2008年06月

2008年06月30日

先週の授業(6月第4週)。

毎年のことながら六月はあまり調子が出ない。

仕事が忙しかったり、目の前のやるべき事が重なっていたり、少々しんどい日々を送っている。そんな時に限って、いやそんな時だからこそ、あまり調子が良くない。研究者として就職している先輩や先生たちは、こうしたしんどい日々を過ごしながらも着実にやることをこなしている。自分にそれが出来るのか、とつい考えてしまうのは、疲れている証拠だ。そりゃ、塩もかけられます(笑)

なーんてことを言っても、何も解決しない。頑張るしかないんだなー。と思っていたら、後輩も同じようなことをmixiに書いていた。

と、ここまで書いていたら後輩がキャレルに登場。ぐだぐだ話しながら、まー頑張るしかないな―、というところに落ち着く。大怪我を負えば負うほど超回復するサイヤ人のような身体が欲しい。



<水曜日>

3限:国際政治論特殊研究

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今回は、Part?:DemocracyのChapter9 Pluralism and Solidarism Revisited が範囲。

章題からも分かるように、これまでの議論を踏まえた「まとめ」のような章だ。Pluralismが勢いを増す中で、その実現にはいかなる困難があるかを問う前半部分はなかなか読み応えがある。強調されるのは、政治的意思(Political Will)と実施する手段だ。これは重要な問題だ。

後半部分で展開されるのは、先住民の権利を主張することと分離運動の違いで、これまた難しく重要な問題で色々と考えさせられる。

自分にとって面白かったのは、一番最後に紹介されているフィジーの問題だ。ちょっと調べてみると、フィジーの問題はなかなか入り組んでいる。ざっくりまとめてしまえば、イギリス統治から進んだインド人入植民と先住民族との関係がこじれており政治問題化した、ということになる。問題は、これが国際問題化した時に国際社会はどのように対応すべきかということ。

こんな困難な問題を読者に突きつけつつ、次回(最終回)はいよいよ介入の問題が論じられる。まだこの先を読めていないので、著者がただ困難さを指摘するだけなのか、それに対する何らかの処方箋を提示するのかが興味深いところだ。

<木曜日>

2限:国際政治論特殊研究

今回は、1975年5月~1975年12月までの文書が範囲だった。

CSCEがヘルシンキ宣言調印によって大団円を迎える一方で、MBFR交渉はますます停滞する、というのが今回の大まかなストーリーだ。もっとも、ただ停滞を迎えるだけでなく、ようやく核兵器を含んだOption?を提示するなど、それなりの動きは見せている。デタント期に行われた三つの交渉(MBFR、SALT、CSCE)がどのように相互に関係していたのか、ということは実際に資料を読んでみなければ分からない。それがようやく今回はっきりしてきた点が面白いところだ。

授業での議論は、細かい論点が出尽くしたのか、MBFRに対してやや倦怠感が漂っているのか(笑)、全体的に大きな話になった。そんな雰囲気に対応したのか、発表されたレポートの課題は「デタントとは何だったのか」という大きいもの。色々と考えるところはあるので、じっくり取り組みたいところだが、時間が……。

次回は、いよいよ最終回だが、MBFR交渉については中途半端なところで終わってしまう。細かい話をしてもあまり盛り上がりそうにないので、「MBFR交渉の論じ方」のようなアイデアのみの「乱暴」な議論をしてみようと思う。

4限:国際政治論特殊研究

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長かったこの本とのお付き合いも今回でようやく終了。余裕がある時に、批判的な書評をここに載せたいと思います。そんなことを思っていたら、大学院の先輩の書評が東京財団HPに掲載されていることに気が付く(リンク)。

ま、これはまたそのうちに。

5限:プロジェクト科目(政治思想研究)

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どういった議論になるのだろう、と心配していたのだが、友人がうまく議論をまとめてきたのでひと安心。やはり、マイナーなテーマの上にアプローチが固まっていない研究で議論をするのは難しい。

なぜこのテーマなのか、なぜこの視角なのか、なぜこの分析枠組なのか。結論はその視角・分析枠組から導き出されているか。こういった当たり前のことを着実にこなしていくのが実は一番難しい。当たり前のことをこなした上で、面白いかを問われる。あ~、研究ってしんどい。

at 20:27|PermalinkComments(0)ゼミ&大学院授業 

2008年06月28日

疲労困憊??

人それぞれ違うようだが、体調があまりよくないや疲れている時には色々なシグナルがある、らしい。自分の場合は「酒に弱くなる」というのが、ひとつのシグナルだ。今回の場合は、体調がよくないというよりは疲れているという感じだ。

昨日は、大学院の合同論文研究発表会なるものがあった。発表会後は、研究科主催のビア・パーティーがあり、その後はいつもの店で二次会、そしてまたもう一つのいつもの店で三次会があった。ビール数杯しか飲んでいないのだが、二次会の途中とにかく眠くなった。というか寝てしまった。

…そして、先輩に塩をかけられて目が覚めました。

週末はゆっくり休みたいところだが、来週再来週とやらなければいけないことが溜まっているので、なかなかそういうわけにもいかない。やる気は上がっても、身体がついていかないと仕方がない。



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毎日少しずつ読んでいた本。前半部分はやや概念的な話が多くやや退屈だったが、後半に入ると具体的な話が多くなってきたので、段々と面白くなってきた。理論的な含意を考えながら、資料を読んで歴史を書きたいと常日頃思っているので、こういった本を読みながら考えることもないわけではないのだが、まだうまく自分の言葉で表現が出来ないのがもどかしい。

