2009年05月

2009年05月29日

今週の授業(5月第5週)

諸事情により時間が空いたので、今週の授業について更新。

でもその前に気になる新刊を簡単に紹介しておきます。全てまだ入手していない本を挙げるというのもどうかと思いますが、多分どの本ももう一度ここに書くことになるのと思います。

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一冊目は、吉次公介『池田政権期の日本外交と冷戦 戦後日本外交の座標軸1960-1964』(岩波書店)。自分の専門分野である戦後日本外交史に、また一冊博士論文を基にした本格的な研究書が加わりました。出荷日が26日ということなので、そろそろ書店にも並ぶ頃だと思うのですが、今日確認したところまだ大学生協には届いていませんでした。

池田政権については、とかく「経済中心主義」というイメージがつきまといますが、この10年の間に発表された研究はそうしたイメージを変えるものが多いのではないでしょうか。日米関係、日中関係、対東南アジア外交、対「自由陣営」外交等々、実に様々な領域の研究が蓄積され、単純な「経済中心主義」という見方では、もはや池田政権期の外交を語ることは出来ません。

吉次先生がこれまで書かれてきた論考は、日米関係や対東南アジア外交に関するものでしたが、これが一冊の本としてまとめられた時に、どのような全体像を描き出しているのか、今から読むのが楽しみです。

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次に紹介したいのが上に並べた二冊、佐藤誠三郎『「死の跳躍」を超えて 西洋の衝撃と日本』(千倉書房)と矢野暢『「南進」の系譜 日本の南洋史観』(千倉書房)です。題名を見れば分かるように、ある程度戦前の日本に関心がある方であればどなたも御存じであろう二つの名著が復刊されました。どちらも名著ながら、手に入らない時期が長かったものなので、こうした復刊され、より多くの方の目に入るのは素晴らしいことです。長く読み継がれるべき本をこうして再刊することは、一見すると労多くして得るものが少ない作業のように思えるかもしれませんが、こうした仕事は後々評価されることになるのではないでしょうか。

こう並べてみると、よく似た装丁だと分かると思いますが、どうやら同じ編集者の方が担当されたようです。復刊の過程で、とりわけ『「死の跳躍」を超えて』の方は旧版(都市出版)にあった多くのミスが修正されているようですし、どちらも弟子筋にあたる先生方の序文や解題が付せられているなど、旧版を持っている方でも「買い」だと思います。

この二冊についても、入手して再読してから、内容等を含めた紹介をするつもりです。



さて、授業の話。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊研究

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今週は、Michael Barnett, “Chapter 9 Social Constructivism”がテキストでした。

率直に言ってこの章でのコンストラクティヴィズムの説明はかなり問題があります。クリスティアン・ルス=シュミットのように、分析レベル(分析対象?)でコンストラクティヴィズムを、三つに分類するような見方が正しいかどうかは別にしても、そうした分類を一切無視し、さらにコンストラクティヴィズムが一気に広まった背景にもほとんど触れていないのでは、何が言いたいのかよく分かりません。その点では、10年近く前のものではありますが、石田淳先生の「コンストラクティヴィズムの存在論とその分析射程」『国際政治』124号(2000年)の方が、コンストラクティヴィズムのイメージや登場の背景を理解するのには適しているように思います。

ところで、日本でコンストラクティヴィズムが人口に膾炙し学部生でもその言葉を普通に口にするようになったのは、この5、6年のことだと思いますが、なぜこれだけ流行っているのかが自分にはいまいち理解出来ません。というのも、日本ではコンストラクティヴィズムが広まった重要な背景にあるラショナリズムの覇権という状況はおそらく生まれなかったでしょうし、また冷戦終結に関して国際政治理論が無力だったというような議論もそれほど強く議論されなかったように思うからです(それ以前の問題として冷戦理解も日本とアメリカでは大きく違うわけです)。

そんなことを思うと同時に、この授業を受けていて、リアリズム、リベラリズム、コンストラクティヴィズムという形で、存在論や分析対象、分析レベルが異なるものを代表的な三つの「理論」と並べて教えることに若干無理があるように感じてきました。これは全然考えがまとまっていないので、あくまで感想というか感覚でしかありませんが…。

5限:プロジェクト科目(安全保障研究)

