2008年05月18日

積読解消作戦。

色々と立て込んだ用事・課題などなどがひと区切りついたので、ひと休みして遊びにでも行きたかったのだが、先のことを考えてこの週末は大学にこもっている。ここで授業関係の課題文献等を一気に読み終えて「貯金」を作って、一時休止中の研究に専念する体制を整えるべきなのかもしれないが、まず溜まりに溜まった本や論文達を先に片付けることにした。

というわけで、今はやたらと本や論文ばかり読んでいる。いくつかピックアップして紹介しておこう。



本はしっかり読んだ以下の二冊について。あとは回顧録の流し読みなどなどで時間終了。先週末は研究書をじっくり読んだのだが、今週末は読んでいないので来週末の課題にしたいところだ。

57551169.jpg

春原剛『同盟変貌』(日本経済新聞社)

昨年の今頃に刊行され、その直後に購入したのだが積読になっていた本だ。たまたま「関東計画」を調べていて、現代の基地再編や米軍再編に興味が湧いたので読むことにした。現代について調べても学者はジャーナリストに情報量ではかなわないのだろうな、ということを実感させられる。文章も平易でテンポもいい。

2001年から2007年までの、在日米軍基地再編問題を中心に、日米同盟を日米双方への幅広い取材に基づいて書かれた本書は、現在の日米関係を考える上でまず挙げられる重要な文献だろう。題名からもおそらく意識したであろう、90年代の日米同盟を取り上げた船橋洋一『同盟漂流』(岩波書店)の2000年代版とも言える。

中身ももちろん興味深いのだが、それは読めばわかるし読みやすい本なので、ここでは「あとがき」を紹介したい。

 敗戦国としての劣等感、同盟国としての矜持、そして先進国としての自尊心――。
 日米同盟を語る時、日本人の心の中には多くの異なる思いが、プリズムに入り込んだ光のように複雑に屈曲し、錯綜する。
 戦勝国である米国に「日本が隷属している」という劣等感だけに悩めば、米国への反発が必要以上に強まり、将来への先見性を書いた自主独立機運の芽だけ育てていく。
 日本を、唯一の超大国である米国と「対等の同盟国」にしたいという矜持だけを追い求めれば、自らの足元を見失い、現実性の乏しい議論に終始しかねない。
 日本を、核保有国である米国、英国、フランス、中国、ロシアに「匹敵する有力国」と見立てる自尊心だけに固執すれば、自らを客観的に試みる目を失い、偏狭なナショナリズムの魅力にかられる。
 多くの日本人にとって、米国との同盟関係は空気のような存在になっていると言われて久しい。それは、日米同盟がすでに自然なものとして日本社会に広く受け入れられていることを示す半面、日本人の一人一人がその意義や将来性を十二分に考えていないことの証でもある。(245頁)


ここまでは非常によく分かるし、大筋で納得するところである。このような問題意識と着実な取材力は、本書の魅力となっている。外交史研究者を志す者として、次に続く以下の文章もまた興味深いものだ。

 冷戦時代はそれでも良かった。事実、西側陣営の一角で経済発展にのみ精力を注いできた日本は敗戦の痛手から立ち直り、世界を代表する経済大国へと成長している。
 しかし、旧ソ連の崩壊によって、東西対決の構図が支配した世界は様変わりした。追い討ちをかけるように発生した〇一年の米同時テロによって、国際社会は未曾有の混乱期に足を踏み入れようとしている。
 その余波は当然のことながら、日本にも及んでいる。国際社会における日本の立ち位置は大きく変わり、隣国・中国も二十一世紀の大国としてその頭角を現し始めた。日本の目と鼻の先に位置する朝鮮半島では、北朝鮮の金正日政権が軍事優先の独裁体制の下、核へのあくなき野望を募らせている。
 日本を取り巻く国際環境が目まぐるしく変わりつつある中で、日本がなすべきこと。それはまず、自身の安全を確保しながら、アジア太平洋全体の安定と平和、繁栄を維持する道筋を大きな視点から描き出すことである。(245-246頁)


ここで示される大きなメッセージは納得できる。確かに、今日本が置かれている状況は、戦後史全体を見通しても一つの「転換期」と言えるだろう。しかし、日本がこうした「転換期」を向かえたのは今が初めてではない。おそらく1970年代は今同様に大きな「転換期」だっただろう。日本は1968年に西側第二位の経済大国となり、1969年にはグアム・ドクトリンによってアメリカのアジアからの徹底基調が鮮明となる。そして、1970年も同様に米軍再編、基地再編が問題となっていた。

人間は常に今自分がいる状況を「転機」として意義づける。しかし、より広い歴史的視野から眺めた時にどのように見えるかを考える必要がある。今、日本に求められている課題の中で、何が本当に「新しい」ものなのかをよく考えなければいけないのだろう。そんなことを考えて、歴史研究にも重要な意味があるのだな、と再確認した。

ともあれ、コンパクトで読みやすく、問題関心も広がるいい本だった。次は、本書の姉妹編(?)『在日米軍司令部』(新潮社)を読むことにしたい。

16823712.jpg

木畑洋一『イギリス帝国と帝国主義』(有志舎)

こちらは先月発売されたばかりの新刊だ。この15年ほどの間に著者が発表してきた諸論考をまとめたものであり、通読することによって著者の問題関心が浮かび上がってくる。いくつかの章は書き下ろされたものであり、各論考もそれなりに手が加えられている。

「脱植民地化」や「帝国主義」という視角は、20世紀の国際政治史を考える上で重要な意味を持つ大きな潮流である。とはいえ「脱植民地化」は、「冷戦」「革命」「地域主義」といった他の潮流とともに存在していたものであり、それのみを切り取って他を批判するのはあまり有意義ではないだろう(ちなみに、こうした点をうまく扱っている研究として、宮城大蔵『戦後アジア秩序の模索と日本』(創文社)、がある)。

