2010年05月31日

先週の授業(5月第4週)

久しぶりに優勝がかかった早慶戦、サッカー日本代表などなど、昨日はスポーツが色々ありましたが、個人的にはやはり日本ダービーが一番の注目でした。結果は、ご存知の通り伏兵エイシンフラッシュが、低評価の3歳王者ローズキングダムとの叩き合いを制して勝利。

日本ダービーが終わると、よしこれでまた新しい一年が始まるな、という気分になります。毎年のことではありますが、誕生日の直前にダービーがあるため、誕生日を迎えてもあまり新しい一年が始まる気がしません。

さて、そんなダービーは、超スローペースで流れたために、絵に描いたような「よーいドン」の競馬になってしまいました。こうなれば、距離に不安があっても切れ味がある馬が勝つというものです。ダノンシャンティの出走取り消しもあり、どの馬が本当に強いのかはよく分からないまま終わってしまったのはやや残念です。



前回のエントリーで備忘録代わりに書いた本の話に、大事な本を書き忘れていました。

fujiwara

藤原帰一先生の『新編 平和のリアリズム』(岩波現代文庫、2010年)です。新書を読み漁る前に読み終えていました。数頁の短いものも含めて、毎日一つずつ論文・論評を読み進めていたので、読み終えるまでは思いのほか日数がかかってしまいました。

新版の売りは何と言っても、「軍と警察」「帝国は国境を超える」「忘れられた人々」といった学術論文が収録されたことでしょう。

残念ながら東大社研のプロジェクト(『現代日本社会』『20世紀システム』)関連の論文は収録されていませんが、これらはどちらかと言えば歴史的視座に立って冷戦期の国際政治を検討しているものが多く、そのエッセンスは本書に収録された論考に含まれているとも言えます。

いずれにしても、この20年近くの間に著者が書いてきた国際政治論を大掴みに一冊で読めるというとてもお得な本になっています。

フィリピンという冷戦の「中心」ではなく、その影響を強く受ける「周縁」地域の研究からスタートした著者ならではの視点は、ウェスタッドがThe Global Cold War: Third World Intervention and the Making of Our Times, (Cambridge; New York: Cambridge University Press, 2005)で主張し、話題になった見方を先取りしており、日本の国際政治史家は、ウェスタッドを引く前に藤原先生の見方をもう少し検討した方がいいのではないでしょうか。

とはいえ、冷戦の影響がグローバルにあったということ、そして第三世界の出来事が米ソ対立にも影響したということはあるとしても、それが「冷戦史」なのか冷戦も重要な構成要素である「国際関係史」なのかはより慎重に考えられるべきなのだと思います。

閑話休題。そんなわけで、なかなかお得な一冊に仕上がっている『新編 平和のリアリズム』ですが、あくまで論文集は論文集なので、出来ればこの本で展開した議論を一冊の研究書としてまとめて欲しいものだなと思ってしまいます。



以上、前回の補遺を書きましたが、既に竹中治堅『参議院とは何か』、篠原初枝『国際連盟』は読み終えました。これらの本の話はまたそのうちに。



忘れない内に先週の授業について。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊研究

Welch2

今回は、↑の著者であるDavid A. Welch先生がゲスト・スピーカーでした。先生自身の学部時代からの関心、本の成り立ち、キーになる議論とコンセプトの紹介、プロスペクト理論などを採り入れた自身のその後の研究との差異などを概観といったのが大きな流れで、あとの1時間ほどはフリー・ディスカッションでした。

質問が途切れることがなく続いたため、議論になった点は多岐にわたりましたが、印象に残った点を一つだけ。それは、「自分の研究には従属変数はない」と言いきっていたことです。これには強いこだわりがあるようで、授業中に何度も繰り返していました。「自分がやっていることは過程追跡と事例研究」であり、この本でやっているのもそうだと言うのです。北米流の国際関係論と言うと、独立変数と従属変数、場合によっては媒介変数を設定し、仮説を立てて、それを論証していくのが普通だと考えてしまいますが、確かに本の中でも「変数」という言葉は出てこなかった気がします。この辺りのこだわりが、主流の理論ではなく政治心理学のアプローチを採ることにも繋がっているのかもしれません。

<木曜日>

2限:政治思想論特殊研究

Heywood

テキストは、Andrew Heywood, Political Theory: An Introduction, 3rd Edition, (Palgrave Macmillan, 2004), Chapter 3: Politics, Government and the Stateの「Government」の部分でした。

