2008年11月

2008年11月30日

今週の授業(11月第4週)

相変わらず時間が過ぎるのは早いもので、今日で11月も終わりです。

懸案の論文はひとまず完成したので、今は英文要旨を書いています。最初から英語で書いた方がいいのかもしれませんが、先日の院ゼミのために日本語で論文要旨を作成したので、ひとまずそれを基に翻訳をしています。

今週は論文の追い込みの一週間だったはずなのですが、なぜか英語の勉強ばかりをしていたような気がします。



<水曜日>

3限:国際時政治論特殊研究(院ゼミ)

今週は、土曜日のセミナーの事前勉強会ということで、Chinese Oil Companies in Africa: Very Different or More Same?、というワーキング・ペーパーが課題文献でした。課題文献について議論をする前に、先生からトラック2の現状や国による違いなどについて話があったため、実質的には二本立ての授業でした。詳しい話は、土曜日の所で。

<木曜日>

2限:Alternative Approaches to Japanese Foreign Policy

今回からは、具体的なテーマを取り上げての日本外交の検討です。第一回目となる今回のテーマは「日米同盟」。自分とゼミの後輩が担当だったので、どういった議論をするべきか、先週末からTAの先生と共に色々相談し、結局90年代の日米同盟を取り上げて論じることにしました。

自分はネオクラシカル・リアリズムの枠組みを用いて、主として日本側の視点から日米安保再定義を検討したのですが、外交史的視点に近いネオクラシカル・リアリズムを10分の発表で用いるのはあまり適切ではなかったのかもしれません。10分という発表時間もあり、先生の想定していたのは前半の授業で取り上げたような、より「単純」な理論を適用して日本外交を考えることにあったようです。この辺りが、日本と北米の文化の違いであるのか、参加者のレベルによるものなのかは分かりませんが、どうやらその両方ではないのかというのが個人的に感じたところです。

恥ずかしながら、この発表が大学院三年目にして初めての英語での発表だったので、不安な点も多かったのですが、ともかく自分のメッセージはちゃんと伝わったということなので、まずはそれで良しというところでしょうか。こうしたハードルを、出来る限り早い段階で一つ一つクリアして先に進むことが大学院生にとっては大事なのだと思います。

4限:国際政治論特殊研究(院ゼミ)

今回も前回と同じく、博士課程の先輩二人による研究発表。

5限:プロジェクト科目(政治思想研究)

友人による修士論文の中間発表でした。中間発表とは言うものの、非常に完成度が高くまとまった論文で、ほぼ今の状態のまま提出可能なものだったので、専門外の自分にはとても勉強になりました。これだけレベルの高い論文を書けるにも関わらず就職してしまうとは、本当にもったいないです。

<土曜日>

Ricardo Soares de Oliveira博士によるセミナー(中国とアフリカー中国の資源外交を中心に)がありました。事前に提示されていたペーパーよりも、レクチャーの方が分かりやすく、かつまとまっていたと感じたのは自分だけではないと思います。

周知の通り、中国の石油企業は90年代以降目覚ましいスピードでアフリカに進出しています。それは、単に「資源外交」の一言で片づけられるものではなく、現地の政治勢力との関係や、石油市場の構造にも影響を与えるものです。報告者の第一の専門はアフリカ政治だと思いますが、同時に国際政治経済への深い洞察を持つ点で、今回の報告は非常に多角的なものでした。多角的でありながら、全体としてのまとまりはしっかりとしているので、とても刺激的なセミナーだった点が印象深かったです。

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セミナーは英語で行われたのですが、自分の英語力でもそれなりに理解出来たと感じたのは、何よりも議論の枠組みがしっかりとしていたからだと思います。理論的枠組みを明示的に用いらず、関連する議論への目配りも行き届き、さらにどのような角度からの質問にも的確に答える報告者に、圧倒されてしまいました。中国の論理、アフリカの論理、その他の先進国の論理をバランス良くまとめた上で、明示的な結論を導き出している点は、報告者の指導教授であるMayall先生譲りなのでしょうか。博士論文を基にした著書(Oil and Politics in the Gulf of Guinea)もとても面白そうなので、時間を見つけて読みたいと思います。

ただ図書館や大学院棟に閉じこもって日本外交史を研究していては広がってこない世界が見えてくるのは、この師匠の下で勉強しているからこそだと思います。その贅沢さを実感する今日この頃です。

水曜日の院ゼミで自分の意見を師匠に言ったところ、「当日、質問してみなさい」と言われたので、一番最初に質問をしてみました。拙い英語であっても、事前にちゃんと用意をしておけば、どうやら「言いたいこと」は伝わるということが分かったのは個人的な収穫です。こうした勉強は、もっと早いうちからやるべきだったのだと思いますが、いつ始めても遅いということはありません。

そんなわけで今週は、「英語を頑張ろう」という気持ちを一定の収穫と共に実感できたことが良かったです。

at 16:38|PermalinkComments(0) ゼミ&大学院授業 

2008年11月24日

豊饒なるイギリス外交史(その2)。

相変わらず、三田祭開催中の大学に来ています。

一昨日は、友人に「三田着いた?」と12時過ぎに連絡したところ、「○○[教室名]で今から飲む」とメールが来たため、昼から飲むはめになりました。その後は、ゼミの同期生と後輩のブースに顔を出したり、キャレルに戻ってちょっと勉強をして、再び6時くらいから飲みました。行動力のある友人がいた大学時代は遠出もしたのですが、彼がいないとどうやら輩達は飲むことしか出来ないようです。



前々回のエントリーで、益田実先生の『戦後イギリス外交と対ヨーロッパ政策:「世界大国」の将来と地域統合の進展,1945~1957年』を紹介しましたが、今日はその少し後の時代のイギリス外交を扱った研究書『イギリス帝国からヨーロッパ統合へ:戦後イギリス対外政策の転換とEEC加盟申請』を書評形式で紹介しておきます。

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小川浩之『イギリス帝国からヨーロッパ統合へ』(名古屋大学出版会、2008年)

<はじめに>

世界大の帝国を抱えたイギリスは、第二次世界大戦の脱植民地化の流れの中でその帝国を失っていった。サッチャー政権以降、再び英米の「特別な関係」に注目が集まるようになり、イラク戦争は「ブッシュの戦争」であるだけでなく「ブレアの戦争」でもあったと評価する向きもある。しかしながら、実際の英米関係は対等な二国間関係ではない。アメリカにとってイギリスは、あくまで国際社会におけるジュニア・パートナーに過ぎないのだ。
このように近年は、英米の「特別な関係」が再びクローズアップされるようになってきたが、戦後の歴史を紐解けば、世界帝国からヨーロッパの地域大国へと自らの立ち位置を修正していくイギリスの姿が浮かび上がってくる。二度のEEC加盟申請失敗を乗り越えて、イギリスは1973年にEECに加盟し、ヨーロッパ統合に参画していく。周知のようにユーロ参加を見送るなど、その立ち位置は現在も揺れているものの、イギリスはあくまでもヨーロッパの一国である。
「大英帝国」として戦後を迎えたイギリスは、いかにしてヨーロッパ統合への参画へその歩みを進めたのだろうか。

