2007年07月

2007年07月21日

サッカーとアニメ。

久しぶりに早い帰宅をしてテレビの前に座った。というのもサッカー・アジア杯の準決勝があったからだ。スポーツは最初から全く観てなければ早々途中から観たくはならないのだが、一度でも試合を観てしまうとその後が気になって仕方が無い。そんなわけでアジア杯はこのままずっと観続けることになりそうだ。

サッカーの後には去年の夏に観た「時をかける少女」を放送するというので、もう今日の夜はゆっくりしようということにしたのだ。

サッカーの結果は、まあそういうことで、勝ったんだからいいでしょうということに尽きる。しかしPK戦は心臓に良くない。オシムの気持ちも分からなくもない。それにしてもベトナムは本当に暑そうだ。あと、審判が「スペースを消す動き」をするのはどうにかならないだろうか。前回の試合を観た時も思ったのだが、アジア杯は審判のレベルが低すぎる。

試合とはあまり関係が無いが、今回の結論はサッカーを観るならNHKに限るということ。何より実況の質やレベルが断然高いし、感情的でないのでゆっくり観ていられる。今回は現地で作っている映像なのかもしれないが、カメラワークの点でもNHKの方が民放よりはいい。基本的にサッカーの試合で選手の顔をアップにされても困る。

で、「時をかける少女」。サッカーの試合が終わるくらいから他局で放送だったので、そちらに切り替えてみるはずだったのだが、サッカーが長引いたので録画して見ることにした。録画しても変わらずきれいなのはデジタル放送のいいところだ。

2b420e13.jpg

何と言うか、一度観てよかったアニメ映画は安心して観ていられる。というかセリフ覚えていくし。昨年友人宅で「耳をすませば」を観た時のことをふと思い出した。小説や漫画とは違いアニメは特別好きというわけではないが、この映画はなかなかいい。原作(時代設定も主人公も違うが)、脚本、演出の全てが秀逸ということなんだろう。

at 23:55|PermalinkComments(0)映画の話 

2007年07月20日

コースワーク終了。

昨年そして今年、半年ずつの六本木通いが今日終了した。

自分の大学の先生の「出てみたら」という一言から始まった六本木通い。毎週一冊ずつ日本外交史の研究書を読んでいくというのは、まさに日本外交史の「コースワーク」である。本来の受講者よりも、むしろ自分にぴったりの授業であった。

読んだ本をずらっと並べてみると↓のようになる。

<昨年>

入江昭『日本の外交』(中公新書、1966年)
服部龍二『東アジア国際環境の変動と日本外交』(有斐閣、2001年)
波多野澄雄『太平洋戦争とアジア外交』(東京大学出版会、1996年)
細谷千博『サンフランシスコ講和への道』(中央公論社、1984年)
石井修『冷戦と日米関係』(ジャパンタイムズ、1989年)
宮城大蔵『バンドン会議と日本のアジア復帰』(草思社、2001年)
坂元一哉『日米同盟の絆』(有斐閣、2000年)
佐道明広『戦後日本の防衛と政治』(吉川弘文館、2003年)
中島信吾『戦後日本の防衛政策』(慶應義塾大学出版会、2006年)
黒崎輝『核兵器と日米関係』(有志舎、2006年)
Liang Pan, The United Nations in Japan's Foreign And Security Policymaking, 1945-1992: National Security, Party Politics, And International Status (Harvard University Press, 2005)
陳肇斌『戦後日本の対中政策』(東京大学出版会、2000年)
若月秀和『「全方位外交」の時代』(日本経済評論社、2006年)
宮城大蔵『戦後アジア秩序の模索と日本』(創文社、2004年)

<今年>

入江昭『日本の外交』(中公新書、1966年)
高原秀介『ウィルソン外交と日本』(創文社、2006年)
麻田貞雄『両大戦間の日米関係』(東京大学出版会、1993年)
服部龍二『幣原喜重郎と二十世紀の日本』(有斐閣、2006年)
波多野澄雄『太平洋戦争とアジア外交』(東京大学出版会、1996年)
木畑洋一『帝国のたそがれ』(東京大学出版会、1996年)
田中孝彦『日ソ国交回復の史的研究』(有斐閣、1993年)
坂元一哉『日米同盟の絆』(有斐閣、2000年)
河野康子『沖縄返還をめぐる政治と外交』(東京大学出版会、1994年)
ヴィクター・D・チャ『米日韓 反目を超えた提携』(有斐閣、2003年)
中島信吾『戦後日本の防衛政策』(慶應義塾大学出版会、2006年)
黒崎輝『核兵器と日米関係』(有志舎、2006年)
徐承元『日本の経済外交と中国』(慶應義塾大学出版会、2004年)

