2008年03月

2008年03月28日

出版ラッシュ。

それなりに苦労して書き上げた修士論文が「幻」になるなど、人生そう簡単にうまくいかないもんだな~、と思っていたわけだが、その後はそれなりに充実した毎日を送っている。むしろ、この二週間くらいは万事順調に進んでいて楽しい時間が続いている。

目の前にあるのは、研究発表というアウトプットの課題だが、その課題を控えつつ実際に時間を割いているのはむしろインプットの方だ(あとはバイト関係でも色々ある)。インプットとアウトプットのバランスはなかなか難しいもので、この両者をどうやってバランスを取っていくかはとても大切な問題だ。

今月の課題は、アウトプットにあったはずなのだが、ふたを開けてみると「読んで読んで」と訴えかけてくる本の数々が続々と出てきた。まだ読んでいないものや手元に無いものも含めて、これはしっかりと読みたい、読まなければいけないというものだけを挙げても…(順不同)

・君塚直隆『女王陛下の外交戦略』(講談社)
・飯尾潤『政局から政策へ』(NTT出版)
・佐々木卓也『アイゼンハワー政権の封じ込め政策』(有斐閣)
・金斗昇『池田勇人政権の対外政策と日韓交渉』(明石書店)
・田所昌幸『国際政治経済学』(名古屋大学出版会)
・五百旗頭真・編『日米関係史』(有斐閣)
・遠藤乾・編『ヨーロッパ統合史』(名古屋大学出版会)

といった感じになる。さらに『国際政治』の特集号として、「吉田路線の再検討」が刊行され、独立論文特集号の中にも日本外交関係のものが数本ある。

他にも、回顧録やらオーラルやらを加えていくと、それだけでまた片手では足りなくなる。自分の研究には直接関係はしないが関心を持っている冷戦後の地域紛争関係でも研究書が刊行されているし、年度末ということで政治学関係の教科書が数冊出ている。アメリカ外交関係の新書も出ていたのでつい買ってしまった。各大学のCOE関係の論文集も続々と刊行されている。

本だけではなく、研究関係でも新しい資料がドカンと開示されたり、調べれば調べるほどたくさん出てくる英語の論文に圧倒されたり、時間の使い方が難しい。こんな状況で『きょうの猫村さん3』が出るともうどうしようもない。

嬉しい悲鳴。

at 16:42|PermalinkComments(0)日々の戯れ言 

2008年03月26日

君塚直隆『女王陛下の外交戦略』(講談社)

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君塚直隆『女王陛下の外交戦略 エリザベス二世と「三つのサークル」』(講談社)

 ある評者をもって「英国史狂い」「王室マニア」と言わしめた君塚直隆氏によって、また新たな著作が生み出された。本書『女王陛下の外交戦略』は、80歳をこえた現在も活躍を続けるイギリス女王エリザベス二世に、その外交面から迫っている。本書はまた、19世紀のイギリス内政研究からスタートした著者による、待望の現代外交論でもある。

 ほんの一世紀前まで、地球上は皇帝や国王を戴く君主国によってその大半が統治されていた。しかし、21世紀を迎えた現在、君主によって治められる君主国はわずか28ヶ国に過ぎない(これにエリザベス二世が国家元首を務めるコモンウェルスの15ヶ国を加えると43ヶ国になる)。このような現代において王室外交に意味はあるのだろうか、という誰しもが思い浮かべる問いに答えるところから本書は始まる。当然、著者の答えは「ある」だ。
 君主国であっても、その多くは近代国家としての政治制度や官僚制度を持ち、かつての絶対君主のように立憲君主が対外政策決定に関与することはほとんどなくなった。条約締結や貿易摩擦の解消、その他様々な交渉は時の政府が取り仕切っている。しかし、である。

 しかし、任期に限りのある大統領や首相、転任の多い外交官や官僚たちではまかないきれない、ゆっくりと時間をかけて構築していく必要のある場合には、任期に縛られず、政治的には中立性が見られ、親から子へさらには孫へと連綿と受けつがれていく「君主」こそ外交のソフトの部分を担える重要な存在となるのではないだろうか。(24頁)

 こう著者は言う。また、君主の役割はこうしたソフトな役割にのみあるわけではない。エリザベス女王の二男であるヨーク公は、国際通商・投資に関するイギリス特使を務め、世界を飛び回ってイギリスを売り込んでいる。こうした例ひとつとっても、王室はソフトに限らずハードな側面でもその役割を果たしていることが分かるだろう。