<概要>

本書は、マクミラン政権における第一次EEC加盟申請(1961年)に至る対外政策の再編を、イギリスを中心とする各国・機関の一次資料を用いて中期的観点から分析した国際関係史研究である。
かつての帝国領土の多くを失ったイギリスであるが、旧植民地や自治領との間にコモンウェルスが形成され特恵制度が維持されたことから、依然として「帝国=コモンウェルス」との関係は重要だった。このような認識は、政府関係者の大半に共有されており、それは「三つのサークル・ドクトリン」の採用へ繋がった(ドクトリンの概要は前々回の記事を参照→リンク)。しかしながら、1950年代を通したヨーロッパ統合の順調な進展によって、コモンウェルスとの関係を重視するという、このドクトリンの有効性は徐々に失われていくことになり、ついに1961年には、コモンウェルスとの関係からそれまで忌避されてきた政治統合をも含むヨーロッパ統合への参画、すなわちEECへの加盟申請という政策が選択されることになる。

1961年の第一次EEC加盟申請に至る道のりを、メッシーナ・イニシアティブによってヨーロッパ統合が「再着手」される1955年までさかのぼって本書は検討している。メッシーナ・イニシアティブ後における通商関係の変容を検討する第一部では、①メッシーナ・イニシアティブに対するイギリスの対応、②オーストラリア及びニュージーランドとの貿易協定再交渉が、それぞれ取り上げられている。

続く第二部では、ヨーロッパFTA案とカナダとのFTA案という二つのFTA構想が取り上げられる。「三つのサークル」の間でバランスを見極めつつ提示されたこの二つのFTA構想とその交渉は、イギリス政府が試行錯誤を重ねながら困難な状況に置かれていく様子を明らかにする。西ヨーロッパ規模のFTAを目指したヨーロッパFTA構想は、アメリカの積極的な支持を獲得できず、EEC諸国も当初はEECの深化を優先したために交渉そのものが停滞した。そして1958年に入ってからはEEC諸国側からもいくつかプランが提示されたものの、交渉は行き詰まる。
一方、英加FTAは、カナダの政権交代をきっかけにその交渉が始まったものだったが、結局挫折に終わることになった。この交渉の過程で、イギリス側はヨーロッパ統合への接近以外に選択肢を失いつつあり、カナダ側もアメリカとの非対称にならざるをえない相互依存に深く組み込まれているという現実が浮き彫りにされた。

第三部では、まずイギリスがEEC六ヶ国(インナー六)の外側に位置する七ヶ国(アウター七)で新たなFTA(EFTA)形成を目指す様子が、英米関係の展開と重ね合わせながら検討される。イギリスは、EFTAの設立を通してEECとの「橋渡し」を目指したものの、十分な成果を上げることは出来なかった。イギリスの試みは、EEC諸国から統合を薄める動きとして警戒されるとともに、アメリカからも評価されなかったからである。そして、1960年代前半には、U2機撃墜事件によって、パリ首脳会談が決裂したことによって、イギリスはより広い文脈で対外政策の行き詰まる状況に置かれた。こうして、イギリス政府内ではEECへの加盟申請に徐々に傾いていくことになった。次いで、取り上げられる南アフリカのコモンウェルス脱退は、第二次大戦後におけるコモンウェルスの拡大と制度変化という大きな流れの中で、イギリスにとってのコモンウェルスの重要性に再考を迫り、結果としてコモンウェルスの遠心性的傾向を浮き彫りにすることになった。
以上のように、対ヨーロッパ政策と対コモンウェルス政策を螺旋状に並べていくことによって、本書の叙述は進められている。そして本論の最後となる第七章では、英米関係を軸に検討を進め、イギリスがEEC加盟申請へとその方針を転換していく過程が描かれる。EECの統合深化を強く支持していたアイゼンハワー政権からケネディ政権への政権交代によって、アメリカはイギリスの試みを支持するのではないかとの期待が持たれたものの、その期待が実を結ぶことはなかった。こうしてイギリスは、政治的影響力、経済力の両面において、アメリカとEECの狭間に埋没し、次第に国力の基盤を失っていく危険を封じる必要性を強く感じるに至った。そして、残された最後の選択肢であるEEC加盟申請を行ったのだった。

<本書の結論と意義>

メッシーナ・イニシアティブによるヨーロッパ統合の「再着手」からEEC加盟申請に至るイギリス外交は、実際のところ失敗の連続だったように思える。事実、イギリスにとって大きな決断であった加盟申請は、その後フランス大統領ドゴールによってあっさりと葬り去られた。
本書は、EEC加盟申請の背景を以下の三点にまとめている(299-300頁)。①1950年代後半に「三つのサークル」や「東西間の架け橋」構想など、それまでイギリスが対外政策の拠り所としてきたものが大きな揺らぎを見せたことが、政府内外で大幅な政策転換の必要性に関する認識を強めたことによって、EEC加盟申請に向けた基盤を形成した。②ローマ条約の調印・発効によって本格的に始動したヨーロッパ統合が有効に機能し始めたことによって、EECの外に留まり続けることによる深刻な不利益が生じるようになった。③当初はEEC加盟よりも望ましいと考えられた選択肢が次々と失敗または不十分とみなされるようになった。
そして、以上の三点の変化を踏まえて、マクミラン政権はEECに完全な加盟国として加わることが自国の政治的影響力と経済力を回復・強化する唯一の選択肢と判断するに至り、(最後にはアメリカ政府内でも予期されていなかったほどに早い段階で)自らの主体的な判断によりEEC加盟申請という政策転換を決断した、というのが本書の結論である。

博士論文を基にした本書は、数多くの先行研究を踏まえつつ、とりわけコモンウェルスとの関係を重視して分析を進めることによって、イギリスの第一次EEC加盟申請へ至る対外政策を検討している。その際、イギリスの衰退傾向といった長期的要因や、米の政権交代や南アフリカのコモンウェルス脱退といった短期的要因ではなく、イーデン政権からマクミラン政権に至るイギリスの対外政策再編の試みの中でこの第一次EEC加盟申請を検討している点が本書の特徴である。1955年から1961年に至る中期的な時間軸の中でEEC加盟申請へ至る道のりを各国・各国際機関の一次資料を用いて明らかにするとともに、イギリスにとって重要だったコモンウェルスとの関係も含めて詳細に検討を行うことによって、本書は第一次EEC加盟申請という重要なイギリスの政策転換を包括的に論じることに成功していると評価することが出来るだろう。ここでの紹介では省略してしまったが、経済史的観点からも本書は詳細な分析を行っており、その点でも重要な意義を持つ研究となっている。
本書の取り上げる前の時代を扱っている益田実『戦後イギリス外交と対ヨーロッパ政策』(ミネルヴァ書房)と併せて読むことで、我々は戦後初期のイギリスとヨーロッパという重要な問題について深く考えることが出来るだろう。
やや残念な点は、本書の各章の議論の有機的な繋がりがやや弱いことである。三部構成からなる本書は、各部に「はじめに」と「おわりに」が置かれているが、「おわりに」では各章それぞれの要約が行われているだけで、それぞれの章の分析がどのようにより広い文脈の中で意味を持つのかが明らかにはされていない。もちろん結論部分で各章の持つ意義は明らかにされており、本論の中でもう少しその繋がりを明示的に書いて欲しかったというのは望み過ぎかもしれない。しかし、各章の有機的な繋がりがより意識されていれば、中期的な要因の並列ではなく、より各要因の効き方が明らかな結論を提示することが出来たのではないだろうか。 
また、イギリスのEEC加盟申請は、「三つのサークル」という従来のドクトリンに大きく修正を迫るものであった。そうであれば、このドクトリンが放棄される過程で包括的な検討は無かったのだろうか。各国との交渉等が詳細に検討されているだけに、より大きな「イギリス帝国からヨーロッパ統合へ」というダイナミズムの変化についても、著者なりの評価を読みたいと感じた。

