2006年06月
2006年06月30日
道筋が見えてきたような…。
結構きついかな、と思っていたのだがレジュメ作成が意外と早く終わってしまったのでそれほどでもなかった、という一日。が、午前中がまるまるバイトでつぶれたので一日がやや短い。
今日は慶應出身の先輩に会ってきた。卒論でも利用したオーラルヒストリーについて色々とお話を伺いつつ、お昼をご馳走に。さらにはお土産にオーラルヒストリーの研究成果を頂いてしまった。研究に関して色々と有意義なアドバイスを頂く。…後輩として素直に「ありがとうございます」と思う一方で、自分がまだまだ研究の段階に入っていないことを再確認した時間でもあった。
と、ちょっと凹みつつも、実は道筋が見えつつもあるような気もする。もちろん、詳細は公開できません。
人の研究にあれこれ言うのではなく一次資料を読み込まなければいけない、などと昨日書いておきながらも懲りずに授業の課題書について書評。GRIPSでの授業もいよいよ終わりが近づいてきたな~。
・陳肇斌『戦後日本の中国政策』(東京大学出版会)
日本外交史の中で、その重要さと比較した時に研究の蓄積が著しく少ないのが日中関係である。本書はそのような状況にある日中関係に関する数少ない本格的研究である。副題は「一九五〇年代東アジア国際政治の文脈」であり、時期としては、サンフランシスコ講和時のいわゆる「吉田書簡」から、岸内閣の長崎国旗事件までを扱っている。書名は概説書のようであるが、内容はあくまで1950年代の日本の対中国政策を「二つの中国」の観点から分析したものである。また中華人民共和国との「民間貿易」などよりも、その背後にある台湾をめぐる国際政治を重視しており、分析の力点はあくまで台湾をめぐる問題におかれている。これまで日中関係の研究が遅れてきた大きな理由は日中双方とも資料の利用に大きな制約があったことであるが、本書はこれを英米の膨大の一次資料を渉猟することで乗り越えようとしている。日中双方が利用可能になった際に本書の史料的な価値が下がってしまうことは否めないが、それでもこうして実証的な日中関係研究がある意義は大きいといえるだろう。
本書の意義としてとりわけ重要なのは、1950年代をとおして日本の対中政策が「二つの中国」であったことを実証的に明らかにしたことである。「二つの中国」という言葉は論者によって様々な定義がなされうるやや曖昧なフレーズなので、この点は吟味が必要であるが、とはいえ日本が人民政府と国民政府のどちらかに一方的に肩入れするということが無かったことは本書の分析から明らかになったといえよう。また用いている資料から考えれば当然ではあるが、本書は英米の視点を重視して1950年代の日本の対中政策を描いている。やや英米の視点に寄り過ぎているきらいはあるものの、二国間関係だけでは理解が難しい日中関係の本質を描き出しているといえるだろう。
もっとも本書にもいくつかの疑問点は存在する。そのもっとも大きなものは、は仮説と類推の多用に関してである。資料的な制約と関係するのかもしれないが、その主張の核心的部分に関する資料的な裏づけが弱い箇所や、断片的な手がかりから大きなものへと踏み込む箇所が散見される。例えば、日本の対中政策に関する戦前と戦後との連続性の指摘や「日台連合王国」構想などがその分かりやすい例である。これらの主張は確かに興味をひかれるものであり、そういった点をいかに打ち出すかということはは歴史研究者としてのある種の「個性」なのかもしれないが、資料の裏づけに欠けていると説得力も落ちてしまうのではないだろうか。
今日は慶應出身の先輩に会ってきた。卒論でも利用したオーラルヒストリーについて色々とお話を伺いつつ、お昼をご馳走に。さらにはお土産にオーラルヒストリーの研究成果を頂いてしまった。研究に関して色々と有意義なアドバイスを頂く。…後輩として素直に「ありがとうございます」と思う一方で、自分がまだまだ研究の段階に入っていないことを再確認した時間でもあった。
と、ちょっと凹みつつも、実は道筋が見えつつもあるような気もする。もちろん、詳細は公開できません。
人の研究にあれこれ言うのではなく一次資料を読み込まなければいけない、などと昨日書いておきながらも懲りずに授業の課題書について書評。GRIPSでの授業もいよいよ終わりが近づいてきたな~。
・陳肇斌『戦後日本の中国政策』(東京大学出版会)
日本外交史の中で、その重要さと比較した時に研究の蓄積が著しく少ないのが日中関係である。本書はそのような状況にある日中関係に関する数少ない本格的研究である。副題は「一九五〇年代東アジア国際政治の文脈」であり、時期としては、サンフランシスコ講和時のいわゆる「吉田書簡」から、岸内閣の長崎国旗事件までを扱っている。書名は概説書のようであるが、内容はあくまで1950年代の日本の対中国政策を「二つの中国」の観点から分析したものである。また中華人民共和国との「民間貿易」などよりも、その背後にある台湾をめぐる国際政治を重視しており、分析の力点はあくまで台湾をめぐる問題におかれている。これまで日中関係の研究が遅れてきた大きな理由は日中双方とも資料の利用に大きな制約があったことであるが、本書はこれを英米の膨大の一次資料を渉猟することで乗り越えようとしている。日中双方が利用可能になった際に本書の史料的な価値が下がってしまうことは否めないが、それでもこうして実証的な日中関係研究がある意義は大きいといえるだろう。
本書の意義としてとりわけ重要なのは、1950年代をとおして日本の対中政策が「二つの中国」であったことを実証的に明らかにしたことである。「二つの中国」という言葉は論者によって様々な定義がなされうるやや曖昧なフレーズなので、この点は吟味が必要であるが、とはいえ日本が人民政府と国民政府のどちらかに一方的に肩入れするということが無かったことは本書の分析から明らかになったといえよう。また用いている資料から考えれば当然ではあるが、本書は英米の視点を重視して1950年代の日本の対中政策を描いている。やや英米の視点に寄り過ぎているきらいはあるものの、二国間関係だけでは理解が難しい日中関係の本質を描き出しているといえるだろう。
もっとも本書にもいくつかの疑問点は存在する。そのもっとも大きなものは、は仮説と類推の多用に関してである。資料的な制約と関係するのかもしれないが、その主張の核心的部分に関する資料的な裏づけが弱い箇所や、断片的な手がかりから大きなものへと踏み込む箇所が散見される。例えば、日本の対中政策に関する戦前と戦後との連続性の指摘や「日台連合王国」構想などがその分かりやすい例である。これらの主張は確かに興味をひかれるものであり、そういった点をいかに打ち出すかということはは歴史研究者としてのある種の「個性」なのかもしれないが、資料の裏づけに欠けていると説得力も落ちてしまうのではないだろうか。
2006年06月29日
きついのか、きつくないのか。