ただし、自分がやりたい本当のテーマがレジーム論(的な歴史)ではなさそうだ、ということが分かったのは収穫だ。まだもう少しこの本が残っているのだが、次は何を読むことにしようか迷う。効率を考えると、日本語でいい本があればいいのだが、教科書数冊を除くとなかなか思い浮かばない。



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この業界周辺では話題の一冊、『研究者のためのアメリカ国立公文書館徹底ガイド』を購入。池袋のジュンク堂では平積み、大学生協では即完売、というのはこの業界の隠れたベストセラーの証なのだろう。日本外交(戦後)を研究している自分のような者にとっても、必読本といっていいだろう。

こういった本が出るのはありがたい限りだが、ぱーっと読んだだけでも行く前にやるべきことが多いな~、という当たり前のことに気が付く。インターネットに文書目録がいくつか出ているのでそれもチェックしなければならないし、FRUSのような資料集があればまずそれに目を通す必要もある。

もう一つ大きいのは、AAD(Access to Archival Databases)で読める文書がかなりの数になっているということだ。もっともこれは、研究している時代によってかなり変わってくるのだろう。一つの分かれ目は1973年以降か、それ以前かということだろう。今の研究にひと区切りを付けたところで、時代をちょっとだけ後にすべきか前にすべきか、ますます悩ましくなってくる。

at 14:46|PermalinkComments(2)本の話 

2008年06月23日

混乱を招く勉強方法(?)。

本の読み方や勉強の仕方というのは、人それぞれ異なるものだろう。効率のいい勉強の仕方はあるのだろうけれども、つまるとことその人にとって一番いいやり方はその人だけのものだ。

自分は――こう言ってすぐに自分の話になるわけだが――同時並行的に本を読むというのは苦手で、学部時代から授業の課題本で毎週一章ずつ進むものだろうと、とにかく一気に読み切ることにしていた。それは、異なる知的体系のようなものを同時に考えるのがあまり得意ではない、と自覚していたからだ。

学部時代は講義があったので、細切れに様々なことを考えなければいけなかったのだろうが、大学四年の時は特殊研究を中心に履修していたので、一気に読み切る方式でも問題はなかった。大学院進学後もこれは同じだった。英語を読むスピードがなかなか上がらずに苦労したことはあったが、論文集などがテキストだった場合は、細切れに週に数章ずつ読んでも、細切れだった感じはあまりなかった。また昨年&一昨年の前期にもぐっていた他大学の授業も、基本的に一週間に一冊研究書を読み切る方式だったので、自分の頭の使い方にはぴったりハマっていた。

ところが、大学院三年目の今年は事情が違ってきた。

英語の本を毎週一章ずつ輪読する授業が二つあり、この他に公刊外交文書を読む授業と、プロジェクト科目(政治思想研究)がある。これだけならまだよかったのだが、この数日は次の読書会で取り上げる研究書(英語)を一章ずつ読み進める作業と、↓の本を読み進める作業を行っているため、頭の中を様々な知的体系が並行している。

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まだ英語文献を日本語文献と同じように一気に読み切って理解する力が無いため、英語文献を読む場合は一日数章ずつしか進まない。また日本語文献でも、それほど強くない理論物は、数章ずるしっかり理解していかなければなかなか頭に入ってこない。この作業に、先に挙げた授業関係の文献の読み込みが入り、さらに自分の研究に関係する文献や資料を空いた時間に読んでいく。この一週間は大体こんな感じで勉強を進めているわけだ。

いくつかの科目を同時並行的に勉強しなければいけない受験を経験していれば、こういった勉強方法の方がやりやすいのかもしれないが、中学受験しかしていない自分には全く向いている気がしない。また一つ一つの作業が、毎日少しずつしか進まないので、何やら毎日消化不良気味であまり勉強が進んでいる感じもしない。

六月が終われば(EURO2008も終わることだし)、こうした「勉強生活」から離れてまた「研究生活」に入ることが出来ると思うので、それまでは耐えたいところだ。



そんなことを言いながらも、注目の新刊はしっかり読んでいけるのが、時間のある大学院生の特権だ。というわけで、最近読んだ中で面白かった文献を一冊紹介しておきたい。

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・宮城大蔵『「海洋国家」日本の戦後史』(ちくま新書)

 「戦後アジアにおいて、日本とは何だったのか」――そして、そもそも「戦後アジアとは何だったのか」。我々が日本、そしてアジアを考える時、まず思い浮かべるのは北東アジアであろう。朝鮮戦争という熱戦が勃発し、それと共に米中という二つの大国がにらみ合い、北方には極東ソ連軍が控える。こうした冷戦時代の北東アジアの歴史を眺めてみた時、九条=安保路線(吉田路線)の下で経済成長路線をひた走る日本の存在感は、国際政治の舞台でそれほど大きなものではない。著者も言うように、戦後日本は国際的な権力政治の舞台からは「降りた」のかもしれない。二つの分断国家を抱える北東アジアにおいて、こうした状況は現在においても変わっていない。
 しかし東南アジアへと目を転じてみると、冷戦に彩られた北東アジアの戦後史とは異なる歴史が浮かび上がってくる。巨視的に眺めてみれば、東南アジアの戦後は「脱植民地化」という政治闘争――ベトナム戦争もこの一つであろう――に始まり、それが「開発」という大きな波へと変わっていく歴史であった。「脱植民地化」から「開発」へ、これは「政治」から「経済」へ、という言葉で言いかえることも出来よう。そして、この東南アジアの戦後史の中に日本を置いてみると、これまでの日本イメージとはやや異なった姿が見えてくるのである。

