2008年03月
2008年03月01日
マニアックな外交史研究者にしか分からない話。
悪いことがあればいいこともあるわけで、本業の研究では明るい報せが届いた。以下は、マニアックな外交史における資料の話。
日本を研究対象にしているので、外国を研究対象にしている研究者と比べれば資料へのアクセスという点では恵まれているはずだ。実際、外交史料館は大学から徒歩15分の場所にある。しかし、比較的新しい時代(といっても自分が生まれるよりも前)を研究対象としているので、まだ文書がほぼ一つも外交史料館に移管されていない。いわゆる「30年ルール」に基づけば、1978年までの文書は移管されているはずなのだが、実際にはまだ1960年代半ばに発足した佐藤政権の文書公開が緒に就いたばかりだ。池田政権の文書はそれなりに充実してきたが、それでもまだまだ英米の文書公開状況と比べると見劣りするのが現状だ。
こうした状況の原点にあるのが、文書公開の原則の違いだ。英米は「原則公開」で日本は「原則非公開」というのが現状である。あまり正確な言い方ではないのかもしれないが、英米は原則公開の文書を「30年ルール」に基づいて「非公開」にしているのに対し、日本は原則非公開の文書を「30年ルール」に基づいて審査の上で公開しているのである。ちなみにイギリスでは、この30年をさらに短くしようという話すら出ている。もちろん、英米の文書公開もそれほど単純ではないのだが、ここではその話は置いておこう。
文書公開原則は、外交文書に限らない公文書の話だ。文書公開の状況は、他の省庁に比べれば外務省はまだ進んでいる方であり、戦後の外交文書は昭和51年(1981年)から30年を経過した文書が、審査を経て公開され始めた。この「戦後外交記録公開」は、現在までに20回を重ねており、現状は先に書いたとおり佐藤政権の公開が緒に就いたところである(田中=ニクソンのハワイ会談なども一部公開されているが、研究で十分に使えるものではない)。
しかし、である。この日本の「戦後外交記録公開」はあくまで「原則非公開」の枠内で行われているため、結果的に英米の資料と比べると大きく見劣りしてしまう。また、同時に重要なのが公開のスタイルだ。日本の外交文書を引用する際にしばしば目にするのが「A'1.5.2.24」「E'4.1.0.7-9」といった番号だ。最初のアルファベットは、テーマの違いを表しており、「’」は戦後という意味である。こうした資料の原典表示は、日本だけではなく諸外国の外交文書を引用する際にも行われるものであり、例えばイギリスの対日政策文書の場合は「FO371」だとか「FCO21」といったものがついていることが多い。これは、実際の文書管理に当たって付けられている番号である。それに対して、先に挙げた「A'1.5.2.24」といったものは、あくまで外交史料館における文書管理の番号であり、実際の文書管理に当たって用いられているものではない。
これで何が違うのか、というのは歴史研究者にとってしか意味がないのかもしれないが、日本の管理の仕方では、結局「例外的に公開されている文書」を見たとしか言えなくなってしまうのだ。まだ何か重要な文書があるのではないのか、といった猜疑心が持たれても仕方がない。このような外交文書の管理状況の上に、1970年代はまだまだ外交史料館に資料が無い、というのが1970年代の日本外交研究における資料状況なのだ。こうした状況で研究を進めるためには、いくつかの「工夫」が必要になる。
そうした工夫は、実際の研究から見てみるのが一番分かりやすいだろう。1970年代の日本外交史研究書として、若月秀和『全方位外交の時代』(日本経済評論社)がある。『全方位外交の時代』で用いられた資料に関する「工夫」は、大きく四つある。一つは、回顧録の積極的な利用である。ここに同時代的な政治家や官僚の書いたものや『外交青書』などの公開文書を加えることが出来るだろう。二つ目は、諸外国の文書の利用である。一番分かりやすいのは、アメリカの文書を利用することだろう。三つ目は、インタビューである。近年は、オーラル・ヒストリーが進みつつあり、そうした他の研究者によって行われたオーラルの利用も三つ目の「工夫」の範疇だろう。そして、四つ目が、情報公開法に基づく情報開示請求を積極的に行って文書を引き出すことである。『全方位外交の時代』は、こうした「工夫」によって、1971年~1980年という外交史研究としては比較的新しい時代を研究することに成功している。
