2007年05月18日
三つ目の称号。
いつものごとく夕方から授業のために六本木へ。
授業後に食事をしていたところ、年上年下男女論に。こう書くと「何のこっちゃ」という感じだが、要は「年上と年下と男と女」の組み合わせで苦手(得意)なのはどれかという話だ。いつも言っていることだが、自分が一番苦手なのは「年上・男」の組み合わせだ。なぜなら俺が生意気だから。ある程度年が離れていると「手の上で転がしてくれる」ので問題ないのだが、近いと圧倒的に嫌われる場合が多い。逆に一番楽なのは「年下・男」。弟がいるからかもしれないが、これが圧倒的に楽だ。
そんなことを話していたところ、先生から「○○の大将」(○○は平仮名一字と漢字一字)という非常に有難くない称号を頂戴した。「耳年増」「ビッグ・マウス」に加えてこれとは…。まあ、はっきり言ってこの三つの称号が揃ったら最悪な人間ですね。
そんな話はともかく、授業で読んだ本を紹介しておきたい。今日は授業中の議論で鋭いコメントがあって非常に刺激を受けたので、その辺りもちょっと踏まえて書評しておきたい。そのコメントを一言でまとめれば「重光外交は本質的には対欧米外交だったのではないか」ということである。戦争初期にしても後期にしても、結局重光にとって重要だったのはアジア諸国の独立ではなく、それによって得られる対米戦争の解決(もしくは有利な展開)であった。このお重光の姿勢は、戦後のバンドン会議に対する冷淡な態度と併せて考えてみると非常に興味深いものといえるだろう。
以上の話は、何も今日の課題文献に書かれているわけではなく、授業のディスカッションで出てきた話だ。著者すらも考えていなかったかもしれない重要なことが、こうやって議論に出てくると俄然授業は面白くなる。
・波多野澄雄『太平洋戦争とアジア外交』(東京大学出版会)
太平洋戦争は実に多面的な戦争であった。日中戦争の延長上という対中国の側面、真珠湾攻撃以降の対米英戦争という対米英の側面、さらにここに各国との植民地との関係という対アジアの側面、という三つの側面が大きく存在している。これらの側面について、外交史・戦史を含めて最も手薄であったのが対アジアの側面である。本書はその「太平洋戦争時のアジア外交」と「戦時外交の大半を担った重光葵の政治指導」を取り上げて分析した研究書である。
「太平洋戦争時のアジア外交」を言い換えれば「大東亜共栄圏」であり、様々な解釈が行われうるある意味で「危ない」テーマである。しかし本書は、全体を通して抑制された筆致と緻密な実証によって貫かれて折り、そのような「危なさ」を感じさせないことは本書の優れた点の一つであろう。またアジア外交を論じながら、ソ連要因にもいくつかの箇所で目を配っている点は、戦前から戦中のソ連要素を考えると非常に重要なことである。この点に関連して重要なのは本書と資料の関係である。戦前・戦中の重要な資料が、敗戦時に焼却処分されるなどしてあまり残されていないことはよく知られているとおりである。著者は、多くの刊行資料や外交史料館、防衛研究所、国会図書館憲政資料室等に保存されている未刊行資料を幅広く調べることによって、その資料的なハンデを克服している。本書が「戦時中のアジア外交」というテーマについて、その資料の欠如を感じさせないほど細かい点まで調べている点は驚くべき点であろう。なお、英米蘭豪などの史料に基づいて太平洋戦争と植民地との関係を論じたものとしては、クリストファー・ソーンによる研究が既に存在しており、本書とは補完的な関係にあるといえるだろう。
