2005年10月

2005年10月21日

宴。

午前中は金曜恒例の東大詣。ちょっと自転車を飛ばしたら、所要時間3分、近過ぎるぞ東大。今日のお題は「外国からやってきた国王と「首相」の誕生」、だんだんドラマのタイトルみたいになってきた。18世紀初頭のQueen Anneの時代から19世紀半ばのGeorge?の即位まで。毎回のことながら先生の話術に吸い込まれあっという間に授業は終了。国王と議会の支持を如何にして獲得するか、という当時のイギリス政治における問題を軸に授業は展開。

三田に移動して、3限、国際政治理論特殊研究?。今日はゲームの時間。ゲーム理論の実験(?)ということで、囚人のジレンマモデルを用いたゲームを行う。それで授業終了。来週、今週のゲーム結果の分析をTAの先生を解説してくれるらしい。

その後が今日の本番、酒。サークルの友人2人と三田にて夜の宴。性格も生い立ちも本や映画の趣味も俺と全く違う2人だが、いやそれだからこそだろうか、ほんと話していて楽しい。俺がひたすら話し、それを1人の友人が聞き、そしてもう1人は寝ている、という普通に考えればあまり面白くない情景なのだが、とても心地いい。将来の進路から現在の政治情勢までいろいろな話をした。友人とのこういった時間は大切にしていきたい。

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2005年10月20日

ぴんぴんしてる。

2限の西洋外交史特殊研究?が休講だったので、昼過ぎまで家でゆっくり過ごす。その後はいつもどおり4限に日本外交史特殊研究?、6限は外国語学校。

何をやっていたかといえば、急に松本大洋が読みたくなり『ピンポン』(全5巻、小学館)を一気に読破。松本大洋は一時はまって集めたのだけど読むのはほぼ一年ぶり。久しぶりに見るあの画が妙に懐かしい。難しいテーマをもってこなくても、スポーツや若者を描くことで様々なものが見えてくる…我々「タッチの会」の人間にとってはぴったりだ。『ピンポン』は大学1年の夏に、窪塚洋介がペコ、ARATAがスマイル、中村獅童がドラゴンというキャスト、んで脚本がクドカンで映画化(「ピンポン」)された。これが、漫画原作の映画としては珍しくいい出来。漫画の世界観を崩すことなく、変に内容を詰め込みすぎることなく、いいバランスを保ったまま2時間が一気に過ぎていく。あ~、見たいな映画。

4限、日本外交史特殊研究?。先週に引き続き、坂元一哉『日米同盟の絆』。発表が長かったため、これといった議論にはならず。先生の『日米同盟の絆』観のようなものが見られたのは収穫かな。第4章「安保改定の逆説」についての先生のコメントで、「安保改定によって憲法改正が難しくなった」のではなく「憲法改正出来ないからあのような安保改定になった」、というのにはなるほどと思わされた。

授業後、本日完投勝利をあげ軟式野球部を東日本大会出場へ導いた(拍手!)友人と、友人のゼミの後輩と軽く「昼食」をしながら話す。友人が帰った後はひたすら小説・映画・漫画の話。その後何も予定がなければ、飲みに行ってずっと話し続けてたかも。面白い後輩がまだまだたくさんいるんだな~。後輩お薦めの最近の日本映画は「阿修羅のごとく」、これは俺も超お薦め。確か向田邦子の話を書いたときに紹介した気もするけど、何度でも薦めます。日本映画好きな人は是非。

勉強は進まなかったけど、充実した1日。

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2005年10月19日

最近、ちょっと寒い。

ゼミが無い水曜というのも今日で3週目。2限に政治哲学?の授業があるので、ゼミが無くても大学へは午前中に行かなくてはならない。ここで帰れればそれはそれでいいのだが、6限に外国語学校の授業があるので帰ることも出来ない。ゼミの友達にもなかなか会う機会が無い。

