2010年05月22日

今週の授業(5月第3週)

先週の土曜日は戦後日本外交史の研究会に参加、月曜日はあるプロジェクトの研究会で報告、木曜日は日米関係に関するプロジェクトの研究会に参加と、授業や自分の研究以外に時間を割かれ、気が付けば、もう一週間経ってしまいました。



疲労が溜まっているのか、うまく文章がまとまりませんが、とりあえず授業記録を更新しておきます。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊研究

Welch2

今回は、David A. Welch, Justice and the Genesis of War, (Cambridge: Cambridge University Press, 1993)の第3章(The Franco-Prussian War)がテキストでした。

前回のクリミア戦争は、justice motiveが「効いた」という事例でしたが、今回の普仏戦争は逆に「効いていない」という事例でした。著者の評価では、justice motiveはフランスにとってはWeak(下から三番目:他の要因の方が重要だが、ある程度は「効いた」)で、プロシアにとってはImperceptible(一番下:まったく効いていない)ということなので、本全体にとっては、分析概念としてのjustice motiveの限界がどこにあるのかを示す意味では重要なのですが、この章だけを取り上げて読むのはやや難しいかなという印象でした。

それゆえ、授業での議論は、普仏戦争そのものというよりは、本全体の射程やjustice motiveの定義の確認といった部分になってしまいました。

次回は著者のWelch先生がゲストにいらっしゃるということで、どんな議論になるのかが今から楽しみです。

<木曜日>

2限:政治思想論特殊研究

Heywood

テキストは、Andrew Heywood, Political Theory: An Introduction, 3rd Edition, (Palgrave Macmillan, 2004), Chapter 3: Politics, Government and the Stateということで、ようやく新しい章に入りましたが、今回の範囲はPolitics(pp.52-64)まで。

この節は、①統治の技法、②公共に関する事柄、③権力と資源、という三つに分けられています。この直訳した三つの見出しを挙げただけでは、何が問題になっているのか全く分からないと思いますが、要は「政治」の範囲の話です。最も狭いのが「統治」としてのみ政治を考える場合(=①)、もう少し広く捉えればプライベートと区別される公共空間の問題として政治を考える場合(=②)、そして一番広い場合はプライベートな部分までも政治の問題として考えられる(=③)、ということです。

議論で話題になったのは、アリストテレス、アレント、シュミットといった個々の思想家の取り上げ方ですが、個人的には日本の一般的な政治理論の教科書とは異なり「統治」の話が含まれている点が興味深かったです。この点については、次回がGovernmentの節なので、その時に書くことにします。

5限:プロジェクト科目I(政治思想研究)

久しぶりに恐ろしくフラストレーションが溜まる授業でした。

課題文献は、①杉田敦「社会は存在するか」『岩波講座 哲学 10社会/公共性の哲学』(岩波書店、2009年)、②杉田敦「社会統合の境界線」齋藤純一・編『自由への問い1 社会統合――自由の相互承認に向けて』(岩波書店、2009年)、③杉田敦「解説――丸山眞男という多面体」丸山眞男(杉田敦・編)『丸山眞男セレクション』(平凡社ライブラリー、2010年)、の三つ。演題は、「政治主義の陥穽」でした。

演題からも想像出来るように、丸山眞男の「「現実」主義の陥穽」を意識しつつ、政権交代後の政治情勢を引きながら「政治主導」「現実主義」「「現実」を狭める要因」「政治の限界」をそれぞれ論じていく形で講義が行われました。

フラストレーションが溜まったのは、普天間基地移設問題が、極めて不正確なイメージ(「認識」ともいえないレベル)で、しばしば引かれ、質疑応答でも話題に上っていたからです。なぜ普天間なのか、なぜそれがいま問題になっているのか、そもそもなぜ基地が沖縄に置かれているのか、そしてそれにはどのような意義と問題があるのか。こうした重要な問題を具体的に一切話さずに、本土の沖縄に対する「差別」意識として論じているのには唖然としてしまいました。それだけならまだしも「普天間は海兵隊の訓練基地だから、それを動かすくらい出来るはず」というどこで仕入れたのかよく分からない怪しい話をしてみたり、とにかく何も問題が分かっていないということだけが分かる、という講義でした。

にもかかわらず、上から目線で「鳩山さんが、国民の間でこの問題が議論される素地を作った点は評価されるべきだ」と言われたのには絶句しました。

かつては日米安保条約と自衛隊にただ反対を唱えていれば良かった、それがいまは日米安保条約と自衛隊はいいがその在り方を問題にする、というのが「リベラル派」が多い思想業界でもマジョリティになりつつあるように思います。この辺りは時代の潮流であるとともに、藤原帰一先生の論考などの影響力があるのでしょうか。

問題は、かつての日米同盟&自衛隊反対論は、その先に「中立日本」という「あるべき姿」があり、それが坂本義和先生の議論などによってそれなりに裏付けられていたのに対し、いまのリベラルはきちんとした議論による裏付けなしに日米同盟と自衛隊の存在をなし崩しに「肯定(否定しないといった方が正確かもしれません)」し、その在り方を床屋政談レベルの知識で論じていることです。

現実政治への批判的な視座を持ち、そこからこぼれ落ちがちな「境界線」の問題を指摘することは重要だと思いますし共感しますが、いざ具体的な問題を論じる際に、基本的な事実関係や専門家の存在を無視した印象論で「政策」を安易に論じてしまうことには、驚きを禁じえませんでした。

ここまでは、普天間移設問題しか取り上げませんでしたが、他にもイギリスの自民党(Lib Dems)について話した際にも「向こうの新聞を読むと」と訳知り顔で話していた内容があまりにも表面的で驚いてしまいました。自民党の得票率が伸びていること自体は今回の選挙に始まったことではありませんし、合流前の自由党と社会民主党の選挙連合の得票率が80年代における得票率がかなり高かったことなどは少し調べればすぐに分かる話です。

政治思想を政治思想として論じるならともかく、現実政治について発言するのであれば、印象論ではなくもっと知的に真摯にデータや政策決定過程のあり方を調べた上で話して欲しいものです。

議論の質、知的な真摯さ、スピーカーとしてのスタンスの全てにおいてこれだけ苛立ちを覚えたのは久しぶりのことです。専門領域における業績が評価されている人で、授業にも期待していただけにとても残念でなりません。

とまあ、こんな感じでかなりストレスフルな時間だったので、来週の授業(院生による討論を受けての議論)の際にこの気持ちが悪い方向に作用しないように気を付けたいと思います。


black_ships at 17:56│Comments(0)ゼミ&大学院授業 

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