2010年05月

2010年05月31日

先週の授業(5月第4週)

久しぶりに優勝がかかった早慶戦、サッカー日本代表などなど、昨日はスポーツが色々ありましたが、個人的にはやはり日本ダービーが一番の注目でした。結果は、ご存知の通り伏兵エイシンフラッシュが、低評価の3歳王者ローズキングダムとの叩き合いを制して勝利。

日本ダービーが終わると、よしこれでまた新しい一年が始まるな、という気分になります。毎年のことではありますが、誕生日の直前にダービーがあるため、誕生日を迎えてもあまり新しい一年が始まる気がしません。

さて、そんなダービーは、超スローペースで流れたために、絵に描いたような「よーいドン」の競馬になってしまいました。こうなれば、距離に不安があっても切れ味がある馬が勝つというものです。ダノンシャンティの出走取り消しもあり、どの馬が本当に強いのかはよく分からないまま終わってしまったのはやや残念です。



前回のエントリーで備忘録代わりに書いた本の話に、大事な本を書き忘れていました。

fujiwara

藤原帰一先生の『新編 平和のリアリズム』(岩波現代文庫、2010年)です。新書を読み漁る前に読み終えていました。数頁の短いものも含めて、毎日一つずつ論文・論評を読み進めていたので、読み終えるまでは思いのほか日数がかかってしまいました。

新版の売りは何と言っても、「軍と警察」「帝国は国境を超える」「忘れられた人々」といった学術論文が収録されたことでしょう。

残念ながら東大社研のプロジェクト(『現代日本社会』『20世紀システム』)関連の論文は収録されていませんが、これらはどちらかと言えば歴史的視座に立って冷戦期の国際政治を検討しているものが多く、そのエッセンスは本書に収録された論考に含まれているとも言えます。

いずれにしても、この20年近くの間に著者が書いてきた国際政治論を大掴みに一冊で読めるというとてもお得な本になっています。

フィリピンという冷戦の「中心」ではなく、その影響を強く受ける「周縁」地域の研究からスタートした著者ならではの視点は、ウェスタッドがThe Global Cold War: Third World Intervention and the Making of Our Times, (Cambridge; New York: Cambridge University Press, 2005)で主張し、話題になった見方を先取りしており、日本の国際政治史家は、ウェスタッドを引く前に藤原先生の見方をもう少し検討した方がいいのではないでしょうか。

とはいえ、冷戦の影響がグローバルにあったということ、そして第三世界の出来事が米ソ対立にも影響したということはあるとしても、それが「冷戦史」なのか冷戦も重要な構成要素である「国際関係史」なのかはより慎重に考えられるべきなのだと思います。

閑話休題。そんなわけで、なかなかお得な一冊に仕上がっている『新編 平和のリアリズム』ですが、あくまで論文集は論文集なので、出来ればこの本で展開した議論を一冊の研究書としてまとめて欲しいものだなと思ってしまいます。



以上、前回の補遺を書きましたが、既に竹中治堅『参議院とは何か』、篠原初枝『国際連盟』は読み終えました。これらの本の話はまたそのうちに。



忘れない内に先週の授業について。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊研究

Welch2

今回は、↑の著者であるDavid A. Welch先生がゲスト・スピーカーでした。先生自身の学部時代からの関心、本の成り立ち、キーになる議論とコンセプトの紹介、プロスペクト理論などを採り入れた自身のその後の研究との差異などを概観といったのが大きな流れで、あとの1時間ほどはフリー・ディスカッションでした。

質問が途切れることがなく続いたため、議論になった点は多岐にわたりましたが、印象に残った点を一つだけ。それは、「自分の研究には従属変数はない」と言いきっていたことです。これには強いこだわりがあるようで、授業中に何度も繰り返していました。「自分がやっていることは過程追跡と事例研究」であり、この本でやっているのもそうだと言うのです。北米流の国際関係論と言うと、独立変数と従属変数、場合によっては媒介変数を設定し、仮説を立てて、それを論証していくのが普通だと考えてしまいますが、確かに本の中でも「変数」という言葉は出てこなかった気がします。この辺りのこだわりが、主流の理論ではなく政治心理学のアプローチを採ることにも繋がっているのかもしれません。