 そこで著者が注目するのが、イギリス外交の「三つのサークル」である。「三つのサークル」とは、すなわちアメリカ合衆国、コモンウェルス(旧英連邦諸国)、ヨーロッパである。「三つのサークル」と巧みにバランスを取っていくことは、戦後の各政権にとって大きな課題となった。そしてまた、エリザベス女王にとっても「三つのサークル」といかに関わっていくのかは、重要な問題だったのである。四章からなる本書は、第一章でアメリカ、第二章でコモンウェルス、第三章でヨーロッパと、各章でエリザベス女王と「三つのサークル」の関係をそれぞれ検討し、さらに第四章では「ジョージ七世」となるであろうチャールズ皇太子による「王室外交」を検討していく。
 とりわけ興味深いのは、第二章で検討されるコモンウェルスとの関係である。冷戦を戦う超大国の一角を占めたアメリカとの関係や、地域統合が進むヨーロッパとの関係が重要なのは、王室ならずとも自明のことであろう。それに対し、良くも悪くも「帝国の遺産」であるコモンウェルスとの関係は、政治にとって難しいものがあった。戦後イギリスにおいて、コモンウェルスとの難しい関係で重要な役割を果たしたのが、エリザベス女王である。

 確かに、日記や書簡などの一次資料に基づいて書かれた前著『ヴィクトリア女王』と比べて、本書の記述はやや表面的なものとも言える。しかし、それを感じさせない流麗な文章が、本書の大きな魅力となっている。本書に似た問題意識を感じさせるのが西川恵氏の名著『エリゼ宮の食卓』(新潮文庫)である。権威と権力が融合したフランスの大統領制、それに対して権威と権力をうまく分けつつ相互に有機的な関係を持つイギリスの立憲君主制、本書と『エリゼ宮の食卓』を対照しつつ読んでいくと、また新たな面白さが見えてくるかもしれない。

 このようにな楽しみ方と共に、もう一つの楽しみ方もあるだろう。「あとがき」にもあるように、本書は、「勲章」を主役とした『女王陛下のブルーリボン』(NTT出版、2004年)、「秘書官」に光を当てた『女王陛下の影法師』(筑摩書房、2007年)に続く「女王陛下三部作」の最終作である。また著者は別に『ヴィクトリア女王』(中公新書、2007年)で、力強い立憲君主としてのヴィクトリア女王像を描き出した。これらの前著の流れの中に本書を位置付ければ、「勲章」「秘書官」に続いて「女王自身」に光を当てたものであり、またヴィクトリア女王の次なる女王であるエリザベス二世を描いたものと言えよう。「女王陛下三部作」、そして『ヴィクトリア女王』、こうした王室シリーズの一冊として読むと、本書はより深い文脈の中で輝きを放つだろう。「あとがき」の宣言にあるとおり、著者の関心は、「国王陛下シリーズ」へと注がれている。待ち遠しい限りである。

at 21:29|PermalinkComments(0)本の話 

2008年03月22日

春本番。

訪れは花粉とともに、というこの数年の春。そんな憂鬱な季節も、花粉症に身体が慣れてくるとともに、いい季節になってくる。東京では桜が開花、いよいよ春本番だ。花粉が落ち着き次第、走り込みを再開して身体を鍛えなおしたい、ドライブしたい、映画観たい、野球観たい、サッカー観たい、酒飲みたい、ゆるりと桜を愛でながら散歩したい、等々としたいことだらけの頭の中。

そんなことを思いながらも、目の前にある課題が片付かないとパッと遊びに行く気がおきない性分ゆえに、実際には今日も変わらず大学に来て発表の準備をしている。非日常も悪くはないけど、どちらかというと淡々と過ぎていく日常が好きな自分にとって、目の前の課題に取り組む日々も悪くはない。



さて、「幻の修士論文」を目の前に、どうしたものかとこの数日考え込んでいる。自分なりに絞り込んで書いたつもりが、字数はついつい増えてしまうもので、結局6万5000字(注を入れると約9万字)になってしまった。単純に読み上げると、やや早口で1分350字として約3時間。もちろんそんなことはするつもりはないのだが、持ち時間が1時間としても3分の1に圧縮しなければならない。そんなにダラダラ話しても仕方がないので、実際には4分の1程度に圧縮する必要がある。

原作がある映画で最もひどいのは、長い原作のダイジェストになっているものである。これを研究発表に当てはめるのは野暮かもしれないが、6万5000字を1万6000字くらいに圧縮する際に、単なるダイジェストになっては面白くないだろう。単純に「細部に神が宿る」とは言わないが、論文で書いたのと同じくらいしっかりと話すべき箇所もあるだろうし、逆に触れなくてもいい箇所もあるだろう。短くなったとしても話すべきエピソードもある。レジュメはダイジェストでもいいのかもしれないが、発表原稿はそういうわけにもいかない。

そんなわけで、自分の論文を読み返して、どうしたものかな~、と考え込んで数日過ぎてしまった。こういう経験はたくさん積めばあっさりと解決するのだろうけど、目の前にあるとなかなか悩ましいものだ。いっそのこと、発表時間10分の方がやりやすいような気もする。

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2008年03月19日

公爵の新作。

年度末の出版ラッシュの波はまだまだ続いている。

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前々から出版予定とは聞いていた本が明日発売になるようだ(リンク)。公爵の新作『女王陛下の外交戦略』(講談社)だ。『女王陛下のブルーリボン』(NTT出版)、『女王陛下の影法師』(筑摩書房)に続く刊行で、これにて「女王陛下三部作」は完結、ということになる。これまでの二作が四六版だったので、新作が新書版というのはやや残念ではあるが、ともあれ刊行が待ち遠しい。講談社のネット雑誌(?)『正言@アリエス』での連載が基になっているので、中身は大体知っているわけだが、やはり一冊の本で一気に読むのが読書の醍醐味だ。