アジア外交と共に本書の主要なテーマとなっているのが、重光葵の外交である。重光の外交は様々な思惑の上に成り立っていたものであり、それを一言でまとめることは難しいが、アジア外交に関してほぼ一貫していたのは、重光が現地のナショナリズムを踏まえて政策を立案しようという姿勢を保っていた点であろう。しかし、重光がなぜこのような考えを持っていたのかということになると、話はやや複雑になる。大きく分ければ、戦争遂行の前半期は現地の支持を調達することが大きな目的であったと考えられる。この姿勢はなし崩しに進んでいき、戦局悪化によって現地の「独立」を検討するなどの姿勢は重光のみならず、東條首相や陸海軍にも共通している。敗戦が見えてきた時期になると、重光は戦後法廷を見据えていたようである。一つの仮説としては、重光外交が一貫して「対欧米外交」だったというように見ることも可能であろう。つまり重光の最終的な目的はあくまで「対英米戦争の解決」であり、「アジアのナショナリズム」はそれへ向けて利用する道具に過ぎなかったのである。このように考えると重光の施策に一本の筋が見えてくるのではないだろうか。
この点と関連して、重光の提示した政策構想が陸海軍などとの激しい綱引きの結果どのような政策となったかも重要である。本書全体を通して見えてくるのは、「外交一元化」をめぐる場合などを除いて重光が比較的容易に軍部と妥協している姿である。結果として出てくる政策は、日本の施策の正当性を示すために形式上の「独立」を陸海軍に認めてもらい、実際の独立・解放を伴うものではなかった。この点は重光も承知していた(238頁、295頁など)。重光の軍部との妥協をどう捉えるかはなかなか難しい問題である。太平洋戦争の期間を通して、国際政治の力の側面について外交が果たせる役割は限られていた。その中で重光は、利益や価値の側面に重きを置いて外交政策を展開したといえるかもしれない。ただし、その重光の外交が連合国側にどのような影響を与えたのか、といった点は慎重に検討する必要があるだろう。
重光外交の重要な特徴である「外交一元化」の強い信念についても簡単に考えておきたい。この点は大東亜相兼任という形で本書の中でも明確に現れている。第二次大戦中から、戦後世界における外交の主役が外相から首相(大統領)へ移りつつあることは世界各国で明らかになりつつあった。軍事と外交の密接な関係、経済と外交の密接な関係が深化していくなかで、「外交一元化」にこだわった点は、やはり「時代錯誤」であったと評価してもよいのではないだろうか。
それでは戦時中の重光外交は戦後へどのような影響を与えたのであろうか。この点は、本書の関心からはやや離れるかもしれないが簡単に論じておきたい。前述のように、重光は政策の具体的な場面で軍部と妥協しがちであった。結果として得られた政策は、形式的な「独立」を認めただけに過ぎなかった。重光の目的の一つは、戦後法廷だったというが、そこではむしろ重光の試みは失敗している。むしろ戦後への影響があったとすれば、アジア地域の脱植民地化であろう。重光の妥協的な政策は、実際の独立・解放を旧宗主国に「丸投げ」したものと捉えることもできる。道筋を作らず「丸投げ」をしたことによって、国によって対応はまちまちであったが、結果的には1960年代までに東南アジア地域における脱植民地化はほぼ達成された。これらのプロセスに、重光の戦時外交の全く影響がなかったとは考えにくい。
もう一つこれは恐らく重光が意図しなかった形で重光の戦時外交は戦後に影響を与えたといえるのではないだろうか。それは著者が本書の最後で指摘する歴史認識に対する影響である。太平洋戦争でもとりわけ対アジア戦争の側面は、「全面的な侵略戦争」と「英米に対する民族解放戦争」という二つの評価で大きく分裂している。本書が明らかにしているのは、民族解放的な側面は確かに存在していたが、それをめぐって政府内で(多くの場面で)軍政を主張する陸海軍と外務省との間で様々な駆け引きが行われていたという実態である。そのような実態は必ずしも、当時から一般に認識されていたわけではない。これが知識人レベルでもそうであったことは、本書における石橋や清沢のエピソードからも確認できる(例えば、201頁)。重光の意図は、戦争法廷における「弁護」であったようだが、むしろ戦後日本社会の歴史認識への影響が強かったように思われる。
