2009年11月

2009年11月27日

事業仕分け

事業仕分けには色々と思うところがあります。「改革」には総論賛成各論反対が付き物とはいえ、今回のやり方は見れば見るほど総論反対に自分の気持ちが近付きつつあるように思います。

客観的に評論家然と眺めるほど落ち着けないというのが正直なところで、いくらでも書きたいことは湧いてくるのですが、留学中の細谷先生のブログのエントリーが自分の気持ちをほぼ百パーセント代弁してくれているので、ひとまずリンクしておきます(細谷雄一の留学記)。このブログを読んでいる人の多くは、細谷先生のブログを読んでいる気もするのであまり宣伝効果はないのかもしれませんが、一人でも多くの人にこの問題は考えてもらいたいです。

事業仕分けについては、ほかにも様々な意見を色々な先生が書かれていますが、大竹文雄先生のブログの二つのエントリーは経済学者らしい視点で興味深い指摘をしています(リンク1リンク2)。

at 20:44|PermalinkComments(0)日々の戯れ言 

2009年11月22日

評伝ブーム/先々週の授業(11月第2週)

院棟に置きっ放しの資料に目を通す必要があり、三田祭の喧噪の中、今日はずっと大学院棟にこもっています。学部の時は一年から四年まで楽しんだ三田祭ですが、大学院も四年目となるとなかなかそうも行きません。休憩がてら、忘れないうちに授業の話を書いておこうと思い、久しぶりに更新。忙しさに紛れているうちに授業の話がとうとう「先々週」になってしまいました。ちなみに先週は三田祭準備の関係で授業がありませんでした。

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この間も、刊行前から楽しみにしていた細谷先生の『倫理的な戦争――トニー・ブレアの栄光と挫折』(慶應義塾大学出版会)をはじめとして色々と読んだものがあるのですが、紹介はまた今度改めてすることにしたいと思います。

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『倫理的な戦争』が刊行される少し前には、伊藤之雄先生の満を持しての評伝『伊藤博文――近代日本を創った男』(講談社)が刊行されました。こちらは未読ですが、伊藤先生の長年の研究の集大成的な評伝だろう本だけに時間を見つけて読むのが今から楽しみです。

それにしても、と思うのはこの数年のちょっとした評伝ブームに関することです。私が大学に入った頃と比べると、この数年は立て続けに本格的な評伝ないしは評伝的な研究が刊行されるようになった印象があります。思いつくままに挙げてみれば、『昭和天皇と立憲君主制の崩壊――睦仁・嘉仁から裕仁へ』(名古屋大学出版会、2005年)、『外交による平和――アンソニー・イーデンと二十世紀の国際政治』(有斐閣、2005年)、『加藤高明と政党政治――二大政党制への道』(山川出版社、2006年)、『幣原喜重郎と20世紀の日本――外交と民主主義』(有斐閣、2006年)、『元老西園寺公望――古希からの挑戦』(文春新書、2007年)、『リデルハートとリベラルな戦争観』(中央公論新社、2008年)、『広田弘毅――「悲劇の宰相」の実像』(中公新書、2008年)、『大平正芳――「戦後保守」とは何か』(中公新書、2008年)、『マッカーサー――フィリピン統治から日本占領へ』(中公新書、2009年)、『吉田茂と昭和史』(講談社現代新書、2009年)、『山縣有朋――愚直な権力者の生涯』(文春新書、2009年)といったところでしょうか。

この他にも、ミネルヴァ書房の「ミネルヴァ日本評伝選」からも政治外交史関係で重要な著作がいくつも刊行されています。また、『人物で読む近代日本外交史――大久保利通から広田弘毅まで』(吉川弘文館、2008年)&『人物で読む現代日本外交史――近衛文麿から小泉純一郎まで』(同)のように、個人としての首相に焦点を当てた概説書もありますし、『大英帝国の外交官』(筑摩書房、2005年)のような複数の人物を取り上げたミニ評伝も刊行されています。

既に気が付いた方もいるかと思いますが、ここまで書名を挙げてみて気が付くのは、伊藤先生、細谷先生、そして服部龍二先生の活躍ぶりです。自分の部屋の本棚を思い浮かべながらつらつらと書いたので、その点で偏っているのは明らかですが、それでも三先生の評伝的研究の質・量は圧倒的です。

