2010年04月

2010年04月29日

日経の「交遊抄」

今日の日経の「交遊抄」(「私の履歴書」の下にあります)、日本外交史研究者なら意外な組み合わせに驚くと思います。

black_ships at 21:14|PermalinkComments(0) 日々の戯れ言 

2010年04月28日

今週の授業(4月第5週)

忘れない内に今週の授業について更新、といっても明日が祝日なので今週は今日あった1コマだけです。



<水曜日>

2 限:国際政治論特殊研究

Welch2

今週は、David A. Welch, Justice and the Genesis of War, (Cambridge: Cambridge University Press, 1993) の第1章(The Justice Motive and War)の残っている部分(pp.22-47)をやりました。

先週も書いたとおり、第1章では①問題意識の説明、②仮説の提示、③論証方法、④予想される反論への回答、がそれぞれ書かれています。今週は②③④が範囲です。正確に言えば、②の前に、なぜjustice motive をキー・コンセプトとして論じることに意味があるのかが書かれていますが、ここは問題意識の部分とかなり重なるので割愛します。

さて本書の仮説は何かということですが、これは重要なので紹介しておく必要があるでしょう(訳は後輩のレジュメが簡潔にまとまっていたので、それを参考にしつつ、日本語になりにくい冠詞は一部省いています)。31頁に挙げられている仮説は以下の6つです。

評価(Valuation)については、

仮説1:アクターが、ある価値を本来与えられている権利(entitlement)と考えているのであれば、戦略的・経済的利益以上にそれを高く評価する。

過程(Process)については、

仮説2:もしアクターが、justice を動機とするならば、本来与えられている権利(enetitlements)と実際に得ている利益(assets)との間の均衡を取るために、賭けに出る。
仮説3:もしアクターが、injustice な状態に置かれていると認識するならば、新たな情報や価値の妥協には関心を示さず、アメとムチを用いた交渉・説得にも応じなくなる。
仮説4:justice motive がアクターの解釈・認識に影響を及ぼすことによって、判断の誤りが増える。

行動(Behavior)については、

仮説5:アクターがjustice を求めて行動すると、その要求が絶対的であるために、妥協的な紛争解決の手段を進んで見出そうとしなくなる。
仮説6:アクターがjustice を求めて行動すると、他の国家が同じ利益を得る場合でも、それが本来与えられている権利(enetitlement)の回復を求めている時にはより寛容的に、それが自国の本来与えられている権利(enetitlement)を侵そうとする時にはより非寛容的になる。

ということが、それぞれ仮説として提示されています。

この本のポイントは、事例研究をパッと読めば分かるように、これは文字通り「仮説」であって、この仮説に当てはまらない事例も数多く取り上げられているということです。本論での分析が見事な仮説の検証作業になっているのは、昨年院ゼミで読んだPainful Choices と同様であり、これがWelch の研究の真摯な点かつ読んでいて面白い点です。

以上の仮説を提示した上で、ではどのケースを選択するのかということが説明されています(pp.32-37)。個人的にはこの部分がなかなか面白かったです。まず、本書が検討する「戦争」は大国(Great Power)が関与した戦争であることが説明され、その上で①資料がそれなりにあること、②いままでその原因がリアリズムから説明されてきたこと、の2つを判断基準として掲げられます。その結果として取り上げられるのは、クリミア戦争(1853-56年)、普仏戦争(1870-71年)、第一次世界大戦(1914-1918)、第二次世界大戦(1939-45)、フォークランド/マルヴィナス戦争(1982)です。

本当にこの事例選択が正しいかどうかは別として、説明の仕方がうまいなと感心させられます。特に、justice motive ということ絶対視しないことによって、逆にこれまでリアリズム的に説明されてきた戦争を検討する場、この議論の意義が伝わるだろうという辺りは、なるほどと思います。

事例選択に続いて実証方法や依拠する資料について説明がされますが(pp.37-40)、この部分は歴史を専門にしているとやや違和感があるかもしれません。が、説明が面倒なのでここは割愛します。

最後が、予想される反論にあらかじめ答えておくというもので(pp.40-47)、これもPainful Choices と同じです。ここでは7つの「反論」が挙げられていますが、この「反論」答え方も実にうまいです。7つと言っても大きく2つに分けられるというのが発表した後輩の説明で、私も基本的にそう読みました。

1つは、ざっくりまとめれば「justice motive と他の要因とを区別出来るのか」ということで、これに対する答えも同じくざっくりまとめれば「具体的にケース・スタディをやってみなければその反論が正しいかどうかも分からない」ということです。

もう1つは、「justice motive が他の要因と比べて重要だとなぜ言えるのか」ということで、これは定性的研究に対するお決まりの批判の1つだと思います。この「反論」に対する答えは、「相関関係≠因果関係」ということです。一般論に対して一般論で答えているのでややずるいような気もしますが、この見方は基本的に正しいのだと思います。

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この部分に関する発表者と先生の間の議論を聞いていて、思い出したのが先月読んでいた多湖淳先生の『武力行使の政治学――単独と多角をめぐる国際政治とアメリカ国内政治』(千倉書房、2010年)です。この本は、定量的分析と定性的分析を組み合わせて、第二次大戦後のアメリカの武力行使についてその要因分析をした研究書でとても読み応えがあるのですが、その定量と定性の組み合わせ方が「相関関係≠因果関係」ということを強く意識したもので、それをふと思い出しました。

いま手許に本が無いのでうろ覚えなのですが、基本的には、定性的分析によって導き出せる相関関係はある仮説が正しくないということは言えるが、その仮説や仮説間の因果関係を明らかにするためには過程追跡(process-tracing)が必要であり、そのために事例分析が必要だ、ということだったと思います。実際にこの本では、アメリカの武力行使の要因として10個の仮説を提示し、さらに4つの武力行使について詳細な事例分析を行っています。

Justice and the Genesis of War では定量的な分析は行われていないものの、その意識や方法論の部分では通じるものがあるのかもしれません。というよりも良質な国際関係論の研究であれば、当然の前提なのでしょうか。

最後は話が若干ずれてしまいましたが、今週の授業で取り上げたのは大体こんなところです。授業ではこの他に、時代によって異なる指導者の認識を一貫した枠組みで捉えることが出来るのか、挙げられている事例以外に仮説を検討するのにふさわしい事例があるのか、キー・コンセプトである「Justice」をどう翻訳するか、といったことも議論になりました。

次回はゴールデン・ウィーク明けで、クリミア戦争の章を読む予定です。

black_ships at 17:49|PermalinkComments(0) ゼミ&大学院授業 | 本の話

2010年04月23日

堂目卓生「経済学の基礎としての人間研究」

テープ起こしに疲れたので、気分転換を兼ねて昨日の残りを更新しておきます。



5限:プロジェクト科目I(政治思想研究)

前週の報告(「経済学の基礎としての人間研究:学史的考察」)を受けての討論を担当しました。発表者がいない授業での討論(≒欠席裁判)ということで、やや論争的に討論原稿を作成してみました。原稿は↓に載せておきます。