※なお、EEC加盟申請後の時代については、(第一部は本書と内容がかなり重なっているものの)既に益田実との共著の科研費報告書という形で発表されており、研究代表者である益田実教授のHPで閲覧することが可能である(リンク)。

at 14:23|PermalinkComments(0) 本の話 

2008年11月22日

三田祭。

三田祭に、正確に言うと三田祭開催中の大学に来ています。

学部1・2年の時は、所属していた勉強系サークルの研究発表、3年の時はゼミの研究発表、4年の時は友人達がやっていた「Cafe de Comintern」とそれぞれ居場所があったのですが、大学院に入ってからはすっかりアウェイです。もっとも、大学に着いてみると中庭のステージで後輩がキーボードを弾いていたり、ゼミの後輩のブースがあったりと、それなりに楽しめる環境ではあります。

去年は、三田祭の喧騒の中、大学院棟にこもってひたすら論文を書いていましたが、今年も同じく大学院棟で論文を書いています。自分は付和雷同な人間だと思っていたのですが、どうやらマイペースな面もあるようで、お祭り騒ぎの中でもあまり影響されずに研究を続けられるようです。

そんなことを言いながら、この後は、ゼミの同期生や友人達が三田にやってくるので、今日は昼から飲んだくれることになることは確実でしょう。友人達が出来上がった状態で三田に現れないといいのですが…。



懸案の論文は、最後の最後の段階までようやく辿り着いたようで、あと400字削ればとりあえず完成というところまで来ました。最善を尽くして11月上旬に草稿を書き上げたつもりだったのですが、草稿に対して先生や先輩&後輩から指摘された点を踏まえて毎日少しずつ文章を直していくと、やはり前に書いたものよりもどんどん読みやすくなっていくので、まだまだ修行が足りないのかもしれません。

そんな感じでこの一週間余りを過ごしてきましたが、そろそろ「収穫逓減」状態になってきたので、ここらで手を打つことにするつもりです。

研究(とりわけ一番初めに発表する研究)は、どの段階で発表するかがなかなか難しいものです。とはいえ、個人的に一番良くないと思うのは「完璧主義」で論文を出さないことです。地道に研究を続けていても、論文を出さないままに博士課程を過ごしていくと、嫌でもそのハードルは上がっていきます。かといって「ただ書けばいい」というわけではなく、どの辺りで手を打つのかが難しいわけです。

自分の場合は、史料の公開状況がかなり悪い日本の、それも歴史研究としては新しい時代を研究しているので、イギリス外交史のような史料的な深さはもとより望みようがありません。そうであれば、当然、個々の叙述の深さはイギリス外交史の研究よりは劣るわけです。資料があるアメリカやイギリスの視点から日本を描けばいいのかもしれませんが、それはイギリスのアメリカの対日政策史であって、自分がやりたい研究ではありません。

そんなことを色々と考えだすと悩みがつきませんが、そんな苦悩の中から少しでも意味ある研究が出来ればいいのだと今は自分に言い聞かせています。

at 11:40|PermalinkComments(2) 日々の戯れ言 

2008年11月17日

豊饒なるイギリス外交史。

色々と考えるところがあり、週末は佳境を迎えつつある自分の研究の細部を詰めるのではなく、刊行されたばかりの研究書数冊を読んでいました。

同じ時間をかけて本を読むならば「栄養のある本」を読みなさい、ということは学部時代からお世話になっているある先生から言われたことですが、「栄養のある本」が何かということは人それぞれ違うのかもしれません。

国際政治理論、思想・哲学、アメリカ外交史等々、自分にとって「栄養のある」分野はたくさんありますが、自分に最も大きな刺激を与え続けてくれるのがイギリス外交史です。この10年ほど日本でもイギリス外交史研究は飛躍的に進展しており、その一部はこのブログでも取り上げてきました。今もさらに一冊読み進めているのですが、ひとまず今日は昨日読んだ研究書を書評形式で紹介しておきます。字数の関係で論じきれていない部分もあるのですが、それはまたの機会に。



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益田実『戦後イギリス外交と対ヨーロッパ政策』(ミネルヴァ書房、2008年)

<はじめに>

戦後国際政治の中でイギリスはどのような存在だったのだろうか。第二次世界大戦を三大国の一員として戦ったイギリスだが、戦後は脱植民地化に苦しむとともに、経済的には長期間の不振に喘いだ。アジアの視点から戦後のイギリスを眺めれば、それは「帝国のたそがれ」(木畑洋一)であったし、戦後の国際経済秩序形成に際してもイギリスはアメリカに敗北したのだった。さらに、フランスを中心にヨーロッパ統合が進む中でイギリスは「船に乗り遅れ」ヨーロッパにおいてもかつての影響力を失っていったと評価されることもある。
しかし、この10年ほどの間に日本で発表された研究はイギリスにより積極的に役割を与えている。細谷雄一が『戦後国際秩序とイギリス外交』(創文社)と『外交による平和』(有斐閣)という二冊の研究書で明らかにしたのは、米ソという超大国が対峙する中にあって「外交」によって戦後国際秩序構築へ積極的な役割を果たしたイギリスの姿である。また、一昨年には齋藤嘉臣『冷戦変容とイギリス外交』(ミネルヴァ書房)が刊行され、1960年代から70年代における「デタントの管理者」としてのイギリスという新たな評価が提示された。豊富な一次資料に基づいてイギリス外交を描き出し、それに積極的な評価を与える点に、近年の研究の一つの特徴があると言えよう。
こうした中で、この10年余り戦後イギリスの対ヨーロッパ政策について、着実かつ冷静に研究を続けてきた著者が満を持して刊行したのが、本書『戦後イギリス外交と対ヨーロッパ政策:「世界大国」の将来と地域統合の進展,1945~1957年』である。

<本書の概要>

本書は、第二次世界大戦後、イギリスがいかにして「世界帝国」の地位を維持しようと考えたのか、そしてその過程で大陸ヨーロッパ諸国といかなる関係を構築しようとしたのかを、1945年から57年までを対象に分析している。序章において、先行研究を整理しその問題点と意義を検討した上で、三部構成で本書の議論は進められている。

