2007年09月

2007年09月30日

今月も終わり。

よく、生きている時間が長くなればなるほど同じ時間の感じ方が短くなっていくというけれど、本当にその通りだなと思う。九月もあと一時間弱で終わり。院ゼミだけなのでほぼ授業はないとはいえ、先週の水曜からは大学院の授業も開始され、夏休みも気が付いたら終わっていた。あの永遠のように長かった小学校時代の夏休みが懐かしい。

体調を崩したりして、色々な予定が大幅に狂ってしまった九月だが、全体としてみればいい一ヶ月だったように思う。フォースを求めてダークサイドに落ちかけた(翻訳:院棟にひたすらこもっていた)、七月に比べれば夏休みの最後は精神的に余裕があったような気がする。



夏休みは熱帯夜の供にしていたこともあって小説はかなり読んだが、その分映画はほとんど見れなかった。映画館で観たのは「天然コケッコー」(公式HP)と「エディット・ピアフ」(公式HP)の二本だけ。どちらも音楽がいい感じの映画でした。内容はほのぼのと壮絶の両極端。ちなみにこの間久しぶりに輩飲みをした時に「俺も観た」という声が相次いだのが「天然コケッコー」。24歳の男三人が「天然コケッコー」についてあつく語るというのはちょっとなあ…。

今とても観たいのが「LONDON CALLING/ザ・ライフ・オブ・ジョー・ストラマー」(公式HP)。内容は題名のとおりの音楽ドキュメンタリーらしい。問題は渋谷での上映が、今週金曜までということだ。何とか時間をひねり出して観に行きたいのだが…。

そんな感じで音楽モノ映画が気になっているわけだが、夏休みは新しく音楽を仕入れる間もなく終わってしまった。ひとまず欲しいのが、yanokami(矢野顕子とレイ・ハラカミのユニット)のアルバムだ。CDを買うのは思い立ったらすぐ出来るわけだが、なんとなくものぐさになってしまっていて行動に移さないまま二ヵ月近く経ってしまった。

10月は趣味にも時間を少し割いてゆったりと過ごしたい(現実逃避気味)。

at 23:20|PermalinkComments(0) 映画の話 

2007年09月28日

よもやま話。

病み上がりにも関わらず仕事がずっとあったため、いまいち体調の回復が実感できない一週間だった。疲れが溜まってなかなか回復しないのだ。フルタイムで働いている友人達と比べれば、別に大した仕事量ではないわけだが、学生にとっては働くのは非日常なので疲れる。

今日は疲れがピークに達したので、早めに食事をして9時には布団に入ってすぐ寝てしまったのだが、さすがに早く寝過ぎたようでつい先ほど目が覚めてしまった。時間つぶしにブログを更新。



そんな仕事が重なった週を狙ったのかは知らないが、今週は大量の「開示決定通知書」が某官庁から送られてきた。基本的にどれも手元に欲しい文書なので、データの形で貰うことにしたいのだが、その手数料だけで研究書が数冊買えてしまいそうだ。

もちろんこの知らせは嬉しい限りなのだが、そのタイミングがかなり悪い。今週は仕事がずっとあったため、開示された文書を受け取りに行くことが出来なかった。そして来週も月曜は仕事なので、最短でも受け取れるのが来週の火曜日ということになる。郵送で開示を依頼しても週末を挟むので結局手元に文書が届くのはほぼ同じだろう。

問題は、来週末に修士論文の中間発表をする予定があるということだ。今回開示が決定した文書はチェックしてから発表をしたかったのだが、このままだとしっかりと全ての文書を読んで研究に反映させるのは難しそうな状況だ。まあ、先週開いていたとしても体調を崩していて見れなかったのでそれほど変わらなかったのかもしれないのだが…。

なんてことを考えながらも、読みたかった文書が開きそうなことは素直に嬉しいわけだ。情報公開制度も、自分が欲しい資料を効率よく手に入れるにはそれなりにコツのようなものが必要で、最近ようやくそれが分かりかけてきたような気がする。