学部時代にある授業で、「日本の研究者は個人を軽視している」と言われて以来、そうなのかと素直に思っていたのですが、ふと気が付いてみればむしろ評伝や評伝的研究はいま流行っている分野の一つになっているような気がするのは気のせいではないと思います。昔から評伝・伝記・回顧録などが好きで、個人の視点から歴史を眺めるのが好きな私にとっては歓迎すべき状況ですが、自分が研究の世界に片足を踏み入れつつあることを考えれば、いまの段階ではむしろこうした状況を踏まえて意図的に自分の研究から個人研究的な要素を削ぎ落としてみた方がいいのかもしれません。

というのはアマノジャクに過ぎるかもしれませんが、これだけ色々な方が個人の視点から歴史を描いているのであれば、むしろより大きな枠組みから広く歴史を捉えることが改めて必要なのだと思います。もっとも、細谷先生などは評伝的な研究を刊行される一方で、『イギリスとヨーロッパ――孤立と統合の二百年』(勁草書房、2009年)などの大局的な視点に立った編著書を出されているので、どちらにすべきということではないのかもしれませんが……。



枕のつもりで書いていた話がダラダラと長くなり過ぎました。

水曜日

2限:国際政治論特殊演習(院ゼミ)

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前回に引き続き、David A. Welch, Painful Choices: A Theory of Foreign Policy Change の輪読。今回は、Chapter 4 American Boys in an Asian War が範囲でした。

前回のエントリーでは、単に「test drive」と書きましたが、これが「検証(test)」ではなく「試行(test drive)」だということはこの本を考える上で重要なポイントのひとつです。「検証」であれば、結局のところ提示された理論が正しいという結論が導かれることが容易に想像できますが、本書の場合はあくまで「試行」であり、理論がどういったケースであれば有効なのか、その逆はどうなのかといったことそのものが重要になってきます。本章で取り上げられるケースはアメリカのベトナム介入で、章の冒頭で掲げられるこのケースの持つ意味は、「複数回の政策変化を伴う安全保障領域の単一事例」ということです。

今回は発表担当だったので、詳細に説明することも出来ますが、ここでは章全体の特徴と議論になった部分を取り上げるだけにしておきます。まず第三章とは異なり、本章はケースの説明→各仮説の検証といったスタイルは取っておらず、理論分析が埋め込まれた形の叙述スタイルを取っていることが指摘出来ます。

また、理論にとって都合のいい部分を切り取ってつなぎ合わせたわけではなく、インタビューや公刊資料をふんだんに利用するとともに、各政策担当者(ジョンソン大統領、マクナマラ国防長官、ラスク国務長官、マクジョージ・バンディ大統領補佐官、ボール国務次官、ウィリアム・バンディ国務次官補)の認識に焦点を当てた分析をかなり踏み込んで行っていることも指摘しておくべきでしょう。一方、ニクソン政権についてはかなりざっくりとした叙述なので、章の後半はややがっくり来てしまう部分がないわけではありません。

ここまでスタイルに関する説明ばかりをして、この章のテーマについて説明していないことに気が付きました。この章のポイントとなる政策変化は、「アメリカのベトナム撤退」です。つまり、ジョンソン政権による北爆開始によるベトナム戦争の「アメリカ化」と、ニクソン政権におけるパリ協定締結によるベトナムからの撤退決定が説明される政策として提示されています。

実は本章についてもっとも議論が集中したのは、この二つを政策変化とするのが適当かといった点でした。著者は、北爆開始は従来の政策をエスカレートさせただけで、アメリカによる南ベトナム支援という点では政策は「変化」していないことと、アメリカのベトナム政策には最後まで惰性(inertia)が見られたことを重ねて指摘しています。しかし、北爆開始決定は本当に「変化」ではないのでしょうか。また、パリ協定締結までアメリカの政策は本当に「変化」していなかったのでしょうか。

こうした点は「変化」をどのように定義するかにかかっているわけですが、一つの可能性としては、それまでの政策とベクトルが正反対になったことを「変化」とすることが考えられます。このように考えれば、確かに北爆開始は「変化」ではないと言えるかもしれませんが、パリ協定締結よりはむしろ米中接近の方が大きな「変化」として説明することが可能です。

この辺りまで話が発展してきた段階で、本章の議論とはかなりずれてきてしまったのですが、「変化」をいかに定義するかというポイントは、この本全体を考える上でも重要な問題であるのではないかというのが先生のコメントでした。著者自身は、わざわざ「Turning Points」という説を設けて、このケースにおけるポイントがどこにあるかを説明しているのですが、やはりここの議論は苦しいのではないのかというのが、参加者の一致した意見でした。