 本書は、このような戦後アジアを問いなおす作業を続けてきた著者による待望の新著である。これまで著者が発表してきた著書(『バンドン会議と日本のアジア復帰――アメリカとアジアの狭間で』『戦後アジア秩序の模索と日本――「海のアジア」の戦後史 1957~1966』)や論文(「日中接近とインドネシア――「日・豪・インドネシア三カ国構想」の模索」)をもとに書かれた各章の記述は、迫力と手堅さ、そしてドラマとしての面白さを兼ね備えている。

 日本はいかなる形でアジアに「復帰」したのか――アメリカとアジアの狭間で揺れる日本の姿をバンドン会議という舞台を通して描き出すのが第一章である。
 第二章では、「南進」への課題であり呼び水となった「賠償」問題が描かれる。そして第三章では、マレーシア紛争をめぐって「脱植民地化」「冷戦」「革命」が入り乱れる中で、日本がいかに東南アジアへ「南進」していったのかが取り上げられる――地域秩序の変動の中で、日本が果たそうとしたこと、そして出来なかったことは何だったのろうか。これに続く第四章で取り上げられるのは、戦後アジアの勢力図を大きく塗り替えることになるインドネシアの「9・30事件」とその後の情勢への対応である。本書のハイライトとなるこの第四章では、バンドン会議で本当するアジアのナショナリズムを前に戸惑っていた姿とは異なり、「脱植民地化から開発へ」という動きを率先してリードする日本の姿が描き出される。
 さらに第五章では、「9・30事件」とともに戦後アジア史の転換点となった米中接近と日本の対応のインパクトが、インドネシアとオーストラリアの視点を借りつつ描かれる。「中国問題」の浮上を前にして、新たな課題に取り組む各国の姿が印象深い一章である。

 こうして描かれる戦後アジアと日本の姿は、我々が持っていたイメージとは異なるダイナミズムを持っている。戦後アジアの姿はいかに大きく変わったのだろうか!――この思いは、1970年代後半から現在までの東アジアを描いた田中明彦『アジアのなかの日本』(NTT出版)を読んだ後にも感じたことだ。この30年の変化の背景にある歴史とドラマを本書は丁寧に描き出している。読み物としても面白く学術的にも示唆に富む本書は、歴史研究と新書という媒体の持つ意義を再確認させてくれる一冊である。

 注文を一つだけ。『「海洋国家」日本の戦後史』という題名はミスリードであろう。本書の議論は、高坂正堯の焼き直しでも無ければ、戦後日本の歴史でもない。より大きな戦後アジアを見据えた歴史である。そうであれば、ちくま新書の「~を問いなおす」シリーズの一冊として、『戦後アジアを問いなおす』の方が、より本書のイメージに近いのではないだろうか。

at 12:53|PermalinkComments(2)本の話 

2008年06月22日

今週の授業(6月第3週)。

この一ヶ月ほど、大学へ来ると午前中は外で本を読んでいることが多かったのだが、今週辺りから急に蚊が増えてきたような気がする。来週は梅雨らしい天気が続くようだし、梅雨が明ければ暑くなるので、快適な読書ライフともお別れしなければいけないのかもしれない。



<水曜日>

3限:国際政治論特殊研究

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今回は、Part?:DemocracyのChapter8 International Law and the Instruments of Foreign Policy が範囲。

デモクラシーが国際法と経済制裁にどのような影響を与えるのか、といったことを取り上げた章なのだが、これまでの章と比べるとやや議論が分かりにくかった印象がある。全体の論旨は、これまでと同様明確だ。「Solidaristicな議論を突き詰めると、大きな問題があるぜ」と、これに尽きる。しかし、何となくこの章の議論は腑に落ちない箇所というか、やや消化不良気味の箇所が多かったような気がする。

とりわけ分かりにくいのが、経済制裁に関する部分だ。経済制裁一般なのか、Solidaristicな目的の経済制裁に関する議論なのかもいまいちよく分からなかったし、何となく文章が繋がっていないように感じた箇所もあった。議論が来週に持ち越しになった部分もあるので、また来週この問題については考えることにしたい。

5限:学部ゼミ(ゲスト・スピーカー)

今週は、学部ゼミがゲスト・スピーカー(外務省の某大使)を招いての講演だったので参加した。

学部時代の二年間、通常のゼミの合間に行われる、国内外の学者、実務家、自衛官などなど多彩なゲスト・スピーカーを招いての授業は楽しみだった。あくまでメインは、「20世紀の国際政治史」や「地域紛争」といったプログラム&国際政治学の古典輪読におかれつつ、ゲスト・スピーカーの授業が入るのはメリハリがあって良かった。

数々の修羅場をくぐってきたプロの外交官ということもあって、あまり突っ込んだ話にならなかったのはやや残念なところだ。しかし、あの慎重さの裏にある本心が何か、といったことはとても気になる。

