2005年06月
2005年06月10日
六月病(?)。
最近、授業があまり面白くないような気がする…これが巷で言うところの五月病なんだろうか。
そんなことを後輩と話しつつ5限の戦後日本政治史に向かうが、休講。萎えました。仕方がないので、まず英語をやって、授業をBGMに読もうと買った本を読むことにした。ま、その本っていうのが問題で、多分普通の大学生は買わないだろうなぁ、ていう本。一応書評しておきます。
・岩見隆夫『陛下の御質問』(文春文庫)
元毎日新聞政治部記者による本書は、表題どおり昭和天皇の「御質問」がそのテーマとなっている。といってもこれだけでは何を言っているのかわからないと思う。少し解説すると、明治憲法下では、天皇を輔弼することが定められていた閣僚はその国政報告を「内奏」という形で天皇に行っていた。戦後の憲法改正によってこの制度は無くなったのだが、「内奏」は慣例として続けられたのだ。その「内奏」の際に、象徴天皇であって政治に関与することの出来ない昭和天皇が自ら意見を述べることは出来ない。そこで「御質問」という形式によって言葉を発した。この「御質問」が本書のテーマである。具体的には本書の副題にもなっている「昭和天皇と戦後政治」に焦点が当てられている。が、決して歯切れのいい本ではない。何かを糾弾しようとか、昭和天皇を賛美しようといった類の本ではなく、あくまで「やんごとなき人」が政治家や官僚などの「内奏者」にどのように映ったのかというエピソードを、取材を元に紹介しているにすぎない。この本から明らかになる昭和天皇像はやはり霞がかかったままである。とはいえ、本書を通読したとき、今までと少し違う昭和天皇のイメージが残るのではないだろうか。
というわけで、なかなか楽しんで読めました。でも、皇室関連で9500円する本(伊藤之雄『昭和天皇と立憲君主制の崩壊』)をサークルの友人に紹介してドン引きされた経験があるので、真に受けない方がいいと思います。
今日はもうひとつ面白いものを読んだ。日本外交史専門の井上寿一による『外交フォーラム』の連載だ。
・井上寿一「戦後経済外交の軌跡」(『外交フォーラム』)
去年の秋から連載されていて先月号で完結したのでまとめてコピーしておいたものだ。『外交フォーラム』の連載ものは、それぞれ6~8頁で注も無いので読みやすい&大体6回くらい連載が続くので内容もそれなりにしっかりしている、のでなかなかいい。今日発売の細谷雄一『大英帝国の外交官』(筑摩書房)も、『外交フォーラム』の連載を大幅に加筆したものだ。で、「戦後経済外交の軌跡」。一気に読んで思ったのは、あぁやっぱ俺は国際政治じゃなくて日本外交をやりたいんだな、ってこと。「戦後経済外交の軌跡」は題名のとおり、戦後日本外交を経済外交に絞って素描したもの。内容については、そんなに長いものではないので紹介はしないけど…敗戦時の戦後経済構想から始まっていたり、大来佐武郎や高碕達之助といった戦後の経済外交を語る上で欠かせない人物をめぐるエピソードも満載、ということでなかなか興味深い。
『陛下の御質問』&「戦後経済外交の軌跡」を読んで、自分の立ち位置を再確認した気がする一日でした。てわけで、あっさり五月病(?)は克服、六月病(?)としてまたがっつり自分の興味ある分野に回帰したい。
そんなことを後輩と話しつつ5限の戦後日本政治史に向かうが、休講。萎えました。仕方がないので、まず英語をやって、授業をBGMに読もうと買った本を読むことにした。ま、その本っていうのが問題で、多分普通の大学生は買わないだろうなぁ、ていう本。一応書評しておきます。
・岩見隆夫『陛下の御質問』(文春文庫)
元毎日新聞政治部記者による本書は、表題どおり昭和天皇の「御質問」がそのテーマとなっている。といってもこれだけでは何を言っているのかわからないと思う。少し解説すると、明治憲法下では、天皇を輔弼することが定められていた閣僚はその国政報告を「内奏」という形で天皇に行っていた。戦後の憲法改正によってこの制度は無くなったのだが、「内奏」は慣例として続けられたのだ。その「内奏」の際に、象徴天皇であって政治に関与することの出来ない昭和天皇が自ら意見を述べることは出来ない。そこで「御質問」という形式によって言葉を発した。この「御質問」が本書のテーマである。具体的には本書の副題にもなっている「昭和天皇と戦後政治」に焦点が当てられている。が、決して歯切れのいい本ではない。何かを糾弾しようとか、昭和天皇を賛美しようといった類の本ではなく、あくまで「やんごとなき人」が政治家や官僚などの「内奏者」にどのように映ったのかというエピソードを、取材を元に紹介しているにすぎない。この本から明らかになる昭和天皇像はやはり霞がかかったままである。とはいえ、本書を通読したとき、今までと少し違う昭和天皇のイメージが残るのではないだろうか。
というわけで、なかなか楽しんで読めました。でも、皇室関連で9500円する本(伊藤之雄『昭和天皇と立憲君主制の崩壊』)をサークルの友人に紹介してドン引きされた経験があるので、真に受けない方がいいと思います。
今日はもうひとつ面白いものを読んだ。日本外交史専門の井上寿一による『外交フォーラム』の連載だ。
・井上寿一「戦後経済外交の軌跡」(『外交フォーラム』)
去年の秋から連載されていて先月号で完結したのでまとめてコピーしておいたものだ。『外交フォーラム』の連載ものは、それぞれ6~8頁で注も無いので読みやすい&大体6回くらい連載が続くので内容もそれなりにしっかりしている、のでなかなかいい。今日発売の細谷雄一『大英帝国の外交官』(筑摩書房)も、『外交フォーラム』の連載を大幅に加筆したものだ。で、「戦後経済外交の軌跡」。一気に読んで思ったのは、あぁやっぱ俺は国際政治じゃなくて日本外交をやりたいんだな、ってこと。「戦後経済外交の軌跡」は題名のとおり、戦後日本外交を経済外交に絞って素描したもの。内容については、そんなに長いものではないので紹介はしないけど…敗戦時の戦後経済構想から始まっていたり、大来佐武郎や高碕達之助といった戦後の経済外交を語る上で欠かせない人物をめぐるエピソードも満載、ということでなかなか興味深い。
『陛下の御質問』&「戦後経済外交の軌跡」を読んで、自分の立ち位置を再確認した気がする一日でした。てわけで、あっさり五月病(?)は克服、六月病(?)としてまたがっつり自分の興味ある分野に回帰したい。
2005年06月09日
昨日の続き。
というわけで(どういうわけだろう)、昨日そのままアップしたレジュメの解説。
色々と悩んだ今回の「旧ユーゴ」というお題。前々回が、有史(!)~旧ユーゴ崩壊までの歴史の概観、前回が旧ユーゴ崩壊~ボスニア紛争の収束(=デイトン合意)、だったので、扱う時期は自然とボスニア紛争後のコソボ紛争ということになった。
ここまでは比較的に簡単に決まった。問題はここから。そもそもコソボ紛争というのは過剰なほど様々な文脈で語られている。これは一昨日の記事にも書いたんだけど、「人道的介入」「地域紛争」「ポスト社会主義」「ヴァーチャル・ウォー」「軽い帝国の進出」「民族紛争」、などなど。