防衛研究所の庄司潤一郎先生がゲストで、テーマは「現代東アジアにおける歴史と記憶をめぐる諸問題」でした。

なぜ、戦後60年が経過した今、東アジアで歴史認識論争が起こっているのか? そして歴史認識の共有は可能なのか? という問いかけから始まって、?「記憶」の諸類型と歴史学、?戦争をめぐる歴史認識、?なぜ今なのか、?なぜ東アジアでこれだけ問題になっているのか、といった様々な問題が実にコンパクトかつバランス良くまとめられていたのが印象的でした。課題に指定されていたのは、雑誌論文をメインとする歴史認識問題に関するいくつかの論争や分析でしたが、そのどれよりもバランス良く歴史認識問題に目配りしていたと言っていいと思います。

課題文献を読み授業を受けての感想として若干ショックだったことは、なかなかこの問題について前向きな展望が持てないということです。そこに「歴史」問題とは異なる「歴史認識」問題の難しさがあるのではないでしょうか。歴史家ではない「素人」の歴史認識問題への参画、政治を中心とした様々な「外部」の影響等々は、この問題をいかに収集させるかという展望をますます描きにくくさせています。

「安全保障研究」という授業の題目にはあまりあっていない話なのかもしれませんが、色々と考えさせられた講演でした。

<木曜日>

5限:プロジェクト科目(政治思想研究)

前回の授業を受けての討論でしたが、案の定、担当の先輩・後輩がかなり厳しいコメントを展開していました。発表者の報告が非常によくまとまっていたので、それを踏まえて議論の内容をまとめることはそれほど難しくはないのですが、ここにその全てを書くことはあまり適切ではないような気もするので割愛します。政治と宗教の問題は、こうした開かれた場所でうまく論じるのがなかなか難しい問題なのかもしれません。

政治と宗教の問題とは関係なく授業で問題になったのは、引用するテキストの使い方です。具体的には、報告した先生のアーレント理解やアガンベン理解が問題になったのですが、ここは素人の私ですら疑問を先週感じた部分です。都合よくテキストを持ってきても、やはりコンテキストを無視してしまうと、こうした厳しい批判に晒されるのだという怖さを実感しました。

at 14:05|PermalinkComments(3) ゼミ&大学院授業 

2009年05月28日

先週の授業(5月第4週)

遅ればせながらという感じで前回の本の紹介をしたばかりなのですが、先週末は冷戦史の読書会がありました。

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今回のテキストは、↑ウェスタッドのThe Global Cold Warです。冷戦史の古典的な本を読んでいこうというコンセプトからすると、新し過ぎる本ではありますが、あれだけ話題になっている本でありますし、第三世界における冷戦というとウィスコンシン学派のコルコらのイメージが強く、若干の警戒感を持ってしまうこともあるので、読書会で取り上げるのがちょうどいいのかもしれません。

いつものごとく五月雨式に議論をしたので、必ずしもまとまった話が出来たわけではありませんが、いつも以上に参加者全体から意見が出ていたのはよかったと思います。とはいえ、参加する以上は何らかの問題意識を持って全体をしっかり読んできてほしいわけで、その辺りの意識をどう共有して貰うかは悩ましいところです。

自分が読みきれていない部分があることも分かったので、もう少し詰めて細かい部分を読んだ上でいつものように紹介したいと思います。

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せっかく第三世界について考えたということもあり、次回のテキストは、Chen Jian, Mao's China and the Cold War, (Chapel Hill; London: University of North Carolina Press, 2001) になりました。これまた、古典というにはほど遠い時期の出版ですが、それはそれでいいのでしょう。時間を見つけて、中国をめぐる冷戦史の古典的な文献や議論もフォローしたいと思います。



先週に続いて、今週の授業が終わりつつある頃の更新となってしまいましたが、一応簡単に。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊研究

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Stephen Hobden and Richard Wyn Jones, "Chapter 8 Marxist Theories of International Relations" が今回の範囲でした。

英語圏におけるマルクス理解は甘いということはしばしば言われることですが、今回のテキストは概説でしかないとはいえ、その点をさらに認識させるようなものでした。学説史的な説明も甘く、リアリズム、リベラル、クンストラクティヴィズム以外のものをほとんどマルキストの理論として取り上げていたりと、首をかしげざるえないような箇所が散見されます。従属論や世界システム論などについても、日本語で書かれた教科書の方がうまくまとめるとともに、今後の展望(あるとすればですが)についても的確に議論が展開されていると思います(例えば、山下範久「第3章 従属論の挑戦と世界システム論の展開」河野勝、竹中治堅・編『アクセス国際政治経済学』日本経済評論社、2003年、などを参照)。

