2008年04月

2008年04月28日

この数日。

大学が休みだろうと院棟に通ったり、授業に出たり、バイトに行ったり、先輩に研究相談をしたり、飲んだり飲んだり、家庭教師に行ったり、またバイトに行ったり、萩尾望都ブームが到来したり。日常。こんな平凡な毎日でも色々なことを考えたりするわけだ。

バイトは色々と面白い経験も出来るが、やはり腰を据えて自分の研究をやる上では出来る限りやりたくないというものだ。GWで周りの人があまりこないこともあり、次の出勤は約2週間後。この間にたまっているやらなければいけないことの数々をこなしておきたい。



先週の授業の話。

木曜日は授業の日だ。2限は、イギリスの公刊資料集であるDBPOを読もうという授業。今回の授業は、前回の記事に書いた本をテキストにディスカッションをした。自分が修士一年の時は、他分野だろうと何だろうと、無知をさらけ出しながら好き勝手にしゃべっていた。これが出来るのは、専門が固まる前の修士一年の特権でもある(俺は今でも好き勝手に話してるけど)。が、この授業では、なかなか修士一年生が話さないのが残念だ。もっとも、自分を含めて数年間この授業を取り続けている人たちが作り出す「馴れ合いの雰囲気」のようなものが、そうさせているのかもしれない。

4限は、Richard J. Samuels, Securing Japan: Tokyo's Grand Strategy and the Future of East Asia の輪読。これは、授業が終わるまでノーコメントということにしたい。が、一つだけ。やっぱり先行研究をしっかり読んでいない本を精読するのは辛い。

5限は、プロジェクト科目。テキストは先週に続いて↓

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著者がいるにも関わらず有意義な討論にならないのはなぜだろう、と少し考えてしまった。

ある先生の「『思想を殺す思想(=原理日本社の思想?)』に対する警戒感が必要」というコメントは納得できるものだが、その発言の裏にはこの本で扱われている思想そのものに対する嫌悪感があるのだろうな、と感じてしまう。そんな雰囲気を皆が共有しているからこそ、議論がなかなかうまく回らないのだろうか。

そのコメントに対する著者の返答は、「その指摘はもっとも」と断った上で、「右翼思想があのような展開をしたのには、それなりに論理的な理由があったことを明らかにしたかった」(大意)というもので、自分にとっては納得がいくものだった。

「思想を殺す思想」は確かに危険だが、思想だけで多くの人が殺されるわけではない。やはり国家は、力・利益・価値それぞれの体系の総合であり、価値だけをいたずらに過大評価して考えるのは、例えそれが政治思想の授業であっても違和感を覚える。

at 20:28|PermalinkComments(3) ゼミ&大学院授業 

2008年04月25日

齋藤嘉臣『冷戦変容とイギリス外交』(ミネルヴァ書房)

昨日の授業で取り上げた本を紹介しておきます(※授業向けの討論を基にしているので、やや論争的な書き方になっています)。



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齋藤嘉臣『冷戦変容とイギリス外交』(ミネルヴァ書房、2006年)

 冷戦はなぜ終わったのだろうか。冷戦起源論から始まった戦後国際政治史の研究は、徐々にその関心をこの新たな問いに向けつつある。とはいえ、各国の資料公開状況を考えれば、冷戦終結が歴史研究の対象となるには今しばらく時間がかかるだろう。そうした中で、近年注目が集まっているのがデタント期である。実際に冷戦が終結するのは1990年前後であるが、デタント期における冷戦の変容に注目する論者は少なくない。例えば高坂正堯は、デタントによって冷戦が質的に変容したとして、1980年代の「新冷戦」を「『余分』の対立」と形容している。また、日本外交の文脈でも70年代の政策が冷戦後の政策の「リハーサル」だったとする研究もある。デタントを「冷戦の終わりの始まり」と捉える本書は、こうした問題関心と近い立場から冷戦変容期(=ヨーロッパ・デタント期)のヨーロッパ国際政治をイギリスの視点から分析した国際政治史研究である。

 初めに資料面について若干のコメントをしておきたい。巻末の主要参考史料・文献一覧には、未公刊資料としてイギリス公文書館資料及びNATO公文書館が、公刊資料としてはイギリス、アメリカ、フランス、ドイツがそれぞれ挙げられている。しかしながら、各章の注を詳細に検討すれば、アルメル研究の分析に際してNATO公文書館所蔵資料を検討している第三章を除けば、ほぼイギリス公文書館所蔵資料を利用していることが分かる。アメリカ及びドイツについては、イギリスの資料と併記される(例えば第5章注14など)か、第2章の一部(56-59頁)のように公刊文書が部分的に検討されるにとどまっている。このように考えれば、本書はいわゆるマルチ・アーカイヴァル・アプローチに基づいた研究ではなく、イギリスの外交文書に基づいたイギリス外交史研究と考えるべきであろう。
 近年の国際政治史研究では、マルチ・アーカイヴァル・アプローチが好意的に評価される傾向があるようだが、資料レベルが異なる各国の資料を組み合わせることの問題はそれほど自覚的に意識されていないように思う。日本における研究でも宮城大蔵『戦後アジア秩序の模索と日本』(創文社)のような稀有な例外はあるが、本来の意味でのマルチ・アーカイヴァル・アプローチが成功している研究はそれほど多くない。
 本書の目的(の一つ)が「イギリスの視点からのデタント期の考察」にある以上、資料レベルの異なる各国資料をいたずらに組み合わせずに、着実にイギリスの資料を検討していることは、むしろ本書の優れた点であると言えよう。