こうした「工夫」は当然、他の研究者によっても行われることで、自分もその一人だ。「幻の修士論文」では、それぞれ不十分ながら四つの「工夫」を自分なりにしつつ書いたものだ。その中で一番力を入れたのが、四点目の情報開示請求である。
ここで、ようやく本題に戻る(前置きが長すぎ)。昨年の今頃から徐々に情報開示請求を始めたのだが、こつのようなものが分かったのはその半年後くらいだ。そんなわけで、論文を書きながら情報開示請求は続けていた。その成果が、一応論文を書き上げた今頃になってようやく現れてきた。昨日、送られてきた開示決定書の一つは、論文の核になる箇所で、これまで引き出した文書はやや断片的なため誤魔化しつつ書いた部分に関するもので、それについてかなり詳細に訓令や報告、方針などが包括的に公開されたのだ。それをデータの形で貰うだけで、かなり高い研究書一冊くらいの値段になるのは痛いが、今から見るのが楽しみな文書だ。
感覚的には、同様の文書公開があと数件はありそうな気がする。情報公開に関する作業を進めつつ、論文を書いている間は出来なかった、関係者へのインタビューや海外への資料調査を行うだけでもなかなか骨が折れる作業になりそうだ。博士課程に進んでいようがいまいが、こういった作業は研究をする上で不可欠な作業であり、着実に進めていきたい。
もっとも、ここまでだらだら書いたことを、ただ無自覚にやっているだけでは面白い研究にはならない。それが理論的だろうと何でもいいが、知的に面白い研究上の問いを設定しなければ、面白い研究は出来ないのだ。こうした作業に加えて、博士過程進学への猶予を貰ったことを生かして、研究者としての足腰を鍛える作業もまた着実にやっていきたい。知的変態としては、わくわくするところです。自分とは全然関係ないが、文書公開に関する姿勢のみで現政権には頑張ってもらいたい。
さて、問題は新たなに公開された資料を三月末の「幻の修士論文」発表にどう生かすか、ということだ。やや頭の痛いところだ。
日本を研究対象にしているので、外国を研究対象にしている研究者と比べれば資料へのアクセスという点では恵まれているはずだ。実際、外交史料館は大学から徒歩15分の場所にある。しかし、比較的新しい時代(といっても自分が生まれるよりも前)を研究対象としているので、まだ文書がほぼ一つも外交史料館に移管されていない。いわゆる「30年ルール」に基づけば、1978年までの文書は移管されているはずなのだが、実際にはまだ1960年代半ばに発足した佐藤政権の文書公開が緒に就いたばかりだ。池田政権の文書はそれなりに充実してきたが、それでもまだまだ英米の文書公開状況と比べると見劣りするのが現状だ。
こうした状況の原点にあるのが、文書公開の原則の違いだ。英米は「原則公開」で日本は「原則非公開」というのが現状である。あまり正確な言い方ではないのかもしれないが、英米は原則公開の文書を「30年ルール」に基づいて「非公開」にしているのに対し、日本は原則非公開の文書を「30年ルール」に基づいて審査の上で公開しているのである。ちなみにイギリスでは、この30年をさらに短くしようという話すら出ている。もちろん、英米の文書公開もそれほど単純ではないのだが、ここではその話は置いておこう。
文書公開原則は、外交文書に限らない公文書の話だ。文書公開の状況は、他の省庁に比べれば外務省はまだ進んでいる方であり、戦後の外交文書は昭和51年(1981年)から30年を経過した文書が、審査を経て公開され始めた。この「戦後外交記録公開」は、現在までに20回を重ねており、現状は先に書いたとおり佐藤政権の公開が緒に就いたところである(田中=ニクソンのハワイ会談なども一部公開されているが、研究で十分に使えるものではない)。
