2009年07月
2009年07月30日
夏休み!
授業が週二日しかない博士課程の大学院生であっても、夏バテに苦しもうとも、論文執筆に追われようとも、「夏休み」と聞くと何となくうかれてしまうのは人間の性というものでしょうか。
そんなわけで、先週末から映画を観に行ったり、野球を観に行ったりとちょこちょこと遊んでいます。明日からは四年前にも行ったROCK IN JAPAN FESTIVALに行ってきます。一度くらいはFUJI ROCKに行きたいのですが、相変わらず邦楽を聴き続けている自分にとっては、今回のROCK IN JAPANはメンバー的にもなかなか楽しみなところです。
◇
このブログには最近映画の話は全然書いていませんが、相変わらず趣味の映画鑑賞は続いています。今年も「フロスト×ニクソン」や「スラムドック$ミリオネア」等々、なかなか面白い映画がありました。
週末に観てきたのは、イタリア映画の話題作(といっても日本では二館のみの公開ですが)「湖のほとりで」(公式サイト)です。話自体はそれほど突飛なものではなく、ある田舎町で起きた殺人事件をめぐる謎解きが淡々と進んでいくというもので、ミステリーとして観てしまうと拍子抜けしてしまうこと確実だと思いますが、その背後にあるドラマや登場人物について考えてみるとなかなかいい映画だと思います。
「ニュー・シネマ・パラダイス、ライフ・イズ・ビューティフルに続く10年に一度の名作」という謳い文句に期待すると、「あれ?」という感じになるかもしれません。幾重にも張られた伏線がそのままになっていたりする部分もあるのですが、それもよくよく考えてみれば、観客に色々と考えさせられるしかけなのかもしれません。観た直後よりもちょっと経ってから、色々と考えが浮かんでくるという珍しい映画でした。
◇
久しぶりに出版社のPR誌について。
7月号が高安健将先生の『首相の権力』特集ということで、図書館に『創文』を探しに行ったところ、7月号はまだ入っていなかったのですが、代わりに6月号に題したヨーロッパの国際政治史を専門とされている大学院の先輩二人の小論(戦後合意として機能した欧州統合――シューマン・プランが欧州レベルの労使協調「体制」を生み出した、という仮説――/戦後フランスと「日本問題」)が掲載されているのを見つけました。
以前にも書いたかもしれませんが、『創文』に掲載される小論はただの学術調のエッセイではなく、細かい部分の実証は博士論文や他の公刊論文で行った上で書かれているので、この分量であっても実に読み応えがあります。さらに小論という性格上、また狭義の専門を離れた読者にもそのメッセージが明確に伝わるように書かれているのがポイントです。
今回の二つの小論もそういった点でとても興味深く一気に読みました。欧州統合史やフランス外交史の視座から書かれた小論を自分の問題関心に引きつけ過ぎるのはあまりよくないのかもしれませんが、
「戦後合意として機能した欧州統合」は、一見すると戦後日本外交史という私の専門とはあまり関係しないように思われます。しかし、「戦後合意」の問題や労使協調の問題は、中北浩爾先生の一連の研究が示しているとおり、戦後日本外交を考える上でも非常に重要な問題です。もちろん統合を歩んだヨーロッパと日本は異なります。そうであっても、ただ日本を日本として眺めるだけでなく、他の地域の展開を常に意識しておくことは忘れてはいけない視点です。今回の小論で書かれていた点は主に1950年代のことですが、1960年代に入れば日本はOECDに加盟しますし、第一次石油危機以降はマクロ経済政策の協調といった問題があり日本とヨーロッパがダイレクトに繋がるようにもなります。「経済大国」化した日本を国際社会の文脈において考えようとすれば、1950年代のヨーロッパの経験はその重要な前史として押さえておかなければなりません。
国際社会の文脈の中での日本を考えてみれば「戦後フランスと「日本問題」」が投げかけているメッセージも重要です。対日講和に至る流れの中で、フランスはどのようにこの問題を考えていたのかを検討したこの小論のメッセージは極めて明確です。一般に戦後日本外交史を考えてみれば、そこに存在する外国とは圧倒的にアメリカです。中国を加えることも可能かもしれませんが、アメリカと中国の二国のみを考えてその中に日本を置いてみると、そこから見えてくるのは両大国の狭間に置かれた日本ということになるのは当然の帰結だと思います。学説史上は、イギリスの公文書を用いた重要な戦後日本外交研究があることもあり、アメリカの視点が若干中和されているとも言えますが、それでもアングロ=サクソン中心という点では偏っています。そこにフランスの視点を加えた時に見えてくるものは何か、ということにこの小論は一つの答えを与えてくれます。それは、フランスにとってこの時期の「日本問題」は「ドイツ問題」と同じように極めて政治的な問題だった、ということです。小論の末尾に書かれた文章、「その後のフランスの「日本問題」といえば、「インドシナ」という政治的軍事的足場を失うことによって脅威論は安全保障面ではなく経済面に傾斜していった。それでも日仏関係史が「政治性」を失うことはなかったということは付言しておきたい」。この一文を踏まえて、いかに自分の研究を進めていくかを改めて考えさせられました。
そんなわけで、先週末から映画を観に行ったり、野球を観に行ったりとちょこちょこと遊んでいます。明日からは四年前にも行ったROCK IN JAPAN FESTIVALに行ってきます。一度くらいはFUJI ROCKに行きたいのですが、相変わらず邦楽を聴き続けている自分にとっては、今回のROCK IN JAPANはメンバー的にもなかなか楽しみなところです。
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このブログには最近映画の話は全然書いていませんが、相変わらず趣味の映画鑑賞は続いています。今年も「フロスト×ニクソン」や「スラムドック$ミリオネア」等々、なかなか面白い映画がありました。
週末に観てきたのは、イタリア映画の話題作(といっても日本では二館のみの公開ですが)「湖のほとりで」(公式サイト)です。話自体はそれほど突飛なものではなく、ある田舎町で起きた殺人事件をめぐる謎解きが淡々と進んでいくというもので、ミステリーとして観てしまうと拍子抜けしてしまうこと確実だと思いますが、その背後にあるドラマや登場人物について考えてみるとなかなかいい映画だと思います。
「ニュー・シネマ・パラダイス、ライフ・イズ・ビューティフルに続く10年に一度の名作」という謳い文句に期待すると、「あれ?」という感じになるかもしれません。幾重にも張られた伏線がそのままになっていたりする部分もあるのですが、それもよくよく考えてみれば、観客に色々と考えさせられるしかけなのかもしれません。観た直後よりもちょっと経ってから、色々と考えが浮かんでくるという珍しい映画でした。
◇
久しぶりに出版社のPR誌について。
7月号が高安健将先生の『首相の権力』特集ということで、図書館に『創文』を探しに行ったところ、7月号はまだ入っていなかったのですが、代わりに6月号に題したヨーロッパの国際政治史を専門とされている大学院の先輩二人の小論(戦後合意として機能した欧州統合――シューマン・プランが欧州レベルの労使協調「体制」を生み出した、という仮説――/戦後フランスと「日本問題」)が掲載されているのを見つけました。
以前にも書いたかもしれませんが、『創文』に掲載される小論はただの学術調のエッセイではなく、細かい部分の実証は博士論文や他の公刊論文で行った上で書かれているので、この分量であっても実に読み応えがあります。さらに小論という性格上、また狭義の専門を離れた読者にもそのメッセージが明確に伝わるように書かれているのがポイントです。
