2008年06月09日

6月9日は…。

淡々と毎日が過ぎていくことにやや焦りを感じる今日この頃。

「6月9日はロックの日♪」と言って、ハイロウズの新譜を嬉々として買いに行っていたのが高校の頃だから、あれからもう10年近く経ってしまったわけだ。そんなことを思い「Relaxin'」や「バームクーヘン」を聴ききながら本を読んでいたのだが、当時聴いていた頃は、10年後自分が大学院生をやっているなどとは考えもしなかったなー、とふと冷静に今の自分を眺めてしまった。

昼間から好きな本を読み研究に思いを馳せるという贅沢な生活――こう思うのは院生くらいかも知れないが――を送っているにも関わらず、なぜか感じるこの焦りの正体は何なのだろうか。



このブログで紹介しようしようと思い、なかなかちゃんとした紹介が出来なかった本について。

『なぜ歴史が書けるか』(千倉書房)は、同タイトルの『UP』の連載を基に大幅に加筆修正され御厨研で冊子化された報告書をもとしている。昨年の日本政治学会でも同タイトルのセッションがあったので、参加した人も多いのかも知れない。

御厨研で冊子化された報告書を縁あって頂いたのが昨年末のことだ。論文執筆で苦しむ中でむさぼるように読んだのを覚えている。引用が多く、師匠の近著『国際政治経済学』(名古屋大学出版会)と同じく、編集者の苦労が伺われる一冊だ。

以下では、本書のハイライト(?)を引用してしまっているので、その点はご注意を。

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・升味準之輔『なぜ歴史が書けるか』(千倉書房)


 なぜ歴史が書けるか――なぜか歴史が書ける。大著『日本政党史論』(東京大学出版会、全七巻)を著した升味準之輔が『UP』の連載でこう喝破したのは、1981年のことである。それから27年を経て、大幅に加筆され、新たな装いのもと一冊の本として『なぜ歴史が書けるか』が刊行された。

 本書の要諦は、タイトルと「碩学の思索、時空を往還す」という帯の名文句とに凝縮されている。

 「重大事件に遭遇したとき、人は、それを記録し、それが何故おこったのかを考えようとした。かくして歴史家と歴史が生まれた。(1頁)

 このように始まる序章(「歴史家の誕生」)から著者の思索は自由自在に時空を往還する。ツキュディデス、ポリュビオス、ギボン、ピレンヌ、トクヴィル、トインビー…。歴史家たちの著作を手掛かりに、著者は、歴史とは何か、歴史家はいかにして生まれるか、を問う。

 歴史家は、彼が関心をもった同時代の出来事を後世のために記録した。それは、彼の同時代史である。後世の歴史家たちは、先人が残した記録やその後の研究によって彼自身の歴史を叙述する。こうして、同時代的歴史がつねに書きつがれると同時に、過去の出来事に対する関心によって史料の探索と研究が絶えることはない。そして、二つの歴史は、歴史家の中で呼応し抱合することとなるであろう。(19頁)


 この序章の結びを読み、本書の叙述が著者の思索の再現であることを読者は知るだろう。著者の思考は、ダイナミックかつ自由自在に時空を飛び越える。いかにして「なぜ歴史が書けるか――なぜか歴史が書ける」と喝破するに至ったのか、本書はその思索の過程である。

 序章に続く第一章(「史料と追体験」)は、マキャベリに始まり、コリングウッド、ディルタイ、さらには「演劇論」を経て、本居宣長に終わる。博覧強記な著者の思索についていくことは容易ではない。しかし、これまた時空を自在に行き来しつつ引用されている古今東西の歴史家の叙述は、読者を引き込む力を持っている。
 原因と結果、歴史の最小単位としての個人、全体と部分、産業革命、比較研究、歴史と社会科学。各章のテーマは、今なお歴史家や社会科学者たちを悩ませ続けている重要な問いである。各章はこうした問題を考えるヒントに溢れている。

 本書は、決して分かりやすくも読みやすくもない。読者は著者の思索に圧倒されるだろう。しかし、ここで紹介するよりも、手に取って読んで貰う方が本書のメッセージは伝わると思う。そのメッセージをどのように受け取るかは、人それぞれ大きく違うのかもしれない。力がある文章はそういうものである。
 やや長くなるがむすびを引いておこう。

 一九八一年、東京大学出版会のPR誌『UP』に「なぜ歴史がかけるか」を八回連載した。そのあとがきで私は「依然として靄の中であるけれども、現在の私の記録にはなるであろう。何年か先、また同じ主題で考えるとき役立つかもしれない」と述べた。それからもう二五年たって、このたび全面的に書き改めた。書きなおしたり、書き加えたりして長さは三、四倍になったと思われる。断片のよせあつめにすぎないが、現在の私の記録にはなるであろう。何年か先、また同じ主題を考えるとき、役立つかもしれない。
 意味や効用があるから歴史を書くのではない。それは、人生のようなものであろうか。われわれは、人生の意味や効用を知ってうまれたのではない。知っているから生きているのでもない。生きていれば、わかるかもしれないが、わからないかもしれない。そうして生きていれば、あの耽溺がつむじ風のように歴史家をさらっていく。なぜ歴史が書けるか――なぜか歴史が書ける。あのとき私は、そう書いたが、いまも同じことを繰り返したい。(308頁)


at 20:20│Comments(0)本の話 

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