5限:プロジェクト科目(安全保障研究)

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ゲストは↑『大戦間期の日本陸軍』(みすず書房)の著者である黒沢先生でした。黒沢先生には、学部一年時に演習でお世話になって以来、様々な形でお世話になっているので、こういった形でご自身の研究の話を聞くのは何となく変な感じがしました。

テーマは「大正期の軍部から昭和期の軍部へ」ということで、著書の内容をかいつまんで説明するといったイメージでした。『大戦間期の日本陸軍』は、学部の最初の頃以来、久しぶりに授業のために読み返したのですが、初読時には全然周辺知識が無く、本のメッセージをうまく消化出来ていなかったことを痛感しました。

具体的な話ではなくここではリサーチ・デザインのようなものについて簡単に書いておきたいと思います。黒沢先生の研究が特徴的な点は、「あの戦争への道」を強く意識しつつも、それを直接取り上げるのではなく、間接的なアプローチを取っていることだと思います。研究の背景に「戦前の日本がなぜ太平洋戦争を引き起こしたのか」という問いがあることは『大戦間期の日本陸軍』の「あとがき」の記述からも明らかです 。

しかし、本の冒頭に掲げられる明らかにすべき課題は、?一般的に「保守」的な存在とみられていた「大正デモクラシー期」の陸軍がいかなる理由で「革新」化し「昭和ファシズム期」の陸軍へと変質したのか、?なぜ陸軍が1930年代の日本政治の主役となり「太平洋戦争への道」の起動力となったのか、?いわゆる「大正デモクラシー」から「昭和ファシズム」への転換とはどのような歴史的事象として理解しうるのか、の三つです 。これら三つの問いは、必ずしも「戦前の日本がなぜ太平洋戦争を引き起こしたのか」という問いに直接答えるものではなく、太平洋戦争への道に至る主役が陸軍であるという前提があった上で、その陸軍が政治の主役として登場する背景・理由・評価を探る、という間接的なアプローチを取っていると、研究の射程をまとめることが出来るのではないでしょうか。

直接的に「あの戦争への道」を取り上げた研究をもっとよく理解することによって、黒沢先生の研究の意義がより理解出来るのではないか、というのが授業を終えての感想です。それにしても、戦後を対象とした政治外交史研究や、戦前でも海軍を対象とした研究と比べると、陸軍研究は研究が本当に深化しているな、と痛感させられます。もっとも、そうした研究の深化をより幅広い文脈の中に置きなおして、一般化を図るということはまだまだ残された課題なのかもしれませんが。

<木曜日>

5限:プロジェクト科目(政治思想研究)

今回は、(全くの門外漢なのでよく分かりませんが)ティリッヒ研究の第一人者である芦名定通先生がゲスト、テーマは「キリスト教政治思想の現状と課題―ティリッヒと宗教社会主義を中心に―」でした。

いつも以上に馴染みのないテーマだけにあまり無責任なことは言えないわけですが、率直な印象として、なぜ「キリスト教政治思想」を現在における課題として論じる必要があるのか、そしてなぜキリスト教政治思想を哲学的な枠組みから理解する必要があるのか、またなぜ問題が「哲学と政治」ではなく「キリスト教と政治」なのかといった点がさっぱり理解出来ませんでした。政治と宗教を巡るこれまでの歴史を踏まえた時に、また他の政治思想の取り上げ方といった点が、何と言うかアナクロニスティックな印象があったのですが……この辺りは今日の授業で色々と議論になるところなのかもしれません。

at 12:30|PermalinkComments(1) ゼミ&大学院授業 

2009年05月21日

先週の授業(5月第3週)+GW中の授業

先週の授業どころか、今週の授業ももう終わろうとしているのですが、せっかくの習慣なので書いておくことにします。それにしても、このブログというのは書くことが習慣になっている時はサクサクと書けるにもかかわらず、あまり書かなくなると途端に面倒になってくるものだと最近実感しています。