そんなわけで、やや時間を持て余し気味の水曜日だったのだが、今日はゼミの3年生のサブゼミにお邪魔してきた。あ~、自分たちも一年前はこんな感じだったのかな、と思うと感慨深い。最初は「blue print」がテーマだったはずだったのだが、今は「戦後構築」がテーマになったらしい。が、どうも後輩の話を聞いていてその共通テーマの具体的なイメージが涌いてこない。実はサークルの状況も最近は同様らしい。共通テーマを決めて、その枠内で各自が個人論文は執筆するというのは、各々がそれぞれの興味関心を持って執筆内容を選ぶことが出来ることと、一定の共通性をもたせることによって他の人の論文に対して一定のコメントが出来るようにする、という意図があるわけだ。でも、いまいちそれが浸透していないような気がする。これはまあ去年の俺達も同じ様な気もするのだが。なんやかんや言いながら、去年の俺達と同じく戦間期を扱う人も多いらしく、どんな論文が出来上がってくるのか楽しみだ。「人民戦線」をテーマにする子がいるあたりもうちのゼミらしくていい。

そんなことより自分の卒論をどうにかしなければいけないのだが、これがなかなか…。大体やるべきことは分かっている。とりあえず、これからは冷戦終結前後について膨大な雑誌記事と格闘しなければならない。

今日の外国語学校の授業は「会話」。毎回スピーチの原稿を書いていかなければならない。やってみると難しいのだが、これがなかなかためになる。大体、中国語で言っていることは英語で説明出来るわけだし、それなりに自信もつく。半年後には少しくらいものになっていてくれればな~。

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2005年10月18日

だらだら。

3限、地域研究論特殊研究?。Samuel P. Hantington, The Third Wave, Chap.3 “How? Processes of Democratization” 、英語で50頁も読まされてちょっと苦労したが、本の内容自体は至極分かりやすい。民主化の移行過程をtransformation、replasement、transplasementの三類型に分類して説明している。授業での議論そのものは、この三類型を巡ってというよりは、ハンチントンの議論の背景にある問題意識というか前提を巡って行われた。要は、欧米流の民主化の是非について。この授業の前半は比較政治学における民主化論・政治体制論がテーマなのだが、議論の精緻化を行うのが目的ではなく、ここで示された枠組みを用いてどのように地域研究を行うか、という点にあるのだが、いまいちこれが受講者に認識されていないのではないかな~と漠然と感じた。何というか、議論の焦点があっちにいったりこっちにいったり、もう少し先生が議論の交通整理をしてくれればな~、と。

授業後、なんでかは分からないが、生協で『空中庭園』が目に付いたので購入、読み終えたらもう夕方。現代小説は軽い、という批判はよく耳にするけど、今を知るためにもやっぱり読む意味はある。というかそんなに理屈をこねなくても、単純に舞台が現代の小説を読みたくなることがたまにあるんだよね。だからといって女流作家ばかり読むのも問題だけど。う~ん、重松清の小説もそうなんだけど、家族がテーマの現代小説はまだ結婚していない人間にとっては読んでて複雑な気持ちになる。その点、昭和初期なんかが舞台の向田邦子なんかの方が、どろどろしてても自分にはあまり重ならないような気がする。もちろん、本質的には重なってくるわけだが。監督が問題起こして(というかクスリで捕まって)、単館上映に近くなってしまったけど映画の「空中庭園」を見に行こうかな~、ちょうど渋谷でやってるし。

ん~、なんかバイトして、授業に出て、小説を読んでとだらだらしていたら一日が終わってしまった。昨日とは対照的。まぁこういう日があってもいいかな。

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2005年10月17日

徳富蘇峰からいろいろと…。

後期に入ってから月曜日が楽しみだ。3限の特殊研究が楽しみ、というのが大きな理由だが、それ以外にも充実している気がする。朝から昼まではバイト(金を稼ぎ)、大学へ移動して特殊研究(知的に満たされ)、授業後は友人・後輩とお茶でもして(人とのコミュニケーションは大切)、その後は本を読んで(知識を仕入れ、そして磨く)、6時半からは外国語学校で中国語のリーディングの授業(語学力もアップ)。毎週いいリズムで過ごしている。外国語学校が無ければ、友人と「たけちゃん」で一杯出来るからそれだけが残念。

