2009年06月

2009年06月29日

I Want You Back/今週の授業(6月第4週)

忌野清志郎に続いて、またしても好きなアーティストの訃報が届いたことにショックを受けています。

清志郎は、初めて聞いた時に衝撃を受けてそのままのめり込んでいったのに対して、マイケル・ジャクソンの場合はそういう感じでは全くありません。長らくポップスを馬鹿にしてきた自分にとって、King of Pop=マイケル・ジャクソンは進んで聴こうという対象ではなかったからです。しかし、ロック以外は認めないという青臭さを脱しつつあった高校三年くらいからかソウルを聴くようになり、その流れでジャクソン5にも出会い、ようやく正面からマイケル・ジャクソンの音に触れるようになりました。改めてソロ時代の曲を聴いてみるとああこの曲もマイケルの曲だったのかと思うことがしばしば、ということがこの人の作る曲の持つポップネスのようなものなのでしょう。

そんなわけで、このブログらしくないですが、動画を貼り付けてみます↓。やっぱり、この曲が一番ぐっときます。なかでも、この動画はただ音を聴くのとは違う雰囲気があるので好きなものです。

合掌。





<水曜日>

2限:国際政治論特殊研究

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今回は、Ian Clark“Chapter 32 Globalization and the Post-Cold War Order”がテキストの予定だったのですが、前回の議論の積み残しがあったため、授業時間の半分ほどが前回の話でした。

今回の章も非常に大きな内容を取り上げていたのですが、さすがイアン・クラークといったところで、うまく議論がまとめられていたように思います。が、今回は発表者が読み上げたところで時間が終わってしまったので、具体的な内容紹介は次回に回すことにします。

5限:プロジェクト科目(安全保障研究)

「次回からの三回はチャタムハウスルールで」と先週先生からアナウンスがありました。チャタムハウスルールというのはよく耳にするのですが、いまいち使い方が定まっていないような気がするので本家本元のHPで調べてみると↓ということらしいです。

"When a meeting, or part thereof, is held under the Chatham House Rule, participants are free to use the information received, but neither the identity nor the affiliation of the speaker(s), nor that of any other participant, may be revealed".

今回の話はそんなに厳密にチャタムハウスルールを適用する必要もないような気もしますが、ひとまず先生の厳命に従うことにしたいと思います。

テーマは「安全保障分析の視角」ということでした。細かな具体例を挙げての色々な説明がありましたが、「安全保障を論じる際に理念的な話だけをしても意味がない」というのが要点といっていいと思います。こうした単純化が正しいかどうかは分かりませんが、要は「運用」や「防衛力整備」の実態を踏まえて議論しろ! ということに今回の話は尽きるのではないでしょうか。

例えば、敵基地攻撃能力を論じる場合、ないしは日本に対して発射されるミサイルを発射前に撃ち落とすことを論じる場合、具体的にそうした能力を持つためには、いくら予算がひつようで、実際運用するためにはどれだけの期間がかかるのか、こうしたことを理解せずにこの問題を論じることに意味はない! とゲストの先生は喝破していましたが、基本的に全面的に同意です。

ただ質疑応答の際に出ていた、?同盟を中心とした他国との関係、?(日本を考えた場合の)基地問題、といったことは今回の話からは少し外れる問題かもしれません。

今回の話を無理やり日本の官庁に当てはめてみると、従来の研究の多くは国会や安全保障会議のレベルで議論が展開されてきたが、その下にある防衛省内局の防衛政策局や運用企画局及び統幕の運用部や各幕の防衛部の議論を踏まえるべき、といったところでしょうか。もっとも実際には、防衛力整備を中心に日本の安全保障政策を論じたものでも、その実態を全く理解せずに珍説を唱えている人もいるわけなので、そう簡単には割り切れないのかもしれませんが…。

ちなみにアメリカの安全保障政策分析では予算分析(Budget Analysis)まで踏み込んで研究が行われているという紹介があり、この話はなかなか興味深かったです。そこまで細かくやるべきかどうかはともかくとして、理念的ではない実態がどのようなものかを研究者はある程度まで押さえておく必要があるということが今回の話の最も重要なメッセージではないでしょうか。

<木曜日>

5限:プロジェクト科目(政治思想研究)

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前回の講演を受けての討論。いつもにも増して厳しい議論でした。中心的な主張となる部分が「全く理解できない」というのがコンセンサスといったところでしょうか。これ以上書くと恨み節というか、「~が分からない」「~が理解できない」ということが続いてしまいそうなので、今回はここまで。今期はゲストの先生に対する辛い評価が続いているような気がします。

6限:大学院自主ゼミ(?)