今日は真夏のように暑かったが(職場の室温は32度を超えていた!)、明日からは秋らしい気温に戻るようでひと安心だ。体力の回復を待って走り込みも再開したい。「読書の秋」「食欲の秋」など秋を形容する言葉は色々あるが、個人的には「スポーツの秋」を重視したいところ。ジュビロもダメ、ライオンズもダメということで観戦する方では楽しめそうにないので、今年は自分がする方で楽しむことにしたい。

at 23:58|PermalinkComments(0) 日々の戯れ言 

2007年09月26日

買った本、話題の本、気になる本。

久しぶりに大学の生協書籍部に行ってみると、いくつか新刊が出ていたのでまとめて購入。最近本を買ってもなかなか読めないので、ますます積読の本が増えていく。

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一番左は、最近流行りのインテリジェンスもの。右二冊は、シリーズ国際関係論(HP)の二冊だ。どれもいずれ読むだろう、ということでついつい購入してしまった。右二冊を入荷したのは昨日辺りだと思うのだが、書棚にはすでに僅かしか残っていなかった。また自分の周辺が買い占めているのではないかという疑念が頭をよぎる。

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新聞各紙書評で相次いで紹介されているのが、飯尾潤『日本の統治能力』(中公新書)だ。書評のリンク(『読売新聞』『毎日新聞』)、毎日はサイト移行に備えて別サイトにリンクしておこう。発売直後に買って未読なのだが、いい加減に時間を見つけて読みたいところだ。

勉強&研究関係の本はともかくとして、最近は小説なんかもどんどんたまっていく。今読みたい本を読むだけで、二十代が終わってしまうのではないだろうか。本を読めば読むほど読みたい本が増えてゴールが遠ざかる。

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後輩のブログでも紹介されていたのに便乗してここでも紹介しておきたいのが、講談社BOOK倶楽部内にあったある本の自著紹介(リンク)。これは講談社のPR誌『本』に掲載された原稿だと思うが、最近は出版社のインターネットもなかなか充実している。例えば慶應義塾大学出版会のHPなどは、書評情報だけでなく他媒体で発表された著者による自著紹介や、関連記事がかなり詳細にリンクされていたり転載されている。

そんな国内出版社のサイトの充実ぶりと比べると、海外の出版社のサイトは中身をちょっと読めることがあるのはいいが、全体としてはサービス精神に欠けているような気がする。もっとも国内の出版社も会社ごとに千差万別ではあるのだが。

at 23:48|PermalinkComments(0) 本の話 

2007年09月24日

健康上の理由。

首相の辞任理由ではなく、自分の話です。

先週の火曜夜から激しい腹痛に襲われ、さらに高熱、頭痛などにやられて土曜昼までベッドにへばりついて生活していました。生まれて初めて点滴なるものを打たれるなど、なかなかしんどい数日間を送った。本すらほとんど読めず。体重約3.5キロ減。

寝ていた数日間で、やらなければならないことがいくつかあったわけだが、それも全てキャンセルして療養していた。昨日から再始動したわけだが、家の近所の大学に行くだけで疲れるというところまで体力が落ちていた。今日は午前中から夕方まで集中力が続いたが、まだまだ体力が戻りそうにはない。

大学に一週間も行かなかったのは、昨年パリに行った時以来ではないだろうか。ちなみに明日も仕事で行けないので、大学に復帰するのは水曜ということになりそうだ。

色々と追い込まれてしまったので、背水の陣のつもりで頑張ろうと思います。

at 23:35|PermalinkComments(0) 日々の戯れ言 

2007年09月18日

勉強する環境。

図書館が閉まっているにも関わらず大学へ行くというのは、精神衛生上あまりよくないようだ。キャレルにも人が少ないし、あそこは休日に一日一人でこもっていられるようなところではない。そんなわけで昨日は午前は大学に行ったのだが、午後は家の近所の大学へ移動してみた。

国立大学は建物は古いものと新しいものが混在し、かといって統一された学内のイメージのようなものがあまり浮かばない。だが駒場キャンパスの図書館周辺はリラックスできるいい感じの空間になっている(ちなみに統一された学内イメージのようなものがあるのは、キリスト教系の大学が多い気がする。教会の配置とかが関係しているのだろうか)。そんなことよりも何よりも家に近いのがいい。図書館を出て自転車に乗ればすぐ家というのは非常に楽だ。

とはいえ、家からあまり近いのも問題だ。気分が切り替わらないのだ。だから一定の時間をかけて勉強する場所へ向かったり、雰囲気を変えるというのは重要なことなんだろう。今日も今から大学へ行くわけだが、疲れたらまた駒場に戻ることにしよう。

