2008年07月23日

気が付けば前期終了。

課題やらバイトやら何やらであっという間に一週間が過ぎてしまった。

前期最後の課題は一昨日夜提出したので、昨日から夏休みのはずなのだが、昨日はバイト&家庭教師、今日はバイトでかなりの時間が潰れてしまった。ともあれ、充実した夏になるように気合いを入れ直して頑張りたい。



忘れないうちに(というか書く気がなくなる前に)色々と書いておきたいのだが、今日は疲れているので出した課題を基にした書評だけ。本当は細かいところで色々と文句があるのだが、課題の性格上やや甘めになっている。

ちなみに、この本は邦訳が近々出るらしいですね。というわけで、わざわざ苦労して英語で読む必要はないと思います。

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Richard J. Samuels, Securing Japan: Tokyo’s Grand Strategy and Future of East Asia (Ithaca: Cornell University Press, 2007)

 近年、中国の急速な台頭が叫ばれ、それと対応する形で日本への関心低下が言われる。しかしその一方で、冷戦後日本の外交及び安全保障を取り上げた本格的な著作が次々と刊行されていることは、それなりに日本への関心が残っているということなのかもしれない。とりわけ昨年(2007年)は、アメリカを代表する日本研究者であるケネス・パイルとリチャード・サミュエルズの著作が相次いで刊行され話題となった。冷戦後の日本について対照的な結論を導き出している両著作は、冷戦後の日本を考える上で重要な文献として今後広く読まれていくだろう。ここでは、サミュエルズの著作を取り上げて紹介をする。

 序章で提示されている本書の目的は、?日本の安全保障政策を歴史的に理解すれば基本的に合理的なものであったことを明らかにすること、?日本の戦略家がどのような政策オプションを探し求めているかを明らかにすること、の二点である(p.8)。サミュエルズは、通説的に言われる、日本に「戦略的思考が存在しない」というのは誤りである、と強く主張する。
 このような目的を提示した上で、本書は三部構成で議論を進める。第1部「歴史的文脈(Historical Context)」では、明治維新から冷戦終結までの「大戦略(Grand Strategy)」を論じている。明治維新以来、日本には様々な戦略をめぐるコンセンサスが存在してきた。第一は、明治政府の「富国強兵」であり、第二は、1930年代の「(東亜)新秩序」であり、第三は、戦後日本の「吉田ドクトリン」である。「吉田ドクトリン」は、「重商主義的現実主義者(mercantile realist)」である吉田茂とその後継者たちが自由主義的国際主義と国益を守るための現実主義を結合させたものだったとサミュエルズは論じる(p.58)。
 このような歴史的文脈を踏まえ、続く第2部「激動の世界(A World in Flux)」では、冷戦後の日本をめぐる国内外の変化について、そして第3部「脅威と対応(Threats and Responses)」では、冷戦後の脅威と日本の対応に焦点を絞ってその変化を分析している。第二部と第三部で展開される議論の前提となるのは、日本にとって第三のコンセンサスであった「吉田ドクトリン」が、冷戦後に徐々に変化し第四のコンセンサスが生まれつつある、というサミュエルズの現状認識である。

 各章の概要については、既に道下徳成の書評(『国際安全保障』第36巻第1号、2008年6月、219-226頁)で詳しく紹介されているので割愛し、ここでは本書の結論を紹介した上でその評価及び結論に至るまでの議論の問題点を述べることにしたい。
 第2部と第3部における議論の揺れを反映するかのように(これについては後述する)、本書の結論もやや曖昧なものとなっている(pp.207-209)。サミュエルズは、現在は「大戦略」を模索している時期だとする。吉田ドクトリンはまだ代替されていないが、修正主義者の影響によってその性格は変化しつつある。その変化の結果としての第四のコンセンサスとなるだろうとサミュエルズが考えるのが、「ゴルディロックス・コンセンサス(Goldilocks consensus)」である。それは、強すぎず弱すぎず、アジア偏重でも欧米偏重でもなく(is not too hard but not too soft, not too Asian and not too Western)、それがうまく成功すれば国力の増進と自律をうまくバランスさせ、新たな安全保障上のオプションは作り出すことが出来るようになるものだという(p.9)。