堂目先生の報告内容のエッセンスは、「人間学としての経済学」という形で『Foresight』誌2009年8月号~2010年4月号までに連載されているので、ご関心がある方はそちらを見て頂ければと思います(ライオネル・ロビンズの部分は掲載されませんでしたが……ここにも休刊の余波が)。

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さて、授業で話題になったのは、下記の討論内容そのものというよりも、堂目先生の前著『アダム・スミス――『道徳感情論』と『国富論』の世界』(中公新書、2008年)との関連でした。もちろん、『アダム・スミス』を読んでいたからこそ堂目先生をリクエストしたくらいで、それなりにしっかりと読み込んでいたはずだったのですが、討論は前週の報告に対応する形で行ったために、やや議論が浅くなってしまったかなと反省しています。

授業で先生方が議論をしているのを聞きながら、『アダム・スミス』の付箋を付けていた部分を見返してみると、明らかに前週の報告とは異なるスミスの人間像を堂目先生が描き出しているので、そのギャップに少し驚いてしまいました。

詳しくは下記原稿を見て頂きたいのですが、前週の報告は、「個人の規範原理→立法者の規範原理」という枠組みを前提として、主流派経済学の発展に寄与した7人のイギリスの経済学者の人間観と経済学としての主張を検討したものでした。つまり、ここでのスミスは経済学の祖としての位置付けを与えられているわけです。この扱いは『アダム・スミス』とは若干異なるものです。『アダム・スミス』では、経済学者としてよりも道徳哲学者としてのスミスを重視しています。それゆえ、そこで描き出されるスミスの人間観として常に強調されるのは、「社会的存在としての人間」ということです。ここからは「個人の規範原理→立法者の規範原理」という単純な図式は導き出されません。

結局、授業での議論の多くが『アダム・スミス』における議論と前週の報告の齟齬を確認するような形になってしまったのは、討論に『アダム・スミス』での議論を入れなかったためだと思うので、この点が失敗と言えば失敗でしょうか。

とはいえ、『アダム・スミス』における堂目先生の議論を重視して、「人間学としての経済学」の発展可能性を考えても、やはりそこには多大な困難が伴うのだと思います。この辺りは報告原稿をご覧ください。

なお、授業での議論では、政策科学に対する不信感のようなものが様々な形で表明されましたが、(言い方は悪いですが)それは政治学者にありがちな「不感症」というものです。政治の議論無しに経済政策を論じることが出来ないのと同じように、現代社会では経済の議論を無視して政治を論じることは出来ません。

いずれにしても、専門分化が進んだこの21世紀における学問の難しさのようなものについて考えさせられる時間でした。



堂目卓生「経済学の基礎としての人間研究:学史的考察」を受けて

1 はじめに

先週の堂目先生の報告では、イギリスの経済学者7人(ヒューム、スミス、ベンサム、ジョン・ステュアート・ミル、マーシャル、ケインズ、ロビンズ)を例にとって「人間研究にもとづいた経済学」の構想が、どのように取り組まれてきたかが考察された。その結論は、「経済学者がどのような人間観や社会観をもつかということが経済学の発展の方向を決定する上で重要だということである」。

ここで、まず確認しておかなければならないことは、報告の基となった原稿は2009年度日本経済学会秋季大会のための報告ペーパーであり経済学者に向けられたものだということである。当然のことながら、政治学者に向けられたものではない。つまり、報告の問題関心は、「自己利益の最大化に向けて利己的・合理的に行動する経済人(homo-economics)」を前提とする主流派の経済学(とりわけ理論経済学)のあり方に対する危機感である。

とはいえ、報告でも指摘されていたように、行動経済学や実験経済学など「経済人」を前提としない経済学も近年徐々に広がりつつあるし(1)、ゲーム理論に基づいた比較制度分析のように単一の市場ではなく「多元的経済の普遍的分析」を目指す(2)学派も登場している。また、ミクロ経済学や厚生経済学の観点から貧困のメカニズムを明らかにしたアマルティア・センの研究など、社会的公正と分配の問題に取り組む経済学者は現在も存在する(3)。しかしながら、現在の主流があくまで「経済人」を前提とした研究であることは間違いない。そうした研究の多くが、市場のメカニズムの解明には力を発揮しても、現実の経済問題に対して有効な処方箋を提供できていないという批判は、サブプライム・ローン問題を発端とする数年来の世界不況によって再び強くなっている。

こうした経済学の状況――そして経済学の置かれた状況――を踏まえて、経済学の発展に寄与した多くの経済学者が、実は「人間とは何か、人間は何を求める存在なのかをよく考えた上で経済のありかたを論じようとしてきた」(4)ことを明らかにし、経済学にとっての人間研究の重要性を指摘する堂目先生の意図には共感するものである。しかしながら、報告を受けての印象は、むしろ、取り上げられた経済学者達――そして堂目先生の報告――が前提としている「人間観」ないしはその枠組みこそが、経済学を経済学たらしめているものであり、「人間学としての経済学」を成立させることを難しくしているのではないだろうか、というものであった。

以下では、簡単に報告の枠組みをまとめた上で、そこに潜む経済学的思考の(政治学の視角から見た)問題を析出することを目指して、議論を進めていく。

(1) 行動経済学の多様な研究動向を押さえた入門書としては、差し当たり、友野典男『行動経済学――経済は「感情」で動いている』(光文社新書、2006年)。
(2) 青木昌彦『比較制度分析序説』(講談社学術文庫、2008年)、8頁。
(3) 経済学の草創期から現代までの経済学史を簡潔にまとめたものとして、根井雅弘『入門 経済学の歴史』(ちくま新書、2010年)。
(4) 堂目卓生「人間学としての経済学 連載第1回 経済学は「人間の心」をどう扱ってきたか」『フォーサイト』2009年8月号、35頁。同連載は、先週の報告ペーパーを土台に一般向けに書かれたものである。


2 堂目先生の議論の枠組み(=「人間学としての経済学」)

はじめに先週の報告の議論の枠組みを簡単に確認しておきたい。先に述べたように、報告で取り上げられたのはイギリスの7人の経済学者(ヒューム、スミス、ベンサム、ジョン・ステュアート・ミル、マーシャル、ケインズ、ロビンズ)である。この7人は「経済学の創成と発展に貢献した人びと」であり、彼らの 「人間研究と経済学の関連」、あるいは彼らが「規範・理論・政策の関連をどのように意識し、その問題と格闘したかを鳥瞰した」のが先週の報告である。その際に前提となるのが、経済学の基礎には「人間研究」があるということである。

