2007年10月

2007年10月31日

10月も終わり。

気が付けばもう今月も最終日、そろそろ2007年の終わりも見えてきた。ということはつまり、修士論文の提出期限も見えてきたということだ。大学側への提出は1月の半ばなのだが、指導教授に年内に提出しなければならないのだ。

そんなわけで、東京国際映画祭、神保町の古本まつり、早慶戦など、最近目白押しだったイベントにも全く行けていない。

特に残念だったのは、早慶戦だ。今回は優勝もかかっているのでぜひ行きたかったのだが、月曜日は仕事のため泣く泣くあきらめざるを得なかった。この一ヶ月ほど仕事は結構忙しかったのだが、そんな日に限って午後はほぼやることがない、というのもまた悲しいところ。結果も負けだし。しかも昨日の試合では、ハンカチ王子に15奪三振完封負けを喫し、優勝までかっさらわれてしまった。

とまあこんな感じの日々だったわけだが、10月はなかなか充実したいい一ヶ月だったように思う。

で、「ここには研究の話ばかり書いているので、なかなか伝わらないような気もするが」と書こうと思ったのだが、よくよく考えるとこれも変な話だ。語学なんかはともかくとして、研究自体は楽しいから続けているんであって、別に勉強ではないので自分にとっては楽しくて仕方がないものなのだ。楽しいし好きだから研究をしているのでだから、その原点を忘れちゃいけないんだな、と最近よく思う。

さて、11月はどんな一ヶ月になるのだろうか。



久しぶりにスキンを変えてみました。金魚→猫と来て、今度はトンボ。季節モノなので冬になったらまた新しいものに変えると思います。

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2007年10月26日

オーラル・ヒストリー考。

前回の記事に続き、研究関係の話。

先々週辺りから、修論の草稿をだだだっと書いていたのだが、何となく筆が乗らない部分があったので、この数日は執筆をちょっと休んでいる。で、その間に何をしていたのかと言うと、色々していたのだが、昨日は頭の休息もかねて前々から出版を楽しみにしていた、君塚直隆『ヴィクトリア女王』(中公新書)を読んだ。

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外交や政治が関係すると、最近はついつい自分の研究に引き付けて読んでしまうのだが、19世紀のイギリス外交や政治は適度に研究テーマと離れているので、純粋な知的関心から読めるのでいい。君主の考えていることや思考様式を、平凡な一般人の自分が真に理解するのは難しいな、とふと感じた。これは夏休みに明治天皇の評伝を読んだ時にも感じたことである。君主について書いていて「降りてくる」瞬間を全く想像できない。君主だとか勲章だとか、そういった「名誉」に関係してくる話は好きなのだが…。

と、これはどちらか言うと趣味に近い部分で、自分の研究に直接関係するわけではない。

研究に関係するのは、オーラル・ヒストリーだ。修士論文になるであろう研究を構想する上では、あるオーラルの存在が極めて重要だった。ちょっと筆が乗らなくなったので、しばしそのオーラルを読み返していたのだ。しかし、それはそのオーラルが決定的な資料になるというわけではない。資料を読む上で、また研究の視角を作る上での「文脈形成」に重要だったのである(ちなみに、オーラル・ヒストリーの持つ文脈形成力については、この分野の第一人者による入門書『オーラル・ヒストリー 現代史のための口述記録』(中公新書)に詳しく書かれているので、ここで書いていることはほぼ受け売り)。

この「文脈形成力」は、日本を対象にした研究でなくとも当てはまるものだと思うが、日本を対象とする研究、特に戦後など現在に近い時代を扱う場合に非常に重要になるのではないか、と最近思っている。これには日本の資料の性質が大きく関係している。

決定的なのは、日本の公文書からは政策決定を知ることがほとんど出来ない。重要なことが文書を介さずに決められるということがその大きな理由だと思うが、そこにはいくつかの背景がある。一つ目は、自民党の一党優位制が長らく続いたことによって、インフォーマルな政策決定過程が形成されたことだろう。行政に対する政治の影響を公文書から読み取るのは非常に難しい。二つ目は、一つ目の理由と裏腹だが、省庁内の決定もまたインフォーマルな場で決められることが多かったということだ。これは、省内の会議の議事録が、少なくとも研究者が利用できる形ではほとんど残っていない(公開されていない?)ということと言い換えてもいい。三つ目は、こういった一次資料の性質に加えて、回顧録が充実していないということである。日本でも回顧録の数はそれなりにあるのだが、諸外国の回顧録のように内容の濃い政治家の回顧録が極めて少ないのである。