最近、時間が経つのが早くなった気がする。もう6月も明日で終わり。発表やら課題やらW杯やら飲み会やら、そんなことをやっているとすぐに1週間経ってしまう。
で、課題に追われるわけです。
先週の金曜に例の英語文献が終わり、土曜日は火曜の課題文献を読んだ後ちょっと一息ついて友人たちと酒を飲みに行き、日曜日は火曜の発表について思案、そして月曜日は『ロイヤル・ネイヴィーとパクス・ブリタニカ』を読み返し研究会に備え、レジュメを作成…そんなことをしているうちに時間はどんどん経っていく。
水曜日には、今日のプロジェクト科目(政治思想研究)のために、指定文献や周辺の文献を読み返し、気が付けば木曜。ちょっとした手違いで手に入れるのが遅くなってしまった明日の課題文献にようやく取り掛かる。
日本語ながら専門書で300頁。コメントを付けるために細かく読むのだが、今回の文献は再読なので大体4、5時間といったところか。ちなみに今の段階で残り160頁。明日は午前中バイトなのでぎりぎりという計算。
コメントを作成した後、明日の午後に課題書に関連する文献に簡単に目を通したらもう授業の時間だ。
が、明日までに結構がっつり専門書を読まないといけないことを除けば、これって別にそんなにきつくないような気もする。だって先週の土曜はオールだし、火曜はW杯を2試合見てるし、友人とちょこちょこ話してるし。「産みの苦しみ」のようなものが無いと心底の苦しさがあまり無いのかもしれない。昨日の話ではないが、資料を読んで歴史を叙述していくという作業と比べれば、もしくは二次資料に依拠しながらも1本の論文を実際に書いていくという作業と比べれば、発表のきつさは比べ物にならない。
といいつつも、今日の授業でゼミの先輩が専門外の思想の分野でかなりしっかりとした発表をしていたのを見て、もっと発表にも全力で取り組む姿勢が大切なんだと感じた。
でもW杯が水曜&木曜に無くて本当によかった、と思う。だって、サッカーは余裕を持ってじっくり味わいたいじゃないですか。明日の夜が楽しみだ。
この文章、結局何を言っているのかよく分からないな~。
で、課題に追われるわけです。
先週の金曜に例の英語文献が終わり、土曜日は火曜の課題文献を読んだ後ちょっと一息ついて友人たちと酒を飲みに行き、日曜日は火曜の発表について思案、そして月曜日は『ロイヤル・ネイヴィーとパクス・ブリタニカ』を読み返し研究会に備え、レジュメを作成…そんなことをしているうちに時間はどんどん経っていく。
水曜日には、今日のプロジェクト科目(政治思想研究)のために、指定文献や周辺の文献を読み返し、気が付けば木曜。ちょっとした手違いで手に入れるのが遅くなってしまった明日の課題文献にようやく取り掛かる。
日本語ながら専門書で300頁。コメントを付けるために細かく読むのだが、今回の文献は再読なので大体4、5時間といったところか。ちなみに今の段階で残り160頁。明日は午前中バイトなのでぎりぎりという計算。
コメントを作成した後、明日の午後に課題書に関連する文献に簡単に目を通したらもう授業の時間だ。
が、明日までに結構がっつり専門書を読まないといけないことを除けば、これって別にそんなにきつくないような気もする。だって先週の土曜はオールだし、火曜はW杯を2試合見てるし、友人とちょこちょこ話してるし。「産みの苦しみ」のようなものが無いと心底の苦しさがあまり無いのかもしれない。昨日の話ではないが、資料を読んで歴史を叙述していくという作業と比べれば、もしくは二次資料に依拠しながらも1本の論文を実際に書いていくという作業と比べれば、発表のきつさは比べ物にならない。
といいつつも、今日の授業でゼミの先輩が専門外の思想の分野でかなりしっかりとした発表をしていたのを見て、もっと発表にも全力で取り組む姿勢が大切なんだと感じた。
でもW杯が水曜&木曜に無くて本当によかった、と思う。だって、サッカーは余裕を持ってじっくり味わいたいじゃないですか。明日の夜が楽しみだ。
この文章、結局何を言っているのかよく分からないな~。
2006年06月28日
時給2000円アップ。
家庭教師の時給が知らず知らずのうちにアップしていたらしい。金持ちパワー恐るべし。やっぱり、家庭教師をやるなら幼稚舎出身者が最高だ。もちろんその分苦労も多いし、学校に行って先生と話したりとやる事も増えるわけだが…。
いや、やっぱり世の中お金ですよ。
そんなわけで家庭教師もちょっと大変、課題文献が結構きつい、発表が重なった、などなどの理由で最近忙しい。息抜きにW杯があるのだが、これはこれで時間を取るので他の趣味は休業中。で、忙しくなると現実逃避気味に先のことを考えたりするのだが、先週末あたりからはまた色々と考えている。
昨日、偶然にも(いや、先生は生徒のことよく見てくれているから必然なのかもしれない)お世話になっている先生にも指摘されたことなのだが、考えている話のひとつについて徒然なるままに書いてみる。
◇
大学院に入ってから3ヶ月目が終わろうとしている。そんなわけで、学部生と院生の違いであるとか、今後の研究についてだとかについても考えるわけだ。
「修士課程は学生の上ではなく、研究者の最底辺」
これはお世話になっている先生から常々指摘されてきたことだ。でも、これはやっぱり頭で分かることではなく実感しなければならないことなんだと思う。普通に修士課程1年で授業に追われているとこれを実感する機会がそれほどない。
修士1年目はカリキュラム上、それなりの授業を取らなければならないのだが、去年特殊研究を大量に取りゼミやサークルなどもあったこともあって、実は今年よりも去年の方が授業のコマ数は多い。先週のように英語文献を一気に読まないといけない時もあるし、ある程度コンスタントに外国語文献や専門書を読んだりすることは確かに学部時代とは変わったことだ。
とはいえ、そこからどう研究につながるかといえばそれは難しい。
自分なりに何とかつなげようという試みの一つは、先行研究を自分の問題意識に沿って読み込んである程度体系的に理解しようとする、ということだ。これはGRIPSでの授業やそれに関連して読んだ文献によって何となくではあるが少しだけ道筋が見えてきたように思う。
しかし、これだけではダメだ、というのが最近の実感。
やはり歴史研究を志す以上は一次資料(外交文書)と向き合うという作業が不可欠だからだ。日本外交史という分野を本格的に学び始めたのは大学院進学をしっかりと決めた学部3年の冬くらいからだが、それなりに先行研究は読んだ。が、これは結局他人が資料を解釈して作り上げた歴史を読んでいることでしかない。やはり、自分も資料を読んだ上で議論しなければ基本的に対等な立場からは話せない。ちょうど今読んでいる本の資料の読み方にかなりの疑問を感じているのだが、その批判にどれだけ説得力があるのか…と考えてしまう。政治思想に置き換えれば、原典を読んでいないのに他人の研究を批判しても説得力に限界があるということだ。テキストの解釈は当然読み手によって違うわけだが、まずテキストを読まないことには始まらない。とりわけ研究とはそういうものだ。
