2009年09月
2009年09月27日
授業評価アンケートより
私が大学に入った頃からか、授業評価アンケートなるものが行われるようになりました。何もリアクションがないような状態と比べればいいことなのかもしれませんが、どうも「先生」を学生がアンケートのような形で評価するということはあまり好きになれません。
さて、そんな個人的な意見はともかくとして、私の出身学部の授業評価アンケートが学部掲示板のところにあったので手に取って見たところ、某准教授の応答欄の最後にこんな文章が。
授業中に出てくるジョークについては、「ノート作成の息抜きになる」「もっと言え」という意見もある一方、「寒いぞ」「わざとらしい」との批判も頂戴しました。芸風を高めるべく、より一層の精進を続ける所存です。
授業評価アンケートへの応答でこんなことを書かなくても(笑)
さて、そんな個人的な意見はともかくとして、私の出身学部の授業評価アンケートが学部掲示板のところにあったので手に取って見たところ、某准教授の応答欄の最後にこんな文章が。
授業中に出てくるジョークについては、「ノート作成の息抜きになる」「もっと言え」という意見もある一方、「寒いぞ」「わざとらしい」との批判も頂戴しました。芸風を高めるべく、より一層の精進を続ける所存です。
授業評価アンケートへの応答でこんなことを書かなくても(笑)
2009年09月24日
バーダー・マインホフ
気持ちがいい気候が続いた大型連休の間も、大学院生たるものやらなければいけないことに限りはないわけで、気がつけば大学に足を運んでしまった自分がいます。それにしても今年は秋の訪れがとても早いようで、大学のキャンパスに銀杏(ぎんなん)がちらほらと落ち始めているのは驚きです。
さて、気が付けば夏期休暇も終わり、今日から後期がスタートです。といっても、履修しているのは二コマだけなので、生活は全く変わらないわけですが、それでも気分を入れ替えて頑張っていこうと思います。
◇
以前のように、勉強・研究生活の日常をつづるわけでもなく、気になった新刊書や読み終えた本の紹介をコンスタントにするわけでもなくなってしまったため、このブログをどう使っていくのかがいまいち定まっていない今日この頃ですが、「おはようからおやすみまで学界を見つめる」ようなことは知的変態サラリーマンに任せるとして、気が向いた時に駄文を書き連ねるというのがいいのでしょうか。
ブログ更新が滞るひとつの理由は、アルバイトの話や元外交官へのインタビューのプロジェクトなどここに詳細を書けないような活動が徐々に増えてきたことなのですが、もっと根本的な理由は、いま取り組んでいる論文にやや苦しんでいるからなのでしょう。本業の研究に決着がつかないと、なかなか他の事でまとまった文章を書く気にならないのは、まだまだ頭の切り替えがうまく出来ていないことによるものなのかもしれません。
◇
あまりこのブログには書いていませんが、ちょこちょこと趣味の映画鑑賞は続けています。最近観た中で印象深かったのは「バーダー・マインホフ 理想の果てに」(公式サイト)です。ドイツ赤軍(RAF)を取り上げた映画で、「おくりびと」が受賞した今年のアカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされていました。
さて、いつもは気分転換も兼ねて映画を観ているのですが、自分の研究している時代にほぼそのまま重なっていることもあり、研究を忘れるための息抜きにはなりませんでした(苦笑)。もっとも、普段は研究対象の関係で、権力側の視点からこの時代を見ているので、違った視点から同じ時代を視るのは新鮮なものです。
話自体は比較的史実に忠実に作られているようで、ドイツ赤軍の約10年を淡々と描いているため、背景の知識が無いとあっという間に話が進んでいく印象があるかもしれません。この映画が興味深いのは「淡々と」という点で、体制側・反体制側のどちらにも肩入れするわけでもなく、とにかく淡々と運動の盛り上がりと崩壊の過程を描いているところです。
色々と背景や事情を調べてからもう一度観たい映画です。
さて、気が付けば夏期休暇も終わり、今日から後期がスタートです。といっても、履修しているのは二コマだけなので、生活は全く変わらないわけですが、それでも気分を入れ替えて頑張っていこうと思います。
◇
以前のように、勉強・研究生活の日常をつづるわけでもなく、気になった新刊書や読み終えた本の紹介をコンスタントにするわけでもなくなってしまったため、このブログをどう使っていくのかがいまいち定まっていない今日この頃ですが、「おはようからおやすみまで学界を見つめる」ようなことは知的変態サラリーマンに任せるとして、気が向いた時に駄文を書き連ねるというのがいいのでしょうか。
ブログ更新が滞るひとつの理由は、アルバイトの話や元外交官へのインタビューのプロジェクトなどここに詳細を書けないような活動が徐々に増えてきたことなのですが、もっと根本的な理由は、いま取り組んでいる論文にやや苦しんでいるからなのでしょう。本業の研究に決着がつかないと、なかなか他の事でまとまった文章を書く気にならないのは、まだまだ頭の切り替えがうまく出来ていないことによるものなのかもしれません。
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あまりこのブログには書いていませんが、ちょこちょこと趣味の映画鑑賞は続けています。最近観た中で印象深かったのは「バーダー・マインホフ 理想の果てに」(公式サイト)です。ドイツ赤軍(RAF)を取り上げた映画で、「おくりびと」が受賞した今年のアカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされていました。
さて、いつもは気分転換も兼ねて映画を観ているのですが、自分の研究している時代にほぼそのまま重なっていることもあり、研究を忘れるための息抜きにはなりませんでした(苦笑)。もっとも、普段は研究対象の関係で、権力側の視点からこの時代を見ているので、違った視点から同じ時代を視るのは新鮮なものです。
話自体は比較的史実に忠実に作られているようで、ドイツ赤軍の約10年を淡々と描いているため、背景の知識が無いとあっという間に話が進んでいく印象があるかもしれません。この映画が興味深いのは「淡々と」という点で、体制側・反体制側のどちらにも肩入れするわけでもなく、とにかく淡々と運動の盛り上がりと崩壊の過程を描いているところです。
色々と背景や事情を調べてからもう一度観たい映画です。