授業の話の前に、久しぶりに新聞書評の紹介。

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師匠の訳書↑の書評が先週末に「朝日新聞」(リンク)と「読売新聞」(リンク)の書評欄に掲載されました。どちらも短い文章ですが、この本のエッセンスをうまく伝えているいい書評だと思います。文章の長さの関係もあるのかもしれませんが、「朝日新聞」の久保先生の書評の方がよりこの本の良さを伝えているような気もします。

爆発的に売れる類の本ではないですが、長く読み継がれるためにも、新聞書評で取り上げられたのはいいことなのではないでしょうか。ちなみに、『世界政治』については、在外研究中の細谷先生が刊行直後にブログに書かれていました(リンク)。



まずは、4月第5週/5月第1週。

<木曜日>

5限:プロジェクト科目(政治思想研究)

前週の木曜日が開校記念日で休みだったため、前々週の講演(「Civility論」≠初期近代ブリテンにおける「作法」の政治学)を受けてのディスカッションがありました。

やはりという気がしましたが、ディスカッションの際に問題になったのは、議論の中で「作法(civility)」と「共和主義」を対立図式に置かれていることでした。確かに論考の中での定義を見る限りでは、この二つは対立図式として考えることも出来ないわけではないですが、討論者の後輩が指摘していたように、先生の定義する「共和主義」はかなり狭く定義されており、ハリントンやキケロなどを考えてみるとかなり議論が難しくなるように思います。

また、国内政治や国際政治を全く分けずに論じている点や、日本とのアナロジーの問題なども議論になりました。これまで忘れ去られてきた言説を発掘するという意義は重要であり、それこそが先生の意図がとも思うわけですが、やはり忘れ去られたことには忘れ去られるだけの意味はあるわけなので、そうした点をどのように考えるかも残された課題ではないでしょうか。個人的な印象でしかありませんが、もう少し隣接する議論との関係を整理・検討する必要があるのではないかと感じました。



5月第2週の土曜日にも、政治思想のプロジェクト科目があったのですが、これは先週分の所でまとめて書くことにします。



で、先週の授業。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊研究

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Steven L. Lamy, "Chapter7 Contemporary mainstream approaches: neo-realism and neo-liberalism" が範囲でした。

ネオリアリズムとネオリベラルは、コンストラクティヴィズムとの対比でラショナリズムとして括られることもありますが、そうした括りからも分かるように議論の基本的なポイントは実に分かりやすく出来ています。授業を通して再確認したのもこのポイントです。

実は昨日の授業でも感じたことなのですが、このテキストの理論の概説はあまり出来が良くないようです。部分で議論にねじれが生じていたり、詰めが甘い部分が散見されます。その点は授業でも話題に上がり、ネオリベラルの文脈で説明したレジームの定義が、実はコンスト的なのではないか、といった指摘が出ていました。教科書がこれいいのか、と思わないわけではないですが、自分一人で新しい分野を勉強するのではなく、復習的な意味もあって出ている授業なので、テキストに書かれているおかしい部分を逐一チェックする方が自分にとっての目的には合致しているのかもしれません。

授業でもう一点面白かったのは、ある後輩がペーパーに書いていた、ネオリアリズムの存在論(ontology)は必ずしもミクロ経済学の類推による合理的仮定にのみあるわけではなく、進化生物学(evolutionary biology)と考えることも出来るのではないか、という議論です。後輩が紹介していた様々な議論は、テキストの対象であるいわゆるネオリアリズムの議論というよりは、その一歩先を行く新しいリアリズムに関する議論だったので、このテキストに関する批判としてはずれている気もしますが、リアリズムの進化(?)の一つの方向性を考える上では面白かったです。

5限:プロジェクト科目(安全保障研究)

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前回に続いて防衛研究所の先生がゲストでした。日本海軍に関する名著として名高い池田清『海軍と日本』(中公新書、1981年)の第2部「海軍と政治」がメインテキストとして指定されていましたが、実際にはサブテキストの一つに挙げられていたゲストの先生の著作『海軍の選択 再考 真珠湾への道』(中公叢書、2002年)に従って授業は進められました。

