2007年02月
2007年02月15日
入試期間中の大学。
今日は三田で試験が無いということもあり、大学には本当に人が少なかった。
とはいえ、図書館が閉まっているにも関わらず大学にいるというのは俺くらいだろうと思いきや、何人か知り合いの院生を見かけた。学内で仕事があったりするのだろうが、大学院生というのは休みであっても大学にいる人種らしい。
人が少ないとはいえ、大学内にいくつかある研究スペースはいつもと同じように使えるし、生協も開いている。無線LANがついたパソコンがあればオンラインデータベースもいつものように使えるので、逆に研究に集中が出来る環境にあるともいえる。
ちょっと驚いたことが一つ。普段は早くても三月中旬に咲き始める東門へ続く道にある桜がぽつぽつと咲き始めているのだ。あそこの桜は早咲きの品種ではないはずだけに、暖冬の影響ここまで来たり、と感じずにはいられない。これも「不都合な真実」の一つなのだろうか。
◇
今日一気に読み終えた本があるので紹介したい。最近読むものが、どうしても自分の研究に関係することが中心になっている。こうした「他分野(一般には政治史と外交史はほとんど同じ分野なのだろうが)」の研究をじっくり読むのは自分にとって貴重かつ楽しみな時間だ。
・清水唯一朗『政党と官僚の近代』(藤原書店)
一般にはなかなかイメージしにくいかもしれないが、政治に関わる歴史には大きく三つの歴史がある。それは、?政党や政治家の歴史を論じる政治史、?外交官や政治家を中心に他国との関係を論じる外交史、?官僚及びその政策を中心に論じる行政史、という三つの歴史である。もちろん、これは実態がそうであったということではなく学問上でこのように分けられてきたということである。また学問上も、この分け方が必ずしも全てに当てはまるわけではない。とりわけ政治史と外交史は、大学によっては「政治外交史」として一つの授業で扱われており、両者は一体的に論じられることも多い。しかし、行政史と政治史がこれまで(学術書として出版されるような)本格的な研究では統合的に論じられてこなかったことは誰しもが認める事実であろう。以下で紹介するように、本書はこのような研究状況を超えようとする意図を明確に持った大胆な研究書である。
本書のテーマを一言で表せば「近代日本の政官関係」ということになるだろうか。著者自身の言葉を借りれば、「本書は明治維新から昭和の政党内閣期に至る時代、立憲政治の導入から定着に至る過程を政党と官僚の関係から捉えなおすことで、近代日本における統治構造の形成と展開を論じるものである」。近代日本における立憲統治構造の発展の歴史は、すなわち憲法・内閣・議会をめぐる政官関係の歴史であった。そして著者は、その政官関係の歴史を従来言われていたような「対立の歴史」としてではなく、相互補完的な関係として描いている。本書はこのような見方から近代日本政治を捉え直すことによって、従来の政治史と行政史の枠を超えた新たな近代日本政治像を描き出しているのだ。
どのような歴史もある対象をある視角に基づいて描き出すものである。問題は、その対象、その視角がより広い文脈の中で意義を持つのかということである。このように考えた時に本書の問題設定の的確さが明らかになる。立憲統治構造は、政治制度の根幹を為すものである。本書はその中でもとりわけ官僚人事制度に注目している。そしその人事制度が具体的にどのように運用されるかを分析することによって、政官関係や政局との関係の実態を明らかにしている。このような本書の視角は、政治学的にも大きな意義を持つものといえるだろう。「制度を作り出す制度」ともいえる立憲統治構造に注目することは政治学にとっても極めて重要な問題だからである。さらに政官関係は、近代国家を考察する上では欠かすことの出来ない重要な視点でなのである。また明治維新を経た日本にとって、近代国家としての体裁をいかに整えていくかということは、条約改正や日清・日露戦争といった外交・安全保障政策とともに最も重要な問題であった。本書の視角は、このような当時の日本の置かれた状況から考えても的確であり、近代日本政治全般を考える上でも大きな意義があるものといえるだろう。
全体の紹介に紙幅を使いすぎてしまった。しかし各章の内容紹介をここでする必要は無いし、ここで紹介しないほうがいいだろう。本書は純然たる研究書であるが、実に丁寧な構成になっている。序章で大きな問題意識と視角が説明され、さらに各章の序でそれぞれ個別の問題意識が述べられている。それだけではなく各章ごとに結論が設けられ、その章の要点がコンパクトにまとめられている。また、資料が直接引用された後には必ず要約が付されている。このように構成された本書は、学術書としては例外的に読みやすいものとなっている。ここでの紹介に興味を持たれた方には是非一読することをお薦めしたい。