2009年09月13日
ゼミ合宿に行ってきました
火曜日から木曜日まで二泊三日でゼミ合宿@河口湖へ行ってきました。
昨年は、先生が帰国したばかりということで五期生(三年生)のみでしたが、今回は六期生が加わり賑やかな合宿でした。初日昼から二日目昼まで勉強プログラム(三年生はほぼ徹夜)、二日目の午後はスポーツ、夜は飲み会、三日目は各自で遊びつつ帰宅という流れは相変わらずで、輪読をしたり研究発表をやる普通のゼミ合宿とは異なるスタイルはほぼ定着したようです。
二日目から留学間際の後輩が一人参加してくれたので、良くも悪くも昨年のような「引率のお兄さん」気分を感じることもありませんでした。合宿全体については三年生の係を中心に、勉強プログラムについては四年生の学事係を中心にそれぞれに入念な準備がなされていたことには頭が下がります。ほとんどフリー・ライダーとして学生気分を味わった三日間だったように思います。
昨年の修善寺合宿に続いて、今回の河口湖合宿もいい思い出になりました。
◇
勉強プログラムについて簡単に書いておきます。
昨年も同じようなことを書いたような気もしますが、田所ゼミでは合宿初日から二日目昼まで勉強プログラムを行い、その中でヴァーチャル・ヒストリーに取り組むことが通例になっています。
ヴァーチャル・ヒストリーはカウンターファクチュアル・ヒストリーと称されることもあるように、反実仮想(=歴史のif)を取りいれた「歴史」であり、海外ではこの10年程の間に様々な研究者による成果が発表されるようになりました。もっとも、主導している歴史家はニーアル・ファーガソン(Niall Ferguson)やアンドリュー・ロバーツ(Andrew Roberts)といった毀誉褒貶のある歴史家達なので、学問的にどれだけ市民権を得ているのかは議論が分かれるところかもしれません。
ちなみに昨年度後期に授業を受けたデーヴィッド・ウェルチ(Daivd A. Welch)先生も、ケネディがもし生きていたらベトナム戦争はどうなったのか、ということを検討したヴァーチャル・ヒストリーを共著で出しています。この本を原作とした映画があるのですが(公式サイト)、日本では公開されないのでしょうか。
閑話休題。研究手法としては賛否両論があるというか否定的見解の方が強いと思いますが、これは教育手法としては有用だろうということで、田所ゼミの夏合宿では恒例のプログラムとなっています。
「ヴァーチャル・ヒストリーの何が良いのか、それは正解が無いこと」というのが先生の口癖です。そもそも起こっていない歴史を考えるわけで、正しい答えがあるわけがありません。そもそも歴史に「正解」があるという立場を取る歴史家はほとんどいないと思いますが、それでも正しいとされる歴史に関する知識が他の人よりあれば、通常の授業で歴史を取り上げる際に有利なことは否定できないと思います。
しかし、このヴァーチャル・ヒストリーでは、歴史の知識があるものが有利とは限らないというのが面白いところです。私がこのプログラムに参加するのは、今回が四回目ですが、全体の印象としては歴史に関する知識が相対的にあるグループは、現実の歴史に引きずられ過ぎてしまい、いきいきとしたヴァーチャル・ヒストリーを描くことが出来ない傾向があるようです(事実、四年前に自分がいたグループもそうでした)。知識がない方が素直にifを受け入れて論理的に反実仮想の歴史を描けるというのは興味深いことで、いかに「知識」が柔軟な思考の邪魔をするのかを思い知らされます。これは普段のゼミの場で大きな顔をしている知識があるゼミ生が、案外とヴァーチャル・ヒストリーでは活躍が出来ず、逆に普段は知識があるゼミ生に押されがちな目立たないゼミ生が活躍を出来るということです。
こうしたヴァーチャル・ヒストリーそのものの特徴に加えて、グループを三つ~四つに分けて取り組むことが、この合宿のプログラムとして重要な点です。田所ゼミの場合、留学等で多少人数は変わりますが通常の授業は15人+先生で行います。普段はそれほど発言しない学生も3~4人程度のグループとなると、発言しないわけにはいきませんし、逆に普段喋っている学生もうまく周りを説得しなければいけません。
前置きが長くなりました。昨年は四年生がいなかったので先生が問題を作って三年生が取り組むという形でしたが、今年は三・四年が揃ったので、例年通り四年生が問題を作成し三年が取り組み、出された問題を含めた講評を先生と院生が行うという形式となりました。四年生が考えた今年の問題のテーマは「1930年代における対独宥和政策」でした。A4で20枚近い参考資料を含めて、四年生の事前準備には圧倒されました。問題は二段構えで、第一問は(ヒトラー政権発足以降)英仏の宥和政策が転換しえた時期を答えよ、第二問は第一問の解答を前提にその後20年程度のの仮想の国際関係史を記述せよ、というものでした。
やはり重要なのは、ifが指定された上でヴァーチャル・ヒストリーを考える形式ではなく、ifそのものをどのように設定するかも三年生に任されていた点でしょう。この形式は昨年も取られたもので、回答者がなかなか大変だなと思ったことを覚えています。この点はその他の点と併せて講評会でも指摘したのですが、ifも回答者が設定した場合は回答の幅が広がるという面がある一方で、そもそもどの条件を変えるのかという点がぶれるので、回答間の比較が難しいという問題があります。
といった問題点もあるものの、講評会での各グループのコメントを聴き、自分でも色々と考えてみると、ifそのものも回答者が設定する方が出てくるものがうまい具合にばらつくしいいのではないのかなとも思いました。講評会の際は院生の役割に徹して、やや微に入り際に入り厳しめのコメントと、四年生とは異なる採点基準を提示したりしましたが、それは役割に応じたご愛嬌ということで。
さて、ここまで思いついたままにダラダラと書いてきたのですでに文章が荒れに荒れているわけですが、ついでに合宿中にヴァーチャル・ヒストリーについて考えたことをさらにダラダラと書いておくことにします。
ヴァーチャル・ヒストリーの最も大きなポイントは、いかなるifを設定するのかということにあります。実際に起こった(とされる)歴史のどの時点を変えるのかによって、ヴァーチャル・ヒストリーの試み自体の意義のかなり大きな部分が変わってきます。
