2010年04月23日

堂目卓生「経済学の基礎としての人間研究」

テープ起こしに疲れたので、気分転換を兼ねて昨日の残りを更新しておきます。



5限:プロジェクト科目I(政治思想研究)

前週の報告(「経済学の基礎としての人間研究:学史的考察」)を受けての討論を担当しました。発表者がいない授業での討論(≒欠席裁判)ということで、やや論争的に討論原稿を作成してみました。原稿は↓に載せておきます。

堂目先生の報告内容のエッセンスは、「人間学としての経済学」という形で『Foresight』誌2009年8月号~2010年4月号までに連載されているので、ご関心がある方はそちらを見て頂ければと思います(ライオネル・ロビンズの部分は掲載されませんでしたが……ここにも休刊の余波が)。

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さて、授業で話題になったのは、下記の討論内容そのものというよりも、堂目先生の前著『アダム・スミス――『道徳感情論』と『国富論』の世界』(中公新書、2008年)との関連でした。もちろん、『アダム・スミス』を読んでいたからこそ堂目先生をリクエストしたくらいで、それなりにしっかりと読み込んでいたはずだったのですが、討論は前週の報告に対応する形で行ったために、やや議論が浅くなってしまったかなと反省しています。

授業で先生方が議論をしているのを聞きながら、『アダム・スミス』の付箋を付けていた部分を見返してみると、明らかに前週の報告とは異なるスミスの人間像を堂目先生が描き出しているので、そのギャップに少し驚いてしまいました。

詳しくは下記原稿を見て頂きたいのですが、前週の報告は、「個人の規範原理→立法者の規範原理」という枠組みを前提として、主流派経済学の発展に寄与した7人のイギリスの経済学者の人間観と経済学としての主張を検討したものでした。つまり、ここでのスミスは経済学の祖としての位置付けを与えられているわけです。この扱いは『アダム・スミス』とは若干異なるものです。『アダム・スミス』では、経済学者としてよりも道徳哲学者としてのスミスを重視しています。それゆえ、そこで描き出されるスミスの人間観として常に強調されるのは、「社会的存在としての人間」ということです。ここからは「個人の規範原理→立法者の規範原理」という単純な図式は導き出されません。

結局、授業での議論の多くが『アダム・スミス』における議論と前週の報告の齟齬を確認するような形になってしまったのは、討論に『アダム・スミス』での議論を入れなかったためだと思うので、この点が失敗と言えば失敗でしょうか。

とはいえ、『アダム・スミス』における堂目先生の議論を重視して、「人間学としての経済学」の発展可能性を考えても、やはりそこには多大な困難が伴うのだと思います。この辺りは報告原稿をご覧ください。

なお、授業での議論では、政策科学に対する不信感のようなものが様々な形で表明されましたが、(言い方は悪いですが)それは政治学者にありがちな「不感症」というものです。政治の議論無しに経済政策を論じることが出来ないのと同じように、現代社会では経済の議論を無視して政治を論じることは出来ません。

いずれにしても、専門分化が進んだこの21世紀における学問の難しさのようなものについて考えさせられる時間でした。



堂目卓生「経済学の基礎としての人間研究:学史的考察」を受けて

1 はじめに

先週の堂目先生の報告では、イギリスの経済学者7人(ヒューム、スミス、ベンサム、ジョン・ステュアート・ミル、マーシャル、ケインズ、ロビンズ)を例にとって「人間研究にもとづいた経済学」の構想が、どのように取り組まれてきたかが考察された。その結論は、「経済学者がどのような人間観や社会観をもつかということが経済学の発展の方向を決定する上で重要だということである」。

ここで、まず確認しておかなければならないことは、報告の基となった原稿は2009年度日本経済学会秋季大会のための報告ペーパーであり経済学者に向けられたものだということである。当然のことながら、政治学者に向けられたものではない。つまり、報告の問題関心は、「自己利益の最大化に向けて利己的・合理的に行動する経済人(homo-economics)」を前提とする主流派の経済学(とりわけ理論経済学)のあり方に対する危機感である。