というわけで、3限、現代ロシア論特殊研究?。今日のテーマは「徳富蘇峰」…言わずと知れた戦前の日本を代表するジャーナリストだ。発表者はゼミの友人。徳富蘇峰の生涯・言論活動を追いつつ、戦前日本のナショナリズムの軌跡を追った発表。発表自体も面白かったし、その後の先生のコメントも興味深い。今日は先生の都合により、授業が50分で終了だったのだが、それが悔やまれる。徳富蘇峰は戦後日本のジャーナリズムにとって謂わば「反面教師」である。しかし「反面教師」としてのみ蘇峰を扱うことは出来ないのではないだろうか。何といっても蘇峰は、日清戦争前から「大東亜戦争」の敗戦までジャーナリズムの世界の第一線で活躍した人物である。ジャーナリズムの世界は、学問の世界のように真理の探求に努めていては生きてはいけない。その時々の時代の流れを読み、そして受け手である「大衆」に一定の評価をされなければ(売れなければ)、生きてはいけないのだ。つまり蘇峰は戦前の日本において売れ続けたジャーナリストであり、戦前日本社会のある種の「鏡」であったのだ。この点は、発表を聞いて先生が非常に強調していたことだ。この問題は現代でも重要なことだ。外交において世論は重要な役割を持っている(それは蘇峰が生きた時代も現在も同様だ)。その世論に受け入れられる「論理」を提供しなければ政治は動かない。例えば、対アジア外交において「謝り続ければいい」という論理で国民は納得するだろうか。否、だろう。そうであればどうすればいいのか。

もう1つ先生のコメント、戦後の日本(もしくは現在の日本)において蘇峰に匹敵するジャーナリストは誰か? ということ。先生は可能性のある一人として石原慎太郎を挙げていた。確かに1955年に『太陽の季節』でデビューして以来、彼の発言・主張は常に一定の影響力を持ち続けてきた。しかし、蘇峰と比較すると…。もちろん新聞の発行部数も桁違いであり、高度に大衆社会化が進んだ戦後日本を戦前とそのまま比較することは出来ないんだけど。面白い、そして興味深い問いかけだ。

ちなみに授業時の俺の質問の大意は以下のこと。蘇峰の言論はナショナリズムの顕れであった。その蘇峰のナショナリズムはアジアと西欧を対置し、最終的には日本はアジアに立脚していく、という主張になった。また立脚するべきアジアが「しっかり」していないことから、日本がアジアにおいて優越するということも当然とされた。このような蘇峰の言論活動は「ナショナリズムの隘路」(米原謙)と表現される。その蘇峰の議論で着目すべきは、アメリカとの対決の不可避性の指摘である。蘇峰は、日露戦争後に中国における主敵はロシアではなくアメリカ(とドイツ)であると指摘している。この指摘は後の歴史を見れば確かに当たっている。しかし、実際には日露戦争後も陸軍の仮想的はロシアであり、ロシアをターゲットに戦略を立てていた。その陸軍の主張に乗る形で日本は真珠湾攻撃を行う。これは、軍部における日米開戦派が陸軍でありながら、陸軍は実際の戦争はロシアと行うという仮定で動き、仮想的がアメリカであった海軍は日米開戦に消極的、という「ねじれ」を生んだ。ここで蘇峰の議論に戻る。蘇峰がジャーナリストとして、国民の「鏡」であったとすれば日本国民全体にこの「ねじれ」が存在したわけだ。この「ねじれ」をどう考えるべきなのか。※この議論は森山優「近衛新体制の形成と日米開戦」『国際問題』(2005年9月号)も参考にしてます。

発表およびその後のコメントの文脈に乗った質問なので分かりにくいと思うのだが、実はこの問題は俺の大学院での研究テーマとかなり密接に結びついた問題なのだ。結論から言えば、俺は日本が「アジアかアメリカか」という文脈で戦略を考えたことに誤りがあると考えている。この文脈に乗って陸軍も蘇峰もそれぞれの戦略を考えたのだ。実はこの枠組みは現在にも生きている。「アメリカ憎し」の裏返しとしてのアジア重視という声は今でもよく耳にする。これが誤りだ、と俺は考えている。この文脈+大国間政治から一歩引いたミドルパワーとしての戦後日本の外交路線という分析視角から、福田政権の「福田ドクトリン」や大平政権の「環太平洋構想」を分析してみるというのが、俺の研究テーマ。あ~、難しい。

徳富蘇峰に関する文献は山のようにあるが、入門には米原謙『徳富蘇峰』(中公新書)、ちょっとした応用には同じ著者の『近代日本のアイデンティティと政治』(ミネルヴァ書房)がお薦め。授業でも出たように、米原教授が扱っていない問題も沢山あるのだが、やはり入門には彼の本がもっとも適しているだろう。