抽象的な話をしていても分かりにくいので、例を挙げてみます。一番分かりやすいのは、個人要因を変化させるということです。これは上記のウェルチ先生の本の引き写しですが、「もしケネディが暗殺されていなかったら?」というifは、指導者のパーソナリティを「ジョンソン→ケネディ」に変化させることによって歴史がどのように変わるのかを分析することに繋がります。この点についてはVietnam If Kennedy Had Lived が政治心理学のアプローチを採っていることからも明らかでしょう。個人要因を変化させるifとしては、他にも「もしスターリンの死去の時期がずれていたら?」といったことが容易に考えられます。
こうしたifを立てた場合、強硬なネオ・リアリストの答えは「何も変わらない」というものになってしまうと思われます。ここで重要なのは、そもそもこういったifを立てる時点で、どういった経路をたどるにしても個人要因が国際政治に効いているという前提がifに含まれているということです。全てを個人要因で説明する英雄史観を取る学者はほとんどいないと思いますが、強力な政治指導者の危機における決断を重視する政治心理学的なアプローチを取る学者や、媒介変数としての国内要因を重視する学者にとっては、政治指導者の変化は重要なものとして取り上げられることになるのでしょう。
あまりうまく説明が出来ていないのですが、要は国際政治観の違いによってifの立てられ方が異なるというのがここで強調したいことです。そして、その後のヴァーチャル・ヒストリーの展開も当然に国際政治観の違いを反映したものとなります。もし媒介変数として国内政治を考える必要がないと考えるのであれば、ヴァーチャル・ヒストリーの中で各国の国内情勢に触れる必要は全くないわけですし、逆に国際システムやパワー・バランスの重要性を認めない論者であれば、同盟関係の組み換えなどには触れる必要がなくなるわけです。
我々が通常研究を行う際には、「なぜ○○だったのか」といった形の問いを設定し、それに何らかの意味で「合理的」な説明をしていきます。実際には起らなかった可能性も含めて広く政策決定過程や政策構想を検討する必要性が強調されることもありますが、いずれにしても研究の結論としては「合理的」な説明が与えられ、明示的か否かは別にして独立変数が何かといったことが結論として提示されます。しかし、本当にそれでいいのか、ということを考える際にこの反実仮想やヴァーチャル・ヒストリーは有用です。
自分が前提としている国際政治観について深く考えることを、歴史を題材に研究しているとついつい忘れてしまいがちです。ヴァーチャル・ヒストリーによって浮き彫りにされる思考の枠組みのようなものに、自覚的であることは研究者にとっても重要なものなのではないでしょうか。
昨年は、先生が帰国したばかりということで五期生(三年生)のみでしたが、今回は六期生が加わり賑やかな合宿でした。初日昼から二日目昼まで勉強プログラム(三年生はほぼ徹夜)、二日目の午後はスポーツ、夜は飲み会、三日目は各自で遊びつつ帰宅という流れは相変わらずで、輪読をしたり研究発表をやる普通のゼミ合宿とは異なるスタイルはほぼ定着したようです。
二日目から留学間際の後輩が一人参加してくれたので、良くも悪くも昨年のような「引率のお兄さん」気分を感じることもありませんでした。合宿全体については三年生の係を中心に、勉強プログラムについては四年生の学事係を中心にそれぞれに入念な準備がなされていたことには頭が下がります。ほとんどフリー・ライダーとして学生気分を味わった三日間だったように思います。
昨年の修善寺合宿に続いて、今回の河口湖合宿もいい思い出になりました。
◇
勉強プログラムについて簡単に書いておきます。
昨年も同じようなことを書いたような気もしますが、田所ゼミでは合宿初日から二日目昼まで勉強プログラムを行い、その中でヴァーチャル・ヒストリーに取り組むことが通例になっています。
ヴァーチャル・ヒストリーはカウンターファクチュアル・ヒストリーと称されることもあるように、反実仮想(=歴史のif)を取りいれた「歴史」であり、海外ではこの10年程の間に様々な研究者による成果が発表されるようになりました。もっとも、主導している歴史家はニーアル・ファーガソン(Niall Ferguson)やアンドリュー・ロバーツ(Andrew Roberts)といった毀誉褒貶のある歴史家達なので、学問的にどれだけ市民権を得ているのかは議論が分かれるところかもしれません。
ちなみに昨年度後期に授業を受けたデーヴィッド・ウェルチ(Daivd A. Welch)先生も、ケネディがもし生きていたらベトナム戦争はどうなったのか、ということを検討したヴァーチャル・ヒストリーを共著で出しています。この本を原作とした映画があるのですが(公式サイト)、日本では公開されないのでしょうか。
閑話休題。研究手法としては賛否両論があるというか否定的見解の方が強いと思いますが、これは教育手法としては有用だろうということで、田所ゼミの夏合宿では恒例のプログラムとなっています。
「ヴァーチャル・ヒストリーの何が良いのか、それは正解が無いこと」というのが先生の口癖です。そもそも起こっていない歴史を考えるわけで、正しい答えがあるわけがありません。そもそも歴史に「正解」があるという立場を取る歴史家はほとんどいないと思いますが、それでも正しいとされる歴史に関する知識が他の人よりあれば、通常の授業で歴史を取り上げる際に有利なことは否定できないと思います。
しかし、このヴァーチャル・ヒストリーでは、歴史の知識があるものが有利とは限らないというのが面白いところです。私がこのプログラムに参加するのは、今回が四回目ですが、全体の印象としては歴史に関する知識が相対的にあるグループは、現実の歴史に引きずられ過ぎてしまい、いきいきとしたヴァーチャル・ヒストリーを描くことが出来ない傾向があるようです(事実、四年前に自分がいたグループもそうでした)。知識がない方が素直にifを受け入れて論理的に反実仮想の歴史を描けるというのは興味深いことで、いかに「知識」が柔軟な思考の邪魔をするのかを思い知らされます。これは普段のゼミの場で大きな顔をしている知識があるゼミ生が、案外とヴァーチャル・ヒストリーでは活躍が出来ず、逆に普段は知識があるゼミ生に押されがちな目立たないゼミ生が活躍を出来るということです。
こうしたヴァーチャル・ヒストリーそのものの特徴に加えて、グループを三つ~四つに分けて取り組むことが、この合宿のプログラムとして重要な点です。田所ゼミの場合、留学等で多少人数は変わりますが通常の授業は15人+先生で行います。普段はそれほど発言しない学生も3~4人程度のグループとなると、発言しないわけにはいきませんし、逆に普段喋っている学生もうまく周りを説得しなければいけません。