先生が呼びかけてやるものが自主ゼミというのかは分かりませんが、自主ゼミ(もしくはサブゼミ?)が始まりました。特殊研究の方が修士課程向けに国際政治理論の基礎をやっているということ、院ゼミが開講されていないこと等々の事情から、国際政治経済に関連する本を輪読するアドホックなセミナーをやろうちうのが自主ゼミの趣旨のようです。

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今回取り上げたのは、Francis J. Gavin, Gold, Dollars, and Power: The Politics of International Monetary Relations, 1958-1971 (Chapel Hill: University of North Carolina Press, 2004) のイントロダクションと第1章です。第1章は通貨秩序としてのブレトンウッズ体制について論じたものなので、今回は本題に入る前の部分までが範囲だったのですが、活発な議論でとても興味深かったです。

この本は、ブレトンウッズ体制下におけるアメリカの国際収支問題と西ドイツを中心とした西側同盟諸国の負担分担問題を、アメリカの政府文書を中心に検討した本で、大まかなイメージは古城先生の論文「日米安保体制とドル防衛政策 防衛費分担要求の歴史的構図」『国際政治』(第115号、1997年)に近いと言うのが一番いいような気がします。

国際通貨をめぐる国際関係は師匠の専門ということもあったか、本に対する評価はなかなか厳しいものでしたが、個人的にはこの本はもう少し広く読まれてもいいのではないかと考えています。今回は足慣らしということで軽めでしたが、次回は一気に残りの7章+結論を読むことになりそうなので、読み終わったところでこの本についてはまとめて紹介します。

at 20:57|PermalinkComments(0)ゼミ&大学院授業 

2009年06月21日

吉次公介『池田政権期の日本外交と冷戦』

昨日のエントリーで新刊ラッシュと書いたばかりですが、他にもまだまだ色々な新刊が出ています。

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左の本(君塚直隆・監訳『オックスフォード ブリテン諸島の歴史 第9巻 19世紀 1815年~1901年』慶應義塾大学出版会)は、Short Oxford History of the British Islesの一冊であるThe Nineteenth Century: The British Isles 1815-1901 の翻訳です。政治・外交から、文学、宗教、ジェンダーまで包括的に書かれているシリーズのようで、本棚に並べておいてじっくり読み進めたい一冊です。自分の専門を考えればこれは趣味の一冊かもしれません。

大分趣向が変わりますが右の本(伊藤正直『戦後日本の対外金融 360円レートの成立と終焉』名古屋大学出版会)は、戦後日本を考える上で重要な一冊です。日本経済史研究もようやく70年代を射程に入れた研究が進みつつあるようで、ちゃんとフォローして置かなければと思わされます。ただし、ぱっと見た範囲ではありますが、重要と思われる政治学者の研究はほとんど参照されていません。参照されているものは、中村隆英先生の編著に含まれているものなどであり、隣接分野への目配りや交流は世代が下がるにつれて残念ながらどんどんと低下してしまっているようです。



読んでいない新刊の話ばかり書いていても仕方がないので、読み終えた本の簡単な紹介をしておきます。

第一段は吉次先生の本ですが、その他にも高安健将『首相の権力 日英比較からみる政権党とのダイナミズム』(創文社、2009年)、Odd Arne Westad, The Global Cold War: Third World Interventions and the Making of Our Times, (Cambridge: Cambridge University Press, 2005)、猪木武徳『戦後世界経済史 自由と平等の視点から』(中公新書、2009年)などなどは、近いうちに紹介しようと思います。

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吉次公介『池田政権期の日本外交と冷戦 戦後日本外交の座標軸1969-1964』(岩波書店、2009年)

<はじめに>

戦後日本の政治外交史の文脈を考えてみると、池田政権は一種独特の存在感を持った政権である。吉田や岸のような形で追われるように政権を失うこともなく、また佐藤のように長期政権ゆえの捉えどころのなさもない。そして、70年代以降生まれた多くの短期政権とも異なる。こうした政権はその後、中曽根政権と小泉政権のみであろう。中曽根政権と小泉政権にしても、ある意味では「抵抗勢力」との戦いという後ろ向きにならざるを得ない「改革」の時代であった。その最期は池田自身の病気による不本意な退陣だったとは言え、「国民所得倍増計画」を掲げ、そして「政治の季節」の終焉に始まり東京オリンピックに終わる池田政権期は、戦後日本のまさに「青春の時代」であった。
このような池田政権は当然、多くの研究者の関心を惹きつけ、様々な研究が蓄積されてきたが、不思議なことにこれまで池田政権の外交を正面に据えた研究書は無く、本書の刊行はそれだけでも大きな意義を持つものと言えるだろう。以下、本書の概要を簡単に紹介した上で、若干のコメントを試みたい。