履修申告もしていない他分野の授業なのですが、なぜか発表担当になってしまい、冷や冷やしながらの発表となってしまいました。問題は専門外ということではなく、テキストをざっと読みながらレジュメを作ってしまったので、一度しかテキストを読んでいなかったということです。大筋で間違っていたところは無いと思いますが、「medieval」を「mediterranian」と読み間違えたり、「Tolstoy」を「Trotsky」と読み間違えたり(自分でも変だなと思ったのですが)、そんな細かなミスが残ってしまったのはよく無かったなと反省しています。

さて肝心のテキストの内容ですが、これがかなり不満が残るものでした。

一般に現代政治理論では「政府」や「統治」という視点は軽視されがちです。それは、「20世紀の政治学は、政治を国家との関係から切り離して、広く社会全般に存在しているとする政治観を発展させてきた」からだと説明されます(川崎修、杉田敦編『現代政治理論』有斐閣アルマ、2006年、4頁)。それは確かに理解できなくもないですが、ここで言う「政治学」とはあくまで政治理論であって、政府の役割を前提とする経験科学的な政治学(行政学、政治過程論、国際政治学など)も存在するわけで、これらの領域と現代政治理論に埋めがたい差が生まれているのは否定できないと思います。これはもちろん政治理論の側だけに問題があるわけではありませんが、一方で政治理論のある種の「弱さ」にも繋がっているのではないでしょうか。こうした中で、本書が政治理論の教科書としてGovernment(政府、統治、政治体制)をわざわざ取り上げているのはとても意義があることです。

しかし、問題はその取り上げ方です。この節で取り上げられるのは、①なぜGovernmentが必要か、②Governmentはどのように分類できるか、③Governmentと社会の関係ですが、このように書けば連関しているかに見られる各節が全く連関していないのです。また、政治体制の分類をする部分で、日本が市民的自由よりも成長を重視する開発独裁国家の典型のように書かれていたり、びっくりするような記述も散見されます。また、国家の福祉国家化や、国家の正統性といった重要な部分もここでは取り上げられません。

日本の書き方の問題はともかくとして、他の二つの問題は本書全体に共通する問題に繋がるものです。それは、本書が教科書という体裁を取りながら、実態は「政治理論事典」に近いというものです。それを無理やり、一冊の教科書のようにまとめているがゆえに、重要な情報が色々な部分に拡散し、さらに節ごとの繋がりがないという問題を引き起こしているのだと思います。

そんな不満を感じさせるテキストではありますが、勉強にはなるので、引き続き読み進めていくことにします。

5限:プロジェクト科目I(政治思想研究)

先週の授業を受けての討論でした。院生の発表は、先週の報告ではなく、課題文献に焦点が当てられていましたが、それはやはり先週の報告にまとまりが欠けていたからなのでしょうか。

もっとも討論が進むに連れて議論の焦点は先週の報告に移って行きました。個人的な収穫は議論をしている中で、課題文献で提示される考え方から導かれる「保守性」(これは別に悪い意味ではありません)が析出されてきたことです。

先週の報告には大きな不満があったために、前々回のエントリーでは触れませんでしたが、課題文献はそれなりに面白く読んでいました。社会・国家・市場の関係を考察した課題文献は、これらがそれぞれ独立して存在しているわけではなく、相互に影響し、どれだけが悪いと糾弾出来るようなものではないという点を丁寧に明らかにしているものです。このような議論は正しいと思いますが、しかし同時に、何が悪いと理論的に指摘できないが故に、現状の「打破」よりも不十分でも「秩序」を肯定する方向に議論が繋がりうるものです。もちろん、著者の先生は、そうではないと否定すると思いますが、それでも議論に潜む方向性が「革命的」でないことは間違いないと思います。

そんな収穫はあったものの……と色々書きたいことがあるのですが、これ以上書くとイライラしそうなので、ひとまず止めておきます。ただ一つ重要だと思うのは、「左」だろうと「右」だろうとそんなことはどうでもよくて、現実の政治を議論するのであれば、ちゃんと事実と背景を押さえて議論をするのが、少なくとも「政治学者」の務めだろうということです。


black_ships at 11:53│Comments(0)ゼミ&大学院授業 | 本の話

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