前置きが長くなりました。昨年は四年生がいなかったので先生が問題を作って三年生が取り組むという形でしたが、今年は三・四年が揃ったので、例年通り四年生が問題を作成し三年が取り組み、出された問題を含めた講評を先生と院生が行うという形式となりました。四年生が考えた今年の問題のテーマは「1930年代における対独宥和政策」でした。A4で20枚近い参考資料を含めて、四年生の事前準備には圧倒されました。問題は二段構えで、第一問は(ヒトラー政権発足以降)英仏の宥和政策が転換しえた時期を答えよ、第二問は第一問の解答を前提にその後20年程度のの仮想の国際関係史を記述せよ、というものでした。
やはり重要なのは、ifが指定された上でヴァーチャル・ヒストリーを考える形式ではなく、ifそのものをどのように設定するかも三年生に任されていた点でしょう。この形式は昨年も取られたもので、回答者がなかなか大変だなと思ったことを覚えています。この点はその他の点と併せて講評会でも指摘したのですが、ifも回答者が設定した場合は回答の幅が広がるという面がある一方で、そもそもどの条件を変えるのかという点がぶれるので、回答間の比較が難しいという問題があります。
といった問題点もあるものの、講評会での各グループのコメントを聴き、自分でも色々と考えてみると、ifそのものも回答者が設定する方が出てくるものがうまい具合にばらつくしいいのではないのかなとも思いました。講評会の際は院生の役割に徹して、やや微に入り際に入り厳しめのコメントと、四年生とは異なる採点基準を提示したりしましたが、それは役割に応じたご愛嬌ということで。
さて、ここまで思いついたままにダラダラと書いてきたのですでに文章が荒れに荒れているわけですが、ついでに合宿中にヴァーチャル・ヒストリーについて考えたことをさらにダラダラと書いておくことにします。
ヴァーチャル・ヒストリーの最も大きなポイントは、いかなるifを設定するのかということにあります。実際に起こった(とされる)歴史のどの時点を変えるのかによって、ヴァーチャル・ヒストリーの試み自体の意義のかなり大きな部分が変わってきます。
抽象的な話をしていても分かりにくいので、例を挙げてみます。一番分かりやすいのは、個人要因を変化させるということです。これは上記のウェルチ先生の本の引き写しですが、「もしケネディが暗殺されていなかったら?」というifは、指導者のパーソナリティを「ジョンソン→ケネディ」に変化させることによって歴史がどのように変わるのかを分析することに繋がります。この点についてはVietnam If Kennedy Had Lived が政治心理学のアプローチを採っていることからも明らかでしょう。個人要因を変化させるifとしては、他にも「もしスターリンの死去の時期がずれていたら?」といったことが容易に考えられます。
こうしたifを立てた場合、強硬なネオ・リアリストの答えは「何も変わらない」というものになってしまうと思われます。ここで重要なのは、そもそもこういったifを立てる時点で、どういった経路をたどるにしても個人要因が国際政治に効いているという前提がifに含まれているということです。全てを個人要因で説明する英雄史観を取る学者はほとんどいないと思いますが、強力な政治指導者の危機における決断を重視する政治心理学的なアプローチを取る学者や、媒介変数としての国内要因を重視する学者にとっては、政治指導者の変化は重要なものとして取り上げられることになるのでしょう。
あまりうまく説明が出来ていないのですが、要は国際政治観の違いによってifの立てられ方が異なるというのがここで強調したいことです。そして、その後のヴァーチャル・ヒストリーの展開も当然に国際政治観の違いを反映したものとなります。もし媒介変数として国内政治を考える必要がないと考えるのであれば、ヴァーチャル・ヒストリーの中で各国の国内情勢に触れる必要は全くないわけですし、逆に国際システムやパワー・バランスの重要性を認めない論者であれば、同盟関係の組み換えなどには触れる必要がなくなるわけです。
我々が通常研究を行う際には、「なぜ○○だったのか」といった形の問いを設定し、それに何らかの意味で「合理的」な説明をしていきます。実際には起らなかった可能性も含めて広く政策決定過程や政策構想を検討する必要性が強調されることもありますが、いずれにしても研究の結論としては「合理的」な説明が与えられ、明示的か否かは別にして独立変数が何かといったことが結論として提示されます。しかし、本当にそれでいいのか、ということを考える際にこの反実仮想やヴァーチャル・ヒストリーは有用です。
自分が前提としている国際政治観について深く考えることを、歴史を題材に研究しているとついつい忘れてしまいがちです。ヴァーチャル・ヒストリーによって浮き彫りにされる思考の枠組みのようなものに、自覚的であることは研究者にとっても重要なものなのではないでしょうか。
2009年09月05日
北岡伸一『日本陸軍と大陸政策』(続)
前回のエントリー(北岡伸一『日本陸軍と大陸政策』)は、投稿できる字数の関係で議論の部分を削ったので若干の補足をしておきます。
まず読書会での大きな論点としては、本書は「政治学的」か「歴史学的」かということです。こういった二分法の常として、つまるところ定義次第ということになりがちだという点を踏まえた上でのコメントですが、結論を言えば私はこの本は極めて「政治学的」な著作だと考えています。
確かに叙述部分の細かさや全体論的(holistic)な議論の進め方、政策決定要因に関する多元的な説明等は、読み手に本書の「政治学的」な側面を分かりにくくさせている側面があるのだと思います。しかし、緻密に計算された全体の構図や埋め込まれた視角としての「連合政治」的な政治理解といった点、細かいながらも体系的な叙述は、著者に「政治学的」な意識が極めて高かったことが表れているのではないでしょうか。また、坂野潤治先生が『國家學会雑誌』における紹介で評しているように、本書は「三つの時期の三つの大問題と三つの小問題をめぐる陸軍内部の三つの潮流」を分析しているわけですが、これによって一貫した叙述が犠牲にしたという面はあるにせよ、巧妙に単一事例の分析ではなく、時代や政策を比較した研究になっている点も特筆すべき点だと思います。