で、結局どういう発表をしたのかというと、それは昨日のアップしたレジュメのとーり。簡単に言えば、そもそもコソボ紛争がどういった背景を持ち、どのような経緯で紛争化していったのかという歴史をいくつか分類しつつ概観し、その上で問題提起を行うというものだ。演繹的に「人道的介入」といったことを論じるのではなく、あくまで帰納的に考える、ということだ。
詳細はアップしたレジュメをみれば分かると思うので、ここでは自分としてのメッセージを強調しておきたい。ここでは3つに絞って挙げておく。
?「人道的介入」の一事例としてのみコソボ紛争を論じることはコソボの実相を見誤ってしまう。コソボ紛争は「双方向」で「民族浄化」が行われていたにも関わらず、「セルビア悪玉論」のイメージだけが先行してしまった。
?介入の問題を巷では比較的簡単に論じがちだし、むしろアメリカの介入を一方的に非難するだけの議論がまかり通っているけど実態はそう簡単ではなく、やはり武力を伴った介入でしか事態を打開できないケースは多くあるし、その場合海外への軍隊展開能力などからアメリカ抜きの介入は難しい。
?(これはその他の様々な要因を考えた後に触れるべきだが)そもそも仮に人道的な危機があって介入が求められる場合もそう簡単ではない。つまり、コソボのケースは、人道上の危機にある程度効果的に対応したが合法性と正統性が問われている。しかしルワンダのように、安保理決議があったにもかかわらず対応が後手に回ったケースもある。
うむむむむ、って感じだ。特に?の問題は深刻。やっぱり自らの利益に大きく関わらない地域に対しては、「真剣」に介入するというのはなかなか難しい。冷戦後、地域紛争をめぐる問題はますます深刻になりつつあるだけにこの問題は深刻だ。
引き続き、こういった問題は考え続けていきたいと思います。
色々と悩んだ今回の「旧ユーゴ」というお題。前々回が、有史(!)~旧ユーゴ崩壊までの歴史の概観、前回が旧ユーゴ崩壊~ボスニア紛争の収束(=デイトン合意)、だったので、扱う時期は自然とボスニア紛争後のコソボ紛争ということになった。
ここまでは比較的に簡単に決まった。問題はここから。そもそもコソボ紛争というのは過剰なほど様々な文脈で語られている。これは一昨日の記事にも書いたんだけど、「人道的介入」「地域紛争」「ポスト社会主義」「ヴァーチャル・ウォー」「軽い帝国の進出」「民族紛争」、などなど。
で、結局どういう発表をしたのかというと、それは昨日のアップしたレジュメのとーり。簡単に言えば、そもそもコソボ紛争がどういった背景を持ち、どのような経緯で紛争化していったのかという歴史をいくつか分類しつつ概観し、その上で問題提起を行うというものだ。演繹的に「人道的介入」といったことを論じるのではなく、あくまで帰納的に考える、ということだ。
詳細はアップしたレジュメをみれば分かると思うので、ここでは自分としてのメッセージを強調しておきたい。ここでは3つに絞って挙げておく。
?「人道的介入」の一事例としてのみコソボ紛争を論じることはコソボの実相を見誤ってしまう。コソボ紛争は「双方向」で「民族浄化」が行われていたにも関わらず、「セルビア悪玉論」のイメージだけが先行してしまった。
?介入の問題を巷では比較的簡単に論じがちだし、むしろアメリカの介入を一方的に非難するだけの議論がまかり通っているけど実態はそう簡単ではなく、やはり武力を伴った介入でしか事態を打開できないケースは多くあるし、その場合海外への軍隊展開能力などからアメリカ抜きの介入は難しい。
?(これはその他の様々な要因を考えた後に触れるべきだが)そもそも仮に人道的な危機があって介入が求められる場合もそう簡単ではない。つまり、コソボのケースは、人道上の危機にある程度効果的に対応したが合法性と正統性が問われている。しかしルワンダのように、安保理決議があったにもかかわらず対応が後手に回ったケースもある。
うむむむむ、って感じだ。特に?の問題は深刻。やっぱり自らの利益に大きく関わらない地域に対しては、「真剣」に介入するというのはなかなか難しい。冷戦後、地域紛争をめぐる問題はますます深刻になりつつあるだけにこの問題は深刻だ。
引き続き、こういった問題は考え続けていきたいと思います。
2005年06月08日
ユーゴ・ウィーク終了。
日本代表、W杯出場あっさり決まったね。ゼミ友の家にゼミ員7人で押し掛けて観てたんだけど…やっぱり8年前の岡野のゴールほどの盛り上がりはなかったな~。
結局、ゼミの発表は「コソボ紛争の検討」に落ち着いた。書き直すのが面倒だからレジュメをコピペすると大体↓な感じ
◇◇◇
テーマ:コソボ紛争の検討
1995年8月の「デイトン和平協定」成立後、一旦は安定したかに見えた旧ユーゴスラビア紛争であったが、98年2月にコソボ解放軍(KLA)とセルビア治安部隊との間に大規模な武力衝突が発生し、さらにユーゴ連邦軍も介入したことにより、コソボにおいても紛争が激化することとなった。国際社会の外交努力にもかかわらずユーゴ政府は和平案を受け入れず、コソボにおいてさらなる人道的惨事が発生する可能性が高まったため、99年3月、NATOはユーゴを空爆した。
◆紛争発生の経緯◆
少数派としてのセルビア人…コソボの圧倒的多数はアルバニア人(歴史的には人口の約85%)であり、セルビア人は少数派であった。
聖地としてのコソボ…セルビア人にとって中世セルビア王国の中心地であったコソボは聖地。
→この2つの条件から無条件に戦争が起こったわけではない! ただし81年春に暴動が起きるなど不安定な時期もあった。
ミロシェビッチの登場…1986年にセルビア共和国の実権を握ったミロシェビッチは、1989年にセルビア人支持の下、アルバニア人弾圧政策(裁判権・司法権・対外交流権などの自治州権限の剥奪、州政府および議会の解散などを行い、事実上のセルビア共和国への併合)が開始される。これに対抗して1990年にアルバニア人は「コソボ共和国」樹立を宣言している(「独立」宣言は92年)が、その中心となったのは非暴力抵抗運動の指導者であったルゴバであったこともあり、旧ユーゴ紛争が深刻化する過程でコソボでの紛争は暴力を伴ったものへと大々的に発展することはなかった。
デイトン合意…1995年、アメリカ主導の下で和平協定が結ばれた。しかしここではコソボの問題は取り上げられなかった。皮肉にも、ルコバの非暴力抵抗の成功ゆえにコソボ問題は取り上げられなかったのである。合意の結果としてボスニアにはNATOを中心とした平和維持軍が入り、また国際援助で壊れた建物など社会的インフラが修復される一方、コソボの状況は改善されなかった。結果、若年層を中心に「いらだち」が広がっていった。
KLAの登場と穏健派の後退…しかし、上記のようにデイトン合意でコソボが「無視」されたことから徐々に変化が起き、KLAが台頭するようになった。KLAは97年秋に活動が公然化し、98年2月にはセルビアの治安部隊と本格的な衝突を開始する。
