2008年07月04日

MBFRの論じ方(試論)。

じわりじわりと暑くなってきた。早くも夏バテモードになっているのはさすがに早すぎるだろうか。



水曜日に、師匠が中心となって企画したG8に関するシンポジウムが一日あったた(よって今週の授業はなし)。一日中英語を聞き続けてとにかく疲れたが、こういう機会があると、英語を「勉強しなければ」という気持ちが、徐々に英語を「勉強したい」というように変わってくる。いくつか面白い話もあったが、全般的には現状分析に近い話/政策志向が強い話には今のところあまり自分の知的関心は向いていないようだ。

レセプションで後期にサバティカルで日本に来る先生に聞いたところ、日本の安全保障/外交政策についての授業(英語)が開講するようだ。日本専門家ではない安全保障専門家による授業なので非常に楽しみだ。そんなわけで、夏の課題として試験勉強に加えて「英会話」が急浮上。



木曜2限の国際政治論特殊研究は今回が最終回だった。

授業のコンセプトは「外交文書を使えるようにするための教習所」というものなので、外交史を専門にする大学院三年目の院生を対象としたものではないのだが、得られたものはとても大きかった。

一年目はDBPO(イギリスの対中政策[1945-1950])、二年目はFRUS(アメリカの対NATO政策[1958-1960])を取り上げてきた。今年は再びDBPOを取り上げたのだが、今回は1970年代のヨーロッパ・デタントというまだ研究がそれほど進んでいない時期の文書を読んだ。それもMBFR(Mutural Balanced Force Reduction:中欧相互兵力削減交渉)という一般的にそれほど知られていないテーマを取り上げたので、これまでの年以上にに議論が難しかったように思う。

また、文書がかなり「厳選」されているのも今回取り上げたDBPOの特徴だろう。一つ一つの文書が長く、1972年~1976年の5年間が範囲なのだが、計36個の文書しか収録されていない。全般的には、会議の報告や高レベルの会談録が多く、細かい交渉の機微などは読み取るのが難しい。これは、昨年取り上げたFRUSが、2年分だったにも関わらず100以上の文書を収録していたことと比べるとその差がよく分かる。

受講者のコメントの一つに「論文のように結論が無い文書を読むのは大変だった」というものがあったが、研究のために普段読んでいる外交文書は今回のDBPOとは比べられないくらいまとまっていない。そう考えると、これくらいまとまっている方が「教習所」のコンセプトには合うのかもしれない。

そんな授業のコンセプトとは別に、MBFRを扱ったことは自分にとって非常にありがたかった。授業でも無ければMBFRのように一般に「失敗」に終わったと言われる軍縮交渉に関する文書を読むことも無かっただろう。このDBPOを読んだことで、デタント期と言われる時代を考える色々な視点を得られたことも大きい。自分が研究している「1970年代」という時代はなかなか評価が難しい時代らしい。



以下は授業のために用意した討論のレジュメを若干の加筆修正したものだ。あまり出来は良くないし、まとまった議論でもなく、アイデアのみで書いたものだがとりあえず載せておくことにしたい。

やや論旨が曖昧だったため、あまり自分の言いたかったことが伝わらなかったような気もするが、要はイギリスを中心にMBFRを論じるのは難しいのではないか、ということだ。

MBFRを考えるならば、DBPOよりもFRUSを読んだ方が良かったのかも知れない。しかし、そういったことを文書を読んでいく過程でそれぞれが気が付き、FRUSを読んでみようと思う、ということに考えが及んでいくということが外交史を研究する者にとっては重要なのだろう。



テキスト:Documents on British Policy Overseas, Series?, Vol.? Detente in Europe, 1972-76
MBFR: The Vienna Negotiations, No.33-36.

MBFRの論じ方(試論)

1、はじめに

 ヘルシンキ宣言(1975年8月)という成果を生んだCSCEとは対照的に、1973年10月に本交渉が始まったMBFRは、大きな進展を見せることなく今回の範囲である1976年末を迎えた。本資料集の範囲外であるが、1979年にMBFR交渉は一旦ストップし、1986年に再開されるも成果を生むことなく、1989年に次なる軍縮交渉であるCFE交渉へと移行することとなった。
 このような後のMBFR交渉の経緯(+今回が最後の授業ということ)に鑑みて、ここでは、1976年9月~12月におけるイギリスのMBFR政策を取り出して論じるのではなく、より大きな文脈の中にイギリスのMBFR政策を位置付けて若干の考察を試みることにしたい。分析の視角を変えることによって、イギリスのMBFR政策をどのように国際政治史として考えることが出来るかを考えることがここでの課題である。

2、イギリスのMBFR政策を論じることの「困難」

 まず指摘しておきたいことは、イギリスのMBFR政策のみを取り出して論じることの「困難」である。この「困難」は、?MBFR交渉が最終的に妥結しなかったこと、?イギリスがMBFR交渉でそれほど役割を果たしていないと考えられること、の二点によるものである。妥結しない交渉において役割を果たさなかった国に焦点を当てることに、積極的な意義を見出すことは難しい。ちなみに、?はイギリスの問題であってMBFRの問題ではないが、?はMBFR交渉を論じる際に必ず付きまとう問題であり、これがイギリスのMBFR政策のみならずMBFRそのものが研究でほとんど注目されない大きな理由だろう。
 それでは、どのような視角を設定すればMBFR交渉(+イギリスのMBFR政策)を意義あるものとして論じることができるのであろうか。

3、MBFRの論じ方?軍備管理交渉史の中に位置付ける(タテに伸ばして考える)