授業後は、師匠&大学院の後輩で夕食。いつものことながらモチベーションは上がりに上がるが、同時に今の自分の力の無さや不甲斐無さも痛感する。

<木曜日>

2限:国際政治論特殊研究

先週は休講だったので2週間ぶりの授業。今回は、1974年11月~1975年3月の文書が範囲だった。

1974年12月には、英仏の首脳会談やNATO首脳会議があり、さらに1975年初めはサミットに向けたイニシアティブが徐々に始まる時期である。そんな重要な時期なのだが、MBFR交渉はますます停滞の度を深めていく。

個人的に面白かったのは、前回の議論でも話題になった「イギリスの代表はダメなんじゃないか」という問題だ。この問題は、どうやら英外務省内でも話題になっていたようだ。同時代の新聞などをチェックしてみると、こういった問題は報じられているのかもしれない。もっとも、この問題はただ「面白い」だけで、学問的に面白いというわけではない。

文書をただ読んで論じるだけでなく、より広い文脈の中で捉え直し、論文となるような議論を考える必要がある、ということは常々考えていることだが、このMBFRの話のように終着点が見えないものはそれがなかなか難しい。軍縮に関する理論的な研究を手掛かりに、政治学的に考えてみれば面白いのかな、とも一瞬考えたが、それもまたちょっと違うような気もする。

4限:国際政治論特殊研究

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今回は(も?)、ノーコメント。

<土曜日>

前回に続いてゲストの先生の関係で土曜日に授業があった。

プロジェクト科目(政治思想研究)

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テキストは↑。こういっていいのかは分からないが、「荒削り感」が強い本で、読み物としては面白いが、学術的に論じるのはやや辛いところもある。

レクチャーは本についてではなく、「政治思想研究におけるマイノリティー/マージナリティ-」ということで、「変態」だけでなく「恋愛」「沖縄」といった先生の研究テーマ全体をまとめての話だった。が、質疑応答は基本的に「変態」の話。ただし、質疑応答でもあまり満足する回答は貰えず…、ということで来週どういった議論になるのかがあまり見えてこない。

at 16:16|PermalinkComments(0)ゼミ&大学院授業 

2008年06月21日

気が向いたので更新。

あっという間に週末が来てしまった。といっても、午後に授業が一つあるので、あまり週末という感じもしないのだが…。

先週末は、久しぶりに開催された某研究会に参加してきた。

核問題について、これまでとはやや異なるトランスナショナルヒストリーからの研究ということで楽しみにしていたものだ。初めからこういった新しいアプローチを取るのではなく、昔ながらの外交史を書いた上での新しいアプローチだったので、非常に説得的かつ興味深いものだった。

従来からある古典的な外交史の限界はしばしば言われることであるが、まだまだやらなければいけないテーマはあると思って自分は研究しているわけだ。しかし、改めてそのテーマを研究する意味があるのかと問われた時に、その答えをはっきりと言えるようにしなければいけないのだろう。なぜこの時代・このテーマをこのアプローチからやる必要があるのか。なぜ日本人の自分がやる必要があるのか。そんなことを自問しながら研究をするのはしんどいな?、と頭の片隅で思いながらも、色々と刺激を受けた研究会&懇親会だった。



読む本がたまって仕方がない時に、優先順位を付けるを手掛かりとなるのが書評だ。学会誌に載る書評は掲載までやや時間がかかるので、参考になるのは新聞や月刊誌の書評なのだが、最近はインターネット上でも結構書評が充実してきたのが嬉しい(新聞書評も日経以外はネットで読むことが出来る)。

そんな一つが、三省堂書店HPにある「神保町の匠」(リンク)という書評サイトだ。まだ開設されてから二ヶ月弱だが、一週間に二冊程度をコンスタントに紹介してくれるので更新を楽しみに待っている。人社系の編集者が評者陣に揃っているので、専門的にどうこうということよりも、面白い本を積極的に紹介しているといった感じなのが、本好きとしては嬉しいところだ。



毎月楽しみにしている毎日新聞の連載「権力の館を歩く」。政治家の私邸や別荘から官庁まで、「館」を切り口に時の権力について思いを馳せるという趣向が格別に面白い。毎月第三水曜日に紙面に掲載されるのだが、今回は池田勇人特集だった(リンク)。なお、今回のネット版には写真が無いので、興味のある方はぜひ紙面の方をチェックして欲しい。

今回面白かったのは池田邸の庭だ。庭園巡りが好きな自分にとって、権力者達の庭作りは非常に興味がそそられるものなのだが、写真を見る限り池田の庭はお世辞にもいい趣味とは言い難い。

信濃町にも週末を過ごす仙石原にも共通していること――それは館の広いガラス戸に向かって雑然とした木々と石が鬱蒼とした雰囲気を醸し出し、廻遊式の池が館をめぐり、開放的な芝生の平地が突然出現し、大小の灯籠があちこちに立っている。石も灯籠も出物があると、それとばかりに池田の号令一下集められた。「石にも木にも顔がある」と述べた池田は、その置き方をめぐって庭師や植木屋と大ゲンカ。ついには一族郎党、秘書、SPを総動員しての「庭」づくりだ。あまりいい趣味じゃないと大平正芳は言い放った。

ということらしい。

今の権力者達にも、こうした「庭作り」のような文化は残っているのだろうか。世知辛い世の中だけに、なかなか難しいのかもしれない。そもそも多くの使用人を使う「邸宅」が大っぴらに許される時代でもない(田舎の感覚からすれば普通の大きい家という程度の赤木元農相宅がバッシングされる時代だ)。