 閑話休題。冷戦期のヨーロッパ国際政治は、多数のアクターと多様な現象が複雑に絡み合って展開された。東西に分断されたヨーロッパ、域外大国としてのアメリカ(+ソ連?)の関係に加えて、冷戦及びヨーロッパ統合や脱植民地化は相互に関連していた。こうした複雑な国際政治を歴史的アプローチから研究する際に重要になるのは、ストーリーの軸(≒分析視角?)を定めることであろう。ストーリーの軸を定めることによって、複雑さをただ複雑さとして説明するのではなく、どのように複雑なのかを明らかにすることが可能になる。
 本書が対象とするデタント期は、冷戦期の中でもとりわけ様々な要素が錯綜した時代であった。デタントには、MBFR(相互均衡兵力削減)やSALT(戦略核兵器制限交渉)などの軍事的側面と、本書でも取り上げられているCSCE(欧州安全保障協力会議)における「人・情報・思想の自由移動」などある種の文化的側面や、経済的側面などが複合的に連関していた。これらの側面は、「米ソデタント(超大国デタント)」と「欧州デタント」の違いとも関係している。また、デタントの進展には、東西関係だけでなく「西西」関係も重要な影響を与えた。さらにヨーロッパ統合は、1967年にヨーロッパ共同体(EC)が発足し、1973年にはイギリスのEEC加盟が実現し、その文脈が大きく変化していく。
 以上のように複雑なデタント期のヨーロッパ国際政治を、一貫してイギリスの視点から考察した点に本書のオリジナリティと工夫がある。この結果として本書は、イギリス外交史としての意義と同時にヨーロッパ国際政治史としての意義があると言えよう。

 それでは、具体的に各章ではどのようにデタント期のイギリス外交が検討されているのだろうか。前史的な意味合いが強い第一章では、チャーチルからマクミランに至る各政権の東西関係正常化の試みがテーマであり、具体的にはイギリス単独での対ソ接近策が中心的に取り上げられている(対ソ政策?)。第二章は、フランス主導でデタントが進んだ1960年代半ばを対象に、イギリスのデタント政策の変遷を検討している(デタント政策?)。第三章は、「アルメル研究」を検討することによって、NATOが軍事的側面のみならず政治的側面においても役割を果たすことになる過程を明らかにしている(NATO政策?)。第四章は、チェコ事件をきっかけに英ソ関係が悪化し、イギリスがデタントの行方に不安感を抱き、デタントの「管理者」としての自覚を持つ過程が描かれる。その際にイギリスが重視したのは今なお続いていた冷戦をいかに戦うかということであった(冷戦政策?)。第五章と第六章は、CSCEに至る道のりを「人・情報・思想の自由移動」問題に注目することによって描き出している(デタント政策?)。
 ほぼ年代順に叙述されているが、各章のテーマが微妙に異なることは以上のまとめからも明らかであろう。これが「対象」の変化によるものなのか、それとも「観察者」のバイアスによるものなのかは検討する必要があるだろう。一例として、ここでは本書前半と後半の繋がりについて考えたい。

 デタントを考える上でCSCEは重要な出来事であり、本書も後半ではもっぱらCSCEが取り上げられている。それでは前半部のハイライトとなる「アルメル研究」に関する分析は、その後半部とどのように繋がるのだろうか。NATOを舞台とした「西西」関係は、キッシンジャーによる「欧州の年」や石油危機によって悪化していった。こうした事実が本書後半部では一切描かれていない。終章にある著者自身のまとめからは、1960年代後半の「アルメル研究」によってデタントに臨むNATOの体制が確立(再定義?)され、それによってCSCEなどデタント政策の進展が可能になったと読み取ることも出来る。しかし前半部で取り上げられた「西西」関係は1970年代前半も続いていたし、逆にCSCEにおける「人・情報・思想の自由移動」問題に繋がる交渉、1960年代後半から各国間で進められていたのである。以上のように考えると、本書のテーマは前半と後半でやや分裂していると考えられないだろうか。つまり、東西関係の文脈に必ずしも限定されない同盟国間関係が前半の対象であり、後半はデタントという東西関係に焦点が当てられているのだ。なお、CSCEについては本書刊行後、山本健氏によって西側同盟諸国間の対CECE政策に関するマルチ・アーカイヴァル・アプローチに基づいた研究が精力的に進められており、興味深い視点を提示している。

 以上はデタントに注目した検討だが、イギリス外交の文脈からも疑問が残る部分がある。例えば、ヨーロッパ統合(≒EEC加盟)との関係は、このヒース政権の外交政策を考える上で極めて重要な問題である。もっとも、それだけであればヒース外交論として問題があるだけであり、本書全体の枠組みにとっては重要な問題ではない。しかし、「欧州宣言構想」挫折の説明でも、その重要な要因としてEEC加盟問題が取り上げられている。つまり、本書が対象とする時期のイギリスにとってヨーロッパ統合にいかに関わっていくのかは、デタント政策以上に、重要な問題だったと言えるのかもしれない。
 ここまでの若干の検討からも明らかなように、複雑なヨーロッパ国際政治を一貫した論理に基づいて検討することは容易ではない。以上に挙げた問題の他にも、ドイツ問題の進展(東西ドイツの相互承認など)はデタントの進展と大きく結びついていたこと、本書の議論がそのまま冷戦終結論と結びつくわけではないこと、などの点についてもさらなる検討が必要であろう。