授業後に食事をしていたところ、年上年下男女論に。こう書くと「何のこっちゃ」という感じだが、要は「年上と年下と男と女」の組み合わせで苦手(得意)なのはどれかという話だ。いつも言っていることだが、自分が一番苦手なのは「年上・男」の組み合わせだ。なぜなら俺が生意気だから。ある程度年が離れていると「手の上で転がしてくれる」ので問題ないのだが、近いと圧倒的に嫌われる場合が多い。逆に一番楽なのは「年下・男」。弟がいるからかもしれないが、これが圧倒的に楽だ。
そんなことを話していたところ、先生から「○○の大将」(○○は平仮名一字と漢字一字)という非常に有難くない称号を頂戴した。「耳年増」「ビッグ・マウス」に加えてこれとは…。まあ、はっきり言ってこの三つの称号が揃ったら最悪な人間ですね。
そんな話はともかく、授業で読んだ本を紹介しておきたい。今日は授業中の議論で鋭いコメントがあって非常に刺激を受けたので、その辺りもちょっと踏まえて書評しておきたい。そのコメントを一言でまとめれば「重光外交は本質的には対欧米外交だったのではないか」ということである。戦争初期にしても後期にしても、結局重光にとって重要だったのはアジア諸国の独立ではなく、それによって得られる対米戦争の解決(もしくは有利な展開)であった。このお重光の姿勢は、戦後のバンドン会議に対する冷淡な態度と併せて考えてみると非常に興味深いものといえるだろう。
以上の話は、何も今日の課題文献に書かれているわけではなく、授業のディスカッションで出てきた話だ。著者すらも考えていなかったかもしれない重要なことが、こうやって議論に出てくると俄然授業は面白くなる。
・波多野澄雄『太平洋戦争とアジア外交』(東京大学出版会)
太平洋戦争は実に多面的な戦争であった。日中戦争の延長上という対中国の側面、真珠湾攻撃以降の対米英戦争という対米英の側面、さらにここに各国との植民地との関係という対アジアの側面、という三つの側面が大きく存在している。これらの側面について、外交史・戦史を含めて最も手薄であったのが対アジアの側面である。本書はその「太平洋戦争時のアジア外交」と「戦時外交の大半を担った重光葵の政治指導」を取り上げて分析した研究書である。
「太平洋戦争時のアジア外交」を言い換えれば「大東亜共栄圏」であり、様々な解釈が行われうるある意味で「危ない」テーマである。しかし本書は、全体を通して抑制された筆致と緻密な実証によって貫かれて折り、そのような「危なさ」を感じさせないことは本書の優れた点の一つであろう。またアジア外交を論じながら、ソ連要因にもいくつかの箇所で目を配っている点は、戦前から戦中のソ連要素を考えると非常に重要なことである。この点に関連して重要なのは本書と資料の関係である。戦前・戦中の重要な資料が、敗戦時に焼却処分されるなどしてあまり残されていないことはよく知られているとおりである。著者は、多くの刊行資料や外交史料館、防衛研究所、国会図書館憲政資料室等に保存されている未刊行資料を幅広く調べることによって、その資料的なハンデを克服している。本書が「戦時中のアジア外交」というテーマについて、その資料の欠如を感じさせないほど細かい点まで調べている点は驚くべき点であろう。なお、英米蘭豪などの史料に基づいて太平洋戦争と植民地との関係を論じたものとしては、クリストファー・ソーンによる研究が既に存在しており、本書とは補完的な関係にあるといえるだろう。