さて、最後に一読後にふと考えたことを紹介したい。それは、本書の戦後研究に対する含意である。本書の後半では、官僚が総選挙に立候補し政党政治家となる様子が描かれている。そこで当選した官僚出身の政治家の何人かは引き続いて戦後も活躍している。また、吉田茂が池田勇人や佐藤栄作などを総選挙に立候補させ自派の有力者としたことはよく知られているとおりである。戦後の一時期、日本政治は官僚派によって動かされたと言っても過言ではない。しかし、1970年代以降官僚出身の政治家の影響力は大きく落ちていったといえるだろう。以上のように少し考えただけでも、戦後政治を考える上で本書の問題意識と視角は重要な意味があると言えるのではないだろうか。こうした戦後研究への本書の意義は本文中ではほとんど顔を出さない。しかしながら、著者の根底にはこうした問題意識も隠されているのではないか、と邪推してしまう。あくまで評者の「妄想」の産物であるが、本書の戦後版『政党と官僚の「現代」』も読みたいものである。
とはいえ、図書館が閉まっているにも関わらず大学にいるというのは俺くらいだろうと思いきや、何人か知り合いの院生を見かけた。学内で仕事があったりするのだろうが、大学院生というのは休みであっても大学にいる人種らしい。
人が少ないとはいえ、大学内にいくつかある研究スペースはいつもと同じように使えるし、生協も開いている。無線LANがついたパソコンがあればオンラインデータベースもいつものように使えるので、逆に研究に集中が出来る環境にあるともいえる。
ちょっと驚いたことが一つ。普段は早くても三月中旬に咲き始める東門へ続く道にある桜がぽつぽつと咲き始めているのだ。あそこの桜は早咲きの品種ではないはずだけに、暖冬の影響ここまで来たり、と感じずにはいられない。これも「不都合な真実」の一つなのだろうか。
◇
今日一気に読み終えた本があるので紹介したい。最近読むものが、どうしても自分の研究に関係することが中心になっている。こうした「他分野(一般には政治史と外交史はほとんど同じ分野なのだろうが)」の研究をじっくり読むのは自分にとって貴重かつ楽しみな時間だ。
・清水唯一朗『政党と官僚の近代』(藤原書店)
一般にはなかなかイメージしにくいかもしれないが、政治に関わる歴史には大きく三つの歴史がある。それは、?政党や政治家の歴史を論じる政治史、?外交官や政治家を中心に他国との関係を論じる外交史、?官僚及びその政策を中心に論じる行政史、という三つの歴史である。もちろん、これは実態がそうであったということではなく学問上でこのように分けられてきたということである。また学問上も、この分け方が必ずしも全てに当てはまるわけではない。とりわけ政治史と外交史は、大学によっては「政治外交史」として一つの授業で扱われており、両者は一体的に論じられることも多い。しかし、行政史と政治史がこれまで(学術書として出版されるような)本格的な研究では統合的に論じられてこなかったことは誰しもが認める事実であろう。以下で紹介するように、本書はこのような研究状況を超えようとする意図を明確に持った大胆な研究書である。
本書のテーマを一言で表せば「近代日本の政官関係」ということになるだろうか。著者自身の言葉を借りれば、「本書は明治維新から昭和の政党内閣期に至る時代、立憲政治の導入から定着に至る過程を政党と官僚の関係から捉えなおすことで、近代日本における統治構造の形成と展開を論じるものである」。近代日本における立憲統治構造の発展の歴史は、すなわち憲法・内閣・議会をめぐる政官関係の歴史であった。そして著者は、その政官関係の歴史を従来言われていたような「対立の歴史」としてではなく、相互補完的な関係として描いている。本書はこのような見方から近代日本政治を捉え直すことによって、従来の政治史と行政史の枠を超えた新たな近代日本政治像を描き出しているのだ。
どのような歴史もある対象をある視角に基づいて描き出すものである。問題は、その対象、その視角がより広い文脈の中で意義を持つのかということである。このように考えた時に本書の問題設定の的確さが明らかになる。立憲統治構造は、政治制度の根幹を為すものである。本書はその中でもとりわけ官僚人事制度に注目している。そしその人事制度が具体的にどのように運用されるかを分析することによって、政官関係や政局との関係の実態を明らかにしている。このような本書の視角は、政治学的にも大きな意義を持つものといえるだろう。「制度を作り出す制度」ともいえる立憲統治構造に注目することは政治学にとっても極めて重要な問題だからである。さらに政官関係は、近代国家を考察する上では欠かすことの出来ない重要な視点でなのである。また明治維新を経た日本にとって、近代国家としての体裁をいかに整えていくかということは、条約改正や日清・日露戦争といった外交・安全保障政策とともに最も重要な問題であった。本書の視角は、このような当時の日本の置かれた状況から考えても的確であり、近代日本政治全般を考える上でも大きな意義があるものといえるだろう。
全体の紹介に紙幅を使いすぎてしまった。しかし各章の内容紹介をここでする必要は無いし、ここで紹介しないほうがいいだろう。本書は純然たる研究書であるが、実に丁寧な構成になっている。序章で大きな問題意識と視角が説明され、さらに各章の序でそれぞれ個別の問題意識が述べられている。それだけではなく各章ごとに結論が設けられ、その章の要点がコンパクトにまとめられている。また、資料が直接引用された後には必ず要約が付されている。このように構成された本書は、学術書としては例外的に読みやすいものとなっている。ここでの紹介に興味を持たれた方には是非一読することをお薦めしたい。