 授業での討論を基にしたこともあり、やや批判的な紹介になってしまったかもしれない。しかし、本書がデタント期のヨーロッパ国際政治を考える上でも、また戦後のイギリス外交を考える上で、重要な視座を提供していることは間違いないだろう。最後になったが、アルメル研究を取り上げた第3章を、デタントやイギリス外交の文脈にとどまらない示唆を持つ重要な章として挙げておきたい。

at 23:55|PermalinkComments(0) 本の話 

2008年04月22日

親方、ティファニーへ。

先週半ばから色々と慌ただしい。

特に木曜は、大学→バイト先→大学→家庭教師、というハードスケジュールだった。備忘録がわりに、木曜の授業について簡単に書いておくと↓な感じだった。

2限:国際政治論特殊研究

DBPOを読む授業だが、初めの数回は関係する文献などを読むので、DBPOに入るのは連休明けになる。今回は、先生が講義形式で「外交史料読解入門」について。…のはずだったのだが、担当者決めやら雑談めいた話がメインだったような気もする。今年は「イギリス外交と(ヨーロッパ)デタント」がテーマということで、先生の話もそれに引きつけたものだったが、同じ外交史料でも国によって大きく内容が異なる、ということを再確認した。確かにイギリスの外交文書は、組織的な政策決定がしっかり行われていることや、文書管理が徹底していることもあって、体系的にまとめられていて読みやすい。その結果として、外交文書をまとめるだけで歴史がある程度書けてしまうわけだが、それだけで学問的に面白くなるわけではない。そんなことをDBPOを読んでいて感じたことがある。さて、今回の授業はどう進んでいくのだろうか。

4限は、バイト先で仕事があったためお休み。

5限:プロジェクト科目(政治思想研究)

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今年から准教授(有期)になられた先生が「ゲスト」スピーカーだった。公演自体は↑の話の続きのような話で、日本の「戦時思想」について。まぁ、何と言うかすごい2時間だった。この話は今週のディスカッションを踏まえて書くことにしたい。

ちなみに↑の本は、各章の副題が面白い。

第1章 右翼と革命 ―世の中を変えようとする、だがうまくゆかない
第2章 右翼と教養主義 ―どうせうまく変えられないならば、自分で変えようとは思わないようにする
第3章 右翼と時間 ―変えることを諦めれば、現在のあるがままを受け入れたくなってくる
第4章 右翼と身体 ―すべてを受け入れて頭で考えることがなくなれば、からだだけが残る



日曜は、戦後東アジア国際政治研究会で「戦後東アジア国際政治史の道標―各国の史料館情報並びに各種資料の紹介を中心に」という企画があり、日本の部分を担当させていただく。

今回の企画は「史料館の歩き方」というイメージだと事前に聞いていたのだが、司会者のコメントを聞いていると、そこから一歩踏み込んでそこにある資料を使って何が出来るのか、について考えていくことにもう一つの目的があったようである。いくつか重要な指摘があったが、その中の一つはアメリカ外交の専門家からのある意味でのマルチ・アーカイヴァル・アプローチに対する批判だ。そこで思い出すのが、『創文』2007年7月号に掲載された酒井哲哉による川嶋周一『独仏関係と戦後ヨーロッパ国際秩序』の書評にある一節である。

…国際秩序の重層性という指摘を行うのはたやすいことであるが、実際に多次元的な関係性を読みやすく書くことは至難の技である。複数国の外交文書に基づく、マルチ・アーカイヴァルな接近方法を採れば、自動的に実証性の高い研究が生まれるという考えは実は間違っている。役者の数が多いほど、劇作家は主役と脇役を上手に配する構想力を身につけねばならないのである。多次元的な分析の難しさを、ドゴールに焦点をあてることで解決した点は、著者の慧眼であると思う。

この話は、授業のために読んだ本を読んでいても感じたことがあるので、改めて書きたい(最近改めて何かを書いたためしが無いが)。

ちなみに自分の発表は、史料館紹介とは名ばかりに「情報公開法の使い方」をメインにした。日本の史料館/資料館は諸外国のようなインフォーマルなルールやこつはあまりないし、何より館員が親切なので、二回くらい行けば誰でも使うのに困ることはないからだ。もっとも、そこに入っている資料そのものに問題があるわけだが、それはまた別の話だ。



そんなこんなで、色々とやっている内に四月も下旬になってしまった。課題が山積しているので、連休明けまでに全て片づけて研究に取り組みたい。

at 10:17|PermalinkComments(0) 日々の戯れ言 

2008年04月16日

頭の使い方。

先週はガイダンスだったので、今日からようやく本格的な授業が始まった。

春学期恒例の「六本木遠征」が無くなってしまったので、水曜日は師匠の授業だけだ。

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コンパクトな本ながら、とにかく濃い本というのが熟読しての印象だ。「これくらいは知っていて当たり前だよね」ということなのかどうかは分からないが、ヨーロッパの知的伝統の蓄積を前提に書かれているので、文法的に分かっても内容が分からない箇所がままある。

今日はPrologueとPart?:International SocietyのChapter1 Origins and Structureが範囲だった。とにかくPrologueが難しい。Millenniumの話に始まり、Postmodern relativismなどの話をさらりと触れながらの導入は知的にかなり高度というか難解だ。その点で、具体的に内容に入っていくChapter1の方が分かりやすかった。発表者がかなりうまくまとめてくれたので、自分が読めていなかった部分を含めて何とか理解できた。

今回の授業は、本全体の導入ということもあり、先生なりの本全体の解釈を提示しつつ、やや総論的な議論となった。

研究発表にしても輪読にしても、ゼミ形式の授業の多くは発表者が内容報告やコメントを行い、それをもとに淡々と議論が行われるというのが通常のやり方だが、師匠の授業方式はこれとは大分異なる。発表の途中でも、重要だと思えばコメントや補足が適宜入っていくし、そこから浮かび上がる疑問を学生にぶつけてくるというなかなか緊張感がある授業だ。

