2005年12月
2005年12月31日
大晦日。
2005年もあっという間に終了、あと1時間で終了。
人が感じるの時間というものは、年を重ねれば重ねるほど短くなるというのだけど、この1年は今まで生きてきたなかで一番短かった。年が明けて1ヶ月もすれば、大学の授業も終了。そしてそこから2ヶ月もすれば大学院生。まだ大学に入ってから少ししか時間が過ぎていないような気がするのだけど…。
大学院進学が間近に迫ってくると、それなりに色々と考えることもある。もっとも、俺はそんな内省的な人間ではないのでそんな大層な悩みがあるわけではない。
進学することに迷いはない。ただ自信がない、といったところか。自分にある程度足りている能力、圧倒的に足りていない能力、これは自分には痛いほど分かる。もちろん語学力は足りない能力だけど、これはやれば何とかなる。やってもなかなか何とかならない能力というものもある。さぁ、どうしたものか。
尊敬する2人の先生に言われるのは、「歴史と哲学」を学べ、ということ。哲学はある程度やっていると思う、ただ歴史は圧倒的に足りない。まずはローマ史から始めようと思う。
卒論が終わってからやること、中国語、英語、卒業旅行、歴史(ローマ史を中心に中世史くらいまで)…なかなか魅力的…というのは病気かな?
人が感じるの時間というものは、年を重ねれば重ねるほど短くなるというのだけど、この1年は今まで生きてきたなかで一番短かった。年が明けて1ヶ月もすれば、大学の授業も終了。そしてそこから2ヶ月もすれば大学院生。まだ大学に入ってから少ししか時間が過ぎていないような気がするのだけど…。
大学院進学が間近に迫ってくると、それなりに色々と考えることもある。もっとも、俺はそんな内省的な人間ではないのでそんな大層な悩みがあるわけではない。
進学することに迷いはない。ただ自信がない、といったところか。自分にある程度足りている能力、圧倒的に足りていない能力、これは自分には痛いほど分かる。もちろん語学力は足りない能力だけど、これはやれば何とかなる。やってもなかなか何とかならない能力というものもある。さぁ、どうしたものか。
尊敬する2人の先生に言われるのは、「歴史と哲学」を学べ、ということ。哲学はある程度やっていると思う、ただ歴史は圧倒的に足りない。まずはローマ史から始めようと思う。
卒論が終わってからやること、中国語、英語、卒業旅行、歴史(ローマ史を中心に中世史くらいまで)…なかなか魅力的…というのは病気かな?
2005年12月29日
一応、復活。
月曜の夜から、高熱にうなされてました。熱が下がったので今日から活動再開。最近、めっきり身体が弱くなった気がする。この風邪のせいで一昨日予定していた忘年会?をキャンセルすることになってしまった。もったいない。
今日は、常々「クリスチャンでも無いのにクリスマスで浮かれてるんじゃねぇ」とかなり野暮な主張をしている俺にもやってきたサンタさんから貰ったプレゼントをひたすら活用する一日だった。1つは、『国際政治事典』(弘文堂)。これはクリスチャンである母から貰ったもの。これを買ってくれたときは神様(と仏様と稲尾様)に感謝しました。この事典の色々な項目を読んでいるだけで一日が潰れてしまう、というか潰れた。もう1つはiPOD、こっちはクリスチャンではない彼女から貰ったもの(貰ったのは23日だから、本当は天皇誕生日祝いだと思います)。ひたすら家にあるCDをiTunesに入れていく。あ~、昔はこんな音楽聴いてたんだなぁ、とかなり懐かしい気持ちになった。
そんなわけで、ここ数日は卒論があまり進まず。一昨日大学に行けなかったため、資料も若干不足気味だ。とりあえず明日からは卒論のみに没頭することにします。
◇
日曜に書いた西洋外交史特殊研究?のレポート。先生から確認のメールもあったのでアップしておきます↓。前期に続き、このブログに載せる前の原稿に加筆修正という省エネ書評。でも、それなりに気合は入ってます。
・細谷雄一『大英帝国の外交官』(筑摩書房)
「外交官」という言葉には、独特のイメージがある。とりわけ、小泉政権に入ってから一連の外務省スキャンダルが起きた日本では、負の側面が強調された形でそのイメージは増幅されている。このような外交官イメージは、様々な側面を持つ外交官の一面は捉えているだろう。確かに外交官は一般の国民と比べ、巧みに外国語を操り、一定の期間を外国で過ごす、ある種の特権的な職業である。しかし我々は、このようなイメージに引きずられてしまい、「外交」について誤解してはいないだろうか。そもそもあるべき外交の姿とは何だろうか。
このような問いに本書は、20世紀前半から半ばにかけて活躍した魅力的な5人のイギリス人外交官を描くことによって答えてくれる。本書に登場する外交官たちは、先に挙げたような人口に膾炙されたイメージとは一風異なる魅力的な人物ばかりである。取り上げられているのは、ハロルド・ニコルソン、E・H・カー、ダフ・クーパー、アイザイア・バーリン、オリヴァー・フランクスの5人である。この魅力的な5人の外交官を、ストレイチーによって確立された「複数の人物を並べて論じる」評伝として描き出すことによって、本書は外交の本質に迫っている。
著者は、本書のプロローグで第二次大戦後のイギリスの外務大臣であるアーネスト・ベヴィンの言葉を引いて、外交の本質を説明している。少し長いが引用する。
「対外政策とは、何か偉大なものであるとか、大きな存在であるということはないのだ。それは、自分自身の問題にも関係するような、あるいはあなた自身の問題にも関係しているような、良識(コモン・センス)や人間性の上に成り立っているのだ」(本書6頁)
このベヴィンの言葉に本書のメッセージが託されているのではないだろうか。外交とは何も特別なことではない、あくまで人間性に基礎をおいた交渉なのである。しかし、著者も断っているように、本書で取り上げられている5人は「異端」の外交官たちである。ニコルソン、カー、クーパーは、外務省をそのキャリアの出発点としながらも、道半ばにして外務省を辞し、新たなキャリアをスタートさせた。バーリン、フランクスは学者であったが、第二次世界大戦という時代の要請によって外交に携わることになった。このような「異端」の外交官たちを描くことは、外交とは何も特別なことではなく人間性を基礎においた交渉である、という上記のベヴィンの言葉とは矛盾していると感じるかもしれない。この点について、本書はあえて「異端」の外交官を描くことによって外交を若干の距離をもって描くことに成功しているとはいえないだろうか。本書で取り上げている5人は、共にイギリス外交に対して大きな貢献をしたが、外交についてある種の距離感を持っていた。さらに5人は共に、魅力的な文章を残したヒューマニティー(人間性、人文学の素養…etc.)溢れる人物でもあった。この距離感とヒューマニティーがある5人を描くことによって、外交をある程度相対化して考えることが可能になる。
