2008年07月

2008年07月29日

服部龍二『広田弘毅 「悲劇の宰相」の実像』(中公新書)

試験が終わったのか、昨日までは中庭に溢れていた学生が急にいなくなった。

夏は大学に来るだけでもしんどいので、自宅の近くにある某大学の駒場キャンパスで勉強することも多い。昨年思った事だが、夏休みになっても駒場の図書館には人が結構来ているところはさすがだ。高校時代は部活ばかりで勉強など全然していなかった自分がそんなことを思うようになるのだから、人間変わるものだ。



残務処理。

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↑残り数章のところで放置していたものを読了。六月後半に読み始めたのだが、七月は忙しい毎日が続いたのですっかり止まっていたものだ。

当面、理論的なアプローチで研究をするつもりはないので、ただの「お勉強」だが、実際に勉強になった。最新の理論動向を踏まえた上で、過不足無く重要な議論を整理することにかけて著者は超一流だ(もっとも、専門的に理論を勉強している人からは異論があるかもしれないが)。レジーム論やグローバル・ガバナンスの議論は、自分の研究にも結構関係してくるところなので、全編に渡って示唆に富んでいた。

もっとも、こうやって勉強をすればするほど、自分は歴史的なアプローチの方が「身体に合う」のだということがよく分かってくる。歴史は概説書でも面白いが、理論の概説書は勉強にはなっても自分には面白くはない。歴史的なアプローチをしている研究者が見ても耐えうる実証をしている理論研究であれば面白いのだろうが、やはりそういう研究はほとんどない。アイケンベリーの研究などは、歴史と理論をうまく架橋しているのだろうが、それでも歴史を踏まえているだけであって細かい間違いは多い。まー、議論が面白ければそれでいいのであるが。

ここで理論の勉強はひと休み。次の「お勉強」は経済学の予定だが、こちらは春休みに手を付けて以来止まっているもの。国際政治理論とは比べ物にならないほど、精緻かつ細分化が進んでいる経済学なので、どこから手を付けるべきか迷うところだが、ここはまず標準的な教科書を読み込むところから始めることにしたい。



この本は、著者の先生に頂いたもの。忙しい立場になっても筆のスピードが落ちず、そしてそれぞれに着実に大量の史料を読み込む研究を発表し続けることは本当にすごいことだ。

読後の「食い足りない感」が強かった前著と比べると、メッセージ性、ストーリーの面白さが全然違う、というのが第一の印象。戦前は全くの素人なので、あまり専門的なことは言えないのだが、簡単に紹介しておきたい。

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服部龍二『広田弘毅 「悲劇の宰相」の実像』(中公新書、2008年)

 広田弘毅と聞いて多くの日本人が思い浮かべるのは、城山三郎の『落日燃ゆ』だろう。そこからイメージされる広田像は、何よりも東京裁判で文官として唯一絞首刑となった「悲劇の宰相」である。果たしてこの「悲劇の宰相」は、広田の実像であろうか。こう著者は問いかける。

 広田は、明治11年(1878年)に福岡に生まれた。福岡時代に受けた教育、そして福岡時代に培った人脈は広田を憂国の士とした。なぜ広田は政党政治に冷淡であったのか、また第一次外相期になぜ広田は日中提携を模索したのか。こうした広田の歩みを考える上で、福岡時代にまでさかのぼる玄洋社との関係が重要な手がかりを与えてくれる。玄洋社と広田の関係は、『落日燃ゆ』や広田弘毅伝記刊行会による『広田弘毅』では否定されていたものだが、著者は『玄洋』などの新資料を用いて丁寧にその関係を明らかにしている。

 玄洋社との関係だけでなく、各時代における広田の足跡を著者は徹底的に一次資料を渉猟して明らかにする。著者はこれまでに『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』(有斐閣、2001年)、『幣原喜重郎と二十世紀の日本 外交と民主主義』(有斐閣、2006年)などの著作を発表し、昭和戦前期の日本外交について着実な歴史研究を重ねてきており、本書もこれまでの著者の研究の延長上にある。とりわけ、前著『幣原喜重郎と二十世紀の日本』は昭和戦前期に活躍した外交指導者の評伝であり、本章と対を成している。前著は、膨大な一次資料に基づいて新たな幣原象を提示しようとした労作であるが、一方で著者の幣原評価が曖昧であった点に若干の消化不良感が残るものであった。それに対して本書の提示する広田評価は明確だ。政治指導者の“罪”とは何か。著者は、着実な実証に基づいて広田の“罪”を明らかにしている。

 苦学の末に外務省に入省した広田であったが、広田より6年年長に過ぎない幣原が、1915年には外務次官となり、その後駐米大使、外相とキャリアを重ねていく中で、広田は長く不遇の時代が続いた。政策的には幣原ら外務省内の主流派に近かったにも関わらず、広田は主流派とはむしろ距離を置いていた。
 こうした不遇にあった広田であったが、政論を好み、すでに1920年代から「政治家の風格」を持っていた。その後、駐オランダ公使、駐ソ大使として活躍を重ねていく中で、広田は徐々に外相の有力候補として挙げられるようになっていった。広田が外相の有力候補として目されるようになったのは、幣原ら1920年代の外務省主流派と距離を置いていたからであった。時代の雰囲気が、幣原ら親欧米派に厳しくなる中で、元来「憂国の士」であり大陸にも関心を持っていた広田は新たな外交指導者として期待されたのだ。さらに、政党政治に冷淡な広田の性格も満州事変後の雰囲気に合った。このように描かれる広田の外相就任までの軌跡は、なぜ広田が1930年代を代表する外交指導者となったのかを考える上で、非常に説得的であろう。

 こうして第2章までに描かれる外相就任までの経緯を踏まえて、以下第3章で第一次外相期、第4章で首相時代、第5章で第二次外相期がそれぞれ検討されている。さらに、第6章では一重臣としての戦時中の広田、そして第7章では東京裁判が描かれる。第3章から第5章の各章が取り上げている時期については、これまでにもいくつかの研究で検討されてきたものであり、本書の主張と重なるものもあるが、本書では一貫して広田を通してこの時代も見ており、その分広田の“罪”がより明確である。
 第一次外相期の「天羽声明」や華北分離工作、首相時代の軍備大臣現役武官制」、そして第二次外相期の「国民政府を対手とせず」にしても、広田は概して部下を掌握いきれず、そして軍部に対する抵抗姿勢が弱かった。東京裁判で広田は「積極的な追随者」の烙印を押されるが、こう言われても仕方がない側面がその外交指導には見られたと言えよう。この点で、近衛文麿とともに広田の“罪”は大きい。