そんな中で今日面白かったのは、いわゆる3つのR(Realism, Rationalism, Revolutionalism)とSolidarism & Pluralismに関する議論だ。こういった理念型が提示されると、学生はついついいつもの癖でそれを図式化して考えがちだ。この場合だと、例えば横に三つのRを並べ、縦にSolidarism & Pluralismを並べるマトリックスが出来上がる。そうすると、様々な考え方を6個に分類することが出来るわけだ。しかし、である。著者の意図はそういったところにあるだろうか。

本を読む時に著者の意図を考えるのは当然のことだが、授業の議論では先に述べたように、ついつい意図よりも提示された議論を論理的に突き詰めていくことに意識を傾注しがちになる。そこで根本に立ち返って著者の意図を考えてみよう、とうのが実質的に初回である今日の授業の展開になった。

本書の具体的な内容や紹介については、授業が全て終わったところで改めて書くことにしたい。

今日の授業を通して、この二年間すっかり離れていた、学部時代のゼミでの「頭の使い方」を思い出してきたような気がする。先週&今週は、学部ゼミの運営(?)について新しいゼミ生に説明をしたり、学部生当時の初々しさ(?)のようなものが蘇ってきた。これがうまく研究の進展にも繋がってくれればいい、などと考えてはいけないのだろうが、ともあれ今学期はなかなか楽しいスタートになった。

at 18:29|PermalinkComments(0) ゼミ&大学院授業 

2008年04月14日

読書会。

大学院生の週末と言えば(?)、研究会、読書会である。研究会には二つほど定期的に参加させていただいているが、これまで学内も含めて読書会はやってこなかった。年明けに「冷戦史の読書会をやろう」と声をかけてもらい、三月に第0回(準備会合?)をやり、昨日ようやく第1回の読書会を開くことができた。課題本は↓

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右の本は、2005年版ではなく1982年版(「転向」前のギャディスをしっかり読みたい担当者の意向)。『ロング・ピース』は学部時代に必ずといっていいほど読まされる本だが、大学院生となって改めて読んでみるとまた違った視点から面白い。もちろん、いまいちよく分からない部分もたくさんあるわけだが…。Strategies of Containment の2005年版(ペーパーバック)は持っているので、昨日の議論を踏まえた上でじっくり読んでみようと思う。色々な意見は出たが、いくつかは今後読んでいく予定の文献にうまく繋がりそうで楽しみだ。

こういった読書会は大学院一年目から始めるのもいいのかもしれないが、やはり各自の専門分野がおぼろげながら固まってから始めた方がいいのかもしれないな、と一回やってみて感じた。

ともあれ、各回しっかりと課題図書を設定し、こうやって同世代で集まり遠慮なく自分の好きな意見を言える読書会が始まったのは嬉しい限りだ。研究発表主体の研究会もいいが、そこでの発表は最先端ではあってもまだ試論的な意味合いが大きい。出版され年月をこえて読み継がれている本は、ある意味で「品質保証」があり、それをじっくりと読んでいくのは重要なことだ。人数的にもちょうどいいくらいなので、このペースでコンスタントに続いていけばいいと思う。

at 10:12|PermalinkComments(0) 日々の戯れ言 

2008年04月12日

新しいキャレル。

一応、あくまで一応であるが、我が大学では大学院生は院棟に自分の机とロッカーを貰えることになっている。木の板で仕切った机を二人で共用はないだろうとか、京大は24時間使える研究室があるのになー、などと思い、入学当初はあまり使っていなかったのだが、手元にいろいろと資料を置いて研究を進めるには意外といいので、結局去年は論文を書いている間ずっと通いつめていた。図書館、ロースクール棟の自習室を使う手もあるのだが、移動が面倒というものぐさな理由で最近はもっぱらキャレルを使っている。

年度ごとに場所を変わらないといけないのは面倒だが、同じ場所ばかりでは飽きるのでそれはそれで悪くない。一年目は、北側の窓際で人も少なく東京タワーが見えるという結構いい場所だった。二年目は、入口近くの席だったが、隣が某後輩ということで意外と悪くなかった。今年は、南側の窓際というこれまたいい席だ。中の環境はもちろん良くないが、窓を見れば今までと違う景色が楽しめる。日当たりがかなりいいので、夏は暑そうだが…。難点は自分のキャレルの電源が「死んでいる」こと。机の電気がつかない、といのはいかがなものだろう。幸いちょっとだけ離れたところの電源は使えるので、パソコンを使う際はそこの電源を使うことにした。

そんな感じで、新しいキャレルを使いつつ、授業や勉強会関係の文献を読む毎日だ。早く「貯金」を作って、新しい研究に取り組みたいのだが、四月五月は読む量がやや多いので、結局あと一週間くらいは研究にかかれそうにない気がする。焦らず着実にこなしていきたい。



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一昨日読了。もっぱら速読派の自分としては異例なほど時間をかけてじっくり読んだ。

読み始めた時は、学部時代に受けていた授業はこの本の中から、先生がうまくその時々の関心に沿って事象をピックアップして話していたのかなと思ったのだが、自分が書いたノートを見返してみるとこの本には載っていない話も結構先生が話していることに気が付いた。書き上げた直後から今でも「迷い」がある本だ、と言うことの意味が少しだけ分かったような気がする。