著者は、本書を学術書ではなく「一般向けの読み物」として執筆したというが、納得の分かりやすさと面白さであり、読者は引き入れられるように一気に読み終えるだろう。評伝という形式は、人物を論じることによって背景にある歴史そのものも論じることになるのだが、本書にもその形式の利点は大いに生かされている。また、それぞれの人物がほぼ活躍した時代の順に並べられていることから、旧外交から新外交へと移り変わる時代が見事に描き出されている。
あえて本書の難点を挙げるとすれば、それは「バランス」だろうか。ニコルソンについては「旧外交→新外交」という本書のテーマに重なるからか、かなりの紙幅が割かれている。一方、バーリン、フランクスについては哲学者時代が描かれないこともありやや尻切れトンボの印象がある。もっとも、限られた紙幅の中で5人を描いていることを考えればこれは望みすぎというものだろう。
バランス、面白さという点ではクーパーの章が出色だろう。アンソニー・イーデンと共にチャーチルの腹心として第二次大戦時に活躍したクーパーだが、イーデンとは対照的に駐仏大使を最後に政治の一線から退く。それは、クーパーならではの決断であった。このようなクーパーの生き方は、晩節を汚さないという点で美しいが、イーデンの1950年代前半の成功を考えると若干勿体無くもある。クーパーについてはその生い立ちから外務省時代、政治家時代、シンガポール時代、そしてパリ時代、晩年と実にバランスよく描かれている。
一方、これまでのイメージを変えてくれる、という意味で面白いのがカーの章だ。抑えられた筆致ではあるが、カーの二元論的思考を著者は痛烈に批判しその限界を指摘している。『危機の二十年』『歴史とは何か』などの印象のみでカーを考えがちな日本人にとって、『新しい社会』の著者であるカーを強調する視点は新鮮だ。勿論、本書における筆者の人物評価には異論もあるだろう。確かにクーパーに対する筆者の評価は従来の研究と比べ相当程度「甘い」だろうし、逆にカーに対する評価はかなり「辛い」だろう。それならば、その異論と本書を読み比べることをお薦めしたい。
著者は『戦後国際秩序とイギリス外交』(創文社)でアーネスト・ベヴィン、『外交による平和』(有斐閣)でアンソニー・イーデン、という共に20世紀イギリスを代表する外交指導者を描いている。本書と併せて読むことによって、より立体的に外交を理解することが出来るだろう。
落ち着いてじっくり味わいたい一冊である。
今日は、常々「クリスチャンでも無いのにクリスマスで浮かれてるんじゃねぇ」とかなり野暮な主張をしている俺にもやってきたサンタさんから貰ったプレゼントをひたすら活用する一日だった。1つは、『国際政治事典』(弘文堂)。これはクリスチャンである母から貰ったもの。これを買ってくれたときは神様(と仏様と稲尾様)に感謝しました。この事典の色々な項目を読んでいるだけで一日が潰れてしまう、というか潰れた。もう1つはiPOD、こっちはクリスチャンではない彼女から貰ったもの(貰ったのは23日だから、本当は天皇誕生日祝いだと思います)。ひたすら家にあるCDをiTunesに入れていく。あ~、昔はこんな音楽聴いてたんだなぁ、とかなり懐かしい気持ちになった。
そんなわけで、ここ数日は卒論があまり進まず。一昨日大学に行けなかったため、資料も若干不足気味だ。とりあえず明日からは卒論のみに没頭することにします。
◇
日曜に書いた西洋外交史特殊研究?のレポート。先生から確認のメールもあったのでアップしておきます↓。前期に続き、このブログに載せる前の原稿に加筆修正という省エネ書評。でも、それなりに気合は入ってます。
・細谷雄一『大英帝国の外交官』(筑摩書房)
「外交官」という言葉には、独特のイメージがある。とりわけ、小泉政権に入ってから一連の外務省スキャンダルが起きた日本では、負の側面が強調された形でそのイメージは増幅されている。このような外交官イメージは、様々な側面を持つ外交官の一面は捉えているだろう。確かに外交官は一般の国民と比べ、巧みに外国語を操り、一定の期間を外国で過ごす、ある種の特権的な職業である。しかし我々は、このようなイメージに引きずられてしまい、「外交」について誤解してはいないだろうか。そもそもあるべき外交の姿とは何だろうか。
このような問いに本書は、20世紀前半から半ばにかけて活躍した魅力的な5人のイギリス人外交官を描くことによって答えてくれる。本書に登場する外交官たちは、先に挙げたような人口に膾炙されたイメージとは一風異なる魅力的な人物ばかりである。取り上げられているのは、ハロルド・ニコルソン、E・H・カー、ダフ・クーパー、アイザイア・バーリン、オリヴァー・フランクスの5人である。この魅力的な5人の外交官を、ストレイチーによって確立された「複数の人物を並べて論じる」評伝として描き出すことによって、本書は外交の本質に迫っている。
著者は、本書のプロローグで第二次大戦後のイギリスの外務大臣であるアーネスト・ベヴィンの言葉を引いて、外交の本質を説明している。少し長いが引用する。
「対外政策とは、何か偉大なものであるとか、大きな存在であるということはないのだ。それは、自分自身の問題にも関係するような、あるいはあなた自身の問題にも関係しているような、良識(コモン・センス)や人間性の上に成り立っているのだ」(本書6頁)
このベヴィンの言葉に本書のメッセージが託されているのではないだろうか。外交とは何も特別なことではない、あくまで人間性に基礎をおいた交渉なのである。しかし、著者も断っているように、本書で取り上げられている5人は「異端」の外交官たちである。ニコルソン、カー、クーパーは、外務省をそのキャリアの出発点としながらも、道半ばにして外務省を辞し、新たなキャリアをスタートさせた。バーリン、フランクスは学者であったが、第二次世界大戦という時代の要請によって外交に携わることになった。このような「異端」の外交官たちを描くことは、外交とは何も特別なことではなく人間性を基礎においた交渉である、という上記のベヴィンの言葉とは矛盾していると感じるかもしれない。この点について、本書はあえて「異端」の外交官を描くことによって外交を若干の距離をもって描くことに成功しているとはいえないだろうか。本書で取り上げている5人は、共にイギリス外交に対して大きな貢献をしたが、外交についてある種の距離感を持っていた。さらに5人は共に、魅力的な文章を残したヒューマニティー(人間性、人文学の素養…etc.)溢れる人物でもあった。この距離感とヒューマニティーがある5人を描くことによって、外交をある程度相対化して考えることが可能になる。