今回の二つの小論もそういった点でとても興味深く一気に読みました。欧州統合史やフランス外交史の視座から書かれた小論を自分の問題関心に引きつけ過ぎるのはあまりよくないのかもしれませんが、
「戦後合意として機能した欧州統合」は、一見すると戦後日本外交史という私の専門とはあまり関係しないように思われます。しかし、「戦後合意」の問題や労使協調の問題は、中北浩爾先生の一連の研究が示しているとおり、戦後日本外交を考える上でも非常に重要な問題です。もちろん統合を歩んだヨーロッパと日本は異なります。そうであっても、ただ日本を日本として眺めるだけでなく、他の地域の展開を常に意識しておくことは忘れてはいけない視点です。今回の小論で書かれていた点は主に1950年代のことですが、1960年代に入れば日本はOECDに加盟しますし、第一次石油危機以降はマクロ経済政策の協調といった問題があり日本とヨーロッパがダイレクトに繋がるようにもなります。「経済大国」化した日本を国際社会の文脈において考えようとすれば、1950年代のヨーロッパの経験はその重要な前史として押さえておかなければなりません。
国際社会の文脈の中での日本を考えてみれば「戦後フランスと「日本問題」」が投げかけているメッセージも重要です。対日講和に至る流れの中で、フランスはどのようにこの問題を考えていたのかを検討したこの小論のメッセージは極めて明確です。一般に戦後日本外交史を考えてみれば、そこに存在する外国とは圧倒的にアメリカです。中国を加えることも可能かもしれませんが、アメリカと中国の二国のみを考えてその中に日本を置いてみると、そこから見えてくるのは両大国の狭間に置かれた日本ということになるのは当然の帰結だと思います。学説史上は、イギリスの公文書を用いた重要な戦後日本外交研究があることもあり、アメリカの視点が若干中和されているとも言えますが、それでもアングロ=サクソン中心という点では偏っています。そこにフランスの視点を加えた時に見えてくるものは何か、ということにこの小論は一つの答えを与えてくれます。それは、フランスにとってこの時期の「日本問題」は「ドイツ問題」と同じように極めて政治的な問題だった、ということです。小論の末尾に書かれた文章、「その後のフランスの「日本問題」といえば、「インドシナ」という政治的軍事的足場を失うことによって脅威論は安全保障面ではなく経済面に傾斜していった。それでも日仏関係史が「政治性」を失うことはなかったということは付言しておきたい」。この一文を踏まえて、いかに自分の研究を進めていくかを改めて考えさせられました。
2009年07月27日
Chen Jian, Mao's China and the Cold War
三週間前の読書会の本をいまさらながら紹介しておきたいと思います。
が、その話に入る前にさらにいまさらながらという感じの書評を二つ紹介(リンク1、リンク2)。どちらの本も先月読んだ本で、面白かったものです。毎日新聞は他の新聞書評よりも長い字数なので、充実した紹介になっています。
『戦後世界経済史』については、以前ここに書いたとおりなのでいいとして、『LSE物語』もなかなか面白いものでした。ともするとゴシップ本かと思いそうな題名ですが、経済学の学説史やイギリス史の展開を踏まえてかかれた良質な読み物となっています。もっとも書評でも書かれているように、経学中心にこの本は書かれていますが、LSEはその正式名称はLondon School of Economics and Political Scienceであり、政治学も重要な地位を占めてきました。もう少し国際関係学部や国際関係史学部など政治学系の話が紹介されていてもいいのかもしれません。
そんなことを思ったら、『LSE物語』の主役であるライオネル・ロビンズの自伝の翻訳が刊行されたようです。
◇
これまでの読書会の中では、もっとも議論が盛り上がったように感じました。中国外交を専門にする後輩による充実した報告、テーマ自身の持つ力、独特の雰囲気のある「中国屋」とは違った観点からのコメントが多かったことなどによると思いますが、これだけ盛り上がるとは思わなかったので、嬉しい誤算でした。
ただ、メンバーの内の二人がこの夏から留学することになっているので、これにて第二期終了といったところでしょうか。メンバーの留学決定は喜ばしいことですが、読書会ということだけを考えると残念な面もあります。このまま終わらせてしまうのももったいないので、第三期として細々と少しペースを落としつつ続けていければいいかなと思います。
◇
メインテキストは↓、サブテキストは?牛軍(真水康樹・訳)『冷戦期中国外交の政策決定』(千倉書房、2007年)、?John W. Garver, The Opportunity Costs of Mao's Foreign Policy Choices, The China Journal, No.49 (Jan., 2003), pp.127-136 の二つです。これまた、いつものように読書会の議論を踏まえつつ簡単にメインテキストについて、議論の枠組や含意を中心に書評形式で紹介しておきます。紙幅の関係で、具体的な議論の中身はほとんど取り上げていませんが、悪しからず。
・Chen Jian, Mao's China and the Cold War, (Chapel Hill: University of North Carolina Press, 2001)
冷戦が終結してから約二十年が経ち、この間冷戦史研究は飛躍的に発展したと言えるだろう。歴史が客観的なものたりうるかは大いに議論の余地がある。E・H・カーの言うように歴史が「現在と過去との不断の対話」であるならば、常に現在の状況から過去は振り返られることになる。ウェスタッドのThe Global Cold Warの副題がThird World Interventions and the Making of Our Timesであることは、そしてアメリカにおけるレーガン勝利史観の隆盛もウェスタッドとは逆の立場ながら、「現在と過去との不断の対話」としての歴史研究の一側面を端的に示している。
しかしながら、近年の冷戦史研究を鳥瞰すれば、それが徐々に同時代史からより純粋な歴史研究へと進みつつあるようにも思える。その一つが、旧東側陣営の資料を利用した研究の進展である。とりわけ旧ソ連文書や旧東欧諸国の資料を用いた研究の進展は目覚ましい。こうした研究は一般に「新冷戦史(The New Cold War History)研究」と呼称される。冷戦初期の中国外交を対象とする本書Mao's China and the Cold Warも、新冷戦史研究の代表的な成果の一つとして位置付けられよう。
本書は、毛沢東時代(1949年~1976年)の中国外交を冷戦史の文脈の中に位置づけて検討している。序論で提示される本書の目的は、?冷戦史の中で中国の位置付けを明らかにすること、?中国外交におけるイデオロギーの役割に再解釈を与えること、?毛沢東の革命観と中国外交のパターンを明らかにすることの三点である。
以上の三点は、目的であると同時に本書全体を通底する分析枠組でもある。そもそも、中国の外交指導者は「冷戦」という言葉をほとんど用いてこなかった。冷戦期の中国外交を冷戦史に引きつけて検討することは自明ではなく、著者のアプローチは中国外交史に新たな視点を導入するものと言える。国共内戦、建国前夜のソ連及びアメリカとの諸交渉、向ソ一辺倒の決定及び中ソ同盟の展開、朝鮮戦争、第一次インドシナ紛争、ポーランド及びハンガリー危機、台湾海峡危機、ベトナム戦争、そして米中接近といった本書で検討される問題は、いずれも冷戦史の展開で重要な意味を持つものである。