<木曜日>

2限:政治思想論特殊研究

Heywood

テキストは、Andrew Heywood, Political Theory: An Introduction, 3rd Edition, (Palgrave Macmillan, 2004), Chapter 3: Politics, Government and the Stateの「Government」の部分でした。

履修申告もしていない他分野の授業なのですが、なぜか発表担当になってしまい、冷や冷やしながらの発表となってしまいました。問題は専門外ということではなく、テキストをざっと読みながらレジュメを作ってしまったので、一度しかテキストを読んでいなかったということです。大筋で間違っていたところは無いと思いますが、「medieval」を「mediterranian」と読み間違えたり、「Tolstoy」を「Trotsky」と読み間違えたり(自分でも変だなと思ったのですが)、そんな細かなミスが残ってしまったのはよく無かったなと反省しています。

さて肝心のテキストの内容ですが、これがかなり不満が残るものでした。

一般に現代政治理論では「政府」や「統治」という視点は軽視されがちです。それは、「20世紀の政治学は、政治を国家との関係から切り離して、広く社会全般に存在しているとする政治観を発展させてきた」からだと説明されます(川崎修、杉田敦編『現代政治理論』有斐閣アルマ、2006年、4頁)。それは確かに理解できなくもないですが、ここで言う「政治学」とはあくまで政治理論であって、政府の役割を前提とする経験科学的な政治学(行政学、政治過程論、国際政治学など)も存在するわけで、これらの領域と現代政治理論に埋めがたい差が生まれているのは否定できないと思います。これはもちろん政治理論の側だけに問題があるわけではありませんが、一方で政治理論のある種の「弱さ」にも繋がっているのではないでしょうか。こうした中で、本書が政治理論の教科書としてGovernment(政府、統治、政治体制)をわざわざ取り上げているのはとても意義があることです。

しかし、問題はその取り上げ方です。この節で取り上げられるのは、①なぜGovernmentが必要か、②Governmentはどのように分類できるか、③Governmentと社会の関係ですが、このように書けば連関しているかに見られる各節が全く連関していないのです。また、政治体制の分類をする部分で、日本が市民的自由よりも成長を重視する開発独裁国家の典型のように書かれていたり、びっくりするような記述も散見されます。また、国家の福祉国家化や、国家の正統性といった重要な部分もここでは取り上げられません。

日本の書き方の問題はともかくとして、他の二つの問題は本書全体に共通する問題に繋がるものです。それは、本書が教科書という体裁を取りながら、実態は「政治理論事典」に近いというものです。それを無理やり、一冊の教科書のようにまとめているがゆえに、重要な情報が色々な部分に拡散し、さらに節ごとの繋がりがないという問題を引き起こしているのだと思います。

そんな不満を感じさせるテキストではありますが、勉強にはなるので、引き続き読み進めていくことにします。

5限:プロジェクト科目I(政治思想研究)

先週の授業を受けての討論でした。院生の発表は、先週の報告ではなく、課題文献に焦点が当てられていましたが、それはやはり先週の報告にまとまりが欠けていたからなのでしょうか。

もっとも討論が進むに連れて議論の焦点は先週の報告に移って行きました。個人的な収穫は議論をしている中で、課題文献で提示される考え方から導かれる「保守性」(これは別に悪い意味ではありません)が析出されてきたことです。

先週の報告には大きな不満があったために、前々回のエントリーでは触れませんでしたが、課題文献はそれなりに面白く読んでいました。社会・国家・市場の関係を考察した課題文献は、これらがそれぞれ独立して存在しているわけではなく、相互に影響し、どれだけが悪いと糾弾出来るようなものではないという点を丁寧に明らかにしているものです。このような議論は正しいと思いますが、しかし同時に、何が悪いと理論的に指摘できないが故に、現状の「打破」よりも不十分でも「秩序」を肯定する方向に議論が繋がりうるものです。もちろん、著者の先生は、そうではないと否定すると思いますが、それでも議論に潜む方向性が「革命的」でないことは間違いないと思います。