 広田の具体的な外交観がもっぱら第一次外相期に書かれた「日本外交の基礎」(『中央公論』1934年1月号)に拠っている点や、外相就任の経緯が詳らかになっていない点などやや不満が残る箇所もあるが、本書の叙述は全体として、日記などの私文書がなく聞き書等も重要なものは東京裁判資料に限られるという根本資料の不在を感じさせない深さがある。
 本書は「悲劇の宰相」の実像を描き出すとともに、1930年代という時代を考える上でも重要である。文章も読みやすく、また物語としても面白い優れた外交評伝の誕生を喜びたい。

at 13:50|PermalinkComments(0)本の話 

2008年07月28日

ばてているような、ばてていないような。

毎年のことながら、梅雨明け後の猛烈な暑さにやられている。

食欲が無くなり、眠りが浅くなる。食欲と睡眠欲を直撃されるのがしんどい。といって、例年ほどの辛さではないような気もする。ばてているような、ばてていないような、よく分からない感じだ。体重が下がり始めたらいよいよ黄信号なので、無理してでもちゃんと食べていこうと思う。

先週で、授業&バイトがひと区切りついたので、ようやく自分の研究と試験勉強に専念できるようになった。もっとも、山積する文献達を片づけていく必要もあるので、七月一杯は残務処理に追われる日々になりそうだ。



研究の話ばかりだと飽きるので、小説の話を少しだけ。

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昔は壮大な物語や、大河小説のようなものが好きだったのだが、最近は何気ない日常を描いている保坂和志の小説をよく読むようになった。何でだろうな~、と漠然と考えていた時にふと思ったのが、今の自分の生活との関係だ。

最近よく読むのは研究書や学術論文、それに外交文書。どれも、一つ一つの文章にどれだけ濃密な意味を盛り込むかが問われるものだ。研究書と学術論文は、全体の流れ、細部の実証などがよく練り込まれている(練り込まれていないものもある)。外交文書などの公文書は、当然のことながら仕事のための文書であり、一つ一つの文章に意味がない文書には意味がない。そんな情報過多な文章からの逃避の結果として、何気ない日常を描いた小説が心地いいのかもしれない。

そんなことを言っていても、徹底的に作り込まれた三島由紀夫の小説などをそのうち読みたくなるような気もするから、人間の心はよく分からない。



週末は研究会に参加してきた。

前半は、環境史のアプローチを切り口とした70年代の日本外交史研究の発表だった。前回のトランス・ナショナル・ヒストリーを謳った発表、そして今回の環境史とくると、やはり従来型の外交史研究には限界があるのだろうか、と考えてしまう。もっとも、今回の発表は対象が「環境」に関するものであったが、分析手法等は従来型の外交史であった。いずれにしても完成した論文を読むのが楽しみだ。

後半は、1970年代を中心としたアメリカにおける文書公開状況について。各国の史料館の状況については、四月に他の研究会でも紹介があったし、沖縄公文書館のアーキビストである仲本和彦氏による『研究者のためのアメリカ国立公文書館徹底ガイド』が発売されるなど、このところ研究者の卵の卵である自分にとって非常に助かる情報を得る機会が増えている。

それにつけても、アメリカの資料公開の充実ぶりと我が国の貧弱さを比べると嘆息してしまう。



先週提出したレポートの話。

今期最後の課題は、国際政治論特殊研究(公刊外交文書読解)のレポートだ。

提示されたテーマは「デタントとは何だったのか」とかなり大きなもので、これをどう料理するかが腕の見せ所だ。色々と考えた結果として結局普段漠然と考えている冷戦史全体に関係するような大きな話をまとめてみつつ、デタントを考えてみようということにした。

そんな大それたことをやろうとした当然の結果として、論旨がうまくまとまらないまま終わってしまった。

・「デタント」は冷戦構造を前提としている
→冷戦という対立構造下での緊張緩和。

・「デタント」をどのように評価するかは、冷戦の終結をどのように考えるかによって変わってくる
→例えば冷戦終結を、米の封じ込め政策の「勝利」と考えれば、デタントは「軍事対立ではない手段による冷戦政策」と考えられるし、冷戦終結を米ソ和解によると考えれば、デタントは「緊張緩和の重要なステップ」となる。とはいえ、「冷戦の終わりかた」はドイツ問題をめぐる米ソの和解のすぐ後に、ソ連が崩壊したこと、また湾岸戦争によって複雑なものとなり評価が非常に難しい。

・さらに「冷戦終結」を考えるには、「冷戦」そのものの定義は考え直す必要がある。
→永井陽之助や高坂正堯が70年代に冷戦が「終わった」と考えたことをど評価すべきか。

こんなことを色々と考えてみたものの、いまいちまとまらない。デタントや冷戦終結と比べれば、冷戦の発生は比較的分かりやすい構図を描くことが出来るのだな、と改めて痛感した。

この話は消化不良気味なので、ちょっと長いスパンでじっくり考えることにしたい。

at 12:26|PermalinkComments(0)日々の戯れ言 

2008年07月24日

こんな論文見つけた。

前々から噂にしていた、ある「学術」論文の末尾に付された文章を見つけた。

 本稿をお読み下さった方々はお解り下さると思うが、拙稿は筆者が学生時代から今日まで自分の価値観に基づく意志あるいは研究の必要上、読んできたプラトン以来の政治哲学の古典的名著、そして政治哲学に関する数多の研究書の中に盛り込まれている諸々の思想原理から成り立っている。そしてこれらは、筆者のオリジナルな思想原理ではないにしても、筆者の思考枠組みの中で既に骨肉化してしまっている。それ故、筆者は本稿を作成するにあたり、いちいち引用文献の註は附さないことにした。それにもかかわらず、本稿を作成するにあたり筆者が刺激を受けた文献資料と著者に敬意を表すべく左に記しておきたい。(『近代国家の再検討』慶應義塾大学出版会、1998年、29頁)

うーん。



先週木曜のプロジェクト科目(政治思想研究)は発表担当だった。

前回の授業の報告「「ウェストファリア・システム」という神話」を受けての討論ということだったので、関係する文献を色々読んでコメントを考えていったのだが、結果的には「空振り」でした。

先生の根底にあると思われる問題意識(=近代国際法批判)に引きつけつつ、その研究が具体的にどのような形で近代国際法批判に繋がるのか、もしくは繋がらないのかということについて論じてみたのだが、やはり求められたのはもう少し内在的に研究を検討することにあったようだ。といったところで、そんなことは国際法史もドイツ国制史も政治思想史もド素人の自分には出来ないじゃないか! と思わなくもないのだが…。

授業における議論の中で友人が指摘していた研究の問題点は、「de jure」と「de facto」の問題が研究の中でしっかりと位置づけられていないということで、これが非常に的確な批判で納得させられた。

先生の議論に従えば、近代国際法が成立したのは19世紀以降ということになる。そうであれば、研究で取り上げられている17世紀~18世紀の「国際法」は、いわゆる近代国際法ではなく、それ以前の「慣習」とでも言いうるものである。にもかかわらず、先生の議論は19世紀的な国際法が17世紀~18世紀には存在していない、ということの指摘に終始しているのだ。加えて、分析の際にも「国際法的なるもの」と「国際政治的なるもの」の峻別が明確に行われていない。

こうした点は、つまるところ先生の考える「国際法とは何か」という問題に帰着する。なぜ近代国際法以前の時代と考える17~18世紀を対象にしているにもかかわらず、「国際法」研究にこだわっているのだろうか。

そんなところが議論で出た重要な点だろうか。

ちなみに自分が出したコメントの骨子は、先生の議論は現代の国際法体系を問い直すことに直接繋がるのではなく、近代国際法体系成立を考えるための前提の提供になるのではないか、ということだ。

