どんどん積もっていく…。院棟からの更新。

2007年07月15日

江藤淳『アメリカと私』

台風に翻弄された一日。

台風の影響で、参加予定だった研究会が延期、大学の図書館が閉館、というのがダブルパンチだったのだが、結局昼過ぎからは天気が快方に向かうという皮肉なオチ付きだからやりきれない。仕方が無いので、家に引きこもってレポートを書き、疲れると本を読んだりして一日を過ごす。

明日は休日だが、院棟は開いているのでパソコンを持って院棟に行ってみようかな。

家にいると誘惑が多く、ついつい読書時間が増えて勉強時間が減ってしまう。今日は↓を読み終えた。

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江藤淳『アメリカと私』(講談社文芸文庫)

 江藤淳は、ある意味で「戦後日本」を体現した知識人であった。決して彼の思想はマジョリティでは無かったであろうし、また一つのテーマを一貫して追い続けたわけでもなかった。しかし江藤淳が提起した様々な議論が、生涯を通じて様々な反響を読んだことは間違いないし、一定の共感を得てきたこともまた間違いない。

 彼は早熟であった。大学在学中に評論家としてデビューし、二十代後半にはすでに数々の著書を世に問い、若手批評家の第一人者としての地位を確立していた。そんな若手批評家にとって大きな転機となったのが、1962年から64年にかけてのアメリカでの生活であった。20代後半から30代前半という年齢での初めてのアメリカでの生活が、個人にとって大きな経験であることは容易に想像が出来るところであろう。本書は、江藤淳のアメリカ生活について綴ったエッセイである。鋭敏な感性を持つ若き批評家はいかにアメリカと向き合ったのだろうか。

 他人のなかに自分を読むのはやさしいが、他人を他人として知ることはむつかしい。(52頁)

 著者にとって「アメリカ」という他者といかに向き合うかは一大テーマであった。日常生活で好意に甘えない、適度な距離感の大切さを説く、様々な形で著者はアメリカ的な生活へ自らの歩みを進めていく。しかし、そうやってアメリカと向き合う中で、著者は否応なく自らが日本人であることを自覚しったのであった。

 江藤淳という若き批評家の保守的思考へ至る決定的な過程を本書は描き出している、と結論的には言えるのかもしれない。しかし、一つの疑問が浮かんでくる。著者は本当にアメリカと向かい合ったのであろうか。「他人を他人として知ることはむつかしい」と自覚していながら、本書には次のような記述もある。

 街はひっそりと静まりかえり、路を行く車の数も目立って減っていた。米国人たちは黙って、声もなく泣いているのに違いなかった。そういう悲しみからには、人の心を打つものがあった。大統領という地位と役割が、米国人にとってこれほど大切なものであるというのは、新しい発見であった。私は先日必要があって読んだ、明治天皇崩御の際の『ロンドン・タイムズ』の記事を思い出した。『タイムズ』の記者は、天皇御危篤の報に、二重橋前につめかけた日本人が、いかに粛々と、ある威厳をもってその悲しみを表現したかを、感動して語っていた。その感動に似たものを、私は身の内に感じた。(158-159頁)

 ワシントンの友人からの手紙にも全学連とミシシッピ州の暴徒とをくらべてあったが、彼の手紙にある自己反省的な調子なしでこの二つの事例を同列におこうとする親日派のインテリはほかにもいた。そうするとミシシッピ事件からわれわれのうけるショックは、八〇パーセントかた安保騒動から米国人がうけたショックを鏡に映したようなものだということになるのだろうか。(196頁)


 上の文章は、ケネディ暗殺事件後の記述であり、下の文章は公民権運動をめぐる暴動の報に際しての記述である。この記述は、自らが指摘した陥穽に江藤淳が陥っていることを明瞭にあらわしている。きわめて強い「自意識」を持つ江藤にとって、アメリカでの「戦い」は、アメリカとの「戦い」であると同時に自らとの「戦い」であったのだろう。そのねじれが本書には表れている。

 著者は戦後に支配的な「デモクラシー」をしばしば懐疑的な目で眺める。そして同時に、自分にはアメリカやアメリカ的なものへの憧れはもともと無かったと強調する。にもかかわらず、アメリカと向き合うことで自らが日本人であることを再確認していく、と書かれている。ここにあるねじれは何によってもたらされたのか。そんなところを考えながら読んでいくと、より明瞭に江藤淳の姿、そして戦後日本の姿が見えてくるのではないだろうか。

at 23:55│Comments(0) 本の話 

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