2009年01月

2009年01月26日

マイケル・シャラー『アジアにおける冷戦の起源』

今自分が置かれているのは、ひとまず目の前にあるいくつかの課題は片付けてその結果を待っている、という状態です。それが一つであればいいのですが、複数の結果待ち状態なので、なかなか次の研究が手に付きません。

そんなわけで、ひとまずあと二週間くらいは勉強に集中しようと思います。それが片付いたら、一つ考えている論文のアイディアを試しつつ、徐々に次の研究に本格的に取り組んでいこう、という腹づもりなのですが、どうなることやら…。



そろそろ書いておかないと色々と忘れてしまいそうなので、この前の読書会で取り上げた本を書評形式で紹介しておきます。いつものごとく、読書会での議論をある程度入れ込んであります。

なお、以下で紹介する『アジアにおける冷戦の起源』の他に、サブテキストとして?李鍾元「戦後米国の極東政策と韓国の脱植民地化」『岩波講座・近代日本と植民地8 アジアの冷戦と脱植民地化』(岩波書店、1993年)、?Robert J. McMahon, "The Cold War in Asia: Toward a New Synthesis?" Diplomatic History, Vol. 12, No.3 (Summer 1988) の二つの論文を取り上げました。

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マイケル・シャラー『アジアにおける冷戦の起源:アメリカの対日占領』(木鐸社)

<はじめに>

 冷戦とは何だったのだろうか、というシンプルな問いに答えることは簡単なことではない。冷戦の影響があまりに広範囲に渡るからである。アメリカの圧倒的な国力を考えれば、冷戦が二極構造だったのかということすら確定的な答えを出すことは容易ではない。また、ドイツ問題が中心的であったにせよ、冷戦が熱戦化したアジアを単に「第二戦線」と呼べるかも難しい問題である。
 こうした問題に直ちに答えようとする前に、かなりの数が蓄積されている一次資料に基づいた歴史研究を紐解くことの意味は小さくないのではないだろうか。そうした意味で、本書『アジアにおける冷戦の起源』は、原著(The American Occupation of Japan; The Origins of the Cold War in Asia)の刊行から20年以上を経た現在でも重要な意味を持つ研究である。以下、本書の概要を簡単に紹介した上で、若干の評価を試みることにしたい。

<概要>

 本書は、「対日占領を、1945年から1950年にかけて、アメリカが東アジア全体に向けて展開した外交という文脈の中に置いて考察」(9頁)するものである。本書の刊行以前に行われた研究の多くは、占領時代において日本の内部で起こった目覚ましい変容に関心が集中しており、GHQ内部の意見対立に分析の主眼が置かれていた。日本における研究もSCAP/GHQ文書を一次資料としたものであり、そこで注目されるのはGHQ内部の対立や日本政府とGHQの諸交渉であった。こうした研究に対して著者は、(そのように書かれてはいないが)独立変数として「アメリカのグローバルな冷戦戦略」を設定し、その従属変数として「対日占領政策」(+「対東南アジア関与」)を置くことによって、対日占領をより大きな文脈から捉えようとしている。SCAP/GHQ文書は読み込みながらも、NSC13やNSC48などの分析をより重点的に行っていることに、本書の立場が表れている。
 本書の内容を掴むためには、ここであらすじを文章としてまとめるよりも、各章の題名を挙げた方が有効だろう。各章の題名は以下のとおりである(邦訳にあたって章題は意訳されている部分もあるが、邦訳版の章題の方がより各章の内容に忠実なので、ここでは邦訳に従う)。

第1章 太平洋戦争終結 
第2章 戦後改革――1945年~1948年――
第3章 北東アジアと太平洋――1945年~1947年――
第4章 戦後世界の再解釈
第5章 阻まれた講和条約
第6章 自由主義的改革に対する保守派の反応
第7章 新路線の設定
第8章 地域経済統合構想と東南アジアの台頭
第9章 講和条約への再挑戦
第10章 中国革命の余波――日本復興の先行き――
第11章 NSC48――対アジア政策の再検討――
第12章 封じ込め政策と日本および東南アジアの復興
第13章 対ヴェトナム封じ込め
第14章 中国危機の再燃――日米安保条約の胎動――
第15章 朝鮮戦争の勃発――アジアへの軍事的関与の始まり――
第16章 講和後――アジアの工場として――