著者は、本書を学術書ではなく「一般向けの読み物」として執筆したというが、納得の分かりやすさと面白さであり、読者は引き入れられるように一気に読み終えるだろう。評伝という形式は、人物を論じることによって背景にある歴史そのものも論じることになるのだが、本書にもその形式の利点は大いに生かされている。また、それぞれの人物がほぼ活躍した時代の順に並べられていることから、旧外交から新外交へと移り変わる時代が見事に描き出されている。
あえて本書の難点を挙げるとすれば、それは「バランス」だろうか。ニコルソンについては「旧外交→新外交」という本書のテーマに重なるからか、かなりの紙幅が割かれている。一方、バーリン、フランクスについては哲学者時代が描かれないこともありやや尻切れトンボの印象がある。もっとも、限られた紙幅の中で5人を描いていることを考えればこれは望みすぎというものだろう。
バランス、面白さという点ではクーパーの章が出色だろう。アンソニー・イーデンと共にチャーチルの腹心として第二次大戦時に活躍したクーパーだが、イーデンとは対照的に駐仏大使を最後に政治の一線から退く。それは、クーパーならではの決断であった。このようなクーパーの生き方は、晩節を汚さないという点で美しいが、イーデンの1950年代前半の成功を考えると若干勿体無くもある。クーパーについてはその生い立ちから外務省時代、政治家時代、シンガポール時代、そしてパリ時代、晩年と実にバランスよく描かれている。
一方、これまでのイメージを変えてくれる、という意味で面白いのがカーの章だ。抑えられた筆致ではあるが、カーの二元論的思考を著者は痛烈に批判しその限界を指摘している。『危機の二十年』『歴史とは何か』などの印象のみでカーを考えがちな日本人にとって、『新しい社会』の著者であるカーを強調する視点は新鮮だ。勿論、本書における筆者の人物評価には異論もあるだろう。確かにクーパーに対する筆者の評価は従来の研究と比べ相当程度「甘い」だろうし、逆にカーに対する評価はかなり「辛い」だろう。それならば、その異論と本書を読み比べることをお薦めしたい。
著者は『戦後国際秩序とイギリス外交』(創文社)でアーネスト・ベヴィン、『外交による平和』(有斐閣)でアンソニー・イーデン、という共に20世紀イギリスを代表する外交指導者を描いている。本書と併せて読むことによって、より立体的に外交を理解することが出来るだろう。
落ち着いてじっくり味わいたい一冊である。
2005年12月25日
忘年会?。
有馬記念、ディープインパクトの圧勝を期待するも残念な結果に。時計的に見れば、ハーツクライが強かったというよりは、明らかにディープインパクトの不発。ま、どちらにしても残念なことです。
有馬記念をテレビで見た後は、西洋外交史特殊研究?のレポートをやり、大崎の友人宅へ。ゼミの友人&後輩と共に忘年会?、いやクリスマスパーティーか(?)。友人の手料理と、持ち寄った酒で気分は最高です。
ほろ酔い気分で帰宅するが、何となく調子が悪い。そんな不調の中読み終えたのが↓
・野中広務『老兵は死なず』(文春文庫)
自民党元幹事長であり2003年政界引退後も積極的に発言を続ける野中広務の回顧録。本書は前著『私は闘う』に続き2冊目の回顧録である。橋本政権の誕生から議員引退までを扱っているが、文庫版では付章として、2005年の「郵政解散」についての見解が加えられている。回顧録といものは基本的に自己肯定的であるのだが、本書はその側面がさほど強くない。例えば北朝鮮問題や沖縄問題などについては自らの至らなかった点を率直に述べている。その他の点についても、自分を肯定するというよりはその思考プロセスや考え方を率直に回顧している印象だ。もう少し具体的に突っ込んだ話を読みたい、という気もするがそれは引退直後の議員に対して望みすぎというものだろう(単行本は議員引退直後の出版である)。この本から読み取れる野中氏の主張は、戦後日本における保守主義の典型といえよう。それは、平和主義、日米協調、地域間格差の解消(平等主義)、政治=利益調整、情と理に基づく政治などなど。このような考え方(のうちのいくつか)が小泉的なるものと対立したわけだ。小泉政治を考える上で「抵抗勢力」と擬せられた野中氏の考え方を知ることは必要不可欠である。その目的には十二分に応えてくれる回顧録である。
有馬記念をテレビで見た後は、西洋外交史特殊研究?のレポートをやり、大崎の友人宅へ。ゼミの友人&後輩と共に忘年会?、いやクリスマスパーティーか(?)。友人の手料理と、持ち寄った酒で気分は最高です。
ほろ酔い気分で帰宅するが、何となく調子が悪い。そんな不調の中読み終えたのが↓
・野中広務『老兵は死なず』(文春文庫)
自民党元幹事長であり2003年政界引退後も積極的に発言を続ける野中広務の回顧録。本書は前著『私は闘う』に続き2冊目の回顧録である。橋本政権の誕生から議員引退までを扱っているが、文庫版では付章として、2005年の「郵政解散」についての見解が加えられている。回顧録といものは基本的に自己肯定的であるのだが、本書はその側面がさほど強くない。例えば北朝鮮問題や沖縄問題などについては自らの至らなかった点を率直に述べている。その他の点についても、自分を肯定するというよりはその思考プロセスや考え方を率直に回顧している印象だ。もう少し具体的に突っ込んだ話を読みたい、という気もするがそれは引退直後の議員に対して望みすぎというものだろう(単行本は議員引退直後の出版である)。この本から読み取れる野中氏の主張は、戦後日本における保守主義の典型といえよう。それは、平和主義、日米協調、地域間格差の解消(平等主義)、政治=利益調整、情と理に基づく政治などなど。このような考え方(のうちのいくつか)が小泉的なるものと対立したわけだ。小泉政治を考える上で「抵抗勢力」と擬せられた野中氏の考え方を知ることは必要不可欠である。その目的には十二分に応えてくれる回顧録である。
2005年12月24日
2005年12月23日
忘年会?