五月雨式に感想めいたことを書いていけば、こうした本書の分析対象の設定や議論の構図の作り方(そしてそれが抱える問題)は、戦後の日本外交を考える際に参考になるのみならず、例えば様々な政策領域で様々な形の展開があり、各国が入り乱れて各政策が展開していったヨーロッパ・デタント~超大国デタント期のヨーロッパを考える際にも参考になるのではないでしょうか。この点は、昨年ある授業でMBFRに関するイギリスの外交文書集を感じたことでもありますが、当該期のヨーロッパをどのような形で分析するのかは実に難しい問題です。政治学的な分析をするのみならず、そこに歴史の文脈を織り込んでいく、または逆に政治学的な問題関心を抱きながら歴史学的な研究を進めていく際には、本書は一つの手がかりを与えてくれるように思った……のですが、これはやや飛躍しすぎているかもしれません。
そんなことを、読書会の後に色々と考えました。他にも、細かい点や専門的なことで話題になったこともあるのですが、その点は関連する研究を読んだ時にでもまた書くことにします。
まず読書会での大きな論点としては、本書は「政治学的」か「歴史学的」かということです。こういった二分法の常として、つまるところ定義次第ということになりがちだという点を踏まえた上でのコメントですが、結論を言えば私はこの本は極めて「政治学的」な著作だと考えています。
確かに叙述部分の細かさや全体論的(holistic)な議論の進め方、政策決定要因に関する多元的な説明等は、読み手に本書の「政治学的」な側面を分かりにくくさせている側面があるのだと思います。しかし、緻密に計算された全体の構図や埋め込まれた視角としての「連合政治」的な政治理解といった点、細かいながらも体系的な叙述は、著者に「政治学的」な意識が極めて高かったことが表れているのではないでしょうか。また、坂野潤治先生が『國家學会雑誌』における紹介で評しているように、本書は「三つの時期の三つの大問題と三つの小問題をめぐる陸軍内部の三つの潮流」を分析しているわけですが、これによって一貫した叙述が犠牲にしたという面はあるにせよ、巧妙に単一事例の分析ではなく、時代や政策を比較した研究になっている点も特筆すべき点だと思います。
五月雨式に感想めいたことを書いていけば、こうした本書の分析対象の設定や議論の構図の作り方(そしてそれが抱える問題)は、戦後の日本外交を考える際に参考になるのみならず、例えば様々な政策領域で様々な形の展開があり、各国が入り乱れて各政策が展開していったヨーロッパ・デタント~超大国デタント期のヨーロッパを考える際にも参考になるのではないでしょうか。この点は、昨年ある授業でMBFRに関するイギリスの外交文書集を感じたことでもありますが、当該期のヨーロッパをどのような形で分析するのかは実に難しい問題です。政治学的な分析をするのみならず、そこに歴史の文脈を織り込んでいく、または逆に政治学的な問題関心を抱きながら歴史学的な研究を進めていく際には、本書は一つの手がかりを与えてくれるように思った……のですが、これはやや飛躍しすぎているかもしれません。
そんなことを、読書会の後に色々と考えました。他にも、細かい点や専門的なことで話題になったこともあるのですが、その点は関連する研究を読んだ時にでもまた書くことにします。
2009年09月03日
北岡伸一『日本陸軍と大陸政策』
前回の更新から一ヶ月近く経ってしまいました。
この間、基本的には二本目の公刊論文に向けた関連資料や研究の読み込みをしていたのですが、友人とともに静岡へ帰省したり、陸上自衛隊の富士総合火力演習を観に行ったり、総選挙を肴に酒を呑んだりとそれなりに色々なイベントがありました。
ひとまず先週金曜日に行った読書会で取り上げた本について。
◇
もともと冷戦史の古典を読むということで始めた読書会だったのですが、複数のメンバーの留学が重なったこともあり、少し趣向を変えて日本政治外交史の古典を読むことになりました。言い出しっぺの自分がやるしかないということで発表担当になったのはいいものの、この時代はあまり土地勘が無いのでまとめるのに非常に苦労しました。
なおサブテキストは、細かい専門的な議論をするよりはアプローチの違いについて考えた方が面白いだろうということで、小林道彦『日本の大陸政策』ではなく千葉功『旧外交の形成』の第III部と第IV部にしました。
・北岡伸一『日本陸軍と大陸政策 1906~1918』(東京大学出版会、1978年)
<目的と視角>
本書は、日露戦後から第一次大戦期(1906年~1918年)における「大陸政策の展開過程と陸軍の政治的独立過程とを、陸軍の大陸政策を中心として考察すること」を目的としている。大陸政策とは、「中国大陸に対する領土・権益・政治的影響力等の拡大を説く主張」の総体であり、分析に際しては、大陸政策を中国政策(大陸における利権獲得)と満州経営政策(実際の植民地経営政策)に相互の連関に留意しつつも二つに分けて検討すること、そして従来の通説である一体化した陸軍像の否定し、陸軍を「相互に対立をはらんだ複数の集団」として検討することという二つの視角が据えられている。
以上にまとめられる本書の基本的な構図が全体を通して貫かれていることはその構成を見れば明らかであろう。日中関係の変容を軸として、第一章は日露戦後から辛亥革命勃発まで、第二章は辛亥革命勃発から第一次大戦勃発まで、そして第三章は第一次大戦勃発から終了までが取り上げられる。この間、日本の大陸進出を抑制する三つの要因(中国の抵抗、列国の牽制、日本経済の脆弱性)は急激に変化した。各章の時期区分は、要因が変化するターニング・ポイントを踏まえたものである。
さらに、このように時代ごとに分けられた各章は、その内容によって?中国政策(対中政策及び対列強政策)を検討する第一節前半、?満州経営政策(鉄道問題、金融問題、経営機関問題)を検討する第一節後半、?陸軍をめぐる国内政治及び陸軍内の派閥対立を検討する第二節、の三つに分けることが出来る。また、?を分析するに際しては、陸軍の政策やその政治的位置が、他省庁(外務省、大蔵省)、関係機関(満鉄、正金銀行)、政党(政友会、同志会・憲政会)等との相互関係の中で分析されている。
<各章の概要>
第一章では、冒頭で「明治四〇年帝国国防方針」について確認した上で、中国政策について検討されている。この時期の陸軍の政策目標は、それまで中国の抵抗と欧米列強の介入(+アメリカ資本の進出)によって実体化しえなかった満州権益の国際的正当性の確立を課題とした。その際には、日露協商を軸に日英同盟・露仏同盟を加えた日露英仏協調が重視された。国際的正当性を得た満州権益をいかに経営していくかという満州経営政策に関する陸軍の基本方針は、ロシアとの戦略的競争関係を踏まえた鮮満一体化政策であった。陸軍は、鉄道・金融・経営機関の核問題について以上の観点から自らの政策を主張し、関係各機関と対立したのであった。陸軍の国内政治的位置と派閥対立については、第一に陸軍が長州閥の拠点であり藩閥を代表する勢力であったこと、第二に陸軍内部には長州閥と陸軍省の優位に支えられた寺内体制が確立されていたこと、第三に反寺内勢力を内包する上原派が台頭しつつあったこと、第四に国内政治の中で陸軍独自の役割が否定されていたことが明らかにされている。陸軍は藩閥勢力(≒官僚閥)の有力な存在となることによって、もう一方の主要な勢力であった政党(政友会)との協調の任に当たったのだった。