しかし、である。この日本の「戦後外交記録公開」はあくまで「原則非公開」の枠内で行われているため、結果的に英米の資料と比べると大きく見劣りしてしまう。また、同時に重要なのが公開のスタイルだ。日本の外交文書を引用する際にしばしば目にするのが「A'1.5.2.24」「E'4.1.0.7-9」といった番号だ。最初のアルファベットは、テーマの違いを表しており、「’」は戦後という意味である。こうした資料の原典表示は、日本だけではなく諸外国の外交文書を引用する際にも行われるものであり、例えばイギリスの対日政策文書の場合は「FO371」だとか「FCO21」といったものがついていることが多い。これは、実際の文書管理に当たって付けられている番号である。それに対して、先に挙げた「A'1.5.2.24」といったものは、あくまで外交史料館における文書管理の番号であり、実際の文書管理に当たって用いられているものではない。
これで何が違うのか、というのは歴史研究者にとってしか意味がないのかもしれないが、日本の管理の仕方では、結局「例外的に公開されている文書」を見たとしか言えなくなってしまうのだ。まだ何か重要な文書があるのではないのか、といった猜疑心が持たれても仕方がない。このような外交文書の管理状況の上に、1970年代はまだまだ外交史料館に資料が無い、というのが1970年代の日本外交研究における資料状況なのだ。こうした状況で研究を進めるためには、いくつかの「工夫」が必要になる。
そうした工夫は、実際の研究から見てみるのが一番分かりやすいだろう。1970年代の日本外交史研究書として、若月秀和『全方位外交の時代』(日本経済評論社)がある。『全方位外交の時代』で用いられた資料に関する「工夫」は、大きく四つある。一つは、回顧録の積極的な利用である。ここに同時代的な政治家や官僚の書いたものや『外交青書』などの公開文書を加えることが出来るだろう。二つ目は、諸外国の文書の利用である。一番分かりやすいのは、アメリカの文書を利用することだろう。三つ目は、インタビューである。近年は、オーラル・ヒストリーが進みつつあり、そうした他の研究者によって行われたオーラルの利用も三つ目の「工夫」の範疇だろう。そして、四つ目が、情報公開法に基づく情報開示請求を積極的に行って文書を引き出すことである。『全方位外交の時代』は、こうした「工夫」によって、1971年~1980年という外交史研究としては比較的新しい時代を研究することに成功している。
こうした「工夫」は当然、他の研究者によっても行われることで、自分もその一人だ。「幻の修士論文」では、それぞれ不十分ながら四つの「工夫」を自分なりにしつつ書いたものだ。その中で一番力を入れたのが、四点目の情報開示請求である。
ここで、ようやく本題に戻る(前置きが長すぎ)。昨年の今頃から徐々に情報開示請求を始めたのだが、こつのようなものが分かったのはその半年後くらいだ。そんなわけで、論文を書きながら情報開示請求は続けていた。その成果が、一応論文を書き上げた今頃になってようやく現れてきた。昨日、送られてきた開示決定書の一つは、論文の核になる箇所で、これまで引き出した文書はやや断片的なため誤魔化しつつ書いた部分に関するもので、それについてかなり詳細に訓令や報告、方針などが包括的に公開されたのだ。それをデータの形で貰うだけで、かなり高い研究書一冊くらいの値段になるのは痛いが、今から見るのが楽しみな文書だ。
感覚的には、同様の文書公開があと数件はありそうな気がする。情報公開に関する作業を進めつつ、論文を書いている間は出来なかった、関係者へのインタビューや海外への資料調査を行うだけでもなかなか骨が折れる作業になりそうだ。博士課程に進んでいようがいまいが、こういった作業は研究をする上で不可欠な作業であり、着実に進めていきたい。
もっとも、ここまでだらだら書いたことを、ただ無自覚にやっているだけでは面白い研究にはならない。それが理論的だろうと何でもいいが、知的に面白い研究上の問いを設定しなければ、面白い研究は出来ないのだ。こうした作業に加えて、博士過程進学への猶予を貰ったことを生かして、研究者としての足腰を鍛える作業もまた着実にやっていきたい。知的変態としては、わくわくするところです。自分とは全然関係ないが、文書公開に関する姿勢のみで現政権には頑張ってもらいたい。
さて、問題は新たなに公開された資料を三月末の「幻の修士論文」発表にどう生かすか、ということだ。やや頭の痛いところだ。