そんな収穫はあったものの……と色々書きたいことがあるのですが、これ以上書くとイライラしそうなので、ひとまず止めておきます。ただ一つ重要だと思うのは、「左」だろうと「右」だろうとそんなことはどうでもよくて、現実の政治を議論するのであれば、ちゃんと事実と背景を押さえて議論をするのが、少なくとも「政治学者」の務めだろうということです。


black_ships at 11:53|PermalinkComments(0) ゼミ&大学院授業 | 本の話

2010年05月25日

見事な大外一気(NHKマイルカップ)/本の話(備忘録)

いよいよ今週末にダービーということで、春のGIシーズンもいよいよ盛り上がって来ました。

さて、遅ればせながらという感じは否めませんが、見事な大外一気(※読み方は「オオソトイッキ」)が決まったNHKマイルカップの動画をアップしておきます。4コーナー(1分5秒辺り)ではほぼしんがりにいるダノンシャンティ(13番)の追い込みは素晴らしいです。



まだまだ二コーナー辺りをうろうろしている大学院生活でも大外一気を決めたいものです。



先週から寝かせていた論文執筆を再開し、手許にある資料や外交史料館での資料調査を進める日々を送っています。自分の研究に取り掛かると時間が無くなるはずが、なぜだか読書量も増えていくというのが不思議です。

備忘録代わりに以下、この1週間で読んだ本と購入した本を挙げておきます(版元情報があるものは画像にリンクを貼ってあります)。

最近は新書がなかなか豊作です。

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画像がややぼやけていますが、帯の「希望」売りがヒントになるかもしれません。宇野重規先生の新著『〈私〉時代のデモクラシー』(岩波新書、2010年)です。昨晩読み始めて今朝読了。

サリンジャーがあれだけ昔から読まれているのだから、〈私〉の時代が最近始まったわけではないだろうと、斜に構えて読み始めたのですが、論旨明快、(昔から存在していたかもしれないけれども)「いま」の時代に顕在化したと言われる悩みをクリアに解きほぐしている好著だと思います。この本に「答え」を求めると、何だ最後は精神論か、と落胆してしまうかもしれませんが、それでいいんだろうなというのが個人的な感想です。

考え方や生き方が古臭く、「再帰的近代化」とか「ポストモダン」とかが体質的に合わない私自身は全く抱えていない問題の数々をいかに現代の社会思想・政治思想が考えてきたのかが整理されているので勉強になりました。読んで良かったとは思うものの、依然として斜に構えたままです(笑)。

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研究の合間に先週後半読んでいたのが瀧井一博『伊藤博文――知の政治家』(中公新書、2010年)です。伊藤之雄先生を中心に進められていた伊藤博文リビジョニズムの最後を飾る一冊という位置付けになるのでしょうか。

これ一冊で伊藤の生涯が見えるわけでも、伊藤を通して明治の政治史が分かるわけではないという点では、やや玄人向けの本で新書という媒体が合っていたのかは分かりませんし、この時代を専門に研究されている方がどのように評価されるのかは分かりませんが、伊藤の「政治思想」を抽出という本の目的は見事に成功しているように思います。

本書を通して強調されるのは、伊藤の「漸進主義」と、科学的思考の強さです。それゆえ、国内でも朝鮮半島でも伊藤はナショナリズムに苦労させられることになるわけで、この辺りが読んでいて面白かったです。本書が描き出す、上滑りの「理想主義」でも現状追認の「現実主義」でもない伊藤の姿は確かに「知の政治家」なのでしょう。

国内政治の議論をしている部分で強調される「漸進主義」はよく理解出来ましたが、国内政治の議論の延長として「外交」を論じているのは若干気になりました。当時の「外交」はむしろ他の列強に向けて行われたもので、本書が取り上げている中国や朝鮮半島との関係は果たして「外交」だったのでしょうか。

戦前の日本政治史はほぼ趣味で読んでいるだけなので、この本に専門家がどういった反応を示すのか興味があります。

新書が飽和状態になり、やや軽めの本が増えつつある中で、読み応えがあるものを出し続けている中公新書の存在は大きいと再確認しました。

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そんな中公新書の今月の新刊を早速購入しました。篠原初枝『国際連盟――世界平和の夢と挫折』(中公新書、2010年)です。合わせて同じ出版社の竹中治堅『参議院とは何か――1947~2010』(中公叢書、2010年)も購入。