以上のような状況は何をもたらすのだろうか。それは研究を進める時の「イメージ」が、同時代的なマスコミの論調や一般的なイメージによって作られる、もしくは過度に現代的な視点から作られる状況を生みやすい、という形をとって影響が出てくる。

こうした状況のため、日本を分析対象にする場合、諸外国の研究と比べて特にオーラル・ヒストリーの有用性が高くなるのである。一つのオーラルだけでは、あまり意味が無いかもしれないが、数冊まとめてある組織の関係者のオーラルを読んでいくと、その組織の「雰囲気」や「常識」といったことがよく見えてくる。そして、そこから湧いてくるイメージは多くの場合、マスコミや一般のイメージとは異なっている。ここに研究を進める手がかりがあるのだ。

もっとも、オーラルに頼り過ぎるのは、利用しない以上に大きな問題である。オーラルはあくまで「文脈形成」のために用いるのであって、事実確定は出来る限り文書資料や諸外国の文書で行う必要がある。こう考えると、外国の資料を利用できる外交史研究は恵まれているのかもしれない。

なーんてことを、オーラルを読み返していて感じた。自分がそれなりに研究を進めた上で読み返すと、オーラルで語られていることをより広い文脈の中に置いて相対化できるので安心して読めるし、忘れていたことを思い出させてくれるのでなかなか楽しい。

ちなみに、もうすぐ御厨貴・編『オーラル・ヒストリー入門』(岩波書店)が出るみたいです。

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2007年10月23日

逆説は本当に逆説なのか。

今日の院ゼミは久しぶりに面白かった。発表者が博士課程の院生だったこともあり、本格的な研究発表が二本続いた。一時間半という時間で取り上げるのがもったいない。特に後半の発表は、自分とほぼ同じ時代を取り上げていることもあり、とても興味深いものだった。

外交史研究とは何か? というのはなかなか難しい問題で、そもそも歴史学なのか政治学なのか、というところから疑問は始まる。そんなわけで、学部時代の教育やそれぞれの「趣味」で研究のスタイルというのは大きく変わってくる。もっとも、どんなスタイルであっても、いい研究はいい研究だし、面白い研究は面白い研究なのだ。

今日の二つの発表は基本的には外交史研究といっていいのだと思うが、研究スタイルが片方は「政治学」寄りで片方は「歴史学」寄りと、かなり分かりやすい形で違ったので、それに対する先生のコメントとあわせて、なるほどと思うことが多かった。特に興味深かったのが、先生の「逆説を逆説としてではない形で説明することが大切」というコメントだ。これだけでは何のことなのかよく分からないかもしれないので、簡単に補足しておきたい。

外交史研究に限らず多くの研究の問題設定として、「普通に考えれば○○となるのに、実際は××である。なぜ?」というのは定番である。しかし、それは本当に逆説なのか、ということはよくよく考えてみる必要がある。「逆説」というのは、一般的なイメージがあってそれと異なるから「逆説」と説明されるわけだが、それはむしろ一般的なイメージが間違っているのかもしれない。研究対象や被説明変数の広さによっても異なるのかもしれないが、外交史研究のようにある対象や時代を特定して研究する場合、ある意味での「特殊性」は分析の前提に置かれている。例えば「1970年代の日本外交」のように研究領域を定めれば、その時点でかなり被説明変数は限定されているわけだ。そうであれば、逆説をただ逆説として前提とするだけでは不十分だ、というのが先生のコメントだ。

先生のコメントは外交史研究というより、外交を対象とした政治学的な分析といったイメージでなされたような気もするが、その重要性は外交史研究にとっても十分に当てはまるので、自分にとっても結構考えさせられるものだった。

それにしても外交史研究って、どこにアイデンティティがあるのかがよく分からない。

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2007年10月21日

二度寝がち。

つい最近まで夏気分だったのだが、最近は朝晩は冷えるようになった。そんなわけで布団を秋冬仕様に変えた結果、午前中にこれと決まった予定が無い日は二度寝をしてしまいがちである。