そんな日常の中での変化も大切だが、やはり大きな非日常ということで旅行も大切だ。いつもいつも張り詰めていると研究の神様が見えなくなってしまう。修士論文に一定の目途が立ったら、という条件になるが10月か11月かその辺りで国内でどこかへふらっと行ってきたい。といっても、やりたいことは、?京都で某元外務官僚にインタビュー、?研究にゆかりのある人物の墓参り、といったところなのでかなり怪しい旅になりそうだ。こう書くとあまり気分転換の旅行っぽくないな。?の方は70年代ということで目指すはまずは四国だろう、三木(徳島)とか大平(香川)とか。どちらにしても西日本ということになるだろうか。

そうなるとついでに行きたいのが、?呉にある「てつのくじら館(海上自衛隊呉史料館)」と「大和ミュージアム」だ。日本は外交史研究者が行って楽しいような資料館や博物館が存外に少ない。自衛隊関係は意外と日本各地に色々な資料館があるので、そこへ行って楽しむというのはぜひ一度やってみたいところだ。

at 07:52|PermalinkComments(4) 日々の戯れ言 

2007年09月15日

降りてきてください。

所用で昨日夜から静岡へ行っていたのだが、つい先ほど帰京。新幹線で静岡―品川が、一時間かからないという有難さを身を持って実感した。これに慣れてしまうと、鈍行でとことこ行くのが億劫になってしまいそうだ。

普段は静岡へ行くと東京での生活をしばし忘れてゆったりした気持ちになって帰ってくるのだが、今回はずっと修士論文について考えていた。時期も時期ということもあって、修士論文の枠組みについてひたすら考えていたわけだ。

もちろん夏休み前から色々と考えてはいたのだが、この夏休みは一旦思考停止をして資料から様々な事実を拾っていく作業に没頭していた。それをしていく過程で、新たな事実が見つかったり、また自分の漠然と考えていた仮説が修正されていったりと色々な変化があった。それを踏まえて、一つの研究としてまとめなければならない。

「体力勝負」である資料の読み込みとは違い、要はアイデアが浮かぶかどうかだ。そんなわけで時間が空いた時に色々と考えることにしたのだが、これがなかなか簡単にはいかない。他の作業を進めながら模索してみるしかないのだろう。

気まぐれな研究の神様を捕まえる方法を知りたい今日この頃。

at 21:01|PermalinkComments(2) 日々の戯れ言 

2007年09月13日

安倍辞任表明について。

昨日の午後、相変わらず図書館でパソコンと顔を突き合わせながら研究に励、30年ほど前の政治や外交に思いを馳せていたところ、後輩からのメールで「安倍辞任へ」の情報を知る。インターネットをチェックし、2時から記者会見という情報を得て、テレビのある場所へ走った。20分ほど見て、こりゃもうだめだ、と思い研究に復帰した。

歴史を研究し過去の資料を色々と読んでいると、自分がいかに情報を持っていないかということが嫌というほどよく分かる。国民の多くは、マスコミから流される情報を中心にしてしか今の政治や外交を理解できない。インターネットのおかげで、首相官邸や各省庁が発信する情報を直接見ることが出来るようになったのはいいことだが、政治や外交に関する国民の議論がこれを踏まえているとはとても思えない。結局、マスコミによって流されるイメージでしか政治を議論出来ない人が多い(政治学科の学生にしても多くがそう、というのが悲しいとこ)。

「政治とカネ」の問題にしても、「年金」にしても、「失言」にしても、そんなイメージに乗って議論しても何も始まらない。前の二つは制度の問題が大きいのだからそれを議論するべきだろう。基本的には安定した秩序が構築されている国内政治において、まず論じられるべきは制度だと思う。制度を論じなければ、結局政治のイメージを論じることにしかならない。それも重要かもしれないが、それはあくまで制度があった上での問題だ。「失言」はあまりに文脈を無視して勝手に憤りを感じている場合が多すぎる。というか、政治家は聖人君主のような人間でなければならない、という前提がおかしい。人間は色々な偏見や、世代的な価値観の差なんかを抱えながら生きているわけで、その多少の違いや時代錯誤な発言を誰かがしたことがそんなに根本的な問題だとは思えない。むしろ「触らぬ神に祟りなし」的に、思っていることが表に出てこないで笑っている人間の方が個人的には嫌だ。「失言」は叩かれて批判されたら反省すればいいだけで、簡単に役職を辞めるような問題ではない。