今日の国際政治は経済問題と、国際経済は政治と切っても切れない関係にある。本書は両者にまたがる広大な領域に挑み、しかもそれを一つの一般理論で切るのではなく、社会科学の古典や歴史的知見に学びながら、多角的な記述とポイントをおさえた資料によって、複雑なリアリティをすくい上げていく。変動する世界と知的に向き合うための最良の一冊。


という出版社の紹介と帯の説明文は、簡略ながら要を得た本書の説明となっている。

それにしても幅が広く深い。研究に求められるのは、やはり議論の明快さが一番重要だと思うのだが、学部時代の教育として重要なのは明快さよりも、世の中が多面的なものだということを認識することだと思う。もちろん多面的なものをただ多面的と考えるだけでは不十分であり、それをうまく整理しつつ論じていくことが大切なのは言うまでもない。北米流のIPEに関する日本語の教科書は最近になってかなり増えてきたが、はっきり言ってしまえばそれは英語で向こうの教科書を読めば済む話だ(読めればだが)。

この本は、そうした教科書とは一線を画している。古今東西の古典や研究を引きながら、幅広く国際政治経済を論じている。第一章では、基本的な概念やその相互の関係を論じ、本書全体の骨格となる認識を紹介している。政治経済という領域はやや分かりにくい領域であり、この整理をせずに各論に進むとますます議論が分からなくなってしまうからだろう。そして、第二章で国際政治経済全般について史的概観を行う。とかくこの分野は「今」に関心が集まりがちであるが、そこを焦らずにまず歴史を振り返ってその中に「今」を考えようとするところが著者らしい。この第二章までが、本論に入るまでの基礎部分といったところだろうか。

そういった意味では、第三章~第五章が各論ということになる。第三章では「富をめぐる政治学:市場とその限界」を、第四章では「権力をめぐる経済学:国策と経済」を、第五章では「世界政治経済の構造論:社会システムと経済」をそれぞれ射程に置いて説明が行われている。初めの二章とこの三つの章を踏まえた上で最後に置かれているのが第六章「グローバル化の諸問題」である。ここでようやく本書は「今」を正面に据えることになる。はじめから「今」を論じるのではないところに、大学で学ぶべきことはどういったことか、という著者のイメージが表れているように思う。

全体で300頁を超える教科書だが、右半分は全て引用(及び著者による補足説明)であり、左半分だけ読めば150頁程度である。文字のポイントも比較的大きめなので、まずは左半分のみをじっくり読んでいくといいだろう。学部で読んでももちろん面白いと思うが、自分が研究の領域に少し足を踏み入れかけている時に読んだことによって本書の面白さは倍増したとも思う。

次は教科書ではなく師匠の研究をじっくり読みたい。

at 11:58|PermalinkComments(0) 本の話 

2008年04月10日

授業スタートなどなど。

大学院も三年目ともなると、何事もないかのように授業が始まってしまうものだ。

新学期に新鮮さをあまり感じないというのはちょっと切ない。が、それでも新しい授業があったり、師匠が帰国したり、と実は重要な変化があったりする。他には、花粉症の時期恒例の風邪を引いたり、と色々あります。

今期は、これまで二年連続でもぐっていた六本木の某大学の授業に出ないことになったので、授業は三田だけというやや変化がない生活になりそうだ。もちろんバイトは去年と同様にあるし、新たに読書会を始めたりということで、必ずしも三田にこもるわけではない。んー、でも他流試合は刺激も受けるし気分転換にもなるので、それが全くないというのは残念でもある。

ひとまず取る授業は今のところ↓といった感じだ。

<水曜日>

3限:国際政治論特殊研究

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待望の師匠の授業。大学院で授業を受けるのは初めてなので、期待半分怖さ半分といったところ。今年は、いわゆる「英国学派」の国際政治理論のテキストの輪読形式 だ。テキストは、Chris Brown, International Relations Theory : New Normative Approaches の予定だったのだが、現在普通には手に入らないということで、急遽、James Mayall, World Politics : Progress and its Limits に変更になった。残念ながら所用のため参加できなかったのだが、昨年著者のMayall氏が来日した際にセミナーがあり、この文献が事前に提示されていたので少し目を通したことがあるが、短くコンパクトながらもとにかく内容の濃い本なので、授業で精読する機会を得たのは嬉しい。今期、最も楽しみな授業だ。

<木曜日>

2限:国際政治論特殊研究

学部三年時からかれこれ五年間お世話になり続けている授業だ。大学院では、「外交史料を読む」をテーマにDBPOとFRUSを毎年交互に読んでおり、今年はDBPOの年になる。今回読むのは、ヨーロッパ・デタントの刊の一部だ。DBPOに入る前に、同時期を扱った邦語文献として齋藤嘉臣『冷戦変容とイギリス外交 デタントをめぐる欧州国際政治、1964~1975年』(ミネルヴァ書房)と、最新の研究及び「70年代論」として英語文献ニ本を読むことになっているので、昨年までよりも、うまく内容と議論がかみ合うのではないだろうか。自分の専門とする時代が70年代ということもあるので、ちょっと違った角度からではあるが、授業での議論等を研究を進める上でも参考にしたい。

4限:国際政治論特殊研究

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指導教授の授業。今年はRichard J. Samuels, Securing Japan: Tokyo's Grand Strategy and the Future of East Asia の輪読。基礎演習?と時間が重なったこともあり、研究生を除くとほぼゼミ員だけというのが残念ではあるが、Japan Studiesをしっかり読むいい機会なので、どういった議論になるかは楽しみだ。ただ、パラパラと読んでみる限りでは議論が曖昧、取り上げている文献が恣意的、といった印象があり、さてどうしたものかな、といった感じもある。やはり言説分析は研究としては難しいということなのだろうか。ただ本のアイデア自体は興味深いものなので、読みながら色々と考えていきたいと思う。

