2010年07月01日

先週&先々週の授業(6月第3週&第4週)

色々とやるべきことが多く、W杯もあり、またまた久しぶりの更新になってしまいました。やらなければならないことは目白押しなのですが、中途半端に時間が空いたので、ひとまず授業についてまとめておきます。



まずは先々週の授業から。プロジェクト科目は休講でした。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊研究

Welch2

テキストは、David A. Welch, Justice and the Genesis of War, (Cambridge: Cambridge University Press, 1993)の第5章(World War II)。

学部レベルの教科書(例えばナイの『国際紛争』など)では、第一次大戦と第二次大戦はしばしば異なる性格の戦争として論じられます。それは簡単に言ってしまえば、第一次大戦がシステム要因から説明され得るのに対して、第二次大戦は「悪役」として枢軸国の存在、つまり国家要因から説明されます。もちろんこうした見解は、多くの研究によって否定されており、それほど単純なものではありません。しかし、この二つの戦争がよく対比されてきたことは事実です。

それでは第二次大戦の開戦にjustice motiveはどのように効いたのでしょうか。著者の評価は、紛争の条件付け(=中間要因)としてはmoderate(7段階評価で上から4番目[下からも4番目])、各国の参戦要因(=直接要因)としては、ドイツ・ポーランドはimperceptible(1番下[全く効いていない])、フランスはvery weak(下から2番目)、イギリスはstrong(上から3番目)というもので、クリミア戦争を除くこれまでの章と比べると、あまりjustice motiveが効いていないという結論です。

とはいえ、ドイツにおけるヒトラー台頭の背景にあるドイツ国内の認識にjustice motiveは効いていたし、イギリスの参戦にはそれなりの役割を果たしたという点は、面白い点です。

授業では、中間要因や個々の国の評価についてそれぞれ議論がありましたが、個人的に興味深かったのはヒトラーの評価に関する部分です。著者は、「ヒトラー要因」を検討する際に、ヒトラー個人の思想、ヒトラー台頭の要因を分けて論じています。そして、個人の思想の部分でも、一見するとヒトラーがヴェルサイユ講和の「不正義」を問題にしているような箇所が、実際にはそれは政権獲得のための手段に過ぎなかったということを鋭く指摘しています。この辺りはかなり慎重に記述されており、いかに著者がjustice motiveを限定的な意味で捉えようとしているかが伝わって来ます。

やや記憶が薄れているので、この授業についてはここまで。

<木曜日>

2限:政治思想論特殊研究

Heywood

テキストは、Andrew Heywood, Political Theory: An Introduction, 3rd Edition, (Palgrave Macmillan, 2004), Chapter 4: Sovereignty, the Nation and Supranationalismのthe Nation(pp.97-109)。今回は発表担当でした。

基本的にはナショナリズムの話で、①文化的/政治的ネイション、②ナショナリズムと世界市民主義、③国民国家とグローバル化、が各節のテーマです。このテーマを一瞥して分かるように、明らかに第三節だけ浮いています。なぜ「国家」の変容をわざわざネイションを取り上げた部分でする必要があるのか、むしろステイトを取り上げた際に一緒に扱うべきではなかったのでしょうか。

この辺りと、ナショナリズム論の説明方法が授業では議論になりました。この回はあまり盛り上がらなかったので、ここまで。



続いて先週の授業です。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊研究

Welch2

テキストは、David A. Welch, Justice and the Genesis of War, (Cambridge: Cambridge University Press, 1993)の第6章(The Falklands/Malvinas War)。ケース・スタディは今回が最後になります。

フォークランド戦争については、昨年授業で読んだPainful Choicesでも取り上げられていたり、また公刊戦史の著者であるローレンス・フリードマンの講演を某研究会で聞く機会があったりと、勉強する機会がこの1年で何回かありました。

この戦争でjustice motiveがどれだけ効いたのか。著者の評価は、紛争の条件付け(=中間要因)としてはconclusive(7段階評価で1番上)、各国の参戦要因(=直接要因)としては、アルゼンチン、イギリス共にvery strong(上から2番目)というもので、こでまでのどのケースよりもjustice motiveが効いているというのが結論です。

授業は、議論というよりはフォークランド戦争そのものに関する解説的な話が中心でした。

6限:リサーチ・セミナー

第3回目となる今回は、私が発表でした。先日、某研究会で発表させて頂いたのですが、そこでの批判を踏まえて若干修正したものを報告しました。

取り上げたテーマは、この3月に刊行された1本目の論文(「国際エネルギー機関の設立と日本外交」)とと同じような話ですが、未投稿の論文なので詳細はここには書きません。