<本書の概要>

冒頭に明らかにされているように、本書は「池田勇人政権期(1960-64)における日本外交の軌跡を、アジア冷戦をめぐる国際政治のダイナミクスのなかで解明しようとするものである」(1頁)。こうした問題設定は、①日米安保の庇護の下で冷戦を戦うことを出来るだけさけて経済発展に邁進した、そして②「吉田路線」を継承し定着させた池田政権は「経済中心主義」の外交を展開した、という従来の池田外交象を著者が批判的に捉えていることによるものである。近年様々な論者によって、池田政権が単なる「経済中心主義」には収まらない外交を展開していたことが指摘されており、本書もこうした池田修正主義に則っている。

本論は、「安保闘争」後の池田政権発足を起点に、日米「イコール・パートナーシップ」の形成を描き出すことから始まる。第一章では、「保守支配の貫徹」や「自由主義陣営の一員」といった池田政権のアイデンティティとなる政策や、その背後にある意識の形成を、日米関係の再構築と重ね合わせながら丁寧に検討することによって、池田政権の基本政策が明らかにしている。総裁選後の「新政策」の形成、総選挙、池田=ケネディ会談、日米貿易経済合同委員会の開始といった出来事を包括的に検討しており、日米関係の再始動していく様子がいきいきと描かれている点は印象的である。「経済中心主義」という従来の主張以上に、「政治的」な側面を池田政権が持っていたことがここでは強調される。
続く第二章では、「三本柱」論として知られている、池田政権における日米欧協力体制の模索が検討される。佐藤政権期には首相訪欧は行われず、池田政権の対ヨーロッパ積極姿勢は、OECD加盟という大目標があったことを差し引いても明らかである。「三本柱」論は、池田政権にとって経済的のみならず政治的にも重要な意味を持つものであった。池田訪欧については、いくつかの研究も既に発表されているが、ややアジア冷戦の文脈に引きつけ過ぎている感はあるものの、本章はより包括的に池田政権期の対欧外交の全体像を描き出すことに成功していると言えよう。
第三章は、本書の主張の中心的な主張を形成する重要な章である。ビルマ(ミャンマー)は現在でこそ世界で最も経済的に困窮し政治的に孤立している国であるが、1960年代初頭は将来の発展が嘱望されていた。また戦略的にも、ビルマに対する米英の影響力が限られている中での中国の接近といった事情があり、日本政府はビルマ情勢に強い関心を持つようになった。かくして、「池田政権期の日本は、ビルマの左傾化を食い止め、あわよくばビルマを自由主義陣営に引き寄せることを、東南アジア反共政策の核に据える」ことになったと本書は分析する。そして、日本は賠償問題の再交渉や、経済協力の実施を手段としてビルマへの関与を強めていったのである。ビルマの重要性は、波多野澄雄・佐藤晋『現代日本の東南アジア政策』(早稲田大学出版部、2007年)でも指摘されているが、本章は池田政権期における対ビルマ政策の全体像を、冷戦の文脈に引きつけつつ、より詳細に明らかにしている。
そして第四章では「東南アジア反共外交の停頓」として、緊迫するインドネシア=マレーシア紛争や、ベトナム問題に対する日本外交を検討している。厳しさが増すアジア情勢の中での、アメリカからの「負担分担」要求や、マレーシア問題やベトナム情勢に日本は結局のところ積極的な姿勢を示すことは出来なかったのであった。

以上の本論を踏まえて、本書は「池田政権期の日本は、米欧と並びたつ「三本柱」の一翼を担う「自由主義陣営の有力な一員」として、アジアにおける共産主義との戦いで応分の役割を果たすという、新たな日本外交の座標軸を定めた。そして実際に、池田政権期の日本は欧米との連携を強め、東南アジアで反共政策を展開し、「自由主義陣営の有力な一員」という座標に向かって歩き始めたのであった」(251頁)と結論づける。
その上で、同時に池田政権期の日本外交の抱えていた限界、すなわち「ビルマを重点地域と位置付け、日米欧が協力してアジアにおける共産主義の拡大を食い止めるという点では、満足しうる成果を挙げることはできなかった」(254頁)ことを指摘しつつも、その「自由主義陣営としての有力な一員」という座標軸は、その後の各政権にも看過しえない影響を及ぼしたと著者は評価する。

<若干のコメント>

以上のように本書は、池田政権期の日本外交を包括的に検討している。従来の研究が日米関係やアジアとの関係、さらには安全保障問題と経済問題をそれぞれ論じる傾向が強かったのに対して、本書が内外の一次資料を詳細に検討し、池田政権期の日本外交の全体像を研究書として初めて提示した点は高く評価されるべきだろう。また、首相や外相の外国訪問などは、対処方針立案や訪問に至る過程、実際の会談、さらにはその評価などがそれぞれ丁寧に叙述されている点も本書が優れている点である。加えて、必ずしも自らの議論に都合が良くない部分も含めて丁寧に叙述されており、この点は本書の叙述に信頼感を与えている。