さて、最後に一読後にふと考えたことを紹介したい。それは、本書の戦後研究に対する含意である。本書の後半では、官僚が総選挙に立候補し政党政治家となる様子が描かれている。そこで当選した官僚出身の政治家の何人かは引き続いて戦後も活躍している。また、吉田茂が池田勇人や佐藤栄作などを総選挙に立候補させ自派の有力者としたことはよく知られているとおりである。戦後の一時期、日本政治は官僚派によって動かされたと言っても過言ではない。しかし、1970年代以降官僚出身の政治家の影響力は大きく落ちていったといえるだろう。以上のように少し考えただけでも、戦後政治を考える上で本書の問題意識と視角は重要な意味があると言えるのではないだろうか。こうした戦後研究への本書の意義は本文中ではほとんど顔を出さない。しかしながら、著者の根底にはこうした問題意識も隠されているのではないか、と邪推してしまう。あくまで評者の「妄想」の産物であるが、本書の戦後版『政党と官僚の「現代」』も読みたいものである。
2007年02月14日
2007年02月12日
オーラルの魅力と難しさ。
地方在勤中の大学時代の友人と久々に会った。彼とは比較的会っている方なのだが、それでも大学卒業後は数えるほどしか会っていない。違う道を歩むということの意味をつくづく感じる。そんな彼は政治学科の学生としては珍しく(?)、戦後の日本政治史にも興味があるので昨年作成したオーラル・ヒストリーをプレゼントした。
ここでも何度も書いているが、オーラルとはなかなか悩ましい「資料」である。そんなことを感じさせてくれる一冊がつい最近文庫化されたのでここで紹介しておきたい。あまり内容に立ち入った紹介をするつもりは無いので、いつもとはやや異なる形で紹介することにしたい。
・御厨貴・監修他『渡邉恒雄回顧録』(中央公論新社)
題名にあるとおり、本書は読売新聞主筆として今なお新聞界の第一線で活躍する渡邉恒雄がその半生を振り返ったものである。とはいえ、本書はいわゆる「回顧録」とは大きく異なる。それは本書がオーラル・ヒストリーとなっているからである。オーラル・ヒストリーについては、本書でも聞き手を務めている御厨貴が分かりやすい定義をしている。それは「公人の、専門家による、万人のための口述記録」(御厨貴『オーラル・ヒストリー』中公新書)というものである。本書の場合は、渡邉恒雄というインタビュイーに対して、伊藤隆、御厨貴、飯尾潤という政治学者三氏がインタビュアーとなっている。
世の中にはいわゆる「ナベツネ」本は数多くある。また渡邉自身による『わが人生記』(中公新書ラクレ)という回顧録も一昨年に出版されている。しかし、本書にはこれらの類書とは異なる様々な点がある。そしてその多くは、オーラル・ヒストリーという本書の手法と大きく関係しているのである。オーラル・ヒストリーは通常のインタビューとも異なる。ある意味で通常のインタビューはインタビュイーよりもインタビュアーが主役であることが多い。なぜならインタビュアーは自分の興味関心に従って様々な質問をぶつけるからだ。時として、インタビュアーの求める答えが予め決まっているということすらある。しかしオーラル・ヒストリーの場合、その主役はあくまで話し手である。インタビュアーの役割は、話の「交通整理」や事前の「地図の提示」といったことであり、話の「聞き手」としての役割が圧倒的に大きいのである。
御厨貴らが中心となって現在行われているオーラル・ヒストリーにはもう一つ大きな特徴がある。多くのオーラルでは、その人物が本格的に活躍する前、つまりその生まれや育ち、学生時代にも多くの紙幅を割いているということである。本書の一つの面白さはその部分にあるといってもいいだろう。第一章の題名は「愛と哲学と共産党」である。加えて巻末には、付録として「渡邉青春日記」と題した学生時代の収録されている。共産主義者時代の渡邉は、普段我々が目にする「ナベツネ」からは想像も付かないような文書を書き、様々なことを考えていたのである。こういったことは、本書がオーラル・ヒストリーという形式を取らなければ決して分かることは無かっただろう。仮に本人が回顧録等で文章にしたとしても、それはある意味で美化された思い出として振り返られるだけで終わってしまうだろう。
さて、本書では渡邉の政治記者時代を中心に様々な出来事が語られている。率直に言って、政治の現場に間近で立ち会ってきた渡邉の証言は非常に生々しいものである。また、様々な政治的事件の裏側が多く語られている。こういった情報は本書ならではであり、これをうまく引き出した聞き手は素晴らしい。しかし、である。本書をそのまま鵜呑みにすることは出来ない。読者は本書を一読した後、真っ先に監修者の解説を熟読すべきである。聞き手が、どれだけ本書以外から情報を集めて「資料批判」を行っているか、また渡邉の証言を絶対視していないかが分かるからである。解説まで含めて本書を一読すると、そこからはオーラル・ヒストリーの魅力と難しさがよく伝わってくる。これは、オーラルの資料性を考えるものにとって非常に重要な本書からのメッセージである。