二年続けて読んだ本が五冊あるのだが、それでもトータルで20冊以上の研究書を機銃掃射式に読んだわけだ。取り上げた本だけを読んでもコメントは出来ないので、関連する研究にも目を通したりするのだが、そうした作業を通じてそれなりに日本外交史研究全体を読み込んでいく作業は大分進んだのではないだろうか。

日本の大学院はシステムの問題もあって、こうやってコースワークをしっかりやるところは少ない。少なくとも自分の通う大学院にはこうしたコースワークの授業は無いので、二年続けて授業に出たことの意味は非常に大きかった。研究そのものの問題意識や骨組みをしっかり作るために必要なのは、先行研究の読み込みよりも資料の読み込みなのかもしれないが、その資料へ分け入っていく過程や資料から読み取ったものを意義付けていく過程では先行研究の読み込みは何よりも必要になる。

今年の授業の終わりが近づいてくるに従って感じるようになったのは、この一年半の「変化」である。同じ本を読んでも、去年と今年ではその評価の高さや評価の仕方には違いが出てくることが増えてきたのだ。素人であってもいい本を見分けることはそれほど難しくはないので、どちらかと言えば重要なのは後者の方だろう。例えば黒崎輝『核兵器と日米関係』などは二年続けて授業で読んだが、自分の感想や読み方といったものはかなり変わったと思う。やや比喩的な表現にはなるが、研究の凄さを「身体」で感じることが出来るようになった。また今年の授業では読んでいないが、石井修『冷戦と日米関係』の凄さも今になってよく分かる。

そんな大学院生的な感想だけでなく、他にも面白い発見がこの二年間では色々とあった。学期の前半では戦前を取り上げて、徐々に時代が現代に近づいていくというのが基本的な進み方だが、そうしてみることによって見えてくることがあるのは発見だ。これは先生が常々言っていたことでもあるが、通史を何冊も読むのと、研究書をずらっと時代順に読んでいくのでは見え方が大分違う。

一つだけ例を挙げてみれば、それは重光葵という存在である。戦前・戦中は外務省の中枢を歩み、戦後は政界で活躍した重光は、1920年代末から1950年代まで様々な時代に顔を出している。その重光の姿が、各研究書で色々な凹凸があるのが興味深い。そんなことを思うのも、こうやって授業で本を一定の時期に読んでいったからだろう。

授業も終わったので後は修士論文だけだ! といきたいところだが、昨日出した「草稿の草稿」を仕上げるという作業が残っている。一応、基礎演習?のレポートということで書いたわけだが、実質はこの授業の「修了レポート」である。ちょっとだけ「寝かせて」から書き上げることにしたい。

at 23:55|PermalinkComments(0)日々の戯れ言 

2007年07月19日

草稿の草稿。

結局、今日五時までに提出しなければならなかった基礎演習?のレポート(=研究動向論文)は自分の中では「草稿の草稿」といった段階のものを提出することになってしまった。う~。〆切の三十分前にデータが飛んだ時には焦った。十分ほどの作業が飛んだのは痛かった。

去年・今年と日本外交史のコースワークの授業を取っているので、このレポートはその授業の総まとめの意味も込めて、もう一度書き直すことにしたい。文献をリストアップして、それに少しずつコメントを付けていったので、だらだらとメリハリの効いていない文章になってしまった。増やすところは増やし、削れるところは削ってもう少しまともな研究動向論文に仕上げたい。この作業が終われば、いよいよやることは修士論文だけである。

at 23:47|PermalinkComments(0)日々の戯れ言 

2007年07月18日

不名誉な負傷。

先週の金曜は仕事の後に授業があったわけだが、今日は授業もないので大学に直行。この日常はやはり何かが間違っているような気もする。で、疲れたので大学からブログの更新をするといういつものパターン。だが、これも何かが間違っているような気がする。

