2008年01月20日

先週。

先週は、修士論文の執筆が終わって少し時間に余裕が出来たこともあり、単調な大学院生活からちょっとだけ脱した。といっても別に遊びに行ったりしたわけではなく、大学内でのことだ。

木曜日は、履修はしていない基礎演習?の授業にもぐってきた。昨年着任されたアメリカ政治が専門の先生による「歴史分析における史料とのつきあい方」と題した講義は、とても興味深いものだった。政治学系の学部で歴史を扱う、もしくは文学部で政治を扱う場合に、誰しもが感じるであろう「政治学と歴史学」の問題から論を起こしつつ、体験的な史料とのつきあい方を紹介するというスタイルは、理論と実践といった趣きがあり、分かりやすくまた深さを感じるものだった。同じように「政治学の歴史分析」を試みようとしても、対象が内政と外交で、微妙に史料とのつきあい方が違うこともよく分かって面白かった。

金曜日は、東アジア研究所の研究会「李明博政権と日韓関係 ―ヴィジョングループからの提言―」に参加した。研究会といっても、参加者が多数のため会場がG-SEC Labだったので、ちょっとしたシンポジウムのようだった。現在進行形の国際政治について考えたのは久しぶりのことだったのだが、やはり可能性が無限に広がっているので聞いていて楽しい。なぜ日韓関係が重要なのか、そして日韓関係を重視することにいかなる意味があるのか、ということについて、発表した先生だけでなく、フロアからも賛同する声が多数あったのは興味深いものだった。今後の日韓関係がいかなる方向へ動いていくのか注視したい。



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ちょっとグチを。

「君の日本語は読み手に緊張を強いるね」というのは、我が師匠の某後輩の卒論発表に対する名言(迷言?)だが、某大学出版会から出た某国際関係論シリーズの某最終巻を読んでいて、この言葉が思わず浮かんできた。修士論文をチェックしていて、どんどん誤字脱字が見つかる自分が言うことではないのかもしれないが、編集者の手が入っているのだから、もう少し日本語だけでもどうにかして欲しいものだ。既発表論文を基にした各章よりも、書き下ろしの「序論」や「あとがき」、各章の扉の文章が「緊張を強いる」。

このシリーズは、第一巻の『国際社会の秩序』が非常に読み応えがあり面白かったので、結局全巻買って読んだのだが、巻を追うごとに様々な面でクオリティが下がっていった気がする。



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『天使なんかじゃない』を読み終え次第、就寝前読書で読もうと思っているレイモン・アロンの回想録について、かつて師匠が書いた文章が素晴らしかった。以下は印象に残った部分の抜粋。

…換言すれば彼[アロン]にとって国際政治とは、確定的な目標を持って比較的明白なルールと制御された環境でプレーされるゲームではない。不確実性と偶然性に晒されながらも、「常に戦争の影のもとで展開する」というこの一点が、不定型な国際関係に一定の輪郭を与えていると考えるのである。

…アロンが著名な社会学者であったことを考えると、彼が頑固なまでに国際政治における「国家の中心性」を主張し続けたことは、興味深い逆説のように評者には思える。

…アロンが生きた時代は、イデオロギーと総力戦、そして核兵器が出現した激動の時代であった。冷厳なリアリストである一方で、彼はホットな思想的論争に決して傍観者的態度はとらなかった。彼のソ連と共産主義批判はヒステリカルな叫びでないだけに一層激しい。

…スターリン批判の年に生まれ、高度成長と共に育ち、紛争後のシラケの学園で大学教育を受けた私には、アロンが共産主義批判とソ連の脅威を熱っぽく訴え、国際関係における国家間関係の優位という古典的なモデルに拘るのについて行けない。だが、ファシズムとコミュニズの交錯する厳しい思想状況と、過酷な国際関係のパワー・ゲームに晒された環境で、厳しい選択に直面した体験がいかに重いか、彼の淡々とした語り口のなかに、痛切に感じずにはいられない。アロンの知識人としての偉大さは、このような困難な知的状況にあって、いかなる世俗的、超越的信仰にも、またニヒリズムにも不可知論にも身を委せることなく冷静な分析を重ねた、並はずれた知的スタミナに求められるのではないか。同時に思想家アロンは、理性と自由の人としての立場を貫き、次々に起こる現実問題に積極的に発言を続けた点で、自身の言葉通り「参加する観衆(Le Spectateur Engage)」として生き抜いたと言えよう。

(田所昌幸「平和も戦争もない時代に」『アステイオン』第12号、1989年春)


at 21:07│Comments(0)本の話 

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