報告ペーパーによれば、まず「経済学は、<理論>の領域と<政策>の領域に分けられ」る。そして「理論の領域においては、「諸事実」にもとづいて「諸理論」が形成される。一方、政策の領域においては、諸事実と諸理論にもとづいて、何らかの「目標」が設定される。そして、設定された目標を最もよく達成する 「手段」が選択され、具体的な「ルール」や「制度」が構築される」。ここで重要になるのが、「人間研究」である。なぜなら、「諸事実や諸理論は、「である」で終わる命題の集まりにすぎないのに対し、目標は「べき」で終わる命題からなるからである」。それゆえ、政策当局には採用する善悪の判断基準(=「立法者の規範原理」)が求められ、そしてそれは政治的リベラリズムが成立しているならば、個人が自分や他人の行動と性格の善悪を判断する基準(=「個人の規範原理」)に大きく影響を受けると仮定されている。「人間研究」とは、「他人の行為や自分の心の観察を通じて、<規範>の領域、すなわち個人の規範原理お よび立法者の規範原理を解明すること」であり、経済学が「政策の領域をカバーしようとするかぎり、人間学的考察から独立であることはでき」ず、さらに「個人の規範原理がいかなるものであるかを考えるということは、人間とはどのようなものか、どのような原理にしたがって行動するのかということを考えることであり、その考察の結果は、諸理論にも影響する」という。

以上が、報告の前提となる枠組みであるが、ここで報告内容について一つ指摘をしておきたい。それは、この枠組みが果たして報告を通して貫かれているのかということである。この点が最も顕著に表れているのは、ロビンズを検討した箇所である。報告では、ロビンズが「経済学を人間研究から分離することを提唱」 し、経済学を「純粋経済学」化した側面が強調されている。同時にロビンズの純粋経済学の定義は、「決して価値中立的なのではなく、「自分の意思で自由に、そして合理的に選択すべき」という個人の規範原理の想定の上に成り立つものであったと見ることができる」という指摘がなされている(5)が、結論としてはあくまでロビンズの「経済学を社会的風潮や人間に関する他の学問分野の動向から隔離しようとした」ことが述べられている。しかしながら、 ロビンズの試みは堂目先生も指摘しているように、あくまで「経済学」の範囲を限定しただけであり、政策論の必要性を否定したわけではない。ロビンズの回想によれば、彼が意図したのは「経済システムが働くか、あるいは働き〈うる〉かに関する主張は、それ自身では、それが働く〈べき〉だといういかなる前提もな いことを、明らかにすること」(6)だったのである。それゆえロビンズは、この試みが「経済学者が倫理学と政策に関する自分自身の考えを持つべきではないという意味ではな」く、比喩を用いれ ば「逆に、機械がどのように動くのか、あるいは動きうるのかを知っている場合にのみ、人は機械がどのように動かなければならないのかを言う資格があると私(ロビンズ――引用者)は明確に述べた」のである(7)

もしロビンズの「経済学」の定義に従うのであれば、報告の枠組みにおける政策の部分は「経済学」にとって不要となるであろうし、その定義を受け入れないのであればロビンズの行った「経済学と政策論の峻別」ではなく、ロビンズの政策論における「人間観」を検討する必要があったのではないだろうか。確かに経済学史上の影響という点を考えればロビンズの「功績」の大きな部分は、経済学を「純粋経済学」化したことにより理論的精密性を飛躍的に高める方向へと導いたことにあるのだろう。しかし、これはあくまで経済学史上の位置付けであり、報告の枠組みとは関係が薄いのではないだろうか。

(5) 同様の指摘をするものとして、例えば、木村雄一『LSE物語――現代イギリス経済学者たちの熱き戦い』(NTT出版、2009年)、99-101頁。
(6) ライオネル・ロビンズ(田中秀夫・監訳)『一経済学者の自伝』(ミネルヴァ書房、2009年)、161頁。
(7) 同上。


3 自明視される「経済学的」思考枠組み

堂目先生の議論の枠組みに潜む「経済学的」思考枠組みの問題に話を進めていきたい。第一の問題は、「個人の規範原理→立法者の規範原理」という関係、端的に言えば「個人→社会」という関係が自明のものとして想定されていることである。

政治学においても、いかなる人間像を想定するかは重要な問題であった。古くは社会契約論を巡るホッブズやルソーの議論、最近ではリベラル=コミュニタリアン論争などを考えればいいだろう。一般に指摘されるように、確かにホッブズは、「個人」の合理的選択に基づいて政治的秩序(constitution)を創設することを企てたと評価することが出来るだろう。しかし、同時に「ホッブズに認められる合理的選択理論は、徹底的なエゴイスト(ホモ・エコノミクス)が専ら物質的な財や便益の交換を図るために行う相互作用を説明する理論装置であり、その意味では他者との信頼関係や他者に対する威信を創出するために行われる贈与等の社会的交換とは区別されるべき経済的交換の次元に限定されている」のである。こうしたホッブズの議論のアポリアは、「文化人類学や経済人類学が明らかにしているように、経済的交換が可能になるためには、その前提として社会的交換によって一定程度の信頼が確保されている必要がある点に関わっている」ことである(8)

このようなホッブズの評価に端的に表れているように、原子論的な個人を想定することは政治学では自明ではなく、むしろ様々な形で問題視されてきたことである(9)。この点は、リベラル=コミュニタリアン論争のみならず、現代におけるリベラルのアポリアとしてしばしば指摘されることでもあり、言わばこの問題は政治思想における主要な論点の一つである。むしろ、原子論的な個人を現実に想定することが難しいからこそ、人々の相互作用からなる政治的空間(ないしは公共空間)の民主性を担保することがいかに可能か議論となっているのである。堂目先生の提示する枠組みを政治学の文脈に置いてみると、その原子論的な人間観が自明視されていることが明らかであろう。

第二の問題は、分析対象としての「市場」(ないしは市場経済)が自明視されている点である。第一の問題と接続すれば、いかに各経済学者の人間観が検討されようとも、それは「経済的活動を行う個人からなる市場経済」を分析する前提として検討されているに過ぎないということである。政治学の分析対象が、(学問としての定義の曖昧さゆえに)多岐に渡ることと比較すれば、いかに経済学の分析対象が絞られているかは明らかであろう。確かに、この第二の問題は、経済学が人間の社会的活動の中でも「市場を通じて行われる経済活動」を分析対象としている以上は避けがたい問題であるし、必ずしもそれ自身に問題があるわけで はない。また、この点を問いだせば経済学が経済学でなくなる性質がある。しかし、「人間学としての経済学」を考える上では、いかに市場が形成されるのかという(政治学というよりは)社会学的な課題を自明視していることに議論の余地があることを押さえておく必要があるだろう(10)