夏は自然と六時半くらいに目が覚めていたのが、九月になるとそれが七時半になった。目覚ましが好きではないので、この一時間の違いは大きい。寝る前の「意気込み」みたいなものも重要で、翌日朝走ると決めて寝ればまだそれが実行できるが、「明日は九時前に大学へ行こう」くらいのゆるい決意だとついつい二度寝の誘惑に負けてしまうのだ。

それでも十時前くらいに大学へ行けていたのだが、前日深酒をしたわけでもないのに、とうとう今日は二度寝から目が覚めたら九時過ぎだった。基本的に朝型の人間なので、起きるのが遅くなればそれだけ一日が短くなってしまう。ちなみに今日は休日気分でゆるりとした午前中を過ごしてしまったので、大学に着いたのは昼前になってしまった。三時間予定が狂ってしまった。

もっとも、十分な睡眠を取った上にゆるりとした午前中を過ごすことが出来たからか、今日は結構論文が進んだ。資料をひたすら読む作業とは違って、文章を書く作業は気分が乗らないとなかなか進まなくなるので、今日の過ごし方はかえって良かったのかもしれない。

そんなことを書いていて思ったのだが、実は論文を書いていて重要なのは、いかに気分を乗らせるかということよりも、気分が乗らない時間をいかに有効に使うか、ということなのかもしれない。気分が乗らなくても単純な事実関係を並べることは出来るわけだし、資料を読み返したりといったことは出来るわけだ。

こう考えてみると、論文を書くコツの一つは時間を有効に使うことにあるようだ。当たり前のことだが、そんなことに気が付いて毎日を過ごせば少しだけ早く論文を書き終えられるような気がする。あくまで気がするだけだが。

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2007年10月19日

毎日を大切に。

どんなイベントがあろうとも、そしてそれにどんなに心が躍ろうとも、結局自分にとって一番大切なのはあっさりと過ぎていくその日常そのものだと思う。なーんてことを、考える今日この頃。そんな自分に重要なのが「習慣」らしい、ということも最近よく分かってきた。

一度習慣にしてしまうと結構大変なことでも長続きするものだし、気が付くとそれは自分にとって全然大変なことではなくなっている。逆にずっと続けてきたものでも、何かのきっかけにそれが止まると、当たり前に続けていくことが億劫になるものだ。

ブログの更新なんかも、その一つかもしれない。日々の授業の記録や、それなりに面白かった勉強関係の記録がわり、友人への近況報告がわりなんかの意味もあって、二年半くらいはほぼ毎日記事を書いていたわけだが(まとめて数日分書くこともあったが)、この夏に何となく数日ごとの更新に切り替わってからは、毎日書くなんて面倒なことはとても出来ないな、と思うようになった。

ま、他にもいろいろと理由があって書くことが無くなったということもある。例えば、自分の現在進行中の研究についてはここにはまだ書く気にはならない。研究は日々の生活の大きな部分を占めているだけに、それを書かないとなるとここに書くことも大幅に減ることになる。本の紹介にしてもそうだ。本を読んでいても自分の研究に引き付けて読む以上、自分が思ったことや感じたことを織り込んだ書評を書けば、自分の研究について書くことになってしまう。そんなわけで、国際政治関係の本なんかは当分ただの紹介以上のことは書けないのかもしれない。

閑話休題。とにかく毎日を大事に過ごしたいな、ということだ。



昨日はプロジェクト科目(政治思想研究)に出た。今期は修士論文があるので履修はしていないのだが、先生にお願いして出れる時だけ出ることにしたのだ(随分と勝手な授業姿勢だが先生がOKしてくれたのだからまあいいのだろう)。

自分の専門が何となくながら見えてきた今、政治思想はほぼ趣味に近いものがあり、授業のために本を読んだり、授業に参加することはいい気分転換にもなる。もちろん様々な構造や制約を受けながらも、外交や国際政治を動かすのは人間である。そんな人間の思考枠組みのようなものの一旦を考える上でも、政治思想について考えることは大いに参考になる。なんてこじつけて正当化している。