「得意なところをより伸ばして、不得意なところが伸びていない」
という先生の指摘はまさにそのとおりである。これまで漠然と考えていたことをズバっと(笑)指摘された、ということ。ただ、と言い訳をしておくと、これは大体自分が通る典型的な道筋だということ。
学部に入ったときから政治学には興味があったので色々な文献は読んできたのだけど、英語の勉強は全くしなかった。なぜかと言えば、それは日本語の本を読んでいて十分楽しかったし、そこから先に広がる世界が見えなかったから。それが変わったのは学部2年の時にサークルの論文を書いてから。読んだ本の注がとにかく外国語だらけで、本に対して感じた疑問を確かめるためには英語を読まなければならなかったこと、そして読みたい本の翻訳が全然出ていなかったからだ。
というわけで遅ればせながら学部3年の時から徐々に英語の勉強を始めた。中学からエスカレーターに乗ってしまったので、英語の勉強をまともにしたのは初めてだった。
これと今回も大体同じところだろう。先行研究を読んでいくうちに、資料という壁にぶち当たったということだ。もちろん、英語の例ほど気が付くのは遅かったわけではないのだが、卒論の共通テーマが「冷戦終結」だったので一次資料が開いていなかったこともあって手を付けるのが遅くなってしまった。
というわけでどうしよう、というのが考えどころなのだが、とりあえず今年の夏は資料と格闘しようと思います。野党研究に決着を付けたいという気持ちもあるが、この場合だと回顧録やインタビュー、新聞記事、党の決定といった公開資料しかあたることが出来ない。これでは基本的には資料的に卒論から進歩があるわけではない。資料の問題は最終的には二義的なものになるのだと俺は思うが、そういったことも全て含めて自分が資料をしっかり読むようになってはじめて言えるというもの。
う~ん、難しい問題。というか歴史研究者以外にはどうでもいいであろう問題。
この問題はもう少し整理してちゃんと書くことしよう。
いや、やっぱり世の中お金ですよ。
そんなわけで家庭教師もちょっと大変、課題文献が結構きつい、発表が重なった、などなどの理由で最近忙しい。息抜きにW杯があるのだが、これはこれで時間を取るので他の趣味は休業中。で、忙しくなると現実逃避気味に先のことを考えたりするのだが、先週末あたりからはまた色々と考えている。
昨日、偶然にも(いや、先生は生徒のことよく見てくれているから必然なのかもしれない)お世話になっている先生にも指摘されたことなのだが、考えている話のひとつについて徒然なるままに書いてみる。
◇
大学院に入ってから3ヶ月目が終わろうとしている。そんなわけで、学部生と院生の違いであるとか、今後の研究についてだとかについても考えるわけだ。
「修士課程は学生の上ではなく、研究者の最底辺」
これはお世話になっている先生から常々指摘されてきたことだ。でも、これはやっぱり頭で分かることではなく実感しなければならないことなんだと思う。普通に修士課程1年で授業に追われているとこれを実感する機会がそれほどない。
修士1年目はカリキュラム上、それなりの授業を取らなければならないのだが、去年特殊研究を大量に取りゼミやサークルなどもあったこともあって、実は今年よりも去年の方が授業のコマ数は多い。先週のように英語文献を一気に読まないといけない時もあるし、ある程度コンスタントに外国語文献や専門書を読んだりすることは確かに学部時代とは変わったことだ。
とはいえ、そこからどう研究につながるかといえばそれは難しい。
自分なりに何とかつなげようという試みの一つは、先行研究を自分の問題意識に沿って読み込んである程度体系的に理解しようとする、ということだ。これはGRIPSでの授業やそれに関連して読んだ文献によって何となくではあるが少しだけ道筋が見えてきたように思う。
しかし、これだけではダメだ、というのが最近の実感。
やはり歴史研究を志す以上は一次資料(外交文書)と向き合うという作業が不可欠だからだ。日本外交史という分野を本格的に学び始めたのは大学院進学をしっかりと決めた学部3年の冬くらいからだが、それなりに先行研究は読んだ。が、これは結局他人が資料を解釈して作り上げた歴史を読んでいることでしかない。やはり、自分も資料を読んだ上で議論しなければ基本的に対等な立場からは話せない。ちょうど今読んでいる本の資料の読み方にかなりの疑問を感じているのだが、その批判にどれだけ説得力があるのか…と考えてしまう。政治思想に置き換えれば、原典を読んでいないのに他人の研究を批判しても説得力に限界があるということだ。テキストの解釈は当然読み手によって違うわけだが、まずテキストを読まないことには始まらない。とりわけ研究とはそういうものだ。
「得意なところをより伸ばして、不得意なところが伸びていない」
という先生の指摘はまさにそのとおりである。これまで漠然と考えていたことをズバっと(笑)指摘された、ということ。ただ、と言い訳をしておくと、これは大体自分が通る典型的な道筋だということ。
学部に入ったときから政治学には興味があったので色々な文献は読んできたのだけど、英語の勉強は全くしなかった。なぜかと言えば、それは日本語の本を読んでいて十分楽しかったし、そこから先に広がる世界が見えなかったから。それが変わったのは学部2年の時にサークルの論文を書いてから。読んだ本の注がとにかく外国語だらけで、本に対して感じた疑問を確かめるためには英語を読まなければならなかったこと、そして読みたい本の翻訳が全然出ていなかったからだ。
というわけで遅ればせながら学部3年の時から徐々に英語の勉強を始めた。中学からエスカレーターに乗ってしまったので、英語の勉強をまともにしたのは初めてだった。
これと今回も大体同じところだろう。先行研究を読んでいくうちに、資料という壁にぶち当たったということだ。もちろん、英語の例ほど気が付くのは遅かったわけではないのだが、卒論の共通テーマが「冷戦終結」だったので一次資料が開いていなかったこともあって手を付けるのが遅くなってしまった。
というわけでどうしよう、というのが考えどころなのだが、とりあえず今年の夏は資料と格闘しようと思います。野党研究に決着を付けたいという気持ちもあるが、この場合だと回顧録やインタビュー、新聞記事、党の決定といった公開資料しかあたることが出来ない。これでは基本的には資料的に卒論から進歩があるわけではない。資料の問題は最終的には二義的なものになるのだと俺は思うが、そういったことも全て含めて自分が資料をしっかり読むようになってはじめて言えるというもの。
う~ん、難しい問題。というか歴史研究者以外にはどうでもいいであろう問題。
この問題はもう少し整理してちゃんと書くことしよう。
2006年06月27日
密度の濃い一日。
今日は長い一日だった、そしてしかも密度が濃い。
2限、地域研究論特殊研究?