とはいえ、こうした本書の優れている点が、皮肉にもそのまま本書の中心的な主張の説得力を失わせていると言えるのかもしれない。既に紹介したように、本書の中心的な主張は、池田政権期の日本が米欧と並び立つ「三本柱」を構成する「自由主義陣営の有力な一員」としてアジアの冷戦で応分の役割を担うという座標軸を定め、それがその後の各政権へも道筋を定めたというものである。
しかしながら、本書の叙述を丁寧に読んでいけばいくほど、果たして池田政権期の日本外交が、(そうしたレトリックはあったとしても)どれだけ実際にアジア冷戦でその役割を果たしたのか疑問を持たざるを得ない。第三章で対ビルマ外交が、そして第四章ではインドネシア=マレーシア紛争とベトナムが検討されているが、その全てにおいて日本の「反共外交」の試みは中途半端なものであり、結果が付いてくることはなかった。
また、それぞれの局面においても日本が及び腰だったことは本書の叙述からも読みとることが出来る。例えば、1962年12月の日米貿易経済合同委員会で、日本がアメリカに対ビルマ支援への意欲を強調した際に、ラスク国務長官が日本のビルマ政策を歓迎し、さらに日本がフィリピン・マラヤ・タイ・ビルマ・カンボジアなどから構成される地域機構の「パトロン」になることを提案すると、日本はビルマ政府がフィリピンやタイといった自由主義陣営諸国を信用していないとして、その提案をやんわりと拒否したのである(156-157頁)。こうした日本の姿勢は、はたして「自由主義諸国の有力な一員」だったのであろうか。むしろ、日本の姿勢は冷戦の論理よりも地域の安定を目指すという志向が強かったと言えるのではないだろうか。

こうした点を考慮すると、本書が真に対立する研究は、高坂正堯や萩原延壽らの評論的な論考ではないのではないだろうか。宮城大蔵が『「海洋国家」日本の戦後史』(ちくま新書、2008年)等で指摘しているように日本外交は、確かにアメリカの冷戦戦略と重なる部分はあったのだろう。しかし、その手段は大きく異なるものであったのであるし、前述のようにアメリカがさらなる経済援助を促すと日本は渋ってきたのである。そうであるならば、戦後日本がアジアで果たした役割は、「冷戦」の文脈ではなく、「脱植民地化から開発へ」という文脈ではないのだろうか。
また、そもそも軍事力の裏付けなき冷戦政策を取る日本外交が、著者の言う「自由主義陣営の有力な一員」であると言うならば、軍事的な介入や援助を厭わない他国はどのように評価されるのであろうか。この点については、中島信吾『戦後日本の防衛政策』(慶應義塾大学出版会、2006年)の議論と合わせて検討する必要があるのだろう。
さらに、鈴木宏尚「池田外交の構図」『国際政治』(第151号、2008年3月)の議論とも本書は対立する。確かに「池田外交の構図」は本書で整理されているように(1頁)、池田政権の外交を「経済力を梃子とした国際的地位の向上」を目指すものと評価しているとも読むことが出来る。しかしながら、「池田外交の構図」では、同時にそうした池田政権の外交は、「国際冷戦と国内冷戦」へ同時に対処する最適解であったとも指摘しており、その点は本書の議論に修正を迫るものではないだろうか。

もっとも、以上のような疑問を感じるのは、本書がその議論を明確に打ち出すと共に、一次資料を丁寧に検討しているからこそである。池田政権期の日本外交を考える出発点として、本書がまず読まれるべき研究であることは間違いないだろう。本書をめぐって今後展開されるであろう様々な論争がどのような展開を見せるのか、今から楽しみである。

at 23:59|PermalinkComments(1)本の話 

2009年06月19日

今週の授業(6月第3週)

この数ヶ月は新刊ラッシュが続いているようで、自分の研究をやっているとなかなか読書が追い付きません。こんな本買いました、とブログに書いてもあまり意味がないのですが、自分に読む圧力をかけるためと、備忘録代わりに書いておくことにします。

それにしても↓の二冊のような大作が、机の上にどーんと置いてあると嬉しい悲鳴が上がってしまいます。

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楠綾子先生の『吉田茂と安全保障政策の形成 日米の構想とその相互作用1943~1952年』(ミネルヴァ書房)は、戦中から占領期の日米安全保障関係を検討した決定版になり得る研究書となるのではないでしょうか。ただ全388頁かつ二段組という大作で、その細かさと徹底した史料調査に読みだすのを躊躇してしまうほどです。博士論文ベースの戦後日本外交史の研究書がまた一冊増えたことは喜ばしいことですが、こう続々と研究書が刊行されるとやや焦りの気持ちが湧いてくることは否めません。