 以上の構成からも明らかなように、本書は全体的な冷戦戦略の検討、日本占領、アジアにおける戦いにそれぞれ約三分の一ずつ分量が割かれている。本書の原著の題名は「アメリカの対日占領」であるが、このような構成を見れば本書の主眼は邦訳の題名にあるとおり「アジアにおける冷戦の起源」に置かれていることはあきらかであろう。また、もう一つ本書の構成から分かることは、「逆コース」以前については三つの章が充てられているだけであり、著者の関心は「逆コース」以降に集中しているということである。さらに、最終章の副題「アジアの工場として」(原著は、Afterward: The Workshop of Asia)に象徴されているように、日本の役割を経済的な側面から意義づけている点も本書の特徴的な点として挙げられる。
 アメリカにおける冷戦戦略の浮上、中国における共産党の勝利、そして朝鮮戦争勃発という三つを大きな流れとして描き、その関数として対日占領政策と東南アジアへの介入を本書は描き出しているとまとめることが出来るだろう。

<評価>

 刊行から20年以上を経た現在でも、本書は様々な研究で引かれており、その重要性は広く認められている。著者が「斬新な視座」としている、対日占領を「アメリカが東アジア全体に向けて展開した外交」の文脈において考える見方は、現在では「斬新」というよりも「通説」として受け入れられるようになったのではないだろうか。また本書の、NSC13やNSC48の成立過程や意義に関する詳細な検討は、アメリカ外交全体の中で日本を考える重要な手がかりを与えてくれる。こうした点を考えれば、本書は現在でもその価値はいささかも失っておらず、アジア冷戦史を考える際の古典として評価されてしかるべきであろう。
 本書が力を入れて分析している、東南アジアを日本を結びつけるという発想は、冷戦期を通してアジアに一つの通奏低音として流れたものである。上記の意義とも関係するが、アジア冷戦の中に日本を置いて考えることは、「逆コース」の意義付けにおいてはある程度通説化している。しかしながら、その後のアジア冷戦の展開とアメリカの対日政策の関係を論じる際には、むしろ日米の二国間関係が強調される傾向が強い。宮城大蔵の一連の研究は、こうした状況に風穴を開けた重要なものである。戦後初期のアメリカの対アジア政策という本書の描き出した世界は、戦後アジア国際政治史へと繋がる意義を持つものと評価出来よう。

 ところで、本書は冷戦史研究の中では「修正主義」の研究として位置づけられている(例えば、Robert J. McMahon, "The Cold War in Asia: Toward a New Synthesis?" Diplomatic History, Vol. 12, No.3 (Summer 1988)、を参照)。いわゆる「冷戦責任論」とは一線を画しているものの、経済的な要素を分析の一つの柱としている点、またヴェトナム戦争の起源としてこの時期のアメリカ外交を検討している点などが、本書が「修正主義」に分類される所以であろう。
 ここで考えたいのは前者である。著者は、アメリカの東アジア地域に対する経済構想(=「東南アジア経済統合構想」)を重点的に分析している。冷戦初期に様々な「経済統合」がアメリカで模索されたのは確かである(この点については、李鍾元「戦後米国の極東政策と韓国の脱植民地化」『岩波講座・近代日本と植民地8 アジアの冷戦と脱植民地化』(岩波書店、1993年)、を参照)。しかしながら、その後の流れを検討すれば、アメリカの経済統合構想は言わば「絵に画いた餅」に終わった。日本を「復興」に導いたのは朝鮮特需であり(この点は本書も強調している)、その後日本が高度経済成長を遂げたのは堅調な対米輸出の伸びとそれを支える国内における旺盛な設備投資であった。つまり、日本は東南アジアとの経済的な結び付きを強めることによって「アジアの工場」となったのではなかった。日本と東南アジアの経済的な結び付きが強まり、重要な意味を持つようになるのは、むしろサイゴン陥落以降、すなわち1970年代半ば以降のことである。こうした点はほとんど触れずに、本論で「経済統合」構想と日本を結びつけ、さらに最終章で日米貿易摩擦に触れている点には、やや違和感を覚える。