国際社会の対応…デイトン合意後、国際社会がセルビア寄りの姿勢を示していたこともコソボ紛争の原因となった。96年4月にはEC諸国はセルビアのデイトン合意履行を高く評価していた。また98年2月には米大統領特使ゲルバードがミロシェビッチに制裁解除の用意があることを匂わせ、他方でKLAを「テロリスト組織」呼ばわりした。さらにゲルバードはルコバに対しコソボ独立の選択肢はないことを知らなければならないと警告し、これはセルビアのKLA攻撃に「青信号」を出したものと一般に受け止められた。
◆紛争の経過◆
以上のような経緯からコソボ紛争は激化していく。紛争は以下のように経過した。
98年2月 KLAとセルビア治安部隊が衝突
98年3月 安保理決議1160(新ユーゴに対する武器禁輸決議)を採択
※98年春~夏にかけて、セルビアはアルバニア人攻撃を猛然と開始し、両勢力は「民族浄化」を繰り返し、隣国のアルバニアやマケドニアへの危機波及の可能性を含んでコソボ危機は昂進する。
98年9月 安保理決議1199(コソボにおける戦闘停止・対話の即時再開を求め、それが実施されない場合の武力行使の検討に言及)を採択
→10月の安保理決議1203によって決議履行の具体的な方法が定められる
98年10月 96時間の猶予付きながら空爆の指令が出されるが、ホルブルック米大統領特使とミロシェビッチとの間で、OSCEの停戦監視団(非武装)をコソボに入れることで合意に達し、空爆は中止される
99年1月 ラチャク事件(45人のアルバニア系住人が殺害された)
99年2~3月 コンタクトグループ(米英露独仏伊)による和平の模索:ランブイエ会議/パリ会議
→ユーゴ側に会議を決裂させることによって空爆の口実を得ようとした(?)
99年3月 NATO空爆開始
99年5月 G8会議で和平案が合意される
99年6月 G8案を元に安保理決議1244が採択され、ユーゴ側がそれを受け入れ、空爆は停止される
この後、多国籍軍であるコソボ国際安全保障部隊(KFOR)と国連PKOである国連コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)が展開された。
ミロシェビッチ政権は2000年10月に国民の大規模な抗議行動に直面し崩壊した。
◆紛争当事者の視点◆
セルビア…KLAはテロリスト。国際社会は結局介入してこないという見通し。
KLA…デイトン和平協定で、セルビア人が軍事的支配を行っている地域がその領土として認められたため、自分たちも同様に軍事的支配の拡大を図った。また国際社会は自分たちの味方であるという考え方にたって、テロ行為を繰り返していた。
◆NATOの空爆をめぐる議論◆
・「人道的介入」論の登場
NATOの介入をめぐる議論は99年1月のラチャク事件以後急速に高まっていった。そこでの議論は、コソボでは「民族浄化」が行われており、この事態を解決するためには介入しなければならない、といういわゆる「人道的介入」論であった。とりわけイギリスのブレア首相は、空爆をめぐって積極的に介入論を展開した。
※NATOは当初から介入ありきであり、反対意見への再反論として「人道的介入」論が出てきたという見方もある。
・「人道的介入」論をめぐる議論
→?、「人道的介入」そのものに反対(=ウエストファリア主義者)
?、コソボのケースについて反対
・「人道的介入」論でコソボ紛争を論じる問題
空爆前までにはボスニア紛争と同様に「セルビア悪玉論」に立っていた。しかし、実際にはセルビアの主張にも肯ける点はあったし、KLAの行動がテロリストのそれであったことも確かであった。このような状況を考えると、(人道的介入の是非を問う以前に)NATOの空爆を人道的介入として正当化すること自体が、誤った前提に立っていたともいえる。
また「人道的介入」論に立って軍事作戦を行った結果、実際の軍事作戦上様々な制約を受けることになったという事実もある(イグナティエフ『ヴァーチャル・ウォー』)
◆コソボ紛争の提示した課題◆
一般的には、コソボ紛争(特に最終局面でのNATOの空爆)は国際社会に対して「人道的介入」論を提示したものと理解されているように思う。しかしコソボ紛争の原点に立ち返るならば、コソボ紛争は「人道的介入」論の1つのケースとしてのみ扱うのではなく、地域紛争として扱わなければならないはずである。
地域紛争に直面した時に、国際社会はどのように対応すればよいのだろうか。
紛争の予防
→デイトン合意時に、よりよい外交が出来たのではないか
国連安保理の限界
→常任理事国間での意見対立がある場合機能せず。コソボの問題は欧州の問題だったので、その分裂は最小限にとどめられたが、アジアの問題であれば中国は最後まで抵抗するだろう。
アメリカ
→NATOによる空爆も実質的にはアメリカによって遂行された。結局アメリカ抜きに地域紛争の解決は難しい、ということがコソボ紛争でも露呈した。しかし同時にこれはアメリカが独走する危険が伴うものである。
人道的介入
→以上のような様々な問題を考えた上で、人道的介入の問題も考える必要があるだろう。コソボのケースは、人道上の危機にある程度効果的に対応したが合法性と正統性が問われている。またルワンダのように、安保理決議があったにもかかわらず対応が後手に回ったケースもある。両者共に深刻な課題を投げかけているといえよう。
<主要参考文献>
柴宜弘「ボスニア内戦と国際社会の対応 ―ユーゴスラヴィア解体から和平協定調印まで」『国際問題』1996年5月号
五十嵐武士「ボスニア紛争とクリントン政権 ―冷戦後の地域紛争と米国外交」『国際問題』1996年5月号
千田善『ユーゴ紛争はなぜ長期化したのか 悲劇を大きくさせた欧米諸国の責任』(勁草書房、1999年)
定方衛「コソヴォ紛争とNATO空爆」『国際問題』2000年6月号
篠田英朗「国際社会における正当性の政治 NATOによるユーゴスラヴィア空爆を事例にして」『国際学論集』(上智大学国際問題研究所)第47号、2001年1月
松井芳郎「NATOによるユーゴ空爆と国際法」『国際問題』2001年4月号
植田隆子「バルカンの地域紛争と欧州安全保障組織の変容 NATO、EUを中心に」『国際問題』2001年7月号
最上敏樹『人道的介入 正義の武力行使はあるのか』(岩波新書、2001年)
細谷雄一「ブレア労働党政権と欧州安全保障の変容 「欧州防衛イニシアティブ」をめぐるイギリスのリーダーシップ」平成12年度外務省委託研究『欧州安全保障システムの新展開からの米欧同盟の考察』(日本国際問題研究所、2001年)
千田善『なぜ戦争は終わらないか』(みすず書房、2002年)
マイケル・イグナティエフ『ヴァーチャル・ウォー 戦争とヒューマニズムの間』(風行社、2003年)
マイケル・イグナティエフ『軽い帝国 ボスニア、コソボ、アフガニスタンにおける国家建設』(風行社、2003年)
◇◇◇
感想&解説は近いうちにアップします!