とはいえ、報告でも指摘されていたように、行動経済学や実験経済学など「経済人」を前提としない経済学も近年徐々に広がりつつあるし(1)、ゲーム理論に基づいた比較制度分析のように単一の市場ではなく「多元的経済の普遍的分析」を目指す(2)学派も登場している。また、ミクロ経済学や厚生経済学の観点から貧困のメカニズムを明らかにしたアマルティア・センの研究など、社会的公正と分配の問題に取り組む経済学者は現在も存在する(3)。しかしながら、現在の主流があくまで「経済人」を前提とした研究であることは間違いない。そうした研究の多くが、市場のメカニズムの解明には力を発揮しても、現実の経済問題に対して有効な処方箋を提供できていないという批判は、サブプライム・ローン問題を発端とする数年来の世界不況によって再び強くなっている。

こうした経済学の状況――そして経済学の置かれた状況――を踏まえて、経済学の発展に寄与した多くの経済学者が、実は「人間とは何か、人間は何を求める存在なのかをよく考えた上で経済のありかたを論じようとしてきた」(4)ことを明らかにし、経済学にとっての人間研究の重要性を指摘する堂目先生の意図には共感するものである。しかしながら、報告を受けての印象は、むしろ、取り上げられた経済学者達――そして堂目先生の報告――が前提としている「人間観」ないしはその枠組みこそが、経済学を経済学たらしめているものであり、「人間学としての経済学」を成立させることを難しくしているのではないだろうか、というものであった。

以下では、簡単に報告の枠組みをまとめた上で、そこに潜む経済学的思考の(政治学の視角から見た)問題を析出することを目指して、議論を進めていく。

(1) 行動経済学の多様な研究動向を押さえた入門書としては、差し当たり、友野典男『行動経済学――経済は「感情」で動いている』(光文社新書、2006年)。
(2) 青木昌彦『比較制度分析序説』(講談社学術文庫、2008年)、8頁。
(3) 経済学の草創期から現代までの経済学史を簡潔にまとめたものとして、根井雅弘『入門 経済学の歴史』(ちくま新書、2010年)。
(4) 堂目卓生「人間学としての経済学 連載第1回 経済学は「人間の心」をどう扱ってきたか」『フォーサイト』2009年8月号、35頁。同連載は、先週の報告ペーパーを土台に一般向けに書かれたものである。


2 堂目先生の議論の枠組み(=「人間学としての経済学」)

はじめに先週の報告の議論の枠組みを簡単に確認しておきたい。先に述べたように、報告で取り上げられたのはイギリスの7人の経済学者(ヒューム、スミス、ベンサム、ジョン・ステュアート・ミル、マーシャル、ケインズ、ロビンズ)である。この7人は「経済学の創成と発展に貢献した人びと」であり、彼らの 「人間研究と経済学の関連」、あるいは彼らが「規範・理論・政策の関連をどのように意識し、その問題と格闘したかを鳥瞰した」のが先週の報告である。その際に前提となるのが、経済学の基礎には「人間研究」があるということである。

報告ペーパーによれば、まず「経済学は、<理論>の領域と<政策>の領域に分けられ」る。そして「理論の領域においては、「諸事実」にもとづいて「諸理論」が形成される。一方、政策の領域においては、諸事実と諸理論にもとづいて、何らかの「目標」が設定される。そして、設定された目標を最もよく達成する 「手段」が選択され、具体的な「ルール」や「制度」が構築される」。ここで重要になるのが、「人間研究」である。なぜなら、「諸事実や諸理論は、「である」で終わる命題の集まりにすぎないのに対し、目標は「べき」で終わる命題からなるからである」。それゆえ、政策当局には採用する善悪の判断基準(=「立法者の規範原理」)が求められ、そしてそれは政治的リベラリズムが成立しているならば、個人が自分や他人の行動と性格の善悪を判断する基準(=「個人の規範原理」)に大きく影響を受けると仮定されている。「人間研究」とは、「他人の行為や自分の心の観察を通じて、<規範>の領域、すなわち個人の規範原理お よび立法者の規範原理を解明すること」であり、経済学が「政策の領域をカバーしようとするかぎり、人間学的考察から独立であることはでき」ず、さらに「個人の規範原理がいかなるものであるかを考えるということは、人間とはどのようなものか、どのような原理にしたがって行動するのかということを考えることであり、その考察の結果は、諸理論にも影響する」という。