続く第二章では、辛亥革命勃発後が検討されている。当該期は辛亥革命勃発による中国国内の分裂にいかに対応するかが課題であったが、陸軍にとっては停滞期であり混乱期であった。この時期は、第三章で検討される第一次大戦期への過渡期的な性格が強いと言える。中国政策について、陸軍は中国国内の分裂を日中提携による満蒙進出の好機かつ日露英仏協調からの部分的な離脱を果たす好機だと捉えていたが、袁世凱による混乱の早期収拾及び列強の袁政権承認によって日中提携推進の道は閉ざされた。こうして中国政策について敗北を喫した陸軍であったが、満州経営政策については、この時期に陸軍の鮮満一体化政策が次第に優勢となっていった。陸軍の国内政治的位置と派閥対立については、陸軍内で長州閥に対する不満が鬱積していたことに加えて、対中積極政策の好機が訪れたという認識が高まったことによって、陸軍内部で主流派である寺内派と反主流派である上原派の対立が徐々に顕在化していったのがこの時期である。こうした対立の中で独自の地位にあったのが、政党との提携関係も視野に入れていた田中義一であった。しかしながら、大正政変によって政友会と陸軍が対立したことによって、この陸軍内部の対立は一旦は落ち着きを見せることになる。
本書のクライマックスとなる第三章では、第一次大戦期が取り上げられる。大戦勃発によって日本の大陸進出を抑制する三つの要因は大幅に緩和されることになる。大戦勃発当初における中国政策の主要な担い手は陸軍や長州閥ではなく外務省であった。こうして対華二十一カ条要求が対中政策の焦点となったのであるが、陸軍内部には寺内を中心とする「援助=提携」路線と上原はや田中、宇垣一成らの「威圧=提携」路線が対立することになる。こうした路線対立の背後にあったのは、自国に対する評価と関係していた。寺内は大戦後における列強の介入を警戒していたのに対して、田中らは大戦勃発後日本は「強国化」したと判断し、列強との協調を重視せず「威圧=提携」路線を追求したのであった。陸軍内部の路線対立は、具体的な満州経営政策における対立や大隈内閣後の挙国一致内閣構想といった国内政治における対立も巻き込んだものとなっていく。寺内が政党はあくまで「協賛」する存在と考え、陸軍を非政治化された存在にすることによって藩閥支配の下に置こうとしたのに対して、田中はこうした寺内に対する反対勢力であった。田中は、大陸政策の積極化と長州閥打破を主張して台頭した上原はと提携し、陸軍を藩閥支配から解放していったのである。さらに政党との提携にも積極的だった田中は、寺内内閣後に成立した原敬内閣において陸相となり、名実ともに寺内後の陸軍指導者となった。こうした田中によって主導された陸軍の政治勢力としての独立は、ワシントン体制期の大陸政策と、政党政治の確立とを、藩閥勢力内部から準備・促進していったことにほかならなかった。
<評価と若干の疑問点>
以上のように、本書は見事に日露戦後から第一次大戦終結までの日本の大陸政策の展開と陸軍の政治勢力としての長州閥からの独立過程を描き切っている。ここでは、陸軍内部の対立を中心に紹介したが、本文中で他省庁・関係機関・政党の政策構想も含めて立体的な分析がなされていることは、冒頭で紹介したとおりである。
研究史的に見れば、それまで外務省中心の日本外交史が主流を占め、その対抗勢力として一枚岩なものとして描かれてきた陸軍像を、政策的な対立とも連動した内部の派閥対立を明らかにすることによって全面的に覆した点に本書の最も大きな意味がある。もちろん、本書は出版から30年以上を経ており、その後の研究(代表的な研究として、小林道彦『日本の大陸政策 1985-1914』)によって本書の主張が覆された部分も存在する。しかしながら、本書の描き出した陸軍内の派閥対立の構図の大枠はその後の研究でも受け継がれていると言って差し支えないだろう。
以上のような研究史的な位置が本書に与えられるに至った大きな理由は、その体系的な議論の展開と徹底した史資料の読み込みに求められよう。後者について論じることは門外漢の評者の手に余ることであり、ここでは前者に絞って若干の論評を試みたい。第一に、本書では日露戦後から第一次大戦期を明確な時代認識に基づいて三つの時期に分けて検討されているが、それにとどまらず当該期が、より広い時期の中でどのような位置にある時期だったのかについても明確に意識されている。こうした明確な時代認識に支えられた研究は必ずしも多くない。第二に、本書のメインとなる検討対象は陸軍であるが、陸軍の藩閥からの政治的独立過程を描くという目的を置くことによって、藩閥や政党勢力といった日本政治の主要アクターが分析射程に入ってくる。さらに、大陸政策を中国政策とともに具体的な満州経営政策も含めて検討することにより、通常陸軍の反対勢力として取り上げられる外務省のみならず正金銀行や満鉄が分析されることになる。こうして本書は、陸軍を通して、この時期の日本の大陸政策と国内政治の全体像を体系的に描くことにかなり高いレベルで成功しているのである。
このように高く評価すべき本書であるが、全く問題がないわけではない。まず考えなければならないのは「大陸政策」という本書の提示する枠組みであろう。「大陸政策」とは当該期の日本の対外政策を分析するいくつかある視点の一つに過ぎない(この点については千葉功の小林道彦『日本の大陸政策』に対する書評でも言及されている)。確かに日本の敗戦に至る歩みは「大陸政策」に導かれたものであった。しかしながら、こうした見方はあくまでも後の歴史を投影したものであり、果たして日露戦後から第一次大戦期の日本に「大陸政策」なる政策概念があったのかには疑問の余地が残る。
以上の点とも関連するが、本書が暗黙理の前提として採っている内政と外交の連関を重視する政治外交史というアプローチについても検討する必要があるだろう。本書よりやや広い時代(1900年~1919年)を、あえて古典的な日本外交史の方法論に立脚して検討した千葉功は、日露戦後から第一次大戦期を「多国間同盟・協商網」(一般的な用語では「同盟協商体制」)の成立と崩壊過程として捉え、1900年以降を日本が「旧外交」に習熟していった時代と描き出している 。本書は、国内政治と対外政策を「大陸政策」という視角で繋げることによって捉えようとしているが、この時代における大陸進出の重要性は果たして後の1930年代以降と同様に捉えることは出来るのであろうか。