結局、ゼミの発表は「コソボ紛争の検討」に落ち着いた。書き直すのが面倒だからレジュメをコピペすると大体↓な感じ
◇◇◇
テーマ:コソボ紛争の検討
1995年8月の「デイトン和平協定」成立後、一旦は安定したかに見えた旧ユーゴスラビア紛争であったが、98年2月にコソボ解放軍(KLA)とセルビア治安部隊との間に大規模な武力衝突が発生し、さらにユーゴ連邦軍も介入したことにより、コソボにおいても紛争が激化することとなった。国際社会の外交努力にもかかわらずユーゴ政府は和平案を受け入れず、コソボにおいてさらなる人道的惨事が発生する可能性が高まったため、99年3月、NATOはユーゴを空爆した。
◆紛争発生の経緯◆
少数派としてのセルビア人…コソボの圧倒的多数はアルバニア人(歴史的には人口の約85%)であり、セルビア人は少数派であった。
聖地としてのコソボ…セルビア人にとって中世セルビア王国の中心地であったコソボは聖地。
→この2つの条件から無条件に戦争が起こったわけではない! ただし81年春に暴動が起きるなど不安定な時期もあった。
ミロシェビッチの登場…1986年にセルビア共和国の実権を握ったミロシェビッチは、1989年にセルビア人支持の下、アルバニア人弾圧政策(裁判権・司法権・対外交流権などの自治州権限の剥奪、州政府および議会の解散などを行い、事実上のセルビア共和国への併合)が開始される。これに対抗して1990年にアルバニア人は「コソボ共和国」樹立を宣言している(「独立」宣言は92年)が、その中心となったのは非暴力抵抗運動の指導者であったルゴバであったこともあり、旧ユーゴ紛争が深刻化する過程でコソボでの紛争は暴力を伴ったものへと大々的に発展することはなかった。
デイトン合意…1995年、アメリカ主導の下で和平協定が結ばれた。しかしここではコソボの問題は取り上げられなかった。皮肉にも、ルコバの非暴力抵抗の成功ゆえにコソボ問題は取り上げられなかったのである。合意の結果としてボスニアにはNATOを中心とした平和維持軍が入り、また国際援助で壊れた建物など社会的インフラが修復される一方、コソボの状況は改善されなかった。結果、若年層を中心に「いらだち」が広がっていった。
KLAの登場と穏健派の後退…しかし、上記のようにデイトン合意でコソボが「無視」されたことから徐々に変化が起き、KLAが台頭するようになった。KLAは97年秋に活動が公然化し、98年2月にはセルビアの治安部隊と本格的な衝突を開始する。
国際社会の対応…デイトン合意後、国際社会がセルビア寄りの姿勢を示していたこともコソボ紛争の原因となった。96年4月にはEC諸国はセルビアのデイトン合意履行を高く評価していた。また98年2月には米大統領特使ゲルバードがミロシェビッチに制裁解除の用意があることを匂わせ、他方でKLAを「テロリスト組織」呼ばわりした。さらにゲルバードはルコバに対しコソボ独立の選択肢はないことを知らなければならないと警告し、これはセルビアのKLA攻撃に「青信号」を出したものと一般に受け止められた。
◆紛争の経過◆
以上のような経緯からコソボ紛争は激化していく。紛争は以下のように経過した。
98年2月 KLAとセルビア治安部隊が衝突
98年3月 安保理決議1160(新ユーゴに対する武器禁輸決議)を採択
※98年春~夏にかけて、セルビアはアルバニア人攻撃を猛然と開始し、両勢力は「民族浄化」を繰り返し、隣国のアルバニアやマケドニアへの危機波及の可能性を含んでコソボ危機は昂進する。
98年9月 安保理決議1199(コソボにおける戦闘停止・対話の即時再開を求め、それが実施されない場合の武力行使の検討に言及)を採択
→10月の安保理決議1203によって決議履行の具体的な方法が定められる
98年10月 96時間の猶予付きながら空爆の指令が出されるが、ホルブルック米大統領特使とミロシェビッチとの間で、OSCEの停戦監視団(非武装)をコソボに入れることで合意に達し、空爆は中止される
99年1月 ラチャク事件(45人のアルバニア系住人が殺害された)
99年2~3月 コンタクトグループ(米英露独仏伊)による和平の模索:ランブイエ会議/パリ会議
→ユーゴ側に会議を決裂させることによって空爆の口実を得ようとした(?)