昔から整形外科にお世話になることが多かったのだが、昨晩またしても負傷してしまった。しかも後輩宅で飲んで酔っ払って負傷、という不名誉なもの。尻餅を付きそうになったところを、とっさに受身…のはずが左手のみで体重を受けてしまい、肘を痛めるというかなりかっこ悪い怪我だ。軽い捻挫のような気がするが、左手でものが持てないので不便なことこの上ない。

今日は一日中仕事&レポートでパソコンと格闘せざるを得なかったのだが、パソコンを打つのも長時間になるとやや痛いので困る。

今は明日提出のレポートをやっているのだが、与えられている課題が「研究動向論文」なのでかなり長くなりそうな予感がする。大まかな構成を考えた上で徒然なるままに書いているのだが、「戦後日本外交史の研究動向」といった大きなテーマにしてしまったために取り上げる文献だけで膨大な数になってしまった。ひとまず書き上げてから圧縮したいところだが、残り時間の関係でそのまま出すことになってしまいそうだ。

そんなことを書いているうちに、パソコン・スペースの「営業時間」の終わりが近付いてきてしまった。今日はこんなところで。

at 21:20|PermalinkComments(0)日々の戯れ言 

2007年07月17日

息抜きに映画。

リゲインの宣伝文句をブログの副題にしてみたり、仕事が終わった後に大学へ行ったりする生活を一ヶ月近くしていると、さすがにまいってくる。そんなわけで、今日は昼間ちょっと息抜きに映画を観てきた。

観たのは「アヒルと鴨のコインロッカー」(公式サイト)。原作↓

c3bbc50a.jpg

最近はすっかりミステリーというか、エンタメ系の小説から遠ざかっているので伊坂幸太郎の本など読んだりすることがないので、特に興味があったわけではないのだが、映画館でボブ・ディランを聞きたいというだけの理由でこの映画を観ることにした。

ものすごくいい映画、というわけではないのだが、ぱっと決めて観ても損はしない、といったところだろうか。取り立てて明るくも暗くもないけど、すーっと映画に入っていけるし、すーっと映画から抜けられる。最近の邦画は、こんな感じの作品が多い。

手帳を調べてみると、映画館に行くのは四ヶ月ぶりだった。んー、もう少しコンスタントに映画を観た方が気分転換にもなっていいんだろうな。

at 23:57|PermalinkComments(0)映画の話 

2007年07月16日

院棟からの更新。

日曜&祝日は院棟の「営業時間」は22時まで。平日よりも1時間ほど早い店じまいだ。

とはいえ、授業も何もなく、そして人もあまりいないと時間の流れも速いし、その分疲れがたまってくるのも早い。10時間近くいると頭がぼぉーっとしてくる。今日はサッカー観戦(ビール付き)も犠牲にしてレポート作成をしていたのだが、そろそろ限界がきた感じだ。実家暮らしなので、家に帰れば食事はあるわけだが、夕食を食べずにずっと勉強しているのはつらいものがある。

そんな生活をしていてもなぜか横にいるのはいつもと同じ院生たち。知り合いでない人も普段と同じだから不思議だ。「院棟の神様」とか。

この生活を夏休みの間はずっと続けて修士論文のドラフトを早く書き上げてしまいたい。

at 20:27|PermalinkComments(0)日々の戯れ言 

2007年07月15日

江藤淳『アメリカと私』

台風に翻弄された一日。

台風の影響で、参加予定だった研究会が延期、大学の図書館が閉館、というのがダブルパンチだったのだが、結局昼過ぎからは天気が快方に向かうという皮肉なオチ付きだからやりきれない。仕方が無いので、家に引きこもってレポートを書き、疲れると本を読んだりして一日を過ごす。

明日は休日だが、院棟は開いているのでパソコンを持って院棟に行ってみようかな。

家にいると誘惑が多く、ついつい読書時間が増えて勉強時間が減ってしまう。今日は↓を読み終えた。

02df52ec.jpg

江藤淳『アメリカと私』(講談社文芸文庫)

 江藤淳は、ある意味で「戦後日本」を体現した知識人であった。決して彼の思想はマジョリティでは無かったであろうし、また一つのテーマを一貫して追い続けたわけでもなかった。しかし江藤淳が提起した様々な議論が、生涯を通じて様々な反響を読んだことは間違いないし、一定の共感を得てきたこともまた間違いない。