天安門事件時の日本の対応、1989年から1991年を中心とした中国の対日認識と対日政策について。ここ数回はあまり面白い発表が無かったのだが、今日は久しぶりに面白かった。うまく発表者2人の発表が重なったからだろうか。授業時の議論を聞いていて、中国外交の研究は資料的な面で大きな制約を受けているんだな、と改めて感じた。
3限、某自民党総裁候補の講演
本来であれば、国際政治論特殊研究がある時間なのだが今週は学部の授業のゲストが某大物政治家だったので、そちらに出席(授業自体もそちらで振り替えになったらしい)。まー、大人数を相手にした政治家の講演会で面白いことを聞けるということなどそうそう無いもの。今日がどうだったかといえば…それは、推して知るべし、ということ。しかし、講演会も悪いことばかりではない。何と言っても政治の第一線で活躍している政治家の生の声を聞くということには大きな意味がある。それに、あくまで簡単に噛み砕いて話している政治家の言葉もその論理的背景を考えたり解きほぐしたりすれば、もっと面白いものが見えてくる。あとは質問が出来るということ。うまい質問をすれば面白い答えが返ってくる可能性は高いからだ。が、今日はその点でも残念な質問が多かった。何はともあれ、秋の総裁選が楽しみだ。
5限、国際政治論特殊研究
一応発表でした。自分が本来やりたかったことをやったというよりは、授業の主旨に併せて東アジア共同体論を考える上で戦後日本の東南アジア外交をどう捉えるか、ということをテーマに発表。が、この発表の主旨が全く理解されなかったような気がしてならない。授業で何をやりたいのがよく分からない授業って本当に困る。それならそんな無理をしなくても、岸や福田の東南アジア政策といった自分がやりたいことをやってしまった方がよかったかなとちょっと後悔。そんなわけで今回は要旨などは載せません、悪しからず。
授業後にゼミの先輩からいくつかコメントを頂く。どれも納得のいく自分の課題ばかりなのでとてもあり難いかぎり。が、こういった問題はあえて棚上げしておくというのも手かなと考えたりもする。修論に取り掛かる半年後なり、進級した時なりに答えが出ていればいいので、今焦って先行研究を読み漁ったところで何か新しいことが言えるわけでも無いからだ。さて、どうしたものか。
今日はまだまだ続く。
6限、書評研究会
前々から予告していた書評研究会を開催。
著者の先生2人に来ていただいた上、10人の参加者それぞれがコメントなり問題意識を持って参加してくれたので、議論の時間が全然足りなかった。司会を務めた関係で俺は内容に関する発言はほぼゼロ。ま、それはそれで喜ぶべきことなんだろうが…こういった機会がまたあればどうやれば自分が話せるか考えておこうかな~ 笑。
とにかく知的にわくわくした1時間半。やはりロイヤル・ネイヴィーというものを通して、もしくはロイヤル・ネイヴィーという鏡に映る形で、国際政治や国際秩序の様々なものが見えてくる。こういった点を踏まえて大きな論点を提示してくれた友人や後輩の議論を時間内に出来なかったことは悔やまれる。著者の1人の先生の同時期のイギリス外交に関する著書が近く刊行されるようなので、そちらの本を読んだ上でまたじっくりと考える機会を持ちたい。
で、その後は当然飲み会。先生2人には飲み会にまで付き合っていただく。そこでは、真面目な話からくだらない話まで。自分の夏の過ごし方などについてもいくつかアドバイスを頂く。5限後の先輩の話を聞いた後にふと考えたことやこれまで漠然と考えていたことと何となく重ってくる重要な指摘だった。この話はまたそのうち。
というわけで、とても満足した研究会だったのだが、贅沢を言えば編者である師匠(現在、サバティカル)も呼びたかった。といってもそれは無理な話なので、師匠がいない間にがんがん修行しておくことにします。
2限、地域研究論特殊研究?