色々と興味深いポイントが溜まってきたので、12月にWelch先生がいらした時に色々と質問することにしたいと思います。



木曜日にはプロジェクト科目(政治思想研究)がありましたが、こちらは修士二年生の修士論文の中間発表だったのでここに書くには適さないと思うので、今回はひとまずこんなところで。

at 17:22|PermalinkComments(0)ゼミ&大学院授業 | 本の話

2009年11月10日

国際政治学会/先週の授業(11月第1週)

国際政治学会@神戸に行ってきました。

今年は金曜日&土曜日の参加でしたが、自分の専門に近い研究発表が多かったこともあり、どのセッションもとても興味深かったです。ただ、昨年はそれなりに幅広い分野のセッションに参加したのに対して、今年は参加したセッションの全てが歴史系だったので、自分の研究に引き付けた時に得られたものが多かった半面、興味関心を広げる、新たな議論を吸収するといった点では少し失敗したような気もしています。

事前に一番楽しみにしていたセッションは、大学院の先輩二人が報告した「パックス・アメリカーナと戦後日本の自主外交」だったのですが、これは期待通りとても勉強になるセッションでした。部会報告ということで事前に提出されていた論文はどれも力の入ったもので、各報告も中身がギュッと詰まったものでした。もっとも、「パックス・アメリカーナ」や「自主外交」という論争的なキーワードが部会名に並んでいたことから事前に予想されたように、各報告そのものというよりも、「自主」や「協調」の定義をめぐって言わば「空中戦」が繰り広げられたのは、それはそれで面白いものの、中身に関心がある者としては残念なところです。とりわけ、各報告が保城広至「「対米協調」/「対米自主」外交論再考」『レヴァイアサン』(2007年春)を念頭に置いて、各自の定義にひと工夫を加えていただけに、もう少し各自の報告に即した議論が行われていればよかったような気もしますが、討論の時間が限られ、聴衆の専門分野が様々な部会という場では難しい注文なのかもしれません。いずれにしても、日本外交史という分野についてあれだけ注目が集まるということは、これから学会報告をしたいと考えている駆け出しの院生にとっては心強いものです。

その他、初日に行われた部会「国際政治史の新潮流」では、日本外交を考える上で手掛かりを与えてくれる三つの報告だったので、これもとても勉強になりました。とりわけ自分の研究との関係では、潘亮先生の1960年代後半から70年代半ばにかけてのオーストラリアの対日政策に関する研究はとても勉強になりました。潘先生は、ニクソン政権初期の対日安保政策に関してDiplomatic History 誌に論文を出されており、各国の対日政策を並べてみた時に見えてくる日本像は、日本外交を研究している自分にとっては非常に興味をそそられる部分が多かったです。他の二つの報告もとても勉強になりましたが、三つの報告が必ずしも統一的な問題意識を持ってなされたわけではないこともあり、部会としての印象というよりは各報告に対する印象が残ったように思います。

この点で、東アジア国際政治史の分科会「「台湾問題」をめぐる国際政治史」は、テーマと取り上げている時代が重なっていることもあり、二つの報告を比較した時に見えてくるものがとても興味深かったです。それは具体的な議論そのものということもあるのですが、それだけではなく分析の射程やその視角といった点で、説明対象をどのように置くかが研究にとっていかに大切かという点を考えさせられました。また、この分科会では司会者の先生がおっしゃっていたように、従来、東アジアの国際政治史は、欧米諸国の資料を中心に書かれていたが、今回の二つの報告は東アジア諸国(日本を含む)の資料を中心にして欧米諸国の資料は補完的に用いられている点も印象的でした。

以上が日本外交関連のセッションですが、この他に今回は欧州国際政治史・欧州研究の分科会「冷戦期外交の再検討」、アメリカ政治外交の分科会「Odd Arne Westad, The Global Cold War の書評会」に出てみました。The Global Cold War は院生仲間でやっている読書会で取り上げましたし(リンク)、先々週末には同じ読書会で70年代初頭のヨーロッパ政治協力(EPC)を取り上げた、Daniel Möckli, European Foreign Policy during the Cold War: Heath, Brandt, Pompidou and the Dream of Political Unity, (London: I.B. Tauris, 2009) を読んでいたので、どちらのセッションもとても興味深いものがありました。後者の本については、近いうちにここで書評をしておきたいと思います。

「冷戦期外交の再検討」は、どの報告も論文が事前にアップされており、事前に読んでいたので、門外漢ながら何とか議論についていくことが出来ました。特にこれまで日本での研究が少なかった60年代から70年代にかけてのドイツ外交について本格的な研究報告を聞くことが出来た点は収穫でした。また、「Odd Arne Westad, The Global Cold War の書評会」では、終了後に討論者の先生から自分の常々感じていた疑問についてWestadが書いている論文があることを教えて頂いたりと、こちらも収穫が色々とありました。