読み終わり次第、ここでも紹介しようと思います。

既に刊行された松本清張『小説東京帝国大学(上)(下)』(ちくま文庫)や、来月刊行予定の竹内洋『社会学の名著30』(ちくま新書)辺りも気になるところだ。本達が「研究と私、どっちが大切なの?」と訴えてくる今日この頃(病気)。これに膨大な数の洋書達、そして未読の名著達が加わってくる。人生、当分暇になりそうにない。



そんな感じで、出版ラッシュに翻弄され(?)、そして目の前の研究発表にヒーヒー言っているうちに、Jリーグは開幕し、そしてプロ野球の開幕も近づいている。ジュビロもパッとしないし、西武はもっとパッとしそうにないという状況だが、ずっと応援し続けているので、そう簡単に見放せない。

先日友人と飲みながら話していただのが、西武の地味っぷりは相当のもの。去年は全然野球を観にいけなかったので、今年は時間を見つけて見に行きたい。

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2008年03月17日

飯尾潤『政局から政策へ』(NTT出版)

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円の急騰のニュースを見ながら、こんな時に日銀総裁人事を政局にするのはアホだな、という感想と、洋書を買い込むのをもう少し待てば良かったかな、という感想を持った。

そこで思い出したのが、1997年から1998年にかけての金融市場を中心とした世界経済の混乱を描いた竹森俊平『1997年 世界を変えた金融危機』(朝日新書)だ。世界経済と日本経済をフランク・ナイトやミルトン・フリードマンらの学説をうまく織り交ぜながら1997年の金融危機を論じた『1997年 世界を変えた金融危機』は、経済学の知識がほとんど無い自分でも楽しめた一冊だ。「1997年」と銘打ちながら2007年夏のサブプライムローン問題についても若干の言及がされている。2007年夏に端を発するサブプライム問題が、ここにきて再び世界経済へ大きな影響を与えつつある。

今の身分だと円高によって海外旅行や洋書が安くなるのは歓迎なのだが、今回は円高というよりもドル安観が強い。今回の事態に、今の日本政治はうまく対応することが出来るのだろうか。

やはり2000年代は、30年くらい経ってからじっくり検討したい時代だ。



やることが山積していると言いながら、↓を夜や移動の合間、休憩時間に一気に読み切ったので紹介しておきたい。もともと学部に入学した時には、日本外交ではなく日本政治を専攻しようと思っていたので、個人的には満足度が高い。

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飯尾潤『政局から政策へ 日本政治の成熟と転換』(NTT出版)

 本書『政局から政策へ』は、この20年の日本政治の歩みを描き出した「同時代史」である。中曽根内閣における「臨調行革」を現在に至る「改革」の起点と捉え、そして中曽根内閣とそれに続く竹下内閣を「戦後政治の成熟」であり、その「到達点」と位置づけるところから本書は始まる。

 55年体制下で形作られた「戦後政治」の大きな特徴は、政局と政策の分離にあった。「政治家同士の権力闘争が発動された状況が政局」であり、「政治家というのは政局をする動物であって、政策というのは官僚の領域」であるから、「日本政治というのは、「政局」を中心に理解されるべきもので、せいぜいそれに選挙が加わる」というのが、1980年代までの「常識」であった(21-22頁)。そして、竹下こそ、政局と政策の分離に順応した政治家である、と著者は述べる(なお竹下の政治観については、『政治とは何か 竹下登回顧録』講談社、に詳しい)。この戦後政治の「常識」が徐々に変化を遂げていくのが、この20年である。

 中曽根内閣の「臨調型改革」に関する研究からスタートした著者は、現代日本政治研究の第一線に立ち、20年近くにわたって日本政治の同時代的観察を続けてきた。昨年のサントリー学芸賞受賞作でもある『日本の統治構造』(中公新書)では、戦前から日本政治の構造を説き起こし、それが「官僚内閣制」から「議院内閣制」へと移行していく状況を広範な検討から明らかにしている。時代的な変遷や政官関係の分析のみならず、他国との比較の視点も取り入れながら「統治構造」を明らかにした『日本の統治構造』は、その理解を基に現在の日本政治に内在する問題をも析出した著作であった。

 確かな「統治構造」への理解と共に本書の基礎となっているのは、著者の長年に渡る同時代的観察と、現状分析である。副大臣・政務官制度や経済財政諮問会議などの制度の変化、変容する政官関係などについて、著者はその変化が一般に認識される以前から、いち早く分析を行ってきた。こうした著者の研究蓄積に基づいて執筆された本書は、この20年の日本政治に関する最良の同時代史となっている。

 何よりも優れているのは、そのバランスの良さだろう。いたずらに小泉内閣の目新しさを強調することもなく、政局、政策、そして制度の変遷をバランス良くまとめ、中曽根内閣以降20年にわたった「改革」の意味を明らかにしていく。各章毎にテーマが設定されている結果として、やや記述が重複する箇所は見られるものの、全体としてうまくメリハリをつけながら日本政治の展開を描かれている。

