2007年09月05日

息抜きの読書。

文字が読める前から本の虫だった、という話を両親や親戚からよく聞かされる。それが高じて、今も朝から晩まで文字を追いかける生活をしているわけだ。運動三昧だった高校時代も、本だけはずっと読み続けていた。

しかし、その読み方は年を経るごとに変わりつつある。学部時代(後半)は、?小説?政治学一般や社会学などの隣接分野?国際政治(外交史含む)の三つを、ほぼ時間的には均等に使っていた。それが大学院に入ってからは、?が圧倒的な時間を占めるようになり、?と?の時間は大きく減ってしまった。

基本的に自分の研究に関係するものをずっと読み、それ以外は息抜きの時間に読む、といった感じになっているのだ。そんなやや窮屈な読書生活を送っていると、息抜きにもなるし研究のヒントにもなるような本にめぐり合った時は本当に嬉しくなる。山崎正和『歴史の真実と政治の正義』(中公文庫)はそんな一冊だ。

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表題にもなっている「歴史の真実と政治の正義」は、『アステイオン』に掲載された論考であり昔読んだ覚えがあるのだが(学部四年の時に『アステイオン』のバックナンバーを漁っている時期があったからその時かな)、自分が歴史を研究するようになって、この論考の意義がさらに深く理解できるようになった気がする。

 歴史は歴史家の外側に客観的にあるものではなく、もちろん逆に恣意的な主観の産物でもない。歴史家に与えられるのは断片的な史料であるが、それをただ継ぎはぎしたところで歴史は生まれない。彼は想像力を駆使して史料を読み、それが語るものを生きた全体にまとめ、一人の、あるいは複数の人間の行動として「追体験」しなければならない。
…歴史についてそんなことができるのは、コリングウッドによれば、人間が考えて行動する動物であり、どんな行動にもそれを動かす思考があるからである。自然現象とは違って歴史現象においては、それを動かす者はそれを見る者と同質の思考を働かせている。時代によって価値観や考え方の枠組みは異なっていても、歴史を動かしているのは神でも機械でもなくて人間の考えである。だとすれば、必要な想像力を働かせれば過去は後世の人間にも理解可能なはずであって、こうして理解されたものが歴史なのである。(『歴史の真実と政治の正義』中公文庫、25-26頁)


歴史の勉強をしている自分は、ふむふむ納得、と思ってこの文章を読むわけだが、この歴史はいわば「古き良き歴史」(著者はそれを「幸福な歴史観」と呼んでいる)といったものである。20世紀は、こうした歴史の見方がマルクス主義的な歴史観に象徴的な「復讐史観」によって駆逐されていく時代であった。

引用した文章から読み取れる歴史は「認識としての歴史」である。それに対して20世紀に力を持ったのは「伝統としての歴史」であった。これは別の言い方をすれば、科学的知識(=認識としての歴史)に対する日常の常識(伝統としての歴史)、ということだ(同上、31頁)。

現代史に属する時代を、それも自国の歴史を研究している自分にとっては、著者の説く二つの歴史の相克、政治と歴史の癒着といった問題は身を持って感じる重要な問題である。この問題の解決法として著者が提示するのは、歴史教育を国民国家から切り離すことである。が、これは自分の研究に今は直接関係することではない。

近年の学問傾向として、多国間関係を視野に入れた国際関係史が盛んになっている背景には、「伝統としての歴史」から自らの研究を切り離そうという研究者の意識(無意識的かも知れないが)が働いているのかもしれない。そんなことを休憩時間の読書から考える日々。

at 19:15│Comments(0)本の話 

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