<おわりに>
すでにアプローチに関して本書から離れた議論を展開しているが、最後に戦後を研究している立場から若干のコメントをしておきたい。まず政治外交史というアプローチに関してであるが、本書で明確にされたように、確かに戦前は政治外交史アプローチが有効であろう。戦前は、藩閥、政党、軍部、官僚が相互に合従連衡し、人材的にも相互に交流があったが 、戦後は官僚出身の政治家が重要な意味を果たしたとはいえ、政策の専門性がより上がり政策「決定」においても官僚の影響力は上昇し、年を経るごとに官僚から政治家への転身する者も高齢化していった。外交に関する官庁間の対立としては、大蔵省と他省庁、外務省と通産省、外務省と防衛庁の対立がしばしば強調されるが、それも戦前期とは異なるあくまで政策面の対立の側面が強く、政局を巻き込んだ対立が戦前期と比べれば明らかに少なくなっていることは間違いないだろう。こうした点を踏まえた時に、戦後を対象とした場合、政治外交史というアプローチの困難さが明らかになるのではないだろうか。戦後日本外交史研究をしている立場からは、政治外交史よりは国際関係史の方が相対的には意義を増しているように思われる。
この間、基本的には二本目の公刊論文に向けた関連資料や研究の読み込みをしていたのですが、友人とともに静岡へ帰省したり、陸上自衛隊の富士総合火力演習を観に行ったり、総選挙を肴に酒を呑んだりとそれなりに色々なイベントがありました。
ひとまず先週金曜日に行った読書会で取り上げた本について。
◇
もともと冷戦史の古典を読むということで始めた読書会だったのですが、複数のメンバーの留学が重なったこともあり、少し趣向を変えて日本政治外交史の古典を読むことになりました。言い出しっぺの自分がやるしかないということで発表担当になったのはいいものの、この時代はあまり土地勘が無いのでまとめるのに非常に苦労しました。
なおサブテキストは、細かい専門的な議論をするよりはアプローチの違いについて考えた方が面白いだろうということで、小林道彦『日本の大陸政策』ではなく千葉功『旧外交の形成』の第III部と第IV部にしました。
・北岡伸一『日本陸軍と大陸政策 1906~1918』(東京大学出版会、1978年)
<目的と視角>
本書は、日露戦後から第一次大戦期(1906年~1918年)における「大陸政策の展開過程と陸軍の政治的独立過程とを、陸軍の大陸政策を中心として考察すること」を目的としている。大陸政策とは、「中国大陸に対する領土・権益・政治的影響力等の拡大を説く主張」の総体であり、分析に際しては、大陸政策を中国政策(大陸における利権獲得)と満州経営政策(実際の植民地経営政策)に相互の連関に留意しつつも二つに分けて検討すること、そして従来の通説である一体化した陸軍像の否定し、陸軍を「相互に対立をはらんだ複数の集団」として検討することという二つの視角が据えられている。
以上にまとめられる本書の基本的な構図が全体を通して貫かれていることはその構成を見れば明らかであろう。日中関係の変容を軸として、第一章は日露戦後から辛亥革命勃発まで、第二章は辛亥革命勃発から第一次大戦勃発まで、そして第三章は第一次大戦勃発から終了までが取り上げられる。この間、日本の大陸進出を抑制する三つの要因(中国の抵抗、列国の牽制、日本経済の脆弱性)は急激に変化した。各章の時期区分は、要因が変化するターニング・ポイントを踏まえたものである。
さらに、このように時代ごとに分けられた各章は、その内容によって?中国政策(対中政策及び対列強政策)を検討する第一節前半、?満州経営政策(鉄道問題、金融問題、経営機関問題)を検討する第一節後半、?陸軍をめぐる国内政治及び陸軍内の派閥対立を検討する第二節、の三つに分けることが出来る。また、?を分析するに際しては、陸軍の政策やその政治的位置が、他省庁(外務省、大蔵省)、関係機関(満鉄、正金銀行)、政党(政友会、同志会・憲政会)等との相互関係の中で分析されている。
<各章の概要>
第一章では、冒頭で「明治四〇年帝国国防方針」について確認した上で、中国政策について検討されている。この時期の陸軍の政策目標は、それまで中国の抵抗と欧米列強の介入(+アメリカ資本の進出)によって実体化しえなかった満州権益の国際的正当性の確立を課題とした。その際には、日露協商を軸に日英同盟・露仏同盟を加えた日露英仏協調が重視された。国際的正当性を得た満州権益をいかに経営していくかという満州経営政策に関する陸軍の基本方針は、ロシアとの戦略的競争関係を踏まえた鮮満一体化政策であった。陸軍は、鉄道・金融・経営機関の核問題について以上の観点から自らの政策を主張し、関係各機関と対立したのであった。陸軍の国内政治的位置と派閥対立については、第一に陸軍が長州閥の拠点であり藩閥を代表する勢力であったこと、第二に陸軍内部には長州閥と陸軍省の優位に支えられた寺内体制が確立されていたこと、第三に反寺内勢力を内包する上原派が台頭しつつあったこと、第四に国内政治の中で陸軍独自の役割が否定されていたことが明らかにされている。陸軍は藩閥勢力(≒官僚閥)の有力な存在となることによって、もう一方の主要な勢力であった政党(政友会)との協調の任に当たったのだった。
続く第二章では、辛亥革命勃発後が検討されている。当該期は辛亥革命勃発による中国国内の分裂にいかに対応するかが課題であったが、陸軍にとっては停滞期であり混乱期であった。この時期は、第三章で検討される第一次大戦期への過渡期的な性格が強いと言える。中国政策について、陸軍は中国国内の分裂を日中提携による満蒙進出の好機かつ日露英仏協調からの部分的な離脱を果たす好機だと捉えていたが、袁世凱による混乱の早期収拾及び列強の袁政権承認によって日中提携推進の道は閉ざされた。こうして中国政策について敗北を喫した陸軍であったが、満州経営政策については、この時期に陸軍の鮮満一体化政策が次第に優勢となっていった。陸軍の国内政治的位置と派閥対立については、陸軍内で長州閥に対する不満が鬱積していたことに加えて、対中積極政策の好機が訪れたという認識が高まったことによって、陸軍内部で主流派である寺内派と反主流派である上原派の対立が徐々に顕在化していったのがこの時期である。こうした対立の中で独自の地位にあったのが、政党との提携関係も視野に入れていた田中義一であった。しかしながら、大正政変によって政友会と陸軍が対立したことによって、この陸軍内部の対立は一旦は落ち着きを見せることになる。