先週末にあった某研究会でも話題になったことですが、細かく歴史的事実を明らかにしていくことそのものよりも、その事実を明らかにすることによって何が分かるのか、ということがより重要だと個人的には考えています。言いかえれば、ただ歴史を叙述するだけではなく、その叙述を通していかなる日本外交論、国際政治論を展開するかが研究者の腕の見せ所なのではないでしょうか。

明石欽司先生の新著『ウェストファリア条約 その実像と神話』(慶應義塾大学出版会)は、内外を問わずウェストファリア条約研究の決定版と言いうる研究だと思います。国際法史研究としてだけでなく、便利な枕詞として用いられる「ウェストファリア体制」という言葉をいかに考えるべきか、そもそもウェストファリア条約とは何か、古典外交はいかに形作られたのかといった国際政治学的な関心からも、また西洋史(ドイツ国制史)の観点からも、この本は様々な読み方が可能だと思います。この本の基になった論考の大半は読んでいるのですが、刊行を機にじっくり読んでウェストファリア条約について考えることにしたいと思います。が、全624頁というのは、これまたしんどい厚さです。

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『コンスタンの思想世界 アンビヴァレンスのなかの自由・政治・完成可能性』(創文社)は自分の専門とは全く関係ないので、半分以上趣味の領域ですが、刊行が楽しみだった一冊です。堤林先生には、学部一年時以来、サークル・授業等でお世話になってきたこともあって、勝手に親しみを感じて刊行された論文には目を通してきました。それら個々の論文が一冊の研究書として、まとめられた時にどういったものになるのか、読む前から楽しみです。もっとも、自分の専門分野を優先しないといけないので、この本をじっくり読むのは夏休みになってからになりそうです。

さて、上記三冊の他にもまだまだ新刊ラッシュは続いています。未刊ですが、戦後日本外交関係では、井上寿一先生の新著『吉田茂と昭和史』(講談社現代新書)が、また新聞記者の方がインタビューと一次資料を基に書かれた『「共犯」の同盟史 日米密約と自民党政権』(岩波書店)という本も出るようです。

他にも翻訳物では、酷評していた某日本外交論の翻訳が日本経済新聞社から4月に出ましたし、岩波書店の「ヨーロッパ史入門」の一冊として、ドックリル&ホプキンスの『冷戦 1945-1991』が出るようです。



と、読んでいない本の話ばかりをしていても仕方がないだろうということで、今週の授業の話ですが、これもまた他愛も無い感想を垂れ流しても仕方がないような気もします……。まあ、見ている人がそれなりにいるようなので、何らかの役には立つのでしょう。

<水曜日>

3限:国際政治論特殊研究

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今週は、Andrew Linklater, “Chapter 31 Globalization and the Transformation of Political Community”がテキストでした。

通常の国際政治学では、前提とされることが多い「国家」に代表される政治共同体の変容がテーマのこの章は、メタ国際政治学のような趣がありました。議論自体はそれほど難しいものではないですが、一冊の本になるような(実際リンクレイター自身が本にしているのですが)テーマをコンパクトにまとめてあるため、文脈がよく分からない部分が散見される章でした。その点は面白い議論を展開しているだけに残念でしたが、個人的にはこれまでの章があまりにひどかった分、楽しく読むことが出来ました。

また、これまで読んできた章がグローバリゼーションの「統合」の側面ばかりを強調していたのに対して、この章はグローバリゼーションに伴う「分裂」の側面も併せて取り上げているので、全体としてのバランスが担保されていたように思います。

授業が終わりに近付いてきてからようやく気が付いたのですが、この本は全体としてテキスト以上にコンテキストに問題がある章が多いようです。おそらく、発表者がコンテキストを理解しようとしてテキストを読んでいないように思える時に、先生は発表者に厳しいコメントを発しているようです。自分の場合は、学部以来先生にお世話になっているので、そういった意識は身体に浸み込んでいるいるのですが、そうではない院生にとってはなぜ先生が厳しい問いかけをするのかがよく伝わらないのかもしれません。

5限:プロジェクト科目(安全保障研究)

今週は、ゲストは無しで先生自身がお話しされました。テーマは、「核兵器と朝鮮戦争 トルーマンとスターリン」、テキストは「核兵器と朝鮮戦争 予防戦争と自己抑制の間」赤木完爾・編『朝鮮戦争 休戦後50周年の検証・半島の内と外から』(慶應義塾大学出版会、2003年)と「朝鮮戦争と核兵器」慶應義塾大学法学部・編『慶應の政治学 国際政治』(慶應義塾大学出版会、2008年)でした。

