2008年06月

2008年06月02日

梅雨入り(涙)。

東京優駿も本命馬が見事に大外一気を決めて勝利、消化試合だった早慶戦は早稲田の勝利に終わり、そして梅雨入り。毎年恒例の憂鬱な季節がやってきてしまった。

憂鬱なことはうまく重なるもので、討論者を務める予定だったシンポジウム(?)関係でちょっとしたトラブルが発生し、今週は自分の研究に手がつけられそうにない。うーん憂鬱。週末に向けて政治思想関係の文献をいくつか読まなければいけないこともあるので、潔く研究はあきらめて今週は粛々と目の前の課題をこなすことにしたい。



梅雨入り前日の昨日は、本当に晴れやかな一日だったのだが、「いまだからこそニューレフト史学研究会@本郷」、読書会のために本郷へ行ってきた。そんなわけで、先週末は頭の中がニューレフト史学一色だった。

読書会も4回目となり、段々と軌道に乗ってきた感じだ。世代横断的な研究会から得るものは本当に大きいが、同世代&少人数で行う読書会もまたいい刺激になる。

1回目は、冷戦史研究の概要&日本外交論(対米自主/対米協調)を簡単に取り上げてざっくばらんに議論。2回目は、「転向」前のギャディスの本を二冊(『ロング・ピース』& Strategies of Containment の1982年版)。3回目は、ヨーロッパの視点ということで細谷雄一『戦後国際秩序とイギリス外交』&英文の論考を二本。そして今回は、ウィリアム・A・ウィリアムズ『アメリカ外交の悲劇』と、冷戦起源論に関する研究動向論文(麻田貞雄「冷戦の起源と修正主義研究 ―アメリカの場合―」)が指定文献だった。

ちなみに次回は、Marc Trachtenberg, A Constructed Peace: The Making of the European Settlement, 1945-1963 とGeir Lundestud, " Empire by Invitation? The United States and Western Europe, 1945-1952 "の予定になっている。うまい具合に、アメリカとヨーロッパが交互に出てくるのでバランスを取る意味でもいい組み合わせになった。

前置きが長くなりました。

今回のテキストである、ウィリアム・A・ウィリアムズ(高橋章、松田武、有賀貞・訳)『アメリカ外交の悲劇[新装版]』(御茶の水書房、1991年)について。

学部時代にパラパラと読んだり、対日政策に関する文献は読んできていたものの、修正主義的な冷戦史研究はこれまでやや忌避していた。この本も、熟読するのは恥ずかしながら今回が初めてだ。確かに読んでいて違和感を覚える箇所は少なくない。また全体の論調にも賛成する気にはなれない。とりわけ、冷戦起源論という国際政治史、国際関係論の文脈から本書を読んだ時にその気持ちが強くなる。

しかし、である。アメリカ史の文脈で考えてみると、この本は面白いし、そして深い。

よく知られているように、本書を貫くのは、19世紀末以来アメリカが一貫して「門戸開放」を基調として膨張主義を追求してきたという視点である。麻田貞雄の言葉を借りれば、ウィリアムズの言うところの「門戸開放」とは「(ジョン・ヘイの通牒より広い意味で)、全世界に通商と投資の市場を拡大し、アメリカ的体制を広めるための外交戦略」であり、「アメリカは、このような海外膨張によって、資本主義の生みだす国内的矛盾を回避しようとしてきた」のである(麻田貞雄「冷戦の起源と修正主義研究 ―アメリカの場合―」『国際問題』1974年5月号、10頁)。

しかしながら、ウィリアムズの見方は単純な経済決定論ではない。再び麻田貞雄の言葉を借りれば、ウィリアムズは「アメリカ外交を動かすものは、資本主義経済の「構造的要求」といったものではなく、それに関して指導者が抱く観念」なのである(同上)。この指導者が抱く観念をウィリアムズは、「世界観(Weltanschauung)」と表現する。本書は、「「世界観」が、諸観念、利益集団の圧力、ダイナミックに進展する市場資本主義の、相互作用と統合を通じてどのように展開したかを考察したものである」(「訳者解説」より)。

つまり、経済的要因が指導者達の「世界観」の中でどのように影響を与え、そしてそれがどのような外交政策となったのか、ということが本書のメインテーマとなのだ。このような本書のハイライトとなるのは、よく読まれてきた冷戦起源論を論じている部分(6・7・8章)ではなく、戦間期を論じた3・4・5章だろう。この点は、読書会でも一致を見た部分だ。

これは発表担当者が言っていたことでもあるが、本書を狭義の実証性の点から批判するのは難しいことではないが、出版時期を考えてもフェアではない。また、冷戦史という一種の国際関係論の観点から考えても、本書を批判するのは容易だろう。しかし、本書の目的に照らせば、これらの批判はあまり的を射たものではないのかもしれない。本書の面白さは、アメリカ史、より細かく言えばアメリカ外交思想史とでもいったところにあるのではないだろうか。

こんなところに、読書会の議論は徐々に収斂していったように思う。

『アメリカ外交の悲劇』は、21世紀を生きる我々にとっても精読に値するものだろう。とはいえ、それは冷戦史の観点からではないのかもしれない。冷戦史を語る上で最も重要なアメリカという国を考えるために、毀誉褒貶あるアメリカ史の古典として読むべきであろう。このように考えると、ウィリアムズの下に育っていた「ウィスコンシン学派」の諸研究と本書の意義はかなり異なる気がする。

冷戦史研究の文脈から修正主義を考えるのならば、むしろガードナーの研究を読んだ方がいいのだろう。とはいえ、その基本的な論点がポスト修正主義研究によって大方乗り越えられてしまった以上、それらの研究よりはむしろその大元にあると言われるウィリアムズを読むことにより大きな意味があるのかもしれない。

at 17:50|PermalinkComments(2)本の話