99年3月 NATO空爆開始
99年5月 G8会議で和平案が合意される
99年6月 G8案を元に安保理決議1244が採択され、ユーゴ側がそれを受け入れ、空爆は停止される
この後、多国籍軍であるコソボ国際安全保障部隊(KFOR)と国連PKOである国連コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)が展開された。
ミロシェビッチ政権は2000年10月に国民の大規模な抗議行動に直面し崩壊した。
◆紛争当事者の視点◆
セルビア…KLAはテロリスト。国際社会は結局介入してこないという見通し。
KLA…デイトン和平協定で、セルビア人が軍事的支配を行っている地域がその領土として認められたため、自分たちも同様に軍事的支配の拡大を図った。また国際社会は自分たちの味方であるという考え方にたって、テロ行為を繰り返していた。
◆NATOの空爆をめぐる議論◆
・「人道的介入」論の登場
NATOの介入をめぐる議論は99年1月のラチャク事件以後急速に高まっていった。そこでの議論は、コソボでは「民族浄化」が行われており、この事態を解決するためには介入しなければならない、といういわゆる「人道的介入」論であった。とりわけイギリスのブレア首相は、空爆をめぐって積極的に介入論を展開した。
※NATOは当初から介入ありきであり、反対意見への再反論として「人道的介入」論が出てきたという見方もある。
・「人道的介入」論をめぐる議論
→?、「人道的介入」そのものに反対(=ウエストファリア主義者)
?、コソボのケースについて反対
・「人道的介入」論でコソボ紛争を論じる問題
空爆前までにはボスニア紛争と同様に「セルビア悪玉論」に立っていた。しかし、実際にはセルビアの主張にも肯ける点はあったし、KLAの行動がテロリストのそれであったことも確かであった。このような状況を考えると、(人道的介入の是非を問う以前に)NATOの空爆を人道的介入として正当化すること自体が、誤った前提に立っていたともいえる。
また「人道的介入」論に立って軍事作戦を行った結果、実際の軍事作戦上様々な制約を受けることになったという事実もある(イグナティエフ『ヴァーチャル・ウォー』)
◆コソボ紛争の提示した課題◆
一般的には、コソボ紛争(特に最終局面でのNATOの空爆)は国際社会に対して「人道的介入」論を提示したものと理解されているように思う。しかしコソボ紛争の原点に立ち返るならば、コソボ紛争は「人道的介入」論の1つのケースとしてのみ扱うのではなく、地域紛争として扱わなければならないはずである。
地域紛争に直面した時に、国際社会はどのように対応すればよいのだろうか。
紛争の予防
→デイトン合意時に、よりよい外交が出来たのではないか
国連安保理の限界
→常任理事国間での意見対立がある場合機能せず。コソボの問題は欧州の問題だったので、その分裂は最小限にとどめられたが、アジアの問題であれば中国は最後まで抵抗するだろう。
アメリカ
→NATOによる空爆も実質的にはアメリカによって遂行された。結局アメリカ抜きに地域紛争の解決は難しい、ということがコソボ紛争でも露呈した。しかし同時にこれはアメリカが独走する危険が伴うものである。
人道的介入
→以上のような様々な問題を考えた上で、人道的介入の問題も考える必要があるだろう。コソボのケースは、人道上の危機にある程度効果的に対応したが合法性と正統性が問われている。またルワンダのように、安保理決議があったにもかかわらず対応が後手に回ったケースもある。両者共に深刻な課題を投げかけているといえよう。
<主要参考文献>
柴宜弘「ボスニア内戦と国際社会の対応 ―ユーゴスラヴィア解体から和平協定調印まで」『国際問題』1996年5月号
五十嵐武士「ボスニア紛争とクリントン政権 ―冷戦後の地域紛争と米国外交」『国際問題』1996年5月号
千田善『ユーゴ紛争はなぜ長期化したのか 悲劇を大きくさせた欧米諸国の責任』(勁草書房、1999年)
定方衛「コソヴォ紛争とNATO空爆」『国際問題』2000年6月号
篠田英朗「国際社会における正当性の政治 NATOによるユーゴスラヴィア空爆を事例にして」『国際学論集』(上智大学国際問題研究所)第47号、2001年1月
松井芳郎「NATOによるユーゴ空爆と国際法」『国際問題』2001年4月号
植田隆子「バルカンの地域紛争と欧州安全保障組織の変容 NATO、EUを中心に」『国際問題』2001年7月号
最上敏樹『人道的介入 正義の武力行使はあるのか』(岩波新書、2001年)
細谷雄一「ブレア労働党政権と欧州安全保障の変容 「欧州防衛イニシアティブ」をめぐるイギリスのリーダーシップ」平成12年度外務省委託研究『欧州安全保障システムの新展開からの米欧同盟の考察』(日本国際問題研究所、2001年)
千田善『なぜ戦争は終わらないか』(みすず書房、2002年)
マイケル・イグナティエフ『ヴァーチャル・ウォー 戦争とヒューマニズムの間』(風行社、2003年)
マイケル・イグナティエフ『軽い帝国 ボスニア、コソボ、アフガニスタンにおける国家建設』(風行社、2003年)
◇◇◇
感想&解説は近いうちにアップします!
2005年06月07日
うむむむむ。
昨日今日といろんな人から「誕生日おめでとう!」的な言葉を頂く。ありがたい限りなんだけど…もはや22歳にもなるとそんなにめでたくもない気がするのは気のせいだろうか。しかも大学院進学組にとっては、そろそろ「社会に出ないとまずいんじゃないの~」っていう圧力を年齢から感じるのも近いな、と思ってしまう。ま、なにはともあれ祝っていただきありがとうございます。
先週から旧ユーゴに関係する文献をひたすら読み込んでいるわけだけど、なかなか焦点が絞りづらい。なぜか? それは旧ユーゴの紛争があまりにも多くの「意味」を持っているからだ。地域紛争としての旧ユーゴ、民族紛争としての旧ユーゴ、人道的介入の事例としての旧ユーゴ、ポスト社会主義社会としての旧ユーゴ、多国間安全保障組織の試金石としての旧ユーゴ、「軽い帝国」の進出対象としての旧ユーゴ、「ヴァーチャル・ウォー」としての旧ユーゴ、などなど。あまりにも多くの論者が多くの視点で語りすぎ。
さて、どうしたものか。今からレジュメを作りながらどこに焦点を絞るのか考えよう。
このblogで以前取り上げた横手慎二『日露戦争史』(中公新書)の書評が読売新聞に出ていた。大体俺が伝えたかったのとメッセージは同じだけど、俺のより詳しく分かりやすい。あ~、もう少し真剣に書評を書くべきだったな~。
先週から旧ユーゴに関係する文献をひたすら読み込んでいるわけだけど、なかなか焦点が絞りづらい。なぜか? それは旧ユーゴの紛争があまりにも多くの「意味」を持っているからだ。地域紛争としての旧ユーゴ、民族紛争としての旧ユーゴ、人道的介入の事例としての旧ユーゴ、ポスト社会主義社会としての旧ユーゴ、多国間安全保障組織の試金石としての旧ユーゴ、「軽い帝国」の進出対象としての旧ユーゴ、「ヴァーチャル・ウォー」としての旧ユーゴ、などなど。あまりにも多くの論者が多くの視点で語りすぎ。