ここでは具体的に内容を紹介しなかった。しかし、戦後の日本政治に興味がある人、活字マスコミに興味がある人にとっては間違いなく面白いと断言することが出来る。読み物としてのオーラルとしては、これまで様々な形で刊行されたものの中でも五指に入る面白さと言っていいかもしれない。
なお昨年夏には後藤田正晴のオーラルである『情と理』も御厨貴監修で文庫化(講談社+α文庫から上下巻)されている。こういった読み応えがあり、内容も充実しているオーラルが文庫化されて広く読まれることは歓迎すべきことだろう。とりわけ後藤田は、渡邉と同じように中曾根政権で大きな役割を果たした人物である。本書と併せて読むことを強くお薦めしたい。
ここでも何度も書いているが、オーラルとはなかなか悩ましい「資料」である。そんなことを感じさせてくれる一冊がつい最近文庫化されたのでここで紹介しておきたい。あまり内容に立ち入った紹介をするつもりは無いので、いつもとはやや異なる形で紹介することにしたい。
・御厨貴・監修他『渡邉恒雄回顧録』(中央公論新社)
題名にあるとおり、本書は読売新聞主筆として今なお新聞界の第一線で活躍する渡邉恒雄がその半生を振り返ったものである。とはいえ、本書はいわゆる「回顧録」とは大きく異なる。それは本書がオーラル・ヒストリーとなっているからである。オーラル・ヒストリーについては、本書でも聞き手を務めている御厨貴が分かりやすい定義をしている。それは「公人の、専門家による、万人のための口述記録」(御厨貴『オーラル・ヒストリー』中公新書)というものである。本書の場合は、渡邉恒雄というインタビュイーに対して、伊藤隆、御厨貴、飯尾潤という政治学者三氏がインタビュアーとなっている。
世の中にはいわゆる「ナベツネ」本は数多くある。また渡邉自身による『わが人生記』(中公新書ラクレ)という回顧録も一昨年に出版されている。しかし、本書にはこれらの類書とは異なる様々な点がある。そしてその多くは、オーラル・ヒストリーという本書の手法と大きく関係しているのである。オーラル・ヒストリーは通常のインタビューとも異なる。ある意味で通常のインタビューはインタビュイーよりもインタビュアーが主役であることが多い。なぜならインタビュアーは自分の興味関心に従って様々な質問をぶつけるからだ。時として、インタビュアーの求める答えが予め決まっているということすらある。しかしオーラル・ヒストリーの場合、その主役はあくまで話し手である。インタビュアーの役割は、話の「交通整理」や事前の「地図の提示」といったことであり、話の「聞き手」としての役割が圧倒的に大きいのである。
御厨貴らが中心となって現在行われているオーラル・ヒストリーにはもう一つ大きな特徴がある。多くのオーラルでは、その人物が本格的に活躍する前、つまりその生まれや育ち、学生時代にも多くの紙幅を割いているということである。本書の一つの面白さはその部分にあるといってもいいだろう。第一章の題名は「愛と哲学と共産党」である。加えて巻末には、付録として「渡邉青春日記」と題した学生時代の収録されている。共産主義者時代の渡邉は、普段我々が目にする「ナベツネ」からは想像も付かないような文書を書き、様々なことを考えていたのである。こういったことは、本書がオーラル・ヒストリーという形式を取らなければ決して分かることは無かっただろう。仮に本人が回顧録等で文章にしたとしても、それはある意味で美化された思い出として振り返られるだけで終わってしまうだろう。
さて、本書では渡邉の政治記者時代を中心に様々な出来事が語られている。率直に言って、政治の現場に間近で立ち会ってきた渡邉の証言は非常に生々しいものである。また、様々な政治的事件の裏側が多く語られている。こういった情報は本書ならではであり、これをうまく引き出した聞き手は素晴らしい。しかし、である。本書をそのまま鵜呑みにすることは出来ない。読者は本書を一読した後、真っ先に監修者の解説を熟読すべきである。聞き手が、どれだけ本書以外から情報を集めて「資料批判」を行っているか、また渡邉の証言を絶対視していないかが分かるからである。解説まで含めて本書を一読すると、そこからはオーラル・ヒストリーの魅力と難しさがよく伝わってくる。これは、オーラルの資料性を考えるものにとって非常に重要な本書からのメッセージである。
ここでは具体的に内容を紹介しなかった。しかし、戦後の日本政治に興味がある人、活字マスコミに興味がある人にとっては間違いなく面白いと断言することが出来る。読み物としてのオーラルとしては、これまで様々な形で刊行されたものの中でも五指に入る面白さと言っていいかもしれない。
なお昨年夏には後藤田正晴のオーラルである『情と理』も御厨貴監修で文庫化(講談社+α文庫から上下巻)されている。こういった読み応えがあり、内容も充実しているオーラルが文庫化されて広く読まれることは歓迎すべきことだろう。とりわけ後藤田は、渡邉と同じように中曾根政権で大きな役割を果たした人物である。本書と併せて読むことを強くお薦めしたい。
2007年02月11日
あれから一年。
ちょっと紛らわしいタイトルかもしれないが、深い意味は特にありません。
先週もちょっと書いたが、最近後輩の卒論を何本か読んでいる。それに加えて、先輩の修士論文を読み、大先輩の博論をもとにした本を今読んでいる。この流れから、今日はついつい自分の卒業論文を読み返してしまった。