以上が、報告の前提となる枠組みであるが、ここで報告内容について一つ指摘をしておきたい。それは、この枠組みが果たして報告を通して貫かれているのかということである。この点が最も顕著に表れているのは、ロビンズを検討した箇所である。報告では、ロビンズが「経済学を人間研究から分離することを提唱」 し、経済学を「純粋経済学」化した側面が強調されている。同時にロビンズの純粋経済学の定義は、「決して価値中立的なのではなく、「自分の意思で自由に、そして合理的に選択すべき」という個人の規範原理の想定の上に成り立つものであったと見ることができる」という指摘がなされている(5)が、結論としてはあくまでロビンズの「経済学を社会的風潮や人間に関する他の学問分野の動向から隔離しようとした」ことが述べられている。しかしながら、 ロビンズの試みは堂目先生も指摘しているように、あくまで「経済学」の範囲を限定しただけであり、政策論の必要性を否定したわけではない。ロビンズの回想によれば、彼が意図したのは「経済システムが働くか、あるいは働き〈うる〉かに関する主張は、それ自身では、それが働く〈べき〉だといういかなる前提もな いことを、明らかにすること」(6)だったのである。それゆえロビンズは、この試みが「経済学者が倫理学と政策に関する自分自身の考えを持つべきではないという意味ではな」く、比喩を用いれ ば「逆に、機械がどのように動くのか、あるいは動きうるのかを知っている場合にのみ、人は機械がどのように動かなければならないのかを言う資格があると私(ロビンズ――引用者)は明確に述べた」のである(7)

もしロビンズの「経済学」の定義に従うのであれば、報告の枠組みにおける政策の部分は「経済学」にとって不要となるであろうし、その定義を受け入れないのであればロビンズの行った「経済学と政策論の峻別」ではなく、ロビンズの政策論における「人間観」を検討する必要があったのではないだろうか。確かに経済学史上の影響という点を考えればロビンズの「功績」の大きな部分は、経済学を「純粋経済学」化したことにより理論的精密性を飛躍的に高める方向へと導いたことにあるのだろう。しかし、これはあくまで経済学史上の位置付けであり、報告の枠組みとは関係が薄いのではないだろうか。

(5) 同様の指摘をするものとして、例えば、木村雄一『LSE物語――現代イギリス経済学者たちの熱き戦い』(NTT出版、2009年)、99-101頁。
(6) ライオネル・ロビンズ(田中秀夫・監訳)『一経済学者の自伝』(ミネルヴァ書房、2009年)、161頁。
(7) 同上。


3 自明視される「経済学的」思考枠組み

堂目先生の議論の枠組みに潜む「経済学的」思考枠組みの問題に話を進めていきたい。第一の問題は、「個人の規範原理→立法者の規範原理」という関係、端的に言えば「個人→社会」という関係が自明のものとして想定されていることである。