 この結論は、日本の外交及び安全保障政策をめぐる言説を分析した第5章の結論と符合するものである。第5章では日本の論者を、?普通の国論者(Normal Nation-alist)、?ミドルパワー国際主義者(Middle Power Internationalist)、?新自主主義者(Neoautonomist)、?平和主義者(Pacifist)に分けて分析し、新自主主義者を中核とする修正主義者が「吉田ドクトリン」を侵食していくだろうが、結局のところ日本はミドルパワー国際主義者の道を歩むであろうと論じている。
 しかしながら、第2部及び第3部で全般的に指摘されているのは日本の変化である。サミュエルズは、海外への自衛隊派遣やミサイル防衛での日米協力、さらには有事法制の整備といった点を修正主義者の言説と重ね合わせて日本の自律性への欲求の高まりと解釈し、やや警告主義的なトーンで論じている(なお、こうしたサミュエルズの日本の軍事力に対する考えは今年になって発表された論考にも表れている。Richard J. Samuels, “New Fighting Power!” Japan’s Growing Capabilities and East Asian Security.” International Security Vol.32, No.3 (2008))。こうした各章で展開される議論から、なぜ上記の結論に至るのかが本書の記述からは明らかにならない。執筆過程で考え方が徐々に変化していったとも考えられるが、やはり本論と結論における議論のトーンの違いには何らかの説明が必要だろう。これが本書の第一の問題点である。

 本書の第二の問題点は、方法論的な問題である。ピーター・カッツェンシュタインも指摘しているように、本書は特定の理論や方法論を用いるのではなく総合的(synthetic)かつ折衷的(eclectic)な方法で分析を行っている(Peter J. Katzenstein, Rethinking Japanese Security :Internal and External Dimensions, (London : Routledge, 2008), p.5.)。カッツェンシュタイン及び道下はこの点を高く評価しているが、この点は若干疑問が残る。
 確かに本書が特定の理論や方法論だけではなく、さまざまな方法論を用いているのは確かである。国内外の様々な要因を検討し、その過程で行われる制度論的な分析には興味深い点も存在する。例えば、吉田ドクトリン定着に際して内閣法制局と防衛庁内局に注目している点などは、それだけでは問題があるにしても興味深い指摘だろう。とはいえ、本書を通読すればその分析の多くが言説分析に拠っていることは明らかである。国内で様々な政策論争が行われ、それが一つのコンセンサスに収斂していく。そしてそのコンセンサスが揺らぐような状況の変化を受けて、再度政策論争が行われ、それが一つのコンセンサスに収斂していく。サミュエルズの議論は、基本的にこうしたパターンの繰り返しである。しかしながら、こうした議論の枠組みが明示されることはなく、言説分析の合間に制度論的な分析や事実関係の叙述が差し込まれていく。この結果として、本書の議論からは「なぜそのコンセンサスに収斂したのか」がなかなか見えてこない。これは、第三のコンセンサスである吉田ドクトリンについても、第四のコンセンサスになるであろうとサミュエルズが言う「ゴルディロックス・コンセンサス」についても言えることである。また、言説に着目した時にどうしても目立つのが修正主義的な論考である。果たしてそうした議論はどれほど実際の政策に影響を与えているのだろうか。日本の状況は、政策を巡るディスカッションが政治任用制の下に研究者が政権に入って影響を与えるアメリカとは異なる。
 また、いくつかの用語が定義が曖昧なままに用いられている点も気になった。「大戦略」とは何だろうか。また本書の副題にある「Tokyo’s」という言葉は本書が日本政府を対象としていることを指しているのだろうか(本書の記述を読む限りではそうは読めない)。また「ゴルディロックス・コンセンサス」は何か他の用語との関連での定義が必要だったのではないだろうか。

 第三に指摘したい点は、現実の安全保障に関するサミュエルズの理解の不足である。まず、北東アジアの現在の状況を安全保障のジレンマの発生と捉えるサミュエルズの見方は、道下徳成が批判しているとおり、実態とは乖離しているものと言わざるを得ない。さらに、(なぜか結論には反映されていないが)本書に散見される、冷戦後の日本の安全保障政策を自律性の追求の現れとして捉える見方にも疑問符が付く。サミュエルズは、日米同盟において「相互運用性」「能力の共用」が強く主張され、実態としてもそれが進んでいる点を認識しながら、自衛隊が海外に展開されるようになったことのみを重視し、それを自律性の追求の表れとしている。実態としては、自衛隊は米軍との一体化がさらに強まりつつあるとは言えるが、自律性が高まったとは言えないだろう。こうした安全保障に対する理解の不足は、有事法制をも自律性の高まりとして捉える点にも現れている。

 1990年代から相次ぐ北朝鮮の核危機や、中国の台頭、そして9.11テロ後の緊迫した国際情勢を受けた日本の外交・安全保障政策の積極的な対応を受けて、中韓両国のみならず英米で発表される近年の日本研究には、警告主義的なものが多いように思われる。既に指摘したような問題点があり、本論には警告主義的なトーンが見られるものの、本書の結論そのものは広く受け入れられうる穏当なものであるし、第5章の言説分析は非常に示唆に富んだものである。
 今年に入り、本書とパイルの著作に関する合評会に関する論考がAsia Policy誌に掲載され、カッツェンシュタインの新著(論文集)が刊行されるなど、日本をめぐる議論はさらに活況を呈しているようである。こうした海外での活発な議論を踏まえて、我々日本人がいかに発言するかが問われているのかもしれない。

at 19:33│Comments(0)本の話 

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