『海軍と日本』は高校3年以来、ほぼ8年ぶり、『海軍の選択』は2年ぶりに読みました。

『海軍の選択』は、従来定説として語られてきた「艦隊派」と「条約派」の対立構図に疑問を投げかけ、また「条約派」とまとめられる人々も、軍縮条約に強い不満を持っていた点を見事に明らかにするとともに、山本五十六や米内光政らの「真珠湾への道」で果たした役割、海軍全体の海南島への執着といった問題を厳しく指摘するなど、全編に渡って「海軍=対米戦争に反対」という従来の一般的なイメージを覆す議論を展開しています。

一般的な海軍評価を念頭に置いた時に、『海軍の選択』は例外的に海軍に厳しい評価を下す、修正主義的な議論の代表的なものと言えるでしょう。研究分野に関係なく、修正主義的な研究は一つの問題を抱えていると思います。それは従来のテーゼのアンチテーゼとして研究が行われることであり、ジンテーゼへと止揚させる契機があまり強くないことです。こうした修正主義にまつわる問題は、今回の授業からも感じたことです。この点については、今週の授業を紹介する時にまた少し書くことします。

<木曜日>

5限:プロジェクト科目(政治思想研究)

5月9日(土)の講演(田村哲樹「ベーシック・インカム、自律、政治的実行可能性」)を受けてのディスカッションでした。田村先生は、『熟議の理由』(勁草書房、2008年)にまとめられた熟議デモクラシー論とともに、近年ベーシック・インカム論についても積極的に論考を発表されている方です。が、個人的にベーシック・インカム論の意義がどうしても分からず、講演・ディスカッションともに消化不良というかモヤモヤした気持ちと違和感が強く残りました。

色々と書きたいことはあるのですが、あまり生産的な気もしないので、一つだけ。「ベーシック・インカム」も「熟議デモクラシー」も、それぞれ大いに議論の余地があるものです。その二つを繋げるのであれば、なぜ繋げなければならないのか、なぜ繋がるのかといったことを明らかにする必要があるのではないでしょうか。

at 13:55|PermalinkComments(0) ゼミ&大学院授業 

2009年05月15日

Alan S. Milward, The European Rescue of the Nation-State

気が付けばゴールデン・ウィークが終わって一週間が経過していました。それなりにやることはあれど、自主的にゴールデン・ウィークを作ろうと思えばいつでも出来る大学院生にとっては、あまりありがたさがよく分からないのですが、なぜか今年はゆっくり休め、さらにやることもそれなりに進んだので社会人の友人達と同様にゴールデン・ウィークを満喫出来たように思います。誤算だったのは、後半体調を崩したことで、まだその後遺症が残っているような気がします。



溜まっている書きかけの原稿を少しずつ放出していくことにします。

一ヶ月半前の読書会で取り上げた文献を紹介するのを忘れていたので、今更ながらですが簡単にまとめておきます。あまり、うまくまとめらず出来は良くないのですが、まあ何も書かないよりはいいだろうということで、とりあえず載せておきます。

ちなみに研究会でのサブテキストは、Andrew Moravcsik, "De Gaulle Between Grain and Grandeur: the Political Economy of French EC Policy, 1958-1970 (Part1),(Part2)", Journal of Cold War Studies, 2(2)&(3), 2000. とそれに対するコメントでした。いつものことですが、読書会での議論が若干含まれています。

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Alan S. Milward, The European Rescue of the Nation-State, 2nd Edition, (London: Routledge, 2000)

<はじめに>

 日本におけるヨーロッパ統合研究は、故鴨武彦の一連の研究を除けば、もっぱら現状分析を中心に進められてきた。しかし、近年徐々にではあるが、「ヨーロッパ統合史」と呼ばれる分野が形成されつつある。各国の一次資料を利用することによって、旧来のともすると理想主義的な研究とは一線を画し、冷戦などの同時代的な潮流を視野に入れ、かつマルチ・アーカイヴァルなアプローチを取っている点がこの研究分野の特徴として挙げられる。
 こうした日本における統合史研究は2000年代も半ばになってから本格化した感があるが、ヨーロッパでは既に各国における一次資料開示の進展に伴って既に80年代から本格的な統合史研究が行われるようになっていた。後述するように論争的なスタイルを取っているため必ずしも統合史研究のスタンダードというわけではないが、1992年の初版刊行以来、本書は統合史研究における必読文献の地位を占める一冊である。
 以下では、ごく簡単に概要を紹介するとともに、他分野を研究する立場からの若干のコメント及び疑問点を提示することにしたい。

