2008年11月10日

祝日本シリーズ制覇。

久しぶりに、我が西武が日本シリーズを制覇してくれました(拍手)。

昨年は、中日ファンの先輩の横で「継投完全試合」の瞬間をビール片手に見ていたのですが、今年は巨人ファンの家族に囲まれて自宅でその瞬間を迎えました。

清原、デストラーデ、渡辺久信らを擁した全盛時代の西武を小学校時代に見てきた我々の世代には、西武ファンもアンチ西武ファンも多いと思います。もちろん自分は一貫して西武ファンだったわけですが、今年の西武は、西武ファンのみならず野球好きにとって魅力のあるチームだったのではないでしょうか。ブライアントばりの低打率・三振数・ホームラン数を誇る「おかわり君」や、天才肌の中島、好き勝手に走る片岡などなど、かつての森野球のイメージを一掃する活き活きとしたチームが、こうして日本一になったのは一野球ファンとしても嬉しいことです。

来年は、スタジアムへ行きたいです。



今週末は研究会が二つありました。

土曜日は、私も三月に発表させて頂いた若手外交史家を中心とした研究会で、同学年の友人(他大)の研究発表でした。色々な研究会や資料調査の時期と重なったためかやや参加人数は少なかったのですが、アメリカの対日政策について今日本で最も詳しいであろう研究者五人の内の数人がいたため、かなりディープな話が展開されていました。全くの門外漢というわけではないですが、基本的に日本の資料を使って日本外交をやっている自分にとっては、とにかく勉強になりました。発表に基となった論文は某雑誌に発表されるそうで、同期ながら先をゆく友人を見て自分も頑張らなければいけないな、と再確認した次第です。

日曜日は、例の冷戦史読書会でした。気が付けば、この読書会も今回で七回目です。修論執筆を抱えるメンバーが数人いることから、今回から数回のメインテキストは日本語です。というわけで今回のテキストは、ヴォイチェフ・マストニーの『冷戦とは何だったのか』(原題:The Cold War and Soviet Insecurity: The Stalin Years)、サブテキストは、前回著書を読んだメルヴィン・レフラーによるギャディスの本を中心に「新正統主義」研究を取り上げたレビュー・エッセイである、The Cold War: What Do "We Now Know"?, The American Historical Review, Vol.104, No.2 (April, 1999) でした。

これまでの読書会では、もっぱらアメリカとヨーロッパの視点からの研究が中心だったので、バランスを取ろうということでこの本を取り上げることになりました。メンバーにソ連や東欧の専門家がいないこともあり、基本的な事実関係等の知識がこれまで読んできて本で扱われているテーマと比べるとあまりに少ないため、議論がややうまく回らなった印象はありますが、個人的には今回の研究会を通して何となくマストニーのこの本を相対化して理解することに近付けたような気がするので満足しています。

それにしても、学部時代に読んだはずなのに、ほとんど内容を覚えておらず、初めて読んだのと変わらない印象だったことに愕然としてしまいました。人間の記憶はあてにならないものだということを再確認しました。やはり、簡単なメモであっても感想等を残しておいた方がいいのかもしれません。

いつもの通り、書評形式で簡単に紹介(例の如く、研究会での報告や議論を反映しています)。ただし今回は概要は少なめです。

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ヴォイチェフ・マストニー『冷戦とは何だったのか:戦後政治史とスターリン』(柏書房)

<はじめに>

 冷戦終結は、歴史研究にも大きな影響を与えた。その最も大きな理由は、旧東側諸国の公文書が開示されたことである。かつては、西側の公文書や限られた公開情報から想像するしかなかった東側陣営の外交が、一次資料に基づいて明らかにされるようになったのだ。こうした新たな研究の代表的なものとして知られているのは、ロシア人研究者であるズーボックとプレシャコフによるInside the Kremlin's Cold War: From Stalin to Khrushchev (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1996)だが、本書もまたこうした新たな冷戦史研究の代表作である。
 東欧諸国をめぐる細かな描写や登場人物の多さから、初学者にはやや意義を理解することが難しい面もあるかもしれないが、西側の視点から冷戦史を眺めてきた我々にとって、その視点を相対化しより立体的な冷戦像を考えるためにも、本書は必読文献の一つと言えるだろう。以下、概要を簡単に紹介した上で、若干の評価を試みることにしたい。

<概要>

 はじめに、本書の議論を理解するためのカギとなる「insecurity」という概念について説明しておく必要があるだろう。「訳者あとがき」にもあるように、そもそも「security」という概念が日本語になりにくく、この「insecurity」はさらに日本語にするのが難しい言葉である。ここでは、訳者の「安全が脅かされている状態」「危険とまではいかないものの安定していない状態」というニュアンスで用いられるもの、という「定義」を挙げておくことにしよう。

 本書は、ソ連の建国や第二次大戦期の対独政策をプロローグとし、マーシャル・プランの提示に対するスターリンの反応からその叙述を始める。ソ連側の認識に従えば、トルーマン・ドクトリンはさして重要な転換点ではなく、マーシャル・プランこそが重要であった。このような従来の学説に対する様々な修正を迫る著者の姿勢が随所に垣間見えることは、本書の大きな特徴である。
 マーシャル・プランの提示とそれに対するスターリンの反応を分析する第一章以下、本書は全十章(+序章&終章)から構成されている。基本的には時系列に沿った記述であり、物語の終点は、1953年3月のスターリン死去後、ベリヤが排除された形で集団指導体制が確立する1953年7月に置かれている。その間、コミンフォルム創設、チトーとの対立、ベルリン封鎖、NATO成立、ソ連の核実験成功、中華人民共和国の成立、朝鮮戦争、対日講和といった様々な出来事があり、本書は東欧との関係を踏まえつつこれらの出来事をほぼ網羅的に検討している。