天安門事件時の日本の対応、1989年から1991年を中心とした中国の対日認識と対日政策について。ここ数回はあまり面白い発表が無かったのだが、今日は久しぶりに面白かった。うまく発表者2人の発表が重なったからだろうか。授業時の議論を聞いていて、中国外交の研究は資料的な面で大きな制約を受けているんだな、と改めて感じた。
3限、某自民党総裁候補の講演
本来であれば、国際政治論特殊研究がある時間なのだが今週は学部の授業のゲストが某大物政治家だったので、そちらに出席(授業自体もそちらで振り替えになったらしい)。まー、大人数を相手にした政治家の講演会で面白いことを聞けるということなどそうそう無いもの。今日がどうだったかといえば…それは、推して知るべし、ということ。しかし、講演会も悪いことばかりではない。何と言っても政治の第一線で活躍している政治家の生の声を聞くということには大きな意味がある。それに、あくまで簡単に噛み砕いて話している政治家の言葉もその論理的背景を考えたり解きほぐしたりすれば、もっと面白いものが見えてくる。あとは質問が出来るということ。うまい質問をすれば面白い答えが返ってくる可能性は高いからだ。が、今日はその点でも残念な質問が多かった。何はともあれ、秋の総裁選が楽しみだ。
5限、国際政治論特殊研究
一応発表でした。自分が本来やりたかったことをやったというよりは、授業の主旨に併せて東アジア共同体論を考える上で戦後日本の東南アジア外交をどう捉えるか、ということをテーマに発表。が、この発表の主旨が全く理解されなかったような気がしてならない。授業で何をやりたいのがよく分からない授業って本当に困る。それならそんな無理をしなくても、岸や福田の東南アジア政策といった自分がやりたいことをやってしまった方がよかったかなとちょっと後悔。そんなわけで今回は要旨などは載せません、悪しからず。
授業後にゼミの先輩からいくつかコメントを頂く。どれも納得のいく自分の課題ばかりなのでとてもあり難いかぎり。が、こういった問題はあえて棚上げしておくというのも手かなと考えたりもする。修論に取り掛かる半年後なり、進級した時なりに答えが出ていればいいので、今焦って先行研究を読み漁ったところで何か新しいことが言えるわけでも無いからだ。さて、どうしたものか。
今日はまだまだ続く。
6限、書評研究会
前々から予告していた書評研究会を開催。
著者の先生2人に来ていただいた上、10人の参加者それぞれがコメントなり問題意識を持って参加してくれたので、議論の時間が全然足りなかった。司会を務めた関係で俺は内容に関する発言はほぼゼロ。ま、それはそれで喜ぶべきことなんだろうが…こういった機会がまたあればどうやれば自分が話せるか考えておこうかな~ 笑。
とにかく知的にわくわくした1時間半。やはりロイヤル・ネイヴィーというものを通して、もしくはロイヤル・ネイヴィーという鏡に映る形で、国際政治や国際秩序の様々なものが見えてくる。こういった点を踏まえて大きな論点を提示してくれた友人や後輩の議論を時間内に出来なかったことは悔やまれる。著者の1人の先生の同時期のイギリス外交に関する著書が近く刊行されるようなので、そちらの本を読んだ上でまたじっくりと考える機会を持ちたい。
で、その後は当然飲み会。先生2人には飲み会にまで付き合っていただく。そこでは、真面目な話からくだらない話まで。自分の夏の過ごし方などについてもいくつかアドバイスを頂く。5限後の先輩の話を聞いた後にふと考えたことやこれまで漠然と考えていたことと何となく重ってくる重要な指摘だった。この話はまたそのうち。
というわけで、とても満足した研究会だったのだが、贅沢を言えば編者である師匠(現在、サバティカル)も呼びたかった。といってもそれは無理な話なので、師匠がいない間にがんがん修行しておくことにします。
2006年06月25日
2006年06月23日
ふー。
27日(火)の参加者への告知!
集合時間:18時20分
教室:慶應義塾大学三田キャンパス108教室
事前に準備して貰うレジュメについて
事前にレジュメを用意して欲しいということは以前アナウンスしたとおりです。前日までに送って貰えれば、事前にこちらで人数分印刷しておきます。量はA4で1枚。3点程度の「議論したい点」や「疑問点」、「質問」、「批判」、「感想」を用意して下さい。その際、出来る限り著者の意図に内在的な視点を意識してもらえると有意義な議論に繋がると思います。これだけでは分かりにくいですが、要はゼミ形式における授業の討論者のつもりでレジュメを作ってくれ、ということです。もちろん、気合の入れ方は各自にまかせます。そもそも、そんなにしんどくしても楽しくないので、楽しめる範囲で作ってきてもらえれば十分です。なお、時間の関係上出してもらった議論の全てを取り上げることは出来ないので、その点は悪しからず。
何かあれば連絡ください!
◇
昨晩から徹夜でレジュメ作成&W杯観戦、ちょっとだけ寝て午前中はバイト、再び仮眠して授業というハードな一日。試合後の中田の姿にはぐっときてしまった。やっぱりスポーツを本気でやっている人間は無条件にかっこいい。それにしても、まさかチェコまで予選敗退とは…。
来週は発表がいくつかあってちょっとハードなのだが、とりあえず今日で英語地獄は脱出したのでひと段落。
6限、日本外交(GRIPS)
今週は著者に加え、先生の知り合いの研究者も来ていたのでさらに贅沢に…。今日の本は英語だったので、細かなニュアンスが自分にはしっかりと分からずもどかしかった。が、それなりには読めていたのかな~。うーん、難しいところだ。これまた先週に引き続き書評。
・Liang Pan,The United Nations in Japan's Foreign And Security Policymaking, 1945-1992: National Security, Party Politics, And International Status (Harvard University Asia Center)
第二次大戦後の国際政治を特徴付けるものの一つとして国際連合がある。その機能や実体については様々な議論があるとしても、国連には一定の存在感や役割が確かに存在していた。しかし、これまで国連をめぐる日本外交が本格的な外交研究として取り上げられることはほとんどなかった。また、取り上げられるとしても今日的な問題意識に沿ったものであり、歴史的に日本と国連の関係は取り上げることはほとんどなされてこなかったのである(数少ない例外としてラインハルト・ドリフテ『国連安保理と日本』が挙げられよう)。1945年から1992年までの日本の対国連政策及び国連をめぐる国内政治を取り上げて内外の外交文書を中心に資料を渉猟して分析している本書は、このような研究状況を大きく塗り替えるものである。また日本外交研究が二国間関係とりわけ対米関係に集中してきたことを考えると、本書が日本の対多国間外交を分析している点も重要であろう。巷間、日本は多国間外交に消極的でありばら撒き外交しかできない、などと言われるがそれは事実なのだろうか。こういった問題の一端に本書は答えてくれる。このように今後の日本外交を考えていく上でも大きな意義が本書にはある。あくまで抑制された筆致で、国連の過大評価をせずに冷静な眼で国連を観察する本書の姿勢には高い信頼感を読者に与えるだろう。