『国際連盟』は、大学院の後輩に戦間期のヨーロッパ外交を研究している後輩が何人もいるので、彼らの感想も聞いてみたいところではありますが、その前に自分で読まなければと思う一冊です。この数年の出版事情で言うと岩波書店から『国際連合』が出ていますが、その中で中公からは『国際連盟』が出るというのが渋いですね。

後輩がよく言っているのが、戦間期という時代の面白さです。戦争が終わり、そして戦争が始まる、同盟関係も固定的ではないという戦間期は確かに面白いと思いますが、そうした不安定な時代ゆえに、なかなか見通しが掴めない気もします。国際連盟の夢と挫折が戦間期という時代の中でどれだけの意味を持っていたのか、そんなことを考えながら読み進めたいと思います。

竹中治堅先生の『参議院とは何か』は、満を持しての刊行ということになるのでしょうか。本を手に取り、学部時代に慶應に授業に来ていた際も参議院の役割についてしばしば強調されていたことを思い出しました。政治学者が一人で書く通史的研究は、非常に重要だと思うのですが、日本ではなかなか目にすることがありません。『年報政治学二〇〇四』に掲載された論文以来、ずっと竹中先生の参議院研究を追いかけてきただけに、これは読むのが非常に楽しみです。

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と、こんな感じで研究に関係ないものばかり読んでいるのもまずいので、毎日少しずつ国際関係論の勉強を進めています。色々と基礎的な知識を勉強した思い出があるInternational Political Economy: Perspectives on Global Power and Wealth, 4th Edition, (London: Routledge, 2000)の編著者であるJeffry A. FriedenとDavid A. Lakeに、Kenneth A. Schultzを加えて書かれた教科書World Politics: Interests, Interactions, Institutions, (New York: W.W.Norton, 2010)、これが素晴らしい出来です。

以前にブログで紹介したJoseph S Nye, jr, and David A. Welch, Understanding Global Conflict and Cooperation, 8th Edition, (New York: Pearson Longman, 2010)[『国際紛争』第8版]も素晴らしい出来の教科書ですが、最新の研究動向や理論を押さえているという点ではWorld Politics の方が格段に優れているような気がします。といってもまだChapter3までしか読んでいませんので、確定的なことは言えませんが。

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国際関係の勉強では、先週某所で話を聞く機会があった小川和久氏の新著『この一冊ですべてわかる 普天間問題』(ビジネス社)を土曜日に一気に読みました。約1時間で普天間問題の背景が理解出来る、というのがこの本の売りだと思いますが、その役割は十分に果たしてくれる本だと思います。普天間問題そのものだけでなく、その背景にある在日米軍基地全体の問題、日米同盟、日本の安全保障政策について、語り下ろし形式で書かれており、少しでもこの問題に関心があるのであれば読んで損は無いです。(というか、偉そうに上から「鳩山さんが、国民の間でこの問題が議論される素地を作った点は評価されるべきだ」とか言う人にまず読んでほしい)

これが面白かったので、ついでに『日本の戦争力』(新潮文庫、2009年)、『在日米軍――軍事占領40年目の戦慄』(講談社文庫、1987年[絶版])も購入してしまいました。小川氏の議論には批判があることも承知していますが、最低限押さえておくべき事実と数字を踏まえた立論はとても勉強になるので、空いた時間に読み進めていくことにします。



と、こんなことを書いている内に昼休みが終了してしまいました。


black_ships at 12:58|PermalinkComments(0) 日々の戯れ言 | 本の話

2010年05月22日

今週の授業(5月第3週)

先週の土曜日は戦後日本外交史の研究会に参加、月曜日はあるプロジェクトの研究会で報告、木曜日は日米関係に関するプロジェクトの研究会に参加と、授業や自分の研究以外に時間を割かれ、気が付けば、もう一週間経ってしまいました。



疲労が溜まっているのか、うまく文章がまとまりませんが、とりあえず授業記録を更新しておきます。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊研究

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今回は、David A. Welch, Justice and the Genesis of War, (Cambridge: Cambridge University Press, 1993)の第3章(The Franco-Prussian War)がテキストでした。