やや発表は不本意だったが、普段あまり考えることがない問題を考えるいい機会だった。

at 11:59|PermalinkComments(2)日々の戯れ言 

2008年07月23日

気が付けば前期終了。

課題やらバイトやら何やらであっという間に一週間が過ぎてしまった。

前期最後の課題は一昨日夜提出したので、昨日から夏休みのはずなのだが、昨日はバイト&家庭教師、今日はバイトでかなりの時間が潰れてしまった。ともあれ、充実した夏になるように気合いを入れ直して頑張りたい。



忘れないうちに(というか書く気がなくなる前に)色々と書いておきたいのだが、今日は疲れているので出した課題を基にした書評だけ。本当は細かいところで色々と文句があるのだが、課題の性格上やや甘めになっている。

ちなみに、この本は邦訳が近々出るらしいですね。というわけで、わざわざ苦労して英語で読む必要はないと思います。

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Richard J. Samuels, Securing Japan: Tokyo’s Grand Strategy and Future of East Asia (Ithaca: Cornell University Press, 2007)

 近年、中国の急速な台頭が叫ばれ、それと対応する形で日本への関心低下が言われる。しかしその一方で、冷戦後日本の外交及び安全保障を取り上げた本格的な著作が次々と刊行されていることは、それなりに日本への関心が残っているということなのかもしれない。とりわけ昨年(2007年)は、アメリカを代表する日本研究者であるケネス・パイルとリチャード・サミュエルズの著作が相次いで刊行され話題となった。冷戦後の日本について対照的な結論を導き出している両著作は、冷戦後の日本を考える上で重要な文献として今後広く読まれていくだろう。ここでは、サミュエルズの著作を取り上げて紹介をする。

 序章で提示されている本書の目的は、?日本の安全保障政策を歴史的に理解すれば基本的に合理的なものであったことを明らかにすること、?日本の戦略家がどのような政策オプションを探し求めているかを明らかにすること、の二点である(p.8)。サミュエルズは、通説的に言われる、日本に「戦略的思考が存在しない」というのは誤りである、と強く主張する。
 このような目的を提示した上で、本書は三部構成で議論を進める。第1部「歴史的文脈(Historical Context)」では、明治維新から冷戦終結までの「大戦略(Grand Strategy)」を論じている。明治維新以来、日本には様々な戦略をめぐるコンセンサスが存在してきた。第一は、明治政府の「富国強兵」であり、第二は、1930年代の「(東亜)新秩序」であり、第三は、戦後日本の「吉田ドクトリン」である。「吉田ドクトリン」は、「重商主義的現実主義者(mercantile realist)」である吉田茂とその後継者たちが自由主義的国際主義と国益を守るための現実主義を結合させたものだったとサミュエルズは論じる(p.58)。
 このような歴史的文脈を踏まえ、続く第2部「激動の世界(A World in Flux)」では、冷戦後の日本をめぐる国内外の変化について、そして第3部「脅威と対応(Threats and Responses)」では、冷戦後の脅威と日本の対応に焦点を絞ってその変化を分析している。第二部と第三部で展開される議論の前提となるのは、日本にとって第三のコンセンサスであった「吉田ドクトリン」が、冷戦後に徐々に変化し第四のコンセンサスが生まれつつある、というサミュエルズの現状認識である。

 各章の概要については、既に道下徳成の書評(『国際安全保障』第36巻第1号、2008年6月、219-226頁)で詳しく紹介されているので割愛し、ここでは本書の結論を紹介した上でその評価及び結論に至るまでの議論の問題点を述べることにしたい。
 第2部と第3部における議論の揺れを反映するかのように(これについては後述する)、本書の結論もやや曖昧なものとなっている(pp.207-209)。サミュエルズは、現在は「大戦略」を模索している時期だとする。吉田ドクトリンはまだ代替されていないが、修正主義者の影響によってその性格は変化しつつある。その変化の結果としての第四のコンセンサスとなるだろうとサミュエルズが考えるのが、「ゴルディロックス・コンセンサス(Goldilocks consensus)」である。それは、強すぎず弱すぎず、アジア偏重でも欧米偏重でもなく(is not too hard but not too soft, not too Asian and not too Western)、それがうまく成功すれば国力の増進と自律をうまくバランスさせ、新たな安全保障上のオプションは作り出すことが出来るようになるものだという(p.9)。

 この結論は、日本の外交及び安全保障政策をめぐる言説を分析した第5章の結論と符合するものである。第5章では日本の論者を、?普通の国論者(Normal Nation-alist)、?ミドルパワー国際主義者(Middle Power Internationalist)、?新自主主義者(Neoautonomist)、?平和主義者(Pacifist)に分けて分析し、新自主主義者を中核とする修正主義者が「吉田ドクトリン」を侵食していくだろうが、結局のところ日本はミドルパワー国際主義者の道を歩むであろうと論じている。
 しかしながら、第2部及び第3部で全般的に指摘されているのは日本の変化である。サミュエルズは、海外への自衛隊派遣やミサイル防衛での日米協力、さらには有事法制の整備といった点を修正主義者の言説と重ね合わせて日本の自律性への欲求の高まりと解釈し、やや警告主義的なトーンで論じている(なお、こうしたサミュエルズの日本の軍事力に対する考えは今年になって発表された論考にも表れている。Richard J. Samuels, “New Fighting Power!” Japan’s Growing Capabilities and East Asian Security.” International Security Vol.32, No.3 (2008))。こうした各章で展開される議論から、なぜ上記の結論に至るのかが本書の記述からは明らかにならない。執筆過程で考え方が徐々に変化していったとも考えられるが、やはり本論と結論における議論のトーンの違いには何らかの説明が必要だろう。これが本書の第一の問題点である。

 本書の第二の問題点は、方法論的な問題である。ピーター・カッツェンシュタインも指摘しているように、本書は特定の理論や方法論を用いるのではなく総合的(synthetic)かつ折衷的(eclectic)な方法で分析を行っている(Peter J. Katzenstein, Rethinking Japanese Security :Internal and External Dimensions, (London : Routledge, 2008), p.5.)。カッツェンシュタイン及び道下はこの点を高く評価しているが、この点は若干疑問が残る。
 確かに本書が特定の理論や方法論だけではなく、さまざまな方法論を用いているのは確かである。国内外の様々な要因を検討し、その過程で行われる制度論的な分析には興味深い点も存在する。例えば、吉田ドクトリン定着に際して内閣法制局と防衛庁内局に注目している点などは、それだけでは問題があるにしても興味深い指摘だろう。とはいえ、本書を通読すればその分析の多くが言説分析に拠っていることは明らかである。国内で様々な政策論争が行われ、それが一つのコンセンサスに収斂していく。そしてそのコンセンサスが揺らぐような状況の変化を受けて、再度政策論争が行われ、それが一つのコンセンサスに収斂していく。サミュエルズの議論は、基本的にこうしたパターンの繰り返しである。しかしながら、こうした議論の枠組みが明示されることはなく、言説分析の合間に制度論的な分析や事実関係の叙述が差し込まれていく。この結果として、本書の議論からは「なぜそのコンセンサスに収斂したのか」がなかなか見えてこない。これは、第三のコンセンサスである吉田ドクトリンについても、第四のコンセンサスになるであろうとサミュエルズが言う「ゴルディロックス・コンセンサス」についても言えることである。また、言説に着目した時にどうしても目立つのが修正主義的な論考である。果たしてそうした議論はどれほど実際の政策に影響を与えているのだろうか。日本の状況は、政策を巡るディスカッションが政治任用制の下に研究者が政権に入って影響を与えるアメリカとは異なる。
 また、いくつかの用語が定義が曖昧なままに用いられている点も気になった。「大戦略」とは何だろうか。また本書の副題にある「Tokyo’s」という言葉は本書が日本政府を対象としていることを指しているのだろうか(本書の記述を読む限りではそうは読めない)。また「ゴルディロックス・コンセンサス」は何か他の用語との関連での定義が必要だったのではないだろうか。