閑話休題。そんなこと(=自分たちの情報不足)を普段から感じているので、現在進行中の政治についてのコメントは、選挙でも無い限りあまり発言しないようにしている。もしするとしても制度的な問題を中心にしている。が、今回はちょっと別だ。何と言うか、制度以前の問題だ。確かにこの辞任の背景には、以前の記事(リンク)でも書いたような、現行の制度が持つ参議院問題(参議院は議院内閣制の外にあるという問題)が大きく影響している。

しかし、この辞任表明は制度の問題を論じるまでもない。つまるところ政治家としての資質の問題だ。

過去にも投げ出した形での辞任の例はある。例えば鈴木善幸。党内の支持もあっただけに、退任表明は「??」というところもあった。多分、真の理由は「疲れたから」。だが、一応自民党の総裁任期切れという名分が立った。その次は、細川護熙。「殿様で、根性がない(大意)」といった事が、当時の官房副長官の回想からも伺われるが、これは本当にひどい辞め方だった。周囲との相談がしっかりと行われなかったこともあり、社会党は政権から離脱と非自民連立政権の崩壊を招いたのは、しばしば小沢一郎だと言われるが、何よりも大きいのは細川の突然の辞任表明である。また予算が成立していないのに辞めた、という無責任さは特筆すべきだ。そして、村山富市。ただ村山の場合は、もっと早く辞めたかったところを、様々な事件に一定の目途が付いたのを見計らったこと、また後継首班等についてもしっかりと根回しを行っていたという点で、それほど無責任だとは言えない。

そんな過去の投げ出し型以上に無責任なのが今回の辞任表明だ。予算成立前に投げ出した細川も確かに相当ひどいが、内閣改造から約二週間(田中角栄もやめる直前に無駄な内閣改造をしているが…)、所信表明演説から二日で辞任表明するというのは前代未聞だ。そもそも今辞めるなら、参議院が終わった直後に辞めればいい。内閣改造をする前に辞めればいい。せめて所信表明演説をする前に辞めればいい。各省のすり合わせを行った作文である、所信表明演説の意味は大きいだけに、それをないがしろにするような行動は問題だ。

この辞任表明によって、大きな政治的空白がかなりの期間に渡って発生する。一番短い場合は、新しい自民党総裁が決定するとともに衆議院を解散し総選挙(そしておそらく政権交代)というシナリオだが、この場合でも一ヶ月以上は時間がかかる。現実的でベターなシナリオは、与野党合意の上で選挙管理内閣ということだろうか(過去には第一次鳩山内閣の例がある)。

どちらにしても、次期自民党総裁は相当につらい立場に置かれる。また内閣改造を行うのか、それとも暫定的な選挙管理内閣とするのか、その選択がまず大きな意味を持つ。内閣改造を行うにしても、その持ち駒は限られるし、参議院での少数という事態は変わらない。そして、それ以上に国民の目が安倍辞任でさらに厳しくなったことも政権には重荷だ。次期自民党総裁は「火中の栗を拾う」ことによって、自民党内での求心力を高める、ことが出来ればいいのかもしれないが、一年生議員がわーわー騒いでいる現状ではなかなか困難である。

政治家としてどう評価するかは別にしても、竹下元首相はリクルート事件と消費税導入等で支持率が一桁まで下がりながらも、政治日程に一区切りを付けるまで政権を投げ出すことはしなかった。後継総裁の女性スキャンダルもあり、その後の参院選挙で自民党は大敗を喫したわけだが、それでも筋は通した。

「職を賭す」というならば、それぐらいの覚悟を見せて与野党対決をやり、強行採決をしてでも、テロ特措法を通した上で辞任表明すべきではなかっただろうか。政治生命を無くすならば、せめて後世に評価される形を取るべきだったし、その方が国民のためでもある。