 「政局から政策へ」。この一言に、著者はこの20年の日本政治の変化を象徴させている。そしてまた、小泉政権はその変化の終着点ではなく「折り返し点」だというのが、著者のメッセージである。現在の日本政治は、衆参のねじれ国会の影響もあり、不透明な情勢が続いている。本書は、落ち着いてこの20年を振り返り、そして今後を考えさせてくれるだろう。

at 18:01|PermalinkComments(0)本の話 

2008年03月16日

嬉しいが深刻な誤算。

ここ数日、春らしい暖かい日が続いている。バイト先の梅が見頃を迎え、自宅前の桜も徐々に咲き始めた。身体が花粉症に慣れてきたらしく、症状のピークも過ぎたので、久しぶりに穏やかな気持ちで過ごしている。一日ボーっと梅や桜を見ながら本(とビール)を片手に過ごしたいところであるが、目の前にやるべきことが山積しているため、なかなかそうもいかない。

というのも、論文執筆後に新たに公開された文書の山が、嬉しいのだがなかなか難儀なのだ。情報公開担当者がかなりいい仕事をしてくれたため、よく整理された文書一式が公開されたのだが、これを既に公開された文書と照らし合わせながら再整理していく作業は骨が折れる。まだ詳しく全ての内容を見たわけではないが、パッと見た印象でも論文の細かい部分の修正が必要なことが分かる。新たに開示された文書が、資料不足のため誤魔化していた部分や、薄く書かざるを得なかった部分をカバーしているからだ。

ただでさえダラダラと長く書いてしまった論文なので、これ以上またダラダラと書き加えるわけにはいかない。ひとまずは、発表に向けて短めの原稿を書きながら反映させていくのがいいのだろうか。新しい時代を扱っていると、こういった、嬉しいのだが実際の対応にやや困る事態が発生してくる。本当はそれではいけないのだろうが、じっくりと資料を読み込む歴史研究をしているというよりは、自転車操業で情報を整理して流す報道機関に近いイメージだ(時間の流れは全然違うが)。

歴史研究として新しい時代を扱っている以上、資料の網羅性に汲々とするのではなく、自分の立てた問題設定に答えることが研究の目的だと割り切っている。なので、新たに資料が公開されたからといって、わーわー騒ぐつもりはないのだが、最低限公開された一次資料に目は通さなくてはならない。実証面での満足度を高めることと、実際の手間暇の費用対効果を考えながら研究を進めるのは、言うは易しだが行うとなるとそのバランスが難しい。



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就寝前や移動中、休憩時間を使って、昨日購入した『政局から政策へ』を読んでいる。まだ半分も読んでいないのだが、同時代史としてのバランスの良さを感じる。ところどころに出てくる内政研究者から見た日本外交の見方のようなものが興味深い(一部に認識の明らかな誤りはあるが)。色々な意味で考えさせられた一文を紹介しておきたい。この文章は、冷戦終結以前の国際環境の中での日本の政策環境について論じている一文だが、受け取り方は人それぞれだと思う。引用にとどめて特に論評はしないが、とにかく考えさせられる。

 ……極端に言えば、当時の日本はアメリカだけ見ていれば外交ができたのである。その枠内において、東南アジア外交を独自の視点から進めるぐらいのことはできる。しかし、そうした外交は、「福田ドクトリン」の中身が、ほとんど知られていないように、一般の人々にとっては、あまり関係のないものとして、首相や外務省だけが、推進することができるような周辺的な課題になっていた。
 たとえば「全方位外交」といっても、アメリカとの関係は大原則になっているので、やや虚偽意識的なことになり、相手方が誤解していまうようなこともある。石油危機のころに、日本がアラブ産油国側につくというのは、アメリカとは違う独自外交ではあるが、逆に中東では、日本の立場がほとんど理解されていないから通用するという側面もあった。後にイラク戦争の戦後処理に自衛隊を派遣することになったとき、日本がアメリカについたことで、アラブの支持を失うという評論も見られた。これが本当だとすると、日米が同盟関係にあることすら、アラブではよく知られていないということを、裏側から示すような事例である。
 そのなかで、民衆レベルでは、たとえば日中国交回復後の、中国ブームのようなことが起こっている。ただこれも、キッシンジャーの電撃訪中によって、米中国交回復があり[ママ]、それを前提にした大状況のなかで起こったことである。その大枠はアメリカが認めているからこその展開で、それに気づく国民が少ないというのは、外交慣れしていない戦後日本の状況を裏づける。
 むしろ七〇年代以降の、日米貿易摩擦が、本当の外交ではないかと見られるかもしれないが、アメリカの要求をいかに値切るかというのが、日本側の基本的な姿勢であり、貿易構造の枠組みを動かしていこうといった大がかりな外交を展開していたわけではなかった。
 結局、戦後の国際環境は、日本の位置を固定化しており、日本がその枠内で動く分には、深刻なジレンマを経験することがなかった。またそれを超えて、国際的な枠組みを構築していこうという意欲も、また能力もないというのが日本政治の現実であった。その意味では、外交問題が大きな政治的問題になりにくい状況が、自民党体制を支えていたという側面があるといえよう。(51-52頁)