 第三に指摘したい点は、現実の安全保障に関するサミュエルズの理解の不足である。まず、北東アジアの現在の状況を安全保障のジレンマの発生と捉えるサミュエルズの見方は、道下徳成が批判しているとおり、実態とは乖離しているものと言わざるを得ない。さらに、(なぜか結論には反映されていないが)本書に散見される、冷戦後の日本の安全保障政策を自律性の追求の現れとして捉える見方にも疑問符が付く。サミュエルズは、日米同盟において「相互運用性」「能力の共用」が強く主張され、実態としてもそれが進んでいる点を認識しながら、自衛隊が海外に展開されるようになったことのみを重視し、それを自律性の追求の表れとしている。実態としては、自衛隊は米軍との一体化がさらに強まりつつあるとは言えるが、自律性が高まったとは言えないだろう。こうした安全保障に対する理解の不足は、有事法制をも自律性の高まりとして捉える点にも現れている。

 1990年代から相次ぐ北朝鮮の核危機や、中国の台頭、そして9.11テロ後の緊迫した国際情勢を受けた日本の外交・安全保障政策の積極的な対応を受けて、中韓両国のみならず英米で発表される近年の日本研究には、警告主義的なものが多いように思われる。既に指摘したような問題点があり、本論には警告主義的なトーンが見られるものの、本書の結論そのものは広く受け入れられうる穏当なものであるし、第5章の言説分析は非常に示唆に富んだものである。
 今年に入り、本書とパイルの著作に関する合評会に関する論考がAsia Policy誌に掲載され、カッツェンシュタインの新著(論文集)が刊行されるなど、日本をめぐる議論はさらに活況を呈しているようである。こうした海外での活発な議論を踏まえて、我々日本人がいかに発言するかが問われているのかもしれない。

at 19:33|PermalinkComments(0)本の話 

2008年07月15日

暑いですね。

有言実行が大切と思い久しぶりに家の周りを走ってみたところ、思いのほか気分がよかった。

家から山手通りに出て、そこを東大沿いにちょっと遠回りをしつつぐるっと周り、線路を越えてから今度はちょっと迂回して淡島通りに出てあとはひたすら家を目指す、というのがいつものパターン。約4.5キロあるのだが、途中で踏切が一か所ある以外は信号がないというのがこのコースのいいところだ。

久しぶりだったのでゆっくり走ったが、やはり運動してかく汗はいい。帰宅してシャワーを浴びて飲むビールは旨い。夏バテになると食欲が湧かないのだが、運動すると不思議と食欲が湧いてくる。



自分の勉強スタイルの悪い癖なのだが、授業の発表やレポートとなると全然集中力が続かなくなる。本や論文はいつもの通り一気に読むのだが、どうもギリギリにならないとパソコンに向かう気がしないのだ。

今学期は課題はそれほど多くなく、先週末の時点で残る課題はレポート×2と報告×1だけ。何とかひとつのレポートは終わらせたのだが、そこからがなかなか集中出来ない。課題のために文献を読んでいると、ついつい隣接する研究が気になってしまう。

そんなわけで昨日今日と無駄に図書館でコピーをしているような気がしてならない。バイトに追われた先週と違い、今週は金曜日にあるだけなのでそれがいけないのだろうか。別にサボっているわけではないのだが、無駄に色々なものを読んでいると生産性が落ちるような気がしてちょっと不安になる。



休憩をかねて読んだ本について。書評形式ではなく、ざっくばらんに思いついたことを簡単に。

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保阪正康、広瀬順晧『昭和史の一級史料を読む』(平凡社新書)

 新刊として五月に書店で並んでいた時は手に取らなかったのだが、後輩や先輩がいい本だと言っていたので読んでみた。「昭和史」「対談」「新書」と並ぶと、昨今流行りのお手軽で中身がほとんどない本かな、という先入観を持ってしまうのだが、評判通り思いのほかいい本だった。

 ポイントは議論の質の高さにあるのではない。戦後について言及している部分については「あれれ」と思う箇所もあるので、おそらく戦前を専門にしている人にとっては本書全体について色々と注文を付けたくなるのだとも思う。

 本書の読み応えは、何と言っても「史料」を前面に据えての対談になっているところにある。昭和史に関するノンフィクション作品で知られる保阪正康、そして国会図書館憲政資料室に長年勤務し、現在は大学教授を務める広瀬順晧というほぼ同世代の二人の対談が見事にかみ合っている。出来るならば、アカデミックなトレーニングを受けた歴史家がここに入っているとよかったのだが、それは望み過ぎというものだろう。

 昭和史に関する基本史料がどのようなものか、それがどういった経緯で「発掘」されてきたのか、そしてそれらを相互に照らし合わせると何が見えてくるのか。こういったことが順序良く整理されているので、初学者から駆け出しの大学院生まで参考になる点が色々とあるのだろう。

 もっとも、本書の議論は基本的に昭和戦前期のみに当てはまる議論だとも感じる。他の国と比べると量と質も落ちるとはいえ、戦後についてはかなりの程度の公文書が存在するし、昭和戦前期のような「危機」が連続する時代ではないことを考えると、やはり戦後は戦後で異なった史料の取扱い方があるのだろう。

at 16:58|PermalinkComments(2)本の話 

2008年07月13日

先週の授業(7月第2週)。

暑い。

この言葉を発すると余計暑くなると分かっているのだけれど、暑い。今日の気温は32度くらいあるらしい。加えてこの湿度の高さにやられて本当にきつい。大学に来るまでで一番辛いのは、田町駅を出てから階段を降りるまでのところだ。毎日毎日、改札を出ると一瞬帰りたくなるのは自分だけではないはずだ。

そんな暑さに打ち勝つべく、また走り込みorプール通いを始めたい。…と思うのだが実行できるかどうか。



昨日の予告通り、先週の授業(7月第2週)について。

<水曜日>

3限:国際政治論特殊研究

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師匠の授業(国際政治論特殊研究)は今回が最終回ということで、最後の三章(Part?InterventionからChapter10 Intervention in Liberal International TheoryとChapter11 Humanitarian Intervention in the 1990s、そしてEpilogue)を一気に取り上げた。