 以上の問題とも関係するが、本書は全般的に「どのように(how)」アメリカの東アジア戦略が作られたのかは詳細に検討しているが、それが「なぜ(why)」そのようなものになったのかに関する分析は弱いのではないだろうか。本書を通読しても、結局「アジアにおける冷戦とは何だったのか」ということは明らかにならない。本書が描き出すのは、あくまでアメリカの冷戦戦略立案の過程であり、その過程で対日占領政策と対東南アジア政策がどのように変容したのかということである。グローバルな冷戦戦略と対日占領政策や対東南アジア政策との連関は明らかにされるものの、本書が全体としてやや冗長な叙述に終始しているのは、「なぜ」がおろそかにされているからではないだろうか。
 また、冗長な叙述とともに、人物評価という点でも若干の疑問が残る。トルーマンやマッカーサーが徹底的にマイナス評価が与えられ、その一方でケナンには一貫して高い評価が与えられる。また時に顔を出して重要な役割を果たすアチソンやダレスの評価はいまいち定まっていない。この点も上記の「なぜ」が弱い点と関係しているのかもしれないが、各人物に対する評価がやや独断的な点も本書の弱点として挙げられよう。

at 13:45|PermalinkComments(32)本の話 

2009年01月22日

田中均『外交の力』

先週末の研究会で取り上げた、マイケル・シャラーの『アジアにおける冷戦の起源』の書評を書きたいのですが、その前に↓について簡単に書いておきます。

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小泉内閣が退陣してからまだ二年半弱ですが、既にそれなりの数の回顧録が刊行されています。『外交の力』は、外務官僚としては異例なほどメディアで名前が取り上げられた田中均元外務審議官の回顧録です。

内容的には、対談『国家と外交』(講談社、2005年)や、『論座』『現代』に載った回想、現役の外務官僚として『中央公論』に書いたものなどと重なる部分が多く、これから読むことを考えている人はあまり多くを期待しない方がいいというのが率直な感想です。もっとも、これは外交史研究の資料としての価値を念頭に置いての感想なので、外交を考える材料としては悪くはないのかもしれません。

ここに書いておきたいのは、この本の細かい内容や小泉政権期の外交に関することではなく、この本にほとんど出てくることが無い二つのことが気になったということです。その二つとは、防衛庁(省)&自衛隊と韓国です。

著者は、外務本省幹部として、アメリカやカナダとの経済関係を担当する北米局北米第二課長、アジア局北東アジア課長、現在では筆頭課長の一つと言えるポストとなった総政局総務課長、北米局審議官(日米安保再定義を担当)、経済局長、アジア大洋州局長、外務審議官(政務担当)を歴任しており、80年代後半から外務本省の中枢を歩んできたと言っていいと思います。

関わった案件を思いつくままに挙げれば、日米貿易摩擦、北朝鮮核危機、日米安保再定義、FTA交渉、拉致問題、北朝鮮との国交正常化問題といったところなのですが、どれも冷戦後の日本外交を考える上では欠かすことの出来ない重要なテーマです。アメリカと朝鮮半島に関わる問題が多い印象があります。

しかし、なぜか防衛庁と韓国がこの本ではほとんど存在感がありません。前者については、関係者が存命中ということやまだ生々しい問題なので触れられないということなのかもしれませんが、それでも日本外交を考える際に安全保障の重要度が上がり、防衛庁の存在感が増してきているにも関わらず、この本からはあたかも全てが外務省で決められているかのような印象を受けてしまいます。

一方で韓国がほとんど出てこないのも興味深い問題です。著者が担当してきたのが、韓国よりも北朝鮮に関わる問題が多かったということも関係しているのでしょうが、東アジア共同体論を考える際にも、またよりマクロに東アジアの国際関係を考える際にも、著者の頭の中にあるのは日米中の三ヶ国のようです。個人的には、今後の東アジア国際関係では、日韓がどれだけ緊密に協力関係を築くかということがより重要になってくると考えているので、著者の韓国パッシングのような見方にはやや違和感を覚えました。

at 18:30|PermalinkComments(0)本の話 

2009年01月19日

先週の授業(1月第3週)

修士論文も博士課程出願も無事に終わりました。

これでひと段落ついたのでしばしゆっくり休んで、といきたいところだったのですが、授業の準備で読まなければならない文献が多かったり、週末に冷戦史の読書会があったりと、だらだらと勉強をしている間に一週間が終わってしまいました。