一年経ってみると、自分の文章であっても冷静に読むことが出来るというものだ。当時の生活を思い出したりしつつ、一気に読みきってしまった。あぁ、最後の一ヶ月はちょっとつらい日々だった。知的には楽しかったんだけれども。
自分の卒論を読み返してみての感想を結論から言うと、この一年で俺も少しは成長出来たかな、ということ。少なくとも学術論文に対するイメージが一年前はやっぱり曖昧なままだったのが、今はそれなりに掴めるようになっている。読んでいる資料、先行研究の使い方、テーマの絞り方、分析視角の設定、そんなところがやっぱりこの一年間で少しずつ良くなってきたように思う。
それにしても去年の自分はこんなに出来なかったのかな~、と感じた。裏返せば、それなりにこの一年間で成長できたということだろう。こうした一年一年の積み重ね、そして節目毎の研究成果、これを積み重ねていくことが大事なんだろう。
何か最近こういった決意表明みたい文章が多いような気がする。
先週もちょっと書いたが、最近後輩の卒論を何本か読んでいる。それに加えて、先輩の修士論文を読み、大先輩の博論をもとにした本を今読んでいる。この流れから、今日はついつい自分の卒業論文を読み返してしまった。
一年経ってみると、自分の文章であっても冷静に読むことが出来るというものだ。当時の生活を思い出したりしつつ、一気に読みきってしまった。あぁ、最後の一ヶ月はちょっとつらい日々だった。知的には楽しかったんだけれども。
自分の卒論を読み返してみての感想を結論から言うと、この一年で俺も少しは成長出来たかな、ということ。少なくとも学術論文に対するイメージが一年前はやっぱり曖昧なままだったのが、今はそれなりに掴めるようになっている。読んでいる資料、先行研究の使い方、テーマの絞り方、分析視角の設定、そんなところがやっぱりこの一年間で少しずつ良くなってきたように思う。
それにしても去年の自分はこんなに出来なかったのかな~、と感じた。裏返せば、それなりにこの一年間で成長できたということだろう。こうした一年一年の積み重ね、そして節目毎の研究成果、これを積み重ねていくことが大事なんだろう。
何か最近こういった決意表明みたい文章が多いような気がする。
2007年02月10日
高校時代の思い出。
昨日の記事へのコメントにもあったが、学校内にある果物というとやはり思い浮かぶのは志木高の柿だ。
志木高は開校時は農業高校だったということもあり、とにかく敷地が広い。生徒数は700人くらいで、あの広さ敷地を持っている高校はそうそう無いだろう。そんなわけで学校内は、動植物の宝庫だ。その中でも柿は、教室から手を伸ばせば届く位置にあり、大体各学年数人いる物好きが食べている。ちなみに、俺はその物好きの一人である。
手入れらしい手入れはしていないと思うのだが、それぞれの木にはそのシーズン一杯楽しめるくらいの量の柿がなる。柿の形から察するに、品種は次郎柿だろうか。ほど良い甘み、そして何より新鮮さ、これが最高にうまい。
最初は恐る恐るという感じで、一つ獲って数人で分けて食べていたのだが、気が付けば色づきや実の大きさなどをチェックしつつ吟味して食べるようになった。登校拒否気味(グレてたのか?)のクラスメートの机を貯蔵庫代わりに使っていた。
この生活が三年間続いたのは本当にいい思い出だ。
…で、あの夏蜜柑は誰が食べているんだろうか。これからが旬なのに。
志木高は開校時は農業高校だったということもあり、とにかく敷地が広い。生徒数は700人くらいで、あの広さ敷地を持っている高校はそうそう無いだろう。そんなわけで学校内は、動植物の宝庫だ。その中でも柿は、教室から手を伸ばせば届く位置にあり、大体各学年数人いる物好きが食べている。ちなみに、俺はその物好きの一人である。
手入れらしい手入れはしていないと思うのだが、それぞれの木にはそのシーズン一杯楽しめるくらいの量の柿がなる。柿の形から察するに、品種は次郎柿だろうか。ほど良い甘み、そして何より新鮮さ、これが最高にうまい。
最初は恐る恐るという感じで、一つ獲って数人で分けて食べていたのだが、気が付けば色づきや実の大きさなどをチェックしつつ吟味して食べるようになった。登校拒否気味(グレてたのか?)のクラスメートの机を貯蔵庫代わりに使っていた。
この生活が三年間続いたのは本当にいい思い出だ。
…で、あの夏蜜柑は誰が食べているんだろうか。これからが旬なのに。
2007年02月09日
2007年02月08日
ホモ・ソシアビリス。
ふと思うことがあり再読した本の話。
一度目も二度目も読んで圧倒された本。決して難しい言葉遣いをするわけではないし、山のように古今東西の古典が紹介されているわけではない。ただ、著者の思考の幅広さと深さ、そして何よりもバランスの良さに圧倒されてしまうのだ。
そんなわけでとてもいつものような書評は書けないので、思ったことをつらつらと書いていきたい。というわけで、今回の書評は読んでもよく内容が分からないと思います。
・山崎正和『社交する人間』(中公文庫)