政治学においても、いかなる人間像を想定するかは重要な問題であった。古くは社会契約論を巡るホッブズやルソーの議論、最近ではリベラル=コミュニタリアン論争などを考えればいいだろう。一般に指摘されるように、確かにホッブズは、「個人」の合理的選択に基づいて政治的秩序(constitution)を創設することを企てたと評価することが出来るだろう。しかし、同時に「ホッブズに認められる合理的選択理論は、徹底的なエゴイスト(ホモ・エコノミクス)が専ら物質的な財や便益の交換を図るために行う相互作用を説明する理論装置であり、その意味では他者との信頼関係や他者に対する威信を創出するために行われる贈与等の社会的交換とは区別されるべき経済的交換の次元に限定されている」のである。こうしたホッブズの議論のアポリアは、「文化人類学や経済人類学が明らかにしているように、経済的交換が可能になるためには、その前提として社会的交換によって一定程度の信頼が確保されている必要がある点に関わっている」ことである(8)

このようなホッブズの評価に端的に表れているように、原子論的な個人を想定することは政治学では自明ではなく、むしろ様々な形で問題視されてきたことである(9)。この点は、リベラル=コミュニタリアン論争のみならず、現代におけるリベラルのアポリアとしてしばしば指摘されることでもあり、言わばこの問題は政治思想における主要な論点の一つである。むしろ、原子論的な個人を現実に想定することが難しいからこそ、人々の相互作用からなる政治的空間(ないしは公共空間)の民主性を担保することがいかに可能か議論となっているのである。堂目先生の提示する枠組みを政治学の文脈に置いてみると、その原子論的な人間観が自明視されていることが明らかであろう。

第二の問題は、分析対象としての「市場」(ないしは市場経済)が自明視されている点である。第一の問題と接続すれば、いかに各経済学者の人間観が検討されようとも、それは「経済的活動を行う個人からなる市場経済」を分析する前提として検討されているに過ぎないということである。政治学の分析対象が、(学問としての定義の曖昧さゆえに)多岐に渡ることと比較すれば、いかに経済学の分析対象が絞られているかは明らかであろう。確かに、この第二の問題は、経済学が人間の社会的活動の中でも「市場を通じて行われる経済活動」を分析対象としている以上は避けがたい問題であるし、必ずしもそれ自身に問題があるわけで はない。また、この点を問いだせば経済学が経済学でなくなる性質がある。しかし、「人間学としての経済学」を考える上では、いかに市場が形成されるのかという(政治学というよりは)社会学的な課題を自明視していることに議論の余地があることを押さえておく必要があるだろう(10)

(8) 小野紀明『政治理論の現在――思想史と理論のあいだ』(世界思想社、2005年)、11頁。
(9) 「複数性(plurality)」がハンナ・アーレントの思想のキー・コンセプトであることは多くの論者によって強調されるところである。例えば、齋藤純一『政治と複数性――民主的な公共性に向けて』(岩波書店、2008年)、を参照。
(10) ここで挙げた二つの点については、ミルトン・フリードマンと山崎正和のCorrespondence, No. 5, Winter 1999での「市場」の役割を巡る誌上論争も参考になる。この論争は山崎が「市場は(福祉政策による)同時代的な再配分もできないし、(資源の節約や環境保護を通じて)未来の世代との再配分も実現できない。また市場は、犯罪を防ぐ力もなければ、市場にとって安定し安全な環境を維持することもしない」と述べたのに対し、フリードマンが山崎の市場の定義を「厳格過ぎる」とし、山崎が市場で実現不可能として挙げた多くのことは「自由な民間市場」ならば実現可能だと批判したことによるものである。山崎は、批判に対する応答の最後に、「あなた(フリードマン――引用者)の立場は自発的に行動する個人が最初に存在して、彼らが協力して文明が成立するものです。しかしながら私の立場は、文明あるいは人間が自由な存在として自己を発展させる人と人との関係が専攻して存在するというものです。市場や国家、その他の制度はすべて文明の長い歴史の産物であり、同時にそれ自身が文明の構成要素として同等の重要性を持つものです」と述べる。二人の市場観、人間観の違いは、経済学的思考と社会学的思考の違いを端的に表していると言えるだろう。いかに経済学者の前提が他の社会科学と違うかということはここにも明らかである。