先々週にも一つ授業はあったのですが、とりあえず先週の授業について備忘録程度に書いておきます。先週の授業をもって修士課程での授業も全て終了…のはずです。もっとも、四月からも、師匠の授業・英語・思想は履修するつもりなので、一週間のスケジュールはそれほど変わることはないのかもしれません。

<水曜日>

3限:国際政治論特殊演習(院ゼミ)

今回のテキストは、Raymond Aron, "What is a Theory of International Relations?" Journal of International Relations, Vol.21, No.2 (1967) 。

Journal of International Relationsのこの論文が掲載された号には、アロンの他にもモーゲンソー、ウォルツ、ドイチュ、ヒンズリー、トンプソンなどの諸論考が掲載されています。以前この授業でも取り上げた、Klaus Knorr and James N. Rosenau (eds.), Contending Appraches to International Politics, (Princeton, New Jersey: Princeton University Press, 1969)とともに、ネオリアリズム登場以前における重要な論点を理解するために重要なものではないでしょうか。

この特集号を基にした本の翻訳が『国際関係の理論と現実』(法律文化社、1971年)ですが、残念ながら翻訳はあまり良くありません。といっても、自分がそれよりうまく翻訳する自信がないのが悲しいところです。

閑話休題。この論文では、アロンによる国際政治理論の定義が試みられています。題名とテーマは明快なのですが、その中身は難解な部分が多いのでパッと読んだだけでは理解するのが難しかったです。とりわけ、アロン独特の用語法が多いのが難点です。

授業では、そういったアロン独特の用語法について先生から詳細な解説があったので自分の中で色々なことがストンとうまく落ちたように思います。例えばアロンの言う「歴史」は、我々が通常イメージするそれとは異なり、現在進行形のことも「歴史」の範疇に入ってきます。アロンの国際関係に関する本として最も有名なのは1962年に初版が刊行されたPaix et guerre entre les nationsですが、その中の「歴史」の章で取り上げられるのは第二次大戦後の核抑止の話です。アロンにとっての「歴史学」とは、特定の状況における「特殊性」を析出する作業のようです。

「歴史学」に対置されるのが「社会学」なのですが、アロンにとっての「社会学」もまた通常我々がイメージするそれとは異なります。アロンにとっての「社会学」は、特定の状況の中に見られる「一般性」により着目する議論のようなのです。

「歴史学」と「社会学」はいずれにしても帰納的なアプローチという点で共通していますが、アロンにとっての「理論」はそれとは異なり演繹的なイメージがあります。国際関係の理論であれば、?国際関係のストラクチャーとエージェントの不可分性、?国際関係の無政府性、?国際関係が同質的(homogeneous)か異質的(heterogeneous)か、といった点が重要であり、これを始点に理論を組み立てています。

と、だらだらと書いてみたわけですが、いつも以上にうまくまとめることが出来ません。うまくまとめることが出来ないのはもちろん自分の能力不足によるものですが、アロンの議論の立て方に伴う難しさもあるのだと思います。アロンの議論の立て方に対するオラン・ヤングの痛烈な批判をこの授業でも読みましたが、いまいち自分の中でヤングの議論も消化しきれていません。春休みには、時間を見つけて自分なりに「アロンの国際関係論」を消化したいと思うのですが…。

<木曜日>

2限:Alternative Approaches to Japanese Foreign Policy

最終回ということで、参加者一人一人からコメントや質問をしていくという形式でした。「理論と実践」の問題と共に、半期の授業を通して問題となった「脅威」の問題について先生から皆に質問があり、そこが今回の焦点だったように思います。

前回の授業で、「脅威=能力×意図」という簡単な図式を先生が提示し、「現在の日本にとって脅威はあるの?」という問いが受講者になげかけられました。当然「ある」という風に私は考えているのですが、受講者の多くは先生に「納得」させられたようで、(一般的には最も脅威と言われる)中国や北朝鮮は脅威ではない、と考えるに至ったようです。

この辺りの話は理論以前の問題として、戦後の国際政治をどのように考えるのかという問題に繋がることだと思います。確かに脅威は「能力×意図」で説明が出来るかもしれませんが、ある一国だけを取り出してその国が自国にとって単独で脅威になると考えるのは、アメリカですら同盟なしに安全保障を考えることが出来ない現代の国際政治の状況を無視した議論なのではないでしょうか。先生はそうしたことをもちろん踏まえた上で、あえて論争的に議論を提示したのでしょうが、それに多くが「納得」してしまうのは正直なところとして理解しがたいです。