本書は、帝国主義の視角からイギリスについて考察したものである。日本との比較をした章などもあり、著者の幅広い問題関心が伺える。このテーマに興味があれば、どの章も読みやすく著者の問題関心がストレートに伝わってくるので、面白いと思う。ただし、一冊の本としてどれだけまとまっているのかには疑問符が付く。率直に言って、やや編集に不満が残る、というのが一読者としての感想だ。

これまでの論考をしっかりと一冊の本としてまとめ直すことが出来なかったのであれば、中途半端に一冊の本としてまとめるのではなく、いっそのこと論文集としての位置付けを明確にし、発表時期が異なる各論文には追補を付けるなどした方がよかったのではないだろうか。個人的な要望ではあるが、?最新の研究も反映して加筆修正、?論文集形式を守って足りない部分は追補をつける、?あくまで読み物として位置づけて改稿する、などの方が読み手にはありがたい。?が望ましいが、それが出来ないのであれば?か?にしてほしかった。

また、注を省いた結果として括弧による補足が多用されていることも読みづらさにつながっている。これは個人的な好みかもしれないが、やや独自の引用文献表示も読みにくかった。本の末尾に引用文献リストが載っており、引用されている場合には著者の名前(場合によっては頁数)が括弧で書かれているのだが、その方法がやや変わっている。通常こうした引用方法の場合、日本語文献の場合は、(木畑[1996])もしくは(木畑[一九九六])、といった形になるが、本書では(木畑、一九九六年)となっている。これだけならまだいいのだが、外国語文献の場合も、(ダーウィン、一九八四年)といった形になっていて、よく分かりづらいのだ。

編集とは難しい仕事なのだな、ということがよく分かったが、もう少しスタンダードな編集をして欲しかった。



論文もかなり読んだのだが、ここでは面白かったものについて。

一つは、麻田貞雄「冷戦の起源と修正主義研究 ―アメリカの場合―」『国際問題』(第170号、1974年5月)。日本における冷戦史研究の古典的ヒストリオグラフィーといっていい論文だ。残念なのは、この論文を書いた後に麻田貞雄が冷戦史研究に本格的に取り組まなかったことだが、まあそれは置いておこう。

1974年は、後にポスト修正主義と呼ばれるギャディスの研究がぽつぽつと出始めたばかりのころで、修正主義が強い影響力を持っていた時代である。幅広く重要な研究を紹介するとともに、それぞれの問題点をうまく指摘したヒストリオグラフィーの一つのお手本のような論文だ。

大学院の基礎演習?で求められたのはこういう論文なのだろうが、自分の場合はただ先行研究を羅列しただけで終わってしまった。もちろん、それは自分の力量の問題なのだが、それ以上に感じたのは研究の厚みの違いだ。冷戦史研究という括りではなく、その中の冷戦起源論についてもかなりの数の研究が1974年の時点で蓄積されていたことにただただ驚かされる。戦後日本外交史研究を全て合わせても、1974年時点の冷戦起源論にとても及ばない。

戦後日本外交史研究の中で、辛うじて論争と言えるものがあるとすれば、吉田外交をめぐるものだと思うが、それでもまだまだ少ない。やはり、戦後日本外交史研究をする上での「栄養」は、冷戦史研究などの隣接分野から学ぶしかないということだろうか。

具体的な内容については、読書会で取り上げる予定なのでその時にでも書くことにしたい。

もう一つは、Evelyn Goh, Great Powers and Hierachical Order in Southeast Asia: Analyzing Regional Security Strategies, International Security Vol.32, No.3 (2008) 。たまたま、東京財団の書評(リンク)でRichard J. Samuelsの論文(“New Fighting Power!” Japan’s Growing Capabilities and East Asian Security)が紹介されていたので、それを探していたところ、隣に載っていたのでパラパラと読んでみた。

自分は理論研究には強くないので、理論研究者からは異論があるのかもしれないが、最近流行っている(らしい)階層的な国際秩序研究の流れの一つに位置づけられる論文といっていいだろう。抽象的な話から入るのではなく、東南アジアという具体例から紐解いているので、歴史的な観点から研究をしている自分にもすんなりと頭に入ってきた。たまたま藤原帰一の論文をいくつか読んでいたので、それとの関係を考えつつ読んでみたのだが、まだ消化しきれていないので、また時間を見つけてもう一度読むことにしようと思う。



この週末ではないが、先週空き時間を見つけてちょこちょこと読んでいたのが、『国際政治』の特集「吉田路線の再検討」(第151号、2008年3月)だ。

編集責任者による巻頭論文「吉田路線と吉田ドクトリン ―序に代えて」で、これまでの議論で混乱しがちだった、「吉田路線」と「吉田ドクトリン」がうまく整理され、それぞれの成り立ちが明らかにされている点は非常に重要だろう。

ただし、各論文の「吉田路線」の定義はそれぞれ微妙に異なっている。「憲法九条と日米安保条約」(九条=安保体制)として意義づけるものと、「軽武装、経済中心、日米安保」として意義づけるものが混在しており、この点は今後研究を進めていく上では気を付けていかなければならないのだろう。

各論文には色々と触発されるところがあったので、それについては自分の研究にうまく反映させていきたい。



そんなこんなで、今週末は知的にはそれなりに充実していたように思うが、やや物足りなさも感じる。知的には、がっつり重い研究書を読めなかったこと、そして遊びに行っていないことが物足りなさに繋がっているのだろうか。西武が好調の内に野球を観に行きたい(同志求む)。

at 20:30│Comments(0)本の話 

コメントする

名前
URL
 
  絵文字