(8) 小野紀明『政治理論の現在――思想史と理論のあいだ』(世界思想社、2005年)、11頁。
(9) 「複数性(plurality)」がハンナ・アーレントの思想のキー・コンセプトであることは多くの論者によって強調されるところである。例えば、齋藤純一『政治と複数性――民主的な公共性に向けて』(岩波書店、2008年)、を参照。
(10) ここで挙げた二つの点については、ミルトン・フリードマンと山崎正和のCorrespondence, No. 5, Winter 1999での「市場」の役割を巡る誌上論争も参考になる。この論争は山崎が「市場は(福祉政策による)同時代的な再配分もできないし、(資源の節約や環境保護を通じて)未来の世代との再配分も実現できない。また市場は、犯罪を防ぐ力もなければ、市場にとって安定し安全な環境を維持することもしない」と述べたのに対し、フリードマンが山崎の市場の定義を「厳格過ぎる」とし、山崎が市場で実現不可能として挙げた多くのことは「自由な民間市場」ならば実現可能だと批判したことによるものである。山崎は、批判に対する応答の最後に、「あなた(フリードマン――引用者)の立場は自発的に行動する個人が最初に存在して、彼らが協力して文明が成立するものです。しかしながら私の立場は、文明あるいは人間が自由な存在として自己を発展させる人と人との関係が専攻して存在するというものです。市場や国家、その他の制度はすべて文明の長い歴史の産物であり、同時にそれ自身が文明の構成要素として同等の重要性を持つものです」と述べる。二人の市場観、人間観の違いは、経済学的思考と社会学的思考の違いを端的に表していると言えるだろう。いかに経済学者の前提が他の社会科学と違うかということはここにも明らかである。


4 「人間学としての経済学」は可能か

以上に概観したような「経済学的思考」枠組みの強さを踏まえると、「人間学としての経済学」の困難さが浮き彫りとなるだろう。すなわち、報告で取り上げたいずれの経済学者も、政治学における多様な人間観の中に置いてみれば、価値中立的なわけでも、また多様なわけでもないのである。つまり、報告が前提とする枠組みそのものが極めて「経済学的」であり、むしろ、このような枠組みで捉えられる人間観を多くの経済学者が共有していたからこそ、かつての政治経済学は「経済人」を基礎とする現在の経済学に発展したと説明した方がより実態を適切に説明出来るのではないだろうか。

もちろん、ここでこのような経済学のあり方や成り立ちを批判しているわけではない。むしろ、経済学的な人間観や限定された分析対象を揺るがせることは、経済学を経済学たらしめているものを失わせる危険を持つとも言える。事実、「経済人」の前提を受け入れない行動経済学は、「新しい対象や領域を開拓するのではなく、経済に対する新しい視点からの研究、つまり新たな研究プログラム」であり、「この意味で行動経済学は、既存の経済学と同じ研究領域を扱う、いわば「古い酒を新しい革袋に入れる」という性格を持っている」と説明される(11)。このように考えれば行動経済学は、経済学の下位分野に属するというよりは、心理学(実験心理学)の下位分野に属する学問と言えるのかもしれない。

(11) 友野『行動経済学』、23-24頁。


5 おわりに

ここまで展開してきた議論を唯名論的――つまるところ経済学をどのように定義するのかということに尽きる――と批判することは可能だろうが、ここではいわゆる「経済学」に標準的な思考を、堂目先生の議論は強く持っているということを改めて指摘したい。確かに「政策論」を語る経済学者に人間学や規範理論の素養 が欠けているものが少なくないことは間違いないだろう。また、「政治」を単なる経済活動の障碍としか考えない経済学者も少なくない。

こうした状況の中で、経済学の前提として人間学を考えるべきだという堂目先生の問題意識は重要である。しかしながら、報告で明らかにされた各経済学者の人間学は、むしろ極めて「経済学的」であることはより認識されなければならないだろう。このように考えてくると、堂目先生の批判するロビンズの議論が実は正鵠を射ているのかもしれない。すなわち、経済学は理論経済学(純粋経済学)として精緻化し、その上で政策論を立てる際には倫理学をはじめとする規範的な 議論を考えればいいのである。もちろん、現実には経済学を理論と政策論にきれいに分けることは出来ず、教育プログラムとしては相互の連関を考慮する必要はあるのだろう。しかし、そこで問題とされるべきは、理論と政策論の分離ということではなく、むしろ「個人の規範原理」が「立法者の規範原理」に繋がるという経済学者一般に共通し、堂目先生も前提としている単純な理解を問い直すことにあるのではないだろうか。

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2010年04月22日

今週の授業(4月第4週)

今週は――と木曜日の時点で振り返るのも変な気もしますが――、実り豊かな一週間でした。

自分にとって一番大きかったのは、月曜日に研究関係のインタビューに行ってきたことです。これまでもアルバイトでオーラル・ヒストリーのお手伝いをしたり、外交官へのインタビュー・プロジェクトにも参加しているので、それなりの数のオーラル・ヒストリーの聴き取りやインタビューはしてきましたが、今回のインタビューは、自分の研究にとってはこれまでで一番得るものが大きかったです。

その多くの部分はもちろんインタビュイーの方に負っているわけで、運が良かったということに尽きます。とはいえ、聞きに行ったタイミングが自分にとってはとても良かったなと思います。何も知らないままにインタビューをすれば、インタビュイーの考えや見方に引きずられてしまう。もう少し進んで、それなりに調べて自分の仮説を立てた段階であれば、どうしても自分の仮説に都合の良い証言を引き出そうという誘惑にかられてしまう。今回はひとまず論文を出した段階だったので、それなりに知識もありこの二つのマイナスは回避することが出来ました。加えて、この先に博士論文という大きな目標があるためにまだ柔軟に研究を修正する余地がある段階なので、「自分の見方と大きく違う証言を恐れる」ということもないというタイミングだったのも良かったです。

内容面では、史資料を読んでいては分からない人間関係や組織の雰囲気が聞けたことが大きな収穫でしょうか。次なるインタビューの対象が見つかったことも嬉しいことです。この辺りは、インタビュイーが文書管理の悪さに定評がある某省OBだっただけに、実にありがたいことです。

もちろん、口述内容は文書資料による裏付けが必要な部分もあるので、このインタビューに乗っかって全てを書けるわけではありません。ただし、今回の場合はどちらかと言うと逆で、自分が文書を読んでいて若干解釈に迷いながら論文に書いたことの裏が取れたという側面が強かったように思うので、いいタイミングで励ましの言葉を頂いたような気分です。

と、ここまでは良いことばかりですが、テープ起こしや次なるインタビュー、という作業が待っているのが悩ましいところです。今週はもう一つお手伝いしている研究プロジェクトのテープ起こし&議事録作りもあるので、明日はテープ起こしをしている内に一日が終わってしまいそうです。



課題は先送りにせずにこなしていこう、ということで授業内容をまとめておきます。今週は発表があったので、若干長めです。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊研究

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前回はガイダンスだったので、今回から本格的に授業がスタートしました。テキストは、David A. Welch, Justice and the Genesis of War, (Cambridge: Cambridge University Press, 1993) の序章と第1章(The Justice Motive and War)でした。

第1章は本全体の枠組みを提示している箇所なのでじっくりやりたいということだったので、今回は第1章の途中で時間切れになりました。授業の最後に後輩が言っていた図式に従えば、第1章で著者は4つのことを説明しています。すなわち、①問題意識、②仮説の提示、③論証方法、④予想される反論への回答、です。今回は①問題意識まで進みました。