第I部では、1945年から49年までを対象に、戦後イギリス外交の基本デザインが確立される過程を描き、その中で、対ヨーロッパ政策がいかなる位置付けを与えられたのかが検討されている。当初策定された基本構想は、「第三勢力構想」と呼ばれるものである。英仏を中心とする西欧諸国とその植民地帝国を核に、アメリカ及びソ連と対等かつ独立の「第三の世界勢力」を確立することが基本デザインとなったのだ。しかし第三勢力構想は、大陸諸国の復興の遅れと軍事的脆弱性、そしてイギリス自身の深刻な通貨危機によって、1948年後半から49年秋までに放棄されることになる。
第三勢力構想の放棄を受けて、外務省は「西側の結束」を目指す方針へと転換し、その過程で「三つの環」と呼ばれる基本デザインが形成されていく。このデザインでは、「英米特別関係に基づく大西洋同盟」によってアメリカ主導の安全保障が提供され、「帝国=コモンウェルス/スターリング地域」がイギリス独自の経済的・外交的影響力の基盤を提供し、「西欧諸国との可能な限り緊密な協力」がヨーロッパ域内の安全保障と経済協力を提供するものと位置づけられた。そして、この三つの全てに関与することによって、イギリスは世界大国としての影響力を維持できるとされ、これを基礎に世界規模の通商自由化を追求するOne World Policyを採ることがイギリスの方針となったのである。
第三勢力構想策定から「三つの環」へ至る過程を、本書は過不足なく各省庁の一次資料を検討することによって明らかにしている。「世界大国としてのイギリス」という意識は各省庁及び主要閣僚に共有されていたが、実際にどのように対ヨーロッパ政策を採るべきかという点について、国際的影響力強化を重視する外務省と経済省庁の間には差があった。しかし、この矛盾は「三つの環」とい外交の基本デザインが策定される過程で「英米特別関係」の重要性が経済省庁にも認識されることによって解消されることになった。この英米の「特別な関係」について、著者は冷ややかな見解を示す。「アメリカにとってイギリスは他の西欧諸国と異なる地位を持っていたとは言え、所詮はjunior partnerでしかなかったのである」(74頁)。

続く第II部では、1950年から54年までを対象とし、シューマン・プランとプレヴァン・プランというフランスが提示した西欧統合へ向けた構想に対するイギリスの対応を検討している。
この間、イギリスではアトリーからチャーチルへと政権交代が起きるが、本書が強調するのは共通性である。「第三の環」という外交の基本デザインはチャーチル政権にも引き継がれた。それゆえ、「第三の環」の修正を迫るヨーロッパ統合へ参加しその一部となるという選択肢はあり得なかった。それは、コモンウェルスとの関係を危うくし、「世界大国」としてのイギリスを放棄することに繋がるからである。
後の歴史を考えれば、イギリスはフランスが1950年に二つのプランを提示した段階で「第三の環」という基本デザインの修正を迫られていたわけだが、実際にはこの基本デザインに基づき、統合への参画ではなくその枠外からの「可能な限り緊密な協力」という方針を採用した。しかし、実際に提示されたイギリスの政策は、結局のところすべての関係国に不満を与える不十分なものでしかなかった。イギリスは、ドイツ再軍備を巡る安全保障面ではイーデン外相を中心に一定の役割を果たしたが、ヨーロッパ統合については対応の限界を露呈したのだった。

最後の第III部では、1955年から57年を対象に、統合の再始動を画したメッシナ提案/共同市場構想への、イギリスの対応が検討されている。イギリスは、ここで初めて、自由貿易地帯(FTA)の形成というプランを自ら提示し、ヨーロッパの将来に関するイニシアティブを握ることを決意したのであり、これはそれ以前の政策を考えると非常に重要な変化だった。しかしながら、この段階でも「三つの環」という基本デザインが放棄されることはなかった。政府内では、この提案に対して慎重論と反対論が存在したが、マクミラン首相とソーニクロフト商相が押し切ったのである。
通常、このFTA構想挫折後、EFTA形成を経て1961年に第一次EEC加盟申請に至る展開こそが、決定的なイギリスの対ヨーロッパ政策の転換であるとされる。しかしここで著者は、そのような見方は後から振り返った場合の話であり、それ以前からのイギリスの政策を検討した場合、このFTA提案は画期的な政策転換であり、戦術としては劇的な変化であった、と主張する(163頁)。

終章では、FTA構想の挫折に至る過程を紹介した上で、本書全体の議論をまとめて評価を下している。本書が描き出すのは、イギリスが「三つの環」という外交の基本デザインをいかに構築し、そしてそれをうまく政策として具現化出来ずに苦しんだのか、という過程である。なぜ「三つの環」がイギリスにとって必要だったのだろうか、という問いを読者は本書を通して考えさせられるだろう。最終的に本書がイギリス外交に下す評価は辛い。

三つの軸があるがゆえに世界大国なのではなく、世界大国であろうとするがゆえに三つの軸が必要とされたのであり、イギリスはその上で危うい均衡を保つ努力を強いられていた。しかし、政策決定者たちはあくまでも、イギリス自身が事態をコントロールする立場にあるとの自己認識から逃れることはできなかった。50年代後半までのイギリスの対ヨーロッパ政策の変遷課程は、この転倒した認識の下で政策決定者達が陥った自己欺瞞を示すものだったのである。(219頁)

<本書の意義>

以上が本書の概要であるが、本文中では1945年から1957年に至るまでの各閣僚及び各省庁のスタンスが逐一検討されている。安全保障面への配慮や経済の論理といった単純な一般化ではなく、各政策それぞれについて、イギリス政府内のアクターの考えや政策決定へ与えた影響が、極めて詳細に明らかにされている点は、第一に挙げるべき大きな意義であろう。どのアクターに肩入れするでもなく、冷静沈着かつ真摯に資料に向き合うことによって、本書の叙述は一貫してバランスが取れたものになっている。また、外交史のみならず経済史の議論も過不足なく検討している点は、本書の叙述に信頼性を与えている。
第二に、本書の議論は前後の時代を踏まえて、1945年~57年を検討している点に大きな意義がある。それは、とりわけ55年から57年についての意義付けに大きな説得力を持たせている。「画期」や「転換」という言葉は、外交史家が好んで用いるが、それが前後の時代と比べてどのように「画期」だったのかを本書のように説得的に論じているものはそれほど多くはない。
第三に、冷静な筆致を守り、かつ複雑な各アクターのスタンスを再現しながらも、本書の議論は非常に明快であり踏み込んだものになっている。関係する先行研究を詳細に検討しつつ、下される本書の議論は実に説得的である。本書全体としては、「世界大国」としてのイギリスを維持したいという各アクターに共通する意識がいかにイギリスの対ヨーロッパ政策に影響を与えたかが明らかにされている。
その一方で、細かな政策を検討する部分では、大国としての国際的影響力を重視して対ヨーロッパ政策を立案する傾向が強い外務省に対して、国内政策も見据えた経済省庁やコモンウェルスとの関係を重視する立場との相克が描き出される。「失われた機会」論への反駁は実に説得的である。細部を描いた上で、全体を統合的に論じることに本書は成功していると評価すべきだろう。

<おわりに>

以上のように本書は、非常にバランスの取れた議論を展開している。これは、1930年代から1960年代まで実証的な歴史研究を重ねてきた著者ならではのものだろう。序章の末尾にある次の一文には、一次資料に基づいて等身大の歴史を描き出そうとする著者のスタンスがよく表れている。

財政、通貨、通商政策の議論が大国イギリスの世界戦略を決定づけるさまを克明に描写することは、外交史的記述に親しんだ読者にはいかにも散文的な印象を与えるであろう。ロマンの欠如を嘆く声もあるかもしれない。しかし戦後という時代は、すでに歴史あるイギリス外交を司る人々にそのような散文的議論を強いる散文的時代だったのである。(16頁)

戦後初期という新たな国際秩序形成期におけるイギリスの対ヨーロッパ政策を描いた本書には、実に様々な要素が含まれている。著者自身の結論は明快であるが、読者が著者とは異なる結論を導き出すことも可能だろう。著者は散文的というが、本書の抑制的な筆致をもってしても、「イギリス外交は面白い」と再確認させられた次第である。はたして、戦後国際政治の中でイギリスとはどのような存在だったのだろうか。本書によってその一つの答えは与えられたような気もするが、読書の旅はまだまだ続きそうである。

at 16:55|PermalinkComments(0) 本の話 

2008年11月15日

今週の授業(11月第2週)