Part?は、前回の授業で取り上げたChapter9で提起された問題を引き継いで介入について論じている。権威主義体制から民主主義体制へと転換する際に被害者が出た場合、国際社会は被害者のために何が出来るのだろうか。

Chapter10では、理論的な観点から介入論を取り上げ、各主権国家の政治的意思と介入論がぶつかった際に生じる様々な困難が指摘される。Chapter11では、より具体的に1990年代の人道的介入の事例を取り上げている。ここでも著者が重視するのは政治的意思である。目的と手段、適法性と実効性の面から介入について検討した結果として、著者はその困難を強く指摘する。

Epilogueは、本書全体を振り返ってのまとめだ。ここまでの各章の紹介からも分かるように、著者の議論は直ちに適応可能な何らかの処方箋を提示するものではない。このEpilogueで本書の枠組み(法・外交・勢力均衡などの制度の観点から国際関係を検討)が提示されることにも象徴されているように、本書のスタイルは(著者自身が言うように)オールド・ファッションなものだ。

本書全体を通して重要だった概念は、多元主義(pluralism)と連帯主義(solidarism)であろう。しかし、一番最後になってまた英国学派お馴染みの三類型(Revolutionalism[Revolutionary], Realism[Realist], Rationalism[Liberal Rationalist])が再び登場する。これまでの議論から容易に想像出来るように、著者が最終的な結論として提示するのはRealismである。しかし、そのRealismは北米系の国際政治理論のそれとは若干異なるものだ。ここでのRealismは道徳的観点を含むものであり、あくまでRevolutionalismとRationalismと比較検討の上でのRealismを著者は説く。

こうした著者のやや曖昧に見える結論には、当然その実行可能性や現実的な意義を問う声が上がるだろう。しかし本書の目的は政策的な処方箋の提示には無い。それは、処方箋を考える前提としての知的枠組みの提示にあるのだろう。

この本は改めて読み返してここで紹介したいのでここまで。ともあれ、じっくり読んで味わいのある興味深い本であり、半年間の授業はとても楽しかった。

<木曜日>

4限の国際政治論特殊研究は、院生の研究報告だったので割愛。

5限:プロジェクト科目(政治思想研究)

プロジェクト科目(政治思想研究)は、来週ディスカッサントなので気合いを入れて課題文献に加えていくつか論文に目を通していったところ、日本語とはいえ専門外の論文20本近く読む羽目になり、時間を作るのに苦労したが、その分講義をじっくり楽しむことができた。

テーマは「『ウェストファリア・システム』という名の神話」、講師は法律学科の先生だ。

この壮大なテーマのかなりの部分について、すでに研究を終えているのだから圧倒される。今回の発表に直接関係する先生の論考を新しい順に並べたのが↓。これに加えて、外国語で発表されている論文が数本あるのだからすごいものだ。

?「国際法学説における「ウェストファリア神話」の形成 一七世紀後半から一九世紀の「国際法」関連文献の検討を通じて(1)(2)(3・完)」『法学研究』(第80巻第6号~第8号、2007年)
?「「ハンザ」と近代国際法の交錯 一七世紀以降の欧州「国際」関係の実相(1)(2・完)」『法学研究』(第79巻第4号~第5号、2006年)
?「ジャン=ジャック・ルソーによる「国際法」理論構築の試みとその挫折 啓蒙期国際法理論研究の手掛かりとして(1)(2)(3)(4・完)」『法学研究』(第77巻第8号~第11号、2004年)
?「国際法学における実証主義の史的系譜 18世紀における「実証主義的」著作の検討を中心として」『世界法年報』(第22号、2003年)
?「ウェストファリア条約研究の現在 国際法史研究の一側面」『法学研究』(第75巻第2号、2002年)
?「欧州近代国家系形成期の多数国間条約における 「勢力均衡」 概念」『法学研究』(第71巻第7号、1998年)
?「ウェストファリア条約の研究 近代国家・近代国家系成立過程の検証(1)(2)(3)(4)(5)(6・完)」『法と行政』(第3巻第1号~第6巻第2号)

従来の国際法・国際政治学の前提を問い直す壮大な試みである。講義は、先生の研究来歴や問題関心、さらには今後の研究課題を提示した上で行われた総括的なものだった。これまでの論考に支えられ、細かい条文解釈などをエピソード的に交えての話だったので、議論は非常に説得的なものだった。

細かい話は来週の議論を踏まえて行うとして、雑駁な印象だけ簡単に。

世界最高水準を想定した研究、関連する研究の幅広さ、実証面でのこだわり、そのどれをとっても超一流の研究であり、授業でこうした話を聞けるのは本当に贅沢なことだ。ひとつひとつの論文だけを読んでいては見えてこない、その壮大な試みの「全体像」のようなものを著者自身に語ってもらえるというのはそうそうあることではない。

もっとも、この議論はあくまで従来の国際法理解・国際政治理解というテーゼがあってのアンチテーゼであり、ジンテーゼではない。また、仮に「ウェストワリア・システム」が神話だったとして、その神話に乗った上で19世紀以降の国際政治・国際法の展開があったことも確かである。そこに、この神話がどのように影響を与えたのか、また与えていないのかも一つの問題だろう。

そんなことを漠然と考えつつ来週の議論を考えているのだが、なかなか議論のポイントを作るのが大変だ。国際法史を知っているわけでも、ドイツ国制史を知っているわけでもない自分がどんな議論を展開できるのだろうか。かといって、単に国際政治理論に引きつけて話をしてもあまり面白くなりそうにはない。そんなわけで苦悩する週末。

先週に続いて今週もまたウェストファリア漬けの毎日になりそうだ。

at 18:10|PermalinkComments(0)ゼミ&大学院授業 

2008年07月12日

Marc Trachtenberg, A Constructed Peace: The Making of the European Settlement 1945-1963

仕事をしている友人達と比べれば何ということもないのだろうが、それなりにこの一週間は多忙だった。

先週末は、読書会で洋書一冊&英語論文二本を取り上げて議論。その後、懇親会と飲み会を梯子した。日曜日以降は、フルタイムのバイト×3、家庭教師×2があり、しかもバイトは朝から晩までほとんど休憩なしで働き続けて多少サービス残業だった。それに加えて授業が三つ。授業の話はまた明日改めて書くことにしようと思う。

ともあれ、そんなこんなで忙しい一週間を送っていたので、ここに書きたいことが色々と溜まってしまっている。ひとまず先週末の読書会について書いておきたい。まず書評形式で簡単にメインテキストを紹介しておこう。



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Marc Trachtenberg, A Constructed Peace: The Making of the European Settlement 1945-1963, ( Princeton : Princeton University Press, 1999 )