久々の休日、というわけで多摩動物公園へ行ってきました。冬の動物園は木々も寒々としている。元気なのは、レッサーパンダみたいに高地に生息する動物のみ。まぁ、それはそれで悪くない。いい息抜きになった。
夜は今年2回目の忘年会…多分忘年会ではないけど、俺の中では忘年会。
で、帰宅後、卒論に取り掛かる。結局、完全な休日にはならなかった。年内にとりあえず草稿を書き上げたい。
◇
久しぶりに書評↓
・久江雅彦『米軍再編』(講談社現代新書)
9・11テロ以降、アメリカの安全保障政策が大きな変化を遂げたことは周知の通りである。対テロ戦争はその目に見える一例だが、長期的な意味で重要なのが米軍のトランスフォーメーションである。従来の重厚長大型の陸軍中心の米軍を、機動的なものに変革することがその目的である。このトランスフォーメーションの一環として、在日米軍の再編問題がある。本書はこの在日米軍再編問題を、その日米交渉の経緯を綿密に取材することによって明らかにしている。本書における筆者の日本政府評価は厳しい。アメリカ政府にとって、在日米軍の再編は世界代のトランスフォーメーションの一環であり、戦略上の考慮に基づいたものであった。しかし、日本側はこの問題を基地問題として捉えゼロサムで負担を押し付けあう問題として対応してしまった。このような経緯を綿密な取材によって本書は描き出している。米軍再編問題は現在進行形の問題であり、本書はこの問題を考える際の一助となるだろう。
ふと思い出したので、新聞書評紹介。これは読んでみたい、と思わせる書評。今学期は久しぶりに比較政治学の勉強もしたので、卒論が一段落したら読もうと思う。
・ベネディクト・アンダーソン『比較の亡霊』…「読売新聞」
夜は今年2回目の忘年会…多分忘年会ではないけど、俺の中では忘年会。
で、帰宅後、卒論に取り掛かる。結局、完全な休日にはならなかった。年内にとりあえず草稿を書き上げたい。
◇
久しぶりに書評↓
・久江雅彦『米軍再編』(講談社現代新書)
9・11テロ以降、アメリカの安全保障政策が大きな変化を遂げたことは周知の通りである。対テロ戦争はその目に見える一例だが、長期的な意味で重要なのが米軍のトランスフォーメーションである。従来の重厚長大型の陸軍中心の米軍を、機動的なものに変革することがその目的である。このトランスフォーメーションの一環として、在日米軍の再編問題がある。本書はこの在日米軍再編問題を、その日米交渉の経緯を綿密に取材することによって明らかにしている。本書における筆者の日本政府評価は厳しい。アメリカ政府にとって、在日米軍の再編は世界代のトランスフォーメーションの一環であり、戦略上の考慮に基づいたものであった。しかし、日本側はこの問題を基地問題として捉えゼロサムで負担を押し付けあう問題として対応してしまった。このような経緯を綿密な取材によって本書は描き出している。米軍再編問題は現在進行形の問題であり、本書はこの問題を考える際の一助となるだろう。
ふと思い出したので、新聞書評紹介。これは読んでみたい、と思わせる書評。今学期は久しぶりに比較政治学の勉強もしたので、卒論が一段落したら読もうと思う。
・ベネディクト・アンダーソン『比較の亡霊』…「読売新聞」
2005年12月22日
冬至。
今期だけで何回目になるのだろうか、大崎から三田へ。
2限、西洋外交史特殊研究?。以前、ブログでも書評した山田文比古『フランスの外交力』が課題書。細かい内容から大きな問題まで、幅広く議論があった。俺のコメントをまとめれば「フランスは相当の覚悟、裏づけを持って自主外交をしているが、自主外交を目的にするという外交戦略は理解できない」ということになるのだろうか。ただ、このフランス外交評価は、「シラクの対イラク政策の評価」に引きずられすぎているような気もする。もっと広く歴史的にフランス外交を評価すれば、また違うことになるんだろう。
それにしても、朝から調子が悪い、二日酔いなのか、それとも風邪なのか。フランス外交についても、もう少し頭が冴えている時に考えることにしよう。
4限、日本外交史特殊研究?。97年度の年報政治学『危機の日本外交 70年代』の中から、添谷芳秀「1970年代の米中関係と日本外交」・中西寛「総合安全保障の文脈」・河野康子「日本外交と地域主義」の3本を取り上げた。友人が興味深い問題提起をしてくれたのだが、調子がいまいちで頭が回らず。友人に申し訳ない。
最近、研究テーマを少し前の時代に移そうかな、と考えているわけだけど、70年代の日本外交を将来的にはちゃんと研究したい。というわけで、今回の3本の論文についてはもっとしっかりコメントをしたかった。これももう少し頭が冴えてから…。
結局、風邪気味だったようで、外国語学校をさぼり帰宅。ん~、今日はかなり時間を無駄にしてしまった。
2限、西洋外交史特殊研究?。以前、ブログでも書評した山田文比古『フランスの外交力』が課題書。細かい内容から大きな問題まで、幅広く議論があった。俺のコメントをまとめれば「フランスは相当の覚悟、裏づけを持って自主外交をしているが、自主外交を目的にするという外交戦略は理解できない」ということになるのだろうか。ただ、このフランス外交評価は、「シラクの対イラク政策の評価」に引きずられすぎているような気もする。もっと広く歴史的にフランス外交を評価すれば、また違うことになるんだろう。
それにしても、朝から調子が悪い、二日酔いなのか、それとも風邪なのか。フランス外交についても、もう少し頭が冴えている時に考えることにしよう。
4限、日本外交史特殊研究?。97年度の年報政治学『危機の日本外交 70年代』の中から、添谷芳秀「1970年代の米中関係と日本外交」・中西寛「総合安全保障の文脈」・河野康子「日本外交と地域主義」の3本を取り上げた。友人が興味深い問題提起をしてくれたのだが、調子がいまいちで頭が回らず。友人に申し訳ない。
最近、研究テーマを少し前の時代に移そうかな、と考えているわけだけど、70年代の日本外交を将来的にはちゃんと研究したい。というわけで、今回の3本の論文についてはもっとしっかりコメントをしたかった。これももう少し頭が冴えてから…。
結局、風邪気味だったようで、外国語学校をさぼり帰宅。ん~、今日はかなり時間を無駄にしてしまった。
2005年12月21日
忘年会?