投稿論文の字数制限(2万字)と取り上げる時期の長さ(約7年)の二つをどのようにバランスさせるかを苦労し、色々と概念整理を試み続けているのですが、セミナーでも概念整理をした部分について議論が集中しました。付け焼刃的に理論を持ってきたりすると痛い目に会うなということを、リサーチ・セミナーと研究会報告で痛感しました。ただ、逆に全体の4分の3ほどを占めている、内容部分にはあまり注文が付かなかったので、苦労してまとめた甲斐はあったかなと思います。

ちなみに現在は、リサーチ・セミナーの議論を踏まえて、より「中身」の説明を中心とした形で、「はじめに」と概念整理をした部分を改稿する作業を進めています。

<木曜日>

2限:政治思想論特殊研究

Heywood

Andrew Heywood, Political Theory: An Introduction, 3rd Edition, (Palgrave Macmillan, 2004), Chapter 4: Sovereignty, the Nation and SupranationalismのSupranationalism(pp.109-119)がテキストでした。

テキストをチェックする前に分担を決めてしまったので後の祭りではありますが、どうやらこの章が自分の専門に一番近かったようです。

「超国家主義」では、どうも丸山眞男の論文が頭に浮かんでしまうので、スプラナショナリズムと書きますが、この概念は基本的に主権を国家より上位にある主体に委譲する考え方として理解していいのでしょう。

今回は、①政府間主義、②連邦主義と連邦、③世界政府の可能性、という三つの節に分かれています。国際関係論などに親しみがある人は政府間主義をスプラナショナリズムの一形態として議論していることに違和感を覚えると思いますが、著者はスプラナショナリズムの最も弱い形式として政府間主義を位置付け、ここで同盟や国際機関について説明します。残りは何があるのかというと、連邦化しつつあるものとしてEUが取り上げられ、最後の世界政府の話は一種の理想論として説明されています。

イギリス人としては珍しくEUについて熱心に説明しているのが印象的でした。

この授業は、訳語や概念の説明の仕方についてまず議論し、その後で派生的に中身を議論するという形式で進められており、前半が自分にとってのメインなのですが、今回は後半部分で出たハーバーマスのカント理解に関する議論が勉強になりました。

<土曜日>

5限:プロジェクト科目I(政治思想研究)

ゲストは山崎望先生、テーマは「ポストリベラル/ナショナルな政治共同体の模索―D・ミラー、J・ハーバーマス、A・ネグリの議論から―」でした。

5月にあった政治思想学会での報告(「ポストリベラル/ナショナルな福祉とシティズンシップの模索―D・ミラー、J・ハーバーマス、A・ネグリの議論から―」)をベースにした発表ということですが、実質的には、最近山崎先生が紀要に連載されている「世界秩序の構造変動と来るべき民主主義」の中身を展開したものといったところでしょうか。というわけで、詳しい中身は紀要の論文を見て頂ければ分かると思います。

質疑応答で議論の中心となったのは、なぜミラー、ハーバーマス、ネグリの3人なのかということと、いかなる意味において「ポスト」なのかという二つの点でしたが、印象に残ったのは、ある先生がおっしゃった「議論の中心はデモクラシー論として理解できる気がするが…」というコメントです。上記の論文にしても「来る民主主義」という言葉があるように、ご関心はデモクラシー論であるわけで、それを「福祉」や「政治共同体」に繋げる必要は無いのではないかと、このコメントを聞いて感じました。

この話にこだわるのは、「思想」の話を様々な分野に拡張する議論に違和感を持っているからです。もし「福祉」のような具体的な政策領域を論じるのであれば、数量的なデータや、現実の政治動向を押さえておく必要があるわけです。具体的な政策に近い話を論じる場合には、何がどのように「変化」したのかを明らかにしなければ、話自体が浮いてしまいます。もちろんデモクラシー論も現実的でなければいけないとは思うものの、それは思想的ないしは観念的に考察し得る規範理論の領域に属するものであり、そこでは思想的な認識を戦わせればそれなりに議論は成立する点で、「福祉」などの現実的な政策領域とは異なるのだと思います。

そんなことを考えている内に、最近流行っている「国際政治思想」的なものに自分が持つ違和感の正体が分かってきたのですが、この話はまた改めて書くことにします。


black_ships at 16:12│Comments(0)ゼミ&大学院授業 

コメントする

名前
URL
 
  絵文字