11月上旬になると気になってくるのが、サントリー学芸賞の発表です(リンク)。

例年は二冊くらいは既に読んだ本が受賞作の中に含まれているのですが、今年は積読になっている本が4冊という何とも微妙な結果でした。広義には自分の専門の学術書の新刊をしっかり読めていないというのはやはり問題です。



いつものように備忘録代わりに授業の記録を書いておきます。

<水曜日>

3限:国際政治論特殊演習(院ゼミ)

今週は今書いている論文の発表をしました。発表といっても、参加者は自分を含めて三名で、しかも事前に草稿と要旨を渡しているので、実質的には細かい点まで含めた論文草稿の検討会でした。一時間半をフルに使って日本語表現まで含めて指導して貰えるのは実に贅沢であり貴重なことです。

自分としては、細かな日本語までこだわって草稿を仕上げたつもりだったのですが、まだまだ詰めが甘いようで色々と貴重な意見を貰うことが出来ました。資料に基づいて書いた本論の部分はほぼ固まっているので、後はいかにメリハリをつけるか、また「はじめに」と「おわりに」をいかに効果的なものにしていくかが課題なのですが、この作業が実は一番大変なのかもしれません。

今週は授業とは別に、バイト先の先生にも論文草稿についてコメントを頂きました。書いているうちについつい「当たり前」と思いこんで削ってしまった箇所こそが実はもっとも大切であることや、資料の使い方等で中途半端な箇所について詳細にコメントをして頂けたのは本当に有難いことです。やや外交史としては、変化球的なテーマを扱っていることから、いかに皆に理解して貰えるように、そして誤解のないように書くのかが厄介なところです。

<木曜日>

2限:Alternative Approaches to Japanese Foreign Policy

理論の「お勉強」最終回の今週のテーマはコンストラクティヴィスム。テキストは、Christian Reus-Smit,“Constructivism,”in Scott Burchill, Andrew Linklater, and Richard Devetak, (eds.), Theories of International Relations (Houndmills, Basingstoke, Hampshire: Palgrave Macmillan, 2005) でした。further readingとして二つ論文が指定されていたのですが、時間の関係でよく知られている方、Nicholas Onuf,“Constructivism: A User's Manual,”in Vendulka Kubalkova, Nicholas Onuf, and Paul Kowert, (eds.), International Relations in a Constructed World (Armonk, NY: M.E. Sharpe, 1998) のみを読んでいきました。

アシスタントの先生による授業でしたが、先生自身がコンストラクティヴィストなので、なかなか気合いの入った説明で色々と勉強になりました。コンストラクティヴィズムは理論なのかそれとも分析枠組なのかといったことから、他の理論との関係まで包括的に議論になりましたが、自分に振られた時にまたうまく説明出来なかったのが悔やまれるところです。これは努力あるのみ。

アシスタントの先生とは普段もよく話すのですが、やはりコンストラクティヴィズムの大きな問題は、それが静的(static)な理論だということではないでしょうか。周知のとおりコンストラクティヴィズムは、規範の共有を重視するわけですが、この規範は容易には変化しないからこそ規範たりえるわけです。それゆえ、コンストラクティヴィズムは短期的でダイナミックな変化を説明するのにはあまり向いていないのではないか。そんな話をしてみたところ、今の理論の最先端は、変化の説明にも進みつつあるということなので、やはりアメリカにおける理論研究のパワーはすごいなと感じました。

次回(再来週)からは、日本外交の理論的な説明が授業のテーマになります。初回は日米同盟が課題なのですが、何を取り上げて説明するのかがやや悩ましいところです。

4限:国際政治論特殊演習(もう一つの院ゼミ)

博士課程で外交史を研究されている先輩二人の発表。修士論文の構想発表だといつも時間が余り、逆に本格的な研究が二つ並ぶと時間が足りなくなるというのはどうにかならないものでしょうか。今回も案の定時間が足りず、質問をする時間がほとんどありませんでした。院生の人数が多いゼミなので仕方がないのかも知れませんが、レベルの高い研究について議論する時間ないのは残念です。

5限:プロジェクト科目(政治思想研究)

先々週土曜日の報告を受けてのディスカッション。報告を詳細に検討した上での、討論者の議論は実に鮮やかでしたが、鮮やか過ぎたためか議論はあまり盛り上がりませんでした。個人的には、授業の後半で少し出てきた思想史研究のリサーチ・デザイン(?)のような話は面白かったです。

at 12:44|PermalinkComments(0) ゼミ&大学院授業 

2008年11月10日

祝日本シリーズ制覇。

久しぶりに、我が西武が日本シリーズを制覇してくれました(拍手)。

昨年は、中日ファンの先輩の横で「継投完全試合」の瞬間をビール片手に見ていたのですが、今年は巨人ファンの家族に囲まれて自宅でその瞬間を迎えました。

清原、デストラーデ、渡辺久信らを擁した全盛時代の西武を小学校時代に見てきた我々の世代には、西武ファンもアンチ西武ファンも多いと思います。もちろん自分は一貫して西武ファンだったわけですが、今年の西武は、西武ファンのみならず野球好きにとって魅力のあるチームだったのではないでしょうか。ブライアントばりの低打率・三振数・ホームラン数を誇る「おかわり君」や、天才肌の中島、好き勝手に走る片岡などなど、かつての森野球のイメージを一掃する活き活きとしたチームが、こうして日本一になったのは一野球ファンとしても嬉しいことです。

来年は、スタジアムへ行きたいです。



今週末は研究会が二つありました。

土曜日は、私も三月に発表させて頂いた若手外交史家を中心とした研究会で、同学年の友人(他大)の研究発表でした。色々な研究会や資料調査の時期と重なったためかやや参加人数は少なかったのですが、アメリカの対日政策について今日本で最も詳しいであろう研究者五人の内の数人がいたため、かなりディープな話が展開されていました。全くの門外漢というわけではないですが、基本的に日本の資料を使って日本外交をやっている自分にとっては、とにかく勉強になりました。発表に基となった論文は某雑誌に発表されるそうで、同期ながら先をゆく友人を見て自分も頑張らなければいけないな、と再確認した次第です。

日曜日は、例の冷戦史読書会でした。気が付けば、この読書会も今回で七回目です。修論執筆を抱えるメンバーが数人いることから、今回から数回のメインテキストは日本語です。というわけで今回のテキストは、ヴォイチェフ・マストニーの『冷戦とは何だったのか』(原題:The Cold War and Soviet Insecurity: The Stalin Years)、サブテキストは、前回著書を読んだメルヴィン・レフラーによるギャディスの本を中心に「新正統主義」研究を取り上げたレビュー・エッセイである、The Cold War: What Do "We Now Know"?, The American Historical Review, Vol.104, No.2 (April, 1999) でした。

これまでの読書会では、もっぱらアメリカとヨーロッパの視点からの研究が中心だったので、バランスを取ろうということでこの本を取り上げることになりました。メンバーにソ連や東欧の専門家がいないこともあり、基本的な事実関係等の知識がこれまで読んできて本で扱われているテーマと比べるとあまりに少ないため、議論がややうまく回らなった印象はありますが、個人的には今回の研究会を通して何となくマストニーのこの本を相対化して理解することに近付けたような気がするので満足しています。