2限、政治哲学?。テーマは「戦争責任」。ヤスパースの『罪責論』、ワイツゼッカーの「荒れ野の40年演説」を引きつつ授業。自分で漠然と考えていた戦争責任論について、今日の授業でうまく整理された気がする。中でもワイツゼッカー演説の次の部分(先生のHP、2003年度政治哲学?講義録より転載)には強く同意。
・民族Volk全体に罪Schuldがあるとかないとかいうことはありえません。罪があるにせよ、ないにせよ、それは集団の問題ではなく、個人の問題です。
・彼ら(若者)は、前の世代から重い遺産を受け継いでいるのです。われわれはすべて、罪Schuldがあろうとなかろうと、老人であろうと若者であろうと、過去を引き受けなければなりません。われわれはすべて、過去のもたらした結果にかかわらず、それについて責任Haftungを負わされているのです。
先週、出席を兼ねた授業内アンケート(日本の戦争責任についてどう考えるか、といった質問)に自分が書いた内容を整理するとかなりワイツゼッカー演説に近いものになる。多分、先生がどこかで話していたことを無意識に覚えていたのだろうが…。不勉強ゆえワイツゼッカー演説をちゃんと学んでいなかったのが悔やまれる。
4・5・6限、今年最後のゼミ。4・5限は卒論発表、6限は昨年に続きロバート・イマーマン氏をゲストスピーカーに招聘しアメリカ外交についてディスカッション。英語を交えつつの講演、質疑応答。自分の英語力より、当然ながら講師の日本語力が高いので俺は日本語で質問。ディスカッション内容は多岐に渡るので省略。久しぶりに現代の国際政治について考えることが出来たので、いい時間だった。
その後はゼミの忘年会。いよいよ忘年会シーズンに突入。飲み会後、またまた大崎へ。
・民族Volk全体に罪Schuldがあるとかないとかいうことはありえません。罪があるにせよ、ないにせよ、それは集団の問題ではなく、個人の問題です。
・彼ら(若者)は、前の世代から重い遺産を受け継いでいるのです。われわれはすべて、罪Schuldがあろうとなかろうと、老人であろうと若者であろうと、過去を引き受けなければなりません。われわれはすべて、過去のもたらした結果にかかわらず、それについて責任Haftungを負わされているのです。
先週、出席を兼ねた授業内アンケート(日本の戦争責任についてどう考えるか、といった質問)に自分が書いた内容を整理するとかなりワイツゼッカー演説に近いものになる。多分、先生がどこかで話していたことを無意識に覚えていたのだろうが…。不勉強ゆえワイツゼッカー演説をちゃんと学んでいなかったのが悔やまれる。
4・5・6限、今年最後のゼミ。4・5限は卒論発表、6限は昨年に続きロバート・イマーマン氏をゲストスピーカーに招聘しアメリカ外交についてディスカッション。英語を交えつつの講演、質疑応答。自分の英語力より、当然ながら講師の日本語力が高いので俺は日本語で質問。ディスカッション内容は多岐に渡るので省略。久しぶりに現代の国際政治について考えることが出来たので、いい時間だった。
その後はゼミの忘年会。いよいよ忘年会シーズンに突入。飲み会後、またまた大崎へ。
2005年12月20日
2005年12月19日
現代ロシア論特殊研究?発表。
3限、現代ロシア論特殊研究?。今日は、ここ2週間ほどの懸案だった発表。第二次世界大戦前夜である1939年の国際関係について、ヨーロッパと東アジアの連関に注目しつつ整理することが目的。かなり込み入った話なので、興味のある人がいたら直接聞いてください(あんまりいないだろうけど)。
内容を要約するのも面倒なので下にレジュメをコピペしときます。
※発表では細かい話を色々したけどレジュメには反映されてません。
今回はかなり色々な文献を読み込んだけど…ひと言で表すなら「玉石混交」。重要な文献は、D・C・ワット、アントニー・ベスト、アルヴィン・クックス、三谷太一郎、佐々木雄太、三宅正樹あたりだろうか。一部はレジュメの参考文献のところに挙げてあるので興味があればどーぞ。
今回の発表の大きな「穴」になっているのは中国。これは中途半端にしか調べることが出来なかったということもあるが、今回はヨーロッパ要因を使って東アジアの現象を説明することが目的だったという意味もある。その目的はある程度達成できたと思うが、先生のコメント「ヨーロッパの研究を参照することによって、何が言えて、何が言えないかを見極めなければいけない」ということの意味が、両肩にのしかかってくる。まぁ、具体的な研究を進める入り口に立って地図は手に入れた、というのが今日の発表の意味になるのかな。
問題は、卒論で冷戦終結期を扱うから当分戦前の研究をやる暇が無いということ。←大問題
◇
【問題意識】
第二次世界大戦前夜は、ヨーロッパ情勢と極東情勢が密接に結びついた時代であった。本報告では、密接に結びついた1939年を中心にヨーロッパ情勢と極東情勢を整理することによって、1941年12月の日米戦に帰結する東アジアの国際関係を理解する一助とすることを目的とする。具体的には、日本の日中戦争収拾方針の変遷を軸に、その変遷とヨーロッパ情勢の連関を中心に検討を行う。
※紙幅、発表時間の都合もありヨーロッパ情勢にはあまり詳しく触れることが出来ない。この点については質疑応答で対応したい。
【資料】
□年表
1937年 7月 盧溝橋事件(日中戦争勃発)
8月 中ソ不可侵条約締結
1938年 9月 ミュンヘン会談
1939年 3月 ドイツ、ボヘミア・モラヴィアを併合
5月 ノモンハン事件(8月まで徐々に戦闘の規模拡大)
独伊、「鋼鉄同盟」締結
6月 日英、天津危機(4月の事件をきっかけに日本軍が天津租界封鎖を計画)