 網羅的な検討をした上での本書の結論は明快だ。それは、「安全保障が脅かされているというスターリンの認識こそ、冷戦を生みだした原因であった」(282頁)というものである。スターリンの認識は、一部の革命家によって樹立されたソ連体制と、そうであるがゆえの権力の本質的な脆弱性に由来していた。そして、スターリン及びソ連指導部にとっては、ソ連という国家と自らの権力を存続させることが目標となり、それが彼らに国内外で「安全保障が脅かされている」という感覚を過剰に持たせることとなり、陣営内における大規模な粛清と国際的な冷戦をもたらしたのであった。

<評価>

 従来の冷戦史研究を踏まえた上で、詳細に旧東側諸国の一次資料を渉猟して書かれた本書が、極めて重要な著作であることに異論は無いだろう。そうした資料的な新しさにとどまらず、「insecurity」という概念によってスターリン期のソ連を統合的に理解する視点を提示している点は、本書の大きな貢献である。
 また、冷戦の原因をソ連に帰すとともに、(二極構造下における安全保障のディレンマを強調するポスト修正主義研究と異なり)イデオロギー要因を強調する点は、ギャディスの『歴史としての冷戦』(原題:We Now Know: Rethinking Cold War History)に代表される「新正統主義」の冷戦史研究とも共通するものであるが、ギャディスの著作が「革命主義的なソ連」を強調しているのに対して、本書はより抑制的にソ連指導層の世界観とその対外政策との関係を論じている点でバランスが取れていると評価できるだろう。

 しかしながら、本書の分析に違和感がないわけではない。例えば、本書の大部分に膨大な注が付されているにも関わらず、「insecurity」という主張の核を裏づけるスターリンの認識に関する記述には、ほとんど注が付されていない点は気になるところである。全てを資料に語らせるような手法が全面的に正しいわけではなく、むしろ資料を読み込んだ上で、どのようにその資料を分析しストーリーを形成していくのかが研究者の腕の見せ所である。とはいえ、スターリンの認識は、本書の主張の核となる部分であり、さらにその点に説得力がある(いや、あり過ぎる)ために、そこに注が付されていないことは若干の問題なのかもしれない
 また、NATO成立や朝鮮戦争の開戦経緯、スターリン・ノートなど、本書は様々な箇所で従来の解釈とは異なる新たな視点を提示しているが、必ずしもその全てにおいて議論の進め方が説得的なわけではない。例えば、朝鮮戦争の場合、北朝鮮にスターリンがその許可を出す際に、著者はアチソン演説が重要だったわけではないと主張する(140頁)。それは、アメリカからの一連のシグナル以前に「スターリンは考えを変えはじめていた」からである(同上)。しかしながら、その後に続く説明は、スターリンが「毛沢東の敬意をつなげとめておくため」であったということだが(140-147頁)、アチソン演説が重要でなかったことを直接説明しているわけではない。著者自身が認める資料的な限界はあるにしても、新解釈を決定づける裏付けが弱い部分が、この朝鮮戦争開戦経緯以外にも散見される。
 
 最後に、著者独特の冷戦史理解について若干説明しておきたい。本書の結論は、上記のように極めて明快である。そしてその結論は、ニュアンスに違いはあるとはいえ冷戦の開始の責任をソ連に帰する点で、ギャディスに代表される「新正統主義」的な研究とほぼ同じである。
 しかしながら、本書からはギャディスに見られるような冷戦を「ロング・ピース」とする考え方は全く見られない。むしろ、スターリンの死の直前にソ連は弱体化していたとして、1953年初頭を、「もし独裁システムを永遠に葬り去るのにふさわしい戦争を行う適切な時機」だったと評価し、さらにその戦争は「クラウゼヴィッツが説明していたような実際の戦闘によるものではなく、中国の孫子が考えていた「戦闘を行わずして相手を屈服させる」ような計略をめぐらせるものだった」と失われた可能性を指摘している(243頁)。
 この文章に「冷戦」という言葉ではなく「独裁システム」を葬り去るとあることは示唆的である。チェコ出身の著者にとって、冷戦とは決して「ロング・ピース」ではなく、ソ連による東欧抑圧の歴史だったということなのだろう。冷戦をもたらしたのは、二極構造下の安全保障のディレンマではなく、ソビエト社会主義でありそれを体現したスターリンという個人であった。
 全体として冷静な筆致を貫く本書であるが、行間からは著者の冷戦を糾弾する「思い」のようなものが見え隠れしている。それゆえ、読者は本書から、(必ずしも著者の結論とうまく結びつかない)ソ連に必要以上に「insecurity」を感じさせたアメリカの政策を読み取ることが出来るし、その一方でそれを上回って冷戦開始に責任を持つスターリンという例外的な個人について考えさせられるだろう。この意味で、冷戦とは何だったのか、という邦題は適切であり、本書は冷戦史を考える必読文献であると評価できる。

at 15:59│Comments(0)本の話 

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