確かに能力と意図を考えれば、北朝鮮そのものはそれほど大きな脅威ではないのかもしれません。しかし、仮に北朝鮮が崩壊乃至暴発した場合、クリントン政権が検討したように対北朝鮮攻撃が行われた場合など、朝鮮半島情勢が不安定化することは、おそらく日本にとって最も「脅威」となる事態のはずです。こうしたところを踏まえずに、日本の安全保障や外交政策を考えるのには無理があるのではないでしょうか。

ちなみに理論については、多くの受講者が最も魅力に感じたのはコンストラクティヴィズムでした。

5限:プロジェクト科目(政治思想研究)

鈍器とも評される大著『思想課題としてのアジア』(岩波書店)の著者として知られる山室信一先生がゲストでした。課題文献は、?『日露戦争の世紀――連鎖視点から見る日本と世界』(岩波新書)、?『[増補版]キメラ――満洲国の肖像』(中公新書)、?「「国民帝国」論の射程」山本有造・編『帝国の研究』(名古屋大学出版会)で、「国民帝国・日本の展開と満洲国―法と空間に関する学知の視角から―」と題して講演が行われました。

本からは、大胆な視角ながら細かく調べる人だという印象を受けていたのですが、講演は細かい話ではなくより大きな構図や視角を重視したもので、先生の議論のエッセンスがよく伝わってきました。自らの全ての研究が、これほどまでに有機的に繋がっている先生も珍しいのではないでしょうか。

改めてじっくりと『思想課題としてのアジア』を読み返したいと思いました。

at 15:33|PermalinkComments(0)ゼミ&大学院授業 

2009年01月10日

E・H・カー。

昨日、修士論文の製本と出願書類の準備を終えたので、あとは来週の論文及び出願書類提出を残すのみということになりました。来週は授業が三コマありどれも準備が必要ですし、二月末には口頭試問が残っていますので、まだまだ気を緩めることはできませんが、長かった修士三年目もほぼ終わろうとしています。

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それほど休みたいという気にもならないのですが、帰宅してウイスキーを傾けながらゆっくり小説を読む時間と余裕が一時的に出来たのは嬉しいことです。ちなみに今読んでいるのは、先頃文庫化された矢作俊彦『悲劇週間 SEMANA TRAGIA』(文春文庫)です。

外交官である父とともにメキシコで暮らす若き日の堀口大學を主人公にした小説で、かなり長いものなのですが、読みだすと止まりません。インターネットで調べてみたところ、著者インタビューがありました(リンク)。これを読み終えてから来週の準備にかかろうと思います。



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『外交フォーラム』は、学部二年くらいから毎月必ずチェックしています。内容の充実度が月によってかなり違うため毎月買っているわけではありませんが、今月はパッと表紙を見た瞬間に買おうと思いました。特集が「E・H・カー」、第二特集が「2009年日本の外交課題」、さらに特別企画が「アメリカ大統領選挙を読み解く」ということで、いつも以上に盛り沢山の内容です。各特集の執筆者もかなり充実しています。また「書評フォーラム」も、執筆者の先生らしい名書評でした。

特集を読んで感じたことのは、やはりE・H・カーは難しい人物だということです。実に多くの顔を持つカーをいかに捉えるのかは本当に難しい問題です。特集では、イスラムを中心とした国際関係史、国際政治学、ソ連・ロシア研究、日本近代史、イギリス外交史、そしてE・H・カー研究、それぞれの観点からカーの業績や諸研究に関する論考が並んでいます。

この10年ほどの間に日本におけるカーのイメージは変わりつつあることがこの特集からもよく伝わってきました。雑駁な言い方かもしれませんが、国際政治学における現実主義者カー、歴史学における相対主義者カー、という分裂した二つのステレオタイプのみではなくより多角的かつ統合的にカーを捉える動きが共有され始めているように思います。