7月 アメリカ、日米通商航海条約破棄を通告
8月 独ソ不可侵条約締結
9月 ドイツ、ポーランドを攻撃
英仏、ドイツに宣戦布告(第二次世界大戦勃発)
ソ連、ポーランドを攻撃
11月 ソ連、フィンランドを攻撃
1940年 5月 ドイツ、フランスを占領(ダンケルクの撤退)
9月 日独伊三国同盟締結
11月 日華基本条約締結
1941年 4月 日ソ中立条約締結
6月 バルバロッサ作戦(独ソ戦勃発)
7月 日本、南部仏印進駐
8月 米英、大西洋憲章発表
11月 アメリカ、ハルノートを提示
12月 日本、真珠湾攻撃(日米戦争勃発、アメリカ参戦)
□各国の目標
・日本(現状打破勢力):満洲国を含む中国東北部の権益の確保→支那事変の収拾
・ソ連(現状打破勢力?):二正面作戦の回避→極東の軍事力強化&西側での提携相手(英仏or独)の模索
・ドイツ(現状打破勢力):勢力圏の拡大→提携相手(日英ソ伊など)を模索
・イギリス(現状維持勢力):帝国防衛→宥和&抑止政策の組み合わせ
・アメリカ(現状維持勢力):日独の権益拡大阻止→国民世論の「教育」
【本論】
■日中戦争(支那事変)への対応
日本側(とくに軍部)における、日中戦争の根本原因は国民政府の背後にあると想定されたコミンテルンとソ連の極東における「赤化政策」に求められる。ここからも分かるように、当初、日中戦争の先にあるものは日英米戦争ではなく、日ソ戦争だと考えられていた。(三谷[1984])
・日本の収拾策(三谷[1984])
?日独伊枢軸強化により、その後にくる対ソ戦に対処するだけでなく、日中戦争の早期終結にとって不可欠なイギリスの妥協を引き出す。
?枢軸強化と並行して、(英米可分説に立って)対米工作を進める。
・ソ連の対応
→日中間の提携を避けるために中国を支援する(1937年8月には中ソ不可侵条約締結)と同時に、極東の軍事力強化に努める。対中援助は1938年4月~7月までがピークであり、これは日本の陸軍が枢軸強化の動きが1938年7月から活性化したこととも符合する。(三宅[1982])
・イギリスの対応(ベスト[1997])
→当初は英米協力を模索するがアメリカ側の積極的な対応は得られず。さらに対応策をめぐり、強攻策を主張する外務省と宥和を支持する首相が対立する。最終的に具体的な中国援助が決定されたのは1939年2月のことであるが、翌月には日本軍がスプラトリー諸島に進軍するなど、結局対日抑止政策は失敗。
・アメリカの対応(細谷[1998])
→「パネー号」事件などもあり、在華権益が侵害される事件が頻発したことによりアメリカの対日態度は次第に硬化する。繰り返し抗議の意思表示を行うが、日本の軍事行動面ではほとんど抑制効果を上げず。結局、日米通商航海条約や1936年中立法の建前もあり、有効な対処は出来ず。
以上の対応は、天津危機や独ソ不可侵条約の締結と第二次世界大戦の勃発により大幅な修正が迫られることになる(後述)。
■ミュンヘン会談とその後(同盟再編成の模索)
1938年には5月と9月の2度のチェコ危機を経て、英独仏伊の4カ国がミュンヘンで会談。結果、ドイツはチェコのズテーテンラントを得る。
◇各国の対応(ワット[1995]、斎藤[1995]、ベスト[1997])
・イギリス:ミュンヘンでの宥和の裏で再軍備に努める。
・ドイツ:ミュンヘン後も勢力圏の拡大を目指す。
・ソ連:ミュンヘンに呼ばれなかったことに衝撃を受け、従来の集団安全保障戦略を転換。翌年4月にはリトヴィノフからモロトフへ外相が交代
・日本:ミュンヘンでの英仏の宥和に勇気付けられ翌10月に広東占領作戦を実施、さらに11月には近衛首相が「東亜新秩序」声明を出した。
■ノモンハン事件(日ソ対立)
1938年の張鼓峰事件に続き、1939年5月には満蒙国境のノモンハンで武力衝突が勃発する。徐々に戦火は拡大していく。ソ連は事態を重く見て、6月にジューコフを現場に送る。ゾルゲから日独交渉の経緯の報告を受けていたソ連は、ノモンハン事件を局地戦に終わらせる決意であったのだろう。8月20日には大規模な戦闘になり、日本軍は敗北(※純粋な兵力的被害という点ではソ連側も甚大であったという説もあるが、その後の対応などを検討すれば、軍事戦略的にはこの事件が日本軍の敗北であることは明らかであろう)。
第二次大戦勃発後の9月15日、ノモンハン事件についての停戦協定が日ソ間で成立する。
■天津危機(日英米対立)
1939年4月に中国海関の親日派の官吏が中国人ゲリラに殺害された。この事件の処理をめぐって日英は対立。6月半ばに日本軍が天津租界封鎖計画を発表したことにより、日英間で交渉による解決が目指されることになった。しかし、ヨーロッパの状況は、極東における危機の拡大ではなく緊張緩和を求めていた。結果、天津危機の処理過程でイギリスは日本に対して譲歩を重ねた。7月22日に結ばれた有田=クレーギー協定は、日本の現状を追認したもの、と各国に受け取られた。(佐々木[1987])
イギリスの一方的な対日譲歩に危機感を抱いたアメリカは、7月26日に日米通商航海条約の破棄を通告。これにより、日本は日中戦争をめぐる従来の対米政策の根本的な修正を迫られることになった(=日本の日中戦争収拾方針?の破綻)。以後、日本の対米外交の目標は無条約状態の回避におかれることになる。(細谷[1988])
■独ソ不可侵条約(同盟再編成の帰結)
1939年4月から、ソ連は提携を求める英仏との会談が始まった。一方、その裏でソ連はドイツとも交渉を行う。約3ヶ月の交渉の結果、結局ソ連はドイツとの提携を選択(8月半ばに決断?)。8月23日、独ソ不可侵条約が締結される。
※この交渉過程にノモンハン事件は影響を与えていたか?