アジア外交と共に本書の主要なテーマとなっているのが、重光葵の外交である。重光の外交は様々な思惑の上に成り立っていたものであり、それを一言でまとめることは難しいが、アジア外交に関してほぼ一貫していたのは、重光が現地のナショナリズムを踏まえて政策を立案しようという姿勢を保っていた点であろう。しかし、重光がなぜこのような考えを持っていたのかということになると、話はやや複雑になる。大きく分ければ、戦争遂行の前半期は現地の支持を調達することが大きな目的であったと考えられる。この姿勢はなし崩しに進んでいき、戦局悪化によって現地の「独立」を検討するなどの姿勢は重光のみならず、東條首相や陸海軍にも共通している。敗戦が見えてきた時期になると、重光は戦後法廷を見据えていたようである。一つの仮説としては、重光外交が一貫して「対欧米外交」だったというように見ることも可能であろう。つまり重光の最終的な目的はあくまで「対英米戦争の解決」であり、「アジアのナショナリズム」はそれへ向けて利用する道具に過ぎなかったのである。このように考えると重光の施策に一本の筋が見えてくるのではないだろうか。
この点と関連して、重光の提示した政策構想が陸海軍などとの激しい綱引きの結果どのような政策となったかも重要である。本書全体を通して見えてくるのは、「外交一元化」をめぐる場合などを除いて重光が比較的容易に軍部と妥協している姿である。結果として出てくる政策は、日本の施策の正当性を示すために形式上の「独立」を陸海軍に認めてもらい、実際の独立・解放を伴うものではなかった。この点は重光も承知していた(238頁、295頁など)。重光の軍部との妥協をどう捉えるかはなかなか難しい問題である。太平洋戦争の期間を通して、国際政治の力の側面について外交が果たせる役割は限られていた。その中で重光は、利益や価値の側面に重きを置いて外交政策を展開したといえるかもしれない。ただし、その重光の外交が連合国側にどのような影響を与えたのか、といった点は慎重に検討する必要があるだろう。
重光外交の重要な特徴である「外交一元化」の強い信念についても簡単に考えておきたい。この点は大東亜相兼任という形で本書の中でも明確に現れている。第二次大戦中から、戦後世界における外交の主役が外相から首相(大統領)へ移りつつあることは世界各国で明らかになりつつあった。軍事と外交の密接な関係、経済と外交の密接な関係が深化していくなかで、「外交一元化」にこだわった点は、やはり「時代錯誤」であったと評価してもよいのではないだろうか。
それでは戦時中の重光外交は戦後へどのような影響を与えたのであろうか。この点は、本書の関心からはやや離れるかもしれないが簡単に論じておきたい。前述のように、重光は政策の具体的な場面で軍部と妥協しがちであった。結果として得られた政策は、形式的な「独立」を認めただけに過ぎなかった。重光の目的の一つは、戦後法廷だったというが、そこではむしろ重光の試みは失敗している。むしろ戦後への影響があったとすれば、アジア地域の脱植民地化であろう。重光の妥協的な政策は、実際の独立・解放を旧宗主国に「丸投げ」したものと捉えることもできる。道筋を作らず「丸投げ」をしたことによって、国によって対応はまちまちであったが、結果的には1960年代までに東南アジア地域における脱植民地化はほぼ達成された。これらのプロセスに、重光の戦時外交の全く影響がなかったとは考えにくい。
もう一つこれは恐らく重光が意図しなかった形で重光の戦時外交は戦後に影響を与えたといえるのではないだろうか。それは著者が本書の最後で指摘する歴史認識に対する影響である。太平洋戦争でもとりわけ対アジア戦争の側面は、「全面的な侵略戦争」と「英米に対する民族解放戦争」という二つの評価で大きく分裂している。本書が明らかにしているのは、民族解放的な側面は確かに存在していたが、それをめぐって政府内で(多くの場面で)軍政を主張する陸海軍と外務省との間で様々な駆け引きが行われていたという実態である。そのような実態は必ずしも、当時から一般に認識されていたわけではない。これが知識人レベルでもそうであったことは、本書における石橋や清沢のエピソードからも確認できる(例えば、201頁)。重光の意図は、戦争法廷における「弁護」であったようだが、むしろ戦後日本社会の歴史認識への影響が強かったように思われる。
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