本書の著者・山崎正和は現代日本を代表する知識人といっていいだろう。プロフィールには必ず劇作家と記されており劇作が本来の仕事なのだろう。また長年に渡る評論活動も山崎正和の重要な仕事の一つである。評論の対象は実に幅広く、演劇関係から社会、政治まで実に幅広い。2003年に出版された『アメリカ一極体制をどう受け入れるか』(中央公論新社)は、それまで数年の国際政治に関する論考を中心にまとめた評論集であるが、そこで主張された多くのことは専門家の類書以上に示唆に富む著作であった。アメリカへの一極的な「力」の集中という状況を冷静に踏まえて、それをただ非難したりするのではなく、それをどのように「受け入れるか」ということを考えるということは、非常に深みのある主張である。ちなみにその劇作および評論活動の功績から昨年文化功労者として表彰されている。山崎正和の仕事はそれにとどまらない。佐藤政権以降の各政権のブレーンとしても活躍している。それも、本業の劇作に関係のある文化政策や教育政策だけではなく、外交政策や安全保障政策までもカバーしているのには驚かされる。
本書『社交する人間』は、季刊誌『アステイオン』に2000年から2002年にかけて連載された社会評論である。山崎正和の社会評論として広く知られているのは、1984年に出版された『柔らかい個人主義の誕生』(中公文庫)だろう。ダニエル・ベルらのポスト産業社会に関する議論を手がかりとしつつ、広く現代社会について論じた『柔らかい個人主義の誕生』は、徐々に広がりつつあった消費社会における「美学」を謳い上げた評論であった。
それから約20年の時を経て、世界はグローバル化の波に襲われている。それは、かつて山崎正和が論じた消費社会の形をも変えるものだった。かつての組織はグローバル化によって急速に変化を遂げている。グローバル化する世界と我々はどのように向かい合うのか、本書はその回答を「社交」に求めている。本書の具体的な内容は、文庫版巻末に付された三浦雅士氏の<解説>が非常に分かりやすくまとまっているのでここで改めて論じる必要は無いだろう。三浦氏も<解説>で述べているが、本書には著者の真骨頂が現れている。劇作家として身体表現と関わり、現代社会について幅広く論じ、そして歴史や諸学問にも造詣が深い著者の思考が本書を形作っているのだ。
「社交と○○」というのが各章の題である。そこでは、社会学、現代社会論、経済、政治、文明・文化、自我などが「社交」を手がかりに縦横無尽に論じられている。決して各章それぞれの量が多いわけではない。それでいて各章とも読み応えが十二分にある。ホイジンガ、ジンメル、コリングウッド、ギアツといった先人達の議論を的確に整理しつつ、各章の議論は進んでいく。その整理そして問題点の指摘は、まさに名人芸といえる。
そんな本書は、なるほどと思わせる箇所の連続である。その中でもとりわけ納得させられたのが本書の終わり近くでの「ポストモダン」的思想の評価だ。著者は、単純に近代的自我を主張して「ポストモダン」を排すようなことはしない。それまでの部分での議論をうまく踏まえながら、著者は多元的な自我観を展開している。なぜ「ポストモダン」批判が多元的な自我観となるのか、そしてそれが「社交」とどのように関係するのか、このような説明からだけではよく分からないかもしれない。そう思ったら是非本書を一読して欲しい。
一度目も二度目も読んで圧倒された本。決して難しい言葉遣いをするわけではないし、山のように古今東西の古典が紹介されているわけではない。ただ、著者の思考の幅広さと深さ、そして何よりもバランスの良さに圧倒されてしまうのだ。
そんなわけでとてもいつものような書評は書けないので、思ったことをつらつらと書いていきたい。というわけで、今回の書評は読んでもよく内容が分からないと思います。
・山崎正和『社交する人間』(中公文庫)
本書の著者・山崎正和は現代日本を代表する知識人といっていいだろう。プロフィールには必ず劇作家と記されており劇作が本来の仕事なのだろう。また長年に渡る評論活動も山崎正和の重要な仕事の一つである。評論の対象は実に幅広く、演劇関係から社会、政治まで実に幅広い。2003年に出版された『アメリカ一極体制をどう受け入れるか』(中央公論新社)は、それまで数年の国際政治に関する論考を中心にまとめた評論集であるが、そこで主張された多くのことは専門家の類書以上に示唆に富む著作であった。アメリカへの一極的な「力」の集中という状況を冷静に踏まえて、それをただ非難したりするのではなく、それをどのように「受け入れるか」ということを考えるということは、非常に深みのある主張である。ちなみにその劇作および評論活動の功績から昨年文化功労者として表彰されている。山崎正和の仕事はそれにとどまらない。佐藤政権以降の各政権のブレーンとしても活躍している。それも、本業の劇作に関係のある文化政策や教育政策だけではなく、外交政策や安全保障政策までもカバーしているのには驚かされる。
本書『社交する人間』は、季刊誌『アステイオン』に2000年から2002年にかけて連載された社会評論である。山崎正和の社会評論として広く知られているのは、1984年に出版された『柔らかい個人主義の誕生』(中公文庫)だろう。ダニエル・ベルらのポスト産業社会に関する議論を手がかりとしつつ、広く現代社会について論じた『柔らかい個人主義の誕生』は、徐々に広がりつつあった消費社会における「美学」を謳い上げた評論であった。