読み終えました↓

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納富信留『哲学者の誕生』(ちくま新書)
プラトンなど古代の哲学の研究で知られる筆者によるソクラテス論。副題に「ソクラテスをめぐる人々」とあるように、本書はソクラテスそのものを取り上げるというよりは、ソクラテスをめぐってどのような議論が行われてきたのか、というところに主眼が置かれている。もっとも、ソクラテスが自身で著書を残さず、その議論がもっぱらプラトンやクセノポンの著作の中でのソクラテスを基にして行われていることを考えればこのような取り上げ方は至極当然ともいえる。当時のコンテクストに乗せて、プラトンやクセノポンの議論を考えなければ真のソクラテスの姿は見えてこないと筆者はいう。本書の最終章では、日本におけるソクラテス論を通じて「無知の知」という、人口に膾炙した用語の誤りを指摘している。「自分の無知を知る」ことではなく「自分が知らないという状態にあると(そのとおりに)考える」ことこそがソクラテス哲学の本質だと筆者は説く。「知る」ことと「考える」ことの違いの重要性について考えさせられる。ここまできてようやく筆者のソクラテス論の入り口にたどり着くといったところだろう。このように考えると、本書はソクラテスを論じる上でのスタート地点をもう一度考え直す、ということに目的があるのではないだろうか。

at 23:25|PermalinkComments(0)本の話 

2005年10月16日

気分転換(?)。

先週は1週間で3本映画を映画館で観たんだけど、今週は0、そろそろ映画が観たいなと。

というわけで今月4回目の映画館、「スクラップ・ヘブン」を観た。主演(?)は、オダギリ・ジョー、栗山千明、加瀬亮の3人。マンガが原作なのかな、と思わせる世界観、ん~でもなかなかこれで面白い。加瀬亮って誰だろ? と思って調べてみると、「69」とか「アカルイミライ」とかちょこちょこと出ているらしい。なかなか面白い雰囲気のある俳優だ。

やっぱ映画はいーわ。来週の日曜は六本木ヒルズにジェームズ・ディーンを観に行く予定。

納富信留『哲学者の誕生』(ちくま新書)を読み始めただけど素人には難しい。誰か読んだ人いたら教えて下さい。

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2005年10月15日

図書館うろうろ。

卒論の資料探しをしつつ図書館をうろうろ。途中から、卒論資料探しから寄り道に逸れていくのはいつものこと。気が付いたら今日は『レヴァイアサン』に掲載された書評論文をひたすらコピーしていた。『レヴァイアサン』というと“Political Sciense”というイメージがあったのだが、書評については伊藤之雄や酒井哲哉の興味深い書評が次々に見つかった。特に面白かったのは、竹中佳彦『日本政治史の中の知識人』と都築勉著『戦後日本の知識人』を取り上げている酒井哲哉「「戦後的なるもの」の形成」という書評論文。「戦後的なるもの」の起源を戦前に求めるということについて、明解な論旨で説明している。う~ん、今まで『レヴァイアサン』を忌避してきたことが悔やまれる。

ちなみに、卒論に関しては進んだような進んでいないような…このままいくと、なぜか政治思想史のようなアプローチで90年代前半の日本外交論を分析することになりそう。どうなることやら。

懲りずに回顧録、というかこれは趣味↓

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奥島貞雄『自民党幹事長室の30年』(中公文庫)
著者は自民党結党以来の職員であり、30年に渡って自民党幹事長室に勤めた。本書は筆者の「定点観測」を元にした自民党論であり、また1つの自民党裏面史でもある。第三者的に自分の経験を分析するといった類の本ではなく、あくまで筆者自身の主観的な評価を行うという点で本書は一貫している。筆者が、余人をおいて低い評価を下しているのが小沢一郎と梶山静六だ。小沢は自民党を割って出たかた、梶山には個人的に苛められたから、とも読めないこともないが、筆者は2人が「壊体屋」だから評価出来ないという。このような主観的人間評も本書の面白いところだろう。また、田中角栄が(本当は国産なのだが)ジョニ黒の水割りと言われ喜んで飲んでいたウィスキーを、金丸信は一なめして国産ウィスキーを水で割ったものだ言い当てたというような、細かなエピソードも多く読者を飽きさせない。全体を通して、年が下がると共に幹事長に対する評価は低くなっている。これは筆者の年齢が上がり幹事長を見る目が変わっていったからだろうか(筆者が仕えた幹事長は、初めは自分の親よりも年上であい、最後は自分よりも年下である)。それとも実際に幹事長の質は低下していったのだろうか。なかなか興味深い。

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2005年10月14日

野球、好きですか?