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2008年03月15日

波多野澄雄、佐藤晋『現代日本の東南アジア政策』(早稲田大学出版部)

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英語で読むべき本がどんどんたまっているにもかかわらず、日本語でも読まなければいけない本、目を通さなければいけない本が続々と刊行されている。一番左は、刊行前から期待していたサントリー学芸賞受賞第一作。左から二番目は、日米韓の外交資料を用いた池田政権の本格的外交史研究。三番目は、日本と国連に関するテーマオーラル。最後は、元中国大使にして70年代のアジア局最重要人物の回顧録だ。それぞれ時間を作って読まなければいけない本だ。



目の前にある膨大な先行研究やら、関係する諸研究の山、やらなければならないことを前にすると、ついついまたリゲインの音楽が流れてくる、…24時間戦えますか♪ とはいえ、これが危険だと言うことは昨年夏前によく学んだので、今年はグロンサンのテーマを頭に流すことにしたい。意味不明ですが、とにかく、毎日が日曜日のようで、実際のところ「月月火水木金土」という生活なので、うまくメリハリをつけていこうと思います。



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波多野澄雄、佐藤晋『現代日本の東南アジア政策』(早稲田大学出版部)

 近年、アジアは急速に一体化しつつある。経済面から始まった統合も、徐々に政治領域へとその影響が及び始めた。同時に、こうしたアジアにおける一体化の歩みと日本の関係を、歴史的視座から再検討する試みも行われている。田中明彦『アジアのなかの日本』(NTT出版)がその代表的なものであろう。カンボジア和平を起点とし、さらに「福田ドクトリン」など1970年代の政策も再検討する同書は、現在の東アジアを考える上で歴史的な視座を提供してくれる。本書『現代日本の東南アジア政策』は、さらに1950年代前半にまでさかのぼって、日本とアジアの関係を検討している。

 資料公開の進展と共に1980年代半ばに始まった戦後日本外交史研究は、もっぱら日米関係中心であった。それに対して2000年以降に多くの若手外交史家が中心的に取り組んだのが、日本の対アジア外交である。従来の日米関係中心的な研究から導き出される日本像は、アメリカのジュニア・パートナーとしての日本であった。日本の安全保障政策の根幹に日米安全保障条約がある以上、それは当然なのかもしれない。しかしながら、戦後日本の歩みは日米関係のみによって意義づけられるわけではない。近年進みつつあるアジア外交研究は、アジアの場における戦後日本の姿を描き出すことによって、従来のイメージとは異なり、アメリカとの関係に影響は受けながらも、アジアにおいて独自の役割を模索した戦後日本の歩みを明らかにしている。

 本書は、このような戦後日本とアジアとの関係、その中でも近年のアジア統合の動きの中心となっている東南アジアとの関係を、まだ「東南アジア」がインドなどの「南アジア」を含めた領域である、吉田内閣期の「東南アジア開発」から、現在の「東アジア共同体」をめぐるに至る50年をこえる長いスパンで検討した通史的研究である。本書が注目する東南アジアは、「歴史的には、冷戦的な行動枠組みや大国間政治に悩まされつつも、独自の外交的役割を模索し、自律的な活動を展開できる数少ない舞台」であり、さらに「ナショナリズムや共産主義が渦巻き、欧米陣営から離脱する危機を常に伴っていたが、そのような危機を遠ざけつつ地域の安定化に寄与するという役割について、日本外交は自覚的であった」(はじめに)。本書は、このような問題関心に基づいて日本と東南アジアの関係を検討している。

 アジアは(この30年で)なんと姿を変えたのか! 本書の著者は、先に挙げた田中明彦『アジアのなかの日本』を読んでの感想をある書評でこう述べている(リンク)。私が本書を読んでの感想もこれにならえば、アジアは(この60年で)なんと姿を変えたのか!、というものである。第二次大戦中の日本による占領、さらに戦後、ヨーロッパ諸国の「再統治」を経て、アジア諸国は相次いで独立を果たしていく。しかしながら脱植民地化の過程は順調に進んだわけではなかった。そこに冷戦の文脈や、各国内部に渦巻くナショナリズムの文脈が影響し、戦後初期の東南アジアは混乱そのものであった。しかし、1960年代にインドネシアが9.30事件を経て「開発」の道へ進み(インドネシアについては宮城大蔵『戦後アジア秩序の模索と日本』に詳しい)、1970年にベトナム戦争が終結することによって、ASEANが徐々に一つの形を成していく、その後中越戦争やカンボジア内戦が続き1980年代においてもまだ東南アジアは混乱していた。しかし1980年代後半にはカンボジア内戦も落ち着き、1990年代に入ると東南アジアは一つの地域としてまとまりを見せるようになっていった。1990年代以降、現在に至る流れの中でASEANはアジアの地域主義をめぐり中心的なアクターとなった。