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特集に執筆されている、遠藤誠治、山中仁美両先生の論文も興味深く面白いものですが、何と言ってもジョナサン・ハスラムによる評伝『誠実という悪徳 E・H・カー1892-1982』が翻訳されたことが大きいと思います。ちなみに『誠実という悪徳』はこのブログでも紹介したことがあります(リンク)。怠惰な私はカーの本はほとんど翻訳されたものしか読んでいませんが、それでもステレオタイプなカーのイメージとは異なる、自分の中のカー理解は徐々に形作られてきました。それでも何かもやもやしたものが残っていた中で、翻訳されたハスラムの評伝を読んで、そのもやもやがようやくクリアになりました。

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特集の中でもいくつか言及されていましたが、カーについては様々な重要な研究があります。歴史学関係では既に邦訳があるものとして『いま歴史とは何か』(ミネルヴァ書房)がありますし、より幅広くカーを取り上げたものとして、マイケル・コックスが編集したE.H.Carr: A Critical Appraisal,(Basingstoke: Palgrave, 2000)があります(後者は一部を読んだだけで、残りが積読になっているのですが…)。

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もう少し手軽に読めるものが、細谷雄一『大英帝国の外交官』(筑摩書房、2005年)です。カーと共に、かつカーを考える上で欠かすことのできないアイザイア・バーリン、オリバー・フランクス、ダフ・クーパー、ハロルド・ニコルソンらを取り上げているこの本は、カーを考える上で様々な示唆を与えてくれます。細谷先生は本特集にも一文を寄せているのですが、何となくそのトーンは『大英帝国の外交官』におけるそれとは異なるような気がします。

そんなこんなで結局本の紹介になってしまいましたが、カーについてもまたじっくり考えたいところです。

at 13:40|PermalinkComments(1)本の話 

2009年01月08日

ジョセフ・ナイ駐日大使(?)。

修士論文を印刷所に出してきました。

色々と検討した結果、英米の資料を読み込んで反映させることをやめたこともあり、出来あがった論文は昨年書いたものとそれほど大きく変わるわけではありません。それでも、この一年は決して無駄ではなかったと思います。まず一年の間にかなりの数の文書が新たに公開され、去年はやや誤魔化しながら書いた部分を今年は自信を持って書くことが出来ました。また、昨年書いたものの一部を切り出して新たに一本論文を書いたことによって、自分の中でもやもやしていた部分がクリアになったように思います。

論旨や結論も昨年書いたものと大きく変わっているわけではありません。昨年書いたものが思いのほかしっかり書けていたということかもしれませんし、この一年で成長が見られなかったということかもしれませんが、これはおそらくより本質的な所に関わることなのだと思います。

英米の資料をうまく入れ込むことが出来なかったことも、論旨や結論が大きく変わらなかったことも、問題設定と分析視角が変えていないからではないかと今は考えています。その結果として、修士論文の問題設定と分析視角の限界も何となく見えてきたように思います。昨年は勢いに任せて客観的に自分の研究を見れなかったのが、今年は冷静に眺めることが出来るようになったことような気がします。これは自分にとって大きな収穫だと思います。



何気なくインターネットを見ていたら驚きのニュースが出ていました(リンク)。トマス・シーファー駐日米大使の後任が、ジョセフ・ナイ教授に内定したそうです。海外のニュース・サイトにはまだ何も出ていないので、朝日新聞のスクープということになるのでしょうか。

国際政治を学ぶ者にとってナイ教授は、教科書『国際紛争』(Understanding International Conflicts: An Introduction to Theory and History)や『ソフト・パワー』(Soft Power: The Means to Success in World Politics)などの著者として、またネオリベラルの嚆矢となったPower and Interdependence: World Politics in Transitionの共著者として誰もが知る、アメリカを代表する国際政治学者です。

実務家としてもカーター政権で国務次官補、クリントン政権で国防次官補を経験しており、国防次官補として日米安保再定義に深く関わったことは周知の通りです。大物議員や大統領とかなり近い関係にある大使がこのところは多かったので、そうした大使達と比べると一般的な知名度は落ちるのかもしれません。しかし、前回の大統領選でケリーが勝っていれば国防長官に指名されるとも言われていましたし、日米双方に持つ人脈ではこれまでの大使以上に優れているのではないでしょうか。