金曜ということで午前中は東大駒場キャンパスへ。自転車で家から第1校舎横へ向かう、ちょっと飛ばしたら、なんと所要時間3分。やっぱり慶應じゃなくて東大へ行くべきだったんだろうか(入れるかは全く別問題)。王室マニアであり君塚先生のおっかけである後輩(こう表現するとちょっとすごい感じだね、すいません)と前後で授業を受ける。

授業は今日から本格的にスタート。今日は「イギリス近代政治の形成」がテーマで、時代はテューダー朝の成立あたりから、ハノーヴァー朝の成立前まで。俺にとっては前提知識がほぼ無く、ステレオタイプ以上の認識が無いところなのだが(だからこそと言うべきかもしれないが)、先生の分かりやすい説明もあってかなり面白い。特にGlorious Revolution(名誉革命)は「はたしてGloriousなのか、そしてRevolutionなのか」といったあたりは面白かった。高校の世界史が1年間で大航海時代しかやらなかったのが悔やまれる(授業自体は面白かったのだけど、もっと色々勉強したかった)。来週以降も楽しみです。

授業終了後、三田へ。3限の国際政治理論特殊研究?に出席、先生のトークに2週連続で癒される。

その後は、友人と共に神宮球場で今季のセ・リーグ最終戦を観戦。スポーツはテレビで見るのも悪くないけど、やっぱり生で観るのは別物。テレビを見ているときは大体何か他のことをしながらになってしまうが、生なら他にやることがないからプレーに集中出来る。これは映画館で映画を観るのと同じかな。でも、今日はヤクルトの帽子を被って横浜ファンの写真を撮る外人さんに目を奪われ石井啄朗の先頭打者ホームランを見逃してしまった、何やってるんだろ。その後も「門倉おさえろ!」とか言ってるおばさんについつい目が行ってしまったり…言ってることそのものは南ちゃんと大して変わりないのにこの差は何だろう。ま、いずれにしても久々の野球観戦はなかなか面白かった。

そんなこんなで一日終了。なかなか充実していた。

そういえば、昨日の夜(日付は今日になってたな~)、11月に行われる「東アジア共通の家2005」というセミナー(?)に参加することにした。参加申し込みは今日までだし、三田祭と完全にかぶってるから慶應の学生はほぼ参加出来ないのでただの事後報告。募集定員が大学生&大学院生の100人、分科会は7つ、講師の先生が全ての分科会あわせて16人というのはかなり贅沢。コーディネーターは大学の先生が務めるというのもうれしいところだ。他大学の友人が何人か参加するということもあって、なかなか楽しみ。

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2005年10月13日

わくわく。

木曜、特殊研究+外国語学校。

2限、西洋外交史特殊研究?。担当決めでニコルソン『外交』の前半部分の討論者を担当することに。さぁ、どうしたものだろう。今日は先生の講義「外交とは何か」。外交そのものの話から「外交学(Diplomatic Studies)」をめぐる学問の話まで、幅広く。「外交学を普及させたい」という先生の熱意を強く感じる。参考文献として紹介されていた文献が非常に興味深い。特にGordon A. Craig, Francis L. Loewenheim, ed“The Diplomats 1939-1979”と細谷千博『日本外交の座標』の2冊はすぐに読んでみたい。英語で800頁も読めるわけないんだけど。

4限、日本外交史特殊研究?。坂元一哉『日米同盟の絆』の1週目。今週は第2章まで、ということで旧安保条約締結と漸増的な再軍備がテーマ。討論者が取り上げたのは「吉田=ダレス会談」、豊下楢彦の見解と対照させながら議論。以前、豊下楢彦『安保条約の成立』を読んだときに自分の頭の中で行ったことを、改めて議論したというという感じだ。とはいえ、坂元一哉の見解に真っ向から反対する人がいなかったので論争点が明確になるわけもなく、議論はややずれていった。来週も引き続き『日米同盟の絆』、今週は安保改定にはまだ入っていないので、来週は安保改定がテーマ。