 日本はこうした東南アジアの歴史の中でいかなる役割を果たしてきたのであろうか。日米英の外交文書と先行研究をくまなく渉猟して書かれた本書は、ある意味でこれまでの対アジア外交研究の総まとめとも言える。「はじめに」でも述べられているように、確かに資料の公開状況の差によって時代ごとに叙述の深さの濃淡はある。佐藤政権までの叙述の深さと比べると、その後の時代がややあっさりとしている感はある。

 日本とアジアとの関わりが賠償を中心であり、そこに「東南アジア開発」構想が絡み合う50年代。インドネシア、マラヤの脱植民地化の動き、そしてベトナム戦争といった地域紛争に彩られた60年代から70年代前半。地域情勢に一定の落ち着きが見られたことによって、徐々に経済的な関係が重みを増していく70年代半ば以降。カンボジア和平によって紛争に決着が付き、本格的に地域主義が力を増していく90年代から現在まで。こうした東南アジアの歴史に日本はどのように関わっていったのか。本書が、通史的にその関わりを明らかにした意義は大きい。

 とはいえ本書の叙述に違和感がある箇所がないわけではない。例えば、1960年代の東南アジア外交を「中国封じ込め」と見ることには多くの異論がありえよう。確かに本書が説くように、日本の東南アジア政策の背景に中国の東南アジアへの浸透に対する考慮があったことは広く認められるところだろう。しかし、日本の対中政策の展開などと重ね合わせるときに、果たしてそれが「中国封じ込め」という「戦略的」なものだったかどうかは疑問が残る。本書前半部まで強く見られる「中国の影」が、70年代以降の本書後半部ではすっかり抜け落ちている。それが資料の制約によるものなのか、それとも前半部の「中国の影」が過大評価されていたものなのかは、さらなる実証研究の進展を待つしかないだろう。

 また、短い「はじめに」で簡単な問題関心が述べられているだけで、本書の分析対象の設定や、結論が明示されていない点もやや不満が残るところではある。1950年代の叙述では当時の「東南アジア」の概念に基づいてインドなど南アジア諸国まで検討されているが、その後はほとんど出てくることはない。また逆にオーストラリアは、APECを語る文脈で突如現れてくる。なぜこうした叙述になるのか、本書が検討する範囲はどこまでなのか、こうした点が明示されていれば、本書の描き出す戦後日本の対東南アジア外交がよりわかりやすくなったのではないだろうか。さらに、歴史的に日本の対東南アジア政策がいかなる変化を見せたのか、を単に叙述するだけでなく最後に著者自身によってまとめられればなお良かっただろう。

 若干の不満は述べたものの、本書のような一次資料に基づいた堅実な通史的研究が公刊された意義は極めて大きいと言えよう。本書で描かれた日本外交の姿が、北東アジア外交とどのような関係にあるのか。また、アジア経済秩序の模索と、より広い国際経済秩序とはいかなる関係にあったのか。さらに今後東南アジアと日本はいかなる関係を結んでいくのか。本書は、このような重要な問いへと、我々を導いてくれる。

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2008年03月12日

ノートパソコンを買いました。

「思い立ったらすぐ行動」がモットーなので、早速ノートパソコンを購入してきました。

六年前に買ったときは、大学入学祝いなる名目で半分を親に出してもらったので、今回が自分のお金で買うこれまでの人生最大の買い物だ(次は車でも買う時なのだろうが、それは大分先になりそうだ)。

持ち運び&論文執筆にも使いたいということで、B5ノートに照準を定めて色々と検討した結果残ったのが、PanasonicのLet's noteとTOSHIBAのdynabookの二つだ。別にこのパソコンでDVDを見る予定も無いし、iTunesの管理は今まで使っていたパソコンでするつもりだったので、DVDが内臓である必要も無い。ソフトはWordとExcelがあればいい。ということで、ドライブやオフィスのプリインストールにこだわらず、この数日両モデルを比較していた。

両モデルの大きな違いは、?形、?メモリ、?画面、の三点だ。それぞれ先にLet's note、後がDynabookの特徴を挙げていくと、?はやや厚みがある分丈夫、最も薄い部分が2mmを切るほどの薄さだがやや丈夫さには不安あり、?1GB、2GB、?XGAとWXGA、という違いがある。値段は微妙な違いがあるがほぼ一緒だ。不思議なもので、ドライブ付きの場合はdynabookの方が割安で、ドライブ無しの場合はpanasonicの方が安い。

周りの先輩にLet's noteを持っている人が何人もいることもあり、メモリが2GBだし、薄型&ワイド画面の方が持ち運ぶにはいいのかな、と思い購入直前までdynabookに気持は傾いていた。だが店で聞いてみると店頭在庫が無く、近隣店舗もしくはメーカーからの取り寄せになるということだった。メーカー取り寄せになって二週間待つのは馬鹿らしいなー、と思い在庫確認をして貰っていたところ、時間がかかるということで売り場責任者の人が説明にやってきた。