この本の問題意識を一言にまとめれば、リアリズムに対するオルタナティブの提示ということに尽きるのだと思います。具体的には、戦争の起源(or発生:genesis)においてJustice Motiveが重要な役割を果たしていることを実証するということです。(Introductionでは、「戦争の起源」ではなく「国際政治における国家の行動」と広く定義されていますが)。

ここでJusticeをどう訳すかがなかなか難しい問題で、日本語の語感からだと「正義」よりは「正当性」の方が近いとは思いますが、これは来週の授業でも取り上げられるようなので、ひとまず置いておきます。

Justice Motiveの定義は本書の核となることなので紹介しておく必要があるでしょう。該当部分を抜き出すと「the drive to correct an perceived discrepancy between entitlements and benefits」ということで、授業中に先生が言っていた訳を踏まえて自分なりに訳せば「本来与えられている権利と利益の認識された齟齬を是正しようとする衝動」といったところでしょうか。どうにも日本語としては不自然ですね。ともあれ、このJustice Motiveをキー・コンセプトに本書は展開されます。

今回取り上げたところまでは、基本的にリアリズム(クラシカル・リアリズムとネオ・リアリズムの双方を含む)に対する批判的検討が行われており、その批判の最も根本的なものはリアリストの多くが、国家行動の「動機」を不変とみなしていることにあります。これも説明し出せばかなり長くなることなので、来週余裕があればここに書くことにします。

<木曜日>

2限:政治思想論特殊研究

Heywood

テキストは、Andrew Heywood, Political Theory: An Introduction, 3rd Edition, (Palgrave Macmillan, 2004), Chapter 2: Human Nature, the Individual, and Society のHuman Nature(人間性)の部分(pp.16-26)でした。

政治理論の教科書で、独立した節として「人間性」を取り上げるのは英米では普通のことなのでしょうか。あまりにその辺りの知識が無いのでよく分かりませんが、「人間性」を単独で取り上げるとどういった議論になるのかが分かり、今週も勉強になりました。

この節は「人間性」理解を巡って3つの対立軸があることをそれぞれ紹介しています。これは、その対立軸を並べるだけで、大体の議論が分かると思います。第1の対立は「自然か教育か(Nature versus Nurture)」、第2の対立は「知的か本能的か(Intellect versus Instinct)」、第3の対立は「競争か協調か(Competition versus Cooperation)」です。

常識的に考えればこれらの対立はどちらが正しいというわけではなく、いずれも人間性の1つの側面を表しているものです。これは授業中に先生が言っていたことですが、人間性を無視して政治を論じればそれは制度論になってしまいます。それゆえ、人間性をどのように考えるかは政治理論にとっても重要な問題なのですが、それを単独で抜き出してしまっているので、具体的にどういう局面でどの部分の人間性が表れるといった議論にはならっていません。その結果、テキストの書き方はかなり自然科学的な人間性に偏ってしまっており、この辺りをどう考えるかということが授業では議論になりました。ざっくりとまとめてしまえば、なぜ人間性を問題にするのか、またはなってきたのかについてのコンテクスト無しに人間性を論じることに政治理論としてどれだけ意味があるのだろうか、ということです。

もっとも、この章では続いて「個人(the individual)」と「社会(society)」が取り上げられているので、章全体として読めば、今日の議論に対する答えは見つかるのかもしれません。

5限:プロジェクト科目I(政治思想研究)

前週の報告(「経済学の基礎としての人間研究:学史的考察」)を受けての討論をしました。討論担当ということで、ここにも議論をまとめて……と思ったのですが、長々と記事を書いて疲れてしまったので、これはまた日を改めて書くことにします。


black_ships at 20:19|PermalinkComments(0) ゼミ&大学院授業 | 日々の戯れ言

2010年04月20日

気候から見た国際政治

この1、2週間で、国際政治に影響を与える思いもよらない出来事が相次いでいます、何と言っても一番の衝撃はポーランド政府専用機の事故ですが(サッカー好きなら「ミュンヘンの悲劇」を想起するところです)、個人的に色々と考えさせられたのはアイスランドの火山噴火です。この21世紀になっても、いかに「気候」が人類に大きな影響を与えるのかを実感した人も多いのではないでしょうか。

加えて、これは国際政治というよりは国内の生活への影響が大きいことですが、3月から4月にかけての季節外れの冷え込みも興味を惹かれる対象です。この冷え込みの原因は「北極振動」と言われるものらしく、解説記事がいくつかの新聞に出ていました(リンク)。

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なぜ「気候」のニュースに反応しているかと言えば、先月たまたま田家康『気候文明史――世界を変えた8万年の攻防』(日本経済新聞出版社)という本を読んでいたからです(※版元情報は画像にリンクを貼ってあります)。

Amazon等で検索をかけてみれば分かるように、気候変動と人類の歴史を取り上げた文献自体は決して珍しいものではありません。日本にも定評ある研究者が何人もいますし、直接文明との関わりは論じていなくとも、阪口豊『尾瀬ヶ原の自然史――景観の秘密をさぐる』(中公新書)のような緻密な実証研究ながら、それを通して人類の歴史が見えてくるような優れた読み物もたくさんあります。

その中でこの本が面白いのは、著者が学者ではないこともあり、縦横無尽に内外の優れた研究を渉猟し、それをうまくまとめる作業に徹しているからです。諸外国における研究の多くは、気候と人類の関係を論じていてもそれは欧米に偏りがちです。また日本国内の研究者の場合は、どうしても自分の研究に引き付けた話を展開しがちです。そうした中で、この本はバランス良く内外の研究を使い分けながら、旧石器時代から現代の地球温暖化問題までの気候と人類の歴史をまとめており、とても読みやすい良書となっています(ちなみに、『気候文明史』については、インターネットでは読むことが出来ませんが、3月28日の日経読書欄に紹介が出ていました)。

実は「気候」に反応してしまうのは、『気候文明史』に触発されて、他大学の某ゼミの卒業論文集に「気候から見た国際政治」というコラムを書いたからです。実証などしなくともいいので好きに面白いものを書けという指令に従って思いつくままに書いたものですが、書いてすぐにアイスランドの噴火のニュースに接したため、せっかくなのでここに載せておこうと思い立ちました。というわけで、以下に駄文を転載しておきます。



気候から見た国際政治

卒業論文の中間報告会と発表会に出席させて頂きました、○○○○です。現在は、第一次石油危機の前後を中心に国際資源市場の構造変動と日本外交について調べています。

いまから40年近く前の議論を見ていると、議論の対象となる問題の多くが、現在と実によく似ていることに驚かされることがあります。資源をめぐる国際政治の中で当時キーワードになっていたのは、「南北問題」と「環境問題」であり、これは形を微妙に変えながらも現在も続いている問題です。この二つの問題は、多様な要素を含むものであり、それゆえ国際政治上も大きな問題となっているわけですが、実はどちらの問題も「気候」と密接に関係しています。