本書が、アメリカの外交文書と中国の各指導者の年譜、さらにはCWIHP(Cold War International History Project)の成果を中心とした一次資料に依拠して、冷戦史の中に中国外交を検討したことの意義は高く評価されている。とりわけ、中国とソ連及び東欧諸国との関係を検討した部分は、従来にない新たな知見が多数含まれており本書の白眉である。もっとも、本書の刊行と相前後して、中国外交部档案の資料開示が進んでおり、論文ベースでは様々な研究が進んでいる点を考慮すれば、細かな事実関係の検討については本書とともにその後進められた研究を参照する必要があると言える。
上記の各ケースを分析する際に著者が重視するのは、イデオロギーの重要性である。中国のイデオロギーはマルクス=レーニン主義と中華思想の共存からなるものであり、こうした中国独自のイデオロギーは中ソ対立や米中接近に繋がるものであった。加えて著者が強調するのが、中国外交と国内政治の密接な結び付きと毛沢東の役割である。毛沢東は、「継続革命論」を掲げることによって国内の権力闘争を常に勝ち抜き、中国外交をも動かしてきた。なぜ建国間もない中国が朝鮮戦争と第一次インドシナ紛争へ介入したのかといった点(=「急進化」のプロセス)に関して、イデオロギーと毛沢東要因を重視する本書の視座は説得的である。
しかしながら、こうした視座がどれだけ本書全体を通して有効に機能しているかには疑問が残った。朝鮮戦争及びインドシナ紛争休戦過程、ハンガリー危機への対応、米中接近など中国外交の「穏健化」と言いうるプロセスに関して、何が重要だったのかといった点を本書の枠組からどれだけ説明出来るのだろうか。また、この二つの要因が強調されることから、全てのケースの説明が全て毛沢東要因に帰着してしまっているように感じられるのは、本書の叙述が豊かであるだけに残念である。もし毛沢東要因が重要であれば、なぜ毛沢東がそれほどまでに強い影響力を持っていたのかをより説得的に論じる必要があるだろう。
本書を通読して改めて考えさせられたのは、そもそも冷戦とは何か、ということである。アジア冷戦の展開は、確かにグローバルな冷戦にも影響を与えたであろうし、グローバルな冷戦もまたアジア冷戦の展開に影響を与えたであろう。しかしながら、そもそも戦後アジアの国際政治史を、冷戦とイコールで捉えることが出来るかは大いに疑問の余地が残る。確かに本書が検討する時期の中国外交は、グローバルな冷戦構造の中で展開されたものであるが、本書が強調するように、中国外交の多くが「イデオロギー」と「毛沢東」によって規定されていたとすれば、それは「冷戦」とは異なるダイナミズムによって動かされていたのであり、「冷戦」は戦後アジアの国際政治史の一側面に過ぎないのではないだろうか。
が、その話に入る前にさらにいまさらながらという感じの書評を二つ紹介(リンク1、リンク2)。どちらの本も先月読んだ本で、面白かったものです。毎日新聞は他の新聞書評よりも長い字数なので、充実した紹介になっています。
『戦後世界経済史』については、以前ここに書いたとおりなのでいいとして、『LSE物語』もなかなか面白いものでした。ともするとゴシップ本かと思いそうな題名ですが、経済学の学説史やイギリス史の展開を踏まえてかかれた良質な読み物となっています。もっとも書評でも書かれているように、経学中心にこの本は書かれていますが、LSEはその正式名称はLondon School of Economics and Political Scienceであり、政治学も重要な地位を占めてきました。もう少し国際関係学部や国際関係史学部など政治学系の話が紹介されていてもいいのかもしれません。
そんなことを思ったら、『LSE物語』の主役であるライオネル・ロビンズの自伝の翻訳が刊行されたようです。
◇
これまでの読書会の中では、もっとも議論が盛り上がったように感じました。中国外交を専門にする後輩による充実した報告、テーマ自身の持つ力、独特の雰囲気のある「中国屋」とは違った観点からのコメントが多かったことなどによると思いますが、これだけ盛り上がるとは思わなかったので、嬉しい誤算でした。
ただ、メンバーの内の二人がこの夏から留学することになっているので、これにて第二期終了といったところでしょうか。メンバーの留学決定は喜ばしいことですが、読書会ということだけを考えると残念な面もあります。このまま終わらせてしまうのももったいないので、第三期として細々と少しペースを落としつつ続けていければいいかなと思います。
◇
メインテキストは↓、サブテキストは?牛軍(真水康樹・訳)『冷戦期中国外交の政策決定』(千倉書房、2007年)、?John W. Garver, The Opportunity Costs of Mao's Foreign Policy Choices, The China Journal, No.49 (Jan., 2003), pp.127-136 の二つです。これまた、いつものように読書会の議論を踏まえつつ簡単にメインテキストについて、議論の枠組や含意を中心に書評形式で紹介しておきます。紙幅の関係で、具体的な議論の中身はほとんど取り上げていませんが、悪しからず。
・Chen Jian, Mao's China and the Cold War, (Chapel Hill: University of North Carolina Press, 2001)
冷戦が終結してから約二十年が経ち、この間冷戦史研究は飛躍的に発展したと言えるだろう。歴史が客観的なものたりうるかは大いに議論の余地がある。E・H・カーの言うように歴史が「現在と過去との不断の対話」であるならば、常に現在の状況から過去は振り返られることになる。ウェスタッドのThe Global Cold Warの副題がThird World Interventions and the Making of Our Timesであることは、そしてアメリカにおけるレーガン勝利史観の隆盛もウェスタッドとは逆の立場ながら、「現在と過去との不断の対話」としての歴史研究の一側面を端的に示している。
しかしながら、近年の冷戦史研究を鳥瞰すれば、それが徐々に同時代史からより純粋な歴史研究へと進みつつあるようにも思える。その一つが、旧東側陣営の資料を利用した研究の進展である。とりわけ旧ソ連文書や旧東欧諸国の資料を用いた研究の進展は目覚ましい。こうした研究は一般に「新冷戦史(The New Cold War History)研究」と呼称される。冷戦初期の中国外交を対象とする本書Mao's China and the Cold Warも、新冷戦史研究の代表的な成果の一つとして位置付けられよう。
本書は、毛沢東時代(1949年~1976年)の中国外交を冷戦史の文脈の中に位置づけて検討している。序論で提示される本書の目的は、?冷戦史の中で中国の位置付けを明らかにすること、?中国外交におけるイデオロギーの役割に再解釈を与えること、?毛沢東の革命観と中国外交のパターンを明らかにすることの三点である。
以上の三点は、目的であると同時に本書全体を通底する分析枠組でもある。そもそも、中国の外交指導者は「冷戦」という言葉をほとんど用いてこなかった。冷戦期の中国外交を冷戦史に引きつけて検討することは自明ではなく、著者のアプローチは中国外交史に新たな視点を導入するものと言える。国共内戦、建国前夜のソ連及びアメリカとの諸交渉、向ソ一辺倒の決定及び中ソ同盟の展開、朝鮮戦争、第一次インドシナ紛争、ポーランド及びハンガリー危機、台湾海峡危機、ベトナム戦争、そして米中接近といった本書で検討される問題は、いずれも冷戦史の展開で重要な意味を持つものである。