「30年後に文書公開されるのが今から楽しみです」と思わず書きかけてしまったのですが、外交文書とは言わないまでもどんな回顧録を書いてくれるのかはとても興味深いところです。まだ正式に発表されたわけではないので今から期待出来るわけではないですが、国際政治学者出身の大使ということでその動静にしばらく注目したいと思います。

at 21:00|PermalinkComments(0)日々の戯れ言 

2009年01月06日

沢木耕太郎『危機の宰相』

静岡と東京だけかもしれませんが、この一週間ほど快晴が続いています。

天気とは関係なく、毎日は淡々と過ぎていきます。それでも天気が良ければ、何をしていても気分がいいというものです。たとえ大学院棟にこもっていても、休憩で外に出た時にきれいに澄んだ青空を見ると、爽やかな気持ちになります。



研究に没頭していると、ついつい何を読んでも自分の研究に引きつけてしまいがちです。日々自分の力のなさを感じていると、他人の粗が目につきやすくなってしまい、本を批判的に読み過ぎてしまうこともあります。これらはこれらで意味のあることなのでしょうが、やはり本は著者の意図や思いを汲み取ってじっくり読むことが大切なのだと思います。

バランスを取るてっとり早い手段は、自分の感じたことや本の面白さを人に分かるように話し、そして書くことです。ただ自分で色々と考えることと、人に分かるように自分の考えをまとめることの間には大きな差があります。これがなかなか出来ないために自分の研究で苦しんでいるわけです。

そんなわけで、今年はアウトプットを強化したいと思います。そう書くのであれば、ブログに雑文を書くのではなく論文を書くべきなのかもしれませんが、とりあえず短評(というより感想)を一つ。

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沢木耕太郎『危機の宰相』(文春文庫)

 「所得倍増」に沸いた1960年代。「所得倍増」は偶然の産物ではなかった。「政治の季節」から「経済の季節」へと移り行くこの時代を宰相として舵取りした池田勇人、池田を宏池会事務局長として支えた田村敏雄、官庁エコノミストの雄として知られた下村治――「所得倍増」は、大蔵省という組織では「敗者」であったこの三人の「夢」であり、それが現実化したものだった。

 1977年に『文藝春秋』誌上で発表された「危機の宰相――池田政治と福田政治」を基にした本書は、池田・田村・下村を軸に「所得倍増」の実相に迫る。著者の「敗者」達への眼差しは暖かい――それは、『一瞬の夏』でのカシアス内藤への著者の姿勢を想起させる。

 「所得倍増」には、発想、計画、政策、そしてブームという四つの側面がある。著者は、その一つ一つを丹念に追いかけ、その実相を明らかにした。単行本の解説(御厨貴)の表現を借りれば、池田達の「夢」が実現した1960年代は、戦後日本の「青春の時代」であった。「よき敗者」たろうとした吉田茂によって、戦後日本はそのレールがひかれた。「吉田学校の優等生」である池田によって築かれた「所得倍増」という「夢」は、戦後日本の「青春の時代」となり、安保闘争後、瞬く間に世の中の空気を変えたのだった。

 良質なノンフィクションには、人と時代を切り出す力がある。インタビューを通じて、書き手は人から時代を感じ取り、そして時代を描き出す。人が時代を作り、時代が人を作る。当たり前ながらついつい忘れてしまいがちな人間の力を、本書は思い出させてくれる。

at 23:50|PermalinkComments(2)本の話 

2009年01月04日

今年もよろしくお願いします。

昨夕、静岡より帰京しました。

大掃除を手伝ったり、本を読んだり、酒を飲んだり飲んだり飲んだり、といった感じで四日間はあっという間に終わってしまいました。久しぶりに会った友人達もみな元気なようで、今年も一年頑張るぞという意気込みが湧いてきました。

昨年までは、何やかんやと偉そうなことを言っていても所詮は修士課程の学生(=研究者の卵の卵)という甘えがありましたが、今年の四月からはいよいよ博士課程(=研究者の卵)に進学です。これまで以上に成果が問われることになるだけに、その助走期間となる最初の三ヶ月を大事に過ごす必要がありそうです。

今年もよろしくお願いします。



研究をしないだけで、時間がものすごくあるという事実に驚きましたが、それだけ時間をかけて一つのことをやることが出来る今の立場はとても贅沢なものなのでしょう。そんな余った時間に↓を読みました。

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洋書に時間を取られて小説を読めなかったのは残念でしたが、年末年始の読書は当たりでした。どれもとても面白かったので、気が向いたらここで紹介したいと思います。

at 13:20|PermalinkComments(0)日々の戯れ言