最近、田家康『気候文明史』(日本経済新聞出版社、2010年)という本を読んだのですが、それによれば、人類の歴史は「気候」の変化と密接に関係してきたようです。古代エジプトにおける王朝の衰退、中国における春秋戦国時代の到来、ローマ帝国の衰亡などは、どれも中長期的な気候変動を背景に持つ、数年間にわたる天候不順に時の政治体制が効果的な対応を取れなかったことによって引き起こされた側面を持っているということは、意外と知られていないことです。日本でも、応仁の乱に先立って寒冷化に伴う不作が続き、それによって室町幕府の弱体化が進んだことが指摘されています。

テクノロジーの進展によって、農業から工業、そしてサービス産業を中心とする経済に移行しつつあるこの21世紀においても、「気候」をめぐる問題は国際政治上、重要な位置を占めています。かつてのように、気候変動による不作によって先進国の政治体制が揺らぐことはないのかもしれません。それでも、1970年代初頭の不作がソ連に打撃を与え、アメリカへの食糧依存を引き起こしたように、我々人類は自然のくびきから逃れることが出来ない側面を依然として抱えているのでしょう。

人類の歩みが示唆しているのは、温暖化よりも寒冷化が混乱を生じさせ、引いては文明の衰退を招くということです。大規模な火山の噴火、グリーンランドや南極の氷が溶け出すことによる海流の変化は、温暖化という流れを一時的にせよ寒冷化に向かわせる可能性を持つものであり、そうした事態が今後起こらないとは限りません。CO²削減を巡る国際政治とはまた異なる形で、21世紀の国際政治に「気候」が何らかの影響を与えることがあるのかもしれません。

black_ships at 11:16|PermalinkComments(0) アウトプット(?) | 本の話

2010年04月17日

積読増加中

博士課程に進学した辺りから段々と更新が面倒になり、はじめは備忘録代わりに毎日書いていたはずのブログの性格が変わって来てしまいました。気が付けば並ぶエントリーは大学院の授業の話ばかりということで、これではあとで自分で振り返ってもあまり使えないし、せめて読んで印象に残った論文や買った本、読んだ本を出来る限りここで紹介していった方がいいだろうなとふと思ったのが昨晩のことです。そんなわけで、月7日間(8時半~17時15分)行っていたアルバイト先をこの3月で辞めた結果、ある程度時間も出来たのでもう少し更新数を増やしていこうと思います。



手始めは今日買った本について。なぜか戦前と経済関係の本が多いです。

※今回から版元情報がある場合は画像にリンクを貼っておきます。

Pierson

まずは今日生協に行った目的の本。社会科学において定性的アプローチを採ろうとするならば必読であろう一冊、ポール・ピアソン『ポリティクス・イン・タイム――歴史・制度・社会分析』(勁草書房)です。訳者は大学院の先輩(面識はありませんが)、監訳者のお手伝いをゼミの後輩がしている関係もあって刊行されるということは聞いており、早く手に入れたい一冊でした。

怠惰な性格なので、本書第一章の基になった論文("Path Dependence, Increasing Returns, and Political Science," American Political Science Review, Vol. 94, No. 2, June 2000)をパラパラと読んで「これはピアソンをちゃんと勉強しないと」と思ったまま放置していたので、邦訳が出たのを機に勉強したいと思います。

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ピアソンの本を手にとっている時に目に入ってきたのが↑左の筒井清忠・編『解明・昭和史――東京裁判までの道』(朝日新聞出版)です。たまたま、先日大学のある先生と昼食をご一緒した時に、「朝日新聞から一般向けに出す本の一章を書いた」というお話しを伺ったのですが、どうやらこの本のことだったようです。

執筆陣の多くは第一線で活躍する年齢的には中堅クラスの歴史家であり、幅広く読まれるべき本なのだと思います。編者が言うように、「現在、研究の第一線と一般書の間にはすさまじいまでの懸隔ができてしまい、この溝は埋められないままに放置されたような状態となっている」(4頁)のは間違いないです。そうした中で「この溝を完全に埋めようというのが、本書の基本的趣旨」ということで、「完全に埋め」るのは無理だとしても、一般書として第一線の研究成果が社会に発信されることに意味があるのでしょう。

それにしても、この体裁や題名・帯はどうにかならないかなと思ってしまいます。が、こうした体裁の本を読むような人たちに向けて売りたいのであれば仕方が無いのかもしれません。

↑右の伊藤之雄『日本の歴史22 政党政治と天皇』(講談社学術文庫)は、単行本も持っているにも関わらず、ついつい購入してしまいました。最近刊行されている著者の本はとにかく分厚いことに定評がありますが、この本は厚いことは厚いですがあくまでも通史の一冊であり、より読みやすい仕上がりになっていると思います。学術文庫版あとがき(371-376頁)を読んで楽しめるようになってしまったのは、趣味の読書としての戦前日本政治史研究をこの数年間読み続けてきたからかもしれませんが、ともあれこれは読み返したい一冊です。

mitani

戦前の本を書いたついでに三谷太一郎『ウォール・ストリートと極東――政治における国際金融資本』(東京大学出版会)について。この本については刊行直後にもこのブログで取り上げましたが、結局いまのいままで購入していませんでした。最初は生協に並んでいなかったからという理由だったのですが、注文をすればいいだけなので単に自分が怠惰だったからです。

この本の基になった論文のいくつかはもちろんこれまでも読んでいます。しかし、論文集の体裁を取っていたとしても一冊の本としてまとめられた時にどういった研究になるのかにとても強く関心があります。

また、ここで扱われているのが国際金融というのも重要です。国際金融については経済学ではもちろん膨大な数の研究がありますし、経済史の分野でもそれなりの研究が存在します。しかし、政治学の分野でこの問題を扱った研究の多くは、アメリカ流の国際関係論に基づいたものであり、分析の鮮やかさやアプローチの面白さはあっても、正直なところ歴史研究を読むような深さや洞察に欠けるような印象を持つものが少なくありませんでした(もちろん例外はありますが)。この本については、読み終えてからもう少しちゃんとした形で紹介することにします。

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ここまでの流れとは全く関係なく、藤原帰一『新編 平和のリアリズム』(岩波現代文庫)が新刊として並んでいたのでついつい購入。旧版は持っていないのでちょうどいいなと思って購入したのですが、「あとがき」によれば、旧版は「良い本を書いた手応えがなかった」ので、「この新版は、岩波現代文庫に再録するのを機会に、古い原稿を削り、学術論文も含む新稿をを加えたもの」(449頁)だそうです。旧版刊行後に論壇誌に載せた論考も含まれていてお得感があります。

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最後は経済シリーズの三冊。左から、根井雅弘『入門経済学の歴史』(ちくま新書)、根井雅弘『経済学の歴史』(講談社学術文庫)、ニーアル・ファーガソン『マネーの進化史』(早川書房)です。

今年に入ってから経済思想史や経済学史に触れる機会が多く(木曜日のプロジェクト科目もその一つです)、もう少し関心を広げてみようと思い、定評ある著者の本を読んでみようと左の2冊は購入しました。『マネーの進化史』は原著が家で積読になったままになっているので迷ったのですが、効率を考えて邦訳を購入してしまいました。