移りゆく時代を嘆くのは趣味ではないが、何事もビジネスライクな世の中というのはあまり面白くはないな、と嘆息してしまう。

at 10:39|PermalinkComments(4)日々の戯れ言 

2008年06月13日

SFC探訪記。

最近はまっているのが、昨年中庭に設置された牛乳の自販機だ。

当初はただの牛乳しか売っていなかったのだが、今年に入ってから商品の多角化が始まった。まず導入されたのが「コーヒー牛乳」、「カフェ・オレ」(字だけ見るとコーヒー牛乳との違いがよく分からないが、こちらはコーヒーがメインのようだ)。さらに4月に入ってから、「いちごミルク」が導入されてからというもの、ほぼ毎日のように飲んでいる。不定期に商品が入れ替わるので、なかなか買うタイミングが難しい。

午前中にちらっと見たところ、新商品「バナナミルク」が入っていたので、これは買わねばと思っていたのだが、夕方見た時にはすでに売り切れていた。残念。



昨日、SFC(湘南藤沢キャンパス)に行ってきた。

ある授業のゲスト・スピーカーに呼んでいただいたのだ。ひとまず無事に終わったのだが、自分としては色々な反省点が残る。こういったことは、とにかく場数を踏んで鍛えていくしかないのだろうけれども、大学院生にとってあまりその機会もないので、次にもしあれば今回の反省を生かしたいところだ。

大学に入ってからは、SFCに進学した高校時代の友人の家に行っただけなので、今回がほぼ5年ぶりということになる。あまり行く機会もないので、色々なところを見てやろうと思っていたのだが、結局大半の時間は図書館で過ごしてしまった。

授業前に行ったのが、ファカルティ用のカフェのようなところ。ここからは、ガリバー池(鴨池)がよく見えるので、晴れていれば「カモる」学生たちを一望出来るという。その前に、諭吉像を目撃。日吉と同じように、このキャンパスでも集合場所になりそうなところにある。新しく加わった芝キャンパスには諭吉像はあるのだろうか。

授業後は、生協食堂でカレーを食べ、さらには生協の本屋へ。本屋というよりも、生協の一角に本コーナーがあるといった感じで、品揃えはかなり悪かった。これくらいの品揃えだと、とにかく本を買って買って買いまくる、という学生生活にはあまりなりそうにない。

雨も上がって天気もよかったので、その後は、キャンパス内をぶらり。同じ大学のはずなのだが、学生の雰囲気も含めて三田や日吉とは大分違う。学部が少ないこともあってこじんまりとしているし、自然が多いのが最高だ。いい天気なら芝生に転がって本が読めそうなのがうらやましい(三田でどこかに転がって本を読んでいたらただの不審者だろう)。

ぶらりの後は図書館へ。蔵書数はそれほど多くないのだが、総合政策学部があるからか、政治学や経済学に関してはなかなかの数がある。日本語と英語が同じ書棚にあるので、書棚を見ているだけで色々な発見があるのが嬉しい。また、あまり借りられていないのかもしれないが、全体的に三田よりも本の保存状態がいい。おしゃべりがやや気になったが、奥の方に行くと声も聞こえてこないので、快適に過ごすことが出来る。

そんなわけでゆるりとした午後を過ごすことが出来たのだが、いざ帰ろうと思うとやはり遠い。ツイン・ライナーに揺られ、電車を乗り継いで家に帰ると、SFCを出てから2時間近く経っていた。やっぱり大学は近いに限るな、と思いながらも、たまにはこうやって遠くに来ると気分が変わっていいものだとも思う。

at 19:46|PermalinkComments(0)日々の戯れ言 

2008年06月12日

今週の授業(6月第2週)。

今週は色々あって水曜日の授業のみ。

<水曜日>

3限:国際政治論特殊研究

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今回は、Part?:DemocracyのChapter7 Histrical Antecendents and Cultural Preconditionsが範囲だったが、この章に入る前に先週の議論の積み残しとして主権についてもう改めて議論をした。

議論の要点は、果たして主権をinternalとinternational(もしくはextarnal)に分けて考えられるのか、ということ。現代を考えた場合、とりわけ経済面において国家の主権は弱まっているように思える。こうした対内的な主権の弱まり(?)は、対外的な主権の弱まりにも影響を与えるであろうし、分けて考えるのは適切なのか、といったことが議論になった。

これに加えて、先進国においても発展途上国においても主権は弱まっているのではないか、といったことが問題提起されていたように思うが、それについてはあまり議論にならなかったのは残念だ。

先生曰く「主権は政治学におけるヘビー級の問題」なので、そう簡単に答えが出るわけではないが、こういった問題はしっかりと考えておかなければならない、とのこと。「ヘビー級の問題」には様々な古典がありもちろんそれらを読むことも大切だが、そうした議論をただ並べて整理し覚えるのではなく、限られた知識であっても自分の頭を使って知的に格闘するべき、というのが学部ゼミ以来の師匠の教えでもある。

本書を読んで主権についてこういった議論が出てくる背景は、先生も指摘していたように、著者が明確な定義をしていないことと、多くの人が主権を考える際に「(実際には存在したこともない)あるべき理想」のようなものを念頭に、それとの比較から現在を論じていることにあるのだろう。国家の実態を歴史的に検討し、それに即して主権を考えてみると、一般的な議論とは少し違うイメージが湧いてくるのかもしれない。