 彼は早熟であった。大学在学中に評論家としてデビューし、二十代後半にはすでに数々の著書を世に問い、若手批評家の第一人者としての地位を確立していた。そんな若手批評家にとって大きな転機となったのが、1962年から64年にかけてのアメリカでの生活であった。20代後半から30代前半という年齢での初めてのアメリカでの生活が、個人にとって大きな経験であることは容易に想像が出来るところであろう。本書は、江藤淳のアメリカ生活について綴ったエッセイである。鋭敏な感性を持つ若き批評家はいかにアメリカと向き合ったのだろうか。

 他人のなかに自分を読むのはやさしいが、他人を他人として知ることはむつかしい。(52頁)

 著者にとって「アメリカ」という他者といかに向き合うかは一大テーマであった。日常生活で好意に甘えない、適度な距離感の大切さを説く、様々な形で著者はアメリカ的な生活へ自らの歩みを進めていく。しかし、そうやってアメリカと向き合う中で、著者は否応なく自らが日本人であることを自覚しったのであった。

 江藤淳という若き批評家の保守的思考へ至る決定的な過程を本書は描き出している、と結論的には言えるのかもしれない。しかし、一つの疑問が浮かんでくる。著者は本当にアメリカと向かい合ったのであろうか。「他人を他人として知ることはむつかしい」と自覚していながら、本書には次のような記述もある。

 街はひっそりと静まりかえり、路を行く車の数も目立って減っていた。米国人たちは黙って、声もなく泣いているのに違いなかった。そういう悲しみからには、人の心を打つものがあった。大統領という地位と役割が、米国人にとってこれほど大切なものであるというのは、新しい発見であった。私は先日必要があって読んだ、明治天皇崩御の際の『ロンドン・タイムズ』の記事を思い出した。『タイムズ』の記者は、天皇御危篤の報に、二重橋前につめかけた日本人が、いかに粛々と、ある威厳をもってその悲しみを表現したかを、感動して語っていた。その感動に似たものを、私は身の内に感じた。(158-159頁)

 ワシントンの友人からの手紙にも全学連とミシシッピ州の暴徒とをくらべてあったが、彼の手紙にある自己反省的な調子なしでこの二つの事例を同列におこうとする親日派のインテリはほかにもいた。そうするとミシシッピ事件からわれわれのうけるショックは、八〇パーセントかた安保騒動から米国人がうけたショックを鏡に映したようなものだということになるのだろうか。(196頁)


 上の文章は、ケネディ暗殺事件後の記述であり、下の文章は公民権運動をめぐる暴動の報に際しての記述である。この記述は、自らが指摘した陥穽に江藤淳が陥っていることを明瞭にあらわしている。きわめて強い「自意識」を持つ江藤にとって、アメリカでの「戦い」は、アメリカとの「戦い」であると同時に自らとの「戦い」であったのだろう。そのねじれが本書には表れている。

 著者は戦後に支配的な「デモクラシー」をしばしば懐疑的な目で眺める。そして同時に、自分にはアメリカやアメリカ的なものへの憧れはもともと無かったと強調する。にもかかわらず、アメリカと向き合うことで自らが日本人であることを再確認していく、と書かれている。ここにあるねじれは何によってもたらされたのか。そんなところを考えながら読んでいくと、より明瞭に江藤淳の姿、そして戦後日本の姿が見えてくるのではないだろうか。

at 23:55|PermalinkComments(0)本の話 

2007年07月14日

どんどん積もっていく…。

雨がすごいこともあって、今日の大学は人数が少なかった。試験前は土曜日であっても、人が多くて居心地がかなり悪いので、今日くらいだとちょうどいい。

やや逆説的なのだが、人が少ないと知り合いが目立つ。人が多かろうが少なかろうが、大学に来る知り合いが多いからだろうか。以前からお世話になっている先生、学部時代のゼミの友人、後輩などなどに相次いで遭遇した。これは偶然なのか必然なのか。

