2008年07月29日

服部龍二『広田弘毅 「悲劇の宰相」の実像』(中公新書)

試験が終わったのか、昨日までは中庭に溢れていた学生が急にいなくなった。

夏は大学に来るだけでもしんどいので、自宅の近くにある某大学の駒場キャンパスで勉強することも多い。昨年思った事だが、夏休みになっても駒場の図書館には人が結構来ているところはさすがだ。高校時代は部活ばかりで勉強など全然していなかった自分がそんなことを思うようになるのだから、人間変わるものだ。



残務処理。

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↑残り数章のところで放置していたものを読了。六月後半に読み始めたのだが、七月は忙しい毎日が続いたのですっかり止まっていたものだ。

当面、理論的なアプローチで研究をするつもりはないので、ただの「お勉強」だが、実際に勉強になった。最新の理論動向を踏まえた上で、過不足無く重要な議論を整理することにかけて著者は超一流だ(もっとも、専門的に理論を勉強している人からは異論があるかもしれないが)。レジーム論やグローバル・ガバナンスの議論は、自分の研究にも結構関係してくるところなので、全編に渡って示唆に富んでいた。

もっとも、こうやって勉強をすればするほど、自分は歴史的なアプローチの方が「身体に合う」のだということがよく分かってくる。歴史は概説書でも面白いが、理論の概説書は勉強にはなっても自分には面白くはない。歴史的なアプローチをしている研究者が見ても耐えうる実証をしている理論研究であれば面白いのだろうが、やはりそういう研究はほとんどない。アイケンベリーの研究などは、歴史と理論をうまく架橋しているのだろうが、それでも歴史を踏まえているだけであって細かい間違いは多い。まー、議論が面白ければそれでいいのであるが。

ここで理論の勉強はひと休み。次の「お勉強」は経済学の予定だが、こちらは春休みに手を付けて以来止まっているもの。国際政治理論とは比べ物にならないほど、精緻かつ細分化が進んでいる経済学なので、どこから手を付けるべきか迷うところだが、ここはまず標準的な教科書を読み込むところから始めることにしたい。



この本は、著者の先生に頂いたもの。忙しい立場になっても筆のスピードが落ちず、そしてそれぞれに着実に大量の史料を読み込む研究を発表し続けることは本当にすごいことだ。

読後の「食い足りない感」が強かった前著と比べると、メッセージ性、ストーリーの面白さが全然違う、というのが第一の印象。戦前は全くの素人なので、あまり専門的なことは言えないのだが、簡単に紹介しておきたい。

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服部龍二『広田弘毅 「悲劇の宰相」の実像』(中公新書、2008年)

 広田弘毅と聞いて多くの日本人が思い浮かべるのは、城山三郎の『落日燃ゆ』だろう。そこからイメージされる広田像は、何よりも東京裁判で文官として唯一絞首刑となった「悲劇の宰相」である。果たしてこの「悲劇の宰相」は、広田の実像であろうか。こう著者は問いかける。

 広田は、明治11年(1878年)に福岡に生まれた。福岡時代に受けた教育、そして福岡時代に培った人脈は広田を憂国の士とした。なぜ広田は政党政治に冷淡であったのか、また第一次外相期になぜ広田は日中提携を模索したのか。こうした広田の歩みを考える上で、福岡時代にまでさかのぼる玄洋社との関係が重要な手がかりを与えてくれる。玄洋社と広田の関係は、『落日燃ゆ』や広田弘毅伝記刊行会による『広田弘毅』では否定されていたものだが、著者は『玄洋』などの新資料を用いて丁寧にその関係を明らかにしている。

 玄洋社との関係だけでなく、各時代における広田の足跡を著者は徹底的に一次資料を渉猟して明らかにする。著者はこれまでに『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』(有斐閣、2001年)、『幣原喜重郎と二十世紀の日本 外交と民主主義』(有斐閣、2006年)などの著作を発表し、昭和戦前期の日本外交について着実な歴史研究を重ねてきており、本書もこれまでの著者の研究の延長上にある。とりわけ、前著『幣原喜重郎と二十世紀の日本』は昭和戦前期に活躍した外交指導者の評伝であり、本章と対を成している。前著は、膨大な一次資料に基づいて新たな幣原象を提示しようとした労作であるが、一方で著者の幣原評価が曖昧であった点に若干の消化不良感が残るものであった。それに対して本書の提示する広田評価は明確だ。政治指導者の“罪”とは何か。著者は、着実な実証に基づいて広田の“罪”を明らかにしている。

 苦学の末に外務省に入省した広田であったが、広田より6年年長に過ぎない幣原が、1915年には外務次官となり、その後駐米大使、外相とキャリアを重ねていく中で、広田は長く不遇の時代が続いた。政策的には幣原ら外務省内の主流派に近かったにも関わらず、広田は主流派とはむしろ距離を置いていた。
 こうした不遇にあった広田であったが、政論を好み、すでに1920年代から「政治家の風格」を持っていた。その後、駐オランダ公使、駐ソ大使として活躍を重ねていく中で、広田は徐々に外相の有力候補として挙げられるようになっていった。広田が外相の有力候補として目されるようになったのは、幣原ら1920年代の外務省主流派と距離を置いていたからであった。時代の雰囲気が、幣原ら親欧米派に厳しくなる中で、元来「憂国の士」であり大陸にも関心を持っていた広田は新たな外交指導者として期待されたのだ。さらに、政党政治に冷淡な広田の性格も満州事変後の雰囲気に合った。このように描かれる広田の外相就任までの軌跡は、なぜ広田が1930年代を代表する外交指導者となったのかを考える上で、非常に説得的であろう。

 こうして第2章までに描かれる外相就任までの経緯を踏まえて、以下第3章で第一次外相期、第4章で首相時代、第5章で第二次外相期がそれぞれ検討されている。さらに、第6章では一重臣としての戦時中の広田、そして第7章では東京裁判が描かれる。第3章から第5章の各章が取り上げている時期については、これまでにもいくつかの研究で検討されてきたものであり、本書の主張と重なるものもあるが、本書では一貫して広田を通してこの時代も見ており、その分広田の“罪”がより明確である。
 第一次外相期の「天羽声明」や華北分離工作、首相時代の軍備大臣現役武官制」、そして第二次外相期の「国民政府を対手とせず」にしても、広田は概して部下を掌握いきれず、そして軍部に対する抵抗姿勢が弱かった。東京裁判で広田は「積極的な追随者」の烙印を押されるが、こう言われても仕方がない側面がその外交指導には見られたと言えよう。この点で、近衛文麿とともに広田の“罪”は大きい。

 広田の具体的な外交観がもっぱら第一次外相期に書かれた「日本外交の基礎」(『中央公論』1934年1月号)に拠っている点や、外相就任の経緯が詳らかになっていない点などやや不満が残る箇所もあるが、本書の叙述は全体として、日記などの私文書がなく聞き書等も重要なものは東京裁判資料に限られるという根本資料の不在を感じさせない深さがある。
 本書は「悲劇の宰相」の実像を描き出すとともに、1930年代という時代を考える上でも重要である。文章も読みやすく、また物語としても面白い優れた外交評伝の誕生を喜びたい。

at 13:50│Comments(0)本の話 

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