今回の本題である民主主義と文化の問題については、内容というよりも著者の議論のスタイルについての話が興味深かった。この本の特徴的なスタイルは、「ある重要な問題(例えば「主権」)について、Aという議論とBという議論があるが、この両者にはそれぞれ問題点がある。だけどその両者を検討した上でこれくらいのことは指摘できるよね」といった論法だ。

ただし重要なのは、こうした議論の方法をとったからといって著者に自分の意見がないわけではないことだ。様々な留保を付けつつも、本書を通した明確なメッセージは存在する。この辺りの話は、本書を読み切った時に書くことにしたい。

at 10:27|PermalinkComments(0)ゼミ&大学院授業 

2008年06月09日

6月9日は…。

淡々と毎日が過ぎていくことにやや焦りを感じる今日この頃。

「6月9日はロックの日♪」と言って、ハイロウズの新譜を嬉々として買いに行っていたのが高校の頃だから、あれからもう10年近く経ってしまったわけだ。そんなことを思い「Relaxin'」や「バームクーヘン」を聴ききながら本を読んでいたのだが、当時聴いていた頃は、10年後自分が大学院生をやっているなどとは考えもしなかったなー、とふと冷静に今の自分を眺めてしまった。

昼間から好きな本を読み研究に思いを馳せるという贅沢な生活――こう思うのは院生くらいかも知れないが――を送っているにも関わらず、なぜか感じるこの焦りの正体は何なのだろうか。



このブログで紹介しようしようと思い、なかなかちゃんとした紹介が出来なかった本について。

『なぜ歴史が書けるか』(千倉書房)は、同タイトルの『UP』の連載を基に大幅に加筆修正され御厨研で冊子化された報告書をもとしている。昨年の日本政治学会でも同タイトルのセッションがあったので、参加した人も多いのかも知れない。

御厨研で冊子化された報告書を縁あって頂いたのが昨年末のことだ。論文執筆で苦しむ中でむさぼるように読んだのを覚えている。引用が多く、師匠の近著『国際政治経済学』(名古屋大学出版会)と同じく、編集者の苦労が伺われる一冊だ。

以下では、本書のハイライト(?)を引用してしまっているので、その点はご注意を。

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・升味準之輔『なぜ歴史が書けるか』(千倉書房)


 なぜ歴史が書けるか――なぜか歴史が書ける。大著『日本政党史論』(東京大学出版会、全七巻)を著した升味準之輔が『UP』の連載でこう喝破したのは、1981年のことである。それから27年を経て、大幅に加筆され、新たな装いのもと一冊の本として『なぜ歴史が書けるか』が刊行された。

 本書の要諦は、タイトルと「碩学の思索、時空を往還す」という帯の名文句とに凝縮されている。

 「重大事件に遭遇したとき、人は、それを記録し、それが何故おこったのかを考えようとした。かくして歴史家と歴史が生まれた。(1頁)

 このように始まる序章(「歴史家の誕生」)から著者の思索は自由自在に時空を往還する。ツキュディデス、ポリュビオス、ギボン、ピレンヌ、トクヴィル、トインビー…。歴史家たちの著作を手掛かりに、著者は、歴史とは何か、歴史家はいかにして生まれるか、を問う。

 歴史家は、彼が関心をもった同時代の出来事を後世のために記録した。それは、彼の同時代史である。後世の歴史家たちは、先人が残した記録やその後の研究によって彼自身の歴史を叙述する。こうして、同時代的歴史がつねに書きつがれると同時に、過去の出来事に対する関心によって史料の探索と研究が絶えることはない。そして、二つの歴史は、歴史家の中で呼応し抱合することとなるであろう。(19頁)


 この序章の結びを読み、本書の叙述が著者の思索の再現であることを読者は知るだろう。著者の思考は、ダイナミックかつ自由自在に時空を飛び越える。いかにして「なぜ歴史が書けるか――なぜか歴史が書ける」と喝破するに至ったのか、本書はその思索の過程である。

 序章に続く第一章(「史料と追体験」)は、マキャベリに始まり、コリングウッド、ディルタイ、さらには「演劇論」を経て、本居宣長に終わる。博覧強記な著者の思索についていくことは容易ではない。しかし、これまた時空を自在に行き来しつつ引用されている古今東西の歴史家の叙述は、読者を引き込む力を持っている。
 原因と結果、歴史の最小単位としての個人、全体と部分、産業革命、比較研究、歴史と社会科学。各章のテーマは、今なお歴史家や社会科学者たちを悩ませ続けている重要な問いである。各章はこうした問題を考えるヒントに溢れている。

 本書は、決して分かりやすくも読みやすくもない。読者は著者の思索に圧倒されるだろう。しかし、ここで紹介するよりも、手に取って読んで貰う方が本書のメッセージは伝わると思う。そのメッセージをどのように受け取るかは、人それぞれ大きく違うのかもしれない。力がある文章はそういうものである。
 やや長くなるがむすびを引いておこう。