→長期的な意味ではイエスだが、短期的にはノーではないか。
独ソ不可侵条約締結によって、日本では平沼騏一郎内閣が総辞職。同時に、枢軸強化という日本の従来の政策も修正を迫られることになった=日本の日中戦争収拾方針?の破綻
■第二次世界大戦勃発
独ソ不可侵条約によって、ソ連と結んだドイツは9月1日にポーランドを攻撃。9月3日、英仏はドイツへ宣戦布告(※ドイツから宣戦布告をしたわけではないということは興味深い)。もっともその後半年にわたって西ヨーロッパで実際の戦闘は起こらず。
ヨーロッパで大戦勃発によって、イギリスは対独勝利が第一義的な目的となった。翌年6月までの「奇妙な戦争(Phoney War)」の間は、日本に対して「限定的宥和政策(a policy of limited appeasement)」を採り、それ以降日独伊三国同盟の締結までは、徹底した対日宥和を行った。一方の日本も、独ソ不可侵条約締結や日米通商航海条約の破棄通告によって戦略の見直しを迫られており、危機状態の緩和に関心を持っていたため、第二次大戦勃発後、日本の真珠湾攻撃までは日英対立は抑制された。(Best[1995])
■まとめ
・イデオロギーが一時的に消えた時代
・現状維持勢力VS.現状打破勢力に収斂
・選択肢の幅を検討する必要
【主要参考文献】
□書籍
佐々木雄太『三〇年代イギリス外交戦略』(名古屋大学出版会、1987年)
細谷千博『両大戦間の日本外交』(岩波書店、1988年)
ドナルド・キャメロン・ワット『第二次世界大戦はこうして始まった』(上下巻、河出書房新社、1995年)
斎藤治子『独ソ不可侵条約』(新樹社、1995年)
Antony Best, Britain, Japan and Pearl Harbor: Avoiding War in East Asia, 1936-1941(London: Routledge, 1995)
□論文
中西治「一九三八-一九三九年のソ連外交」『国際政治』(第72号、1982年)
三宅正樹「ヨーロッパ諸列強の動向と日本」『国際政治』(第72号、1982年)
ピーター・ロウ「イギリスとアジアにおける戦争の開幕」細谷千博・編『日英関係史 一九一七~一九四九』(東京大学出版会、1982年)
三谷太一郎「独ソ不可侵条約下の日中戦争外交」入江昭、有賀貞・編『戦間期の日本外交』(東京大学出版会、1984年)
波多野澄雄「独ソ不可侵条約と日本・ドイツ」『軍事史学』(第25巻、第3・4号、1990年)
アルヴィン・D・クックス「戦われざる日ソ戦」『軍事史学』(第25巻、第3・4号、1990年)
ゲルハルト・クレープス「ドイツ・ポーランド危機(一九三八~一九三九年)に対する日本の調停」『軍事史学』(第25巻、第3・4号、1990年)
駒村哲「ノモンハン事件と独ソ不可侵条約締結」『ロシア史研究』(第53号、1995年)
アントニー・ベスト「日中戦争と日英関係」『軍事史学』(第33巻2・3号、1997年)
内容を要約するのも面倒なので下にレジュメをコピペしときます。
※発表では細かい話を色々したけどレジュメには反映されてません。
今回はかなり色々な文献を読み込んだけど…ひと言で表すなら「玉石混交」。重要な文献は、D・C・ワット、アントニー・ベスト、アルヴィン・クックス、三谷太一郎、佐々木雄太、三宅正樹あたりだろうか。一部はレジュメの参考文献のところに挙げてあるので興味があればどーぞ。
今回の発表の大きな「穴」になっているのは中国。これは中途半端にしか調べることが出来なかったということもあるが、今回はヨーロッパ要因を使って東アジアの現象を説明することが目的だったという意味もある。その目的はある程度達成できたと思うが、先生のコメント「ヨーロッパの研究を参照することによって、何が言えて、何が言えないかを見極めなければいけない」ということの意味が、両肩にのしかかってくる。まぁ、具体的な研究を進める入り口に立って地図は手に入れた、というのが今日の発表の意味になるのかな。
問題は、卒論で冷戦終結期を扱うから当分戦前の研究をやる暇が無いということ。←大問題
◇
第二次世界大戦前夜の国際関係
~極東とヨーロッパの連関に注目して~
~極東とヨーロッパの連関に注目して~
【問題意識】
第二次世界大戦前夜は、ヨーロッパ情勢と極東情勢が密接に結びついた時代であった。本報告では、密接に結びついた1939年を中心にヨーロッパ情勢と極東情勢を整理することによって、1941年12月の日米戦に帰結する東アジアの国際関係を理解する一助とすることを目的とする。具体的には、日本の日中戦争収拾方針の変遷を軸に、その変遷とヨーロッパ情勢の連関を中心に検討を行う。
※紙幅、発表時間の都合もありヨーロッパ情勢にはあまり詳しく触れることが出来ない。この点については質疑応答で対応したい。
【資料】
□年表
1937年 7月 盧溝橋事件(日中戦争勃発)
8月 中ソ不可侵条約締結
1938年 9月 ミュンヘン会談
1939年 3月 ドイツ、ボヘミア・モラヴィアを併合
5月 ノモンハン事件(8月まで徐々に戦闘の規模拡大)
独伊、「鋼鉄同盟」締結
6月 日英、天津危機(4月の事件をきっかけに日本軍が天津租界封鎖を計画)
7月 アメリカ、日米通商航海条約破棄を通告
8月 独ソ不可侵条約締結
9月 ドイツ、ポーランドを攻撃
英仏、ドイツに宣戦布告(第二次世界大戦勃発)
ソ連、ポーランドを攻撃
11月 ソ連、フィンランドを攻撃
1940年 5月 ドイツ、フランスを占領(ダンケルクの撤退)
9月 日独伊三国同盟締結
11月 日華基本条約締結
1941年 4月 日ソ中立条約締結
6月 バルバロッサ作戦(独ソ戦勃発)
7月 日本、南部仏印進駐
8月 米英、大西洋憲章発表
11月 アメリカ、ハルノートを提示
12月 日本、真珠湾攻撃(日米戦争勃発、アメリカ参戦)
□各国の目標
・日本(現状打破勢力):満洲国を含む中国東北部の権益の確保→支那事変の収拾
・ソ連(現状打破勢力?):二正面作戦の回避→極東の軍事力強化&西側での提携相手(英仏or独)の模索
・ドイツ(現状打破勢力):勢力圏の拡大→提携相手(日英ソ伊など)を模索
・イギリス(現状維持勢力):帝国防衛→宥和&抑止政策の組み合わせ
・アメリカ(現状維持勢力):日独の権益拡大阻止→国民世論の「教育」
【本論】
■日中戦争(支那事変)への対応
日本側(とくに軍部)における、日中戦争の根本原因は国民政府の背後にあると想定されたコミンテルンとソ連の極東における「赤化政策」に求められる。ここからも分かるように、当初、日中戦争の先にあるものは日英米戦争ではなく、日ソ戦争だと考えられていた。(三谷[1984])
・日本の収拾策(三谷[1984])
?日独伊枢軸強化により、その後にくる対ソ戦に対処するだけでなく、日中戦争の早期終結にとって不可欠なイギリスの妥協を引き出す。
?枢軸強化と並行して、(英米可分説に立って)対米工作を進める。