また本書の各部分それぞれについても興味深い点が数多く含まれている。各部の概要を紹介しつつそれぞれ見てみよう。日本の安全保障政策を軸に対国連外交が分析されている第一部では、これまでそれほど注目されることが無かった日本の国連における試みや努力が取り上げられている。スエズ危機やアルジェリア危機、国連財政危機などで日本が積極的な働きかけを行っていたことは非常に興味深い。日本国内の政党政治における国連を取り上げている第二部では、占領期から1992年の国連平和協力法が成立するまで幅広く日本国内政治を国連という焦点を当てて分析している。第二部がとりわけ興味深いのは、国連を巡る論争に注目したことによって、外交政策に関して分析対象としての取り上げ方が難しかった野党がうまく分析対象としている点である。日本の国際的地位の模索と国連について取り上げている第三部では、敗戦国としての特異な地位からスタートした戦後日本が国際的地位の模索を国連を通して行った過程が描かれており、ここもまた興味深かった。
以上のように本書を評価した上で、構成上の疑問を提起したい。それは、第二部と第三部の主題が明確なことと比較して第一部は通史的に対国連外交を取り上げているためその主題がやや分かりにくかった、ということである。適切な受け取り方ではないかもしれないが、本書を一読した際に「第二部と第三部から漏れた部分を第一部で取り上げている」というように感じたのである。本書は日本と国連の関わりを、が示すとおり安全保障・政党政治・国際的地位から取り上げている。これが前述したような各部の主題となっている。おそらく日本外交史の文脈でもっとも重要なことは第一部で取り上げている安全保障である。日本が安全保障を考える際に国連をどのように考えるか、基軸である日米安保と国連がどのような関係にあるのか、こういった日本外交の大きな課題がここにあるからだ。しかし、本書の記述からはむしろ政党政治や国際的地位の模索といった位相でこそ、(意図的ではないにせよ)国連が興味深い役割を担ったことが見えてくるのである。第一部では安全保障そのものというよりは、スエズ危機、レバノン危機、国連財政危機といった国連での懸案に日本が対処する過程が描かれており、それが日本の安全保障とどのように結びつくのかは自明ではない。とはいえ、このような構成上の問題は実は戦後日本にとって、もしくは戦後国際政治にとって国連がある種の矛盾を持った存在であったこと、または日本の安全保障の模索そのものが矛盾を持っていたことを反映しているといえるのかもしれない。第二部は"The UN and Japanese Party Politics"、第三部は"The UN and Japan's International Status"と主題どおりの題名であるが、第一部は"The UN and Japan's Struggle for Peace and Security"である。戦後日本の安全保障政策と国連との関わりには、'struggle'という単語を題名として加えざるを得ない一面が確かに存在していたのかもしれない。
集合時間:18時20分
教室:慶應義塾大学三田キャンパス108教室
事前に準備して貰うレジュメについて
事前にレジュメを用意して欲しいということは以前アナウンスしたとおりです。前日までに送って貰えれば、事前にこちらで人数分印刷しておきます。量はA4で1枚。3点程度の「議論したい点」や「疑問点」、「質問」、「批判」、「感想」を用意して下さい。その際、出来る限り著者の意図に内在的な視点を意識してもらえると有意義な議論に繋がると思います。これだけでは分かりにくいですが、要はゼミ形式における授業の討論者のつもりでレジュメを作ってくれ、ということです。もちろん、気合の入れ方は各自にまかせます。そもそも、そんなにしんどくしても楽しくないので、楽しめる範囲で作ってきてもらえれば十分です。なお、時間の関係上出してもらった議論の全てを取り上げることは出来ないので、その点は悪しからず。
何かあれば連絡ください!
◇
昨晩から徹夜でレジュメ作成&W杯観戦、ちょっとだけ寝て午前中はバイト、再び仮眠して授業というハードな一日。試合後の中田の姿にはぐっときてしまった。やっぱりスポーツを本気でやっている人間は無条件にかっこいい。それにしても、まさかチェコまで予選敗退とは…。
来週は発表がいくつかあってちょっとハードなのだが、とりあえず今日で英語地獄は脱出したのでひと段落。
6限、日本外交(GRIPS)
今週は著者に加え、先生の知り合いの研究者も来ていたのでさらに贅沢に…。今日の本は英語だったので、細かなニュアンスが自分にはしっかりと分からずもどかしかった。が、それなりには読めていたのかな~。うーん、難しいところだ。これまた先週に引き続き書評。
・Liang Pan,The United Nations in Japan's Foreign And Security Policymaking, 1945-1992: National Security, Party Politics, And International Status (Harvard University Asia Center)
第二次大戦後の国際政治を特徴付けるものの一つとして国際連合がある。その機能や実体については様々な議論があるとしても、国連には一定の存在感や役割が確かに存在していた。しかし、これまで国連をめぐる日本外交が本格的な外交研究として取り上げられることはほとんどなかった。また、取り上げられるとしても今日的な問題意識に沿ったものであり、歴史的に日本と国連の関係は取り上げることはほとんどなされてこなかったのである(数少ない例外としてラインハルト・ドリフテ『国連安保理と日本』が挙げられよう)。1945年から1992年までの日本の対国連政策及び国連をめぐる国内政治を取り上げて内外の外交文書を中心に資料を渉猟して分析している本書は、このような研究状況を大きく塗り替えるものである。また日本外交研究が二国間関係とりわけ対米関係に集中してきたことを考えると、本書が日本の対多国間外交を分析している点も重要であろう。巷間、日本は多国間外交に消極的でありばら撒き外交しかできない、などと言われるがそれは事実なのだろうか。こういった問題の一端に本書は答えてくれる。このように今後の日本外交を考えていく上でも大きな意義が本書にはある。あくまで抑制された筆致で、国連の過大評価をせずに冷静な眼で国連を観察する本書の姿勢には高い信頼感を読者に与えるだろう。
また本書の各部分それぞれについても興味深い点が数多く含まれている。各部の概要を紹介しつつそれぞれ見てみよう。日本の安全保障政策を軸に対国連外交が分析されている第一部では、これまでそれほど注目されることが無かった日本の国連における試みや努力が取り上げられている。スエズ危機やアルジェリア危機、国連財政危機などで日本が積極的な働きかけを行っていたことは非常に興味深い。日本国内の政党政治における国連を取り上げている第二部では、占領期から1992年の国連平和協力法が成立するまで幅広く日本国内政治を国連という焦点を当てて分析している。第二部がとりわけ興味深いのは、国連を巡る論争に注目したことによって、外交政策に関して分析対象としての取り上げ方が難しかった野党がうまく分析対象としている点である。日本の国際的地位の模索と国連について取り上げている第三部では、敗戦国としての特異な地位からスタートした戦後日本が国際的地位の模索を国連を通して行った過程が描かれており、ここもまた興味深かった。