 一九八一年、東京大学出版会のPR誌『UP』に「なぜ歴史がかけるか」を八回連載した。そのあとがきで私は「依然として靄の中であるけれども、現在の私の記録にはなるであろう。何年か先、また同じ主題で考えるとき役立つかもしれない」と述べた。それからもう二五年たって、このたび全面的に書き改めた。書きなおしたり、書き加えたりして長さは三、四倍になったと思われる。断片のよせあつめにすぎないが、現在の私の記録にはなるであろう。何年か先、また同じ主題を考えるとき、役立つかもしれない。
 意味や効用があるから歴史を書くのではない。それは、人生のようなものであろうか。われわれは、人生の意味や効用を知ってうまれたのではない。知っているから生きているのでもない。生きていれば、わかるかもしれないが、わからないかもしれない。そうして生きていれば、あの耽溺がつむじ風のように歴史家をさらっていく。なぜ歴史が書けるか――なぜか歴史が書ける。あのとき私は、そう書いたが、いまも同じことを繰り返したい。(308頁)


at 20:20|PermalinkComments(0)本の話 

2008年06月08日

今週の授業(6月第1週)。

いつものことながらあっという間に一週間が過ぎてしまった。一週間が過ぎただけでなく、金曜日には誕生日を迎えて一つ年齢を重ねた。一年もあっという間だな、と嘆息してしまう。

今週はやるべきことが山積していたので仕方がない面もあったのだが、そんな言い訳を続けているといつまで経っても本腰を入れて研究が出来なくなってしまう。気合を入れ直して頑張ることにしたい。



<水曜日>

3限:国際政治論特殊研究


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今回は、Part?:SovereigntyのChapter6 Reappraisalが範囲。

やはりという感じだが、「自決」の問題は分かりにくい。「民族自決」と「自決」は明確に分けて考える必要があるし、事例ごとによってその意味もそれぞれ変わってくる。また、internalとinetrnationalな主権も区別して考える必要がある。こうなってくるとますます議論が分かりにくい。

そんな中でも特に分からなかったのが、先進国/発展途上国それぞれにおける主権の持つ意味の違いだ。本章の議論の多くは、発展途上国を対象としたものだが、時々先進国に関する議論が出てくる。この点は、授業でも議論になった問題で、次回改めて議論するようなので、次回までに自分の考えを整理しておきたいのだが、そう簡単に答えが出るわけもなく、悩み続けるしかないのだろう。

<木曜日>

2限:国際政治論特殊研究


今回は1974年4月~1974年10月の文書。結局MBFRはまとまらなかった交渉であり、徐々に手詰まり感が全面に出てきたな、というのが今回文書を読んでの感想だ。MBFRに関して「イギリスは全然ダメだったのでは?」(大意)という討論者の議論が面白かった。とりわけ、イギリスの対ソ情報はこの時期はかなり限られていたのではないか、という点は他の問題を考える際にも重要なポイントになる。少なくともMBFRに関する文書(といってもDBPOだけだが)を見る限りでは、情報が有効に活用はされていないようだ。

妥結した交渉に関する文書であれば、どのような道筋で妥結に至ったのかが議論になるのだが、このMBFRの場合はなかなかそういった議論にはならない。今回はやや大きな議論で興味深いものだったが、大きな議論ばかりしていても同じ話になってしまう。そろそろ自分が討論者の回のことを考えておきたいのだが、なかなかいいポイントが見つかりそうにないのが悩ましいところだ。


4限:国際政治論特殊研究


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いつものとおり、内容は割愛。先週読んだ第4章辺りから、何となく議論のトーンが変わってきたように思っていたのだが、これは自分の気のせいではなかったようだ。今回は、討論としてAsian Policy に掲載された書評会(?)での議論が紹介されていたのが面白そうだった。いつものことながら「日本人的」な議論を展開するマイク・モチヅキ、やや自説を変えつつあるように見えるクリストファー・ヒューズなどなど。

日本は蚊帳の外に置かれ、国際論壇では日本の議論が行われている。そこに参入していくのは大変なのだろうなー、と思うがそこに出ていくのは日本の学者がやらなければいけないことなのだろう。

<金曜日>

某国際セミナーに討論者として参加。色々とやることが重なり、かつ誕生日ということで、とにかく疲れた。詳細はここでは割愛。

もともとは自分の研究テーマに関係する発表に対する討論をする予定だったのだが、なぜか直前になって変更されたので、付け焼刃の討論しか出来なかったのは残念だったが、まあこれは仕方がないのかもしれない。色々含めて「これも仕事です」と師匠は言っていたが、同じく討論者だった先輩が素晴らしいコメントをしていたので、自分ももっと頑張らなければいけないな、と再確認した。

<土曜日>

5限:プロジェクト科目(政治思想研究)


今回はゲストの先生の関係で土曜日に授業があった。ゲストの先生は小田川大典先生、演題は「政治空間の中の自由 テイラーとスキナーのバーリン批判」。5月末にあった政治思想学会でのご報告と同じ内容だということだが、こちらは授業ということで時間がたっぷりあるので、内容も盛り沢山だった。

最近は、著書一冊のみが指定文献ということが多かったのだが、今回は久し振りにかなり指定文献が多かった。まず本が↓の三冊。

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左から、アイザイア・バーリン『自由論』、クェンティン・スキナー『自由主義に先立つ自由』、チャールズ・テイラー『〈ほんもの〉という倫理』だ。どれも思想に関心があればよく知られた本である。本三冊というとかなり多いようだが、『自由論』は「二つの自由概念」のみの指定だし、あとの二冊は量自体はそれほど多くはない。とはいえ、専門外の自分にとっては読んで理解するだけでなかなか大変だ。