・ソ連の対応
→日中間の提携を避けるために中国を支援する(1937年8月には中ソ不可侵条約締結)と同時に、極東の軍事力強化に努める。対中援助は1938年4月~7月までがピークであり、これは日本の陸軍が枢軸強化の動きが1938年7月から活性化したこととも符合する。(三宅[1982])
・イギリスの対応(ベスト[1997])
→当初は英米協力を模索するがアメリカ側の積極的な対応は得られず。さらに対応策をめぐり、強攻策を主張する外務省と宥和を支持する首相が対立する。最終的に具体的な中国援助が決定されたのは1939年2月のことであるが、翌月には日本軍がスプラトリー諸島に進軍するなど、結局対日抑止政策は失敗。
・アメリカの対応(細谷[1998])
→「パネー号」事件などもあり、在華権益が侵害される事件が頻発したことによりアメリカの対日態度は次第に硬化する。繰り返し抗議の意思表示を行うが、日本の軍事行動面ではほとんど抑制効果を上げず。結局、日米通商航海条約や1936年中立法の建前もあり、有効な対処は出来ず。
以上の対応は、天津危機や独ソ不可侵条約の締結と第二次世界大戦の勃発により大幅な修正が迫られることになる(後述)。
■ミュンヘン会談とその後(同盟再編成の模索)
1938年には5月と9月の2度のチェコ危機を経て、英独仏伊の4カ国がミュンヘンで会談。結果、ドイツはチェコのズテーテンラントを得る。
◇各国の対応(ワット[1995]、斎藤[1995]、ベスト[1997])
・イギリス:ミュンヘンでの宥和の裏で再軍備に努める。
・ドイツ:ミュンヘン後も勢力圏の拡大を目指す。
・ソ連:ミュンヘンに呼ばれなかったことに衝撃を受け、従来の集団安全保障戦略を転換。翌年4月にはリトヴィノフからモロトフへ外相が交代
・日本:ミュンヘンでの英仏の宥和に勇気付けられ翌10月に広東占領作戦を実施、さらに11月には近衛首相が「東亜新秩序」声明を出した。
■ノモンハン事件(日ソ対立)
1938年の張鼓峰事件に続き、1939年5月には満蒙国境のノモンハンで武力衝突が勃発する。徐々に戦火は拡大していく。ソ連は事態を重く見て、6月にジューコフを現場に送る。ゾルゲから日独交渉の経緯の報告を受けていたソ連は、ノモンハン事件を局地戦に終わらせる決意であったのだろう。8月20日には大規模な戦闘になり、日本軍は敗北(※純粋な兵力的被害という点ではソ連側も甚大であったという説もあるが、その後の対応などを検討すれば、軍事戦略的にはこの事件が日本軍の敗北であることは明らかであろう)。
第二次大戦勃発後の9月15日、ノモンハン事件についての停戦協定が日ソ間で成立する。
■天津危機(日英米対立)
1939年4月に中国海関の親日派の官吏が中国人ゲリラに殺害された。この事件の処理をめぐって日英は対立。6月半ばに日本軍が天津租界封鎖計画を発表したことにより、日英間で交渉による解決が目指されることになった。しかし、ヨーロッパの状況は、極東における危機の拡大ではなく緊張緩和を求めていた。結果、天津危機の処理過程でイギリスは日本に対して譲歩を重ねた。7月22日に結ばれた有田=クレーギー協定は、日本の現状を追認したもの、と各国に受け取られた。(佐々木[1987])
イギリスの一方的な対日譲歩に危機感を抱いたアメリカは、7月26日に日米通商航海条約の破棄を通告。これにより、日本は日中戦争をめぐる従来の対米政策の根本的な修正を迫られることになった(=日本の日中戦争収拾方針?の破綻)。以後、日本の対米外交の目標は無条約状態の回避におかれることになる。(細谷[1988])
■独ソ不可侵条約(同盟再編成の帰結)
1939年4月から、ソ連は提携を求める英仏との会談が始まった。一方、その裏でソ連はドイツとも交渉を行う。約3ヶ月の交渉の結果、結局ソ連はドイツとの提携を選択(8月半ばに決断?)。8月23日、独ソ不可侵条約が締結される。
※この交渉過程にノモンハン事件は影響を与えていたか?
→長期的な意味ではイエスだが、短期的にはノーではないか。
独ソ不可侵条約締結によって、日本では平沼騏一郎内閣が総辞職。同時に、枢軸強化という日本の従来の政策も修正を迫られることになった=日本の日中戦争収拾方針?の破綻
■第二次世界大戦勃発
独ソ不可侵条約によって、ソ連と結んだドイツは9月1日にポーランドを攻撃。9月3日、英仏はドイツへ宣戦布告(※ドイツから宣戦布告をしたわけではないということは興味深い)。もっともその後半年にわたって西ヨーロッパで実際の戦闘は起こらず。
ヨーロッパで大戦勃発によって、イギリスは対独勝利が第一義的な目的となった。翌年6月までの「奇妙な戦争(Phoney War)」の間は、日本に対して「限定的宥和政策(a policy of limited appeasement)」を採り、それ以降日独伊三国同盟の締結までは、徹底した対日宥和を行った。一方の日本も、独ソ不可侵条約締結や日米通商航海条約の破棄通告によって戦略の見直しを迫られており、危機状態の緩和に関心を持っていたため、第二次大戦勃発後、日本の真珠湾攻撃までは日英対立は抑制された。(Best[1995])
■まとめ
・イデオロギーが一時的に消えた時代
・現状維持勢力VS.現状打破勢力に収斂
・選択肢の幅を検討する必要
【主要参考文献】
□書籍
佐々木雄太『三〇年代イギリス外交戦略』(名古屋大学出版会、1987年)
細谷千博『両大戦間の日本外交』(岩波書店、1988年)
ドナルド・キャメロン・ワット『第二次世界大戦はこうして始まった』(上下巻、河出書房新社、1995年)
斎藤治子『独ソ不可侵条約』(新樹社、1995年)
Antony Best, Britain, Japan and Pearl Harbor: Avoiding War in East Asia, 1936-1941(London: Routledge, 1995)
□論文
中西治「一九三八-一九三九年のソ連外交」『国際政治』(第72号、1982年)
三宅正樹「ヨーロッパ諸列強の動向と日本」『国際政治』(第72号、1982年)
ピーター・ロウ「イギリスとアジアにおける戦争の開幕」細谷千博・編『日英関係史 一九一七~一九四九』(東京大学出版会、1982年)
三谷太一郎「独ソ不可侵条約下の日中戦争外交」入江昭、有賀貞・編『戦間期の日本外交』(東京大学出版会、1984年)
波多野澄雄「独ソ不可侵条約と日本・ドイツ」『軍事史学』(第25巻、第3・4号、1990年)
アルヴィン・D・クックス「戦われざる日ソ戦」『軍事史学』(第25巻、第3・4号、1990年)
ゲルハルト・クレープス「ドイツ・ポーランド危機(一九三八~一九三九年)に対する日本の調停」『軍事史学』(第25巻、第3・4号、1990年)
駒村哲「ノモンハン事件と独ソ不可侵条約締結」『ロシア史研究』(第53号、1995年)
アントニー・ベスト「日中戦争と日英関係」『軍事史学』(第33巻2・3号、1997年)