本書が、アメリカの外交文書と中国の各指導者の年譜、さらにはCWIHP(Cold War International History Project)の成果を中心とした一次資料に依拠して、冷戦史の中に中国外交を検討したことの意義は高く評価されている。とりわけ、中国とソ連及び東欧諸国との関係を検討した部分は、従来にない新たな知見が多数含まれており本書の白眉である。もっとも、本書の刊行と相前後して、中国外交部档案の資料開示が進んでおり、論文ベースでは様々な研究が進んでいる点を考慮すれば、細かな事実関係の検討については本書とともにその後進められた研究を参照する必要があると言える。
上記の各ケースを分析する際に著者が重視するのは、イデオロギーの重要性である。中国のイデオロギーはマルクス=レーニン主義と中華思想の共存からなるものであり、こうした中国独自のイデオロギーは中ソ対立や米中接近に繋がるものであった。加えて著者が強調するのが、中国外交と国内政治の密接な結び付きと毛沢東の役割である。毛沢東は、「継続革命論」を掲げることによって国内の権力闘争を常に勝ち抜き、中国外交をも動かしてきた。なぜ建国間もない中国が朝鮮戦争と第一次インドシナ紛争へ介入したのかといった点(=「急進化」のプロセス)に関して、イデオロギーと毛沢東要因を重視する本書の視座は説得的である。
しかしながら、こうした視座がどれだけ本書全体を通して有効に機能しているかには疑問が残った。朝鮮戦争及びインドシナ紛争休戦過程、ハンガリー危機への対応、米中接近など中国外交の「穏健化」と言いうるプロセスに関して、何が重要だったのかといった点を本書の枠組からどれだけ説明出来るのだろうか。また、この二つの要因が強調されることから、全てのケースの説明が全て毛沢東要因に帰着してしまっているように感じられるのは、本書の叙述が豊かであるだけに残念である。もし毛沢東要因が重要であれば、なぜ毛沢東がそれほどまでに強い影響力を持っていたのかをより説得的に論じる必要があるだろう。
本書を通読して改めて考えさせられたのは、そもそも冷戦とは何か、ということである。アジア冷戦の展開は、確かにグローバルな冷戦にも影響を与えたであろうし、グローバルな冷戦もまたアジア冷戦の展開に影響を与えたであろう。しかしながら、そもそも戦後アジアの国際政治史を、冷戦とイコールで捉えることが出来るかは大いに疑問の余地が残る。確かに本書が検討する時期の中国外交は、グローバルな冷戦構造の中で展開されたものであるが、本書が強調するように、中国外交の多くが「イデオロギー」と「毛沢東」によって規定されていたとすれば、それは「冷戦」とは異なるダイナミズムによって動かされていたのであり、「冷戦」は戦後アジアの国際政治史の一側面に過ぎないのではないだろうか。
2009年07月26日
今月の授業(7月第1週~第3週)
この一週間ほどは、本当に梅雨があけたのかを疑いたくなるような天気が続きましたが、今日の突き抜けるような青空と喧しいほどのセミの鳴き声を聞くと、ああ夏だなと実感します。
研究の「稼ぎ時」である夏休みをどれだけ有意義に使えるかは大学院生にとって死活的に重要です。資料の開示状況の関係でこの一ヶ月ほど二本の論文を同時並行で進めているのですが、先日新たなに開示された資料を読んでいたところ、お蔵入りにしていた修士論文の前半部分を公刊出来そうな気がしてきたので、これから一ヶ月弱は三本同時に調査を進めるというやや無謀な研究生活を送ることになりそうです。
ふと気が付くと前回の更新から2週間以上経っていました。研究会等のために色々と準備が大変だったことや、急遽アルバイトが入ったり等々、更新が滞ったことには色々な理由があったのですが、一番大きかったのは、大学で落ち着いて時間を取ることがあまり出来なかったことかもしれません。決してドラクエIXに追われていたわけではありません。
紹介しておきたい本も溜まっているのですが、まずはこの間にあった授業について簡単に書いておくことにします。
◇
・7月第1週
<水曜日>
2限:国際政治論特殊研究
前週の議論の積み残し(イアン・クラークの国際社会論)と『世界政治』の二本立てでした。『世界政治』については、また改めて書くことにしてここではクラークの議論(“Chapter 32 Globalization and the Post-Cold War Order”)について。
この章はクラークの一連の著作のエッセンスをまとめたものだと思います。さすがクラークというべきか、この本の多くの章がいまいち議論を詰めきれていないのに対して、一段深く国際社会の変質について考察が進められているのがこの章の面白いところです。
グローバル化なるものが進んでいるとして(その定義そのものに議論の余地があるわけですが)、それが国際社会を直ちに変化させるという議論をクラークは取りません。様々な非政府組織の台頭を認めつつも、国際社会における国家の重要性をクラークは再度強調し、各々の国家に対してグローバル化は変質を迫り、それによって国家を主要なアクターとして構成される国際秩序が変わるというのがこの章の議論です。この議論が魅力的なのは、国家の重要性とグローバル化の影響、さらには国際秩序の変化をどれも排除することなく統合的に論じることが出来る点にあります。
これ以上深く読むためには、クラークの一連の著作を読まなければならないのですが、彼の議論のエッセンスを知るにはこの章はいいのではないでしょうか。
5限:プロジェクト科目(安全保障研究)
テーマは「日本の安全保障政策を考える」、講師は元官僚の某「研究者」でしたが、ノーコメント……ノーコメントとしか言いようのない講演でした。まあ、こういうこともあるのでしょう。
<土曜日>
5限:プロジェクト科目(政治思想研究)
テーマは、「戦後民主主義とキリスト教」、講師は↑の著者の先生です。プロジェクト科目史上に残る長丁場となりました。↑は著者の実存的な格闘が行間からにじみ出ているなかなかすごい本です。キリスト教と戦後民主主義(先生にとっては丸山)をめぐる著者の内面における葛藤の凄まじさは、苅部先生が言うところの、「独特の熱気」ないしは「もっと言えば暑苦しさ」を感じさせるものでした。
・7月第2週
<水曜日>
2限:国際政治論特殊研究
今回のテキストは↑。この地味な本が勁草書房の六月売上第一位というのは驚きですが、それだけの内容を持っている本だと思います。
議論の基本的な構図は、国際社会を考える際の二つの立場を、プルラリズム(多元主義)とソリダリズム(連帯主義)に類型化し、その上でソリダリズムの危うさを指摘していくというものです。その際に、ただ批判を重ねていくだけでなく、まず「国際社会」について準備的な考察を行い、その上で原理的に最も重要な「主権」との関連を検討し、20世紀以降の国際政治を特徴づける「民主主義」、さらには冷戦終結後の主要な問題である「介入」について、考察を進めていくというプロセスと議論の深さにこの本の特徴はあります。
授業がほとんど発表と基本的な議論の確認で終わってしまったのはやや残念でした。いつもこの本を取り上げた時はこう書いているのですが、改めてじっくりと読んだ上でここで書くことにしたいと思います。
<木曜日>
5限:プロジェクト科目(政治思想研究)
前週の講演を受けての討論。議論になった点は、色々あったのですが、個人的に「やはり」と思ったのは、「政治」や「宗教」をどのように定義するのか、という問題です。つまるとこと定義次第、というのはしばしばあることですが、「政治と宗教のはざまで」と言ってもその定義次第でその意味するところや議論の帰結は大きく変わってくるのは当然です。うまく自分の言葉でまとめることが出来ないのですが、「政治」の定義の拡散が多くの問題を生みだしてしまっているような気がします。