それにしても、学部時代に読んだはずなのに、ほとんど内容を覚えておらず、初めて読んだのと変わらない印象だったことに愕然としてしまいました。人間の記憶はあてにならないものだということを再確認しました。やはり、簡単なメモであっても感想等を残しておいた方がいいのかもしれません。

いつもの通り、書評形式で簡単に紹介(例の如く、研究会での報告や議論を反映しています)。ただし今回は概要は少なめです。

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ヴォイチェフ・マストニー『冷戦とは何だったのか:戦後政治史とスターリン』(柏書房)

<はじめに>

 冷戦終結は、歴史研究にも大きな影響を与えた。その最も大きな理由は、旧東側諸国の公文書が開示されたことである。かつては、西側の公文書や限られた公開情報から想像するしかなかった東側陣営の外交が、一次資料に基づいて明らかにされるようになったのだ。こうした新たな研究の代表的なものとして知られているのは、ロシア人研究者であるズーボックとプレシャコフによるInside the Kremlin's Cold War: From Stalin to Khrushchev (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1996)だが、本書もまたこうした新たな冷戦史研究の代表作である。
 東欧諸国をめぐる細かな描写や登場人物の多さから、初学者にはやや意義を理解することが難しい面もあるかもしれないが、西側の視点から冷戦史を眺めてきた我々にとって、その視点を相対化しより立体的な冷戦像を考えるためにも、本書は必読文献の一つと言えるだろう。以下、概要を簡単に紹介した上で、若干の評価を試みることにしたい。

<概要>

 はじめに、本書の議論を理解するためのカギとなる「insecurity」という概念について説明しておく必要があるだろう。「訳者あとがき」にもあるように、そもそも「security」という概念が日本語になりにくく、この「insecurity」はさらに日本語にするのが難しい言葉である。ここでは、訳者の「安全が脅かされている状態」「危険とまではいかないものの安定していない状態」というニュアンスで用いられるもの、という「定義」を挙げておくことにしよう。

 本書は、ソ連の建国や第二次大戦期の対独政策をプロローグとし、マーシャル・プランの提示に対するスターリンの反応からその叙述を始める。ソ連側の認識に従えば、トルーマン・ドクトリンはさして重要な転換点ではなく、マーシャル・プランこそが重要であった。このような従来の学説に対する様々な修正を迫る著者の姿勢が随所に垣間見えることは、本書の大きな特徴である。
 マーシャル・プランの提示とそれに対するスターリンの反応を分析する第一章以下、本書は全十章(+序章&終章)から構成されている。基本的には時系列に沿った記述であり、物語の終点は、1953年3月のスターリン死去後、ベリヤが排除された形で集団指導体制が確立する1953年7月に置かれている。その間、コミンフォルム創設、チトーとの対立、ベルリン封鎖、NATO成立、ソ連の核実験成功、中華人民共和国の成立、朝鮮戦争、対日講和といった様々な出来事があり、本書は東欧との関係を踏まえつつこれらの出来事をほぼ網羅的に検討している。

 網羅的な検討をした上での本書の結論は明快だ。それは、「安全保障が脅かされているというスターリンの認識こそ、冷戦を生みだした原因であった」(282頁)というものである。スターリンの認識は、一部の革命家によって樹立されたソ連体制と、そうであるがゆえの権力の本質的な脆弱性に由来していた。そして、スターリン及びソ連指導部にとっては、ソ連という国家と自らの権力を存続させることが目標となり、それが彼らに国内外で「安全保障が脅かされている」という感覚を過剰に持たせることとなり、陣営内における大規模な粛清と国際的な冷戦をもたらしたのであった。

<評価>

 従来の冷戦史研究を踏まえた上で、詳細に旧東側諸国の一次資料を渉猟して書かれた本書が、極めて重要な著作であることに異論は無いだろう。そうした資料的な新しさにとどまらず、「insecurity」という概念によってスターリン期のソ連を統合的に理解する視点を提示している点は、本書の大きな貢献である。
 また、冷戦の原因をソ連に帰すとともに、(二極構造下における安全保障のディレンマを強調するポスト修正主義研究と異なり)イデオロギー要因を強調する点は、ギャディスの『歴史としての冷戦』(原題:We Now Know: Rethinking Cold War History)に代表される「新正統主義」の冷戦史研究とも共通するものであるが、ギャディスの著作が「革命主義的なソ連」を強調しているのに対して、本書はより抑制的にソ連指導層の世界観とその対外政策との関係を論じている点でバランスが取れていると評価できるだろう。

 しかしながら、本書の分析に違和感がないわけではない。例えば、本書の大部分に膨大な注が付されているにも関わらず、「insecurity」という主張の核を裏づけるスターリンの認識に関する記述には、ほとんど注が付されていない点は気になるところである。全てを資料に語らせるような手法が全面的に正しいわけではなく、むしろ資料を読み込んだ上で、どのようにその資料を分析しストーリーを形成していくのかが研究者の腕の見せ所である。とはいえ、スターリンの認識は、本書の主張の核となる部分であり、さらにその点に説得力がある(いや、あり過ぎる)ために、そこに注が付されていないことは若干の問題なのかもしれない
 また、NATO成立や朝鮮戦争の開戦経緯、スターリン・ノートなど、本書は様々な箇所で従来の解釈とは異なる新たな視点を提示しているが、必ずしもその全てにおいて議論の進め方が説得的なわけではない。例えば、朝鮮戦争の場合、北朝鮮にスターリンがその許可を出す際に、著者はアチソン演説が重要だったわけではないと主張する(140頁)。それは、アメリカからの一連のシグナル以前に「スターリンは考えを変えはじめていた」からである(同上)。しかしながら、その後に続く説明は、スターリンが「毛沢東の敬意をつなげとめておくため」であったということだが(140-147頁)、アチソン演説が重要でなかったことを直接説明しているわけではない。著者自身が認める資料的な限界はあるにしても、新解釈を決定づける裏付けが弱い部分が、この朝鮮戦争開戦経緯以外にも散見される。
 
 最後に、著者独特の冷戦史理解について若干説明しておきたい。本書の結論は、上記のように極めて明快である。そしてその結論は、ニュアンスに違いはあるとはいえ冷戦の開始の責任をソ連に帰する点で、ギャディスに代表される「新正統主義」的な研究とほぼ同じである。
 しかしながら、本書からはギャディスに見られるような冷戦を「ロング・ピース」とする考え方は全く見られない。むしろ、スターリンの死の直前にソ連は弱体化していたとして、1953年初頭を、「もし独裁システムを永遠に葬り去るのにふさわしい戦争を行う適切な時機」だったと評価し、さらにその戦争は「クラウゼヴィッツが説明していたような実際の戦闘によるものではなく、中国の孫子が考えていた「戦闘を行わずして相手を屈服させる」ような計略をめぐらせるものだった」と失われた可能性を指摘している(243頁)。
 この文章に「冷戦」という言葉ではなく「独裁システム」を葬り去るとあることは示唆的である。チェコ出身の著者にとって、冷戦とは決して「ロング・ピース」ではなく、ソ連による東欧抑圧の歴史だったということなのだろう。冷戦をもたらしたのは、二極構造下の安全保障のディレンマではなく、ソビエト社会主義でありそれを体現したスターリンという個人であった。
 全体として冷静な筆致を貫く本書であるが、行間からは著者の冷戦を糾弾する「思い」のようなものが見え隠れしている。それゆえ、読者は本書から、(必ずしも著者の結論とうまく結びつかない)ソ連に必要以上に「insecurity」を感じさせたアメリカの政策を読み取ることが出来るし、その一方でそれを上回って冷戦開始に責任を持つスターリンという例外的な個人について考えさせられるだろう。この意味で、冷戦とは何だったのか、という邦題は適切であり、本書は冷戦史を考える必読文献であると評価できる。

at 15:59|PermalinkComments(0) 本の話 

2008年11月07日

新刊紹介サイト化。

今週は、木曜日が「月曜代講日」だったので、授業は水曜日の院ゼミ(後輩の研究発表)だけでした。アロンを読む課題がなく、また木曜二限の理論の勉強がないだけで、これだけ時間に余裕があるということは、やはり英語力がかなり不足している証拠なのだと思い、やや凹みました。