衆議院の議席も小泉政権下で得たものであり、安倍政権はもともと正統性に疑問がある政権だった。成果の上がらなかった「官邸主導」、参議院選挙での大敗、そして今回の無責任な辞任表明、少しは成果があったかに見える外交もたかだか一年では評価のしようがない。このままだと、戦後最低の政権としての烙印が押されるのも時間の問題だろう。

at 08:30|PermalinkComments(0) エッセイ風 

2007年09月11日

一次資料をパソコンで扱う研究者の卵の卵の嘆き。

工事の音がうるさいこともあり、最近はもっぱら図書館で過ごしていたのだが、今日はずっとキャレルにこもっている。そんなわけで図書館が閉まった今もキャレルにいる。さすがに隣のロースクール棟もこの時間になるとすっかり暗くなる。

なぜキャレルで過ごしていたかといえば、自分のパソコンで作業をずっとやっていたからだ。5年前に買った愛器には無線LANが内臓されていないので、ネットを使った作業をしたい時はキャレルにある有線LANを使わざるを得ない。無線LANを買えばいいのだが、もうすぐ新しいノートパソコンを購入しようと思っていることもあり買っていない。いや、多分本当の理由は面倒なだけかもしれない。

パソコンなら大学中にあるのだが、大学のパソコンには資料閲覧に必要な文書閲覧ソフト(DocuWorks)が入っていないので自分のパソコンを使わざるを得ないのだ。便利な時代になったもので、今は外務省に情報公開請求をして文書が開示された際、それをスキャナで読み取ってデータの形で開示してくれるのだ(もちろん文書での開示もある)。なお、戦後外交記録公開も第18回公開以降はマイクロではなくデータ形式での公開なので、必要部分についてはデータで貰うことが可能である。

データの形で持っていれば、研究者間での融通も楽だし持ち運びも容易なので重宝している。印刷していちいちチェックしていると膨大な紙の量になるし、肝心の資料がどこに行ったのか分からなくなることがあるが、データなら無くなることはない。大学のパソコンに閲覧ソフトを入れてくれると本当に助かるのだが…。

敵は眼精疲労だ。やっぱり資料をパソコンの画面上で見ると眼に負担が大きい(もちろんマイクロフィルム&フィッシュよりはよっぽどいいのであるが)。それに資料は紙で読んだとしても、その他の作業はパソコンでやることになるので結局パソコンと向き合わざるを得ない。今日はまだ「眼が疲れたな」とふと思うくらいだが、この作業を数日連続して行ったりすると眼精疲労になるのは確実だ。実際、夏前になったし。こんなことを書いていたら、ちょっと眼の奥が痛くなってきたような気がする。んー、気をつけないと。

…今日の記事は一次資料を扱う研究関係者以外にしか分からないんじゃないだろうか。

at 21:10|PermalinkComments(0) 日々の戯れ言 

2007年09月08日

日常/非日常。

日常と非日常。この二つを行ったり来たりしながら、人間は年を取っていくわけだ。最近は、もっぱら日常の方に支配されているようだ。

この記事を書いている大学のロースクール棟からは、我が母校が見える。今日から二学期が始まるらしく、昨日までは人影がまばらだった校内には人が溢れている。夏が終わったな、と再確認。この夏は、法事のために一日半ほど静岡へ帰っただけで、あとはずっと東京にいた。正確に言えば大学にいた。去年までも東京にいる時間は圧倒的に長かったが、それでも一週間くらいは静岡へ行き、旅行もちょこちょことはしていた。

そんな今年の生活は読書傾向にも現れているようで、読む小説の多くが日常重視といった感じだ。一番分かりやすいのは、保坂和志だろう。他愛もない日常をそのまま切り取ってきたような、それでいて心地よい彼の小説を今年の夏はよく読んだ。

こういった生活を続けていると重要になるのが習慣である。脱単調・脱不健康・脱カレーなどを掲げて、八月の最初から少しずつ変えていったところ、日々の生活のリズムもこの一ヶ月で何となく変わってきたような気がする。早寝早起き、毎日の運動、などを一ヶ月続けてだいぶ健康的になったし、メリハリを付けて研究&勉強をするように心がけたので、単調な生活からも少しは抜け出せた気がする。脱カレーには失敗、相変わらず食べまくっている。