前回に続いて核兵器の話かつ時代もそのすぐ後、ということですんなりこのテーマに入っていけました。20世紀半ば以降の国際政治、中でも力の体系としての国際政治を考える上で、核兵器の問題は外すことが出来ません。なかでも朝鮮戦争期が興味深いのは、本格的な核時代到来以前であり、核保有量については実質的にアメリカがほぼ独占状態であったことです。ある意味では、核兵器使用の「蓋然性」はキューバ危機時以上に高かったと言うことも可能でしょう。

その朝鮮戦争時代に核兵器をめぐってアメリカはどのような戦略・政策を採ったのかという点を、「対ソ予防戦争」という補助線を引くことに明らかにすることが二つの論考に共通する旋律です。もっとも、先生自身がおっしゃっていたように、核兵器が使用「されなかった」ことを説明することは難しい課題であり、いつまで経っても決定的な答えは出せないという側面はあるのかもしれません。細かい内容は基本的に上記二つのテキストの通りなので割愛しますが、先生がトルーマン政権とアイゼンハワー政権の間の断絶を強調していたことが印象的でした。

自分の専門の関係もあり、ついつい国際政治を考える上で軍事的な話よりも政治外交的ないしは経済的な視点に偏りがちなだけに、こういった話を聞いてしっかりと考える機会があるのは貴重なことです。軍事・政治外交・経済、これらが相互に関連しつつ現実の国際政治は展開しているわけであり、今回の話をより広い文脈の中に置いた時にどんなことが言えるのかは興味深いポイントです。

<木曜日>

5限:プロジェクト科目(政治思想研究)

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今週は瀬戸一夫先生による「時間の思想史」という講演でした。基本的には↑の本の概要をコンパクトにまとめつつお話し頂いたと言っていいのだと思います。本ではより多様な問題関心に沿った議論が展開されていますが、講演ではそのエッセンスとなる部分と背景説明が中心でした。具体的には、イングランド叙任権闘争を舞台とした神学者アンセルムスの思想を、同時代の政治史と時制論理という切り口を重ね合わせて描き出す、といったところでしょうか。

本は緒論と結論しか目を通していないのであまり偉そうなことは言えませんが、質疑応答で問題になった点は、緒論を読んで感じた疑問と繋がる点であり、次週の討論でどういった議論になるのかが楽しみです。個人的には、時間・過去・今・未来・改変といった様々なキーワードに関する定義や、哲学的な意味付けがやや弱く、そこにいくつか出た質問に共通する根っこのようなモノが潜んでいるような気がしました。

at 12:29|PermalinkComments(0)ゼミ&大学院授業 

2009年06月13日

今週の授業(6月第2週)

あたふたと授業の発表をこなしている内に、いつの間にか26歳になり、そして日本代表のW杯出場が決まり、と一週間が過ぎてしまいました。

W杯出場決定といっても、何となく盛り上がりがかけるのは同世代に共通するもののようです。あのジョホールバルの時と同じような盛り上がりは、やはり初出場が決まったことによるのでしょうか。

個人的にサッカーのW杯出場以上に盛り上がったのは、先週末の安田記念です。ウォッカのラスト1ハロン、苦しい位置に閉じ込められながら自らコースをこじ開けてのあの脚は、テイエムペラオーの有馬記念を彷彿させる、有無を言わさない強さを感じさせるものでした。ダイワスカーレットというライバルがいなくなってしまったのが非常に残念です。

さて、授業も発表が全て終わり、小銭稼ぎのアルバイトもひと段落つき、ようやく本腰を入れて研究に入ることが出来るようになった昨日、今の自分にとっては最大級に嬉しい知らせが届きました。これでようやく研究者としての第一歩を歩み出せるといったところでしょうか。正直ひと安心という気持ちはありますが、ここで緩まずに次の研究に取り組んでいこうと思います。



<水曜日>

2限:国際政治論特殊研究

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今週は、Ngaire Woods, “Chapter 14 International Political Economy in an Age of Globalization”がテキスト。

発表担当だったのですが、この章の出来がまた良くなかったので辟易としました。バランスが悪く、ところどころ紹介している議論が間違っていて(国家の強さの話など)、さらにこれといった主張が無いというのはこれが教科書であってもあまりにひどいと言わざるを得ません。「この章を読ませたのは失敗です」と先生が言っていました(笑)。先生がこの分野の専門であり、自分もこの章が専門に近いのでやや辛いという面もあるのかもしれませんが、……大丈夫かオックスフォードと突っ込みたくなります。ダメだダメだと言ってばかりいては始まらないので、適宜議論を補いながら発表してみました。