こう並べてみると本を買い過ぎなような気もしますが、研究の息抜きに読み進めていくことにしたいと思います。

black_ships at 14:21|PermalinkComments(2) 本の話 | 日々の戯れ言

2010年04月16日

今週の授業(4月第3週)

前回は図書館のサービスが良くなった!と書きましたが、今年度は学期中も日曜閉館だったということを忘れていました。大学院棟は空いており、ある程度のことはWeb上でも出来るとはいえ、日曜日に図書館が空いていないのは非常に不便です。確かに、日曜日に図書館で勉強している学生の数を見ればいたしかたない面もあるのかもしれません。よく利用する東大駒場図書館と比べても日曜日に来ている学生の数は大分違うように思います。とはいえ……と思うのは大学院生だけなのでしょうか。



<水曜日>

2限:国際政治論特殊研究

Welch2

前回のエントリーにも書いたように、この授業はDavid A. Welch, Justice and the Genesis of War, (Cambridge: Cambridge University Press, 1993) の輪読をします。今回はガイダンスということで、次回から内容に入ります。去年と比べると受講者数がやや少なく、規模としてはちょうどいい大きさになったように思います。

<木曜日>

2限:政治思想論特殊研究

Heywood

専門外ということで出るかどうかかなり迷ったのですが、テキストの内容や課題の量(1回に10~20頁程度)を考えた結果、出ることにしました(といっても履修申告はしていないのですが)。テキストは前回のエントリーにも書いたとおり、Andrew Heywood, Political Theory: An Introduction, 3rd Edition, (Palgrave Macmillan, 2004) で、一回の授業で一節ずつ進んで行くというイメージです。日本で言えば学部の専門過程向けのテキストといったところでしょうか。政治的な概念の分析並びに明晰化を目指すというのがこの本の目的で、専門外の自分にとっては、視野を改めて広げるいい機会になりそうです。

「テキストの理解もさることながら、政治学という学問の全体に目を配り、大学学部レベルにおける政治学の導入講義がいかにあるべきかを一緒に考えていきたい」という履修者へのコメントがシラバスに書かれていましたが、テキストの内容そのものだけではなく、導入講義のあり方を考えるというのはなかなか面白い試みだと思います。

今回は、Introduction: Concepts and Theories in Politics (pp.1-14) が範囲でした。序章ということで、政治的な概念を取り扱うことの意味や難しさがまず検討され、その上で政治理論のごく簡単な学説史的な整理が行われています。受講者や先生の専門の関係もあり、英米系の理論と大陸系の理論の違いに各回とも議論が集中しそうだなというのが初回の印象です。内容についてしっかり書くのは面倒なので、ひとまずはこんなところで。

5限:プロジェクト科目I(政治思想研究)

是非とリクエストをしていた堂目卓生先生が今回のゲストでした。発表テーマは「経済学の基礎としての人間研究:学史的考察」です(昨年度の日本経済学会秋季大会での報告したものと同内容とのことです)。

7人のイギリスの経済学者(ヒューム、スミス、ベンサム、ジョン・スチュアート・ミル、マーシャル、ケインズ、ライオネル・ロビンズ)を例にとって、「人間研究にもとづいた経済学」の構想がどのように取り組まれてきたかを明らかにするというかなり野心的なもので、政治思想を専門にされている方がどう感じたのかは分かりませんが、私にとってはとても面白かったです。もっとも、エッセンスは『フォーサイト』の連載「人間学としての経済学」とほぼ同じといっていいのかもしれません。

と、ここまではいいのですが、問題は報告を受けての討論を来週やらなければいけないということです。さて、どうしたものか。

black_ships at 15:22|PermalinkComments(0) ゼミ&大学院授業 

2010年04月10日

新年度の授業

今週から新年度の授業(ガイダンス)が始まりました。

大学院生とはいえ、いまだに学生生活を続けているからか、新しい学期の始まりは何とも言えないワクワク感があるものです。といっても、授業がメインの修士課程とは違い、博士課程は自分の研究があくまで中心であり、それほど授業を取る余裕もありません。とりわけ、今年度は諸事情により書かなければいけない論文が3本あるので、なかなか時間的には厳しいです。

そんなわけで春学期に履修する授業は、師匠の特殊研究と、毎年出ているプロジェクト科目(政治思想)の2つだけになる予定です。

後輩某(と担当する先生ということになるのでしょうか)から、Andrew Heywood, Political Theory: An Introduction, 3rd Edition, (Palgrave Macmillan, 2004) を輪読する政治思想の授業を受けないかというお誘いを受けたのですが、これをどうするかをかなり迷っています。各回で読むページ数もそれほど多くなく、失いかけている「国際」が付かない政治学の素養を取り戻すいい機会にもなると思うのですが、この授業を取ってしまうと後期の授業が4コマと、1コマは院ゼミとはいえ、博士課程の院生としてはやや授業を取り過ぎているような気もします。

課題量が多い授業があるわけでもないので、大した負担ではないような気もするのですが、今年度は海外資料調査に最低でも1回、場合によっては2回行くことになりそうなので、そういったこととの兼ね合いも考えなければならず、なかなか悩ましいものです。

Welch2

師匠の特殊研究は、David A. Welch, Justice and the Genesis of War, (Cambridge: Cambridge University Press, 1993) の輪読です。ウェルチ先生の博士論文を基にした研究書で、ラショナリズム全盛で徐々にコンストラクティヴィズムが出始めた時期に、主流のラショナリズムに真っ向から立ち向かいつつも、コンストラクティヴィズムとは異なるアプローチを採っている辺りがこの本のポイントになるのでしょうか。まだパラパラと最初の辺りを眺めてみた程度なのですが、例のごとく論旨明確かつ平易な英語で非常に分析的なことが書かれているので、とても勉強になりそうです。

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ウェルチ先生と言えば、↑も触れておかなければならないと思います。ジョセフ・ナイの名教科書であるUnderstanding International Conflict: An Introduction to Theory and Histry (邦訳『国際紛争』)の第8版です。第8版に当たって、題名がUnderstanding Global Conflict and Cooperation に変更され、共著者としてウェルチ先生が加わりました。

共著者に加わるという話は以前から聞いていたので、刊行を心待ちにしていました。3月末に入手してから、息抜きがてら少しずつ読み進めているのですが、これは素晴らしい出来です。学部生向けの教科書とはいえ、抜群のバランス感覚に加えて、ウェルチ先生が加わったことによって、より最新の理論動向も踏まえた加筆や、ややミスリードではないかと私が感じていた部分を含めて様々な修正が細部に渡って行われており、これまでの版以上に高い評価を受けるのではないでしょうか。

これまでに読んだ部分では、ペロポネソス戦争の部分の記述に色々な留保が付けられている点が印象的でした。ウェルチ先生には、“Why International Relations Theorists Should Stop Reading Thucydides,” Review of International Studies 29:3 (July 2003) という論文があるので、この辺りは明らかにウェルチ先生がかなり修正しているな、と思わせるところです。

