2010年05月19日

先々週&先週の授業(5月第1週&5月第2週)

色々とやることに追われ、といういつもの言い訳だけではなく、ゴールデン・ウィーク中にイタリア映画祭に何回か行ってみたり、友人達と河口湖に行ってみたりと休んでいるうちに更新が滞ってしましました。

既に今週の授業が今日あったのですが、まずは滞っていた分を更新しておくことにします。



今回はやや変則的に、先々週と先週の授業をまとめて記録しておきます。

<水曜日>

2限:国際政治論特殊研究

Welch2

先々週は「昭和の日」で授業は無し、先週は、David A. Welch, Justice and the Genesis of War, (Cambridge: Cambridge University Press, 1993)の第2章(The Crimean War)がテキストでした。

クリミア戦争の分析に際して取り上げられるのは、ロシア、トルコ、イギリス、フランスの四ヶ国で、焦点になるのはロシアです。この四ヶ国がクリミア戦争に参戦した要因を説明するのに、どれだけjustice motiveが効いたのか。ロシアはConclusive、トルコはWeak、イギリスはModerate、フランスはVery weakというのが著者の評価です。

この評価基準に関する説明を以前のエントリーでは省略してしまったので、ざっと並べておくと、Conclusive、Very storong、Strong、Moderate、Weak、Very weak、Imperceptibleという順番です(詳しくは本書の40頁参照)。

この章のポイントとなるのは、ロシアの動機としてjustice motiveがConclusiveだったと評価している点です。Conclusiveという評価は、「他の要因は見当たらず、justice motiveは圧倒的に戦争の原因に影響を与えた」という極めて強いものです。

本当にそこまで言えるのかというのが授業での議論の中心で、討論者はあえてリアリスト的な観点からロシアの行動を説明するという形で議論をしていました。

落ち着いた筆致が印象的だったPainful Choices と比べると若干筆が滑っているなというのが率直な感想で、この部分もConclusiveではなくVery Strongくらいにしておけば、あまり反論も無かったような気がします。

中身の具体的な説明をしようと思うと、背景説明をする必要が出てきて面倒なので、ひとまずここまで。

<木曜日>

2限:政治思想論特殊研究

Heywood

テキストは、Andrew Heywood, Political Theory: An Introduction, 3rd Edition, (Palgrave Macmillan, 2004), Chapter 2: Human Nature, the Individual, and Societyで、先々週はthe Individual(pp.26-40)、先週はSociety(pp.40-49)でした。

この本は実にシンプルな構成で、各章の表題には必ず三つの概念――第2章はHuman Natureとthe IndividualとSociety――が挙げられており、それがそのまま各節となります。そしてその概念について、さらにいくつかに分けて、関連する論者を挙げながら概説していくというスタイルが貫かれています。

the Individualの節では、①個人主義、②個人とコミュニティ、③政治における個人が、Societyの節では、①コレクティヴィズム、②社会の理論、③社会的亀裂とアイデンティティをそれぞれ検討しています。

(蛇足ですが、どうもcollectivismを集産主義と訳すと変なニュアンスがある気がして仕方がありません。)

二回の授業を通じて議論になったのが、著者の個人主義(individualism)の捉え方で、それが(規範としての)政治的個人主義と方法論的個人主義を混同しているのではないかということです。これは確かにと思う部分がいくつかあり、著者の議論を素直に読んでいると、方法論的個人主義を取れば必ず政治的個人主義になるかのように、またその逆に方法論的にコレクティヴィズムを取れば政治的にもコレクティヴィズムになるかのように読める箇所がいくつかありました。

この批判はとりわけ先生が強く言っていて、なるほどと思う一方で、外交史や国際政治学を研究をしている立場からは若干の留保を付けたくなるもので、いくつか発言をしました。

というのも、国際政治を検討する際に中心となるアクターは「国家」だからです。もちろんアクターが多元化しているといったことは指摘されるにせよ、中心的かつ圧倒的に影響力が大きなアクターは「国家」です。では、その「国家」の行動を説明対象とする場合は、方法論的に個人主義なのかそれともコレクティヴィズムなのかというのは大きな問題です。国際政治学(というよりも国際関係論)では、国際システムか国家かという形で定式化される問題ですが、「国家」というまとまりを一つのアクターとして仮定している時点で方法論的に厳密な個人主義にはなり得ないわけです。

こんなことを頭の中で考えていてもあまり意味はないかもしれませんが、具体的に外交交渉や国際政治の問題が国内社会に影響を与える場合などを考える時には、この問題は詰めておく必要があるのかもしれません。

5限:プロジェクト科目I(政治思想研究)

kawazoe

先々週の授業は、『ホッブズ 人為と自然――自由意思論争から政治思想へ』(創文社、2010年)を刊行されたばかりの川添美央子先生がゲストでした。そして、先週は報告を受けての院生の討論……のはずが、討論の週も先生ご登場、さらに報告者の一人が授業中に倒れるというかなり波乱含みの授業となりました。

川添先生の報告は、参加者が課題書を読んでいるという前提で「『ホッブズ 人為と自然』 その背景――スアレス、デカルト、ホッブズ――」と題して行われました。本ではそれほど詳しく書かなかったホッブズの思想史位置をスアレスとデカルトを取り上げることをとして明らかにするというもので、この本の思想史的意義が実はいまいち分からなかった私にとってはとても興味深い報告でした。

授業の際の質疑応答で話題になったことは、本の中心的なテーゼであるホッブズの中で「契約」よりも「制作」が重要な契機であるという主張や、「第三者的理性」の意義、ホッブズを「近代への過渡期の思想家」として意義づけている点などでした。

授業での報告で、スアレスというホッブズ以前の思想家、そしてデカルトという同時代の思想家との関係が詳しく紹介されたことで、ホッブズの思想がどのような文脈の中で形成されたのかということはそれなりに分かりましたが、やはり疑問に残ったのは、それではそのホッブズの思想(哲学)史的な新しさは、その後の時代の流れの中ではどのように意義づけることが出来るのかということです。

この点と、『創文』2010年4月号の論考(「『リヴァイアサン』の光と闇――『ホッブズ 人為と自然』によせて――」)でホッブズ思想の光として強調されている「第三者的理性」の話を、より詳しく先週の授業で聞こうと思ったのですが、報告者の院生が倒れるというアクシデントにより聞くチャンスを逃してしまいました。

『ホッブズ 人為と自然』については、その内に『創文』で特集が組まれるのを期待しつつ、自分の感想は温めておくことにします。


black_ships at 16:15│Comments(0)ゼミ&大学院授業 | 本の話

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