。
討論を担当した後輩の議論になるほどと思い、そこに乗っかる形で少し話し過ぎてしまいました。さてその議論は、齋藤先生の議論には2つの異なる問題関心が混然一体となっているのではないかというものです。
1つは、現実の状況として「公共的領域においては感情の動員が常態として行われる」がゆえに、単に非合理的なものとして政治から感情・情念を排除するのではなくその作用を検討し、位置付けを明確にする必要があるということで、おそらくこの部分については授業参加者も納得していたと思います。
問題はもう1つの方で、それは、感情・情念を「理性との関係において、非理性的なものとしてとらえるのではなく、規範との関係において、損なわれた/充たされざる規範的期待を明示的/暗黙裡に表すもの としてとらえ返す」ことによって、政治過程において情念に積極的な役割を担わせるべきだという規範的主張です。この議論に対する反駁は様々な方向からありましたが、おそらく根本的なのは、上記の情念の定義は結局「理性」的なものに過ぎないのではないかということです。
つまり上記2つの問題関心が混ざってしまっているために、事実として重要かつこれまで注目されてこなかった前者と、正義論としてこれまでも展開されてきた後者の関係が分かりにくくなってしまっていることが問題なのではないかということです。
個人的には「情念」にこだわらずに、従来の正義論の枠内で議論を展開し、それを補強する際に「理性/情念」関係を引く程度でいいのではないかと思うのですが……。
いずれにしても、前回・今回の授業はとても面白かったです。