<概要>

 本書は、従来のヨーロッパ統合に関する諸研究に対する徹底した批判的な検討から始まる。「ヨーロッパの聖人達」を中心に据えた研究や機能主義に基づく統合プロセスの説明といった従来の研究を、著者は徹底的に批判し、ヨーロッパ統合とは、各国それぞれの戦略に基づく戦後国家の経済成長と福祉国家発展の不可欠な要素として存在したと喝破する。つまりヨーロッパ統合と国民国家は相反するものではなく、相互に補完し合う関係にあったというのが著者の中心的な主張であり、この点が第1章及び第2章で概説される。
 続く第3章から第5章は、それぞれECSC創設、EEC創設ドイツ貿易、共通農業政策(CAP)が、それぞれ検討される。第3章ではベルギーの石炭産業が、第4章では各国(とりわけオランダ)にとっての対独貿易の果たした役割、第5章ではフランスにおける食糧自給問題が、それぞれ中心的に取り上げられている。詳細な統計データを用いており、細かな数字を挙げての論証は経済史家として研究生活をスタートさせた著者ならではのものであろう。
 第5章までのケース・スタディを踏まえて置かれている第6章では、「ヨーロッパの聖人たち」が取り上げられるが、実際に統合に役割を果たしたとして評価されているのは、オランダ外相のベイアンといった通常はあまり馴染みのない人物である。既存の研究やイメージに対する批判を意識したためか、第6章の叙述は全体としてややバランスを欠いている印象は拭えない。

※本書の第一版は以上の全6章から構成されており、再版に際して第7章としてイギリスのケースが加えられたが、本書全体の議論は修正されていないので、ここでは割愛する。

<評価>

 本書の意義やその後の研究への影響を考えるためには、本書以前の研究がいかなる潮流にあったのかを正確に理解する必要があるのだろう。上述のように本書の叙述スタイルは極めて論争的なものであるのは、本書がそれ以前の研究への強烈なアンチテーゼとなるように意図されているからと考えられる。しかしながら、こうした作業は他分野を研究する評者には手に余るものであり、以下では本書の議論に即してその意義及び問題点について簡単に触れることにする(なお本書を含めたヨーロッパ統合史研究の研究史を概観し、その課題を検討した邦語文献として、川嶋周一「比較・関係・制度――国家を超える政治構造の歴史をいかに記述するか――」『創文』2009年1・2月号)。

 本書の意義は、何よりも従来の「ヨーロッパの聖人」達による理想主義的な共同体構築というイメージを、アーカイヴァル・ワークに基づく徹底した実証によって脱神話化したことにある。読書会での発表者の紹介によれば、この脱神話化に加えて、国際政治理論における新機能主義に基づいて「連邦」への道として統合を捉える目的論的な歴史観、国内政治への目配りに乏しい外交史などへの批判が本書及び著者の前著The Reconstruction of Western Europe,1945-1952 に共通するものとして挙げられるという。こうした様々な批判を含んだ本書は、当然のことながら大きな反響を呼んだ。本書をめぐる議論が果たして生産的であったか否かについては議論が分かれるとしても、ヨーロッパ統合史を考える上で、本書が外すことの出来ない最も重要な一冊であることは間違いないだろう。

 その筆致の激しさと研究史的な位置から、ヨーロッパ統合研究の国家中心主義者、修正主義者として批判的に取り上げられることもあるミルワードだが、冷静に本書を読み進めていけば、主張する議論の実質的な部分は穏当なものである。「国民国家のヨーロッパ的救済」という著者の主張そのものは、国家か超国家かという二項対立を助長するものではなく、むしろそれを克服する要素を持つものとも言えるのではないだろうか。
 読み手がどのような立場だとしても、福祉国家という戦後ヨーロッパの国民国家に課せられた課題とその背景にある社会経済的な要素を重視したミルワードの綿密な分析は説得力を持って迫ってくる。しかしながら、本書で取り上げた事例はいずれもその局面で重要な意味を持つものではあるが、必ずしもバランスが取れた網羅的なものだとは言い切れないのではないだろうか。ベルギーの石炭産業に関する分析はやや極端な例かもしれないが、著者の「各国民国家は一国の枠内では解決できない問題をヨーロッパ統合を進めることによって救済した」という主張にとって都合のいい事例が取り上げられている印象が残ることは否めない。