<はじめに>

 冷戦終結は、現実の国際政治のみならず外交史研究(国際関係史研究)にも大きな影響を与えた。その一つが、冷戦期の約40年間を振り返ってみた時に、それは「永い平和(The Long Peace)」だったのではないだろうか、という新たな見方である。ジョン・ルイス・ギャディスが「永い平和」という考え方を打ち出したのはいわゆる新冷戦の時代であるが、冷戦が終わり、結果として米ソ両国が戦火を交えることがなかったという事実、そして冷戦の主戦場であったヨーロッパで戦争が起こらなかったという事実を肯定的に評価する動きが広がっていったのである。
 本書は、こうした研究動向を意識しつつ、米英独の一次資料を用いて戦後ヨーロッパの国際関係を詳細に描き出した労作であり、新たな冷戦像を提示したことで広く話題となった著作である。副題にもあるとおり、本書が検討対象とする時期は1945年から1963年までと非常に幅が広い。ここではまず全体を通した本書の主張を簡単に紹介することにしたい。

<概要>

 冷戦期に、いかにして大国間の平和が成立したのか。このように「はじめに」で明らかにされる本書のテーマは極めて明快だ。そしてその際に著者が重視するのは、冷戦期における中心的な問題としての「ドイツ問題(the problem of German power)」である。ドイツをめぐる安全保障問題、さらに限定すれば核兵器をめぐる問題こそが安定的な国際システムを構築する上で最も重要な鍵となると著者は主張する。以上の分析視角に立って、本書は1945年から1963年までのヨーロッパ国際関係を描き出している。

 本書は三部構成となっている。第一部「ヨーロッパ分断(the Division of Europe)」では、大同盟がポーランド問題を発端として崩壊し、イランやトルコを巡る対立が冷戦へと繋がっていく様子がまず描きだされる。その際に重視されるのは、米ソの「勢力圏分割」が直ちに平和へと結びつかなかったということである。さらに、占領下のドイツを巡る四ヶ国の対立が、最終的に1949年の西ドイツ国家樹立に至る経緯が詳述され、さらにソ連の核実験成功によってアメリカの核独占が崩れる様子が紹介される。

 第二部「NATOシステム」は、NATOシステムの形成からアイゼンハワー政権の終わりまでを取り上げている。1950年代前半は、西ドイツの再軍備問題を巡って米欧関係が大いに緊張した時期である。アメリカの核独占の崩壊は、西側諸国に防衛政策の再編を迫ることになった。その際に浮上したのが西ドイツ再軍備問題であった。この問題については、これまでも様々な研究が行われてきたが、本書はEDC構想の挫折とその後の展開をフランスのマンデス・フランス首相の役割に注目して論じていること、またアイゼンハワー米大統領がヨーロッパから米軍を撤退させ、西ドイツを中心としたヨーロッパを「第三勢力(the Third Force)」とすることを企図していたことを強調していることに新しさがある。ヨーロッパを「第三勢力」とするためには、核兵器の問題を避けて通ることは出来ない。それゆえ著者はMC48の成立を重視するとともに、MLF(多角的核戦力)を巡る交渉を詳細に跡付けている。しかしながらMLFは、米国内の政策不統一、そして米仏の手法を巡る対立もあり頓挫することになる(MLFについては第三部でも取り上げられている)。

 第三部「冷戦という平和(the Cold War Peace)」は、第二次ベルリン危機の発生から、PTBTが調印されるまでを取り上げている。著者は、第二次ベルリン危機に際してソ連が重視していたのは、西ドイツの核兵器問題であったと指摘する。これに対して米英仏は極めて現状維持的な志向を持ち、さらに西ドイツは非核化に強硬に反対したことによって、1960年にいったん危機は落ち着く。
 しかし、ケネディ政権の登場によって状況は変わっていく。その言辞とは異なりケネディ政権は、対NATO政策において垂直的な関係を志向していた。ここに「第三勢力」構想は存在しない。ドゴール仏政権がアメリカと激しく対立する姿勢を見せたことによって、西ドイツは核問題についてもベルリン問題についてもより強硬な姿勢を見せるようになっていた。こうした状況は、キューバ危機とその後の米ソの妥協によって変化することになる。さらに仏独間のエリゼ条約締結、西ドイツ国内でのアデナウアー政権の凋落によって事態は一挙に解決へと向かっていく。ケネディ政権は、キューバ危機を経てより一般的な形で核不拡散問題を取り上げるようになっていた。米ソの姿勢変化、アデナウアー政権の凋落によって、西ドイツの核問題及びベルリン問題とリンクするPTBTが調印されることになるのである。

 こうして「1963年のとりあえずの和解(the Near-Settlement of 1963)」がなされ、「冷戦という政治システム(the Cold War Plitical System)」が成立したと本書は結論づけられる。それは最終的な解決ではなく、冷戦はその後も続いたわけだが、それでも西ドイツの核兵器問題は解決され、そしてベルリン危機はこれ以上起こらなかった。なぜなら、それは「1963年のとりあえずの和解」が関係各国にとって満足のいくものだったからであると著者は主張する。冷戦の最も重要な問題である「ドイツ問題」は、「核不拡散」という形で解決されそれが「冷戦という平和」をもたらしたのである。

<評価>

 米欧関係を一つの軸に戦後処理の歴史として冷戦を描き出した本書は、冷戦史研究に一石を投じる重要な著作である。アメリカ外交史として冷戦史を語る傾向が強いアメリカ人にあって、著者が例外的にヨーロッパの視点を重視し英独仏の一次資料を用いて研究を進めている姿勢は高く評価されるべきであろう。上記の内容紹介では大幅に割愛しているが、本書ではヨーロッパ国際関係についても幅広く叙述が行われている。EDC構想の挫折と、その後のNATO枠内での西ドイツ再軍備をめぐるマンデス・フランスの役割を分析した箇所などは興味深い視点を提示している。
 とはいえ、細谷雄一氏の書評ですでに指摘されているように、フランスに関しては圧倒的にジョルジュ・アンリ・ストゥーの研究に依存している点に見られるように、ヨーロッパ分析はやや中途半端と言わざるを得ない。本書は、ヨーロッパの視点を重視しつつもその中核的な問題であったヨーロッパ統合に関する分析をほとんど行われていない。また、英仏両国については要所要所でその見方が紹介されるが、結局それがどのように結果につながっているのかが明らかでないことの方が多い。言い換えれば、英仏両国についてはエピソードの域を出ていない部分が多いのである。
 資料についてもう一点指摘すれば、何よりソ連の見方や交渉姿勢をアメリカの外交文書から分析している点は大きな問題である。この点もすでにいくつかの書評で指摘されている点であるが、著者が研究を進めていた1990年代はソ連側の資料がかなりの程度まで開示されていた時期でもある。

 「西ドイツの核問題」こそが戦後ヨーロッパにおける中心的な争点だったと捉え、1963年に「冷戦という平和」が成立したという著者の主張は非常に斬新であり、本書の最も論争的な点である。従来の歴史理解に修正を迫る著者の意欲が伺われる。
 とはいえ、やはりこの点こそが本書の最も大きな問題点である。同盟形成の観点を重視し、東西両陣営の安定について考えれば、より重要な分水嶺は1963年ではなく、東西の分断が固定化された1955年であろう(冷戦の転機としての1955年については、石井修「冷戦の「五五年体制」」『国際政治』第100号、1992年、を参照)。問題の性質という点でも、1955年までが「同盟形成」であったのに対して、それ以降はむしろ「同盟内政治」の側面が強くなっているように思われる。
 また核兵器の問題に注目した場合にも、果たして1963年がどこまで重要だったのかは疑問である。その後、核不拡散条約(NPT)を巡る交渉の際にも、西ドイツの各問題は重要な要素であった。そのように考えれば、1963年は「ドイツ核問題の終わり」ではなく「核不拡散問題の始まり」の年として捉えるべきとも言えるのかもしれない。
 