昨日は、「『光の領国 和辻哲郎』をふりかえる ―博士論文とは何か?」というテーマだった。『光の領国』は、どれだけ読めていたかは別にして、学部時代に読んだこともあったし、著者の新刊『移りゆく「教養」』を最近夜の読書で読み終えたばかりだったので、なかなか面白かった。10年以上前の本について著者から話を聞くということは貴重な体験だ。

話の本筋には関係しないのだが、先生が紹介していた中井久夫のエッセイ「執筆過程の生理学」(『家族の深淵』みすず書房、1995年、所収)に惹かれた。今まさにその渦中にいるものとして、読んでみたいものだ。

『光の領国』は図書館で借りて読んだらしく、手元に無く授業を機会に手に入れようと思って探したのだが、新刊、古本とも手に入らなかった。う~ん、これも稀少本の一つなのか、と思っていたところ、著者自身から「出版社には大量にあるはずなので、出版社に直接連絡すればいい」という話が授業の中であった。早速、連絡することにしたい。

この本に限らず、出版社の倉庫に眠っている学術書というのは意外とあるのかもしれない。それなら、amazon辺りで買えるようにしてくれ、と思うのだがそう簡単にはいかないのだろうか。

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2007年10月17日

ささやかな楽しみを糧に。

修士論文に目処が立ったら小旅行に行きたい、なんてことを考えていたものの10月後半から11月前半の予定を見てみると、意外にも日程が詰まっていてどう無理をしても三日以上の休みが取れそうにないことが発覚した。授業は一コマ+αなのだが、仕事やら家庭教師やら色々あって日程がうまく合わないのだ。

三田祭期間中は予定も空くのだが、さすがにその時期に遊び回るのは修士論文の締切を考えると難しい。そんなわけで、リフレッシュは近場でするしかなさそうだ。研究がようやく軌道に乗り資料を読み返すのも楽しいのだが、そればかりではやはり飽きてしまうし、頭も固くなってしまう。「無用の用」は大切だ。

というわけで、日々のささやかな楽しみや喜びを大切に過ごすことにしたい。

そんなことを考えながら新聞を広げたところ、毎月楽しみにしている「権力の館を歩く」(リンク)が今日の朝刊に出ていた。今回で10回目になるこの連載は、政治好きで建築好き、という自分にとって最高に面白い読み物だ。前回の連載で取り上げられた三木武夫邸は、自宅から10分くらいのところにあるので、思わず帰り道に遠回りをして寄ってしまった。今回は「沖縄・県庁と高等弁務官事務所」がテーマ。国際通り入り口に建つ県庁舎が、この半年ばかり色々な話題を振りまいた故黒川記章の設計によるものだとは知らなかった。この連載はいずれ本になると思うので、それもまた楽しみだ。

ささやかな喜びは意外と色々なところに転がっているものである。観たい観たいといていた「LONDON CALLING/ザ・ライフ・オブ・ジョー・ストラマー」(公式HP)。アミューズCQNでの上映が終わったので、てっきり渋谷ではもう見れないのかと思っていたのだが、改めて調べてみるとシネ・アミューズでやっていることが分かった。夕方&夜やっているので、適当な日を見つけて観に行くことにしよう。

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2007年10月15日

寝る前の読書。

修士論文の中間発表のために根をつめてやっていた一週間は、まともな読書時間は寝る前だけだった。そんな一週間の寝る前に読んでいた本が↓

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右の二冊はともかく、寝る前の読書としては左の二冊はやや問題あり、と自分でも思う。知的変態度の高さの表れであろうか。

明日からは論文執筆生活が始まるので、これまで以上に息抜きの仕方が重要になる。寝る前の読書はいい睡眠導入剤&リフレッシュになるので、どんな本を選ぶのかによって翌日の気分が違ってくる(ような気がする)。

at 21:27|PermalinkComments(0)本の話 

2007年10月14日

家族の本棚。

家族全員がそれなりに本を読むこともあって、一般的な家庭と比べると我が家には多くの本があると思う。もっとも家が狭いので、当分読みそうにない本は段ボール箱に入れておいたり親の実家に送ったりしているので、ぱっと目に入る本はおれの部屋を除けばそれほど多いわけではない。家族が本好きでいいのは、読みたいけど自分が持っていない小説なんかが結構家に転がっていることだ。80年代生まれにもかかわらず「第三の新人」とかが好きな俺にとって、この環境は最高に贅沢なものである。