プロジェクト科目は、正式には「プロジェクト科目I・政治思想研究」という授業名で「政治思想研究の新しいアプローチ」という題目(?)が付けられています。初回のゲストの先生は、私が昨年からリクエストしていた先生なので非常に楽しみです。もっとも、楽しみなだけでなく、それなりの討論を用意しなければならないので、そこが若干不安でもあります。一昨日のガイダンスで挙がっていたゲスト候補がとても豪華メンバーだったので、今期はなかなか期待出来そうです。

ちなみに後期の授業は、上記2つの授業に加えて、ロシア政治外交史が専門の横手先生が開講される特殊研究「冷戦史」を取る予定です。この授業はゼミの後輩と共に、以前から先生に強くお願いして実現した授業だけに、いまからとても楽しみです。



新学期と言えば、大学の図書館システムが全面リニューアルになりました。他大学と比較すれば、慶應の図書館は蔵書やデータベースはかなり充実していると思うのですが、私が大学院進学以降は、それまで買っていた外交文書集やマイクロの資料集が入らなくなったり、データベースが打ち切りになったりとあまりいいニュースがありませんでした。

そんな中で、今回のリニューアルは利用者にとってかなり恩恵が大きいです。貸出冊数が増え(院生の場合は1図書館15冊→20冊)、これまではわざわざカウンターに行かなければいけなかった延長がオンライン上で出来るようになり、さらに延長回数が1回から2回に増加、等々。他にも、ほとんどのサービスがワン・クリックで出来るようになり、気になる文献をリンクしておく機能が付いたり、全体として利便性が大幅に向上しました。

新学期と言えばもう1つは、キャレルの移動です。昨年度は日当たりの良い南側の窓際という素晴らしい場所だったのですが、「諸々」の事情が重なりあまり研究環境が良いとはいえない席でした。今年は、北側ということで日当たりは全く良くないのですが、7階の席が取れたので、人が6階ほど多くなく、今日などほぼ貸し切り状態で素晴らしいです。若干ではありますが、机も少し大きいような気がします。

black_ships at 15:50|PermalinkComments(0) ゼミ&大学院授業 

2010年04月09日

論文公刊

気が付けば2010年度も1週間以上が経過してしまいました。本年度もよろしくお願いいたします。



ようやく一本目の論文(「国際エネルギー機関の設立と日本外交――第一次石油危機における先進国間協調の模索――」『国際政治』第160号、2010年3月)を公刊することが出来ました。3月中に公刊予定であり、奥付は3月25日となっていますが、手許に届いたのは昨日のことです。

この論文は、修士論文の後半部分を切り出して、新規公開資料を加えた上で、大幅に圧縮したものです。字数の上限が2万字というのは、外交史研究にとっては思いのほか厳しいものでした。せめてあと5千字加筆出来ればと今でも思いますが、それは博士論文執筆時に行うことにしたいと思います。また、1箇所だけ痛恨の誤字が残ってしまいました(「世界第二の消費国」とするところを「世界第二の輸入国」としてしまいましたが、「輸入国」として日本は当時世界第一位です)。

ともあれ、ようやく自分の中での2009年度が終了といった気分です。心機一転、次なる課題に向けて邁進していく所存です。



今後も続けていく研究の一部なのであまり種明かしは出来ないのですが、参考までに和文の要旨を載せておきます。

国際エネルギー機関の設立と日本外交
――第一次石油危機における先進国間協調の模索――


<要旨>

本稿の目的は、1974年10月の国際エネルギー機関(IEA)設立に至る、第一次石油危機後の消費国間協調に参画する日本外交を、国際経済秩序変動期における先進国間協調の一環と捉えて検討することである。

従来、第一次石油危機における日本外交として主に注目されてきたのは、対中東外交の側面だった。「アブラ乞い外交」と評されることもあるように、そこで強調されるのは、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)の「石油戦略」によって「石油が入ってこなくなるかもしれない」とパニックに陥り、石油を求めて中東政策をアラブ寄りに転換する日本外交の姿である。しかしながら、こうしたイメージは日本外交の一側面に過ぎない。そもそも石油危機は、「石油戦略」のみによってもたらされたわけではなく、消費国と産油国の力関係の変化という中長期的な石油市場の構造変動を背景としている。それゆえ、OPEC(石油輸出国機構)としてまとまる産油国陣営に対して消費国陣営がどのように対応するかは、第一次石油危機に対処するにあたって極めて重要な課題であった。

石油危機発生以前から、消費国間協調を試みる動きはEC(ヨーロッパ共同体)やOECD(経済協力開発機構)を中心に存在した。しかし、危機発生当初、各国は自国の石油確保を優先する姿勢を示したため、消費国間協調はうまく機能しなかった。石油危機後の消費国間協調推進の動きは、危機発生から二ヶ月後の1973年12月のアメリカの呼びかけによって始まった。この提案が呼び水となり、翌74年2月に、先進石油消費国の閣僚級を集めたエネルギー・ワシントン会議が開催され、日本は会議参加をいち早く表明した。消費国間協調の具体的内容を詰めていく作業は、各国次官級を代表とするエネルギー調整グループ(ECG)に引き継がれ、九回の代表会合と各作業グループでの討議を経て、74年11月にOECD傘下にIEAを設立することが決定された。この過程で日本は、産油国との対決姿勢が色濃いアメリカ主導の消費国間協調を、より穏やかなものにすることをイギリスや西ドイツなど他の消費国とともに追求した。とりわけ、IEAをOECDという既存の国際機関の傘下に設置することによって、消費国間協調の枠組から外れていたフランスやアラブ諸国にも受け入れやすくするとともに、新たな条約批准を避けて国内政局を回避したことは、日本外交の大きな成果であった。

石油危機発生当初は、中東外交の転換を迫られるなど苦しい対応に迫られた日本であるが、以上の消費国間協調の動きには一貫して主要国として参加した。IEAは、先進石油消費国間における長期的な政策協調枠組を提供するとともに、加盟国に一定量の石油備蓄を義務付け、さらに加盟国間の緊急時石油融通を協定に明記した点で画期的な意義を持つものだった。第一次石油危機における日本外交は、これまで重視されてきた対中東外交や対米外交、さらには「資源外交」だけではなく、積極的に消費国間協調にも参画する多面的なものだったのである。

日本が消費国間協調に積極的だった理由は、石油問題の解決には消費国がまとまって脆弱性を低下させる必要があるという認識と、自由主義的な国際経済秩序を維持することが日本にとって重要であるという認識を、政府内の国際資源問題担当者が共通して持っていたからであった。

また、日本が石油危機後の先進消費国間協調に積極的に参画しIEA設立に携わったことは、既存の国際機関加盟を目指したそれまでの外交の枠を超えるものであった。日本の先進国間協調への参画としてしばしば強調されるのはサミットへの参加だが、石油危機への対処を通じて日本は先進国間協調の重要な一翼を担っていた。このように考えれば、第一次石油危機は、日本が先進国間協調に参画する重要な転機になったと言えよう。

black_ships at 10:53|PermalinkComments(0) アウトプット(?)