本書のクライマックスとなる第三章では、第一次大戦期が取り上げられる。大戦勃発によって日本の大陸進出を抑制する三つの要因は大幅に緩和されることになる。大戦勃発当初における中国政策の主要な担い手は陸軍や長州閥ではなく外務省であった。こうして対華二十一カ条要求が対中政策の焦点となったのであるが、陸軍内部には寺内を中心とする「援助=提携」路線と上原はや田中、宇垣一成らの「威圧=提携」路線が対立することになる。こうした路線対立の背後にあったのは、自国に対する評価と関係していた。寺内は大戦後における列強の介入を警戒していたのに対して、田中らは大戦勃発後日本は「強国化」したと判断し、列強との協調を重視せず「威圧=提携」路線を追求したのであった。陸軍内部の路線対立は、具体的な満州経営政策における対立や大隈内閣後の挙国一致内閣構想といった国内政治における対立も巻き込んだものとなっていく。寺内が政党はあくまで「協賛」する存在と考え、陸軍を非政治化された存在にすることによって藩閥支配の下に置こうとしたのに対して、田中はこうした寺内に対する反対勢力であった。田中は、大陸政策の積極化と長州閥打破を主張して台頭した上原はと提携し、陸軍を藩閥支配から解放していったのである。さらに政党との提携にも積極的だった田中は、寺内内閣後に成立した原敬内閣において陸相となり、名実ともに寺内後の陸軍指導者となった。こうした田中によって主導された陸軍の政治勢力としての独立は、ワシントン体制期の大陸政策と、政党政治の確立とを、藩閥勢力内部から準備・促進していったことにほかならなかった。
<評価と若干の疑問点>
以上のように、本書は見事に日露戦後から第一次大戦終結までの日本の大陸政策の展開と陸軍の政治勢力としての長州閥からの独立過程を描き切っている。ここでは、陸軍内部の対立を中心に紹介したが、本文中で他省庁・関係機関・政党の政策構想も含めて立体的な分析がなされていることは、冒頭で紹介したとおりである。
研究史的に見れば、それまで外務省中心の日本外交史が主流を占め、その対抗勢力として一枚岩なものとして描かれてきた陸軍像を、政策的な対立とも連動した内部の派閥対立を明らかにすることによって全面的に覆した点に本書の最も大きな意味がある。もちろん、本書は出版から30年以上を経ており、その後の研究(代表的な研究として、小林道彦『日本の大陸政策 1985-1914』)によって本書の主張が覆された部分も存在する。しかしながら、本書の描き出した陸軍内の派閥対立の構図の大枠はその後の研究でも受け継がれていると言って差し支えないだろう。
以上のような研究史的な位置が本書に与えられるに至った大きな理由は、その体系的な議論の展開と徹底した史資料の読み込みに求められよう。後者について論じることは門外漢の評者の手に余ることであり、ここでは前者に絞って若干の論評を試みたい。第一に、本書では日露戦後から第一次大戦期を明確な時代認識に基づいて三つの時期に分けて検討されているが、それにとどまらず当該期が、より広い時期の中でどのような位置にある時期だったのかについても明確に意識されている。こうした明確な時代認識に支えられた研究は必ずしも多くない。第二に、本書のメインとなる検討対象は陸軍であるが、陸軍の藩閥からの政治的独立過程を描くという目的を置くことによって、藩閥や政党勢力といった日本政治の主要アクターが分析射程に入ってくる。さらに、大陸政策を中国政策とともに具体的な満州経営政策も含めて検討することにより、通常陸軍の反対勢力として取り上げられる外務省のみならず正金銀行や満鉄が分析されることになる。こうして本書は、陸軍を通して、この時期の日本の大陸政策と国内政治の全体像を体系的に描くことにかなり高いレベルで成功しているのである。
このように高く評価すべき本書であるが、全く問題がないわけではない。まず考えなければならないのは「大陸政策」という本書の提示する枠組みであろう。「大陸政策」とは当該期の日本の対外政策を分析するいくつかある視点の一つに過ぎない(この点については千葉功の小林道彦『日本の大陸政策』に対する書評でも言及されている)。確かに日本の敗戦に至る歩みは「大陸政策」に導かれたものであった。しかしながら、こうした見方はあくまでも後の歴史を投影したものであり、果たして日露戦後から第一次大戦期の日本に「大陸政策」なる政策概念があったのかには疑問の余地が残る。
以上の点とも関連するが、本書が暗黙理の前提として採っている内政と外交の連関を重視する政治外交史というアプローチについても検討する必要があるだろう。本書よりやや広い時代(1900年~1919年)を、あえて古典的な日本外交史の方法論に立脚して検討した千葉功は、日露戦後から第一次大戦期を「多国間同盟・協商網」(一般的な用語では「同盟協商体制」)の成立と崩壊過程として捉え、1900年以降を日本が「旧外交」に習熟していった時代と描き出している 。本書は、国内政治と対外政策を「大陸政策」という視角で繋げることによって捉えようとしているが、この時代における大陸進出の重要性は果たして後の1930年代以降と同様に捉えることは出来るのであろうか。
<おわりに>
すでにアプローチに関して本書から離れた議論を展開しているが、最後に戦後を研究している立場から若干のコメントをしておきたい。まず政治外交史というアプローチに関してであるが、本書で明確にされたように、確かに戦前は政治外交史アプローチが有効であろう。戦前は、藩閥、政党、軍部、官僚が相互に合従連衡し、人材的にも相互に交流があったが 、戦後は官僚出身の政治家が重要な意味を果たしたとはいえ、政策の専門性がより上がり政策「決定」においても官僚の影響力は上昇し、年を経るごとに官僚から政治家への転身する者も高齢化していった。外交に関する官庁間の対立としては、大蔵省と他省庁、外務省と通産省、外務省と防衛庁の対立がしばしば強調されるが、それも戦前期とは異なるあくまで政策面の対立の側面が強く、政局を巻き込んだ対立が戦前期と比べれば明らかに少なくなっていることは間違いないだろう。こうした点を踏まえた時に、戦後を対象とした場合、政治外交史というアプローチの困難さが明らかになるのではないだろうか。戦後日本外交史研究をしている立場からは、政治外交史よりは国際関係史の方が相対的には意義を増しているように思われる。