・7月第3週
<水曜日>
5限:プロジェクト科目(安全保障研究)
テーマは「『日本の防衛構想』について」、講師の先生は防衛政策の最前線に立たれている方です。知的にも非常に得るところの多い有益な講演でした。ここに具体的な内容を書けないのが残念です。質疑応答の際に出された質問は、どれも根本的でありながら基本的なことなのですが、それに対する答えはごまかしではない真摯さと、どれもなるほどと思わせるものでした。
興味深かったことはたくさんあるのですが、冷戦終結が日本の防衛政策当局に与えた影響がどれほど大きいのかということが伝わってきました。実際に展開されている数などを考えれば、どれだけ「国際協力」が冷戦後の日本の防衛政策の柱となっているかに疑問がないわけではありませんが、冷戦期の前提ではもはや日本の防衛政策を考えることが出来ないことはよく分かりました。
◇
というわけで、これで前期の授業は終了です。先週火曜日には、日伊比較の研究会、また金曜日には第2回の自主ゼミ(ad hoc研究会)があったのですが、その話はまた改めて書くことにしたいと思います。
研究の「稼ぎ時」である夏休みをどれだけ有意義に使えるかは大学院生にとって死活的に重要です。資料の開示状況の関係でこの一ヶ月ほど二本の論文を同時並行で進めているのですが、先日新たなに開示された資料を読んでいたところ、お蔵入りにしていた修士論文の前半部分を公刊出来そうな気がしてきたので、これから一ヶ月弱は三本同時に調査を進めるというやや無謀な研究生活を送ることになりそうです。
ふと気が付くと前回の更新から2週間以上経っていました。研究会等のために色々と準備が大変だったことや、急遽アルバイトが入ったり等々、更新が滞ったことには色々な理由があったのですが、一番大きかったのは、大学で落ち着いて時間を取ることがあまり出来なかったことかもしれません。決してドラクエIXに追われていたわけではありません。
紹介しておきたい本も溜まっているのですが、まずはこの間にあった授業について簡単に書いておくことにします。
◇
・7月第1週
<水曜日>
2限:国際政治論特殊研究
前週の議論の積み残し(イアン・クラークの国際社会論)と『世界政治』の二本立てでした。『世界政治』については、また改めて書くことにしてここではクラークの議論(“Chapter 32 Globalization and the Post-Cold War Order”)について。
この章はクラークの一連の著作のエッセンスをまとめたものだと思います。さすがクラークというべきか、この本の多くの章がいまいち議論を詰めきれていないのに対して、一段深く国際社会の変質について考察が進められているのがこの章の面白いところです。
グローバル化なるものが進んでいるとして(その定義そのものに議論の余地があるわけですが)、それが国際社会を直ちに変化させるという議論をクラークは取りません。様々な非政府組織の台頭を認めつつも、国際社会における国家の重要性をクラークは再度強調し、各々の国家に対してグローバル化は変質を迫り、それによって国家を主要なアクターとして構成される国際秩序が変わるというのがこの章の議論です。この議論が魅力的なのは、国家の重要性とグローバル化の影響、さらには国際秩序の変化をどれも排除することなく統合的に論じることが出来る点にあります。
これ以上深く読むためには、クラークの一連の著作を読まなければならないのですが、彼の議論のエッセンスを知るにはこの章はいいのではないでしょうか。
5限:プロジェクト科目(安全保障研究)
テーマは「日本の安全保障政策を考える」、講師は元官僚の某「研究者」でしたが、ノーコメント……ノーコメントとしか言いようのない講演でした。まあ、こういうこともあるのでしょう。
<土曜日>
5限:プロジェクト科目(政治思想研究)
テーマは、「戦後民主主義とキリスト教」、講師は↑の著者の先生です。プロジェクト科目史上に残る長丁場となりました。↑は著者の実存的な格闘が行間からにじみ出ているなかなかすごい本です。キリスト教と戦後民主主義(先生にとっては丸山)をめぐる著者の内面における葛藤の凄まじさは、苅部先生が言うところの、「独特の熱気」ないしは「もっと言えば暑苦しさ」を感じさせるものでした。
・7月第2週
<水曜日>
2限:国際政治論特殊研究
今回のテキストは↑。この地味な本が勁草書房の六月売上第一位というのは驚きですが、それだけの内容を持っている本だと思います。
議論の基本的な構図は、国際社会を考える際の二つの立場を、プルラリズム(多元主義)とソリダリズム(連帯主義)に類型化し、その上でソリダリズムの危うさを指摘していくというものです。その際に、ただ批判を重ねていくだけでなく、まず「国際社会」について準備的な考察を行い、その上で原理的に最も重要な「主権」との関連を検討し、20世紀以降の国際政治を特徴づける「民主主義」、さらには冷戦終結後の主要な問題である「介入」について、考察を進めていくというプロセスと議論の深さにこの本の特徴はあります。
授業がほとんど発表と基本的な議論の確認で終わってしまったのはやや残念でした。いつもこの本を取り上げた時はこう書いているのですが、改めてじっくりと読んだ上でここで書くことにしたいと思います。
<木曜日>
5限:プロジェクト科目(政治思想研究)
前週の講演を受けての討論。議論になった点は、色々あったのですが、個人的に「やはり」と思ったのは、「政治」や「宗教」をどのように定義するのか、という問題です。つまるとこと定義次第、というのはしばしばあることですが、「政治と宗教のはざまで」と言ってもその定義次第でその意味するところや議論の帰結は大きく変わってくるのは当然です。うまく自分の言葉でまとめることが出来ないのですが、「政治」の定義の拡散が多くの問題を生みだしてしまっているような気がします。
・7月第3週
<水曜日>
5限:プロジェクト科目(安全保障研究)
テーマは「『日本の防衛構想』について」、講師の先生は防衛政策の最前線に立たれている方です。知的にも非常に得るところの多い有益な講演でした。ここに具体的な内容を書けないのが残念です。質疑応答の際に出された質問は、どれも根本的でありながら基本的なことなのですが、それに対する答えはごまかしではない真摯さと、どれもなるほどと思わせるものでした。
興味深かったことはたくさんあるのですが、冷戦終結が日本の防衛政策当局に与えた影響がどれほど大きいのかということが伝わってきました。実際に展開されている数などを考えれば、どれだけ「国際協力」が冷戦後の日本の防衛政策の柱となっているかに疑問がないわけではありませんが、冷戦期の前提ではもはや日本の防衛政策を考えることが出来ないことはよく分かりました。
◇
というわけで、これで前期の授業は終了です。先週火曜日には、日伊比較の研究会、また金曜日には第2回の自主ゼミ(ad hoc研究会)があったのですが、その話はまた改めて書くことにしたいと思います。
2009年07月08日
2009年07月04日
Odd Arne Westad, Global Cold War
今日の授業の本を大体片付けたので、本日二度目の更新。
◇
明日、冷戦史の読書会があり、いい加減書いておかなければということで、前回の本について書評を載せておきます。こうドラフトのドラフトのような文章ばかりをブログに書き連ねるのもどうかと思いますが、ちゃんとしたものは論文等で書けばいいですし、何もないよりはいいということで載せてしまいます。