 以上の二点を総合して考えれば、本書はその目的をより限定すべきであったと言えるのかもしれない。全体の枠組みについて言えば、アメリカの対ヨーロッパ政策に限定した形に設定し、その上で英仏独にも目を配るというスタンスを明示するべきであろう。アメリカの対ヨーロッパ政策に本書の目標を限定すれば、提示したかった議論を展開するために不必要と思われるほど多くの「エピソード」を盛り込む必要もない。
 また検討対象の時期についても再考する必要がある。本書の分析のオリジナリティー(そして実証的なレベルの高さ)はやはりアイゼンハワー政権期にあり、この時期をメインに据えればより議論も説得的になったのではないだろうか。



とまあ、こんな感じでやや批判的に読んだわけだが、読書会で取り上げるには論争的ななかなか面白い本だった。個人的に興味深かったのは、議論をしている中で徐々に見えてきた1955年とそれ以降の違いだ。つまり、1955年までが「同盟形成」であったのに対してそれ以降は「同盟内政治」、という構図だ。「同盟形成」の過程であれば、国力の劣るヨーロッパ諸国が対米政策において様々な役割を果たしうる。しかし、それが「同盟内政治」に変わった時、その役割は変わらざるを得ない。

もちろんそんなに全てを割り切れるわけではないが、これは日本に当てはめてみても言えることである。国際政治の中で日本を見た時の分水嶺となるのはおそらく1955年ではなく、安保改定を行った1960年である。この1960年以前とそれ以降の日米関係はおそらく質的に相当程度違うものである、ということを最近よく考えている。これは今すぐに研究出来るわけではないが、是非力を入れてやりたいことだ。

ちなみに今回のサブテキストは↓の二本。サブテキストとして読み解くのにぴったりの論文二本だった。

?Geir Lundestad, "Empire by Invitation? The United States and Western Europe, 1945-1952", Journal of Peace Research, vol.23, no.3, 1986.
?G. John Ikenberry, "Rethinking the Origins of American Hegemony" in G. John Ikenberry (eds.), Liberal Order and Imperial Ambition (Cambridge: Polity, 2006).

ちなみに読書会直前に出版された、倉科一希『アイゼンハワー政権と西ドイツ』(ミネルヴァ書房、2008年)は、トラクテンバーグの本を考える上で重要な本であり、時間を見つけてじっくり読みたい一冊だ。時間が無かったので読書会前にはパラパラとしか読めなかったのだが、序章の注33で今回の読書会で取り上げたメインテキスト&サブテキストを取り上げていたのは偶然なのか必然なのか…。

at 15:40|PermalinkComments(0)本の話 

2008年07月04日

MBFRの論じ方(試論)。

じわりじわりと暑くなってきた。早くも夏バテモードになっているのはさすがに早すぎるだろうか。



水曜日に、師匠が中心となって企画したG8に関するシンポジウムが一日あったた(よって今週の授業はなし)。一日中英語を聞き続けてとにかく疲れたが、こういう機会があると、英語を「勉強しなければ」という気持ちが、徐々に英語を「勉強したい」というように変わってくる。いくつか面白い話もあったが、全般的には現状分析に近い話/政策志向が強い話には今のところあまり自分の知的関心は向いていないようだ。

レセプションで後期にサバティカルで日本に来る先生に聞いたところ、日本の安全保障/外交政策についての授業(英語)が開講するようだ。日本専門家ではない安全保障専門家による授業なので非常に楽しみだ。そんなわけで、夏の課題として試験勉強に加えて「英会話」が急浮上。



木曜2限の国際政治論特殊研究は今回が最終回だった。

授業のコンセプトは「外交文書を使えるようにするための教習所」というものなので、外交史を専門にする大学院三年目の院生を対象としたものではないのだが、得られたものはとても大きかった。

一年目はDBPO(イギリスの対中政策[1945-1950])、二年目はFRUS(アメリカの対NATO政策[1958-1960])を取り上げてきた。今年は再びDBPOを取り上げたのだが、今回は1970年代のヨーロッパ・デタントというまだ研究がそれほど進んでいない時期の文書を読んだ。それもMBFR(Mutural Balanced Force Reduction:中欧相互兵力削減交渉)という一般的にそれほど知られていないテーマを取り上げたので、これまでの年以上にに議論が難しかったように思う。

また、文書がかなり「厳選」されているのも今回取り上げたDBPOの特徴だろう。一つ一つの文書が長く、1972年~1976年の5年間が範囲なのだが、計36個の文書しか収録されていない。全般的には、会議の報告や高レベルの会談録が多く、細かい交渉の機微などは読み取るのが難しい。これは、昨年取り上げたFRUSが、2年分だったにも関わらず100以上の文書を収録していたことと比べるとその差がよく分かる。

受講者のコメントの一つに「論文のように結論が無い文書を読むのは大変だった」というものがあったが、研究のために普段読んでいる外交文書は今回のDBPOとは比べられないくらいまとまっていない。そう考えると、これくらいまとまっている方が「教習所」のコンセプトには合うのかもしれない。

そんな授業のコンセプトとは別に、MBFRを扱ったことは自分にとって非常にありがたかった。授業でも無ければMBFRのように一般に「失敗」に終わったと言われる軍縮交渉に関する文書を読むことも無かっただろう。このDBPOを読んだことで、デタント期と言われる時代を考える色々な視点を得られたことも大きい。自分が研究している「1970年代」という時代はなかなか評価が難しい時代らしい。



以下は授業のために用意した討論のレジュメを若干の加筆修正したものだ。あまり出来は良くないし、まとまった議論でもなく、アイデアのみで書いたものだがとりあえず載せておくことにしたい。

やや論旨が曖昧だったため、あまり自分の言いたかったことが伝わらなかったような気もするが、要はイギリスを中心にMBFRを論じるのは難しいのではないか、ということだ。

MBFRを考えるならば、DBPOよりもFRUSを読んだ方が良かったのかも知れない。しかし、そういったことを文書を読んでいく過程でそれぞれが気が付き、FRUSを読んでみようと思う、ということに考えが及んでいくということが外交史を研究する者にとっては重要なのだろう。



テキスト:Documents on British Policy Overseas, Series?, Vol.? Detente in Europe, 1972-76
MBFR: The Vienna Negotiations, No.33-36.