これらの本に加えて、↓の論文も指定文献だった。

・関口正司「二つの自由概念」『西南学院大学法学論集』(第24巻第1・3号、1991-1992年)
・関口正司「自由」日本イギリス哲学会・編『イギリス哲学・思想事典』(研究社、2007年)
・小田川大典「共和主義と自由 スキナー、ペティット、あるいはマジノ線メ
ンタリティ」『岡山大学法学会雑誌』(第54巻第4号、2005年)
・小田川大典「J・S・ミルと共和主義」田中秀夫、山脇直司・編『共和主義の思想空間 シヴィック・ヒューマニズムの可能性』(名古屋大学出版会、2006年)

本当は、David Miller(eds), The Liberty Reader, ( Paradigm Publishers, 2006) のイントロダクションと、バーリン、スキナー、テイラーの箇所を読むようにという指示があったのだが、これは日吉に一冊しかなかったのであきらめ、ネットで見れる範囲を少しだけ読むことしか出来なかった。

これらの文献を読んだ上で臨んだ講演だったので、自分には馴染みのない分野であっても内容はそれなりに理解出来たように思う。ただ、自分の専門と異なる分野だけに、中途半端に読むと逆に質問がしづらくなってしまうのだな、ということに今回は気がつかされた。

副題にある「テイラーとスキナーのバーリン批判」、より具体的にはバーリンの「二つの自由概念」に対する両者の批判が発表のテーマであり、バーリン論ではなくバーリン批判論として聞くべきものだろう。

そのことを踏まえた上でのことだが、テイラーとスキナーのバーリン批判論には若干の違和感を覚えた。というのも、とりわけテイラーの「二つの自由概念」批判の中でのバーリンの議論は、(「二つの自由概念」とともに『自由論』に掲載されている)「歴史の必然性」から受ける印象はあまりに大きく異なるからだ。

そんなことを感じていたところ、先生方二人がバーリンの実像に関するコメントをしていたの、心の中で「ふんふん」とうなずいていたのだが、よくよく考えればそれではだめで、ちゃんと自分の言葉で聞かなければいけなかったのだと思う。

もう一点は、歴史研究と理論研究に関する問題についての議論が興味深かった。こういった悩みは、自分がやっている外交史研究でも常に問題となるところであり、参考になる部分が多い。歴史研究と理論研究の関係については、おそらく国際政治よりも政治思想の方が相互の関係は深いし、それを架橋している研究者も多い。この辺りはまた改めて考えたいのだが、入ゼミ試験以来考え続けている問題なので、そう簡単に答えなど出るわけはないので、これもお蔵入りになりそうだ。

以上は自分が何となく感じた部分についてだが、他の部分についても何人かの先輩から興味深いコメントがあった。やはりちゃんとペーパーを用意しての講義の方が議論は実り多くなるということなのだろう。来週木曜日は授業に出れないので、ちょっと残念だ。

at 15:57|PermalinkComments(2)ゼミ&大学院授業 

2008年06月04日

YS休刊にショック。

五月半ばから囁かれていた「週刊ヤングサンデー」(YS)休刊が正式に決まったらしい。何となく「スピリッツ」との違いが曖昧だったし、まあこういう形で休刊になるのも妥当なのだろう。とはいえ、小学生の頃から「サンデー」派だった自分にとって、サンデー系の雑誌が一つ姿を消すのは何とも言えない寂しさがある。

といってもYSで読んでいるのは、「鉄腕バーディー」「イキガミ」「とめはねっ!鈴里高校書道部」の三つだけだし、単行本は買っても雑誌は買っていないので、「単行本好調も雑誌売り上げ低迷」という報道そのままの自分が雑誌休刊を嘆いても仕方がないのかもしれない。

ある後輩が「ってか、最近、その雑誌に入ってる全部のマンガが面白いって雑誌はないよね。読みたいのだけ読む――だから、立ち読みで済ます。 」と書いていたけど、まさにその通りで、小学生~中学生の頃は、「サンデー」(あくまでこれを最初に持ってくる)、「ジャンプ」「マガジン」に載っている漫画は大抵読んでいたものだ。それは自分の年齢によるものなのかもしれないが……。

そんなわけで最近は時を経て読まれ続けている名作の方に食指が動いてしまう。



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読書時間がなかなか取れなくなり、積読になる本が学術書から新書、小説までどんどん増えている。買っても積読にならないのは、さくっと読める漫画くらいという悲しい状況だ。その漫画にしても、まだまだ読みたいものがたくさん残っている。そんなわけで最近は「速読」で済ます学術書が多いのだが、それでも序章とあとがきはしっかり読むようにしている。

その悪い癖が移ったのか、この前買った本(小島信夫・保坂和志『小説修業』)に「あとがきにかえて」が付いていたので、そこだけ先に読んでしまった。ちなみにこの本は、著者が二人とも好きな作家だったので前々から読みたかったものだったので、今回の文庫化を期に買ってみた。

『小説修業』は2001年に出版されたもので、この「あとがきにかえて」は文庫化にあたって加えられたものだ。親の影響か、1980年代生まれにもかかわらず「第三の新人」が好きな自分にとって、小島信夫はヒーローの一人だ。そんな小島信夫が他界したのは、一昨年のことだ。「あとがきにかえて」は、保坂和志による小島信夫へ向けた追悼文を集めたものだ。

別に何か特別なことが書いているわけではない。ただ一人の小説家についてもう一人の小説家が個人的な思い出を交えて追悼しているだけだ。そんな普通のことが、二人の小説家が好きな自分にとっては特別なものになる。

今週を乗り切って、じっくりと『小説修業』を読みたいものだ。

at 10:30|PermalinkComments(0)本の話