ちなみに、読書会でサブテキストはH-Diploのラウンドテーブル(リンク)と、Cold War History, Vol.6.No.3 (August 2006)に掲載されたレビュー(ジェレミー・スリとウィリアム・ウォルフォース)及びウェスタッドのレスポンスです。
・Odd Arne Westad, Global Cold War: Third World Interventions and the Making of Our Times, (Cambridge: Cambridge University Press, 2005)
<はじめに>
かつてベトナム戦争の泥沼化が、ウィスコンシン学派に代表される冷戦起源論における修正主義の興隆をもたらしたように、イラク戦争もまた新たな修正主義を生みだすのかもしれない。なぜイラク戦争が引き起こされたのか、この問いの答えを冷戦期の歴史に求めようとする試みは様々な形で行われている。そうした試みの嚆矢となったのは、ジェームズ・マンによる『ウルカヌスの群像 ブッシュ政権とイラク戦争』(Rise of the Vulcans: the History of Bush's War Cabinet)であろう。イラク戦争を戦ったブッシュ政権の高官たち(=ウルカヌス)に着目し、彼(彼女)らのベトナム体験やカーター政権期における人権外交の挫折の意味を検討した同書は、「個人」に着目することによって、なぜイラク戦争が引き起こされたのか、という問いに答えようとしている。
それに対して、本書は冷戦期における米ソの第三世界への介入を歴史的に検討することによって、この問いに答えようとしている。以下、本書の概要を簡単に紹介した上で、若干の評価を試みることにする。
<本書の概要>
本書の問題意識は、副題からも読み取れるように、どのようにして「我々の時代が形成されたのか」、すなわち「なぜイラク戦争が引き起こされたのか」にあると思われるが、その分析対象となるのは、冷戦期(とりわけその後半)における米ソ両国による第三世界への介入である。その際に、本書の特徴として挙げられることは、第一に徹底した一次資料の渉猟(マルチ・アーカイヴァル・アプローチ)、第二に介入の要因としてのイデオロギーの重視である。
この第二の点は本書の構成にも表れている。序論に続く第1章では、「自由の帝国(The Empire of Liberty)」としてのアメリカ、第2章では、「公正の帝国(The Empire of Justice)」としてのソ連、そして第3章では、「革命家たち(The Revolutinaries)」によって形作られた第三世界の国々におけるイデオロギーと外交政策の関係が丹念に検討されている。
各当事国のイデオロギーの検討を踏まえた上で、第4章では「第三世界の形成」として、第二次世界大戦終結後から1960年代にかけて、アメリカが第三世界を形作っていく過程が、グローバルな資本主義市場形成の文脈と重ね合わせながら検討される。以上の四章が、やや長い本書の導入部分であり、以下に続く各章が豊富な一次資料に基づく叙述部分となる。
続く第5章では、キューバ及びベトナムが第三世界における革命及び独立運動のモデルとして取り上げられる。その際に本書が特徴的なことは、従来はアメリカの介入のケースとして論じられがちだったキューバとベトナムを、ソ連による介入及び中ソ対立という社会主義陣営内の分裂という観点も踏まえて検討していることである。この点は、中国を中心とした国際関係史の領域で業績を上げてきた著者ならではと言えるのかもしれない。
それぞれ南部アフリカ(アンゴラ、モザンビーク、南アフリカ、ジンバブウェ)、エチオピアと「アフリカの角」、イランとアフガニスタンを検討している第6章から第8章が、著者の分析の鋭さと醍醐味が遺憾なく発揮された、本書の白眉と言いうる部分であろう。アフリカにおける米ソ対立の中でそれまで焦点となってきた北部及び中央アフリカから、南部アフリカにおける脱植民地化の失敗が明らかになった結果、徐々に関心が南部へ移っていった。また、北部アフリカにおいてもエチオピアと不安定な「アフリカの角」は米ソ対立の焦点となった。さらに、イラン革命の勃発は中東地域における極めて大きな出来事としてクローズアップされ、その直後のソ連のアフガン介入は冷戦の帰趨に大きな影響を与える出来事となった。こうした第三世界における米ソの介入を、丹念に一次資料を検討することによって本書は明らかにしている。
こうしたケースの検討を踏まえて、第9章ではレーガン政権の攻勢が、そして第10章ではゴルバチョフによる第三世界からの撤退が検討されている。その際に注目すべきは、本書が「レーガン勝利史観」に立たずに、第三世界における革命への幻滅といったイデオロギー的側面を強調している点であろう。なお、第10章の題名は、The Gorvschev Withdrawal and the End of the Cold Warであるが、残念ながら冷戦終結そのものについてはほとんど触れられていない。
結論部分では、西洋諸国による植民地主義と米ソの第三世界への介入の連続性に触れつつ、米ソ両国の第三世界への介入を「悲劇」として評価する。そして最後に、ソ連崩壊によって唯一の超大国となったアメリカの介入主義に対する、著者のする批判的ないしは警戒的なコメントによって本書は終わる。
<評価と若干のコメント>
従来の冷戦史研究は、米ソ両超大国の対立やヨーロッパにおける冷戦の展開を中心に検討してきた。また、資料的にも近年ロシアや中国の資料を利用した研究も進みつつあるとはいえ、圧倒的にアメリカ及びイギリス、そして仏独といった米欧の資料を中心に研究が進められてきた。アメリカの第三世界への介入については、ウィスコンシン学派の一部の研究者によるいくつかの研究があるが、ともすると全てを、資本主義の拡張傾向というレーニンの帝国主義論的な説明に帰しがちであった。
こうした従来の研究に対して、本書は第三世界に対する米ソの介入、すなわち「グローバルな冷戦」の展開を、米英、ロシア、中国、旧東独、さらには旧ユーゴ等々の一次資料を用いて明らかにしている。本書が高いレベルの実証性をもって、米ソ両国の視点から冷戦と第三世界の関係を明らかにしたことの意義は極めて大きいと評価されるべきであろう。
しかしながら、本書には同時にいくつかの大きな問題が存在する。まず指摘すべき本書の問題点は、第一に、ヨーロッパにおける冷戦の展開をほぼ無視していること、第二に、介入の理由としてのイデオロギーを過剰に重視している、という二点である。この二点については、既に様々な論者によって指摘されており、それに対するウェスタッドの回答も存在するので、ここでは違う視点から二点に絞って本書の問題点を指摘したい。
第一は、各章の分析や議論の有機的な繋がりが弱いことである。上述のように本書のメインであり白眉となるのは第6章から第8章にかけての、1970年代を中心とした米ソの第三世界への介入を検討した章である思われるが、これらの章が前半の各国のイデオロギーを検討した部分や、後半の冷戦終結に至る時代の分析とどのようにリンクしているのかは、本書の叙述からはほとんど読みとることが出来ない。
この点は、ヨーロッパにおける冷戦の展開を無視しているということとも繋がる問題かもしれない。冷戦の焦点がドイツ問題にあり、ドイツ問題の解決に伴って冷戦が終結したとするならば(もっとも、ウェスタッドは冷戦を、米ソ両国によるグローバルな対立が国際的な諸問題に対して圧倒的だった時代、と広く捉えている)、そうしたヨーロッパ冷戦と第三世界における米ソ両国による介入がどのような関係にあったのかは、より検討されてしかるべきであるし、それがなされて初めて冷戦史研究として第三世界における米ソの介入を検討する意義が明らかになるのではないだろうか。