ブログの更新頻度なんかも、その過程で何となく変わった。多分直接の理由は、日々やっていることが研究研究研究といった感じで、ここには書けないことばかりになってきたからだと思うが、今は気が向いた時に息抜きに書いてみるか、という感じであり、一ヶ月前までの日課という位置づけとは少し違う。それでも、必ず二、三日置きに書いている辺りが習慣に忠実な自分らしいなとも思うわけだ。習慣に忠実な自分の性質を利用して、うまく研究も進められないものだろうか。

そんなことを書いていて気がついたのは、論文に対する自分の姿勢の変化だ。それが論文に値するかは別として、学部の時から毎年論文のようなものを秋から冬にかけて書いてきたが、それは自分の中では非日常だった。しかし、今は論文を書くために資料を読むことが日常になっている。院生としては当然か…。

at 11:59|PermalinkComments(0) 日々の戯れ言 

2007年09月05日

息抜きの読書。

文字が読める前から本の虫だった、という話を両親や親戚からよく聞かされる。それが高じて、今も朝から晩まで文字を追いかける生活をしているわけだ。運動三昧だった高校時代も、本だけはずっと読み続けていた。

しかし、その読み方は年を経るごとに変わりつつある。学部時代(後半)は、?小説?政治学一般や社会学などの隣接分野?国際政治(外交史含む)の三つを、ほぼ時間的には均等に使っていた。それが大学院に入ってからは、?が圧倒的な時間を占めるようになり、?と?の時間は大きく減ってしまった。

基本的に自分の研究に関係するものをずっと読み、それ以外は息抜きの時間に読む、といった感じになっているのだ。そんなやや窮屈な読書生活を送っていると、息抜きにもなるし研究のヒントにもなるような本にめぐり合った時は本当に嬉しくなる。山崎正和『歴史の真実と政治の正義』(中公文庫)はそんな一冊だ。

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表題にもなっている「歴史の真実と政治の正義」は、『アステイオン』に掲載された論考であり昔読んだ覚えがあるのだが(学部四年の時に『アステイオン』のバックナンバーを漁っている時期があったからその時かな)、自分が歴史を研究するようになって、この論考の意義がさらに深く理解できるようになった気がする。

 歴史は歴史家の外側に客観的にあるものではなく、もちろん逆に恣意的な主観の産物でもない。歴史家に与えられるのは断片的な史料であるが、それをただ継ぎはぎしたところで歴史は生まれない。彼は想像力を駆使して史料を読み、それが語るものを生きた全体にまとめ、一人の、あるいは複数の人間の行動として「追体験」しなければならない。
…歴史についてそんなことができるのは、コリングウッドによれば、人間が考えて行動する動物であり、どんな行動にもそれを動かす思考があるからである。自然現象とは違って歴史現象においては、それを動かす者はそれを見る者と同質の思考を働かせている。時代によって価値観や考え方の枠組みは異なっていても、歴史を動かしているのは神でも機械でもなくて人間の考えである。だとすれば、必要な想像力を働かせれば過去は後世の人間にも理解可能なはずであって、こうして理解されたものが歴史なのである。(『歴史の真実と政治の正義』中公文庫、25-26頁)


歴史の勉強をしている自分は、ふむふむ納得、と思ってこの文章を読むわけだが、この歴史はいわば「古き良き歴史」(著者はそれを「幸福な歴史観」と呼んでいる)といったものである。20世紀は、こうした歴史の見方がマルクス主義的な歴史観に象徴的な「復讐史観」によって駆逐されていく時代であった。

引用した文章から読み取れる歴史は「認識としての歴史」である。それに対して20世紀に力を持ったのは「伝統としての歴史」であった。これは別の言い方をすれば、科学的知識(=認識としての歴史)に対する日常の常識(伝統としての歴史)、ということだ(同上、31頁)。

現代史に属する時代を、それも自国の歴史を研究している自分にとっては、著者の説く二つの歴史の相克、政治と歴史の癒着といった問題は身を持って感じる重要な問題である。この問題の解決法として著者が提示するのは、歴史教育を国民国家から切り離すことである。が、これは自分の研究に今は直接関係することではない。

近年の学問傾向として、多国間関係を視野に入れた国際関係史が盛んになっている背景には、「伝統としての歴史」から自らの研究を切り離そうという研究者の意識(無意識的かも知れないが)が働いているのかもしれない。そんなことを休憩時間の読書から考える日々。

at 19:15|PermalinkComments(0) 本の話