 以上は、本書の枠内からの批判的なコメントだが、少し本書の文脈を離れて考えてくると見えてくるものがある。それは、本書が、決定論的ないしは経済中心主義的な傾向を強く持っていることである。確かに著者が強調するように、第二次大戦後のヨーロッパ諸国にはある種の戦後合意が存在し、それに基づいて各国の福祉国家化が進んだことは間違いないだろう。しかし、そうした各国政府への(経済的な)要請を所与として議論を進めていくことに問題がある。
 各国政府にとっては、直接間接のソ連の脅威、すなわち迫りくる冷戦の影こそがもっとも重要な問題だったのではないだろうか。冷戦の特徴的な点は、ソ連の軍事的な脅威のみならず、各国共産党を通して国内にも反体制的な勢力を抱えたことにある。それゆえ、各国は対外政策のみならず、社会経済政策を立案する際にも、国内政治過程に様々な気を配る必要があるとともに、共産主義に比して魅力的な資本主義社会像を提示する必要に迫られたのである。本書の叙述では、こうした「政治」がほとんど捨象されてしまっている。
 このように考えれば、ヨーロッパ統合史の文脈で本書が抱える最大の問題は、「政治」の契機の乏しさにあると言えよう。

at 12:43|PermalinkComments(7) 本の話 

2009年05月04日

ショック

周囲の雰囲気に影響されやすいのか、気分はゴールデン・ウィークのお休みモードだったのですが、実際には水曜日の授業が二週続けてないだけで、月曜&火曜は元々授業が無いので、普段とそれほど変わらないことに気が付きました。もっとも、連休のためにアルバイトがないため、時間はかなり余裕があり、積読解消に時間を割くことが出来そうです。

そんないい気分の時に、飛び込んできたのが「忌野清志郎死去」のニュースでした。甲本ヒロトと並ぶ高校時代からの自分の中のヒーローが一人逝ったことがショックです。そんなわけで、昨日今日とエンドレスで清志郎を聴き続けています。タイマーズなど久しぶりに聴くとこれがなかなか…。



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↑空いた時間に読み終えました。

「冷戦終結20年」の特集の中でも、特に熱心に読んだのがリカルド・ソアレス・デ・オリヴェイラ「『アフリカ問題』の発見」です。著者の先生は、昨年秋に大学で行われた研究会に講師としていらした方で(リンク)、その時の講演がとても良かったので、『アステイオン』に論考が載ると聞いた時から楽しみにしていました。昨秋聞いた話は、中国のアフリカ進出に関するものでしたが、今回の論考はそれよりも広くこの30年ほどのサブサハラのアフリカをめぐる状況を検討したもので、前回のペーパーよりも読み応えがあったように思います。必ずしも派手な議論を展開しているわけではないですし、何かに特化して細かく論じているわけでもないのですが、全体を通して目配りの良さと要点を押さえていると読者に強く感じさせるのはそうそう簡単なことではないでしょう。アフリカについて考える際には、外すことの出来ない論者の一人として広く知られていくことになるのではないかと思います。

巻頭に並んだ三つの論考(納家政嗣「「ポスト冷戦」の終わり」/山本吉宣「国際システムはまた均衡に向かうか」/北岡伸一「新たな世界秩序の模索」)の安定感も印象的でした。それぞれの議論については賛否があるのかもしれませんが、この三先生の議論はブレが無いのでスーっと頭に入ってきます。印象的だったのは三つの論考が共通して、ポスト冷戦が今終わりつつあるという時代認識を持ち、(ニュアンスはあるにせよ)アメリカの重要性を強調していることです。論じている内容はそれぞれ異なりますし、それぞれの議論に微妙な違いはあるのですが、三先生の見方が、現状を考える上での安定した位置を示しているのかもしれません。

at 17:22|PermalinkComments(0) 日々の戯れ言 

2009年05月01日

政局から政局へ

博士課程に進学し一ヶ月が経ちましたが、色々な面で生活に変化があったような気がします。

これは学費稼ぎに精を出していた2月以降はずっとそうなのですが、自分の研究関係、研究に関連するアルバイト、インタビューの企画等々、このブログには書けないことに時間を取られることが多くなりました。実際には本も色々読んだり、映画を観に行ったりもしているのですが、何となく面倒になってしまいブログの更新がめっきり減ってしまいました。