以上のように本書を評価した上で、構成上の疑問を提起したい。それは、第二部と第三部の主題が明確なことと比較して第一部は通史的に対国連外交を取り上げているためその主題がやや分かりにくかった、ということである。適切な受け取り方ではないかもしれないが、本書を一読した際に「第二部と第三部から漏れた部分を第一部で取り上げている」というように感じたのである。本書は日本と国連の関わりを、が示すとおり安全保障・政党政治・国際的地位から取り上げている。これが前述したような各部の主題となっている。おそらく日本外交史の文脈でもっとも重要なことは第一部で取り上げている安全保障である。日本が安全保障を考える際に国連をどのように考えるか、基軸である日米安保と国連がどのような関係にあるのか、こういった日本外交の大きな課題がここにあるからだ。しかし、本書の記述からはむしろ政党政治や国際的地位の模索といった位相でこそ、(意図的ではないにせよ)国連が興味深い役割を担ったことが見えてくるのである。第一部では安全保障そのものというよりは、スエズ危機、レバノン危機、国連財政危機といった国連での懸案に日本が対処する過程が描かれており、それが日本の安全保障とどのように結びつくのかは自明ではない。とはいえ、このような構成上の問題は実は戦後日本にとって、もしくは戦後国際政治にとって国連がある種の矛盾を持った存在であったこと、または日本の安全保障の模索そのものが矛盾を持っていたことを反映しているといえるのかもしれない。第二部は"The UN and Japanese Party Politics"、第三部は"The UN and Japan's International Status"と主題どおりの題名であるが、第一部は"The UN and Japan's Struggle for Peace and Security"である。戦後日本の安全保障政策と国連との関わりには、'struggle'という単語を題名として加えざるを得ない一面が確かに存在していたのかもしれない。
2006年06月22日
わくわく。
今日のプロジェクト科目(政治思想)はとても面白かった。
先生は政治思想学会代表理事の大先生。テーマは「存在論的力概念に関する一考察:ハイデガーとフーコー」、事前の指定文献は「ハイデガーにおける運動概念」(『思想』の5月号6月号に連載)だ。
事前の指定文献があまりに難解でどうなることかと思ったのだが、先生の2時間半にわたる(!)大講演である程度理解することが出来た。先生自身が1時間半だと勘違いして話し込んでいたらしいのだが…それだけ気合が入っていたということなのだろうか(そればっかはよく分からないなー)。講演自体は、ハイデガーとフーコーの力概念を比較することにあったようだが、その力点はやはりハイデガーである。
とにかく、第一線で活躍するハイデガー研究者によるハイデガー論に圧倒された。
もちろん疑問に感じた部分もあったのだが、まだそれを自分の言葉でうまく表現することが出来ないのがもどかしい。
自分の研究をこれだけ突き詰めて行うことが出来るだろうか。そして、あれだけ情熱的に自分の研究を語ることが出来るだろうか。
そんなことを考えさせられた。
先生は政治思想学会代表理事の大先生。テーマは「存在論的力概念に関する一考察:ハイデガーとフーコー」、事前の指定文献は「ハイデガーにおける運動概念」(『思想』の5月号6月号に連載)だ。
事前の指定文献があまりに難解でどうなることかと思ったのだが、先生の2時間半にわたる(!)大講演である程度理解することが出来た。先生自身が1時間半だと勘違いして話し込んでいたらしいのだが…それだけ気合が入っていたということなのだろうか(そればっかはよく分からないなー)。講演自体は、ハイデガーとフーコーの力概念を比較することにあったようだが、その力点はやはりハイデガーである。
とにかく、第一線で活躍するハイデガー研究者によるハイデガー論に圧倒された。
もちろん疑問に感じた部分もあったのだが、まだそれを自分の言葉でうまく表現することが出来ないのがもどかしい。
自分の研究をこれだけ突き詰めて行うことが出来るだろうか。そして、あれだけ情熱的に自分の研究を語ることが出来るだろうか。
そんなことを考えさせられた。
2006年06月21日
現実逃避。
ちょっときつくなってくると、他の事や先の事を考えて現実逃避するのは人間の性。
そんなわけで、今週はやたらと夏休みの過ごし方を考えている。ちなみに、例の文献は大分進んで残り100頁くらい。やればなんとかなるってことだ。コメントも何となく目途がついた気がする。自分の専門分野だったというのが救いだった。
で、夏休みの過ごし方。
もともと今年は語学研修的なものに行ってこようかな~、とか思っていたのだがこれは中止。やっぱり、もう少し語学力を上げてからいかないとやる気があまりない日本人に囲まれてこっちまでだれるという結果に終わりそうだと思ったから。もちろん、語学はやるけどそれは国内で毎日しこしこやればいいかなと。
じゃあ、どうする。ということなんだけど、1本論文を書いてみようかな、と思案中。
やっぱり毎年1本は、どんなレベルであれちゃんとした論文を書こう、ということを大学生活で続けてきたから、今年もやるというのは自然な流れ。それに何か目標を立ててやる勉強はこっちのやる気も上がるというもの。
といっても、テーマをどうするかが問題。修士論文に直接繋がるものをやるのは時期尚早だと思うし…。具体的なテーマをここに書く気もしないんだけど、とりあえずは卒論でやりかけたことに決着を付けるというのがいいかなと考えている。
大学院の先輩などと話していてもテーマ自体の面白さはみな認めてくれている。確かに、この研究からの広がりはあまり無いかもしれないが、とりあえず1本の論文にまとめるつもりで突き詰めて調べてみるのは悪くないんじゃないだろうか。
…という妄想がここ数日の成果。
そんなわけで、今週はやたらと夏休みの過ごし方を考えている。ちなみに、例の文献は大分進んで残り100頁くらい。やればなんとかなるってことだ。コメントも何となく目途がついた気がする。自分の専門分野だったというのが救いだった。
で、夏休みの過ごし方。
もともと今年は語学研修的なものに行ってこようかな~、とか思っていたのだがこれは中止。やっぱり、もう少し語学力を上げてからいかないとやる気があまりない日本人に囲まれてこっちまでだれるという結果に終わりそうだと思ったから。もちろん、語学はやるけどそれは国内で毎日しこしこやればいいかなと。
じゃあ、どうする。ということなんだけど、1本論文を書いてみようかな、と思案中。