先日、『輝ける蒼き空の下で』という北杜夫の小説を探していたところ、親の蔵書から思わぬ発見をした(ちなみに『輝ける蒼き空の下で』は北杜夫にしては珍しく「真面目」な大河小説の傑作だ)。その発見というのは『小原直回顧録』(中公文庫)。まさか親の蔵書からこんな発見があるとは思わなかった。親に聞いたところ「そんな本を読んだ記憶はない」との回答だったが、発見した段ボール箱には松本清張の『昭和史発掘』(文春文庫)があったから、その流れで読んだのだろう。人間長生きすると自分が読んだ本を忘れるのか、とちょっとした衝撃だったが、よくよく考えれば自分も本棚に置いてある小説の内容がさっぱり思い出せなかったりするので、あまり変わらないかもしれない。

さらにいくつか読みたかった小説が見つかったのは嬉しい発見だ。昔の本なので字が小さいの点にやや難ありだが、それでもこうやって読みたかった本を発見するのは楽しいものだ。ばらっと置いてある本を見ると、父は読書傾向が濫読イナゴ型(こんな表現はないと思うが)だったようで、無傾向に色々な作家の作品がずらっと並んでいる。ある本を読んで面白いと思うと、その作家の作品をひたすら買い集めて読んでいたのが蔵書からも伺える。んー、この親にして自分あり、と感じてしまう。

そんなことがあると探索を続けたくなるというもの。ついでに近くにあった弟の本棚を眺めたところ衝撃的な一冊を発見した。『拡大○○○○○の挑戦』という新書が置いてあるではないか。一昨年の不快な思い出が蘇ってくる。弟の本棚にあった唯一自分の専門分野に近い本がそれとは…。

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2007年10月11日

研究とは家を建てるようなもの。

研究会と院ゼミでの発表を終えて、今はしばし小休止期間に入っている。最近は寝る前にしか出来なかった読書を昼間にもしてみたり、朝の走り込みを再開してみたり、お酒を飲んでみたり、何となくゆるりとした気分である。

張り詰めて研究のことを考えていた時よりも、そんなゆるりとした気分の時の方が自分の研究のことがよく見えてくる。それが当たり前なのかそれともたまたまなのかはよく分からないけれど、とにかくよく見えてくるということだけは確かで、今の自分にとってはその事実に意味がある。

今日は常々お世話になっている二人の先生に研究相談をした。長々と中身を説明したこれまでの発表とは違って、序論と結論に絞って説明したこともあり、今まで発表した時とは違った視点からそれぞれ重要な指摘をいただいた。今週末や来週にも研究相談の予定があるので、今日の指摘を生かして修正しておきたいところだ。

研究の内容とは別にして、発表をもっとうまく出来るようにしなければならない、というのもこの一週間で気が付いたことだ。研究会での発表は原稿を作ればいいのだろう。もう一つ重要なのはレジュメの作り方だ。まず、一つ一つの言葉をもっとしっかりと検討しなければいけない。あまり長いレジュメだとそれを要約して話しても、聞き手はその細かさと長さにげんなりしてしまい実際の発表に注意がいかなくなる。A4一枚くらいで要旨をまとめたレジュメも作った方がいいのかもしれない。それから、一対一の研究相談の時は限られた時間の中で要旨を伝える必要がある。そんな当たり前のことに気が付いたのは、今後のためにも大きな収穫だ。

色々な場で発表することが出来たり、何人もの先生や先輩に研究相談をすることが出来るこの環境は、改めて考えるとものすごく贅沢なことなんだと思う。ハードルは高くなるわけだからしんどいことなんだろうけど、それも含めてとにかく贅沢な環境である。