前回のクリミア戦争は、justice motiveが「効いた」という事例でしたが、今回の普仏戦争は逆に「効いていない」という事例でした。著者の評価では、justice motiveはフランスにとってはWeak(下から三番目:他の要因の方が重要だが、ある程度は「効いた」)で、プロシアにとってはImperceptible(一番下:まったく効いていない)ということなので、本全体にとっては、分析概念としてのjustice motiveの限界がどこにあるのかを示す意味では重要なのですが、この章だけを取り上げて読むのはやや難しいかなという印象でした。

それゆえ、授業での議論は、普仏戦争そのものというよりは、本全体の射程やjustice motiveの定義の確認といった部分になってしまいました。

次回は著者のWelch先生がゲストにいらっしゃるということで、どんな議論になるのかが今から楽しみです。

<木曜日>

2限:政治思想論特殊研究

Heywood

テキストは、Andrew Heywood, Political Theory: An Introduction, 3rd Edition, (Palgrave Macmillan, 2004), Chapter 3: Politics, Government and the Stateということで、ようやく新しい章に入りましたが、今回の範囲はPolitics(pp.52-64)まで。

この節は、①統治の技法、②公共に関する事柄、③権力と資源、という三つに分けられています。この直訳した三つの見出しを挙げただけでは、何が問題になっているのか全く分からないと思いますが、要は「政治」の範囲の話です。最も狭いのが「統治」としてのみ政治を考える場合(=①)、もう少し広く捉えればプライベートと区別される公共空間の問題として政治を考える場合(=②)、そして一番広い場合はプライベートな部分までも政治の問題として考えられる(=③)、ということです。

議論で話題になったのは、アリストテレス、アレント、シュミットといった個々の思想家の取り上げ方ですが、個人的には日本の一般的な政治理論の教科書とは異なり「統治」の話が含まれている点が興味深かったです。この点については、次回がGovernmentの節なので、その時に書くことにします。

5限:プロジェクト科目I(政治思想研究)

久しぶりに恐ろしくフラストレーションが溜まる授業でした。

課題文献は、①杉田敦「社会は存在するか」『岩波講座 哲学 10社会/公共性の哲学』(岩波書店、2009年)、②杉田敦「社会統合の境界線」齋藤純一・編『自由への問い1 社会統合――自由の相互承認に向けて』(岩波書店、2009年)、③杉田敦「解説――丸山眞男という多面体」丸山眞男(杉田敦・編)『丸山眞男セレクション』(平凡社ライブラリー、2010年)、の三つ。演題は、「政治主義の陥穽」でした。

演題からも想像出来るように、丸山眞男の「「現実」主義の陥穽」を意識しつつ、政権交代後の政治情勢を引きながら「政治主導」「現実主義」「「現実」を狭める要因」「政治の限界」をそれぞれ論じていく形で講義が行われました。

フラストレーションが溜まったのは、普天間基地移設問題が、極めて不正確なイメージ(「認識」ともいえないレベル)で、しばしば引かれ、質疑応答でも話題に上っていたからです。なぜ普天間なのか、なぜそれがいま問題になっているのか、そもそもなぜ基地が沖縄に置かれているのか、そしてそれにはどのような意義と問題があるのか。こうした重要な問題を具体的に一切話さずに、本土の沖縄に対する「差別」意識として論じているのには唖然としてしまいました。それだけならまだしも「普天間は海兵隊の訓練基地だから、それを動かすくらい出来るはず」というどこで仕入れたのかよく分からない怪しい話をしてみたり、とにかく何も問題が分かっていないということだけが分かる、という講義でした。

にもかかわらず、上から目線で「鳩山さんが、国民の間でこの問題が議論される素地を作った点は評価されるべきだ」と言われたのには絶句しました。

かつては日米安保条約と自衛隊にただ反対を唱えていれば良かった、それがいまは日米安保条約と自衛隊はいいがその在り方を問題にする、というのが「リベラル派」が多い思想業界でもマジョリティになりつつあるように思います。この辺りは時代の潮流であるとともに、藤原帰一先生の論考などの影響力があるのでしょうか。