と、こんな感じでテキストに最近文句ばかり言っているのですが、来週はリンクレイター、再来週はイアン・クラークが、それぞれ自分の著書のエッセンスをまとめている感じの章なので、このストレスからもようやく解放されそうです。

6限:プロジェクト科目(安全保障研究)

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今週は、授業が東アジア研究所の研究会と重ねられたということもあり、6限に行われました。ゲストは、↑の著者のジャック・ハイマンズ、テーマは「Britain and Hiroshima」(日本への原爆投下とイギリス)でした。

ようやく安全保障研究らしい話を今回聞くことが出来たのですが、授業の趣旨を考えると何となく変な気もします。アメリカの政治学者には珍しくといっていいのだと思いますが、今回の話は完全に外交史といっていいものでした。日本への原爆投下については、麻田貞雄先生がこれでもかというほど詳細な論争のまとめ(「『原爆外交説』批判 “神話”とタブーを超えて(1949-2009年)」『同志社法学』第60巻第6号、2009年1月)をされているので多少知ってはいるのですが、そこにイギリスがどのように絡んだのかについてはほぼ知らなかったので、とても勉強になりました。

質問も色々と出ていたので面白かったのですが、個人的には結局アメリカの決定にはあまり影響力がなかったというイギリスの原爆投下への姿勢を分析することによって何が見えてくるのかといったことや、これまでのご自身の研究との関係でどのような知見があるのかといったことが気になったのですが、質問するタイミングを逃してしまいました。一点目は、リサーチ・デザインの上では重要なことなのですが、原爆投下のように事例が一つ(広島・長崎を分ければ二つ)しかないような事例の場合は、それを細かく見ていくだけでも面白さがあるのかもしれません。

報告内容は、今年中にJournal of Strategic Studiesに掲載されるそうです。

<木曜日>

5限:プロジェクト科目(政治思想研究)

先週の報告「ネオリベラルな統治と生政治」を受けての討論、今回は発表担当でした。

私自身は批判的国際関係論に与しているわけではないのですが、土佐先生の著作はこれまでも愛読し、批判的国際関係論者一般とは異なるバランス感覚や、現実感覚に惹きつけられてきたので、授業でどのような議論を行うべきか色々と迷いました。

結局は、内在的に研究関心や分析の視角を検討し、その問題点を指摘した上で、無理矢理自分のフィールドに近いところに議論を引きつけてみる、といった発表になってしまいました。

ちなみに先週の報告は、統治技術としてのリベラリズムの問題→その現れとしてのグローバル・ベンチマーキング・システム→例外状態に置かれたローカル・ガヴァナンスの一例としてのイスラエル/パレスチナ、といった流れでした(ほぼ、「グローバルな統治性」芹沢一也、高桑和巳・編『フーコーの後で』慶應義塾大学出版会、2007年、と重なっています)。前半ではフーコーの議論、後半ではアガンベンの議論をそれぞれ引きながら論じており、そこに有機的な連関があまり無いような気もしたのですが、それを指摘するだけでは面白くないなと思い、結局発表では後半部分を重点的に取り上げることにしました。

というわけで、大きな流れとしては、土佐先生の研究関心や問題意識を著書やHPに書かれていることを用いて概観し、その上で批判的国際関係論の理想主義(idealism)とは異なる意義、国際政治と世界政治の違いをそれぞれ指摘し、さらにジェームズ・メイヨール『世界政治』の議論(プルラリスト/ソリダリスト)に引きつけて土佐先生の議論に潜む危険性を指摘するという形を取りました。

が、共感する部分がそれなりに多い議論をあえて批判的に論じてしまったために、いまいちまとまりにかけていたように自分で思いますし、おそらくより意義があった前半部分ではなく後半部分を取り上げたことも問題があったように思います。

at 11:56|PermalinkComments(0)ゼミ&大学院授業 

2009年06月09日

素晴らしい書評と残念な書評

作家に長編作家と短編作家がいるように、学者や評論家にも長い文章の方がうまい人もいれば短い文章の方が得意な人もいます。とはいえ、長かろうが短かろうが同じテーマについて書かれた文章を読み比べてみれば、奥の深さや知的なレベルの高さ、バランス感覚といった様々な違いがよく分かります。そんな違いをこの週末に考えさせられました(ブログで駄文を思いつくままに書き連ねている自分にそんなことを書く資格などないではないかとも思いますが…)。

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先々週の『読売新聞』(リンク)、『朝日新聞』(リンク)に続いて↑の書評が週末の新聞二紙に掲載されていました。

一つは『毎日新聞』(リンク)です。新聞書評としては長いとはいえこの短い文章でこれだけ的確にこの本のメッセージを汲み取り、かつ単なる紹介ではなく「評」となっている書評はあまり見ることが出来ないのではないでしょうか。とにかく、こちらは素晴らしい書評です。先々週の二つの書評もいいのですが、この書評と比べてしまうとやはり一段落ちるような気がします。