課題や研究であまり時間が無いはずなのだが、そんな時に限って本を買ってしまう。また二冊ほど購入してしまった。

1b1d293b.jpg
be9eefe3.jpg

左の本は予告時から楽しみにしていた本。まだプロローグにざっと目を通しただけだが、『危機のなかの協調外交』『アジア主義を問いなおす』などの一連の著作を読んできていることもあり、中身をじっくりと読むのが楽しみである。最近は「国際社会の中の日本」といった方向に自分の関心が向きつつあるのだが、ある時代の日本というものを内側から様々なアプローチ(+徹底した資料の読み込み)で見ていくことによって、また色々な可能性が見えてくるということを著者の一連の研究は示しているのではないだろうか。

右の本は、後輩が面白そうに読んでいたのでついつい買ってしまった本。ジャーナリストの手による歴史本であり、どれだけ深く突っ込んでいるのかは分からないが、こういった陰謀史観ではない裏面史の本は好きなので、こちらは疲れた夜にでもパラパラと読んでみようと思う。

at 23:14|PermalinkComments(0)本の話 

2007年07月13日

サッカーとビール。

ここ三週間ほど、金曜日は朝から仕事→夕方から授業、という生活が続いている。そんな生活をちょっとしただけで、社会人をしながら勉強をしている人は本当に大変なんだろうなと感じる。やはり仕事をした後に授業があると、その後にはなかなか何かをやる気が起きない。かといって何もやらないわけにはいかないので、早起きをしたり昼休みを使ってあがいたりするわけだ。

そんなわけで仕事→授業という金曜日の夜はもう休憩モードだ。今日は授業が少し早目に終わったので帰宅時間も早かった。今はビールを飲みながら家でサッカー観戦という至福の時。地上波で見ているのだが、この解説はどの辺りを解説しているのか意味が分からない。

コーヒーと学術書、ウイスキーと小説に並ぶのが、ビールとスポーツ観戦、といったところかな。



所属する大学院の授業は昨日までだったが、もぐっている金曜の授業は来週まである。といっても研究書を一冊読むというのは今週までなので、こちらも今日でひと区切りといったところだ。

さていつもならば今日は読んだ本について書評をするところなのだが、ややコメントし難い本だったのでパス。学部で読んだときはそれなりに面白いと思って読んだのだが、院生になってじっくり研究書として読んでみると、ちょっと粗が目立ち過ぎるというか、何というか…。本を読んで評価する基準がこうも変わるのか、と再確認させられた。

at 23:55|PermalinkComments(0)日々の戯れ言 

2007年07月12日

前期終了。

今日の授業で前期が終了した。あまり深くは考えなかったのだが、後期は院ゼミだけなので修士課程としての授業そのものもほぼ終わったということになる。とはいえ、まだGRIPSの授業は残っているし、レポートも全て終わっているわけではないので、夏休み気分というわけではない。早く授業関係は終わらせて修士論文に専念しなければ。

ニ限:国際政治論特殊研究


最終回の授業だったが、本と違って読んでいるのが資料なのでうまく話が完結、チャンチャン♪、というわけにはいかない。話自体はむしろこの後の時代がどうなったのか気になるところだ。修士論文執筆の休憩代わりにこの時代のヨーロッパやNATOを取り上げた研究を読んでみるのもいいかもしれない。

1958年から1960年にかけての米の対NATO外交に関する資料集、というかなり限られたものを読んでも、非常に多様な側面や背景がある。これは授業の最後に先生が言っていたことだが、本当にそれは強く感じる。相互に関連し、様々な要素が連動している国際政治をいかに描くべきのか。修論に向けて、悩ましいところだ。

四限:基礎演習?


最終回は、「国際政治史(先週のブログには西洋外交史と書いたが間違いでした)と日本外交史」がテーマでした。といっても、国際政治史については日本における研究を中心に15分ほどの話だったので、今日のメインテーマは自分の専門である日本外交史だった。国際政治史が欧米でどういった研究動向なのか、ということには非常に興味があったのでこちらが短かったのは残念なのだが…、これについては専門にしている後輩に勉強してもらって教えてもらおう。

で、日本外交史である。が、これは自分のレポートを書きながらじっくり考えることにしたい。研究動向論文にとっての一次資料である研究書をずらっと並べてみると見えてくる世界というのはそれなりにあるものだ。これは去年、今年とGRIPSの授業で感じていることでもある。

プロジェクト科目は先週が最終回だったので、これにて前期の授業は終了ということになる。時間があっという間に過ぎていく。

at 23:44|PermalinkComments(0)日々の戯れ言