MBFRの論じ方(試論)

1、はじめに

 ヘルシンキ宣言(1975年8月)という成果を生んだCSCEとは対照的に、1973年10月に本交渉が始まったMBFRは、大きな進展を見せることなく今回の範囲である1976年末を迎えた。本資料集の範囲外であるが、1979年にMBFR交渉は一旦ストップし、1986年に再開されるも成果を生むことなく、1989年に次なる軍縮交渉であるCFE交渉へと移行することとなった。
 このような後のMBFR交渉の経緯(+今回が最後の授業ということ)に鑑みて、ここでは、1976年9月~12月におけるイギリスのMBFR政策を取り出して論じるのではなく、より大きな文脈の中にイギリスのMBFR政策を位置付けて若干の考察を試みることにしたい。分析の視角を変えることによって、イギリスのMBFR政策をどのように国際政治史として考えることが出来るかを考えることがここでの課題である。

2、イギリスのMBFR政策を論じることの「困難」

 まず指摘しておきたいことは、イギリスのMBFR政策のみを取り出して論じることの「困難」である。この「困難」は、?MBFR交渉が最終的に妥結しなかったこと、?イギリスがMBFR交渉でそれほど役割を果たしていないと考えられること、の二点によるものである。妥結しない交渉において役割を果たさなかった国に焦点を当てることに、積極的な意義を見出すことは難しい。ちなみに、?はイギリスの問題であってMBFRの問題ではないが、?はMBFR交渉を論じる際に必ず付きまとう問題であり、これがイギリスのMBFR政策のみならずMBFRそのものが研究でほとんど注目されない大きな理由だろう。
 それでは、どのような視角を設定すればMBFR交渉(+イギリスのMBFR政策)を意義あるものとして論じることができるのであろうか。

3、MBFRの論じ方?軍備管理交渉史の中に位置付ける(タテに伸ばして考える)

 一番オーソドックスな方法は、時間軸をタテに伸ばして考えること―軍備管理交渉の歴史の中にMBFR交渉を置くこと―である。西側は戦後直後から、慢性的な通常兵力不足に悩まされていた。この通常兵力の不足を核戦力の優位によって西側は補っていたのである。東側にとっては、通常兵力削減は自陣営の優位を切り崩すものであったことから、東側は核軍縮を主張し通常兵力を対象とした軍縮には応じてこなかった。ソ連が交渉に応じることによって、こうした状況を変えたのがMBFRであった。このような歴史的な文脈を踏まえてMBFRを論じることによって、その意義と限界がどこにあったのかが明確になるだろう。
 単純に考えても、前後の時代と比較することによって、なぜイギリスがMBFR交渉でそれほど大きな役割を果たすことが出来なかったかが明らかになるだろう。1970年代と比較すれば戦後初期の方がイギリスの国際的な影響力が大きかったことは間違いない。そうであれば、アイゼンハワー政権期を中心に繰り広げられた軍備管理交渉と、MBFR交渉におけるイギリスの役割を比較することが出来れば、それなりにイギリスの役割の違いが明らかになるだろう。
 さらに、Appendix?でも論じられているように、MBFRを冷戦終結前後の軍縮交渉のための重要な「学習過程」と考えることも可能である。このように考えれば、イギリスがMBFRの失敗から何を学んだのかを考えることには一定の意味があるのかもしれない(ただし、これが意味あるものになるためには冷戦終結前後の軍縮交渉においてイギリスが何らかの役割を果たしている必要がある)。

4、MBFRの論じ方?CSCE-MBFR-SALT(ヨコに拡げて考える?)

 次に考えられるのが、ヨコに伸ばして考えること―CSCE、MBFR、SALT(?&?)をセットでその相互連関を考えること―である。比較的順調に進んだSALT?(1969年~1972年)、紆余曲折を経て成果を生んだCSCE、妥結に時間がかかったSALT?(1972年~1979年:妥結後ソ連のアフガン侵攻によって米議会批准拒否)、これにMBFRを並べた時に、何が成功し何が失敗に終わったのかが明らかになるだろう。CSCEが成果を生んだ理由が「デタントの雰囲気」からでは説明が出来ないことが、MBFRと比較するとよく分かるということについては先週議論があったとおりである(もっとも、CSCEとSALTに関してそれぞれ研究がかなり進められている現状を考えれば、これらをまとめて論じることは実際にはなかなか難しいのかもしれない)。
 これらの交渉をただ並列するだけでなく、その相互連関を考察することも重要である。CSCE、MBFR、SALTという三つの交渉が相互に連関していたことは、本資料集からも確認できる。MBFR交渉で核兵器削減を含むオプション?をヘルシンキ宣言後に提案したことはこの連関の一つの表れである。これらの交渉で、何が連関し何が連関していなかったのかといったことを考察することは、「デタント」の実相を明らかにする重要な手がかりとなるだろう。

5、MBFRの論じ方?西西関係(ヨコに拡げて考える?)

 MBFR交渉においてイギリスが一貫して重視していたのは、NATO諸国の一体性の維持である。この点を重視した時に浮かび上がってくるのが「西西関係」である。
 そもそもMBFR交渉がNATOによって提起される背景にあったのは、アメリカのヨーロッパからの撤退基調である。ヨーロッパ諸国にとっては東側諸国の兵力削減とともに、アメリカをいかにヨーロッパに繋ぎ止めるかが重要な課題であった。こうした背景を踏まえれば、イギリスがMBFR交渉において対ソ関係よりもむしろ対米関係を重視していたことの意味が明確になる。そうであれば、MBFR交渉は東西関係の問題ではなく「西西関係」の問題として論じることの意義が明らかになるだろう。1973年4月にキッシンジャーによって提起された「ヨーロッパの年」などとMBFR交渉を重ね合わせることによって、「西西関係」の文脈を掘り下げることが出来るだろう。
 以上のようなヨーロッパ側からの視点だけではなく、アメリカ側にとっての「西西関係」も重要な検討課題として考えられる。1950年代の軍備管理交渉は、アメリカにとって対西ドイツ政策(西ドイツ封じ込め)という意味も存在した。本資料集から観察する限りでは、MBFRがイギリスにとって西ドイツ政策であった点は観察出来ないが、アメリカにとっての「同盟政策としての軍備管理交渉」という視点は1950年代と1970年代を比較検討する一つの手がかりとなるだろう。

6、おわりに

 以上、イギリスのMBFR政策を論じる際のいくつかの可能性について検討してきた。工夫の仕方次第では、イギリスのMBFR政策を論じることにも一定の意味を見出すことは可能だろう。しかし結論的には、やはりイギリスのMBFR政策を論じるには大きな「困難」がある。それは、アメリカやソ連がMBFR交渉で果たした役割と比べてイギリスが果たした役割があまりに小さいことによるのだろう。MBFR交渉に関する限り、イギリスを主役にするよりは他国を中心に論じ、イギリスはあくまで脇役とした方がより有意義なのではないだろうか。

※こうした結論に達した時に考えざるを得ないことは、戦後の日本外交をどのように考えるべきか、ということである。MBFR交渉におけるイギリスの影響力と比しても、一般的に考えれば戦後日本の国際政治的な影響力は極めて小さい。ナショナル・ヒストリーとしての日本外交史ではなく、より広い国際関係史の中で戦後日本を考えた時にどのような姿を描くことが出来るのだろうか(例外的に、国際関係史の中で日本を描いた研究として、宮城大蔵氏の一連の研究がある)。これは戦後日本外交を研究する者にとって重い問いかけである。

at 11:58|PermalinkComments(0)アウトプット(?)