5限:プロジェクト科目(政治思想)

この授業には学部三年の時に出させていただき、さらに大学院進学後もずっと出ている(ただし昨年秋学期は論文執筆に追われていたので一部しか出なかった)。政治思想は専門外だが、これは半分趣味でもあるので、この授業は毎年楽しみにしている。正直なところ各回で当たり外れはあるのだが、それでも当たりに巡り合った時に、その先生とじっくり話すことができるのは貴重な機会だ。それをきっかけにさらに研究を読み進めることもできるし、他分野の院生の気軽さにはぴったりの授業だ。といったら自分に都合良く考え過ぎだろうか。周りにも少しは知的貢献ができるように頑張りたい。

とまあこんな感じで春学期は進むことになる。アカデミック・ライティングなどを取るべきかはちょっと考えたのだが、少し自分で勉強をしたいということと、まとまって一人で研究する日を平日に持ちたいということで少なくとも春学期はやめるつもりだ。

こうやって眺めてみると、三年ぶりの師匠の授業を除けば、他は昨年一昨年と変わらない。もちろん年によって内容は異なるのだが、ややマンネリ化しているような気がしなくもない。植物と同様に、人間もたまに環境を変えるのが大切なので、ちょっと来年以降を見据えて考えていく必要があるだろう。今年はまた一年修士をやるのでいいとしよう。その代わりに、自分の研究や、他大学の院生との研究会や読書会の場を生かしていこうと思う。

at 23:20|PermalinkComments(0) ゼミ&大学院授業 

2008年04月06日

佐々木卓也『アイゼンハワー政権の封じ込め政策』(有斐閣)/高坂正堯『海洋国家日本の構想』(中公クラシックス)

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↑早速読み始めました。ほぼ読み終えてのとりあえずの感想として、一番最初に読む時は引用文献はあえて無視して、左半分の本文をじっくりと咀嚼して自分の頭で理解することに専念するべきなんだろうな、ということを思った。

文章自体は平易なのだが、説明していること自体は非常に複雑かつ多様である。よく内容を理解しないままに引用文献にも目を通していると、その複雑さや学問体系の多さにアタりそうになる。まず分かりやすく書かれている本文をじっくり読んだ方がよさそうだ。

300頁を超える本の約半分が充てられているのだから当たり前なのかもしれないが、とにかく引用文献が膨大、そして幅が広い。ついつい全ての引用文献を読みたくなる衝動にかられるが、それをしても師匠の後追いにしかならないことは分かっているので、そんなことはやるまい(というか多すぎて無理だし)。それでも、挙げられている古典くらいはもう少ししっかり読みこむ必要がありそうだ。『人間不平等起源論』とか、『法の精神』とか。



簡単に紹介、と思ったのだが長くなってしまった↓

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佐々木卓也『アイゼンハワー政権の封じ込め政策』(有斐閣)

 『封じ込めの形成と変容』(三嶺書房)以来、戦後初期のアメリカ外交史研究を着実に進めてきた著者による待望の新著である。トルーマン政権における封じ込め政策の形成と変容を明らかにした前著の続きとして、アイゼンハワー政権期の封じ込め政策が本書の検討対象である。本書のもとになった論文は『立教法学』等に掲載されたものであるが、論文発表後に刊行された最新の研究を踏まえた上で、全編に渡って修正が加えられており、本書はほぼ書き下ろしと言っていいだろう。

 本書の叙述は、第一章でアイゼンハワー政権における大量報復戦略に基づく封じ込め政策の形成過程に関する分析によって始まる。はじめにアイゼンハワー政権の基調をなす戦略の形成過程が明らかにされることによって、21世紀を生きる我々にとってややイメージが湧きにくい、専門的な核戦略の議論も比較的すんなりと入ってくるだろう。
 アイゼンハワーは、財政赤字の縮減を政権の至上命題として掲げていた。それは、核戦力へ依存し通常兵力を削減するという大量報復戦略へと結びついた。この大量報復戦略は、軍事費を長期的に耐えうる規模に抑えなければ、アメリカが「兵営国家」になってしまう、という信念に基づくものであり、告別演説まで一貫する政権の基本政策であった。こうした政権の基本姿勢は、様々な委員会による軍事費増額要求や後の柔軟反応戦略に繋がる民主党からの圧力、さらには同盟諸国との関係を重視するダレス国務長官の「転換」によって変化を迫られることになり、いくつかの妥協を行うが、結局アイゼンハワー政権がその封じ込め戦略を大きく変えることはなかった。

 以上の封じ込め政策の軍事的側面に加えて著者が強調するのが、東西文化交流などの封じ込め手段の多様化である。近年、日本でも冷戦をその軍事的側面だけからではなくより広い文脈から捉えなおす試みが始まっている(例えば、『国際政治』第134号の特集「冷戦史の再検討」を参照)。しかしながら、こうした試みでは、なぜ冷戦の文脈を軍事的側面から広げる必要があるのかが必ずしも明らかではなかった。冷戦という国際秩序の根幹に関わるものの影響が広範にわたるのは事実であるが、だからと言っていたずらにその分析の射程を広げることは議論を拡散させてしまうだけである。それに対して本書は、大量報復戦略の形成過程を分析し、その後の封じ込め政策の展開に、スターリン死去後のソ連の軟化や軍事対立の膠着化に伴う冷戦の変容を重ね合わせていくことによって、東西文化交流が封じ込め政策の一手段としての意味を持ったことを明らかにしており、説得的である。