来週もやるんだけどとりあえず書評↓

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坂元一哉『日米同盟の絆』(有斐閣)
本書は、サンフランシスコ講和と同時に結ばれた旧安保条約、その後の再軍備をめぐる日米交渉、日米安保改定、といった60年代の日米の安保条約をめぐる交渉に関する外交史研究である。まさに独立前後の日本の最重要課題の分析といえよう。一読すれば分かるように、本書は1次資料に基づいた歴史研究であり、資料の使い方には非常にこだわっている。現段階における最先端の研究であることは間違いない。ここでは、内容の紹介ではなく本書の通奏低音として流れる問題意識に注目したい。「安保条約と相互性の模索」という本書の副題にも表れている筆者の問題意識は、戦後日本がなぜ「ヒトと物の協力」というような不平等な安保関係を結ばなければいけなかったのか、というところにあるのではないだろうか。このような筆者の問題意識は堅実な歴史書である本書のところどころに顔を出してくる。それは第4章に分かりやすい形で表れている。第4章は、筆者が注で断っているように、従来の研究や既に公開された資料を基にしており、新たな資料を検討してこれまでの研究を超えるというものではなく、安保改定の評価に比重がおかれている。その評価は章題「安保改定の逆説―岸信介と安保改定」からも分かるように、岸の意図と実際の結果の「逆説」を指摘するものとなっている。具体的には、「安保条約を改定することをステップに後の憲法改正に繋げようという岸の意図が、安保改定によって国民の間に一定の満足感が得られたことによって、憲法改正の気運が低下していった」ということである。この筆者の問題意識は、例えば添谷芳秀『日本の「ミドルパワー」外交』とは異なる。この点をどう評価するか、という点で日本外交史としてではなく、日本外交論としての本書の評価は変わってくるのではないだろうか。ちなみに秋山昌廣は『日米の戦略対話が始まった』(亜紀書房)において、本書についてまず評価したうえで、日本外交論として批判をしている(この点は7月17日の記事でも若干取り上げた)。

ちなみに、以上の書評は授業での話を参考にしてます。サントリー学芸賞受賞時の北岡伸一の講評も参考までに。

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2005年10月12日

外国語学習。

自己分析をしてみると、俺は慶應の付属校教育の長所と短所を見事に吸収してしまったように思う。長所は、レポートなどのように自分から問題設定をして調べることに対する抵抗感が全くないこと、文章を書く習慣が付いていること、歴史や文学にとどまらず知的好奇心が強いこと、などだろうか。短所は言うまでもなく語学。俺にとっては第一外国語は無い。第二外国語が英語、第三外国語が中国語だ。なぜなら両方とも大学入ってから勉強を始めたから。

そんなわけで語学には苦労している。英語は必要だと思ったのは大学2年、始めたのはほぼ大学三年になるくらい。大学院への進学が決まった最近になってようやくリーディングは少しだけ出来るようになった。中国語は1年の時にオールCをたたき出し、2年は少し勉強、3年は全くやらず、4年になってから外国語学校でまた始めた。そういうわけで、今頃になって毎週3回外国語学校で中国語の勉強に追われている。今期からは会話の授業が増えたため、スピーチの原稿を作ったり、即興で話したりしなければいけなくなったのだけど、いいことが1つ。中国語で会話の勉強をしていると英語はものすごく簡単に思える。実際、中国語で詰まっても同じことを英語なら説明できる。う~ん、素晴らしい効果。この勢いで英会話に挑戦しようかな、と夢想してしまう。

語学はtoolというのは指導教授の口癖だが(トゥールって発音してる)、本当にそう思う。それだけになかなか学習意欲が湧いてこない。周りを見回すと比較的女の子の方が語学学習には積極的な気がするんだけどなんでだろ。どうしたら語学学習の意欲が湧くのか教えてほしい。最近英語の勉強は少しだけ楽しくなってきたけど、やっぱり日本語で面白い本を読んでる方がよっぽど楽しい。小説なら学術書ほど頭を使わないから尚いい。

あ~、語学勉強してると頭が痛くなってくる。久々にサッカーを観て頭休めて寝ます。

at 22:59|PermalinkComments(2)エッセイ風