第二は、ケース選択がある意味で恣意的ではないかという点である。本書は包括的に第三世界に対する米ソ両国の介入を取り上げているが、そこで取り上げられるのはあくまで「介入」されたケースである。例えば、東南アジアはベトナム戦争の終結とともに全く取り上げられなくなるし、1960年代のインドネシアやマレーシアのように介入が不十分な場合は触れられている程度である。また、第三世界と冷戦の関係を考える際に一つの焦点となるのは中国であるが、中国そのものは米中接近によって介入の対象とはならなくなることから取り上げられない。言わば本書で取り上げられる「介入」の諸事例は、米ソ両国の政策が失敗したか、まだ均衡が達成されていないような事例である。グローバルな冷戦を検討するためには、米ソ両国の政策が「成功」した地域や、均衡が達成されて「安定化」した地域も取り上げる必要があるのではないだろうか。
もっとも、上記の二点(とりわけ二点目)は無いものねだりという要素も強い。ウェスタッドも繰り返し指摘しているように、米ソ冷戦の影響はグローバルなものである。冷戦の焦点を認識しつつも、そのグローバルな影響を念頭に置いて研究は進められる必要があるのだろう。その意味で本書が、冷戦期の国際政治史を考える上で外すことの出来ない重要な一冊であることは間違いないだろう。
◇
明日、冷戦史の読書会があり、いい加減書いておかなければということで、前回の本について書評を載せておきます。こうドラフトのドラフトのような文章ばかりをブログに書き連ねるのもどうかと思いますが、ちゃんとしたものは論文等で書けばいいですし、何もないよりはいいということで載せてしまいます。
ちなみに、読書会でサブテキストはH-Diploのラウンドテーブル(リンク)と、Cold War History, Vol.6.No.3 (August 2006)に掲載されたレビュー(ジェレミー・スリとウィリアム・ウォルフォース)及びウェスタッドのレスポンスです。
・Odd Arne Westad, Global Cold War: Third World Interventions and the Making of Our Times, (Cambridge: Cambridge University Press, 2005)
<はじめに>
かつてベトナム戦争の泥沼化が、ウィスコンシン学派に代表される冷戦起源論における修正主義の興隆をもたらしたように、イラク戦争もまた新たな修正主義を生みだすのかもしれない。なぜイラク戦争が引き起こされたのか、この問いの答えを冷戦期の歴史に求めようとする試みは様々な形で行われている。そうした試みの嚆矢となったのは、ジェームズ・マンによる『ウルカヌスの群像 ブッシュ政権とイラク戦争』(Rise of the Vulcans: the History of Bush's War Cabinet)であろう。イラク戦争を戦ったブッシュ政権の高官たち(=ウルカヌス)に着目し、彼(彼女)らのベトナム体験やカーター政権期における人権外交の挫折の意味を検討した同書は、「個人」に着目することによって、なぜイラク戦争が引き起こされたのか、という問いに答えようとしている。
それに対して、本書は冷戦期における米ソの第三世界への介入を歴史的に検討することによって、この問いに答えようとしている。以下、本書の概要を簡単に紹介した上で、若干の評価を試みることにする。
<本書の概要>
本書の問題意識は、副題からも読み取れるように、どのようにして「我々の時代が形成されたのか」、すなわち「なぜイラク戦争が引き起こされたのか」にあると思われるが、その分析対象となるのは、冷戦期(とりわけその後半)における米ソ両国による第三世界への介入である。その際に、本書の特徴として挙げられることは、第一に徹底した一次資料の渉猟(マルチ・アーカイヴァル・アプローチ)、第二に介入の要因としてのイデオロギーの重視である。
この第二の点は本書の構成にも表れている。序論に続く第1章では、「自由の帝国(The Empire of Liberty)」としてのアメリカ、第2章では、「公正の帝国(The Empire of Justice)」としてのソ連、そして第3章では、「革命家たち(The Revolutinaries)」によって形作られた第三世界の国々におけるイデオロギーと外交政策の関係が丹念に検討されている。
各当事国のイデオロギーの検討を踏まえた上で、第4章では「第三世界の形成」として、第二次世界大戦終結後から1960年代にかけて、アメリカが第三世界を形作っていく過程が、グローバルな資本主義市場形成の文脈と重ね合わせながら検討される。以上の四章が、やや長い本書の導入部分であり、以下に続く各章が豊富な一次資料に基づく叙述部分となる。
続く第5章では、キューバ及びベトナムが第三世界における革命及び独立運動のモデルとして取り上げられる。その際に本書が特徴的なことは、従来はアメリカの介入のケースとして論じられがちだったキューバとベトナムを、ソ連による介入及び中ソ対立という社会主義陣営内の分裂という観点も踏まえて検討していることである。この点は、中国を中心とした国際関係史の領域で業績を上げてきた著者ならではと言えるのかもしれない。
それぞれ南部アフリカ(アンゴラ、モザンビーク、南アフリカ、ジンバブウェ)、エチオピアと「アフリカの角」、イランとアフガニスタンを検討している第6章から第8章が、著者の分析の鋭さと醍醐味が遺憾なく発揮された、本書の白眉と言いうる部分であろう。アフリカにおける米ソ対立の中でそれまで焦点となってきた北部及び中央アフリカから、南部アフリカにおける脱植民地化の失敗が明らかになった結果、徐々に関心が南部へ移っていった。また、北部アフリカにおいてもエチオピアと不安定な「アフリカの角」は米ソ対立の焦点となった。さらに、イラン革命の勃発は中東地域における極めて大きな出来事としてクローズアップされ、その直後のソ連のアフガン介入は冷戦の帰趨に大きな影響を与える出来事となった。こうした第三世界における米ソの介入を、丹念に一次資料を検討することによって本書は明らかにしている。
こうしたケースの検討を踏まえて、第9章ではレーガン政権の攻勢が、そして第10章ではゴルバチョフによる第三世界からの撤退が検討されている。その際に注目すべきは、本書が「レーガン勝利史観」に立たずに、第三世界における革命への幻滅といったイデオロギー的側面を強調している点であろう。なお、第10章の題名は、The Gorvschev Withdrawal and the End of the Cold Warであるが、残念ながら冷戦終結そのものについてはほとんど触れられていない。
結論部分では、西洋諸国による植民地主義と米ソの第三世界への介入の連続性に触れつつ、米ソ両国の第三世界への介入を「悲劇」として評価する。そして最後に、ソ連崩壊によって唯一の超大国となったアメリカの介入主義に対する、著者のする批判的ないしは警戒的なコメントによって本書は終わる。
<評価と若干のコメント>
従来の冷戦史研究は、米ソ両超大国の対立やヨーロッパにおける冷戦の展開を中心に検討してきた。また、資料的にも近年ロシアや中国の資料を利用した研究も進みつつあるとはいえ、圧倒的にアメリカ及びイギリス、そして仏独といった米欧の資料を中心に研究が進められてきた。アメリカの第三世界への介入については、ウィスコンシン学派の一部の研究者によるいくつかの研究があるが、ともすると全てを、資本主義の拡張傾向というレーニンの帝国主義論的な説明に帰しがちであった。