そこで一計を案じ、こちらの予算や欲しい機能などを説明して交渉してみた。画面サイズや形は変えられないが、メモリは拡張可能だ。そこで店頭在庫があるLet's noteにメモリを1GB増設するといくらぐらいになるか相談してみたところ、ちょうどメモリの分だけLet's noteが割高になるということだった。が、である。それと同じ分だけ本体の購入の際のポイントを割りましてくれるという。

というわけで結局、Let's noteを購入することにした。これに外付けドライブと、セキュリティ対策ソフト、オフィスのアカデミックパックを併せて購入。アカデミック・パックはパーソナル・エディションやスタンダード・エディションには無かったので、プロフェッショナル・パックになってしまったが、Accessなどを利用すると思えばそれも悪くはない。ポイントもほぼ使い切り、無駄の無い買い物をすることが出来た。外付けのドライブも薄型のものを割安で買えたし大満足の買い物だった。

というわけで、今は大学で無線LANの接続を確かめつつ、試しにブログを更新してみた。DocuWorksやらDjVuなどの研究関係で必要な閲覧ソフトのインストールも終わったので、これから早速発表準備に取り掛かろうと思う。

「買い物」でやる気が上がることを何となく実感した。

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2008年03月10日

細谷雄一『外交』(有斐閣)

加速度的に花粉が辛くなってきている。自分も花粉症にも関わらず、「いい天気♪」とか言って洗濯物を嬉々として外に干す母が恨めしい。ヨーグルト、甜茶などをすすめる前に、洗濯物を外に出すのをやめてほしい。症状の辛さが違うのだから仕方がないのだが…。今日からは、点鼻薬&マスク生活がスタート。これ以上きつくなったら、断酒も検討しなければ。

毎年のことなのだが、ひどくなり始めてからの一週間は、ほとんど風邪に近い状態になる。何をやってもパフォーマンスが落ちる気がする。不思議と一週間くらいすると身体が慣れるのか、多少は辛いが大したことはなくなるのだ。我が家の桜もポツポツと咲き始めたし、今年は多少早く杉花粉が去ってくれることを期待している。



新しいノートパソコンを購入しようと思い検討中。論文執筆にも使っていたのだが、購入からすでに6年以上が過ぎたので、買い替え時だろう。修士に入ってウイルス対策ソフトを新しくしてからは、立ち上がりにも時間がかかるし、いくつかのソフトを同時に使って作業していると途端にスピードが遅くなるのだ。

周りを見回すと、Let's Noteが多いが、機能的にはdynabookも気になる。



『毎日新聞』(リンク)、『朝日新聞』(リンク)、『読売新聞』(リンク)、『書斎の窓』などに相次いで書評が掲載されている話題の本を、ここでも簡単に紹介しておきたい。

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細谷雄一『外交 他文明時代の対話と交渉』(有斐閣)

 外交とは何か。この問いに外交史家である著者が真っ向から挑んだのが、この『外交』である。本書の冒頭でも紹介されているように、日本人にとっても二冊の『外交』、すなわちニコルソンとキッシンジャーの『外交』は広く読まれている著作であり、三冊目の『外交』である本書は、このうちの前者、ニコルソンの『外交』の問題意識を引き継ぎ、「外交とは何であり、外交実務はどのように変わってきているのかを、現代的な視点から問い直す」野心的な著作である。
 その際に本書は、「外交」をその起源にまで辿り、歴史的な展開を検討することによって、「外交とは何か」という問いに答えようとする。著者は、イギリスで発展した外交学研究(Diplomatic Studies)の研究蓄積を踏まえつつ、ニコルソンが検討した「旧外交」と「新外交」、さらにはその後の「現代外交」、そして現在の「二十一世紀の外交」へと我々を導く。このコンパクトな一冊に、「外交」の起源から現在までの展開が、見事にまとめられている。

 かつてニコルソンは、外交の立法的側面としての「対外政策の決定」と執行的側面としての「外交交渉」を峻別し、後者を「外交」と呼んだ。日本でもニコルソンの『外交』は広く読まれたが、「外交」そのものが学問として発展することは無かった。むしろ「外交(diplomacy)」ではなく「対外政策(foreign policy)」に注目が集まっていった。その結果、日本で「外交」研究が発展することはなかった、と著者は言う。関係する多くの要素を詰め込むのではなく、あえて「外交」を切り取り、その歴史的展開を検討することによって、本書は、国際秩序の一要素としての「外交」を鮮やかに描き出している。

 本書の描き出す「外交」は、西欧中心的である。しかし、だからといって本書に「遣唐使は外交ではないのか」といった注文を付けることは適切とは言えまい。確かに、西欧中心的に描かれた「外交」の展開と、副題にある「多文明時代の対話と交渉」という認識とはいささか食い合わせがよくない。また、例えば非西欧国家間の外交は、今世紀の半ばを過ぎてもまだ本書が描く世界とはほど遠い外交を展開していた。とはいえ、山崎正和の主張するように、現代社会を「近代化」という一つの文明として捉えてみれば、西欧で発展した「外交」が、現代の国際社会で広く受け入れられていることもまた「近代化」文明の一段階と考えることが出来よう。確かに「外交」は、普遍的なルールを持ち、そして英国学派流の国際社会観から見れば、国際秩序の一要素として重要な役割を果たしている、とも言えよう。