もう一つは『日本経済新聞』です。残念ながら、日経は書評をインターネットで公開していないのですが、むしろ評者である某論説委員にとってはいいことなのかもしれません。とにかくひどい。この書評子は、以前も『日本の「ミドルパワー」外交』について滅茶苦茶な書評を書いたことがある要注意人物ですが、何を言いたいのか分からない、本のテーマも分からない、まともな感想にもなっていない、ただ自分がしっかり読めていないことだけが伝わるという近年稀に見るひどい書評です。悪文に興味がある方は図書館等でごらんください。

もとい、この本の書評が『産経新聞』を除く主要四紙に掲載されたことはとても喜ばしいことです。

at 15:59|PermalinkComments(0)本の話 

2009年06月05日

今週の授業(6月第1週)

さて、四回続けて授業についてダラダラ書くだけという更新です。



<水曜日>

2限:国際政治論特殊研究

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前週で理論部分は終了し、今週と来週は「構造とプロセス」と銘打たれたパートが範囲です。今週は、John Baylis, “Chapter 13 International and Global Security”がテキスト。

理論の勉強をしたことが無い修士向けという授業であるとしても、もう少しレベルが高い文献を取り上げた方が良かったのではないか、といった感じになりつつあるこの数回の授業の感想なのですが、その辺りはうまく発表者が工夫してくれればいいのかもしれません。

抽象的な話になってしまいますが、何でもかんでも対象とされてしまうような安全保障観(「○○安全保障」の部分に色々な言葉が入るような感じ)には違和感がもともとあったのですが、今回のテキストを読んでその思いをさらに強くしました。日本語でいうところの国際政治学と、英語圏の国際関係論(International Relations)は必ずしもイコールではないでしょうし、さらに世界政治とされるものもWorld PoliticsなのかGlobal Politicsに微妙な差異があります。このテキストは、Globalization of World Poloticsと銘打たれているわけですが、副題はAn Introduction to International Relationsです。

個人的には、もう少し政治学が「政治」学である所以や、国際政治学が「国際」政治学であることの意味を突き詰めて考えた方がいいと思うのですが…。抽象的な言い方過ぎるかもしれませんが、そんなことを英語圏の教科書を読む度に感じます。

全然授業のレビューになっていませんね。

4限:サブゼミ(?)

来週赤木ゼミと合同ゼミがあるらしくその指定文献の読み合わせ会がありました。未刊行の論文が指定文献なので、ここには内容は書きにくいのですが、日本への原爆投下とイギリスについて取り上げた研究で、非常に面白い文献でした。

同じゲストの方が東アジア研究所の研究会で講演され、それが次回のプロジェクト科目(安全保障研究)となっているので、感想等は来週の記事で書くことにします。

うちのゼミの場合、こういった形で大学院生がゼミ生と関わることは合宿を除けばほぼないので、どんな感じで進むのかがよく分からず若干ぎくしゃくした感じではありましたが、基本的には学年を問わず活発に発言があり、代は変われど相変わらずゼミの雰囲気は変わっていないな、と安心しました。大学院の授業以上に素直に疑問をぶつけてくれるからか、こちらも色々と勉強になりました。

5限:プロジェクト科目(安全保障研究)

今回は、「ケネディが死んでいなかったらベトナム戦争はどうなっていたのか?」という話だったはずなのですが、蓋を開けてみたらベトナム戦争をめぐる記憶の問題がテーマになっていました。が、色々あってこれはノーコメント。

<木曜日>

5限:プロジェクト科目(政治思想研究)

ゲストは土佐弘之先生で、テーマは「ネオリベラルな統治と生政治」だったはずですが、プレゼンテーションが以前に海外で発表された際に使ったと思われるパワーポイントを用いて行われたため題名は「Anarchical Governance: Neoliberal Governmentality in resonance with the State of Exception」でした(英語のパワーポイントを使いながら、日本語で話されたのでノートを取るのが面倒だなと思ったのですが、あとで調べてみたところHPに同名の英語論文が掲載されていました)。

キーワードを思いつくままに挙げれば、例外状態、ネオリベラルな統治、生政治、パレスチナ、グローバル・ベンチマーキングといった感じで、基本的には指定文献の一つである「グローバルな統治性」芹沢一也、高桑和巳・編『フーコーの後で』(慶應義塾大学出版会、2007年)に沿った講演でした。

今回は討論担当になっているので、これからアガンベンやフーコーを読みつつしばしどういった発表にするのか考えたいと思います。

at 15:10|PermalinkComments(0)ゼミ&大学院授業