以上は参加したセッションですが、それ以外にも研究分野が近い先生とお話しすることが出来たり、やはり遠かろうと学会には参加しておくべきものだなと感じました。また、昨年同様に名刺代わりになる論文がない自分にとっては、改めて「研究者の最底辺」にいることを再確認しました。出来れば来年は何らかの形で報告をしたいものです。



忘れない内に先週の授業について簡単に。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊演習(院ゼミ)

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David A. Welch, Painful Choices: A Theory of Foreign Policy Change の輪読。今回からケーススタディの章に入り、Chapter 3 Useless Islands Disputesを読みました。

皮肉の効いた章の題名からどんなケースが取り上げられているかを想像出来るかもしれませんが……そうです、我が日本の北方領土政策が取り上げられています。ちなみに、もう一つのケースはアルゼンチンのフォークランド(マルヴィナス)紛争です。

この章では、フォークランド紛争に関しては、それまでの外交による解決模索という政策が武力行使による占領へと外交政策が変化したこと、北方領土問題についてはソ連解体という好機の到来にも関わらず日本の政策が基本的に変化しなかったことが、それぞれ前章までに提示した理論のtest driveとして検証されています。

どちらのケースも、それぞれ歴史的な前提を含めて丁寧に事例が取り上げられておりよく説明されているのですが、全体としてはこの二つのケースを並べて論じるのは難しいのではないかという印象を持ちました。

二つのケースの共通点として挙げられるのは、①実質的な価値がない島嶼であること、②武力による領土割譲の結果として相手国に支配されていること、③相手国が核保有国でありこれまで外交交渉が続けられてきたこと、の三点です。しかし、フォークランドではアルゼンチンは武力行使に踏み切り、北方領土では日本はこれまで同様の外交交渉を継続したというように、一方のケースでは政策が「変化」し、もう一方では政策が「継続」したわけです。それはなぜか、ということが検討され、それぞれ著者の提示した理論がよく当てはまるというのが本章の暫定的な結論となっています。

本書で提示されている理論は、①外交政策の変化は権威主義で非官僚制の国家の方が民主主義で官僚制が発達した国家で起こりやすい、②外交政策の変化は、それまで採られていた政策が繰り返し失敗した場合や致命的に失敗した場合、あるいは指導者がこのまま続ければそうなると判断した時に起こりやすい、③指導者は利益を得るためよりも、同じだけの損失を避けるために政策変化を行う傾向がある、という三点です。

そして、こうした理論を導き出すために用意される分析のための6つの前提条件は、①指導者のレファレンス・ポイント(政策決定の基準)、②指導者の現状認識、③採りうる代替案、④指導者の代替案に対するリスク評価、⑤実際に行われた政策、⑥国家の政体、で、本章ではこれらが各ケース共に丁寧に検討されています。

それでは日本とアルゼンチンは何が違ったのかということですが、それは、①政策を変化させる期限の有無、②代替案の可能性に対する認識、③国際社会の規範的制約への認識、がそれぞれ違ったというのが著者の議論です。確かにそうだろうな、と思いつつも、そもそも日本に外交交渉の継続以外の代替案が無かったのであれば、結局日本の政策が変わらないのは当たり前じゃないか、というのが授業での議論を読んでいて感じたことです。

もっとも、各事例の分析は鮮やかで面白いものだったので、今週以降さらに事例研究を読み進めていった上で、もう一度この章の意味についても考えることにしたいと思います。ちなみに今週のテーマは、アメリカのベトナム介入です。

<木曜日>

5限:プロジェクト科目(政治思想研究)

前週の報告(「ポスト・デモクラシーの政治空間:危機の時代における芸術=政治をめぐって」)を受けてのディスカッション。といっても、前週欠席してしまったので特に出る幕なし。毎学期感じることですが、政治思想史を専攻する某先輩の報告はシャープでハッとさせられます。

「フラッシュ・モブ」や「アート・アクティヴィズム」を積極的に評価しようという報告趣旨が妥当かという点は置いておくとしても、それを説明する際の枠組み(=公共空間の閉塞状況をシャンタル・ムフの議論とその陥穽たる現実の政治状況から説明すること)が必ずしもうまく論旨にはまっていないのではないかというのが自分の感想なのですが……。この点も、実際の報告を聞いていないので何とも言えないところです。

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