 このような大きな意義を持つ本書であるが、注文が無いわけではない。著者は、ニコルソンの定義に拠って「対外政策」は「外交」の一側面にしか過ぎず、本書では「対外政策」とともに「交渉」も含めたアプローチから「外交」を論じるとしている(8-9頁)。しかしながら本書で検討されるのは、もっぱら交渉としての「外交」である。もちろん、著者は「交渉」のみが重要だと考えているわけではない。『戦後国際秩序とイギリス外交』(創文社)と『外交による平和』(有斐閣)という二冊の研究書を著わしている著者は、「交渉」のみが「外交」ではないことを重々承知しているだろう。アンソニー・イーデンを軸に二十世紀半ばの国際政治を論じた『外交による平和』では、イーデンが求めたものを「十分な軍事力を背後に持ち、「力にもとづいた交渉」を通じて「外交による平和」を確立すること」と形容している。コンパクトな著作にそれを求めるのは、望み過ぎかもしれないが、こうしたことを強く意識している著者だからかそ「交渉」だけではない「外交」についても本書の射程に加えて欲しかった。

 いずれにしても本書は、「外交」のみならず、現代の国際政治、国際秩序を考える上で必読の一冊と言えよう。著者が先導する「外交学」研究が、日本で今後どのような発展を見せるのかも注目したい。

at 23:55|PermalinkComments(4)本の話 

2008年03月05日

3月5日。

毎年この季節になると、花粉症のせいで普通に生活するのが辛くなってくる。これさえ無ければ春はいい季節なのだが…。

ちょっと時間的に余裕が出来たので、映画でも観ようと思って大量に借りて毎晩見ていたのだが、今回は外ればかりだった。久しぶりに見た「ソナチネ」は悪くなかったが、今の気分で観る映画ではなかったような気がする。

ふらっと映画でも観たい今日この頃。



先週、先輩のお手伝いで、日中関係に携わった元外交官のインタビューに行ってきた。著書もあり、さらに今回は中国課長だった50年ほど前のことを中心に聞く予定だったので、どれだけ話が聞けるかな、と内心不安だったのだが、思いのほか色々な話を聞くことができた。日記等に基づいたインタビューだったわけではないので、周りの人物や組織を中心に聞いていったので、オーラル・ヒストリーのいい部分をうまく生かすことが出来たのではないだろうか。

自分の研究に直接関係するわけではないのだが、とても貴重な経験でした。



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『朝日新聞』の書評でも取り上げられていた(リンク)、ニーアル・ファーガソン『憎悪の世紀』(早川書房)。年末に書店でみかけ、おっと思ったまま結局買わなかった本だ。

ニーアル・ファーガソンについて初めて知ったのは、学部二年時にゼミ選びをしている時のことだ。ゼミ一期生の卒業論文は、通常の卒業論文で取り組むような個人研究ではなくヴァーチャル・ヒストリーだった。細かい経緯は忘れたが、ヴァーチャル・ヒストリーとは何だろう、と思って調べていたか、誰かから聞いて知ったのが、ファーガソンが編集した、Virtual History: Alternatives and Counterfactuals、である。当時は、英語がほとんど読めなかったので、ぱらぱらと眺めてみるだけだったのだが、へーこんな手法があるのか、と思ったことを覚えている。

とにかくひたすら本を書きまくる、そしてそのどれもが大著であるファーガソンには、これまでなかなか手が出なかったのだが、邦訳を機に読んでみようかな。ただ、個人的にはこの、the War of the World: Twentieth-century Conflict And the Descent of the West、よりも、上下二冊の大作、The House of Rothschild、の方が興味があるし、専門から考えれば、Empire: The Rise and Demise of the British World Order and the Lessons for Global Power、の方をまず読むべきなのかもしれない。

ファーガソンについてちょっとネットで調べてみると、公式(?)HPの現在の研究欄に、"Henry Kissinger: A Life" a biographical study of the most influential Secretary of State and diplomatic thinker of the post-war era、という一節を見つける。公刊されるのは、再来年以降だと思われるのだが、自分の研究にも登場してくるキッシンジャーに関する研究だけに、どんな研究になるのか気になるところだ。気になって調べてみると↓といった情報も発見(リンク)。

Three years ago, he agreed to open up his White House diaries, letters, and archives to British historian Niall Ferguson, who is taking five years to write a biography. (Of a working session at Kissinger’s place in Kent one summer, he says, “I’m in Henry Kissinger’s swimming pool talking about his meetings with Mao Tse-tung, thinking, I must be dreaming.”) Ferguson claims that Kissinger wants him to write a warts-and-all biography, but Kissinger has rarely had anything but antagonistic relationships with his chroniclers.

なかなかキッシンジャー研究は難しいようだ。

at 14:30|PermalinkComments(3)本の話