こうした従来の研究に対して、本書は第三世界に対する米ソの介入、すなわち「グローバルな冷戦」の展開を、米英、ロシア、中国、旧東独、さらには旧ユーゴ等々の一次資料を用いて明らかにしている。本書が高いレベルの実証性をもって、米ソ両国の視点から冷戦と第三世界の関係を明らかにしたことの意義は極めて大きいと評価されるべきであろう。
しかしながら、本書には同時にいくつかの大きな問題が存在する。まず指摘すべき本書の問題点は、第一に、ヨーロッパにおける冷戦の展開をほぼ無視していること、第二に、介入の理由としてのイデオロギーを過剰に重視している、という二点である。この二点については、既に様々な論者によって指摘されており、それに対するウェスタッドの回答も存在するので、ここでは違う視点から二点に絞って本書の問題点を指摘したい。
第一は、各章の分析や議論の有機的な繋がりが弱いことである。上述のように本書のメインであり白眉となるのは第6章から第8章にかけての、1970年代を中心とした米ソの第三世界への介入を検討した章である思われるが、これらの章が前半の各国のイデオロギーを検討した部分や、後半の冷戦終結に至る時代の分析とどのようにリンクしているのかは、本書の叙述からはほとんど読みとることが出来ない。
この点は、ヨーロッパにおける冷戦の展開を無視しているということとも繋がる問題かもしれない。冷戦の焦点がドイツ問題にあり、ドイツ問題の解決に伴って冷戦が終結したとするならば(もっとも、ウェスタッドは冷戦を、米ソ両国によるグローバルな対立が国際的な諸問題に対して圧倒的だった時代、と広く捉えている)、そうしたヨーロッパ冷戦と第三世界における米ソ両国による介入がどのような関係にあったのかは、より検討されてしかるべきであるし、それがなされて初めて冷戦史研究として第三世界における米ソの介入を検討する意義が明らかになるのではないだろうか。
第二は、ケース選択がある意味で恣意的ではないかという点である。本書は包括的に第三世界に対する米ソ両国の介入を取り上げているが、そこで取り上げられるのはあくまで「介入」されたケースである。例えば、東南アジアはベトナム戦争の終結とともに全く取り上げられなくなるし、1960年代のインドネシアやマレーシアのように介入が不十分な場合は触れられている程度である。また、第三世界と冷戦の関係を考える際に一つの焦点となるのは中国であるが、中国そのものは米中接近によって介入の対象とはならなくなることから取り上げられない。言わば本書で取り上げられる「介入」の諸事例は、米ソ両国の政策が失敗したか、まだ均衡が達成されていないような事例である。グローバルな冷戦を検討するためには、米ソ両国の政策が「成功」した地域や、均衡が達成されて「安定化」した地域も取り上げる必要があるのではないだろうか。
もっとも、上記の二点(とりわけ二点目)は無いものねだりという要素も強い。ウェスタッドも繰り返し指摘しているように、米ソ冷戦の影響はグローバルなものである。冷戦の焦点を認識しつつも、そのグローバルな影響を念頭に置いて研究は進められる必要があるのだろう。その意味で本書が、冷戦期の国際政治史を考える上で外すことの出来ない重要な一冊であることは間違いないだろう。
猪木武徳『戦後世界経済史』
↓の本について、書評形式で短評を書こうと思ったのですが、なかなかうまく書けないので、思いついたことをダラダラと書いていくことにします。というわけで、内容の紹介や個々の論点は割愛しています。はしがきと第一章を読めば、大まかな内容は分かると思うので、ただ単にお勧めということで、読み飛ばして下さい。
・猪木武徳『戦後世界経済史 自由と平等の視点から』(中公新書、2009年)
昨今の新書ブームの中で、新書の元祖である岩波新書、そしてかつては御三家の一角を占めた講談社現代新書の凋落が著しい中で、孤軍奮闘しているのが中公新書ではないでしょうか。題名で奇をてらうこともなく、淡々とその道の専門家による一般読者向けの良書を刊行している中公新書も刊行2000点を超えたそうです。記念すべき創刊2000冊目となるのが、この猪木武徳『戦後世界経済史 自由と平等の視点から』です。
話は逸れますが、『戦後世界経済史』とともに天野郁夫『大学の誕生(上)』を刊行してしまう辺りも、他の新書とは完全に一線を画した中公新書の面目躍如という感じでしょうか。さらりとこうした本を出せるのは、今や中公新書だけだと思います。
第二次大戦後から20世紀末まで、世界各国がどのような経済的変遷を辿ったのかを、データと経済学の論理、政治、さらには「自由」と「平等」という価値に踏み込んで概観した本書は、初学者からその道の専門家まで、幅広い読者に歓迎されるのではないでしょうか。古典から最先端の研究にまで目を配り、深みを出しつつ平易な文体で書かれ、「引用」されるというよりは「参照」される、初学者から専門家まで広く読まれる、そんな新書の理想像のようなものをこの本は感じさせてくれます。
著者が言うように「全体を大雑把に見るということは、細部を正確に観察するのと同じくらい、時にはそれ以上に重要」(i頁)なのだと思います。しかし、第二次大戦後の世界経済と一口に言っても、戦争の荒廃からの復興を目指す国、独立=脱植民地化を目指す国がそれぞれあり、そこに米ソのグローバルな冷戦が関係してきます。さらに第一次石油危機という転換点、そして社会主義経済の不調、グローバルかつ巨大な金融市場の形成といった事情が、各国それぞれの事情に重なってくる。こうした状況を、政治や価値の問題に踏み込んで世界全体を見通すことは、まさに「言うは易し行うは難し」ですが、本書は、新書というコンパクトなサイズながら、この困難ながら極めて重要な試みに成功していると言えると思います。
・猪木武徳『戦後世界経済史 自由と平等の視点から』(中公新書、2009年)
昨今の新書ブームの中で、新書の元祖である岩波新書、そしてかつては御三家の一角を占めた講談社現代新書の凋落が著しい中で、孤軍奮闘しているのが中公新書ではないでしょうか。題名で奇をてらうこともなく、淡々とその道の専門家による一般読者向けの良書を刊行している中公新書も刊行2000点を超えたそうです。記念すべき創刊2000冊目となるのが、この猪木武徳『戦後世界経済史 自由と平等の視点から』です。
話は逸れますが、『戦後世界経済史』とともに天野郁夫『大学の誕生(上)』を刊行してしまう辺りも、他の新書とは完全に一線を画した中公新書の面目躍如という感じでしょうか。さらりとこうした本を出せるのは、今や中公新書だけだと思います。
第二次大戦後から20世紀末まで、世界各国がどのような経済的変遷を辿ったのかを、データと経済学の論理、政治、さらには「自由」と「平等」という価値に踏み込んで概観した本書は、初学者からその道の専門家まで、幅広い読者に歓迎されるのではないでしょうか。古典から最先端の研究にまで目を配り、深みを出しつつ平易な文体で書かれ、「引用」されるというよりは「参照」される、初学者から専門家まで広く読まれる、そんな新書の理想像のようなものをこの本は感じさせてくれます。
著者が言うように「全体を大雑把に見るということは、細部を正確に観察するのと同じくらい、時にはそれ以上に重要」(i頁)なのだと思います。しかし、第二次大戦後の世界経済と一口に言っても、戦争の荒廃からの復興を目指す国、独立=脱植民地化を目指す国がそれぞれあり、そこに米ソのグローバルな冷戦が関係してきます。さらに第一次石油危機という転換点、そして社会主義経済の不調、グローバルかつ巨大な金融市場の形成といった事情が、各国それぞれの事情に重なってくる。こうした状況を、政治や価値の問題に踏み込んで世界全体を見通すことは、まさに「言うは易し行うは難し」ですが、本書は、新書というコンパクトなサイズながら、この困難ながら極めて重要な試みに成功していると言えると思います。