 一番オーソドックスな方法は、時間軸をタテに伸ばして考えること―軍備管理交渉の歴史の中にMBFR交渉を置くこと―である。西側は戦後直後から、慢性的な通常兵力不足に悩まされていた。この通常兵力の不足を核戦力の優位によって西側は補っていたのである。東側にとっては、通常兵力削減は自陣営の優位を切り崩すものであったことから、東側は核軍縮を主張し通常兵力を対象とした軍縮には応じてこなかった。ソ連が交渉に応じることによって、こうした状況を変えたのがMBFRであった。このような歴史的な文脈を踏まえてMBFRを論じることによって、その意義と限界がどこにあったのかが明確になるだろう。
 単純に考えても、前後の時代と比較することによって、なぜイギリスがMBFR交渉でそれほど大きな役割を果たすことが出来なかったかが明らかになるだろう。1970年代と比較すれば戦後初期の方がイギリスの国際的な影響力が大きかったことは間違いない。そうであれば、アイゼンハワー政権期を中心に繰り広げられた軍備管理交渉と、MBFR交渉におけるイギリスの役割を比較することが出来れば、それなりにイギリスの役割の違いが明らかになるだろう。
 さらに、Appendix?でも論じられているように、MBFRを冷戦終結前後の軍縮交渉のための重要な「学習過程」と考えることも可能である。このように考えれば、イギリスがMBFRの失敗から何を学んだのかを考えることには一定の意味があるのかもしれない(ただし、これが意味あるものになるためには冷戦終結前後の軍縮交渉においてイギリスが何らかの役割を果たしている必要がある)。

4、MBFRの論じ方?CSCE-MBFR-SALT(ヨコに拡げて考える?)

 次に考えられるのが、ヨコに伸ばして考えること―CSCE、MBFR、SALT(?&?)をセットでその相互連関を考えること―である。比較的順調に進んだSALT?(1969年~1972年)、紆余曲折を経て成果を生んだCSCE、妥結に時間がかかったSALT?(1972年~1979年:妥結後ソ連のアフガン侵攻によって米議会批准拒否)、これにMBFRを並べた時に、何が成功し何が失敗に終わったのかが明らかになるだろう。CSCEが成果を生んだ理由が「デタントの雰囲気」からでは説明が出来ないことが、MBFRと比較するとよく分かるということについては先週議論があったとおりである(もっとも、CSCEとSALTに関してそれぞれ研究がかなり進められている現状を考えれば、これらをまとめて論じることは実際にはなかなか難しいのかもしれない)。
 これらの交渉をただ並列するだけでなく、その相互連関を考察することも重要である。CSCE、MBFR、SALTという三つの交渉が相互に連関していたことは、本資料集からも確認できる。MBFR交渉で核兵器削減を含むオプション?をヘルシンキ宣言後に提案したことはこの連関の一つの表れである。これらの交渉で、何が連関し何が連関していなかったのかといったことを考察することは、「デタント」の実相を明らかにする重要な手がかりとなるだろう。

5、MBFRの論じ方?西西関係(ヨコに拡げて考える?)

 MBFR交渉においてイギリスが一貫して重視していたのは、NATO諸国の一体性の維持である。この点を重視した時に浮かび上がってくるのが「西西関係」である。
 そもそもMBFR交渉がNATOによって提起される背景にあったのは、アメリカのヨーロッパからの撤退基調である。ヨーロッパ諸国にとっては東側諸国の兵力削減とともに、アメリカをいかにヨーロッパに繋ぎ止めるかが重要な課題であった。こうした背景を踏まえれば、イギリスがMBFR交渉において対ソ関係よりもむしろ対米関係を重視していたことの意味が明確になる。そうであれば、MBFR交渉は東西関係の問題ではなく「西西関係」の問題として論じることの意義が明らかになるだろう。1973年4月にキッシンジャーによって提起された「ヨーロッパの年」などとMBFR交渉を重ね合わせることによって、「西西関係」の文脈を掘り下げることが出来るだろう。
 以上のようなヨーロッパ側からの視点だけではなく、アメリカ側にとっての「西西関係」も重要な検討課題として考えられる。1950年代の軍備管理交渉は、アメリカにとって対西ドイツ政策(西ドイツ封じ込め)という意味も存在した。本資料集から観察する限りでは、MBFRがイギリスにとって西ドイツ政策であった点は観察出来ないが、アメリカにとっての「同盟政策としての軍備管理交渉」という視点は1950年代と1970年代を比較検討する一つの手がかりとなるだろう。

6、おわりに

 以上、イギリスのMBFR政策を論じる際のいくつかの可能性について検討してきた。工夫の仕方次第では、イギリスのMBFR政策を論じることにも一定の意味を見出すことは可能だろう。しかし結論的には、やはりイギリスのMBFR政策を論じるには大きな「困難」がある。それは、アメリカやソ連がMBFR交渉で果たした役割と比べてイギリスが果たした役割があまりに小さいことによるのだろう。MBFR交渉に関する限り、イギリスを主役にするよりは他国を中心に論じ、イギリスはあくまで脇役とした方がより有意義なのではないだろうか。

※こうした結論に達した時に考えざるを得ないことは、戦後の日本外交をどのように考えるべきか、ということである。MBFR交渉におけるイギリスの影響力と比しても、一般的に考えれば戦後日本の国際政治的な影響力は極めて小さい。ナショナル・ヒストリーとしての日本外交史ではなく、より広い国際関係史の中で戦後日本を考えた時にどのような姿を描くことが出来るのだろうか(例外的に、国際関係史の中で日本を描いた研究として、宮城大蔵氏の一連の研究がある)。これは戦後日本外交を研究する者にとって重い問いかけである。

at 11:58│Comments(0)アウトプット(?) 

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