さて、どうしたものか。今からレジュメを作りながらどこに焦点を絞るのか考えよう。
このblogで以前取り上げた横手慎二『日露戦争史』(中公新書)の書評が読売新聞に出ていた。大体俺が伝えたかったのとメッセージは同じだけど、俺のより詳しく分かりやすい。あ~、もう少し真剣に書評を書くべきだったな~。
2005年06月06日
2005年06月05日
少しリフレッシュ。
久しぶりに映画館に行って来た。観たのは「ウイスキー」。あんまり書くとネタばれしてしまうから書けないんだけど…ウルグアイ映画ってことで、ハリウッドの臭いは全くしないのが最高。うん、なかなか気分転換になる映画。こう考えるのって俺だけかな。観た人&これから観る人募集。
そんな感じで気分が良かったのだけど、藤田移籍のニュースを聞いてがっくし。藤田はジュビロで一番好きな選手なのに…。
この間ちょっと長め書評を書いた『日本の「ミドルパワー」外交』の書評が毎日新聞に出ていた。五百旗頭真の書評はとても読み応えがあって素晴らしい。俺のと読み比べると差は歴然だね。
なんか今日はやたらlinkを貼ってる気がするな~。
そんな感じで気分が良かったのだけど、藤田移籍のニュースを聞いてがっくし。藤田はジュビロで一番好きな選手なのに…。
この間ちょっと長め書評を書いた『日本の「ミドルパワー」外交』の書評が毎日新聞に出ていた。五百旗頭真の書評はとても読み応えがあって素晴らしい。俺のと読み比べると差は歴然だね。
なんか今日はやたらlinkを貼ってる気がするな~。
2005年06月04日
頭の整理。
昨日はサッカー日本代表勝利! も中盤の連携は微妙だし、今後がちょっと不安。サッカー以上に驚いたのがカブレラの超特大HR。自己申告では190M弾とのこと、一番狭い球場の両翼は90Mだから…飛ばしすぎ。
この数日、ゼミの準備で旧ユーゴをやったり、サークルの準備でヨーロッパ統合をやったり、はたまた自分の専門になるであろう日本外交史の勉強をしたり、やや頭が混乱気味。というわけで今日はちょっと頭の整理をしていた。もっとも、内容書くと発表の前にネタがばれてしまうので何も書きませんがw 事後報告をします。
とりあえず以下の文献をこなしつつ、バイトまでの時間を過ごす。
・定方衛「旧ユーゴスラヴィア終焉の諸相―連邦・民族・国際社会」『国際問題』2001年7月号
・マイケル・イグナティエフ『ヴァーチャル・ウォー 戦争とヒューマニズムの間』(風行社)
それにしても、バイトがあるとなかなか勉強時間が確保できない。最近の悩み。
この数日、ゼミの準備で旧ユーゴをやったり、サークルの準備でヨーロッパ統合をやったり、はたまた自分の専門になるであろう日本外交史の勉強をしたり、やや頭が混乱気味。というわけで今日はちょっと頭の整理をしていた。もっとも、内容書くと発表の前にネタがばれてしまうので何も書きませんがw 事後報告をします。
とりあえず以下の文献をこなしつつ、バイトまでの時間を過ごす。
・定方衛「旧ユーゴスラヴィア終焉の諸相―連邦・民族・国際社会」『国際問題』2001年7月号
・マイケル・イグナティエフ『ヴァーチャル・ウォー 戦争とヒューマニズムの間』(風行社)
それにしても、バイトがあるとなかなか勉強時間が確保できない。最近の悩み。
2005年06月03日
わくわく。
3限、国際政治理論特殊研究?。今日は先生の著書である『テクノヘゲモニー』を扱う。授業中の著者解説&授業後の質問が興味深かった。覇権国の盛衰については国際システム論なんかでも扱われるテーマだが、ではなぜ覇権国が盛衰するかについては国際システム論は論じていない。その「なぜ」に歴史的なアプローチで答えようというのが本書。で、その「なぜ」は技術ということだ。読書記録を確認してみると、俺がこの本を読んだのは高校の時。発表を聞いてけっこう思い出したけど、やっぱり曖昧。とても面白い本なので手に入れて読み返そうと思う。やっぱり「なぜ」がはっきりしている本はいい。
旧ユーゴ関係は、ひたすら『国際問題』掲載論文を読む。論文によって、当然ながら論調は様々、疑問は尽きない。今日こなしたのは以下のとーり。
・柴宜弘「ボスニア内戦と国際社会の対応 ―ユーゴスラヴィア解体から和平協定調印まで」
・明石康「カンボジアおよび旧ユーゴスラヴィアにおける国連平和維持活動」
・フランク・ウンバッハ「旧ユーゴスラヴィア紛争とNATOの役割 ―欧州安全保障への教訓」
・五十嵐武士「ボスニア紛争とクリントン政権 ―冷戦後の地域紛争と米国外交」
以上、『国際問題』1996年5月号
・松井芳郎「NATOによるユーゴ空爆と国際法」
以上、『国際問題』2001年4月号
今日は2限の現代台湾論が休講だったので、その時間に一気に読み終えた本がある。久々に引き入れられるように、ぐぐっと読み終えた気がするな~。てわけで久々の書評。
・五百旗頭真『日米戦争と戦後日本』(講談社学術文庫)
言わずと知れた日本外交史の大家が「戦後日本」の生い立ちについて描いた本書、当然読み応え十分。基本的には注は付けられておらず一般読者向けでもあるのだが、専門に入りかけた大学4年生が読んでも十二分な内容。読みやすくかつ面白く内容もあるという数少ない本だろう。久々に読みながらわくわくした。内容は、第一章が開戦後間もなく始まったアメリカでの対日占領政策構想の立案、第二章がポツダム宣言受け入れによる「終戦」過程、第三章が占領改革について、第四章が日本の自立へ向けた平和条約交渉過程、である。日米双方の視点が常に意識されているので安心して読み進むことが出来る。より詳しく米国の対日占領政策の立案を見たいのであれば、筆者の前著である『米国の日本占領政策』(中央公論社)を併せて読むといいだろう。本文の内容とはあまり関係ないのだが、<学術文庫版へのあとがき>で印象に残った箇所があるので引用しておく。
2002年2月、私は小泉純一郎首相の求めにより初めてお目にかかったが、その冒頭、首相は本書を読んだと言われた。「真珠湾」後、速やかに米国が対日占領政策の検討を開始したことに首相は印象づけられ、そのことを2001年秋のAPECサミットの際、ブッシュ大統領とパウエル国務長官に話したという。第二次大戦期に米国がよい仕事をしたことを称えつつ、今、アフガニスタン戦争が始まったが、このたびは日米共同でアフガンの戦後復興に速やかに着手することを提案したところ、大統領は即座に同意した。それが緒方貞子氏を共同議長とする東京でのアフガン復興支援会議(2002年1月)の起源の一つとなったということであった。このように想像もしない使われ方もされている本書である。