4 「人間学としての経済学」は可能か

以上に概観したような「経済学的思考」枠組みの強さを踏まえると、「人間学としての経済学」の困難さが浮き彫りとなるだろう。すなわち、報告で取り上げたいずれの経済学者も、政治学における多様な人間観の中に置いてみれば、価値中立的なわけでも、また多様なわけでもないのである。つまり、報告が前提とする枠組みそのものが極めて「経済学的」であり、むしろ、このような枠組みで捉えられる人間観を多くの経済学者が共有していたからこそ、かつての政治経済学は「経済人」を基礎とする現在の経済学に発展したと説明した方がより実態を適切に説明出来るのではないだろうか。

もちろん、ここでこのような経済学のあり方や成り立ちを批判しているわけではない。むしろ、経済学的な人間観や限定された分析対象を揺るがせることは、経済学を経済学たらしめているものを失わせる危険を持つとも言える。事実、「経済人」の前提を受け入れない行動経済学は、「新しい対象や領域を開拓するのではなく、経済に対する新しい視点からの研究、つまり新たな研究プログラム」であり、「この意味で行動経済学は、既存の経済学と同じ研究領域を扱う、いわば「古い酒を新しい革袋に入れる」という性格を持っている」と説明される(11)。このように考えれば行動経済学は、経済学の下位分野に属するというよりは、心理学(実験心理学)の下位分野に属する学問と言えるのかもしれない。

(11) 友野『行動経済学』、23-24頁。


5 おわりに

ここまで展開してきた議論を唯名論的――つまるところ経済学をどのように定義するのかということに尽きる――と批判することは可能だろうが、ここではいわゆる「経済学」に標準的な思考を、堂目先生の議論は強く持っているということを改めて指摘したい。確かに「政策論」を語る経済学者に人間学や規範理論の素養 が欠けているものが少なくないことは間違いないだろう。また、「政治」を単なる経済活動の障碍としか考えない経済学者も少なくない。

こうした状況の中で、経済学の前提として人間学を考えるべきだという堂目先生の問題意識は重要である。しかしながら、報告で明らかにされた各経済学者の人間学は、むしろ極めて「経済学的」であることはより認識されなければならないだろう。このように考えてくると、堂目先生の批判するロビンズの議論が実は正鵠を射ているのかもしれない。すなわち、経済学は理論経済学(純粋経済学)として精緻化し、その上で政策論を立てる際には倫理学をはじめとする規範的な 議論を考えればいいのである。もちろん、現実には経済学を理論と政策論にきれいに分けることは出来ず、教育プログラムとしては相互の連関を考慮する必要はあるのだろう。しかし、そこで問題とされるべきは、理論と政策論の分離ということではなく、むしろ「個人の規範原理」が「立法者の規範原理」に繋がるという経済学者一般に共通し、堂目先生も前提としている単純な理解を問い直すことにあるのではないだろうか。

black_ships at 12:01│Comments(2)ゼミ&大学院授業 | アウトプット(?)

この記事へのコメント

1. Posted by 小僧   2010年04月25日 18:42
たまたまいきついて拝見させていただいております。一橋大学のD1でこさかと申します。政治外交史と社会史の統合という観点から冷戦史研究に取り組んでいます。

ブログでしばしば書かれている冷戦史の読書会なるものに興味を抱いたのですが詳しい情報いただけませんでしょうか?時間等都合が合うかどうかわかりませんが、機会があればぜひ参加したいと思っています。

2. Posted by 管理人   2010年04月25日 22:48
>こさか様

お問い合わせありがとうございます。
冷戦史の読書会ですが、主要メンバーが留学中につき現在は休止中です。また、申し訳ありませんが、人数を絞って集中的に議論をすることに主眼があるため、新規メンバーの募集はしておりません。
ご期待に添えず申し訳ございませんが、ご理解頂きますようお願い申し上げます。

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