問題は、かつての日米同盟&自衛隊反対論は、その先に「中立日本」という「あるべき姿」があり、それが坂本義和先生の議論などによってそれなりに裏付けられていたのに対し、いまのリベラルはきちんとした議論による裏付けなしに日米同盟と自衛隊の存在をなし崩しに「肯定(否定しないといった方が正確かもしれません)」し、その在り方を床屋政談レベルの知識で論じていることです。

現実政治への批判的な視座を持ち、そこからこぼれ落ちがちな「境界線」の問題を指摘することは重要だと思いますし共感しますが、いざ具体的な問題を論じる際に、基本的な事実関係や専門家の存在を無視した印象論で「政策」を安易に論じてしまうことには、驚きを禁じえませんでした。

ここまでは、普天間移設問題しか取り上げませんでしたが、他にもイギリスの自民党(Lib Dems)について話した際にも「向こうの新聞を読むと」と訳知り顔で話していた内容があまりにも表面的で驚いてしまいました。自民党の得票率が伸びていること自体は今回の選挙に始まったことではありませんし、合流前の自由党と社会民主党の選挙連合の得票率が80年代における得票率がかなり高かったことなどは少し調べればすぐに分かる話です。

政治思想を政治思想として論じるならともかく、現実政治について発言するのであれば、印象論ではなくもっと知的に真摯にデータや政策決定過程のあり方を調べた上で話して欲しいものです。

議論の質、知的な真摯さ、スピーカーとしてのスタンスの全てにおいてこれだけ苛立ちを覚えたのは久しぶりのことです。専門領域における業績が評価されている人で、授業にも期待していただけにとても残念でなりません。

とまあ、こんな感じでかなりストレスフルな時間だったので、来週の授業(院生による討論を受けての議論)の際にこの気持ちが悪い方向に作用しないように気を付けたいと思います。


black_ships at 17:56|PermalinkComments(0) ゼミ&大学院授業 

2010年05月19日

先々週&先週の授業(5月第1週&5月第2週)

色々とやることに追われ、といういつもの言い訳だけではなく、ゴールデン・ウィーク中にイタリア映画祭に何回か行ってみたり、友人達と河口湖に行ってみたりと休んでいるうちに更新が滞ってしましました。

既に今週の授業が今日あったのですが、まずは滞っていた分を更新しておくことにします。



今回はやや変則的に、先々週と先週の授業をまとめて記録しておきます。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊研究

Welch2

先々週は「昭和の日」で授業は無し、先週は、David A. Welch, Justice and the Genesis of War, (Cambridge: Cambridge University Press, 1993)の第2章(The Crimean War)がテキストでした。

クリミア戦争の分析に際して取り上げられるのは、ロシア、トルコ、イギリス、フランスの四ヶ国で、焦点になるのはロシアです。この四ヶ国がクリミア戦争に参戦した要因を説明するのに、どれだけjustice motiveが効いたのか。ロシアはConclusive、トルコはWeak、イギリスはModerate、フランスはVery weakというのが著者の評価です。

この評価基準に関する説明を以前のエントリーでは省略してしまったので、ざっと並べておくと、Conclusive、Very storong、Strong、Moderate、Weak、Very weak、Imperceptibleという順番です(詳しくは本書の40頁参照)。

この章のポイントとなるのは、ロシアの動機としてjustice motiveがConclusiveだったと評価している点です。Conclusiveという評価は、「他の要因は見当たらず、justice motiveは圧倒的に戦争の原因に影響を与えた」という極めて強いものです。

本当にそこまで言えるのかというのが授業での議論の中心で、討論者はあえてリアリスト的な観点からロシアの行動を説明するという形で議論をしていました。

落ち着いた筆致が印象的だったPainful Choices と比べると若干筆が滑っているなというのが率直な感想で、この部分もConclusiveではなくVery Strongくらいにしておけば、あまり反論も無かったような気がします。

中身の具体的な説明をしようと思うと、背景説明をする必要が出てきて面倒なので、ひとまずここまで。

<木曜日>

2限:政治思想論特殊研究

Heywood

テキストは、Andrew Heywood, Political Theory: An Introduction, 3rd Edition, (Palgrave Macmillan, 2004), Chapter 2: Human Nature, the Individual, and Societyで、先々週はthe Individual(pp.26-40)、先週はSociety(pp.40-49)でした。