 史資料の充実、系統だった政策決定過程の存在などもあり、アイゼンハワー政権期のアメリカ外交研究はこの20年近くにわたって断続的に進められてきた。ダレス主導というイメージが強い初期の研究に対して、近年の研究はアイゼンハワーの指導力を強調する傾向が強い。本書は、そうした論争からは一歩身を置き、アイゼンハワー政権期の封じ込め政策についてバランスの取れた外交像を描き出そうとしている。とはいえ、膨大な数がある先行研究との差異がどのような点にあるのか明解でないのはやはり残念な点である。
 先行研究との差異が明らかにされていないことは、例えばダレスの政策転換について読者に疑問を残す。なぜダレスは政権後期になって大量報復戦略の修正を唱え始めたのだろうか。本書ではダレスの転換は数ページ(127-129頁)で簡単に紹介されているだけであるが、従来の研究ではダレスの転換は同盟諸国との関係を重視したことによると説明されており、これは封じ込め政策の質的変化を考える上で本書が重要視する東西交流の進展以上に重要なことではないだろうか。
 
 こうした疑問は残るものの、日本語でバランスの取れたアイゼンハワー外交論が体系的にまとめられた意義は我々にとって大きいだろう。アイゼンハワー政権期の外交政策を考える上で、石井修の名著『冷戦と日米関係』(ジャパンタイムズ)とともに、基本書としてまず手に取るべき一冊としてお薦めしたい。



勢いでもう一冊。こちらは短評で。

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高坂正堯『海洋国家日本の構想』(中公クラシックス)

 『宰相吉田茂』に続いて、高坂正堯の初期の著作がまた一冊中公クラシックスに加わった。著者の論壇デビュー作である「現実主義者の平和論」から表題作「海洋国家日本の構想」まで1963年から64年にかけて発表された七本の論文が本書には収められている(さすがにデビュー作「現実主義者の平和論」からは気負いが感じられるが、著者ならではの平易ながらも明晰かつ深身のある文章が、29歳から30歳に書かれた論文ですでに完成していることには嘆息せざるをえない)。
 各論文の概要や本書の意義については、中西寛教授の解説(「時代を超えて生きる戦後論壇の金字塔」)に詳しいのでここに改めて書く必要はないだろう。ここでは本書について、私の知的関心に引き付けて二点だけ指摘しておきたい。第一に、本書は戦後日本の論壇に発表された数少ない国家戦略論であった。戦略の戦略たる所以は、数十年という単位で意味を持ち得る議論を展開している点にある。残念ながら若き著者の試みが受け継がれ、「グローバル・シビリアン・パワー」(船橋洋一)や「ミドルパワー」(添谷芳秀)などそれなりにリアリティを持った戦略論が展開されるようになるには、冷戦終結を待たなければならなかった。もっともその一つの理由は、「海洋国家日本の構想」がすでにそれ自身として十分に体系的であったことにあるのかもしれない。
 第二は、その著者が「現実主義者の平和論」で原型を示し、その後に続く各論文で詳述し、「海洋国家日本の構想」で体系的に整理された政策構想が、時代は若干異なりいくつかの留保は必要なものの、中国との接近や在日米軍の有事駐留への切り替えといった点で、右派社会党や民社党の唱える政策にかなりの程度まで類似していることである。これは、著者の考えがそれらの政党と近かったと考えるよりも、自民党政権のオルタナティブとなり得る政策構想を一部の野党が持っていた、と考えた方が知的には面白いだろう。こうした著者が「現実主義者」を自称せざるを得なかった、ということもまた同時に興味深いことである。
 戦後日本の歴史を振り返る上でも、そして今後の日本の針路を考える上でもじっくり読まれるべき本書が中公クラシックスの一冊として復刊されたことを素直に嬉しく思う。

at 23:47|PermalinkComments(0) 本の話 

2008年04月05日

祝い事。

「祝い事」といっても、別に誰かが結婚するといった話ではない。

自分の学部卒業とほぼ同時期から在外研究に行っていた師匠が帰国したのだ。一時帰国の際には会って話をすることもあったし、メールでやり取りすることも出来たわけだが、やはり本拠地がケンブリッジでは遠い。逆説的ではあるが、インターネット時代の今だからこそ、直接会って話すことが大切なのだ。

一昨日あった入ゼミ試験(?)で少しお手伝いをして、その後、盟友の某後輩とともに久しぶりに夕食をご馳走になりながら色々と話をした。夕食後は、後輩とと店を変えて一杯やりつつ、やる気の高まりをお互いに確認。大学院2.0のスタートだ。

「師匠」と書いているが、別に手取り足取り指導をしてもらうわけでも、また見取り稽古で鍛えてもらうわけでもない。久しぶりにゆっくり話し、自分たちのことを「よく見ているようで見ていないようでやっぱりよく見ている」な、ということを再確認した。ともかく、このやる気をうまく実生活に結び付けていきたいところだ。

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師匠関係で嬉しいことがもう一つ。待望の新著が発売になり、つい先ほど入手した。講義をもとにした教科書ということだが、それだけに幅広く充実した内容になっている。図らずも自分の研究に直接関係することになっただけに、ゆっくり時間をかけて精読したい。まだパラパラとめくっただけだが、古今東西の古典から引用が、授業同様になされているのが目に付く。左半分が本文、右半分が引用、という思い切った構成になっており、これは編集作業の大変さがよく分かる。

また読んでもいない段階でこのコメントを書くのは適切ではないのかもしれないが、「あとがき」にある「もし本書が読者の支持を受け、版を改める機会があれば、色々改善したいと今から思っている」という一文についつい期待してしまう。井上寿一『日本外交史講義』(岩波書店)以来の、充実した「教科書」という予感があるので、とにかく腰を据えてじっくり読み込もうと思う。



