2008年07月28日

ばてているような、ばてていないような。

毎年のことながら、梅雨明け後の猛烈な暑さにやられている。

食欲が無くなり、眠りが浅くなる。食欲と睡眠欲を直撃されるのがしんどい。といって、例年ほどの辛さではないような気もする。ばてているような、ばてていないような、よく分からない感じだ。体重が下がり始めたらいよいよ黄信号なので、無理してでもちゃんと食べていこうと思う。

先週で、授業&バイトがひと区切りついたので、ようやく自分の研究と試験勉強に専念できるようになった。もっとも、山積する文献達を片づけていく必要もあるので、七月一杯は残務処理に追われる日々になりそうだ。



研究の話ばかりだと飽きるので、小説の話を少しだけ。

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昔は壮大な物語や、大河小説のようなものが好きだったのだが、最近は何気ない日常を描いている保坂和志の小説をよく読むようになった。何でだろうな~、と漠然と考えていた時にふと思ったのが、今の自分の生活との関係だ。

最近よく読むのは研究書や学術論文、それに外交文書。どれも、一つ一つの文章にどれだけ濃密な意味を盛り込むかが問われるものだ。研究書と学術論文は、全体の流れ、細部の実証などがよく練り込まれている(練り込まれていないものもある)。外交文書などの公文書は、当然のことながら仕事のための文書であり、一つ一つの文章に意味がない文書には意味がない。そんな情報過多な文章からの逃避の結果として、何気ない日常を描いた小説が心地いいのかもしれない。

そんなことを言っていても、徹底的に作り込まれた三島由紀夫の小説などをそのうち読みたくなるような気もするから、人間の心はよく分からない。



週末は研究会に参加してきた。

前半は、環境史のアプローチを切り口とした70年代の日本外交史研究の発表だった。前回のトランス・ナショナル・ヒストリーを謳った発表、そして今回の環境史とくると、やはり従来型の外交史研究には限界があるのだろうか、と考えてしまう。もっとも、今回の発表は対象が「環境」に関するものであったが、分析手法等は従来型の外交史であった。いずれにしても完成した論文を読むのが楽しみだ。

後半は、1970年代を中心としたアメリカにおける文書公開状況について。各国の史料館の状況については、四月に他の研究会でも紹介があったし、沖縄公文書館のアーキビストである仲本和彦氏による『研究者のためのアメリカ国立公文書館徹底ガイド』が発売されるなど、このところ研究者の卵の卵である自分にとって非常に助かる情報を得る機会が増えている。

それにつけても、アメリカの資料公開の充実ぶりと我が国の貧弱さを比べると嘆息してしまう。



先週提出したレポートの話。

今期最後の課題は、国際政治論特殊研究(公刊外交文書読解)のレポートだ。

提示されたテーマは「デタントとは何だったのか」とかなり大きなもので、これをどう料理するかが腕の見せ所だ。色々と考えた結果として結局普段漠然と考えている冷戦史全体に関係するような大きな話をまとめてみつつ、デタントを考えてみようということにした。

そんな大それたことをやろうとした当然の結果として、論旨がうまくまとまらないまま終わってしまった。

・「デタント」は冷戦構造を前提としている
→冷戦という対立構造下での緊張緩和。

・「デタント」をどのように評価するかは、冷戦の終結をどのように考えるかによって変わってくる
→例えば冷戦終結を、米の封じ込め政策の「勝利」と考えれば、デタントは「軍事対立ではない手段による冷戦政策」と考えられるし、冷戦終結を米ソ和解によると考えれば、デタントは「緊張緩和の重要なステップ」となる。とはいえ、「冷戦の終わりかた」はドイツ問題をめぐる米ソの和解のすぐ後に、ソ連が崩壊したこと、また湾岸戦争によって複雑なものとなり評価が非常に難しい。

・さらに「冷戦終結」を考えるには、「冷戦」そのものの定義は考え直す必要がある。
→永井陽之助や高坂正堯が70年代に冷戦が「終わった」と考えたことをど評価すべきか。

こんなことを色々と考えてみたものの、いまいちまとまらない。デタントや冷戦終結と比べれば、冷戦の発生は比較的分かりやすい構図を描くことが出来るのだな、と改めて痛感した。

この話は消化不良気味なので、ちょっと長いスパンでじっくり考えることにしたい。

at 12:26│Comments(0)日々の戯れ言 

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