この本は実にシンプルな構成で、各章の表題には必ず三つの概念――第2章はHuman Natureとthe IndividualとSociety――が挙げられており、それがそのまま各節となります。そしてその概念について、さらにいくつかに分けて、関連する論者を挙げながら概説していくというスタイルが貫かれています。

the Individualの節では、①個人主義、②個人とコミュニティ、③政治における個人が、Societyの節では、①コレクティヴィズム、②社会の理論、③社会的亀裂とアイデンティティをそれぞれ検討しています。

(蛇足ですが、どうもcollectivismを集産主義と訳すと変なニュアンスがある気がして仕方がありません。)

二回の授業を通じて議論になったのが、著者の個人主義(individualism)の捉え方で、それが(規範としての)政治的個人主義と方法論的個人主義を混同しているのではないかということです。これは確かにと思う部分がいくつかあり、著者の議論を素直に読んでいると、方法論的個人主義を取れば必ず政治的個人主義になるかのように、またその逆に方法論的にコレクティヴィズムを取れば政治的にもコレクティヴィズムになるかのように読める箇所がいくつかありました。

この批判はとりわけ先生が強く言っていて、なるほどと思う一方で、外交史や国際政治学を研究をしている立場からは若干の留保を付けたくなるもので、いくつか発言をしました。

というのも、国際政治を検討する際に中心となるアクターは「国家」だからです。もちろんアクターが多元化しているといったことは指摘されるにせよ、中心的かつ圧倒的に影響力が大きなアクターは「国家」です。では、その「国家」の行動を説明対象とする場合は、方法論的に個人主義なのかそれともコレクティヴィズムなのかというのは大きな問題です。国際政治学(というよりも国際関係論)では、国際システムか国家かという形で定式化される問題ですが、「国家」というまとまりを一つのアクターとして仮定している時点で方法論的に厳密な個人主義にはなり得ないわけです。

こんなことを頭の中で考えていてもあまり意味はないかもしれませんが、具体的に外交交渉や国際政治の問題が国内社会に影響を与える場合などを考える時には、この問題は詰めておく必要があるのかもしれません。

5限:プロジェクト科目I(政治思想研究)

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先々週の授業は、『ホッブズ 人為と自然――自由意思論争から政治思想へ』(創文社、2010年)を刊行されたばかりの川添美央子先生がゲストでした。そして、先週は報告を受けての院生の討論……のはずが、討論の週も先生ご登場、さらに報告者の一人が授業中に倒れるというかなり波乱含みの授業となりました。

川添先生の報告は、参加者が課題書を読んでいるという前提で「『ホッブズ 人為と自然』 その背景――スアレス、デカルト、ホッブズ――」と題して行われました。本ではそれほど詳しく書かなかったホッブズの思想史位置をスアレスとデカルトを取り上げることをとして明らかにするというもので、この本の思想史的意義が実はいまいち分からなかった私にとってはとても興味深い報告でした。

授業の際の質疑応答で話題になったことは、本の中心的なテーゼであるホッブズの中で「契約」よりも「制作」が重要な契機であるという主張や、「第三者的理性」の意義、ホッブズを「近代への過渡期の思想家」として意義づけている点などでした。

授業での報告で、スアレスというホッブズ以前の思想家、そしてデカルトという同時代の思想家との関係が詳しく紹介されたことで、ホッブズの思想がどのような文脈の中で形成されたのかということはそれなりに分かりましたが、やはり疑問に残ったのは、それではそのホッブズの思想(哲学)史的な新しさは、その後の時代の流れの中ではどのように意義づけることが出来るのかということです。

この点と、『創文』2010年4月号の論考(「『リヴァイアサン』の光と闇――『ホッブズ 人為と自然』によせて――」)でホッブズ思想の光として強調されている「第三者的理性」の話を、より詳しく先週の授業で聞こうと思ったのですが、報告者の院生が倒れるというアクシデントにより聞くチャンスを逃してしまいました。

『ホッブズ 人為と自然』については、その内に『創文』で特集が組まれるのを期待しつつ、自分の感想は温めておくことにします。


black_ships at 16:15|PermalinkComments(0) ゼミ&大学院授業 | 本の話