研究というのはなかなか説明が難しいものらしく色々な例えが使われる。地図の作成に例えて研究について書いたこともあるが、外交史の場合によく使われるのは建築の例だ。

建築というと少々大げさかもしれないが、要は家を建てるということだ。家を建てるためには土地が必要だが、いい土地には当然のことながらすでに家が建っているものである。家=論文、土地=研究テーマ、ということ。売れる家を作るためにはやはりいい土地を見つけるのが何よりも大切なわけだ。とはいえ、家を建てるというのはなかなか難しいもので、一見いい土地だと思って建築を進めていったら土地が傾いていた、なんてこともよくある。あまりよくない土地でも、建築方法を工夫することでいい家が建つかもしれない。建築方法=分析の視角ということだ。土地の特性やその目的によって建築方法は変える必要がある。

この辺りまでは大きな話だが、建築方法を習得するということも家を建てるためには重要になる。一見していい家に見えても欠陥住宅では仕方がない。何よりもまずはしっかりとした土台が必要になる。土台がめちゃくちゃでは家はすぐに傾いてしまう。内装も重要だ。いい土地に立派な家を建てても、内装がめちゃくちゃだとちょっと住み手を見つけるのが大変だ。建築業者の中にも内装を中心にやっている人もいるが、研究者でも内装専門みたいな人もいる(この辺りはもう何が何にあたるのかよく分からない気がするが)。

で、自分の研究の話。家を建てるのは、最近開発が進み始めた地域(時代)。その地域の中でも意外といい土地(研究テーマ)を見つけたかなというのが最近の実感。建築方法(分析の視角)は、ずっとずっと迷っていたのだが最近ようやく決まって異論はあまりない。土台(目的と結論)はそれなりにしっかりとしたものが組めてきたような気がするが、一部に鉄筋が抜けていたりするのが見つかったりで一部は手直しする必要がある。今はそんな状況。

んー、この例だとあまりよく分からないかな??

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2007年10月07日

10月7日。

先週はキャレルにこもって研究に励んでいたのだが、昨日の発表が終わったので、ちょっと一息つけそうだ。昨日の発表については、色々と書きたいことや思うこともあるわけだが、それは論文に示せばいいのでここには書くまい。ともあれ、研究テーマや方向性、アウトラインに関しては今のままで当面は問題ないのかな、という感触が得られたことが何よりの収穫だ。

火曜には院ゼミで発表があるが、これが終われば後は執筆執筆執筆という生活に入る。数日頭を落ち着かせてから、あとは一気に草稿を書き上げてしまいたい。というのが希望なのだが…どうなることやら。キャレルは飽きたので、他に執筆場所を探さなければ。



そんなわけで今日はゆるりと家で本を読みながら過ごしている。

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最近寝る前に少しずつ読んでいた本だ。まとまった時間を確保して、読みたい本をじっくりと読めるのは嬉しい。学部二年辺りからずっと回顧録ブームは継続していて、国の内外、職業、時代に関係なく回顧録はよく読んでいる。自分が学問の世界に少しだけ足を突っ込んでいることもあり、学者の回顧録は読んでいてなかなか面白い。

この回顧録を読むのはニ回目だが、前回に読んだとき以上に面白いのは書かれている時代に対する自分の理解が少しは深まったからだろうか。

自分の研究しているところでもその名前が出てくるキッシンジャーと会った時のエピソードについつい目が行ってしまう。1960年代前半、著者の自宅へ当時ハーバード大学教授だったキッシンジャーが訪ねてきたという。それが初対面だったのだが、挨拶も早々にキッシンジャーは「限定核戦争はあり得る」という自説を1時間半余り話し続けて帰っていったらしい。妻(めったに人を悪く言わないらしい)の感想は「あんな非常識な人には、会ったことがありません。私は嫌いです」というもの。さもありなん、といった感じ。



先週、研究に励んでいる時に飛び込んできたのが「伊東監督退任」のニュース。自分が生まれた時から、伊東はずっと西武でプレーをしていた。選手としては2003年に引退したが、引退の翌年からは監督を務めていた。自分が応援する西武には常に伊東がいたのだが、来年からはいない。別に伊東ファンだったわけではないのだが、ニュースを聞いて少し感傷的な気持になってしまった。

そんな西武は、楽天よりも下の四位という残念な結果でシーズンを終えた。来年に期待。でも課題の投手陣に来年大きく伸びそうな若手がいるわけでもなく(涌井にこれ以上望むのは酷)、監督が変わったからといってそうすぐにチームが強くなりそうもない。ふーむ。

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