と言っても、面白かった本や映画を紹介したりするのは好きなので、このゴールデン・ウィークはちょこちょこと更新していきたいと思います。



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この一週間ほど、ちくま文庫から装い新たに再刊された伊藤昌哉『自民党戦国史』を空いた時間の楽しみに読んでいます。『池田勇人とその時代』(朝日文庫)と共に、日本政治を学んでいるものにとっては必読文献として挙げられるものだと思いますが、首相秘書官として政策実現の現場に立ち会った池田時代と比べると、大平の私的アドバイザーとして働いた三角大福中時代を回想したこの本はより「政局」に特化した本であり、研究のために読むというよりも純粋にわくわくさせられるものがあります。私の胎教である(苦笑)、戸川猪佐武『小説吉田学校』を思い出させてくれる政局にどっぷり浸かった政治の世界を描き出しているこの本を読んで、久しぶりに「政策」ではなく「政治」について考えました。

政治は本来煮ても焼いても食えない泥臭いドラマに溢れた世界であり、政策研究や政治科学的なものばかりを読んでいると、ついついそうしたことを忘れてしまい、研究がどんどん行政学に近付いていってしまいます。自分自身の研究をどのように書いていくかは人それぞれですし、私自身の当面の研究にはあまり政局の話は出てくることは無いと思います。しかし、そうではあっても生の政治の本質的な要素をしっかりと意識しておくかどうかは重要な問題ではないでしょうか。

飯尾先生の近著のタイトル(政局から政策へ)に象徴される政治観には、賛否を含めて様々な意見がありますが、この『自民党戦国史』で描かれている世界は、飯尾先生が対象とした時代の直前までであり、その時代は言うなれば「政局から政局へ」といった趣があります。自分自身の研究対象がこの時代なので、改めてこの本を読んで色々と考えさせられました。

ただし、大平の死後を描いた第3部(単行本では『新・自民党戦国史』)は、著者が直接見聞きした話ではなく、新聞等の公開情報が中心となっているので、生々しい政治家の心の襞に触れるような迫力はありません。とはいえ、著者の中曽根に対する見方や、鈴木内閣以降の田中角栄の捉え方といったものはなかなか興味深いものがあります。

それにしても下巻の表紙がハマコーとは…。確かに四十日抗争を振り返る際にしばしば語られるエピソードの一つではありますが、青嵐会の下っ端が騒いだシーンが表紙ということに、このテレビ時代の影響を感じずにはいられません。



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半年に一度の刊行を常に待ちわびている『アステイオン』の最新号(第70号)が刊行されました。

昨日たまたま生協に行ったら売っていたので即購入し、じっくり読みふけってしまいました。といっても特集の「冷戦終結20年」にはまだ目を通していません。いつもの通り「世界の思潮」「エッセイ」などをザーっと読み、それからダニエル・ベルのインタビューと楽しみにしている二つの連載(御厨貴「近代思想の対比列伝――オーラル・ヒストリーから見る」/山崎正和「神話と舞踊――文明史試論」)を読んだところで昨日は時間が無くなってしまいました。

「近代思想の対比列伝」は、第1章として後藤田正晴と矢口洪一を取り上げられていたので、第2章は誰になるのかなっと思っていたのですが、宮澤喜一と竹下登の二人が主役でした。ちょうど『自民党戦国史』を読み、「三角大福中」の時代について色々と考えた後だったので、この後に続く「安竹宮」らニューリーダーの時代について考えるいい機会になりました。もっとも、今回は福本邦雄のオーラルを引きつつ全体像を概観した上で、具体的にそれぞれについて論じられたのは安保闘争の前まででした。今後の展開が楽しみです。

かっちりとした論文ではなく、かといってただの雑文ではない良質な文章が詰まっているので、直接何かの役に立つわけではないにしてもとても知的に充実した気持ちになるのが『アステイオン』のいい所です。『アステイオン』の編集方針のようなものが、ダニエル・ベルへのインタビューの行間から伝わってくるような気がします。

今日も休憩がてら、時間が出来たら『アステイオン』を読み進めることにしようと思います。

at 12:07|PermalinkComments(0) 本の話