それから約20年の時を経て、世界はグローバル化の波に襲われている。それは、かつて山崎正和が論じた消費社会の形をも変えるものだった。かつての組織はグローバル化によって急速に変化を遂げている。グローバル化する世界と我々はどのように向かい合うのか、本書はその回答を「社交」に求めている。本書の具体的な内容は、文庫版巻末に付された三浦雅士氏の<解説>が非常に分かりやすくまとまっているのでここで改めて論じる必要は無いだろう。三浦氏も<解説>で述べているが、本書には著者の真骨頂が現れている。劇作家として身体表現と関わり、現代社会について幅広く論じ、そして歴史や諸学問にも造詣が深い著者の思考が本書を形作っているのだ。
「社交と○○」というのが各章の題である。そこでは、社会学、現代社会論、経済、政治、文明・文化、自我などが「社交」を手がかりに縦横無尽に論じられている。決して各章それぞれの量が多いわけではない。それでいて各章とも読み応えが十二分にある。ホイジンガ、ジンメル、コリングウッド、ギアツといった先人達の議論を的確に整理しつつ、各章の議論は進んでいく。その整理そして問題点の指摘は、まさに名人芸といえる。
そんな本書は、なるほどと思わせる箇所の連続である。その中でもとりわけ納得させられたのが本書の終わり近くでの「ポストモダン」的思想の評価だ。著者は、単純に近代的自我を主張して「ポストモダン」を排すようなことはしない。それまでの部分での議論をうまく踏まえながら、著者は多元的な自我観を展開している。なぜ「ポストモダン」批判が多元的な自我観となるのか、そしてそれが「社交」とどのように関係するのか、このような説明からだけではよく分からないかもしれない。そう思ったら是非本書を一読して欲しい。
2007年02月07日
国立新美術館。
久しぶりに三田から六本木まで散歩をした。
前期は、授業があったので毎週金曜はほぼ散歩をしていた。音楽を聴きながらの20分ほどの散歩は、ちょっとしたことを考えるのにちょうどいい時間だった。
今日の目的地は、国立新美術館だ。
国立新美術館は、五つ目の国立美術館として今年開館した。特定のコレクションを持たず、企画展向けの広大なスペースを持っているのが特徴だ。幕張メッセの美術館版といった感じだろうか。
今日のお目当ては「異邦人たちのパリ」という企画展だ。ポンピドゥー・センターの所蔵作品から、異邦人達の作品を取り上げている。現代美術は感性が合わないものが多く、あまり美術館で見ることも無いのだが、昨年春のパリ旅行の際にポンピドゥー・センターに行ったこともあり、行くことにしたのだ。
目玉の一つは、ポスターにも使われている藤田嗣治だろうか。藤田作品が並んでいる一角は、あの独特の色使いによってちょっと周りとは違う雰囲気があった。
行く前は知らなかったのだが、無料の企画展もやっていたのでついでに観てきた。国立新美術館の設計を担当した黒川紀章を取り上げた「黒川紀章展」だ。黒川紀章は、発言がなかなか自分には理解し難いところがあり敬遠しがちだったのだが、彼の手がけたものをずらっと見てみると意外にも行ったことがある場所がいくつかあるのに驚いた。ちなみにこの国立新美術館は照明が邪魔にならず、なかなかいい美術館という印象だ。一流の建築家恐るべし、といったところだろうか。
前期は、授業があったので毎週金曜はほぼ散歩をしていた。音楽を聴きながらの20分ほどの散歩は、ちょっとしたことを考えるのにちょうどいい時間だった。
今日の目的地は、国立新美術館だ。
国立新美術館は、五つ目の国立美術館として今年開館した。特定のコレクションを持たず、企画展向けの広大なスペースを持っているのが特徴だ。幕張メッセの美術館版といった感じだろうか。
今日のお目当ては「異邦人たちのパリ」という企画展だ。ポンピドゥー・センターの所蔵作品から、異邦人達の作品を取り上げている。現代美術は感性が合わないものが多く、あまり美術館で見ることも無いのだが、昨年春のパリ旅行の際にポンピドゥー・センターに行ったこともあり、行くことにしたのだ。
目玉の一つは、ポスターにも使われている藤田嗣治だろうか。藤田作品が並んでいる一角は、あの独特の色使いによってちょっと周りとは違う雰囲気があった。
行く前は知らなかったのだが、無料の企画展もやっていたのでついでに観てきた。国立新美術館の設計を担当した黒川紀章を取り上げた「黒川紀章展」だ。黒川紀章は、発言がなかなか自分には理解し難いところがあり敬遠しがちだったのだが、彼の手がけたものをずらっと見てみると意外にも行ったことがある場所がいくつかあるのに驚いた。ちなみにこの国立新美術館は照明が邪魔にならず、なかなかいい美術館という印象だ。一流の建築家恐るべし、といったところだろうか。
2007年02月06日
卒論の季節。
この数日、何人かの後輩の卒論を読んでいる。よくあるように、院生としての義務として読んでいるわけではなく、友人の一人として読んでいるので苦痛というわけではなく、とても楽しく読んでいる。
そもそも、我が出身ゼミは先生が留学中ということもあり活動休止中だ。つまり、卒論は義務ではなく書きたい人が書いているということ。だから、嫌々書いているわけではない。純粋に自分の知的関心に基づいて書いているのだから、読み手としても楽しいわけだ。
