国際政治学会。『アステイオン』の季節。

2008年10月27日

先週の授業(10月第4週)

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ようやくクロマニヨンズのニュー・アルバムを入手。クロマニヨンズはBGMには不適なので、研究や勉強をしながら聴くことが出来ないのが残念です。



授業の話の前に、最近読んだ本の短評を書こうと思ったのですが、長くなってしまったので、本の話はまた今度。というわけで、いつものように授業の話を備忘録代わりに。

<水曜日>

3限:国際政治論特殊演習(院ゼミ)

今回のテキストは、レイモン・アロン『世紀末の国際関係――アロンの最後のメッセージ』(昭和堂)でした。アロンの本は比較的翻訳されているものが多いのですが、国際関係についてはこの本がほぼ唯一の翻訳です。本の大まかな内容は、前々回の記事に書いたとおりです。そこでは山崎正和の書評を引きましたが、今回は高坂正堯による「日本語版への序」から、アロンの議論の一般的な特徴を述べている部分を少しだけ引用しておきます。

 レイモン・アロンは読者に考えさせる著作家である。それは、ある程度まで、彼のスタイルであるだろう。読者はこの書物のなかで何回も疑問文に出会うだろうし、とくに現代を扱っている第二部においてはそうである。そうした場合、アロンはその問いに対する回答を持っていないわけではない。しかし、彼はすぐに解答を与えるかわりに、読者に一旦は考えさせる。そうした自らの解答を組み合わせる以外に、国際関係を理解することなどできる訳がない、とアロンは思っているのだろう。…
…静かな警戒は怠らないが、いたずらに警鐘を鳴らすことはしない。それは伝統的な叡智の精髄と言うべきものである。というのは、政治の営みにも、人生のそれと同じく、基本的な逆説があって、気をゆるめたり、逆に無闇に恐れたりすると、悲劇が実際に訪れるからである。だから、悲劇を避ける方法はまことに平凡なものであるのだが、それは考えに考えた後の平凡でなくてはならない。この書物は、ヨーロッパで積み重ねられて来た豊かな学識に基づく、平凡な智恵のすすめである。(i頁)


この「序」にあるとおり、この本で示される「解答」はごくごく平凡で、「それなりに」抑止が効いて、「それなりに」兵力が均衡し、「それなりに」論理的に考えれば、「平和は不可能だが戦争も起こりそうもない」というものです。

授業では、抑止の問題、アロンの議論の作り方、アロンの対ソ評価などなど、様々な点について議論しましたが、多分我々学生にとって重要だったのは、そのアロンの結論そのものではなく、高坂正堯が言うように読者としてアロンの提示した問題について考え、そして様々な選択肢や議論を検討した上で結論に至るというそのプロセスを追って、さらなる疑問について考えるということにあったのではないでしょうか。

1962年と1982年というアロンの比較を踏まえて2002年/2008年について議論もしたかったので、それが時間の関係で出来なかったのは残念ですが、それでも前回に続いて実りのある授業でした。

とはいえ、非常に示唆に富むものではありますが、やはり「理論」とは言えないのではないか、という批判は十分当たっているような気がします。どのような因果関係で抑止が働くのかといった本書の根幹となる部分について、クリアカットな説明はなく、それゆえこのアロンの議論を基に「理論」を構築していくのは容易な作業ではありません。

そんなアロンの問題点を検討すべく、次回はオラン・ヤングのアロン批判を読む予定です。

<木曜日>

2限:Alternative Approaches to Japanese Foreign Policy

先週に引き続き国際政治理論のお話でした。今回は「リベラリズム」がテーマで、テキストは、Andrew Moravcsik, “Liberal International Relations Theory: A Social Scientific Assessment,” Weatherhead Center for International Affairs Working Paper 01-02 (Cambridge, MA: Weatherhead Center for International Affairs, April 2001) です。題名から察するに、2003年に出されたエルマン夫妻の編著、Progress in International Relations Theory: Appraising the Field に収められた論文の基となったもののようです。

この論文は、科学哲学者であるラカトシュの視角に則って、科学的研究プログラム(Scientific Reserch Program [SRP])としてリベラリズムについて考察したものです。リベラリズムの中心的な核となる要素は何かといったことを明確にした上で、それをその他の理論との比較の観点から考察し、リベラリズムの優位性を明らかにするというのが著者の意図しているところのようです。

細かい議論は割愛しますが、結論部分でラカトシュの視角を国際関係理論に適用するには慎重になる必要があると主張したり、さらにやはり国際関係理論は折衷的なアプローチを取った方がよいと主張したりと、分析の視角と結論がかみ合っていないことから、正直なところあまり論文として完成度が高くないような気がします。

通常リベラリズムの代表的なものと考えられている制度論(もしくはネオリベラル制度論)をそこから除外したり、コンストラクティヴィズムを無理やりリベラリズムの枠内に入れたり、と細かい議論にも無理がある部分が多く、読んでいて色々とストレスが溜まる論文でした。

これらの点は授業で先生も指摘(もしくはそういった学生の質問に同意)していた部分です。しかし、これらの批判を指摘するのであれば、なぜこの論文を指定したのかがいまいちよく分かりません。そんなわけで、授業もやや消化不良気味というのが今回の感想です。もっとも、そんな消化不良気味な気持ちになるのはひとえに自分が英語でタイミング良く発言する力がないことによるものなので、改善できるように鋭意努力するつもりです。

次回は、政治心理学という自分に全く馴染みのないものがテキストに指定されているので、楽しみな半面やや不安でもあります。

4限:国際政治論特殊演習(もう一つの院ゼミ)

今週は、今書いている論文の発表でした。他に並行してやっていることが多かったこともあり、プレゼンテーションの仕方を全く考えていなかったことのマイナスがもろに出てしまった発表になってしまいましたが、それなりに有用なコメントを貰うことが出来ました。たまたま今回のもう一つの発表が自分と近い時代を対象にしたものだったことが、意義付けを考える上でも、またコメントを貰う点からもよかったです。

細かい事実関係や議論の構成といったことよりも、どのように意義付けを行うかといったことや、「はじめに」の書き方の調整をする段階に研究が進んできたように思います。再来週水曜の院ゼミで、同じ研究について報告をすることになっているので、それまでに議論の再整理を行うとともに、細かい文章の修正等も終わらせることにしたいと思います。

論文を書いている当初はもっと早く完成させるつもりだったのですが、一本目の公刊論文(無事公刊出来るかは分かりませんが)ということで今回は焦らずにじっくりと取り組むという気持ちに最近変わってきました。歴史研究としては新しい時代の日本外交をやっていることから、資料は当然不十分なものになってしまいます。そうであればこそ、議論の枠組みや構成、文章の読みやすさや意義付けなどで勝負をしなければいけません。「言うは易し」ですが、これを実際に行うことは難しいことなので、これから10日程は本気で頑張らなければなりません。

5限:プロジェクト科目(政治思想研究)

前回の報告(「光の政治哲学――スフラワルディーとモダンあるいは政治社会への根源的な想像力の問題」)を受けての討論。前週の議論に続いて、この議論がどのように政治哲学なのか、ということがメインに議論がされましたが、やはり納得出来ない部分が多かったです。ある先生は、この議論の現代的な意義や政治哲学としての意義ではなく西洋近代とは異なるこういった「歴史」があったことを知る上で有用、というコメントが大体の落とし所なのかもしれません。

それにしても、根本的に知識がなく付け焼刃することすら出来ない深さを持つイスラム政治思想(それも12世紀)について考えるというのは、予想以上に難しいものでした。

at 14:54│Comments(0) ゼミ&大学院授業 

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