来週は自分が発表なので、何とか最後のスパートをかけて頑張りたいです。



最近、書評をあまりここに書いていないこともあり、何となく新刊紹介サイトのようになっている気がします。修業中の自分が必死に頑張っている間に、世の中ではどんどん本が出ていることに思わずため息をつきたくなることもありますが、純粋に本や研究を読むのは好きなので、やっぱり嬉しいという気持ちの方が大きいです。…本になるようなちゃんとした研究を出来る日がいつかちゃんと来るのでしょうか。

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注目の「書評本」が二冊同時に千倉書房から刊行されました。

どちらも手許に置いておきたくなる、実に上品な装丁です。もしかして、と思い奥付を見てみると同じ装丁家の手によるものでした。本は内容が一番重要ですが、それでもやはり文字や見た目も重要です。同じ博士論文ベースの学術書でも、出版社次第でスタイルは大きく違います。個人的には、昔から大きくは変わらぬクラシックなスタイルを守る東京大学出版会・名古屋大学出版会・創文社から出ている学術書が好きで、本棚の一角はこの三つの出版社から出ている博論ベースの研究書が占めています。博論ベースの研究書以上に、この二冊のように「読み物」としても楽しみたい本は装丁が重要なので、著者としても嬉しいのではないのかなと想像してしまいます。

閑話休題。左の本(『歴史としての現代日本 五百旗頭真書評集成』千倉書房)は、日本を代表する外交史家による書評集です。『毎日新聞』に掲載された書評を中心に百冊余りの本が取り上げられています。「歴史の中の日本」「20世紀を生きる人々」「変わりゆく戦後日本」「アメリカという例外国家」「不実の故郷 アジアを求めて」「世界認識のフロンティア」と題した各章に配された著者の書評の数々は、どれも短いながら読ませる味わい深い文章になっています。

そのラインナップが見事に今の自分の興味関心に合致するのは、著者の本や書評を読んできた証なのかもしれません。半分以上の本は自分も読んでいますし、このブログで取り上げた本もあるのですが、まだまだ読まなければいけない本がたくさんあるということに気がつかされます。ごく一部を除いて、約2000字の新聞書評がベースになっているので、こちらは一気に読むのではなく気が向いた時に各章毎に読み進めていこうと思います。

右の本(『表象の戦後人物誌』千倉書房)も、既発表の「書評」や「解説」を集めたものですが、こちらは一気に読み切りたい仕掛けがある一冊になっています。「人物」をキーワードに博覧強記の著者が書いてきた「解説」や「書評」を一気に読み切ることで、普通の通史からは漏れてしまう人々の息遣いや歴史の襞を感じることが出来るのではないでしょうか。

どちらの本も研究書ではないのですが、研究をする楽しみを再確認させてくれそうな本なので、読むのが今から楽しみです。

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上で紹介した二冊の本は「読み物」ですが、↑の『岸政権期の「アジア」外交 「対米自主」と「アジア主義」の逆説』(国際書院)は博士論文を基にした本格的な研究書です。60年代後半から70年代前半に生まれた若手の日本外交史家の著作が2000年代に入ってから相次いで出版されていますが、そこにまた一冊アジア外交の研究書が加わることになりました。私が知っているだけでも、まだ出版されていないアジア外交の博士論文がいくつもあることを考えると、この分野をこれから研究しようと思う大学院生は本当に大変だと思います。

本書の一部は『一橋法学』に論文として発表されているので、論文として読んだのですが、全体としてまとめた時にどういった議論になるのかがとても興味深いところです。自分の研究を考える際にも、これがもう少し大きい枠組みの中でどういった位置付けになるのかということが悩ましいものなので、少しでも示唆が得られると嬉しいです。

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最後は、ヨーロッパ関係の二冊。左の『戦後イギリス外交と対ヨーロッパ政策 「世界大国」の将来と地域統合の進展、1945ー1957年』(ミネルヴァ書房)は、戦間期から1960年代に至るイギリス外交について着実に研究を積み重ねてきた著者による待望の研究書です。これは生協に並んでいなかったので、先生の研究室にあったものをパラパラ眺めただけですが、今から読むのが非常に楽しみです。

日本の場合、刊行される外交史の研究書の多くは博士論文を基にしたものであり、必ずしも幅広い時代や隣接するテーマに深い理解があるものばかりではありません。しかし本書は、イギリス外交について時代やテーマを少しずつ変えながら幅広く研究を進めてきた著者による待望の一冊なので、どのように著者がこのテーマを意義付けているのかといったところも含めて読み込みたいと思います。

実は、二ヶ月前に「必読文献」として挙げた小川浩之先生の『イギリス帝国からヨーロッパ統合へ 戦後イギリス対外政策の転換とEEC加盟申請』(名古屋大学出版会)をまだ読めていないので、時系列を考えてこちらの本から読むことにしようと思います。といっても、まず自分の研究にひと区切りをつけなければいけないわけですが…。

右の『【原典】ヨーロッパ統合史 資料と解説』(名古屋大学出版会)は、四月に出た『ヨーロッパ統合史』の姉妹本です。ヨーロッパ統合の貴重な資料を日本語で、しかも解説付で読めるという貴重な本なのですが、いかんせん高いのでちょっと買うのを躊躇してしまいます(といっても結局買ってしまうわけですが…病気)。

そんなこんなで、読むのが楽しみな本が目白押しという嬉しい悲鳴の毎日です。

at 19:42|PermalinkComments(0) 本の話 

2008年11月02日

先週の授業(10月第5週)

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↑HMVに寄ったところ、たまたま並んでいるのを見て、ついカジヒデキのニュー・アルバムを買ってしまいました。DMCで使われている楽曲が違和感なくオリジナル・アルバムに入っているのには苦笑してしまいました。当たり前かもしれませんが、若杉公徳が「渋谷系」を茶化して書いた「甘い恋人」や「ラズベリー・キッス」の歌詞以上に他の曲が「オシャレ」なので、聴いているのがやや恥ずかしい感じです(といいつつ論文を書きながら聴いているわけですが…)。



研究の具体的な話やバイトの話をここに書けないためか、それ以外の読書がほとんど出来ていないためか、はたまた全然遊んでいないためか、最近はもっぱら授業の話ばかりを書いているような気がします。高校時代まで全く不真面目な学生だった自分がこうなるとは人生はよく分からないものです。