卒論とは、本来こうあるべきものなんだろう。
◇
NHK-BS1の「きょうの世界」に、いつもお世話になっている先生が出演していた。ブレア首相のイラク政策がテーマで、前後の特集と併せて興味深い内容だった。
イラク政策をめぐる問題はなかなか難しい。あの戦争が誤りだと指摘することは簡単で、その戦争を政治的に支持し派兵した政府を批難することもまた簡単だ。しかし、問題はそれほど単純ではない。国際政治はそれほど単純ではないし、決断をしたブレア政権もそれほど単純な考えから決断をしたわけではない。
派兵の仕方や関与の度合いは大分異なるものの、同盟国としてアメリカを支持したという点は我が国も同様だ。今後、小泉政権の評価がなされる中で日本のイラク戦争への関わりへの議論も進んでいくのだろうが、単純な図式から紋切り型の議論になるような気がしてならない。
なぜだか政治の問題は、敷居が低い。これはつくづく不思議でならない。色々なことに専門的な知識が求められるのと同じように、政治にも様々な知識が無ければ分からないことはとても多い。しかし、それがあまり認識されていないような気がする。
んー、何が言いたいのかよく分からないかな。ともかくイラク問題は難しい問題だということ。過去の批判はともかく、この現状をどうするかという問題もある。大変な問題だ。
そもそも、我が出身ゼミは先生が留学中ということもあり活動休止中だ。つまり、卒論は義務ではなく書きたい人が書いているということ。だから、嫌々書いているわけではない。純粋に自分の知的関心に基づいて書いているのだから、読み手としても楽しいわけだ。
卒論とは、本来こうあるべきものなんだろう。
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NHK-BS1の「きょうの世界」に、いつもお世話になっている先生が出演していた。ブレア首相のイラク政策がテーマで、前後の特集と併せて興味深い内容だった。
イラク政策をめぐる問題はなかなか難しい。あの戦争が誤りだと指摘することは簡単で、その戦争を政治的に支持し派兵した政府を批難することもまた簡単だ。しかし、問題はそれほど単純ではない。国際政治はそれほど単純ではないし、決断をしたブレア政権もそれほど単純な考えから決断をしたわけではない。
派兵の仕方や関与の度合いは大分異なるものの、同盟国としてアメリカを支持したという点は我が国も同様だ。今後、小泉政権の評価がなされる中で日本のイラク戦争への関わりへの議論も進んでいくのだろうが、単純な図式から紋切り型の議論になるような気がしてならない。
なぜだか政治の問題は、敷居が低い。これはつくづく不思議でならない。色々なことに専門的な知識が求められるのと同じように、政治にも様々な知識が無ければ分からないことはとても多い。しかし、それがあまり認識されていないような気がする。
んー、何が言いたいのかよく分からないかな。ともかくイラク問題は難しい問題だということ。過去の批判はともかく、この現状をどうするかという問題もある。大変な問題だ。
2007年02月05日
春休みスタート?
学部のテスト期間も完全に終わったらしく、学校もようやく静かになった。が、そんな中でも大学にくる変わり者が結構いる。もちろん俺もその一人。
うちの大学だけでなく、他の大学でもテストやレポートの提出期間はほぼ終わりつつあるようだ。なぜかというと、それらしきアクセスが減ったからだ。「東アジア共同体 アメリカの思惑」とか「5つのアリーナ 民主化」とか「イギリス外交史のまとめ」とか、そういうあからさまなアクセスはこの数日ようやく無くなった。
この休みは、やる事が山積している。途中、ちょっとだけ海外旅行に行くのでそこで英気を養いたいところだ。
◇
久しぶりに書評を紹介したい。12月にこのブログでも書評した、服部龍二『幣原喜重郎と二十世紀の日本』について「読売新聞」に書評が掲載されていた(リンク)。うーん、こういう読み方が出来るのかと考えさせられた。
自分が書評をした時は、幣原評価がやや曖昧なのではないかと書いた。しかし、この書評ではそのような「曖昧さ」を持った幣原外交を描いたことが本書の貢献だとしている。なるほどな、と。
うちの大学だけでなく、他の大学でもテストやレポートの提出期間はほぼ終わりつつあるようだ。なぜかというと、それらしきアクセスが減ったからだ。「東アジア共同体 アメリカの思惑」とか「5つのアリーナ 民主化」とか「イギリス外交史のまとめ」とか、そういうあからさまなアクセスはこの数日ようやく無くなった。
この休みは、やる事が山積している。途中、ちょっとだけ海外旅行に行くのでそこで英気を養いたいところだ。
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久しぶりに書評を紹介したい。12月にこのブログでも書評した、服部龍二『幣原喜重郎と二十世紀の日本』について「読売新聞」に書評が掲載されていた(リンク)。うーん、こういう読み方が出来るのかと考えさせられた。
自分が書評をした時は、幣原評価がやや曖昧なのではないかと書いた。しかし、この書評ではそのような「曖昧さ」を持った幣原外交を描いたことが本書の貢献だとしている。なるほどな、と。