このあとがきの言葉は知り合いの先生に教えてもらったのだが、これはうれしくて口が滑ったな~という感じだ。普通はこういうことは書かないものだ。将来、こんな経験をしてみたいなぁ、とちょっと夢想してしまう。
旧ユーゴ関係は、ひたすら『国際問題』掲載論文を読む。論文によって、当然ながら論調は様々、疑問は尽きない。今日こなしたのは以下のとーり。
・柴宜弘「ボスニア内戦と国際社会の対応 ―ユーゴスラヴィア解体から和平協定調印まで」
・明石康「カンボジアおよび旧ユーゴスラヴィアにおける国連平和維持活動」
・フランク・ウンバッハ「旧ユーゴスラヴィア紛争とNATOの役割 ―欧州安全保障への教訓」
・五十嵐武士「ボスニア紛争とクリントン政権 ―冷戦後の地域紛争と米国外交」
以上、『国際問題』1996年5月号
・松井芳郎「NATOによるユーゴ空爆と国際法」
以上、『国際問題』2001年4月号
今日は2限の現代台湾論が休講だったので、その時間に一気に読み終えた本がある。久々に引き入れられるように、ぐぐっと読み終えた気がするな~。てわけで久々の書評。
・五百旗頭真『日米戦争と戦後日本』(講談社学術文庫)
言わずと知れた日本外交史の大家が「戦後日本」の生い立ちについて描いた本書、当然読み応え十分。基本的には注は付けられておらず一般読者向けでもあるのだが、専門に入りかけた大学4年生が読んでも十二分な内容。読みやすくかつ面白く内容もあるという数少ない本だろう。久々に読みながらわくわくした。内容は、第一章が開戦後間もなく始まったアメリカでの対日占領政策構想の立案、第二章がポツダム宣言受け入れによる「終戦」過程、第三章が占領改革について、第四章が日本の自立へ向けた平和条約交渉過程、である。日米双方の視点が常に意識されているので安心して読み進むことが出来る。より詳しく米国の対日占領政策の立案を見たいのであれば、筆者の前著である『米国の日本占領政策』(中央公論社)を併せて読むといいだろう。本文の内容とはあまり関係ないのだが、<学術文庫版へのあとがき>で印象に残った箇所があるので引用しておく。
2002年2月、私は小泉純一郎首相の求めにより初めてお目にかかったが、その冒頭、首相は本書を読んだと言われた。「真珠湾」後、速やかに米国が対日占領政策の検討を開始したことに首相は印象づけられ、そのことを2001年秋のAPECサミットの際、ブッシュ大統領とパウエル国務長官に話したという。第二次大戦期に米国がよい仕事をしたことを称えつつ、今、アフガニスタン戦争が始まったが、このたびは日米共同でアフガンの戦後復興に速やかに着手することを提案したところ、大統領は即座に同意した。それが緒方貞子氏を共同議長とする東京でのアフガン復興支援会議(2002年1月)の起源の一つとなったということであった。このように想像もしない使われ方もされている本書である。
このあとがきの言葉は知り合いの先生に教えてもらったのだが、これはうれしくて口が滑ったな~という感じだ。普通はこういうことは書かないものだ。将来、こんな経験をしてみたいなぁ、とちょっと夢想してしまう。
2005年06月02日
ふむふむ。
2限の特殊研究後、ゼミの後輩2人&先生と昼食。
この先生と話すと、凹まされるような元気付けられるような、不思議な感じ。
学生同士でディスカッションをする意味(っていうか特殊研究をやる意味?)から、大学院生活、学問をすることの意味、なんかについて話す。先生は病み上がりだったらしいけど、話す話す。やっぱり学者はおしゃべりなんだろうか。それなら俺は最低条件は満たしているw
学問的にすごい人はものすごい絶望感に浸っている、という話は説得的だった。ものすごく調べた人ほど自分は全然真実に近づいていない、ということが分かる、ということなんだけどほんとにそう思う。自分がやりたい分野、いまのとこ日本外交史、についての自分の力不足は誰よりも感じている。というわけだから、先生曰く学部生が「自分は全然そのことについて知らないんですが…」という前置きをして話すのは、当たり前のことを言っているだけ。
ん~、そうなんだよね。ちなみに先生によると学問的に一流になる人には2つのパターンがあるらしい。1つは、そんな絶望があったとしてもその絶望に打ち勝つ人。もう1つは、(もとから絶望しない)鈍感な人。俺は明らかに前者。まだ打ち勝ってはいないけど、そんな絶望は重々承知した上で大学院に進学するつもりだ。
あとは日本の大学院に進学するということについて。先生は日本の大学院によって得られるものは何もない、といっていた。ここでは「大学院で」ではなく「大学院によって」ということに注意。結局日本の大学院はまともな指導をしていないし、そういうシステムになっていない(らしい)。だから自分でやらなければ何も身につかない、ということ。だから日本の大学院にいるなら自分でとにかく頑張らなければならない。でも、これも分かってても実際やるのは難しい。
ふ~む。
この先生と話すと、凹まされるような元気付けられるような、不思議な感じ。
学生同士でディスカッションをする意味(っていうか特殊研究をやる意味?)から、大学院生活、学問をすることの意味、なんかについて話す。先生は病み上がりだったらしいけど、話す話す。やっぱり学者はおしゃべりなんだろうか。それなら俺は最低条件は満たしているw
学問的にすごい人はものすごい絶望感に浸っている、という話は説得的だった。ものすごく調べた人ほど自分は全然真実に近づいていない、ということが分かる、ということなんだけどほんとにそう思う。自分がやりたい分野、いまのとこ日本外交史、についての自分の力不足は誰よりも感じている。というわけだから、先生曰く学部生が「自分は全然そのことについて知らないんですが…」という前置きをして話すのは、当たり前のことを言っているだけ。
ん~、そうなんだよね。ちなみに先生によると学問的に一流になる人には2つのパターンがあるらしい。1つは、そんな絶望があったとしてもその絶望に打ち勝つ人。もう1つは、(もとから絶望しない)鈍感な人。俺は明らかに前者。まだ打ち勝ってはいないけど、そんな絶望は重々承知した上で大学院に進学するつもりだ。
あとは日本の大学院に進学するということについて。先生は日本の大学院によって得られるものは何もない、といっていた。ここでは「大学院で」ではなく「大学院によって」ということに注意。結局日本の大学院はまともな指導をしていないし、そういうシステムになっていない(らしい)。だから自分でやらなければ何も身につかない、ということ。だから日本の大学院にいるなら自分でとにかく頑張らなければならない。でも、これも分かってても実際やるのは難しい。
ふ~む。
2005年06月01日
サブゼミ、ゼミ。
サブゼミのテーマ、中ソ関係を通してみる冷戦終結。