『国際政治経済学』購入のついでにまた色々と本を購入し、さらに図書館でも色々と借り出す。そんなわけで、また積読リストが増えていってしまう。先月は小説や漫画を除いても20冊以上の本を読んだと思うのだが、なかなかそれをアウトプットする機会がなく、自分の中で消化しきれていない。

今日借りた本の中で目に付いたのは、Iokibe Makoto, Caroline Rose, Tomaru Junko, and John Weste (ed.), Japanese Diplomacy in the 1950s : From Isolation to Integration, (Routledge, 2007)。論文集なので、全体をパラパラ読んで、あとは興味のあるものを拾い読みしていくことになると思う。前書きには「マルチ・アーカイヴァル・アプローチに基づいて」という一文があるのだが、いくつかの章を眺める限り、資料的にはイギリスやアメリカが中心で日本の資料はあまり使われていない印象だ。この辺りは、日本外交史プロパーの人間が頑張れ、ということだろうか。

本をパラパラ眺めているだけで、Japan Studiesの文献がこの数年にかなり出ていることが分かった。日本とアフリカの関係などは、日本よりもイギリスなどで研究が進んでいるようだ。バンドン会議と日本の本が英語でも出ていることなどは全く知らなかったので読んでみたい(著者がこの前の研究会後の懇親会で横の席にいた人だったというのにさらに驚く)。



本や論文は、読みっ放しにするといつの間にか中身をすっかり忘れてしまうことがあるので、もっと色々な人に話したり(周りの人に迷惑)、短評でもいいのでここで紹介したり(公共のインターネットに悪文の垂れ流し)、しつつアウトプットにも努めたい。

それにしてもこの二ヶ月は出版物が多過ぎる。

at 14:42|PermalinkComments(0) 本の話 

2008年04月03日

新年度が始まりました。

2008年度が始まりました。

学部同期に続いて、大学院入学同期までもが就職するという状況になってしまったわけだ。年度末から研究会、シンポジウム、仕事などなどをこなしている内に、あっという間に4月3日になってしまった。



自分の中では、これまでの大学院生活二年間の決算であった先週末の研究会発表が無事終わったことが何より大きい。当日は絶好の花見日和で、会場の九段下の某大学へ向かう道は花見客で大渋滞だった。そんな中、20人以上の方に参加していただいたことに恐縮至極だ。

修士一年目はお世話になっている先生の忠告にも関わらず、結局「学部五年生」だったことを考えると、修士二年目は、ようやく自分の研究テーマが定まりそこから論文執筆に向けて邁進した一年だった。公私ともに山あり谷ありの一年だったが、トータルで考えれば非常に充実した一年だったように思う。

発表させていただいたのは、若手の日本外交史家が集う研究会であり、参加者の中には学部時代のシラバスに名前が載る先生もちらほらという恐ろしい状況。加えて、討論者をして下さったのは、自分の論文でも引用させていただいた比較政治が専門の先生だった。それなりに歴史研究としてのオリジナリティはあるつもりだったが、政治学的な問いは明示せずに書いた論文だっただけに、どういったコメントをしていただけるか正直なところかなり不安だった。

そういった客観的な状況を考えると、討論者の先生に自分の研究について、様々な角度からオリジナリティを指摘していただき、さらにそこから浮かび上がってくる疑問を提起していただき、それを起点に多くの先生や先輩方にコメントをしていただけたことは非常に嬉しいことであるし、かなり「成功」だったと言っていいのかもしれない。

まだまだ色々な点で足りない箇所はたくさんあるし、プレゼンテーション能力は上げていかなければならない。とはいえ焦らずに、今はまず自分がやってきたことの意義を冷静かつ客観的に捉えなおし、そして次の研究に進んでいけるようにすることが肝要なのだろう。

一番大きな反省点は、研究を行う上での「分析視角(Perspective)」のアピールが十分に出来なかったことだ。ある「事実」があった時に、その全体像を捉えようというのも一つの研究手法である。しかし、そもそも自分が一つの研究としてまとめようという「事実」の範囲の確定もそう容易なことではない。今回の場合は、自分が今後数年の間に研究したい「大きな事実のまとまり」の中の一部を取り上げたに過ぎない。そうである以上、意義付けの仕方も自ずとのその「大きな事実のまとまり」の一部としてなされることになる。ここで重要になるのが「分析視角」、つまり研究対象の意義付けの仕方だ。ある「分析視角」から見て重要なことが、違う「分析視角」から見ればそれほど重要でない場合は多い。もちろん、それによって重要な「事実」が捨象されるのは問題かもしれないが、それはあくまで「分析視角」の有用性の問題であるはずだ。その「分析視角」の有用性の議論ではなく、あえて捨象した「事実」そのものに議論が集中してしまったことは、プレゼンテーションの仕方や応答の仕方に問題があったのだろう。

こんな抽象的な言い方ではよく分からないと思うので、興味があれば直接聞いて下さい。

ともあれ、自分にとっては非常に充実した時間だった。それが参加者にとってもそうであれば嬉しいのだが、その自信はまだない。とりあえず、今回の研究テーマやより広い今後の研究テーマの面白さが、自分だけでなく参加者の方にも共有されているものだということが分かったのは非常に重要なことであり、その点は自信になった。



毎日毎日を大切に今年度も頑張ろうと思いますので、ご指導ご鞭撻のほど、宜しくお願い申し上げます。

at 11:05|PermalinkComments(2) 日々の戯れ言