日本シリーズに自分の関心を集中したいのですが、夜に予定が色々入っているのであまり観ることが出来そうにないのが残念です。去年のこの時期は「幻の修士論文」執筆中だったのですが、中日優勝の瞬間は中日ファンの先輩と共にビールを飲みながら観ていました。今年はどうなることやら。



というわけで授業の話。

<水曜日>

3限:国際政治論特殊演習(院ゼミ)

今回のテキストは、Oran R. Young,“Aron and the Whale: A Jonah in Theory,”in Klaus Knorr and James N. Rosenau (eds.), Contending Appraches to International Politics, (Princeton, New Jersey: Princeton University Press, 1969)。

こういった本があるという存在を辛うじて知っているだけで、恥ずかしながら収録されている論文を読んだのは今回が初めてでしたが、イギリス的なクラシックなアプローチとアメリカ的な科学的アプローチの論争が全面に取り上げられている非常に重要な本であり(ネオネオ論争における、Neorealism and its Critics のようなものでしょうか)、ヤング以外の論文も今後読んでおかなければならなそうです。

ヤングの論文の要旨は極めて明快で、要はアロンの『平和と戦争(Paix et Guerre entre les nations)』は理論研究としては失敗である、というものです。もう少し詳しく言えば、『平和と戦争』は?演繹的理論としても、?経験的理論としても、?パラダイムの発展性という点からも失敗である、ということです。ヤングの議論についてはM1の後輩が作ってきたレジュメがうまくまとめてくれていたので、それに沿って簡単にこの後を補足しておくと、さらにヤングは?歴史的分析としても、?政治評論としてもアロンの議論には問題があると徹底的に批判をします。

授業では、さらに旧約聖書から取られたタイトルの意義や、理論とは何かといった点について議論を進めました。結局のところ、ヤングの批判はうなずける面が多いものの、そもそもヤングの想定する理論がどのようなものかといった点が明示されていないことから、突き詰めて考えてみると分からない点も多い、といったことが議論の落ち着きどころとなりました。

ヤングがアロンのスタイルを問題視しているだけで、具体的な議論の中身にはほとんど触れていないことから、今回はアロンの議論そのものについてはあまり議論にならず、なぜか話が知識社会学的な方向へと進んでいったのですが、それはそれで面白かったです。

来週&再来週は研究発表があり、その後は三田祭準備のため休講なので、しばらくアロンはお休みです。

<木曜日>

2限:Alternative Approaches to Japanese Foreign Policy

今回のテキストは、Janice Gross Stein and David A. Welch,“Rational and Psychological Approaches to the Study of International Conflict: Comparative Strengths and Weaknesses,”in N. Geva and A. Minttz (eds.), Decision-Making on War and Peace: The Cognitive-Rational Debate, (Boulder, CO: Lynne Rienner, 1997) でした。論文のタイトルにもあるとおり心理学的アプローチがテーマです。

プロスペクト理論などは多少聞いたことがありましたが、国際関係論における心理学的アプローチをしっかりと読むのは今回が初めてであり、色々と学ぶところが多かったです。心理学の専門用語が多く読むのには苦労しましたが、論旨は明快であり、このアプローチには何が出来て何が出来ないといったことも分かりやすく書かれていたので、初学者にとってはとてもいいテキストでした。

もっとも、この論文で対象となっているのは、国際紛争であり国際政治(国際関係)ではありません。戦後日本が国際紛争に主体として関与した経験がほぼないことを考えると、このアプローチを学ぶことで戦後日本外交をどのように理解することが出来るかはよく分からない点でしたし、理論的視座から日本外交を検討するという授業の目的を考えると、この論文を読む必要があったのかはいまいち分かりません。とはいえ、先生のもっとも得意としているのがこの心理学的アプローチなので、直接授業で色々と聞くことが出来たのはよかったです。

またこの論文では、このアプローチが個人と集団の間でどのように異なるのかといったことが書かれていなかったので、実際にどのように理論を適用していけばいいのかということはいまいちよく分かりませんでした。授業後に先生に質問をしたところ、「そこがなかなか難しい問題で、今は研究者によってアプローチはバラバラだ」と言われて多少は納得したのですが、そう考えると心理学的アプローチが果たして国際関係の理論と言えるのかという疑問が新たに浮かんできました。この話は難しいのでこれくらいで。

再来週にある次回が理論のお勉強の最終回です。

4限:国際政治論特殊演習(もう一つの院ゼミ)

院生の研究発表×2。片方の発表は、資料の使い方やテーマの背後にある国際政治の理解といったことで若干の議論になり、もう片方の発表では、テーマそのものが持つ難しさが議論になりました。人の発表にコメントをするのは出来ても、そのコメントがそのまま自分の研究にも当てはまることがあるというのが研究の難しいところだと改めて感じました。

<土曜日>

5限(?):プロジェクト科目(政治思想研究)

講師の先生の関係で、土曜日に授業がありました。今回は、梅田百合香「レオ・シュトラウスとホッブズ――近代、自然権、アメリカ」『思想』2008年10月号、がテキストとして指定されていました。ちょこちょこと調べてみたところ、今年の『思想』に他に2本の論文(「ホッブズの軍事論とリアリズム―戦争拒否の自由と国家防衛義務」「ホッブズの国際関係論――自然法と諸国民の法について」)が発表されていたので、それも読んでいったのですが、授業でもこれらの論文について言及されていたので読んで行ってよかったです。

例の如く内容については次回の討論を踏まえて書こうと思いますが、ここでも少しだけ。指定されていたテキスト及び他の2本の論文に共通して出てくるのが、「ホッブズ」と「ネオコン」です。各論文には、ホッブズ→シュトラウス→ネオコンといった一時期流行った議論に対するホッブズ研究者からの応答という「問題意識」もあるようです。

こういう「問題意識」の話から、授業後の懇親会で先生が、政治思想研究と国際関係研究を架橋する必要性、相互の歩み寄りの姿勢を説かれていたのがとても印象的でした。しかし、そういった問題意識があっても、なかなか国際関係論における議論の進展は思想研究者にまでは伝わっていないようで、その点が若干もどかしい点でもあります。ここで思い出すのが、ジョナサン・ハスラムによるE・H・カーの評伝にある一節です。

 もしも私[カー]が、学問的ディシプリンとしての国際政治学の定義を示せ、と言われたとしたら、私はそれを、政治哲学の国際関係への適用だと呼びたい気持ちに駆られる。それは、今まで主に歴史学の一部分として研究されてきたのであり、決して、政治科学の領域として研究されてきたのではなかった。
 しかしこの意味では、国際政治学とは、取りも直さず、生きた現実的対象に関わるものなのであって、もっぱら文献や記録の研究に専心するようなものでは決してない。(ジョナサン・ハスラム『誠実という悪徳――E・H・カー1892-1982』現代思潮新社、2007年、375頁)


このような出自を持つはずの国際政治学は、いつの間にかその出自を忘れてしまったのではないか。さらに言えば、国際政治学を生みだした側の政治哲学(ここで哲学という言葉を使うのが正しいのかは分かりませんが)の側は、国際政治学を自らの枠外にあるものとしてしまったのではないか。そんな感想を改めて持ちました。

もっとも、国際関係論の側では近年こうした問題意識が徐々に共有されてきており、本格的な研究書や概説書が刊行されるようになっています。政治思想と国際政治は、今の自分の研究の中では全く繋がっていないので、いずれは繋がった研究を出来るようになればいいなと思うのですが…。

at 13:52|PermalinkComments(3) ゼミ&大学院授業