毛里和子「中ソ対立の構造」毛里和子、山極晃・編『現代中国とソ連』(日本国際問題研究所、1987年)を使用。提示された論文は1987年出版で、それまでの中ソ対立を扱ったものであるため、当然直接冷戦終結を描いたものではない。が、歴史的な背景を理解した上で議論をしようということなので、俺としては納得できる。でも、そんな発表者の意図はみんなにはうまく伝わっていなかった気がするので残念。自分のWHY?をうまく相手に伝えることが必要なんだな~と再確認。
発表者の意図を俺なりに解釈すれば…ちょっとゴーマンですが。冷戦というととかくアメリカやヨーロッパを中心に描かれがちであるが、同時に中ソ対立も冷戦時代の国際政治の大きな要素であった。そこを理解しないと多面的な冷戦解釈(このサブゼミでは冷戦終結に限定されるが)は出来ない。だから冷戦の重要な一要素である「中ソ対立」を扱う。ということだと思った。
この意図に関しては大いに同意するところ。サブゼミでも特殊研究でも、冷戦終結みたいなある特定のテーマを扱うと、「一番重要なのは~であり、ほかは大して重要ではない」ということを安易に考える人が多い。しかし、歴史は多面的なものであり、より幅広い検討をしたうえでなければ、何が本当に重要なのか断定することなど出来ない。また、特定のテーマを直接扱うのではなく、禁欲的にその背景を理解する、具体的には周辺的なことや歴史的背景を考える、ということをは「急がば回れ」であってとても大切なことだ。ん~、これがなかなか難しいんだな。
なんてことをサブゼミをやりつつ考えた。
で、ゼミは引き続き旧ユーゴ。先週はユーゴ紛争の歴史的な背景を扱った。今週は「旧ユーゴ紛争と国際社会」がテーマ、時期は95年のデイトン合意まで。
詳細は割愛するが、旧ユーゴ紛争に関して国際社会の責任は大きい。まずドイツ統一直後、スロベニアとクロアチアをドイツが単独承認しようとした罪は大きい。しかも、この時期はECに対する期待が大きく、国際社会はECに旧ユーゴ紛争の解決を委ねた。しかし失敗。その後、国連が入るが失敗。そして95年に入りようやくクリントン政権が本格的に介入し、デイトン合意にこぎつけた。以上が大きな流れで、発表者はアメリカがもう少し早く介入すればよかったのではないか、と問題提起をした。
これは正しいのだろう、でも実際にそれが出来るのか? というのが今回のポイント。果たして自分の国の直接の利害があまりない地域に、自国の兵士の命をかけるような大規模な介入が容易に行えるのだろうか。世論が内向きな時に大規模な介入は出来るのだろうか。おそらく否、であろう。これは日本の自衛隊派遣に関する議論を見ればすぐわかることだ。しかもユーゴの場合、アメリカの介入によって暫定的に解決したわけでが、これは結局アメリカしか介入して解決する軍事的能力を持たない、ということである。んでもって、そのアメリカは極めて単独主義。難しい。難しすぎる。
ちなみに国連の介入についても議論になったのだが、そこでも結局同じ問題に行き着いた。結局、安保理決議によってPKOを派遣するにしても、実際の兵士は加盟国から派遣されるわけだ。となると、実際介入できるか、というさっきの問いに戻るわけだ。
来週は俺が発表。デイトン合意後~コソボ紛争を扱う予定。ん~難しい。
それにしても旧ユーゴについて日本語で勉強するのには限界がある何冊か読んだけどいまいち。でも、自分の100倍くらい旧ユーゴについて考えてる研究者もいると思うので、もう少し探し回りたい。とりあえず論文を中心に探してみよう。で、駄目なら英語か…むり。
毛里和子「中ソ対立の構造」毛里和子、山極晃・編『現代中国とソ連』(日本国際問題研究所、1987年)を使用。提示された論文は1987年出版で、それまでの中ソ対立を扱ったものであるため、当然直接冷戦終結を描いたものではない。が、歴史的な背景を理解した上で議論をしようということなので、俺としては納得できる。でも、そんな発表者の意図はみんなにはうまく伝わっていなかった気がするので残念。自分のWHY?をうまく相手に伝えることが必要なんだな~と再確認。
発表者の意図を俺なりに解釈すれば…ちょっとゴーマンですが。冷戦というととかくアメリカやヨーロッパを中心に描かれがちであるが、同時に中ソ対立も冷戦時代の国際政治の大きな要素であった。そこを理解しないと多面的な冷戦解釈(このサブゼミでは冷戦終結に限定されるが)は出来ない。だから冷戦の重要な一要素である「中ソ対立」を扱う。ということだと思った。
この意図に関しては大いに同意するところ。サブゼミでも特殊研究でも、冷戦終結みたいなある特定のテーマを扱うと、「一番重要なのは~であり、ほかは大して重要ではない」ということを安易に考える人が多い。しかし、歴史は多面的なものであり、より幅広い検討をしたうえでなければ、何が本当に重要なのか断定することなど出来ない。また、特定のテーマを直接扱うのではなく、禁欲的にその背景を理解する、具体的には周辺的なことや歴史的背景を考える、ということをは「急がば回れ」であってとても大切なことだ。ん~、これがなかなか難しいんだな。
なんてことをサブゼミをやりつつ考えた。
で、ゼミは引き続き旧ユーゴ。先週はユーゴ紛争の歴史的な背景を扱った。今週は「旧ユーゴ紛争と国際社会」がテーマ、時期は95年のデイトン合意まで。
詳細は割愛するが、旧ユーゴ紛争に関して国際社会の責任は大きい。まずドイツ統一直後、スロベニアとクロアチアをドイツが単独承認しようとした罪は大きい。しかも、この時期はECに対する期待が大きく、国際社会はECに旧ユーゴ紛争の解決を委ねた。しかし失敗。その後、国連が入るが失敗。そして95年に入りようやくクリントン政権が本格的に介入し、デイトン合意にこぎつけた。以上が大きな流れで、発表者はアメリカがもう少し早く介入すればよかったのではないか、と問題提起をした。
これは正しいのだろう、でも実際にそれが出来るのか? というのが今回のポイント。果たして自分の国の直接の利害があまりない地域に、自国の兵士の命をかけるような大規模な介入が容易に行えるのだろうか。世論が内向きな時に大規模な介入は出来るのだろうか。おそらく否、であろう。これは日本の自衛隊派遣に関する議論を見ればすぐわかることだ。しかもユーゴの場合、アメリカの介入によって暫定的に解決したわけでが、これは結局アメリカしか介入して解決する軍事的能力を持たない、ということである。んでもって、そのアメリカは極めて単独主義。難しい。難しすぎる。
ちなみに国連の介入についても議論になったのだが、そこでも結局同じ問題に行き着いた。結局、安保理決議によってPKOを派遣するにしても、実際の兵士は加盟国から派遣されるわけだ。となると、実際介入できるか、というさっきの問いに戻るわけだ。
来週は俺が発表。デイトン合意後~コソボ紛争を扱う予定。ん~難しい。
それにしても旧ユーゴについて日本語で勉強するのには限界がある何冊か読んだけどいまいち。でも、自分の100倍くらい旧ユーゴについて考えてる研究者もいると思うので、もう少し探し回りたい。とりあえず論文を中心に探してみよう。で、駄目なら英語か…むり。