やっぱり毎年1本は、どんなレベルであれちゃんとした論文を書こう、ということを大学生活で続けてきたから、今年もやるというのは自然な流れ。それに何か目標を立ててやる勉強はこっちのやる気も上がるというもの。
といっても、テーマをどうするかが問題。修士論文に直接繋がるものをやるのは時期尚早だと思うし…。具体的なテーマをここに書く気もしないんだけど、とりあえずは卒論でやりかけたことに決着を付けるというのがいいかなと考えている。
大学院の先輩などと話していてもテーマ自体の面白さはみな認めてくれている。確かに、この研究からの広がりはあまり無いかもしれないが、とりあえず1本の論文にまとめるつもりで突き詰めて調べてみるのは悪くないんじゃないだろうか。
…という妄想がここ数日の成果。
2006年06月20日
もっと、きつかった…。
昨日は計算が狂ったと書いたんだけど、実はもっときつかった。
英語は昨日の夜と今日頑張って残り250頁になったものの、木曜日のプロジェクト科目を忘れていた。ちなみに俺を苦しめてる英語文献は↓
Liang Pan,The United Nations in Japan's Foreign And Security Policymaking, 1945-1992: National Security, Party Politics, And International Status (Harvard University Asia Center)
概要は著者が『創文』の2005年6月号に書いているのでそちらを参照してください。ざっくり言えば「日本と国連」がテーマ。単に日本の対国連外交というだけでなく、日本の政党政治と国連外交、日本の国際的地位の模索の中での国連、といったテーマも論じられていて面白いが熟読して専門的なコメントをつけなければならないというのがしんどい。英語の読むスピードが多少上がったとしても、読んで英語がすんなり頭に入って理解するというのはまた別の話。理論を使っている本であれば、ある程度枠組みが理解できればいいのだが、手法として外交史を用いている場合はよりしんどい。はぁ~。まあ、こういうことを繰り返していくと英語をしっかり勉強するモチベーションも上がってくるというものだ。
計算が狂ったという話を戻すと…木曜のゲストの先生の課題文献の論文が2本。これは日本語なんだけど、掲載紙が『思想』ということからも分かるように政治思想の論文。ハイデガーは不案内な思想家なので、これまた予習が不可欠。ということで、ゲストの先生が書いた教科書(『二十世紀の政治思想』)のハイデガーに関する部分を読んでみるが、さらに分からなくなる。ということで今夜はハイデガーと格闘することになりそう。
明日、明後日、明々後日の午前中で英語250頁を熟読し、そしてコメントをつけなければならないことを考えるとW杯どころではない。
…あ、明日の授業のために『西園寺公と政局』も読まないと。
英語は昨日の夜と今日頑張って残り250頁になったものの、木曜日のプロジェクト科目を忘れていた。ちなみに俺を苦しめてる英語文献は↓
Liang Pan,The United Nations in Japan's Foreign And Security Policymaking, 1945-1992: National Security, Party Politics, And International Status (Harvard University Asia Center)
概要は著者が『創文』の2005年6月号に書いているのでそちらを参照してください。ざっくり言えば「日本と国連」がテーマ。単に日本の対国連外交というだけでなく、日本の政党政治と国連外交、日本の国際的地位の模索の中での国連、といったテーマも論じられていて面白いが熟読して専門的なコメントをつけなければならないというのがしんどい。英語の読むスピードが多少上がったとしても、読んで英語がすんなり頭に入って理解するというのはまた別の話。理論を使っている本であれば、ある程度枠組みが理解できればいいのだが、手法として外交史を用いている場合はよりしんどい。はぁ~。まあ、こういうことを繰り返していくと英語をしっかり勉強するモチベーションも上がってくるというものだ。
計算が狂ったという話を戻すと…木曜のゲストの先生の課題文献の論文が2本。これは日本語なんだけど、掲載紙が『思想』ということからも分かるように政治思想の論文。ハイデガーは不案内な思想家なので、これまた予習が不可欠。ということで、ゲストの先生が書いた教科書(『二十世紀の政治思想』)のハイデガーに関する部分を読んでみるが、さらに分からなくなる。ということで今夜はハイデガーと格闘することになりそう。
明日、明後日、明々後日の午前中で英語250頁を熟読し、そしてコメントをつけなければならないことを考えるとW杯どころではない。
…あ、明日の授業のために『西園寺公と政局』も読まないと。
2006年06月19日
計算が狂った。
ちょっとした手違いで(というか先週W杯を見過ぎた)、今週はやることが多すぎる。やばいです。英語の文献が5日間で約400頁、発表も1つ。しかも来週は発表が都合3つ。さて、どうしたものか…。
◇
先週も募集をかけた研究会情報を再度掲載↓。既に参加希望を伝えてくれた人には近いうちに詳細情報を送ります。
テキスト:田所昌幸・編『ロイヤル・ネイヴィーとパクス・ブリタニカ』(有斐閣)
日時:6月27日(火)、18時20分~(90分程度を予定)
場所:慶應義塾大学三田キャンパス(詳しい場所は未定)
参加資格:特にありませんが、テキストの熟読とコメントの事前提出はお願いします。
※著者の内2人をゲストとして招聘し、終了後は懇親会をやります。
概要は上述のとおりです。本の内容は(出版社HP、俺の書評、などを参考まで)。幹事は俺なので興味がある人はメールでも下さい。基本的には、専門であるとかそういったことは一切関係なく、テキストに知的に刺激される人や興奮する人(?)を対象として考えています。ちなみに事前にコメント提出(A4一枚程度)をお願いするので、フリーライドは出来ません。
興味がある人は遠慮なく連絡ください。
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先週も募集をかけた研究会情報を再度掲載↓。既に参加希望を伝えてくれた人には近いうちに詳細情報を送ります。
テキスト:田所昌幸・編『ロイヤル・ネイヴィーとパクス・ブリタニカ』(有斐閣)
日時:6月27日(火)、18時20分~(90分程度を予定)
場所:慶應義塾大学三田キャンパス(詳しい場所は未定)
参加資格:特にありませんが、テキストの熟読とコメントの事前提出はお願いします。
※著者の内2人をゲストとして招聘し、終了後は懇親会をやります。
概要は上述のとおりです。本の内容は(出版社HP、俺の書評、などを参考まで)。幹事は俺なので興味がある人はメールでも下さい。基本的には、専門であるとかそういったことは一切関係なく、テキストに知的に刺激される人や興奮する人(?)を対象として考えています。ちなみに事前にコメント提出(A4一枚程度)をお願いするので、フリーライドは出来ません。
興味がある人は遠慮なく連絡ください。